詩歌の言葉の面白さ── 安西冬衛の現代詩「春」(二首)を例として 劉靈均 はじめに 詩歌の言葉は、一つの発音から、言葉の意味、文の構造、さらに作者が営も うとするイメージまで、表象の世界の言葉より多い意味や美的感じに富んでい る。本稿は 1930 年代に活躍していた詩人・安西冬衛の第一詩集『軍艦茉莉』 にある二首の同名の一行詩「春」の一つ一つの言葉から、その詩想および詩の 言葉の面白さ、そして美学的な意味を明らかにしたい。 二首の一行詩「春」 日本のモダニズム現代詩人・安西冬衛は、二十世紀の初頭に植民地であった 港町・大連に十数年住んでいた。彼は、のちに処女詩集『軍艦茉莉』に収録さ れた次の一行詩で世に知られた。 春 てふてふが一匹韃靼海峡を渡つていつた。 ただし、詩集『軍艦茉莉』には、「春」をタイトルとする詩は一首だけでは ない。ここの「春」(『安西冬衛全集』第一巻頁 32、以下「春(てふてふ)」) 以外には、一対とされたもう一首の、「春」(同頁 33、以下「春(鰊)」)があ る。 春 「鰊が地下鐵道をくぐつて食卓に運ばれてくる。」 さらに鴨や猫などに語らせる「春」(同頁 53、「春(鴨)」)と「クープリン の短篇を懐中にし」た「私」を主人公とする短い小説みたいな「春」 (「春(ク ープリン)」)も含めて 4 首がある。もしタイトルに「春」がある詩を全部取り 上げたら、また「暮春の書」と「ある日 の早春」の二首がある。本論は、関 連性が一番高く、一対の一行詩と考えられる「春(てふてふ)」と「春(鰊)」 を比較する。 これまでの研究によく指摘されたのは、 「春(てふてふ)」において、冬衛の 言葉遣いにおける視覚性(文字的に「蝶々」じゃなくて「てふてふ」、イメー ジの面に「巨視的なイメージ」など)と対照性(「極微的なイメージと巨視的 なイメージ」、 「韃靼海峡という語が呼びおこす荒涼暗澹たるイメージに、可憐 な一匹の蝶々」)の特色である。に後者は冬衛がよく口にしていた「コレスポ ンダンス」とは関連があり、冬衛の詩を評論するときいつも焦点化されてきた ものである。それに対して、 「春(鰊)」についての研究はほとんどされていな い。 ここで敢えてこの二つの一行詩が一対としたのは、連続のページに並列して あるだけではなく、文の構造がかなり近い点も含まれる。創作時期から言うと、 「春(てふてふ)」のほうが早いが、後に創作された「春(鰊) 」はそれとの間 テクスト性について究明することにより、創作の理由をもっと明白にできる。 今までの研究 今までの研究を纏めると、 「春(てふてふ) 」における以下の数点が注目を集 めてきた。 (イ)「てふてふ」のか弱さ、そして「蝶々」ではなく旧かな使いのひらが なでの「てふてふ」で蝶の姿を表した。 (ロ)「韃靼海峡」の「韃靼」が表した硬いイメージ、そして「ダッタンカ イキョウ」という発音は、「非親和的感覚を強調」している。 (ハ)か弱い「てふてふ」と寒い、硬い、 「非親和的感覚を強調する」1イメ ージをもつ「韃靼海峡」との文字面と象徴面における対比的関係。 (ニ)高いところから見る、そして選択的に風景を消すという視座。 (ホ)紙面の空白から見られる植民地の歴史的「空白」という隠喩。 前述の通り、 「春(てふてふ)」と「春(鰊)」における文の構造は近いので、 対照的に考察が可能になる。 「春(鰊) 」の言葉たち まずは「鰊」。鰊(ニシン)は、北太平洋に分布する食用の回遊魚であり、 春には産卵するため北海道沿岸に出現するので、 「春告魚(ハルツゲウオ)」と いう別名を持つ。天敵が多いため、群れになる特性がある。「てふてふ」と比 較すると、 「弱い」という点は若干合うが、 「一匹」じゃなく、群れになる特性 をもつ。 「地下鉄道」に関しては、創作当時、東洋初の客用地下鉄道(東京地下鉄道) が開業した。現代化の象徴であり、ハイカラなものである。もちろん、冬衛が 在住している大連に地下鉄道はなかった。 また、食卓というのは、冬衛の作品にはどういう象徴的役割があるのかは興 味深い。詩集『軍艦茉莉』の詩の中で、 「春(鰊)」以外に「食卓」という言葉 が直接作品の中で書かれたのは、「再び誕生日」(29)と「徳一家の lesson」 (44-46)のみである。 再び誕生日 1 エリス 104 私は蝶をピンで壁に留めました――もう動けない。幸福もこのやうに。 食卓にはリボンをつけた家畜が家畜の形を。 