河内におけるキリシタン

河内におけるキリシタン
【概 要】
・1563年の宗論が契機となって高山氏のダリヨ、右近が受洗し、1574年の教会建設以降、
高槻で急速にキリシタンの信仰が広まっていくが、それよりも早い約10年前に、その同じ
宗論が契機となって河内地方(三箇、岡山、若江)には教会が建てられ、キリシタン信仰が
広まっていた その主役となったのが、1563年の宗論の一方の当事者であった結城氏で
あり、その影響を受けた三箇氏であった
河内は、1560年飯盛城に拠点を移した三好長慶の支配下にあった 1563年の宗論で
キリシタンに改宗した結城山城守の長男結城左衛門は三好家家臣で河内の砂の城の城
主であった 彼は、修道士ロレンソを招き、他の家臣らに受洗を勧めた結果、三箇氏等73人
が受洗した、その後1577年頃までに、約6000人程のキリシタンの信仰共同体が創出され
ていくことになります 1577年頃には河内の武士のほとんどが受洗したそうです
・そして、右近より先に河内からは、2名の福者がでているのです
アントニオ三箇とその妻マグダレナは、殉教者として、1867年 日本205の福者となる
ディエゴ結城了雪 2008年188列福の福者(出身:阿波 右近とマニラ 帰国後司祭)
(以前は、河内の結城一族と言われていたが、その後、188列福で否定された)
・この時期の河内は、1560年に摂津芥川城から河内飯盛城に拠点を移した三好長慶の
支配下にあった 長慶はキリシタンの布教を認めた その家臣から多くの信徒が生まれた 1564年長慶亡くなる 1568年信長上洛、それまでは河内平定まで三好義継、三人衆が
支配した 信長上洛後畠山氏が支配した 飯盛城1576年廃城となる 1582年山崎の戦で
光秀に加担した三箇氏は衰退し、1584年小牧長久手の戦で戦死した結城氏の衰退により、
河内のキリシタンは急速に衰退していく (完訳日本史③ P177 山崎の戦と三箇氏)
【河内の福音宣教の始まり -1563年の宗論が契機となって信徒が誕生した-】
・1563年、奈良で行われた修道士ロレンソと結城氏・清原氏の宗論において、宗論の当事者で
あった結城山城守がキリシタンに改宗した この宗論は高山右近の父ダリオの受洗の契機に
なったもので、これは河内の布教にも良い影響を与えたのです 結城山城守の長男(結城左衛門尉)も改宗し、彼は三好家家臣として、三好氏の居城飯盛城
でキリスト教の布教に協力し、多くの信徒が生まれた 河内は摂津高槻よりも先に布教が進んだ
のです (摂津・高槻で布教が進むのは1574年以降のことです)
その頃の様子が次のように記されている [完訳日本史① P163]
(1563年 結城山城守の長男と7名の武士が奈良でヴィレラ神父より受洗)
・その後、ヴィレラ神父は、霜台(松永久秀)に会い、鄭重慇懃迎えられ、奈良に20日間滞在し、結城・清原と
一緒に都に向い、都のキリシタンは宇治まで出迎え、都の教会に行き、二人の支援者・保護者を得た事を
喜び感激した 都の異教徒は二人の受洗を非常に驚いた 結城は都で早速妻子や従僕に教理の説教を
聞かせ、一同は受洗した ・二人(結城・清原)の受洗は、・・都に置いて、・・聖なる福音について・・大いに寄与した・・彼らの模範に倣う
者が現れ、身分の高い武士や、高位高官の人たちがキリシタンになりはじめた この成果によって都のキリシ
タンはますます信仰を強められた
(修道士ロレンソによる飯盛城における布教と新たな信徒の誕生)
・三好に仕えていた結城山城守の長男は、悪習や放縦な生活を改め修道士のようになった 彼は河内の飯盛
城に帰ると他の武士にデウスの事を説いたところ、彼等はバテレン・イルマンを派遣してももらう事を望んだの
で、派遣を要請したところ、直ちにロレンソが飯盛城派遣されてきた
・ロレンソ見た武士はその容貌を嘲笑し、外見を軽蔑したが、ロレンソが説教をし始めると、畏敬の念を表し始
め ・・数多くの質問が出され、討論はほとんど昼夜の別なく不断に行われ、ロレンソは偶像崇拝と虚偽の
宗教の誤りの根拠を示し、創造主の存在・霊魂の不滅・デウスによる人類救済を説いた結果、三好の家来
の73名はキリシタンになる事を決心した その中には、三ヶ伯耆、池田丹後守、三木半太夫という重立っ
た人がおり 、洗礼を望み、司祭の派遣を望んだので、司祭はそこに赴いた 彼等は、ロレンソが説いた事
と司祭の説教が全く同じであり事を確認し、彼らは受洗した
・仏僧たちの反撃があったので、受洗した武将等の忠告により、ヴィレラ神父は三好長慶を訪問し、教えを
説明したところ、彼は教会とキリシタン宗門を擁護しようと言った
(三箇氏の受洗)
・受洗した貴人達は、さっそく妻や家族をキリシタンにしはじめた 飯盛城の山麓の大きな淡水湖がある
地に住む三ヶ(サンチョ)は受洗すると、寺院を教会に変えた 3000人を超える家臣がキリシタン
になったとき、そこに司祭が寝泊まりできる教会を建てた そして、三ヶは五畿内で最も堅固な柱となった
彼の邸は修道院のようであった 15年間の間、その教会で復活祭と降誕祭が祝われた 彼は、日本の
事情に精通し、諸宗教にも造詣が深かった・・キリシタン達は彼を尊敬していたので、イエズス会員は、
彼を父のように見なし、彼の助言や庇護を受けた 彼の妻ルシアも徳操の鑑で、彼はイエズス会のため
に最も功績のある一人となった
【河内は都の宣教師の良き避難場所となった】
・都に行く宣教師は、普通、堺に上陸し、東高野街道を通って都に向かっていた 帰りも同じルートであった
河内は東高野街道に近いので、宣教師は自然と河内を訪ね機会が多くあった 都の布教環境は悪く、
