2014.6.8 泉キリスト教会聖霊降臨節礼拝 『まことの知恵』 コリント人への

June 07, 2014 まことの知恵(原稿)
2014.6.8 泉キリスト教会聖霊降臨節礼拝
『まことの知恵』 コリント人への手紙 第一 2章6∼16節
はじめに.
今日は教会に神の御霊である聖霊がお下りになり、信徒一人々々に助け主とし
て聖霊が与えられたことを記念する日です。
この日がペンテコステ(penthkosth¿ ギリシャ語の序数詞「50番目」の女性
形)と言われるのは、過越の祭の日から数えて50日目に当たる日(→レビ記23
章15∼16節)であったからです。
さて先に、同じコリント人への手紙 第一 1章18節から学びましたように、
「十字架のことばは、滅び行く者には、愚か」に見えました。
しかし、2章1節にありますように、パウロは、コリントの町の人たちに伝道す
るときに、すぐれた言葉や知恵や用いませんでした。美辞麗句や人間の哲学を用
いませんでした。
それは十字架のことばに力があり、十字架に付けられたキリストご自身に罪人
を救う力があることを、パウロが体験し、確信していたからです。
<参考>→2014/3/9の説教
十字架のことばとは、「十字架に付けられたキリスト」のことです。それは
(一)キリストが十字架に付けられたという歴史の事実、と
(二)それが、私どもを罪の中から救い出すためであった、
という歴史の事実の説明、のことです。
もう一度、コリント人への手紙 第一 1章18節を読みましょう。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。
しかし、勿論、パウロは、キリストの福音には知恵がないと、云おうとしてい
るのではありません。十字架に付けられたキリストの福音こそ、まことの知恵で
あることを、今日の聖書の箇所であるコリント人への手紙 第一 2章6∼16節に
おいて、はっきり教えているのです。
(一)この知恵は、この世のものではない。
(→コリント人への手紙 第一 2章6∼9節)
→コリント人への手紙 第一 2章6∼9節
しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。
この知恵は、この世の知恵でもなく、
この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
:7
私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、
それは、神が、私たちの栄光のために、
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世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
:8
この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし
悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
:9
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いた
ことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、
神の備えてくださったものは、みなそうである。」
ギリシャ語原文では、6、8節に出て来る「世」、7節に出て来る「世界」とい
う語(ai˙w!n)は、12節の「世」という語(ko/smo\ß)とは違いまして、「あ
る期間」とか「ある時代」を指す語であります(12節の方は、事物の物質的秩
序を指す語)。
だから、6節においては、パウロが、「この知恵はこの世のものでない」とい
うとき、それは「この知恵はこの時代だけのものでない」、この時代に縛られて
はいない、この時代に限定されてはいない、ということを意味しているのです。
この「まことの知恵」は、時代を超越しており、あらゆる時代のもの、あらゆ
る時のものです。聖書のことばは、21世紀のこの時代にも、十分、通用するもの
であります。
キリストの福音は、古くて、しかも、いつも新しいものであります。
イエス・キリストは、昨日も今日も、永遠までも、変わり給うことのない御方
であります。(→ヘブル人への手紙 13章8節)
十字架のことばは、今も、変わらず、人を救いに至らせる力を十分、持ってい
るのであります。否、十字架に付けられたキリストのほかに、人を救い得る知恵
と力とは、私共に与えられてはいないのです。それは(7節にあるように)、
「隠された奥義としての神の知恵」であります。
(二)この知恵は、御霊によって、私たちに啓示された。(→10∼11節)
→コリント人への手紙 第一 2章10∼11節
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。
御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
:11
いったい、人の心のことは、
その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。
同じように、神のみこころのことは、
神の御霊のほかにはだれも知りません。
ところで、聖書が「奥義」という語を使うとき、それは、隠されたままになっ
ているものでがなく、神が人間に理解できるように現わしてくださっている奥義
という意味であります。
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June 07, 2014 まことの知恵(原稿)
奥義は、生まれつきのままの人間の知能では発見できず、理解できないもので
す。(そういう意味では、隠されております。)
しかし、今や、それが、神の御霊によって私たちに啓示され、はっきり、現わ
されているのです。
→コリント人への手紙 第一 2章10節
" いったい、人の心のことは、
その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。
同じように、神のみこころのことは、
神の御霊のほかにはだれも知りません。
今、この知恵は御霊によって、私たちに示されているのです。
私たちが、始めて、この知恵を示していただいたとき、私たちは、どんなに驚
き、どんなに感謝したことでしょうか!
