占いの霊にまどわされないで

占いの霊にまどわされないで
日本基督教団名古屋桜山教会牧師 田 口 博 之
使徒言行録 16章16 ~ 18節
わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出
会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。 彼女は、
パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、
いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんな
ことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。
「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、
霊が彼女から出て行った。
昨日、世界中の教会ではペンテコステ礼拝をささげました。ペンテコステと
いう言葉自体は50という意味です。イエス・キリストが復活された日から数え
て50日目、イエス様の弟子である使徒たちの上に神さまの力である聖霊が注が
れると、神さまの福音を力強く宣べ伝える人へと変えられました。聖霊を受け
た使徒たちは、様々な困難を乗り越えて、キリストの福音を世界に伝えていく
人とされました。
使徒言行録には、聖霊の力によって福音を世界に宣べ伝える使徒たちの言葉
と行いとが記録されています。今日の箇所には、使徒パウロがアジアからヨー
ロッパに渡って、最初の伝道地フィリピで起こった一人の占い師の女性との出
会いが語られています。この女性は、とてもよく当たる評判の占い師でした。
皆さんは、「占い」についてどう考えるでしょうか。そんなに深くは考えず、
ゲーム感覚のようにとらえている人がいるかもしれません。色々な種類の占い
があります。易、手相、星占い、姓名判断…。皆さんの中に、あそこの占いは
よく当たるらしいと聞いて、お金を払って占ってもらった人がいるでしょう
か。そうまでしなくても、毎朝テレビでしている、今日の運勢を確かめてから
家を出るという人がいるかもしれません。今日は自分の星座がトップだったか
ら気分がいいと思うこともあれば、あまりよくなかったから1日気をつけよう
と思うことがあるかもしれません。
そんな皆さんは、キリスト教が占いをどう見ているか、考えたことがあるで
しょうか。実は、神さまを信じることと占いを信じることは、重なるものでは
なく対立するものです。なぜなら、占いを信じるとは神さま以外のものを、運
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命を信じることだからです。神さまを信じることと運命を信じることは、全く
違うものなのです。
生きていく中で、いろいろな苦しみや悲しみが押し寄せるときがあります。
何で自分ばかり、こんな目に遭わなくてはならないのだろうかと考えることで
しょう。そのときに神さまに助けを求めることと、占いに頼ることでは大きな
違いがあります。
どんな占いであっても共通しているものがあります。それは、わたしたちの
内にあるものではなく外にあるものに、何かの原因を見出しているということ
です。外の原因の種を取り除くとか、それを得ると人生が好転するとアドバイ
スするのが占いです。わたしたちが占いに頼る心があるとすれば、それは上手
く行かない原因を、周りのせいにしたり、周りが変わることばかりを求めたり
する傾向があるからです。占い師は、そのことを知っていますから、人間の内
面の問題には触れません。ですから「罪」だとか「悔い改めよ」などとは言わ
ないのです。神さまを信じて自分が変えられることより、外の何かのせいにし
ておくほうが気楽だからです。
今日は、ペンテコステの礼拝です。本来なら聖霊の話をすべきところです。
では何故占いの話などしているのか。それは、今日の聖書において、占い師の
女性のことを「占いの霊に取りつかれている女奴隷」と呼んでいることにあり
ます。実は、これが聖書の占いに対する見方なのです。
わたしたちが占いに一喜一憂するとすれば、それは占いの霊に取りつかれて
いることに他なりません。占い師の女性もまた、「この女は、占いをして主人
たちに多くの利益を得させていた。」とあるように、主人に支配され、主人の
お金もうけの道具とされていたのです。占いに関わる人は皆、何らかのかたち
で奴隷のように仕えているのです。占いの霊がそうさせているのです。
金城学院で学ぶ皆さんには、占いを信じたり、占いを面白がったりしない感
性を持ってほしいと思います。ついていないと思ったとしても、神さまはわた
したちの味方としてついていてくださいます。この世の中には、占いの霊をは
じめ人を惑わす様々な霊、得体の知れない力がはびこっています。でも神様は、
そこと戦われているのです。神さまが戦われる相手と親しくならないで生きて
ほしい。今日は運が悪いとか、ついてないなどと簡単には言わないで欲しい。
パウロは「『イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。』
すると即座に、霊が彼女から出て行った。」とあります。この言葉には、人が
運命によって支配されることを望まれない神さまの御心があらわされていま
す。「主を畏れることは知恵の初め」なのです。
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2014年 6 月 9 日 ペンテコステ記念礼拝
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