宣教師は都を出て行くことがあったが、安心して行ける行き先は河内、堺であった
(宣教師の堺への避難 1565年~1569年)
・信長上洛するまで、世情は極めて不安定で、1565年、将軍義輝が松永氏等に殺害され、内裏は宣教
師に追放処分の詔勅を出した 宣教師はなんとかして都に戻ろうと様々の人を介して努力するも、信長
上洛の翌年1569年まで都に戻れなかった その間、宣教師は河内の人々に迷惑がかか
ることを恐れて堺に避難していた 宣教師はこの間、河内を経由して、秘かに堺と都を往復した 堺と
河内では布教が進んだ
(河内を訪れた宣教師等)
修道士ロレンソ、ヴィレラ神父、フロイス神父、アルメイダ神父、ヴァリアーノ神父、 オルガンティーノ神父、
セスぺデス神父、カプラル神父など
【1574年~1578年頃の布教状況】
・河内には、岡山、三箇、若江という三つの布教地がある 司祭たちは、これらの三つの地方をしばしば
訪問し続けた
・摂津・河内の布教は、都のフロイス神父とオルガンティーノ神父が交代で行っていた 1576年12月
フロイスは都を去るので、その後はオルガンティーノ神父が中心になって布教を行った
(1576年8月 都の南蛮寺の建設)
・都の南蛮寺の建設に河内のキリシタンは大活躍する
[日本史](完訳日本史② 第46章)
・約10年前に、ヴィレラ神父が都に建てた姥柳町の教会(司祭・修道者の住居・小聖堂)は、老朽化
が甚だしかった
・上京は再建され、信長により都は平穏を取り戻したので、フロイスとオルガンティーノは、全五畿内
の主だったキリシタン達に、素晴らしい教会を建立する計画について協議した
彼等は、これは多年希望していたことであり、日本のデウスの教えの威信と尊重のため大切なこと
であるから援助したいと答えた そこでカプラルへ教会建設の許可と援助を求める書簡が出された
・キリシタン達は、早速、非常な熱意を持って・・建築に必要な用務を担当すべきかを
分かち始めた
・結城ジョルジュ弥平次の活躍
教会建築を援助するため・・河内から・・40~50名を率いてきた・・自ら働き・・金銭の提供・・
40表の米の提供(完訳日本史② 30章)
・多くのキリシタンが教会建設に寄進をした 河内三箇のキリシタンの貴婦人の寄付金集め
結局、数も多くなく、多くは貧しかったキリシタンは2500クルザードの金銀、米を提供した
(建設費用総額 3000クルザードの大半を一般の信徒の寄付で賄ったことになる)
(教会の完成)
・この教会の呼称、並びに保護の聖人は、「被昇天の聖母マリア」が選ばれた
(8月15日、この記念すべき日に、ザビエルが日本についたから)
そしてこの日に教会は未完成であったが、初ミサを捧げた この祝祭に近隣諸国のキリシタンが参集
した 都の異教徒たちは、いとも多くの群衆が・・・教会に到る・・・一同がまるで復活祭のように
礼服を着用いしているのに接して驚嘆した・・ダリオは家族共に告白し多数の人が聖体拝領した
都の異教徒は多数の輿や騎馬の士が会堂に入るのを見て驚いた ・・ダリオは饗宴を設け、翌日
帰った このときフロイスはロレンソとともに、河内にあって、約二ヶ月程床に臥していた しかし、
大概の日は、聖祭を行い、河内・堺の布教に従事した 三箇の会堂に大きな十字架を建てた
岡山にも十字架を建てた 同地で26人がキリシタンとなった フロイスは病から回復しない事を
心配したダリヨは、堺に医者を紹介し、フロイスはそこで静養し回復した フロイス書簡)
・教会が落成すると・・・見物しようと数えきれな人々が押し寄せ・・説教が度々行われ・・その結果・・
キリシタンとなり・・・見聞を伝えたので・・信仰は・・各地に・・広まる・・
(1576年~1578年の布教状況)
・三箇・岡山・高槻・若江の地区が互いに競い合って、布教を進めていった これも布教が進んだ
要因です 1577年、昇天祭から聖体祭までの間に、三箇・岡山・高槻・若江の各城において、
洗礼を盛大に行い それぞれ一基の新たな十字架を建て行列をしたのち、809人が受洗した
・1577年、三箇・(河内)岡山の臣下は全員信徒となった その数は三箇1500人、岡山1100人
高槻は、最初300人の洗礼、二回目800人、三回目700人、四回目600人(合計2400人)の
洗礼を行った
・村重謀反が終息する頃の1579年頃の都地区の信徒数は約1万5千人で、都の信徒は少なく、大半は
高槻・河内の信徒 高槻約8千人・河内約6600人といわれている
各地の布教状況は次の通り
【オルガンティーノ神父による布教の様子(1574年~1579年頃)】完訳日本史③47章 P13
(河内岡山)
・結城ジョアンが城主であった 結城ジョルジュ弥平次その他の信望厚い古参の信徒がいた 信徒だけの
村落が形成され、同地の周辺4~5里後に散在していたジョアンの家臣達や仏僧もその村の住民となった
・信長は岡山城の取り毀つことを命じ、その場所は誰にも占有されないままになっていた その場所は
優れた場所で、周囲には身分ある人達が住んでいた
・同所には、オルガンティーノ神父の働きで、美しい教会が建てられることになり、司祭が宿泊できる 司祭館
も併設されたジョアンは司祭が自活できるよう一定の収入をオルガンティーノに与えた
(三箇)
・岡山の半里足らずの所にあり、初期の代表的な布教地で、領主三箇氏の努力によるもので、当然、オルガン
ティーノ神父は多くのキリシタンを獲得した
・オルガンティーノ神父は、一つの湖のこの土地に華麗な教会建設する当たって信徒達と協議し、湖の埋め
立て作業を行った 三箇氏はその埋立地に非常に美しく清潔な教会を建てた
