障害者ドライバーの先駆者たち

障害者ドライバーの先駆者たち
大阪 吉
本
昭
奈障運40周年ですが障害者自動車運転免許取得が認められたのは、51年前、昭和35年12月20
日施行の新道路交通法によってです。戦後10年を経て昭和30年代に入り高度経済成長下のモー
タリーゼーション(自動車の大衆化・自動車が生活に欠かせなくなった社会状況)には、戦前
からの道路交通取締法では対応できず障害者運転には視聴覚障害者の運転資格がなく、下肢障
害者は明確に規定されず、新道路交通法の成立が待たれました。原動機付自転車が普及して、
下肢障害者も手動三輪自転車に同じ原動機を取付けても殆んどの府県で認められない侭、自立
のため止むを得ず走行していたのが「障害者ドライバーの先駆者」と呼ぶべき人たちで、私も
その一員でした。
新法の施行で原付免許として漸く認められ、明記された障害者自動車運転免許への挑戦が始
まりましたが、歩行不能・困難故に日常生活(商用・通勤・通学・通院・旅行等)に必要不可
欠の自家用車の運転免許取得は、手動運転装置付AT車を用意して府県警本部で運転が見込め
るかの適性判定を受け自動車学校に持込み練習。公安委員会の厳しい試験に臨まねばならない
のが、手動運転装置は製品が無く、AT車種は僅かで高価。故障勝ちとの困難に直面していま
した。
その中で新法と同年発売の軽乗用車マツダクーペのAT車に一本のレバーを引けばアクセ
ル、押せばブレーキの手動運転装置取付車を購入。自動車学校へ持込み、練習を重ね免許を取
得する例が出始めました。価格は30万円代でした。残念ながら私は、家業で竹材を積むために
クーペには乗れず、普通貨物車に乗ろうにもAT車はなく両下肢マヒでクラッチを踏めないの
が、軽貨物車なら右足よりマヒの軽い左足で何とか踏めるので、当時キャブオール型(鼻ぺち
ゃで後部座席が長い)は富士重工の「スバルサンバー」東急くろがね工業の「くろがねベビー」
の二車種しかないのを荷台の広い「くろがねベビー」を選んだのが、同社初の手動運転装置の
製作取付に手間取り、自動車学校へ持込み教習を受けられたのは同年末で、翌37年3月27日に
運転試験合格。28歳の誕生日でした。下肢障害者の軽貨物車の運転免許第1号でした。
大阪の下肢障害者の普通乗用車免許第1号は36年3月の吹田市の福村周次氏(当時41歳)で、
戦傷で両大腿部切断の義足となり、苦学して有名病院の薬剤師となられ、原付手動三輪車を経
ての自家用普通免許は夫人(健常者)が先ず取得して協力。ダットサン中古車を改造、クラッ
チは義足で踏んで合格。全国の下肢障害者運転免許でも第1号とされ、夫妻で何度もテレビに
出演。その苦労と喜びを話されました。同じ頃、驚いたことに下肢障害者が自分用の自動車を
知人に頼んで製作。陸運局の車両認定を受け運転免許を取得されたのが新聞に載りました。阿
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倍野区の佐々木稔氏(当時51歳)で、車は大型の三輪オートバイに似ていました。同氏の勇気
に感動して連絡をとりましたが、同氏や福村氏や私のような例が東京・大阪始め全国に生まれ
るのには、運輸省の諮問に応え新法の障害者運転免許規定の明記に尽力されたのが東京の下肢
障害者渡辺聖火氏(当時56歳)でした。同氏は新法成立10年も前から「下肢障害者の自立更生
には車両運転が必要」と厚生車両人団を設立、機関紙「足」を発行。運輸省始め関連官庁に訴え
続けられ、私は同紙上で免許取得直後の福村氏の苦心談を読むのですが、毎号のように「免許
取得を早めるにはどうすれば!!」と叫ばれていたのが東京の小山力太朗氏でした。
昭和38年正月、佐々木氏から福村氏の要望される厚生車両人団関西支部結成の相談で集まる
との通知があり、両氏と大阪市内の下肢障害の中村光氏(当時39歳)村上徳正氏(33歳〉と私
の5名が運転免許取得者で、免許取得に挑戦中の下肢障害者が5名の集まりとなり、福村氏を
支部長として同支部が結成されるのですが、「厚生車両人団」との名称が堅苦しいので「大阪
身障者自動車クラブ」とも呼ぶことに決定。席上、福村氏の「苦心して免許を得たが、駐車禁
止地点が増えて行先から離れて駐車せねばならず意味がない。救急車・医師の往診車並みの駐
