日本の公務員制度改革ー過去・現在・未来 "The Reform of Civil Service

稲継裕昭 Hiroaki Inatsugu, "The Reform of Civil Service System in Japan: Past, Present and Future"
日本の公務員制度改革ー過去・現在・未来
"The Reform of Civil Service System in Japan: Past, Present and Future"
早稲田大学政治経済学術院教授 稲継裕昭
Hiroaki Inatsugu, Ph.D
(Professor, Waseda University)
[email protected]
1.日本の官僚制のおこり
日本の現行官僚制の原型は明治初期に形作られた。
明治政府はプロシアを参考にして 1887 年に文官試験
制度を導入しているが、その前年すでに帝国大学令を発布して東京帝国大学を設置し、官吏養成のための
実質的な役割を果たさせようとした。情実任用が広汎におこなわれていた英国で、公務員制度の改革が進
められて資格任用制と政治的中立性を根幹とする現代公務員制度の基礎が築かれたのは 1853 年のノース
コート・トレベリアン報告以降であること、猟官制をとってきた米国で資格任用制を定めた最初の連邦公
務員法(ペンドルトン法)が成立したのが 1883 年であること、などと比較すれば、日本は、後進国家として
はかなり早い時期に試験制度の導入に踏み切ったといえる。
1893 年には文官任用令が制定され、東京帝国大学法学部卒業生の無試験採用の特典は廃止され、その実
質はともかく、広く社会に門戸を開く資格任用制が完成した。そして 1899 年、第2次山県内閣が政治によ
る人事介入を極力少なくするための文官任用令の改正(勅任官への政治任用の廃止)を行って近代官吏制
度の体系が整えられたと一般に理解されている。第2次大戦後、1947 年成立の国家公務員法は当初は事務
次官を自由任用職(政治任命職)としていたが、翌年の改正で一般職(非政治職)とされ現在に至ってい
る。これらの過程をへてヒラ職員からトップである事務次官まですべて一般職としてメリット主義の適用
を受ける現行システムができあがっていった。
2.戦後日本の公務員制度―過去と現在
(1)現行公務員制度の定着と改革への始動
日本の現行公務員法は、戦後まもなく制定された。国家公務員法(1947 年。翌年人事院創設などを伴う
大改正)
、地方公務員法(1950 年)が制定された後、現在に至るまで、公務員に関する根本法として生き
続けてきた1。
いつの時代、どこの国でも官僚・公務員は批判の対象とされるものである。しかし,日本では、散発的
な官僚批判はあるものの,公務員法抜本改正の議論は 1980 年代末に至るまで 40 年近く本格的になされる
ことはなかった。
キャッチアップイデオロギーのもとで経済成長に国民の関心が集中していた時期は,成長を支える一つ
のアクターが経済官僚たちであることを多くの国民が認めていた。諸外国に比べて少数の公務員数2で戦後
1
定年制の施行に伴う改正や、週休 2 日制の施行に伴う改正などは行われているものの、制度の根幹にかかわる部分について
は戦後 60 年間変更はなかった。ただ、2007 年に、後述する国家公務員法の一部改正があった(地方公務員法改正案は、同年
上程されたがその後継続審議となり、2009 年衆議院解散により審議未了廃案となった)
。
2
中央地方を合わせた公務員数は国際比較をすると、人口(あるいは労働者)に占める公務員の割合は、日本は圧倒的に少な
い。
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稲継裕昭 Hiroaki Inatsugu, "The Reform of Civil Service System in Japan: Past, Present and Future"
日本を支えてきた官僚制についての評価は低くはなかった。キャリア官僚たちは,エリート意識を有して
鼻持ちならないし,天下りがあって妬ましいが,国を支えてくれているし,また,金銭面で手を汚すこと
はないだろう、とも国民は考えていた。
しかしながら、高度経済成長が終わって以降、逆機能に転じる部分も顕在化するようになり、官僚制に
対する批判も厳しいものとなってきた。高級官僚たちの頂点を極めた元事務次官が、リクルートスキャン
ダルに絡んで司直の裁きをうけた。その後のいくつかのスキャンダルや、住専問題での大蔵官僚批判、H
IV事件や福祉汚職に関連しての厚生官僚批判は、従来の官僚批判とはかなり質的な相違をもたらした。
