May 10, 2014 十字架の福音(原稿) 2014/5/11 泉キリスト教会礼拝 『十字架の福音』 コリント人への手紙 第一 2章1∼5節 はじめに. 先ほど、ご一緒に交読した使徒の働き 18章のはじめの部分には、パウロ先生の のコリントの町における伝道の働きが記録されています。 パウロ先生は、第2次伝道旅行の折、ローマ帝国の統治下にあったシリア州のア ンテオケから、アカヤ州のコリントにやって来たのです。それは、紀元50年の始め 頃のことでした。 <参考>当時、この地域はローマ帝国の支配下にあった。パウロはシリア州のアンテオケ (現・トルコ共和国の東南端部)の教会から送り出されて、アカヤ州のアテネを経てコリ ント(現・ギリシャ共和国領内)にまで来た。地図上での後藤のおおまかな計測では、アン テオケ→コリント間は直線距離で1200キロメートル強。宇都宮→鹿児島間が直線距離で 1000キロメートル弱。 さて、最近の英語の辞書には載っていないようですが、私が持っている1960年 版の研究社の英和大辞典によれば、廃語としてですが、「Corinthian」(コリント 人)は「道楽者」を指す語であったことがわかります。 <参考>息子が受験勉強に使った1971年版の研究社の新英和中辞典によれば、 「Corinthian」は形容詞として、「コリントの」「コリント市民のような」「ぜいたくで遊 惰な」「優雅な」という意味の語として用いられていました。 古い辞書にこういう語が残されていることからもわかりますように、当時、この コリントの町には、贅沢な気風が流れ、怠け者や道楽者がおおぜいおりました。頭 もよく、高度な教育を受けた方々も多かったのですが、情欲に溺れるような生活を している人たちが大勢いました。教会の中にも、こういう町の気風が入り込んで来 ていました。このようなコリントの町に住んでいる人々に対してパウロはどのよう に福音を語ろうとしていたのでしょうか? (一)十字架の福音の中心的内容: 「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方」 (→コリント人への手紙 第一 2章1∼2節) →コリント人への手紙 第一 2章1∼2節 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、 私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、 神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。 なぜなら私は、あなたがたの間で、 イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、 1 May 10, 2014 十字架の福音(原稿) 何も知らないことに決心したからです。 彼は、優れたことば、優れた知恵、美辞麗句や、哲学的な用語、学問的な術語な どは、敢えて用いないで、キリストの福音を語りました。しかも、十字架に付けら れたイエス・キリストを端的に明瞭に宣べ伝えました。難しい注釈を加えないで、 事実を単純に、率直に証したのです。 最近は、日本の社会の中でも貧富の格差が非常に大きくなって来ました。しか し、将来に希望を持てそうにない貧困層の人たちも、一見、幸せそうに見える一部 の富裕層の人々も、みな福音を必要としているのです。十字架に付けられたイエ ス・キリストによる福音を必要としているのです。人々の抱えている問題の解決、 世の人々の救いはキリストの十字架の福音によってしか与えられていません。 だから、パウロは(→2節)「あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち 十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した」と言っているので す。教育も道徳も情欲のくさりに繋がれている人間を解放することが出来ません。 しかし、キリストの十字架の福音はこれをすることが出来るのです。 ところで、パウロは、この十字架の福音をどのようにしてコリントの人々に宣べ 伝えたのでしょうか。 (二)十字架の福音の伝達方法(→コリント人への手紙 第一 2章3∼4節) →コリント人への手紙 第一 1章3∼4節 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。 :4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって 行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。 パウロ先生は、コリントの町での伝道は、御霊と御力の現われによって行われて 来たと書き記していますが、3節では意外なことを記しています。 1)私は、弱く、恐れ、非常におののいていました。(→3節) コリントの人たちに十字架の福音を宣べ伝えた大伝道者パウロが、「恐れ、非常 におののいていた」とは、皆さんには一寸、信じられないことでしょう。 もちろん、宣べ伝えるべき福音の内容に不安があったのではありません。コリン トの人たちに十字架の福音を嘲笑されることを恐れて不安になったのでもありませ ん。 このすばらしい十字架の福音を宣べ伝えるべき責任の重大さと光栄を思い、自分 自身の弱さ、醜さ、みすぼらしさを思うとき、大伝道者パウロも、恐れおののかざ るを得なかったのです。 2 May 10, 2014 十字架の福音(原稿) 私たちが、人々に十字架の福音を証しようとするときに、そんな証しをする資格 のない自分を見、自分の弱さを覚え、恐れと非常なおののきを感じるのは当然のこ とです。 しかし、主は、このように、自分の弱さ、醜さを覚え、大いに恐れおののいてい る者にこそ、恵みと力を満たして下さり、用いて下さるのです。 パウロは、弱さと恐れと非常なおののきの中で、主を見上げ、主に信頼して、御 霊と御力の現われによって宣教することを経験しました。ですから、自分の証しと 説教は、御霊と御力の現われによるものでした、と語っているのです。 2)「御霊と御力の現われ(によるもの)でした。」 十字架の福音が、それを宣べ伝える者の言葉の巧みさや説得力に左右されるので あったら、私たちは説教したり、証したりすることをやめる他はありません。私ど もには、そんな知恵や力がないからです。 しかし、十字架の福音それ自体が神の知恵であり、十字架の福音それ自体が人を 罪の中から救い出す神の力なのですから、私どもは恐れおののきつつ、ただ、それ を宣べ伝えることをすればよいのです。人を救いに至らせる神の御霊と御力とが、 私たちの証しする十字架の福音と共に働いて下さることを信じ、祈りつつ、続け て、積極的に、伝道して行きましょう。 むすび. 終りに、コリント人への手紙 第一 1章18節のみことばをお読み致しましょう。 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、 救いを受ける私たちには、神の力です。 3
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