車制限緩和を要望したい」との発言に共感。これが下肢障害者車両の駐車禁止除外(駐車可の
ステッカー交付)運動の始まりで、翌年の東京パラリンピックに呼応しての第1回大阪市身障
者体育大会時の選手移動の運転奉仕を行い、パラリンピック終了後来阪予定の外国選手への運
転奉仕を大阪善意銀行に預託しました。同年8月、私は初めて上京。渡辺氏を訪ねると初対面
の私を泊め積年の苦労と当面の課題「駐車可のステッカー交付」の要望を続けていることを熱
く話されました。
翌39年、私は新型コロナAT車で普通免許取得。新型ブルバードAT車に乗り代えた佐々木
氏と日野コンテッサAT車の中村光氏とで東京オリンピック後のパラリンピック見学に開会
前日上京。翌日会場で待ち合わせた渡辺聖火氏と小山力太朗氏とで見学したのですが、初対面
の小山氏は43歳。両下肢マヒでも長足・長身で眼鏡とハンチングの似合うダンデイでした。オ
リンピックと同時に東京では駐車可のステッカーが交付。大阪ではパラリンピック終了直後外
国選手の来阪に合わせて交付されました。
翌40年9月、福村氏が急逝され、厚生車両人団は同41年社団法人厚生車両協会として認可さ
れますが、同44年、小山氏主導の東京都障害者運転協会の設立時に渡辺氏が病没され、同氏を
障害者運転の父と仰ぐ小山氏等は日本障害者運転協会の設立を目指されるのが、奈障運は、そ
の過程の昭和46年に生まれたことになります。当時、東京都身障運転者協会と山梨県身障運転
者協会があるのみで、後年㈱ニッシン自動車工業関西となる広陵町の山本敏喜氏の手動運転装
置取扱の創業間もなく、利用者の増加と結束を期して奈障運設立を早められたようでした。
私は同年末購入の日産プリンス・スカイラインの手動運転装置取付を同氏に注文。以後22年
間に乗り代えた4台の内3台を同氏に1台は外国車(フオルクスワーゲン)のため埼玉のニッ
シン本社(亀田藤雄氏)の取付でしたが、下肢障害ドライバーとしての両氏は最高の手動運転装
置を製作普及されました。奈障運会長の奈良市の印刷業岡本章氏(当時50歳位)も柔和な人柄
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で親しくなり奈障運の吉野への一泊ドライブや総理大臣杯の出る障害者運転競技大会にも参
加致しました。
昭和48年、日本身障者運転者協会が正式発足。会長は山梨県障運の原徳明氏(当時53歳)で
小山氏は事務局長に就任。副会長は複数制で佐々木氏の他、都障運の畑中良三氏(当時34歳)
宮城県の平田健治氏等で、厚生車両協会関西支部は日障運関西支部として移行。佐々木氏が支
部長就任。同年秋、石油シヨックによるガソリンの高騰と供給不安に障害者ドライバーも動揺
するが翌年沈静。各地に増える有料道路の無料化が課題となり関西支部も道路公団に要望する
が、5年後の昭和54年に漸く全国で半額割引が実現。日障運は全国大会を毎年開催。社団法人
全国脊損連合会も各県に支部を設け積極的に運動を展開した結果でしたが、日障運役員が全国
脊損連合会の役員を兼ねての活動もありました。
以上、私の出会った障害者ドライバーの先駆者たちの運転免許取得後20年。奈障運発足10年
頃までの思い出を述べましたが、山本敏喜氏、亀田藤雄氏以外の方は私より年長。免許取得時、
既に中年であられて全て逝去され、山本氏も昨年逝去され、亀田氏のみ健在です。ネットで「ら
くだぞうblog 日本の障がい者・自動車運転50年のあゆみ」を検索されれば、渡辺聖火氏、
小山力太朗氏、原徳明氏、畑中伸三氏、平田健治氏、亀田藤雄氏についての記述があります。
是非お読み下さい。何事も先駆者は民間人で早くから憂い、公(マスコミ・国会議員・官庁等)
に訴え続け、漸く事が成就しても短かく楽しみ、つまり「先憂後楽」して先立たれた姿を奈障
運設立40周年を祝われる皆様に改めて知って頂ければ幸甚です。
尚、私は大阪在住ですが父祖三代奈良県出身で、親族・知己・友人が奈良県に多く、生駒に
も住居があり、自家用車で往来する生活を続けています。岡本章氏、山本敏喜氏とのご縁で昭
和時代の奈障運の行事に参加させて頂きました。旧知の本誌編集部長 高森敏夫氏からの依頼
で拙文を寄稿致しました。御判読を感謝致します。
平成23年4月記す
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