その教会には三箇氏のための居室が設けられ、サンチョは城に妻子を置いたまま教会に宿泊した
彼は教えに精通し絶えず説教し、2000~3000人がキリシタンとなった
(若江)
・三箇から2里半~3里の所で、そこには飯盛城で最初にキリシタンになった人々のうち、多くの貴人が住んで
いた 彼等は元来、河内の国主、三好殿の家臣であったが、信長が三好殿を殺害したので池田丹後の守
シメアンがこれらの家臣達の頭となった 彼は信仰に生き、改宗に熱心
・若江に立派な司祭館の付いた教会を建てた
【最盛期の状況】 (1581年の状況)
・山崎の合戦の一年前というのが、河内のキリシタンの絶頂期です
1582年山崎の戦いで三箇氏が光秀についたため、その後衰退し、禁教令で壊滅していくからです
・「第四の司祭館は河内にあり、・・・身分の高い4~5名のキリスト教徒の貴族がおり、周辺の・・村落の領主で
ある ここにも司祭1(セスぺデス神父)、修道士1(パウロ天草)がおり、信徒6~7千名の世話をしている
これらの領主が(右近と同じように)・・イエズス会員の生活を維持している」身分の高い4~5名のキリスト教
とは結城、池田、三箇、 伊智地、三木である (巡察記 了吾-キリシタンになった大名-河内の教会)より
・1578年から1587年まで河内で布教に従事したのはセスぺデス神父であった
・淀川左岸の河内では、高槻に匹敵するほどキリシタンの布教が進んでいたことがわかる
・高槻に畿内の信徒が集まり、巡察師ヴァリニャーノ神父を迎え盛大な復活祭を祝った年である
淀川の右岸、左岸でキリシタンの花が大きく開いた時期であったと言える 両者が相互に競い合うかの
ように大きな花を開かせた 当時の都地区布教責任者オルンガンティーノ神父は互いに競わせようとした
意図があったことを認めている
(ヴァリニャーノ日本巡察記解題Ⅱ)
河内のキリスト教が隆盛に赴くのを見て、摂津高槻の高山親子は、負けてはならじと領民を挙げて改宗させ
ることに専心した
「日本人の気質をよく理解していたオルンガンティーノ神父は、ある計略を用いた 一年の主な主日に、全て
の信徒をある一か所に集めて儀式を行い、華美で盛大かつ壮麗な行列を命じ、見物人が参集するようにし、
信徒達の団結と心と愛情を示すことによって、集まった人々が心を動かされ説教を聞き、キリスト教徒になる
ようにした 信徒達がこの祭典に熱中するようになったことで、彼らの間で聖なる競争心が起り、三箇のキリスト
教徒は若江の信徒に負けまいとし、岡山の信徒は、三箇や高槻よりも優れようとし、この方法がよりよく捗ること
促進させる結果となった ある国の人々が他の人に愛情と慈善を示したという報せを受けると、自らの能力に
応じて貧しい人々を助けるようになり、主だった殿達は遠隔の地方から集まった人々に食物を与え、慈悲の業
がたかまった」
1577年~1580年頃の河内のオルガンティーノ神父による布教方法を記した「完訳日本史」(③47章 P14~15)
にも同様のことが記されている
・一年の主だった祝日には、あらゆる地方のキリシタンを儀式に参加させた
・都、高槻、河内で盛大な祭典を催し、できるだけ美しく豪華な公開行列を繰り出すように命じた その噂を
聞いて多数の異教徒が見物にやってきた・・・説教を聞く ようになり、ついで、キリシタンになるに到った
・高槻、三箇、岡山、若江の各キリシタンは、互いに聖なる競争心に燃えたった 三箇は若江の祭りに劣ら
ないように、岡山は三箇よりも秀でようとし、さらに高槻には負けまいとした
・他国の人々が交流した結果 、彼らの霊魂には愛情が深まった
祭典が行われる土地の主だった武将は自費で祭典の費用を賄い、他国の人々に豊かな食事を給した
こうして彼等は愛情の絆によって固く結ばれていった
【バリニアーノ巡察師河内訪問、高槻で河内のキリシタンとの合同の最大の復活祭】
・1581年、イエズス会巡察師ヴァリニャーノ神父一行が、巡察と信長に会うために、九州から都に向かい
ます 堺に上陸した巡察師一行は、河内を経て、高槻に向かい、高槻で聖週間を過ごし、復活祭を盛大
に祝います この祭典には、畿内一円の信徒等、約二万人者人が参集しました その中心にいたのが、
村重謀反の試練を乗り越えた高山右近達摂津のキリシタンと河内のキリシタンでした。日本で最大の
復活祭となったのです まさにこの時が、高山右近達や河内のキリシタンにとっても、この世的な意味
では、絶頂期にあったといえます
・巡察師一行が堺から河内に向かう様子を宣教師は次のように記しています
・1581年3月19日(枝の祝日)の朝、巡察師ヴァリニャーノ一行は堺を出発し、河内岡山に向かう
(河内岡山とは、現在の大阪府四条畷市辺りで、忍陵神社付近に岡山の教会があったと言われています)
・堺→八尾(池田丹後守の城)→若江→三箇(夕刻)に到着 オルガンティーノ神父が出迎える
安土の神学校の生徒と一緒に高槻まで同道する
・八尾での歓迎の様子 (荘厳な歓迎宴、道にキリシタンの部下を出し、枝と薔薇を巡察使に投じ、
その上を通った 野に席を敷き、屏風を廻し、池田氏、夫人、子、貴人が歓迎、食物を饗応した) ・三箇での歓迎の様子 (三箇の多数の人々が出迎えていたが既に晩遅かったので、全員に挨拶
する時間が無かった 更に行くと三箇氏が準備した食事が並べてあった)
・岡山での歓迎の様子(十字架、聖堂に行く、キリシタンの出迎え歓待) ・諸人非常に喜び、婦人・子供に至るまで出迎え、その他の人たちは貴族と共に先頭 に進んだ・・高槻の
儀式に参加するため貴族の婦人達も夫共に高槻に行った
・3月19日の宿泊先 三箇か河内岡山に宿泊
