TICADと西サハラ問題 モロッコでの TICAD IVフォローアップ閣僚会合 開催を超えて 稲場 雅紀(アフリカ日本協議会) 今回のセミナー開催のきっかけ ◎TICAD(アフリカ開発会議)=日本のアフリカ 外交・アフリカ援助の「扇の要」 ◎2009年以降、毎年開催されている「TICAD IV フォローアップ閣僚会合」が、本年、モロッコ 王国のマラケシュで開催されることが決定 ◎これに対して、市民社会として、少なくとも何 らかの対抗的な企画を実施する必要を感じた こと。 TICADとは? ◎1993年、第1回TICADが開催 – 冷戦の終了で欧米がアフリカへの援助を減少させる中、当 時ODAトップだった日本がアフリカ開発の方向性をファシリ テートする役割を担うという趣旨で開催。 – 共催:国連、国連開発計画、世界銀行(当時はアフリカ側 は「呼ばれる」存在)=一応、「多国間」イニシアティブの形 – アジア経済危機や構造調整の失敗の教訓もあり、「社会開 発」の重要性を復権→MDGsにつながる。 ◎2003年TICAD III – MDGsで欧米のアフリカ援助が増大する中、日本は経済力 の低下もあり、会議開催の意味が見失われた TICAD IVの意義と現状 ◎TICAD IV:国際的な状況が大きく変化 – 新興国(中国等)の台頭:旧来の「南南協力」に収まり切ら ない途上国同士の開発関係の強化 – TICAD は東アジア唯一のアフリカとの開発イニシアティブ でなくなる⇒TICADと日本の地位向上の必要性 ◎TICADの再定義の必要性とアドボカシー – 在京アフリカ外交団による強力なロビー:TICADを多国間 から二国間のイニシアティブ(=「日本・アフリカサミット」) へ:国際機関との綱引き – 実質上の「日本・アフリカサミット」化=多国間の形を取る ものの、実質上は日本とアフリカの援助・開発約束である 「横浜宣言」「横浜行動計画」およびその付表が採択 – 「TICAD IVフォローアップ」体制の形成 TICAD IVフォローアップ 年・場所 議長 内容 第1回 09年3月 ハボローネ (ボツワナ)=南部 中曽根外相 「フォローアップの枠組み」を作り、実施してみ ることが主目的。 第2回 10年5月 アルーシャ (タンザニア)=東部 岡田外相 気候変動が主要課題の一つに。(COP15の教 訓から、カンクンCOP16へ) 第3回 11年5月 ダカール(セ ネガル)=西部 松本外相 震災直後。日本の存在と復興をアピール、ア フリカ諸国の支援への感謝を表明。アフリカ連 合委員会(AUC)が共催団体に。 第4回 12年5月 マラケシュ (モロッコ)=北部 玄葉外相 TICAD Vに向けた道筋をつけることが主要な目 的。 場所の決定:各種プロセスで決まるが、在京アフリカ外交団の発言力強い。 過去3回、サハラ以南(南・東・西)で実施、中央については2008年のTICAD IV準備閣僚会議でガ ボンで実施⇒「次は北」:北アフリカ変革で開催可能国が激減(アルジェリアかモロッコ)⇒調整し てモロッコに。AUCの承認も得る。 モロッコはAU非加盟、西サハラはAU加盟。しかしアフリカ外交団については逆。また、フランス のリーダーシップと旧仏領諸国における影響力の大きさで、これらの国の多くはモロッコ支持。 日本は皇室外交でモロッコと歴史的に重要な関係+経済的諸関係⇒モロッコを優遇。(ハッサン 2世に「大勲位」授与)。今回の調整でも外務省は相当の根回し実施。 TICAD Vと新時代: 西サハラ問題の展望 ◎日本の官僚は優秀:「モロッコ開催で問題が起こらないように、 諸方面を調整して火消し」 ⇒そして、不利益を被るのは、75年以来闘い続け、打ち捨てられてき た西サハラの人々 ◎「原則よりも、目先の利益」⇒しかし、長期的には、「正統性 のないものは弱い」ことに気づくべき。(東ティモール、南スー ダンetc. が好例) ◎TICAD Vに向けて状況を変えるために – 西サハラは一貫して招聘されず(山根副大臣のAU理事会演説でも「各国首 脳の参加を招請」⇒日本が国として認めていないものは招請しない?) – 状況を変えるための具体的な戦略が必要。(駐日代表部の設置など:ソマリ ア暫定連邦政府も「日本代表」を設置=アフリカ外交団への参加など、土俵 を変えることが出来るようになる) – <40年近く、18万人の難民キャンプ>の存在は重い。また、占領地における 抵抗運動も活発化している。より強い「発信」が必要。 – 「西サハラ問題」は<アフリカの知られざる紛争>として無視される傾向が強 い:これをまず変える必要がある。
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