ハロウィック水泳法と子育て(みはらスイミーの歴史)

ハロウィック水泳法と子育て(みはらスイミーの歴史)
阿部眞理子
前身団体「三原市障害児の体力強化を図る会」は、1978 年障害児を持つ母親の親子心中という悲劇をきっ
かけに発足しました。
「障害があっても、外に出て遊びたいんよ」という思いで、元文化会館横の武道館で活動
が始まりました。夏場の武道館はムンムンします。外へ出ると、当時市民プールができて間もない頃です。自
分たちの子どももプールで遊ばせたくて、市民プールに申し込んだら、もしも、もしもと「障害児はプールで
は遊べません」と、断られたわけです。
「何で障害児は、好きなことができんのんよ」と、外に向かって発信し
ていたところ、東福山の蔵王スイミングスクールの理事長と、当時、会を指導してくださっていた先生が知り
あいで、毎週水曜日に、プールの端 2 コース 5 メートルを、会のために貸して下さることになりました。ため
池のようなスペースですが、本当に嬉しかったそうです。活動開始が 1978 年 12 月ですから、スイミーの誕
生はこの時になる訳です。
【情緒障害児(自閉症児)の集まり】【土曜日:武道館でマット運動・鉄棒・リトミ
ック、水曜日:蔵王スイミング】
1979 年 2 月、奈緒子が 1 歳になるときに、大学病院で筋肉の病気であることがわかりました。奈緒子の
発達のためには、普通の子と一緒にいる事が大切だと思い、診断書を書いてもらって保育所に入所しました。
しかし、1 年経っても身体の状況は変わらず、
「歩けるようになったら帰ってきて」という保育士の言葉に、返
す言葉もなく退所。私も欠勤続きの仕事をやめざるを得なくなりました。もう一点、水の中では自由に身体を
動かす奈緒子を見て、
「水の中で運動させたい」という希望を大学病院の先生に相談したところ、どうせ長く生
きられないと思われたのか、
「好きにしたらいいよ」というようなことを言われました。当時、私が知っている
温水プールといえば、呉と広島にひとつずつ、しかも 5 歳以上でないとプールに入れませんでした。そこで、
当時福山駅前にあった福山スポーツセンターの 6 月オープンを待って、週末通うようになりました。(半日
1,000 円)今ではそういうことはできませんが、当時アメリカのベビースイミングを見て、そのとおり奈緒子
をプールに突っ込むと泳いでくるんです。これだと思いました。そして、その年の夏休みに、蔵王のプール活
動が中国新聞に載ったのを見て、すかさず入会しました。
(仕事に復帰していたため、実際に活動に参加したの
は 12 月に退職をし、1980 年からになります)理学療法も作業療法も何もない時代です。プールは奈緒子に
とって非常に大切なアイテムでした。しかし、他の子どもは情緒障害の子どもですので、一緒に活動するのに
それなりの苦労はありましたし、当時の私は、なかなか助けてくださいと言えなくてつらい思いもしました。
そんな中、ボランティアの長居千代さん(68 歳)が、奈緒子の面倒を見てくださるというので、プール活動
をやめることなく妹を出産することができました。
【年齢が行くと、無理やりもぐらすことができなくなってい
ましたが、長居さんとプールに行くことで、奈緒子(4 歳)は一人でもぐれるようになっていました】週に 1
回のプールですが、続けてきたことで奈緒子の今があると思います。
1979 年養護学校が義務化になりました。それまで就学免除や猶予されていた子どもや大人も、養護学校へ
行くことが義務付けされました。地域の学校で学んでいた会の情緒障害の子どもたちも、養護学校へ集められ
ました。養護学校は専門教育なので障害が良くなるというふれこみでしたが、ひとつも子どもの障害は良くな
らないし、地域から離れての教育は、保護者の考えるものとはかけ離れたものでした。その反発のエネルギー
が「三原市障害児の体力強化を図る会」に注がれたのも事実です。また、先輩お母さんのお話が、私の子育て
のテキストになりました。奈緒子が 4 歳、そろそろ幼稚園に通わせたいと思い教育委員会に問い合わせたとこ
ろ、
「行けるところはありません」という回答でした。なんとか重症心身障害児通園施設「のぞみの家」を探し
入園させましたが、やはり地域の保育所に行かせたいと、
「みこころ保育所」に初めて障害児として通わせても
らいました。小学校は、養護学校は最初から眼中になく、当時糸崎に住んでいましたが、障害児学級のない西
小校区を選び住所変更、教育委員会とバトルをしながら、西小の就学通知をぎりぎりに受け取ることとなりま
す。介助員なし、親もついてはいけない状況でしたが、
「学校も受け入れたからには殺しはしないだろう」くら