原資料で
・3月20日 河内岡山へ 同泊
は明確で
・3月21日(月)河内岡山出発 → 高槻へ
ない
・3月21日(火)高槻到着
淀川右岸での多くの人の出迎え
・多くのキリシタンが高槻に集結-2万人以上が集合、キリシタンだけで1万5千人(書簡)-
・バリニアーノの高槻での盛大な儀式の知らせは広まり、ご畿内の全域、美濃、尾張の国々からさえ、
キリシタン、特にキリシタンの武士は高槻に殺到した
・聖木曜日(晩餐の夕べ、洗足式、ミサ後聖体を安置所に移動行列、祭壇片づける)
・公の鞭の苦行(デシピリナ) 荘厳な墓所(年報) ローマの趣 聖体拝領者多し
(告白できなかったため聖体拝領出来なかった人が多くいた) (書簡)
(尾張、美濃から多くのキリシタンが来た 聖週間の間高槻に留まった)(書簡)
(聖木曜日に信長は騎馬5000人を率いて都の到着 )
・聖金曜日(受難の祭儀、十字架の崇敬、安置所からを聖体を運ぶ) 聖なる断食
・罪(賭博)を犯したキリシタンの若い武士の公の鞭の苦行、貧者に米40袋を与える
(父母、親戚、家臣、美濃、尾張、山城、津、河内の諸人の面前でジシピリナを行った)
・御受難の説教の後、多くの人が鞭打ちの苦行を肩を出して、男女に分かれて熱心に行った
・聖土曜日(祈りと黙想、断食が好ましい)
・聖土曜日の儀式を始めた時及び次のミサの始めにオルガンを奏した
・御復活日(最高の主日、典令歴の中で最高の地位、洗礼式 洗礼の更新)
3月26日 明方の二時間前の行進 【1582年頃の状況】
・摂津の国に接して、河内と称する他の国があり、他の領主たちが分領している その中には既に
キリシタンになった者が数人ある それは、おかやま、三箇、烏帽子、堺で、キリシタンの数は
6000人内外である 1582年2月の年報
【1586年6月 秀吉バテレン追放令後の状況】
フロイス日本史 3巻 65章 P264~269
・・・この度の迫害でその所領を失った・・右近、池田シメアン丹後、三箇マンショ、結城ジョアン等は
既に擁していたキリシタン宗団の大規模な離散が行われた結果、消滅するのではなくむしろ広がって
いった・・彼らが散って行った諸国に種のように植え付けられ・・信仰を守り、評判・信用・収入において
当初よりはるかに良い状態を保った
右近、池田シメアンその他領地を失った家臣や親族は小西行長の領地で俸禄を得、・・彼等は豊かで
落ち着いた身分となった
・池田氏は、領地を失い秀吉の甥の秀次の部下となって美濃にいる
・三箇氏は、伊予の秀吉の甥に仕え、その後小西を頼る
・結城ジョアンは小牧長久手の戦で戦死 秀吉領地召し上げ 二人の息子は、池田シメアン丹後が庇護
・ジョルジュ弥平次は、小西行長の肥後の一城主 富裕で落ち着いた身分
このように、河内のキリシタン武将は、高山右近達摂津のキリシタン武将とほぼ同じ時期に、誕生し、
絶頂期を迎え、衰退していったといえます 互いに競い合い、協力し合いました 彼等の霊性は、高山
家の人々と何等遜色あるものではありません 喜びと悲しみと苦しみを共有し、厳しい時代に信仰を守った
その後苦労に深く敬意を表したいと思います 高山右近の列福は彼等の信仰の祝福でもあるのです
1.河内の教会
河内には四つの教会があったと言われています それはキリシタンに改宗した河内の領主、砂の結城氏、
岡山の結城氏、三箇の三箇氏、若江の池田氏という領地・領主に対応するものであった 最大のものは、
岡山の教会で、これは後に、大坂城下の教会として利用するため解体され、大坂に運ばれていった
大坂の教会は高山右近と河内の結城弥平次とが、河内岡山の教会の材料を活用してつくられたもので、
まさに、摂津高槻と河内のキリシタン武将による共同作業であった
①砂の教会 (砂の城主 結城左衛門) JR片町線忍ヶ丘下車 西へ徒歩約15分 妙法寺(日蓮宗)
②岡山の教会 (岡山城主 結城ジョアン、家老結城弥平次) JR片町線忍ヶ丘下車 西へ徒歩約10分 忍陵神社
③三箇の教会 (三箇城主 三箇氏(サンチョ)) JR片町線住道下車 北へ徒歩5分 寝屋川堤防沿いの道
④若江の小聖堂 (若江城主 池田氏) 現在は大東教会のみ、四条畷は無い
1.河内の主なキリシタン武士
・主な武将は7人います 結城左衛門、結城弥平次、三箇氏(サンチョ)、三箇氏(マンショ)、池田丹後守、
伊智地文大夫、三木(三木パウロの父)です 特に、結城氏(岡山城主)、三箇氏(三箇城主)、
池田氏(若江城主)は、河内における有力な領主で、その領地は布教の拠点となった
・なかでも宣教師の記録にたびたび出てくるのは、結城弥平次(ジョルジュ)、と三箇氏です 結城弥平次は、高山右近と行動を共にすることが多く、河内のキリシタン武将として最期まで信仰を守り
通した人です 都の南蛮寺の建設、安土のセミナリ建設、大阪教会の建設等に関わり、1587年の伴天連
追放令後は、九州の小西家の重要な武将として活躍し、1600年の関ヶ原の戦のあと、島原の有馬氏の
配下の金山城主となり、1614年長崎に追放されました
・結城山城守の名前も宗論後、宣教師の記録に登場してきます 宗論後も、有力な信徒として活躍しています
この結城山城守に繋がる結城氏には、3人の主なキリシタン武将がいます それは結城左衛門(アンタン 山城守の長男 砂の城主)と結城弥平次(ジョルジュ 結城左衛門とは従兄弟の関係)、結城ジョアン
(岡山城主 結城弥平次の甥 高山右近と甚だ親密な関係)です
≪結城氏関係≫ フロイス1 P162~、P306
(概略図)
(三好家家臣)
父
アンタン
(砂の城の城主)
結城山城守
結城左衛門(山城守長男、1568年頃32歳毒殺?)