また、鈍いお互いは、大分、時が経ってから、今さらのように、この神の知恵
に驚き、さらに、感謝をするものです。
→コリント人への手紙 第一 2章9節
「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。
『目が見たことのないもの(!)、耳が聞いたことのないもの(!)、
そして、人の心に思い浮んだことのないもの(!)。
神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』」
私たちの驚きと感謝の中心は「主イエス・キリスト」です。
→コリント人への手紙 第一 2章8節
この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っ
ていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
この8節でも云われていることですが、十字架に付けられたキリストが神の御
子であり、私共の救い主であった、ということは、何という大きな驚きであり、
また、感謝であることでしょうか!
→ヨハネの福音書 3章36節
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、
いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
だのに、「エホバの証人」と自称している者たちは、キリスト教の看板を掲げ
ながら、御子イエスさまがキリスト(メシヤ)であられ、神であられることを信
じようとしない方々です。彼らは実に真面目で、聖書を学び、熱心に伝道してい
ます。しかし、彼らは、真理の御霊を受けていません。彼らは、助け主であられ
る御霊さまを拒んでいる者たちです。
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(三)御霊に属することは御霊の助けによってわきまえます。
(→コリント人への手紙 第一 2章12∼16節)
→コリント人への手紙 第一 2章13∼14節
この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、
御霊に教えられたことばを用います。
その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
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生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。
それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。
なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
昨年11月から国際宇宙ステーションに滞在していた若田光一さんが、5月14日
午前にソユーズ宇宙船で無事、地上に帰還しました。若田さんも宇宙飛行を体験
し、無重力状態の中で、数々の実験をこなしてこられたようです。宇宙空間にお
いては、地球上での常識は通用しません。
神のまことの知恵も、人間の知恵で解釈出来るものではありません。神のまこ
との知恵をわきまえ知ろうとするとき、人間の知恵の尺度を振り回していたので
は、全然、ダメです。
→コリント人への手紙 第一 2章15節
御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、
自分はだれによってもわきまえられません。
御霊さまに属することは御霊さまの助けによってしか、わきまえることができ
ません。ですから、御霊さまを頂いている私たちが、御霊さまに従って信仰の歩
みをするとき、私たちの回りにいる、生まれつきの人々は、私たちの生き方を
さっぱり、理解出来ないことでしょう。
しかし、私たちは、知恵もなく愚かなことを行なっているのではありません。
私たちは、キリストの知性によって歩んでいるのです。
→コリント人への手紙 第一 2章16節
いったい、『だれが主のみこころを知り、主を導く(論証する)ことができ
たか。』ところが、私たちには、キリストの心があるのです。
むすび.
「まことの知恵」とは、十字架に付けられたキリストの福音です。十字架につ
けられたキリストが神の御子であり、私たちの救い主であるということ、これが
隠された奥義としての神の知恵です。私たちの驚きと感謝の中心はこの「主イエ
ス・キリスト」です。
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June 07, 2014 まことの知恵(原稿)
今、私たちは、この奥義を、この「まことの知恵」を聖書と神の御霊さまに
よって、はっきり、示して頂いているのです。
鈍い私たちでも、ときどきは、このことを新たに示していただいて驚き、感謝
せざるを得ません。
そして、私たちは、このことをただ感覚的に、感情としてわからせて頂くだけ
ではなくて、これを知性で認識し、わきまえることが出来る恵みをも頂いている
のです。
聖書と御霊の助けによって御霊のことを判断することを学んでいる私たちは、
キリストの知性を頂いているのです。
日曜日だけの、しかも、教会に来ているときだけの、気分屋のクリスチャンで
はなく、日々の生活の中で、キリストの知性をもっている者として、聖書と御霊
によって判断し、御霊によって歩んで参りましょう。
→ガラテヤ人への手紙 5章16節、24∼26節
私は言います。御霊によって歩みなさい。
そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 →ガラテヤ人への手紙 5章24∼26節
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、
さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、
御霊に導かれて、進もうではありませんか。
:26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、
虚栄に走ることのないようにしましょう。
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