いの感覚でお任せしました。学習面は別の機会に補う気持ちでいましたが、修学旅行に自力で行ければいいと
いう目標を持って、なんとか行事面は全部クリアできたように思います。
奈緒子が小学校 1 年の 9 月 1 日に、ちょうどリージョンプラザがオープンしました。会としても青写真か
ら関わってきたので、オープンに意気揚々と出かけたのですが、
「グループで使ってはダメです」「障害者はダ
メです」
「指導者がつくのはもってのほかです」と言われ大喧嘩になったわけです。結局、翌年 4 月水泳教室
の中に、障害児コースができることになりました。教育委員会と交渉するのに保護者会が必要ということから、
今までの会を解散して、
「障害児(者)水泳訓練懇談会」として保護者会が立ち上がりました。そして、私が初
代代表につき、窓口として継続性が必要と思い暫くは任を続けて受けることにしました。当時の指導はバタ足
から入る一般の指導と変わらないものでしたから、ついていける子どもはいないわけです。コーチの教育の必
要性を感じていた時、神奈川で行われたハロウィック水泳法の講習会に参加することになりました。講義実践
の中、障害者に関わる学問があることに感動し、プログラムを組めば楽しく泳げることを感じたわけです。地
元での講習会は、尾道スイミングを借りて、尾道市社協から 10 万円出してもらい、資料は社協の局長と手作
り、講師は自宅に泊めてという中で、三原の水連のコーチの教育とお母さん方の学びがスタートしました。
社会の力を借りて障害児に必要なものをやっていく第一歩をきれたわけですが、ハロウィック水泳法との出
会い、局長との出会いに感謝すると共に、お母さん方が障害児のために何かを始めて、そこに私が参加しなけ
れば今がないということに本当に感謝しています。先輩のお母さんは、私にとって先が見えるいいテキストで
した。お母さんが悩んでいることを、その時期になって悩まないようにするためにはどうしたらいいか考えな
がら、奈緒子を育ててきたように思います。今スイミーは、親も子どもも順番に連なってできているクラブに
なっています。こういうクラブはまずないと思いますので、皆さんの先の見える活動を情報として取り入れな
がら、子育てをしていただければと思います。親として先輩の通ってきた道は、社会の状況が変わっても同じ
だと思っています。先輩の情報をもらって、今の状況に合わせて解決していけば、どんな障害の状況であって
も、一人の子どもを立派な一人の大人として育てていくことはできることだと思います。障害者を育てるので
はなくて、障害を持つ立派な大人に育てていくという目標を持っていただきたいと思います。社会人を育てる
気持ちがないと、学校を出ると行き場がなくなります。是非、そのために水泳を社会参加のひとつの手段とし
て使っていただければと思います。今、障害者自立支援法が施行されて混乱しているところですが、
「障害があ
っても働ける人は社会に出て働く」というその理念は、私たちがずっと求めてきたものです。
「障害があるから
働けない」と親として思ってしまいますが、障害があるために、その時期にすべきことや学ぶべきことを親が
させてこなかったために、社会に適応するのが難しくなっているのではないかと思います。同じ世代がする経
験や体験は必ずさせてやること。その時代に親として教えなければならないことは必ず教えることを、肝に銘
じていただきたいと思います。
障害者は障害があってもそれぞれの立場で考え悩んでいます。知的障害があり言葉もしゃべらないからわか
らないのではなくて、それぞれの位置で良くわかっています。子どもに親が説明しないでやってしまうこと、
結果だけを言うことがあります。子どもにとっては過程の説明をされずに結論が来るというのが、私たちの今
のやり方だと思いますが、経過を説明して結論を導き出すのが、子どもへの教育だと思います。そういうこと
で子どもは手順を追って考え、自分の置かれている立場を少しずつわかってくるのだと思います。社会体験だ
けではなくて、日頃の生活の中で、障害があるから私たち親がはしおっている部分はないかもう一度見直して
いただいて、他の兄弟と同じように話せば子どもはあたりまえに育つのではないかと思います。もうひとつ兄
弟関係についてですが、下の子を障害児の姉や兄にしないということと、上の子は障害児の介護者にしないと
いうことです。
(あたりまえのことですが)たかが水泳ですが、されど水泳にしていただいて、社会参加をする
中であたりまえの子育てができるように、利用していただければと思います。
今日はスイミーがどのように 28 年を迎えたのか振り返りましたが、今後 30 年、40 年と歴史を刻んでい
けるように、皆様と共に歩んで参りたいと思います。
(第 28 回みはらスイミー総会より)