↕ (従兄弟)
母
兄弟・姉妹
結城弥平次(河内岡山城主結城ジョアンの家老で、伯父にあたる)
ジョルジュ (1563年頃受洗 19歳)
(美濃の出身)(母と僧籍にあった3人兄弟を河内に呼び寄せ受洗)
(岡山の教会建設・京都南蛮寺建設に尽力)
(右近と大坂に岡山の教会を解体移築に尽力)
(1587年バテレン追放令の際殉教宣言、小豆島へ)
(小西配下の肥後の一城主、その後有馬配下の金山城主)
(1614年長崎に追放)
兄弟・姉妹
結城ジョアン(河内岡山城主)
(結城弥平次の甥)
(1572年17歳頃、弥平次の勧めで受洗)
(池田丹後守の娘と結婚)
(岡山教会を建てる)
(1584年小牧長久手の戦で戦死)
(右近と甚だ親密)
次に各キリシタン武将の略歴を紹介します
(1)結城左衛門尉(ゆうきさえもんのじょう) (結城山城守の長男) アンタン(アントニオ)
・1563年 奈良で父結城山城守とともに受洗した 河内に戻ると同僚・友人に教えを聞くことを勧める
・修道士ロレンソを河内に招き、布教を始める 三ヶ伯耆、池田丹後、三木判大夫等の主だった人達が教えに
感銘を受ける ヴィレラ神父から教えを聞き、三好家の家臣73人は受洗した
・飯盛城に近く、砂の寺内(スナノジナイ)に邸を持っていた 教会を建てた(河内で最初の教会)
・ヴィレラ神父、三好長慶に謁見し、布教の許可を得た 信徒は500人に達した
・1568年頃 若くして亡くなる 毒殺された 都で盛大な葬儀が行われた
(砂之寺内教会:四条畷市妙法寺 キリシタン供養塔)
(2)結城ジョアン
・飯盛山近くの岡山の城主
・1572年カプラル神父より受洗 その後ジョアンと呼ばれる 17歳 家族も受洗
・岡山に教会を建てる (忍陵神社付近)
・池田丹後守の娘と結婚
・オルガンティーノ神父による河内の布教 (1577年~1580年頃(フロイス日本史 3巻 47章 P13)
・47章の最初に、「ここ数年にその地域で生じた事」と書いているが、恐らくフロイスが1576年12月都を
去ってから、数年間の事なのであろう
・都の布教責任者オルガンティーノ神父が、岡山、三箇、若江の河内の三つの拠点を重点的に布教した
・岡山の領内全体がキリシタンになっていったという、その布教の様子が次のように記されている
岡山で、結城ジョアンがその城の主君であった そこには結城ジョルジュ弥平次、その他信望の厚い
古参のキリシタンがいたので、キリシタンだけからなる主要な村落が形成されていた
同地の周辺4~5里の地に散在していた結城ジョアンの家臣達も皆その村の住民となった
結城ジョアンの領内に住み、寺院を有していた仏僧達もこれに加わった
・岡山教会の建設 信長は岡山城の取り壊しを命じ、その場所は誰にも占有されないままになっていた そこは極めて優れ
た場所で周囲には身分ある人が住んでいた
同所には、オルガンティーノの働きによって美しい教会が建てられる事になり、司祭館も併設された
ジョアンは司祭がそこに滞在できるよう、一定の収入を神父に与えた
(1582年2月の年報)
・岡山はジョアン結城殿というキリシタンの領主の城であり、周囲に数か村あって、
キリシタンの数は3500人である 領内にはすでに異教徒が一人もいない
・・ジョアンとジュストは常に甚だ親密で、ジョアンはジュストに比して勢力は劣って
いるが、その徳と教会に服従する点においては少しも劣らない この故その領内の
キリシタンは高槻のキリシタンに劣らず・・順順で信心深い・・中でも・・ジョルジュ
弥平次は、日本にあるもっとも古く且つ最も良きキリシタンの一人である
多くの徳を備え、信仰と慈恵において・・他の模範となり、また知恵と勇気について・・
彼に優るものは少ない 諸人より大いに愛され、尊敬されている
・1582年本能寺の変後、三箇に移封 (岡山の教会は異教徒の手に、その後大阪に移築)
・1584年 小牧長久手の戦い(秀吉と家康の信長亡き後の戦い)で戦死
(フロイス 4巻 3章 P42~43)
・1589年 ~1590年頃 (完訳日本史③ 65章 P269)
ジョアンは戦死し、少年である二人の息子が後に残った 関白はジョアンの城を他の者に与えた
池田丹後の守シメアンは二人の息子を養子とした これは、シメアンの娘の子で、孫であった
からである
(フロイス日本史 3巻 65章 P264~267)
(3)結城弥平次(ジョルジュ) 結城山城守の甥 結城左衛門とは従兄の関係
・1563年19歳で受洗 母、4人の兄弟が受洗
・甥にあたる河内岡山の城主結城ジョアンの家老 ジョアン受洗に大きな影響 出身美濃
・城主ジョアンと共に、岡山の教会建設に尽力 京都の教会建設も尽力
(フロイス 日本史2 30章) 1571年~1752年頃の事柄
・結城山城守の甥
・最初の頃に受洗した河内キリシタンの一人
・受洗後8~9年後になるが若い (1571年~1752年)
・貞潔を守り、清純で、結婚を望まなかったが、甥の河内岡山城主結城ジョアンの
世話(家老職)をせざるを得ず、結婚を余儀なくされた
・イエズス会の司祭修道者・教会への心からの愛情に満ち、その信心生活はキリシタン
の鑑であった (言葉は少なく、行いで実を示す人であった)
・美濃の国の生まれ 法華宗の母・3名の兄弟がいた 呼寄せ、受洗に導き、扶養した
・結城ジョアンの家臣を全て改宗させ、またその関係者1500名以上を改宗させた
・主な祝日等の日に、都の教会にしか司祭がいない時には、密かに前夜、都に行き
ミサにあずかり、なにしらぬ顔をしていた
・自らの霊名の日にはミサをし、盛大な祝宴をした