壜には水が壜の恰好を。 シュミズの中に彼女は彼女の美しさを。 「再び誕生日」には、四行となる詩であるが、一行ごとに一行のスペースを あいている。視覚的に、「蝶」、「家畜」、「壜」の中の「水」、「シュミズの中」 の「彼女」が、「誕生日」のプレゼントのように並んでいると思われる。 「蝶」は「ピン」に「留め」られた。「食卓」にある「家畜」に「リボンを つけた」ら、おそらく料理された肉類の事を指しているのであろう。ここの「蝶」 も「家畜」も、人の営為により、 「もう動けない」ものとなり、 「壁」も「食卓」 も、その展示の場所となる。 もう一つの「食卓」がある「徳一家の lesson」は、三節からなる散文詩で ある。その「一」の一連目には、 紅い染め卵をはさんで、徳一家のが大きい食卓に着いてゐる。丁度 Plymouth Rock と Langshan の交叉遺傳の圖のやうに。 Plymouth Rock と Langshan というのはニワトリの種名である。「交叉遺傳の 圖」というのは、生物学、優生学のいわゆる「家系図(pedigree chart)」を さしているのであろう。家族における人間関係をつなぐ場所である食卓を、科 学分析の見せ場にしていると思われる。 簡単な考察であるが、「食卓」は「再び誕生日」にも、「徳一家の lesson」 にも、伝統的な家族の食事の場所だけでなく、よその人に何かを展示するため の見せ場となる。 さらに言うと、 「食卓」が直接出てこないが、詩集『軍艦茉莉』における「晩 餐会」にも、また食器などが描かれている場面にも、こういう特質が見られる。 その視座は、やはり物理的な姿勢にせよ、心理的な姿勢にせよ、上からの視座、 さらに見たいものだけを見て、それ以外のものを排除する排他的視座でもある。 姿を残させられた「てふてふ」と「鰊」 前述の考察をする上、「春(鰊)」と「春(てふてふ)」との比較ができる。 この二つの詩は、文法の構造が似ているだけではなく、弱いもの(「てふてふ」 ・ 「鰊」)が親和力のないもの(「韃靼海峽」・「地下鐵道」)を通過し、どこかに 移動するという図式が同じと考えられる。前述の(イ)から(ホ)までの特徴 を全部持っていると思われる。 結果から考えると、 「てふてふ」は、 「渡つて行つた」としても、どこへ行っ たかは不明であるし、実際に考えると、越えることはできないであろう2。そ れに対して、「鰊」は「食卓に運ばれてきた」と、命を落として人間が食べる 料理となる。一見関係のない結果であるが、 「てふてふ」も「鰊」も、自分の 意識ではなく、見る人間(詩人と読者)が一番「美しい」という瞬間に姿を残 させられたという構造は、まったく同じであると考えられよう。 ここには、視座による権力関係が明らかに見られる。また、このような権力 関係は、実際冬衛がいた殖民地都市である大連にも存在する。日本人の冬衛の (、そして日本の読者の)目の中には、中国(当時はすでに植民地となったが) 2 渡り鳥のように海を渡る蝶は存在するが、冬衛がそれを知るのは、堺へ帰国してからの事で ある。 の物事は、珍しく、異国情調に富んでいるが、その想像されたイメージは実際 の「中国」とは離れている。それはおそらく、本当のものを「見えない」では なく、「見たくない」ではなかろうかと思われる。 結びに 以上の比較から、二つの一行詩における言葉の意味から、その美学的構造を 遡ってみた。詩歌の言葉は、不可解であると思う人は多いが、実際に分析して みると、いろいろな「読み」ができるようになる。 現代詩や歌詞などの言葉には、話す言葉以上の象徴や美が潜んであるので、 各種の方法を使い、その言葉の意味を見出すということも、詩を読む面白さの 源ではなかろうか。 日本語教材の副教材として、歌の歌詞やかわいい児童詩などがよく使われて いる。それらの言葉の意味、そしてその面白さを見出し、学生たちに伝えるの は、私たち教師の責任であろうと思われる。これからもこの方向への研究を進 めたい。 作者簡介 劉靈均,國立台灣大學日本語文學系碩士班。現職:中國文化大學推廣部日語講 師、台北市立成淵高級中學、台北縣私立南山高級中學日語講師。專攻日本近現 代文學(殖民地詩歌)、性別研究、高中第二外語教學政策。
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