これらは重要な政治課題となり,議員立法による公務員倫理法制定の遠因にもなった。
このように不祥事が多発する一方で,
若手キャリア官僚が将来に見切りをつけて 30 歳代半ばで官職を辞
し,外資系の企業やコンサルタント会社に転職したり,政界へ打って出たりする例が目立つようになり、
頭脳流出を危惧する声があがっていた。公務の閉塞感が、彼らの転身を促しているのではないかと議論さ
れた。
こういった公務員(とりわけ高級公務員)の不祥事と,
「公務の閉塞感」とが引き金となって,1990 年
代半ばには政府内に種々の研究会が設けられた3。また、橋本内閣の行政改革会議でも主要な議題としてと
りあげられた。公務員制度改革について総合的な観点から検討するため、経済界代表・省庁 OB・組合側
代表・学識経験者が参加した「公務員制度調査会」も設置されて基本答申がなされたが4、構成メンバーの
間の意見の相違もあり、その後、改革案の具体化には至らずにいた。
しかし、2000 年 12 月に行政改革大綱が閣議決定され、01 年 1 月の新省庁発足と同時に内閣官房(行政
改革推進事務局)が主導して原案づくりを進め、01 年 12 月に公務員制度改革大綱(以下、
「大綱」という。
)
が閣議決定された。
「大綱」に基づき、内閣官房において国家公務員法の改正に関する法制化作業が進められ、地方公務員
法に関しても、総務省(自治行政局公務員部公務員課 PT)において同様の作業が進められた。大綱では「2003
年法案提出、06 年施行」とされていたが、ILO 勧告5や、参議院行政監視委員会の「公務員制度改革に関す
る決議」がなされたこと6、またその後与党内の調整が手間取ったことなどがあり、法案提出は何度も先送
りとなった。結局,04 年 12 月 24 日に閣議決定された「今後の行政改革の方針について」により,事実上
の仕切り直しとなった7。
「大綱」では、能力等級制度の導入,給与体系の再編,評価制度の再構築を通じて,能力・実績に応じ
た人事管理システムを構築することを主眼としていた。
「大綱」が出されて以降、各方面から公務員制度改革に関する提言も相次いで出されている。21 世紀臨
調(新しい日本をつくる国民会議)の「公務員制度改革に関する緊急提言」
(02 年 5 月)
、日本経済団体連
合会の「さらなる行政改革の推進に向けて」
(05 年 4 月)
、経済同友会「開かれた公務員制度改革の構築を」
(05 年 5 月)
、関西経済同友会「公務員改革へ『民の視点』からの 8 つの提言」
(05 年 10 月)
、日本労働組
合総連合会「国民に開かれた信頼できる行政へ―21 世紀型社会に求められる公務員制度」
(04 年 6 月中間
報告、06 年 1 月)
、などであり、新聞の社説も幾度にもわたって公務員制度改革をテーマとしている。2004
から 06 年にかけては、あたかも日本全体がこぞって官僚批判をし、公務員制度改革の大合唱をしているか
のような様相すら現出した。
3
総務庁「人事管理施策の在り方に関する研究会」
(座長・辻村江太郎)
(1995 年 10 月設置、96 年 12 月報告。総務庁人事局
編『公務員制度改革への提言~二一世紀の公務員像を求めて~』大蔵省印刷局)
、人事院「新たな時代の公務員人事管理を考
える研究会」
(座長・京極純一)
(96 年 11 月設置、98 年 3 月報告。人事院編『公務員人事管理の改革―柔軟で開放的なシステ
ムを目指して-』大蔵省印刷局)
。
4
公務員制度調査会(会長・辻村江太郎)
(1997 年 4 月政令第 121 号により設置。99 年 3 月基本答申「公務員制度改革の基本
方向に関する答申」総務庁人事局監修『新たな時代の公務員制度を目指して-公務員制度調査会の基本答申』ぎょうせい)
。
5
02 年 11 月 21 日、第 285 回 ILO 理事会採択。日本の公務員制度改革に関して、幅広い合意を達成し、改革の内容と理由に関
して関係当事者すべてと十分、率直かつ有意義な協議を早急に行うよう強く求めている。03 年 6 月 20 日第 287 回理事会でも
同様の勧告。
『世界の労働』03 年 1 月号、8 月号。さらに、06 年 3 月 29 日第 295 回理事会でも勧告がなされている。
6
02 年 12 月 11 日、自民、公明、保守、民主、共産、自由各党の共同提案、委員会全会一致で決議。第 155 回国会・参議院行
政監視委員会会議録第 5 号。
7
この閣議決定は、要は「現行法で可能なところから改革を進める」というもので、人事評価の試行・実施、給与構造改革な
どが進められた。
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