・立派な教会(瓦葺、百畳敷き、司祭修道者の居間)をたてた 司祭修道者のための
生活費への寄付
・都の教会(どこの教会か? 南蛮寺は1575年)建築への寄付 石の運搬に従事
この作業中に、戦が始まり、弥平冶はジョルジュに呼び出される 建築を優先させ
完了後、参戦 教会建築に多額の建築費の寄付
・立派なイエズス会司祭修道者の名簿(氏名・国籍・来日年月日 署名)を作成
・河内キリシタン、26聖人パウロ三木の父である三木半太夫と交戦
既に大半が戦死し、敗戦のなかで防戦していた弥平冶は、三木と遭遇する
塗金した真鍮の「JESUS」という大きな文字がついた兜をかぶった弥平冶に三木は
その文字を見て、三木は弥平冶を助けた
弥平冶の家族は味方の敗戦と弥平冶の死を確信し、似た遺体を捜し収容した
・三木半太夫がその後碌を失った時には、彼と妻子を扶養した
・(1582年2月の年報 結城ジョアン参照)
・結城ジョアン戦死後、岡山を出る 右近と共に、岡山の教会を大阪に移築するに尽力 大阪教会 1583年 小西に仕えるまで右近と行動をともにしたかもしれない? ・秀吉禁教令への対応 フロイス4 P211
右近と同じように、コエリュ神父に対し「殉教宣言」をする
・その後、小西行長に仕える ・1587年バテレン追放令後、都地区の司祭・修道者が平戸に向かう途中、室に立ち寄り、
ジョアンの屋敷に泊る ダリオ・右近の弟が淡路島から来る オルガンティーノ1人潜伏
を助ける (日本史 3巻 61章 P217)
・フロイス 3 65章 P269
小西から与えられた肥後の一城主になっている
彼はかつてなかったほど富裕で落ち着いた身分になっている
・肥後 家老クラス 肥後の矢部 愛藤寺城代 44歳 フロイス記述 肥後の布教活動の根拠地(宇土、八代 矢部 3万人のキリシタン)矢部4000人
(矢部 現在 熊本県山都(さんと)町 相当の山奥 通潤橋)
秀吉亡き後、小西は領内の布教に力を入れたためと思われる
・小西滅亡後、加藤清正に仕えるも追放され、有馬に仕える 長崎県高国見町金山城主
・有馬から最後は長崎に追放(70歳を超えた 1614年頃 大禁教令)
・ダリヨ、右近に次ぐ五畿内の有力なキリシタン武士
(フロイス日本史 2 第30章 約10P)において、詳しく紹介
≪三箇氏関係≫
(4)三箇氏(サンチョ) 三箇伯耆守頼照(ほおきのかみ)
・完訳日本史において、フロイスが詳しく紹介している 完訳日本史① P174 P195 P316、 完訳日本史② P18 P35~36、 P55~60、 P67~68、 P91
・三好家にあって、大いなる権勢を有し、多大な尊敬を受けている 三箇氏は、湖上の3~4の島の領主であった
・飯盛城で受洗した初期河内のキリシタンの頭的存在 模範的な信仰生活 右近の父ダリヨ的な存在
・飯盛城の麓に長さ4、5里の大きな淡水湖があり、三箇氏はこの湖の傍らに建てていた寺を教会に変えた
この教会は、非常に小さく、狭かった 聖母マリアの教会と言われていた
・三千名を超える家臣がキリシタンになったとき、司祭達が宿泊できる建物が付属した美しい教会を建てた
(住道 大東市浜町付近)
湖の中にあるこの土地に壮大にして華麗な教会を建てるにあたって、広大なの埋め立て作業が行われた
その後、サンチョはその埋立地に別の美しく清潔な教会を建て、自分の巨室を付け、ここに宿泊し、説教を
していた 彼の熱意で、2,3千人の者がキリシタンとなり、更に増えていった
・サンチョは五畿内の堅固な柱の一つとなった 彼の邸は修道院ようで、15年もの間その教会で復活祭と
降誕祭が祝われた 各地から参集したキリシタンに気前よく饗応した
日本の宗教・風習・知識に造詣が深かく尊敬されていた イエズス会員は彼を父のように思い、会にとって
最も功績のある人となった
・1563年夏、修道士ロレンソはい盛城城に派遣された かなりの聴衆が集まり、大部分が受洗した
(フロイス2-P91~98)
・三箇氏は、湖上の3~4の島の領主で、布教に尽力し、寺社を教会に変え、家臣1500人
は、全てキリシタンになり、信徒は3000人にもなったので、新たに司祭の住居のついた
立派な教会を建てた(住道 大東市浜町付近)この教会は、1565年~1569年の放逐
の間、パアデレンの避難所、付近のキリシタンの集合地となった 都の布教が困難な
環境にあった時の宣教師の拠り所となった ・・・・・・→→ (注1)
(湖上の島について)
・600年前の河内湾のなごり、深野池(ふこのいけ)、新開池(しんがいけ)
・1704年の江戸幕府の大和川付替えで新田開発され、消滅 鴻池新田等になる
・これらの池に水没しない大きな3つの島を三箇と言い、その最大のものを大箇と言う
これらの島を支配していたのが三箇氏
・池に浮かぶ大きな島の城 三箇城跡:大東市菅原神社
・角堂(住道)大聖堂跡(住道駅近くの地蔵堂)
・五畿内の柱石の1人 身分が高く日本の諸事・宗派に通じ、イエズス会の父親的存在
住居は修道会の家のようで、そこで15年間 復活祭、降誕祭が祝われた
復活祭には各地から信者が集まり、舟200隻、漁師3000人が見物 池に船を浮かべ会食
-1581年のバリアーノを迎えた、右近の盛大な復活祭は、河内の盛大な復活祭を 意識したのではとも推測される-
・日本語に訳された切支丹宗門に関する書物の大規模な収集 デウスを語ることや他宗
教との宗論を好み打ち負かした
しばしば告解 五畿内での名声・好評で彼の心はさらに鼓舞された
「フロイス2 P91~P99 の素晴らしい信仰宣言と言ってもいいサンチョの話」が
記されている (受洗のきっかけとなったロレンソの教えの話:現在の信仰宣言と全く同じ内容)
・1578年 村重謀反の際に、サンチョは毛利と内通したと讒言され、窮地に陥るが、
信長の命を受けマンショを処罰に来た佐久間は、長年の信頼関係から無実である
事を確信し、信長の面前で命かけた忠言により、申し開きの場が与えられ、許された
しかし、父サンチョはこの事が原因で、近江永原に追放された
かれは、ダリオと同じように、この地で布教を行い、50名の信徒が生まれ、独自の
教会がたった (日本史 2 第50章 P78~83)
・1577年~1580年頃の河内の布教状況 (完訳日本史③ 47章 P12~15)
三箇は岡山から半里足らずの所にあるサンチョ(頼照)の努力により多数のキリシタンがおり、一つの湖の
中に、広大な埋めた地を造成し、壮大で華麗な教会建設した その後その埋めた地に、彼の居室が
付いた別の教会を建て、そこに宿泊した 異教徒に絶えず説教していた
彼の熱意とオルガンティーノの説得で2000~3000人が受洗した
・1582年の山崎の戦に際し、三箇氏(息子マンショ)は明智光秀側につき、そのため領地
を失う 三箇は、岡山城主結城氏の領地となる
これにより、河内キリシタンの没落が始まる 教会は秀吉側により焼き討ちされた
(1582年 フロイス日本史3巻 58章 P171 P177 )
・・・主要なキリシタンを有する河内と津の国の諸国の全ての武将たちが合流したが、三箇(頼連)
(マンショ)だけは、明智が彼に河内国の半額と、兵士たちに分配する黄金を積んだ馬一頭を約束
していたので、彼の側に味方した
・・・2~3の殿が、・・坂本城を占領した後、河内の三箇に出動し・・内1人は、三箇殿の最大の敵で
であった・・サンチョとマンショ父子の首級・・に・・多大の褒賞を約束した
三箇父子は・・妻子を伴って非難した・・キリシタン婦女子無保護の状況・・異教徒達は三箇に放火
・・五畿内で最も美しい教会も焼却された・・教会の装飾品も同様・・三箇は安全とそこに保管して
いた三箇以外のキリシタンのものも同様・・ひどい窮乏に陥った
(三箇氏の主だった家臣は、領地回復の期待もあったが、小西氏を頼ることになる)
・その後、息子マンショは大和筒井氏の家臣となり、サンチョはそこに身を寄せる
・大阪でオルガンティーノ神父の良き協力者となり、「何時も教会に住んでいます」という
ような状態にあった(右近大阪の教会に尽力 右近と交流)
・曲瀬道三とサンチョ(フロイス3巻 59章 P189)
曲瀬道三の改宗によって、都の教会に多くの人が出入りするようになり、サンチョは道三の改宗は
1万人の改宗よりも大事な事だと言った
・1588年には、近江永原の布教にも尽力 当時70歳を超えていた
宣教師最後の便り
「サンチョは数カ月永原で過ごした ・・・・」(日本史3巻63章P245)
サンチョは村重謀反の時の讒言で追放された永原にいた
永原のキリシタンと再会を喜びあった 毎月1か所に集まり慰め合っている
・1588年度年報 老三ヶ殿は過ぐる数カ月の間に近江の国にいて、キリシタンはみな大いに慰められた 彼等は彼より信仰に導かれた人で、毎月集合し霊的なものを読んだり論じあったりしている
・秀吉禁教令の時に、室津に行き、小西行長等と会談した その後小豆島に行く
(この時、室は、小西-弥平次の領地で、弥平次の屋敷で会談が行われた)
河内のダリオとも言っていいほどの人物」で、ダリオ・右近と交流があったのでは?
(注1)(宣教師堺に避難中の三箇マンションに関する記述)
フロイス2 P35~36、 P55~60、 P67~68
・1564年長慶亡き後の後継者善継は反キリシタンで、サンチョを迫害(偶像への強要、
堺への避難中の屋敷の破壊、引見の拒否)
・御公現の祝日・・司祭を堺より招く・・8日間滞在・・日本の諸宗教の誤謬、カトリックの
教えを語ることを楽しみにしていた・・告解・・鞭打ち・・苦行
・追放3年後の聖週間に、司祭は五畿内の信徒が集まりやすい河内に行く
サンチョ凶作にもかかわらず、各地に馬・船を派遣し、教会を拡張 各地から参集
都からキリシタン50名がきた(洗礼を受けさせるため妻子を連れてきた 感激 感謝
告白、聖体拝領)
1567年、聖週間中、義継が謀反のため三人衆より排斥され、久秀側につくという混乱
生じた このため復活祭まで留まることが困難になったかに見えたが、サンチョの訓話
平静を取り戻し、長時間の鞭打ち苦行 武装兵士の警護の下に祈り 盛大に復活祭
食事 60隻の小舟 盛大な漁猟 翌日参集した信徒は戻っていく
・1568年 宣教師都に戻れるように運動 五機内の25名程のキリシタン武将尼崎に集合
サンチョが3人衆、篠原の前で宣教師を都に戻すよう演説 (この頃フロイス富田・芥川城)
(5)三箇頼連孫三郎 マンショ 三箇氏サンチョの息子
・1567年頃13歳、器用、武技を好む、父サンチョの熱心な信仰教育を受ける
(規則の厳守、日々の時間割、ロザリオ朝・昼・晩、祈りの指導 習字、教師をつける)
(フロイス2 P56~57)
・1578年 村重謀反の際に、サンチョは毛利と内通したと讒言され、窮地に陥るが、
信長の命を受けマンショを処罰に来た佐久間は、長年の信頼関係から無実である
事を確信し、信長の面前で命かけた忠言により、申し開きの場が与えられ、許された
しかし、父サンチョはこの事が原因で、近江永原に追放された
・山崎の戦いで光秀側につき、三箇氏衰退の契機となる
・山崎の戦い後、大和の筒井定次に仕える 400石 父マンショを向かえる
・主君筒井氏に影響を与える
・マンショの影響で、近江永原に小さな共同体ができる
・小豆島の奉行 (小豆島が一時キリシタンの隠れ家になったのも彼のお陰)
・フロイス3 65章 P269
マンショも戦争で領地を失ったが、他の大名が彼を家臣として引き受け、6000表を
与えたので十分な暮らしをしている このたびの戦争(北条征伐か)で功績
・秀吉禁教令の時に、父サンチョと一緒に室津に行き、小西行長等と会談した、 讃岐に向かった フロイス4 P264
・伊予で秀吉の甥に仕え、朝鮮出兵に参戦 その後 小西氏を頼り天草へ 再度朝鮮へ
・フロイス5 24章 P73
(巡察師ヴァリニャーノの第二次訪問のとき、都に行く途中、室に滞在した そこへ、遠い四国の伊予から、マンショが訪ねて来た ・・かって三箇の領主であったマンショも(室津に)訪ねてきた・・彼は・・伊予国半領の
主君である関白殿の1人の甥は・・彼を召し抱え・・米2000俵の俸禄と1万の領民を
有する身で、・・大いに優遇され、なにも不自由もないが・・キリシタンたちがいるところ
で過ごすために、・・(ここから)逃れたいと熱望し、その実行に努めている
・キリシタンになった大名 (結城)
伊予の領主は、朝鮮で些細な理由でマンショを殺そうとしたので、マンショはここを離れ
小西に仕えることにし、日本に帰った 妻子を伊予から肥後に連れ戻すことに成功し、
天草で生活する事になった 再び朝鮮に行った その後はよくわかっていない
一説には、小西が関ヶ原の戦で光成を味方し滅亡した その後、マンショは、武士を棄て、
三箇に戻ったとも言われている
(6)池田丹後守 シメオン 若江城主(八尾)
・三好氏の家臣 八尾若江城の城主
・1564年 受洗 河内で最も有力なキリシタンの1人 光秀につき領地を失う
・その後、豊臣秀次の父に仕え、尾張で知行を得るも秀次切腹により知行失う 京都に退く
最後まで信仰守った
・娘は結城ジョアンに嫁ぐ
(1574年~1579年頃の河内の布教状況)フロイス 3巻 47章 P12~15
・三箇から2里半~3里の所にある若江には、飯盛城で最初にキリシタンになった人々の
うち、多くの貴人達が住んでいた 彼らは、信長によって滅ぼされた元来河内の国主
三好家の家臣であったが、今は池田丹後シメアンの家臣となっている
・彼は希有の才能の持ち主で、信仰に生き、改宗に熱意を燃やし、イエズス会の真の
友人で、若江に立派な司祭館を付した教会を建設した
・司祭達は三箇、岡山、若江の河内の三つの地域をしばしば訪問し、それは信徒の司牧
や常に新たにキリシタンになる人がいたからである
フロイス 4巻 3章 P44 1584年3月~頃
・小牧長久手の戦に参戦 美濃の秀次に仕える
周囲を敵に囲まれたが、切腹降伏を止めさせ、敵陣突破 三好家家臣戦死 脱出
フロイス 3巻 65章 P267 1589年~1590年の頃
・シメアンも領地を失ったが、関白の甥秀次に召し抱えられ、6000表の俸禄を得る
多くの家臣を持ち、巡察師(第二次)の来日を知ると大喜びであった
また、主君秀次にキリシタンの信仰を披歴し、その信仰を認めてくれるなら奉公するが
認めないなら放逐されたいと言った
(7)伊智地文大夫 パウロ
・1564年 ロレンソから教えをならい、ヴィレラ神父により受洗 堺の豪族 小西行長
と深いつながり 右近と義兄弟
・堺に所有する数軒の家を教会を建てるために提供し、3人も息子をセミナリオに入れる
(フロイス日本史 3巻 61章 P208~209)
・1582年領地を失い堺に退く 後に小西行長の家来として 肥後に移る 1589年志岐城
攻めの戦いで戦死
・1587年禁教令のときは、堺にいたが町に迷惑をかけないように家を開け去り、セミナリオ
の息子には殉教を勧めた
(8)三木半大夫 三木パウロの父
・城主ではない 阿波から五畿内に移った優秀な侍で、三好長慶の家来
・1564年 三箇、伊智地と一緒に飯盛で受洗
・信長に仕え、手柄をたてた 安土のセミナリオに息子2人を送った ・その後、秀吉に仕え、九州平定で戦死
・子孫は高松にいる
・26聖人の1人、三木パウロの父であることが彼を有名にした
(フロイス日本史 2巻 30章 P83 P84) (同 29章 P69)
彼には、イエズス会員で、立派な説教師である息子がいた
三木半太夫と結城ジョルジュ弥平次との戦場での出会い(半太夫、ジョルジュを助ける)
三木半太夫が俸禄を失い追放された時、ジョルジュが、その恩に報い、彼をその妻子を
扶養した
(9)畠山紀伊守高政
・河内高谷城の城主 一時河内・紀伊・和泉・摂津・大和まで領地が広がった時もあったが、
三好長慶に敗れた その後、信長は高谷城を彼に返したが、それを弟に譲り、紀伊の岩屋
城に移るが、家臣に背かれ、堺に退き、そこで受洗(池田氏、伊智地氏の影響か)
・1566年 ダリオ三好義継を援け、畠山高政を破っている 関西野キリシタン 高木P45
(10)田原レイマン
・2002年4月14日、日本最古のキリシタン墓碑が、河内のキリシタン武士田原氏の菩提寺
千光寺跡の発掘調査の際に発見された
・河内のキリシタン武士として田原氏の名前が登場するのは、1575年に書かれたフロイス
の書簡である。 この書簡に田原レイマンの名前が書かれている。
教理の説教を
って都のキリシ
は河内の飯盛
事を望んだの
当然、オルガン
貴人が住んで
三箇のキリスト
りよく捗ること
え、慈悲の業
47章 P14~15)
の領主であった