6.雨の日曜日、高松にて

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昭和 6
2
.5 第4
2号
ダクタイル鉄管
月、官界を去り、四電技術コンサルタン
トヘ転進した。今年の 2月 5 目、彼は第
、
2土 木 部 長 の 現 職 の ま ま 直 腸 ガ ン で 倒 れ
この世を去った。
彼一先輩とは、元高松市水道局長で、
四国常盤工業会の支部長でもあった岡本
開三氏のことである。
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本四架橋にわく宇野沿線を後にして、
宇 高 連 絡 船 で 1時間、
2年 振 り の 高 松 港
が眼前に広がる。小雨のパラつく高松駅
に降り、雨雲たれる空を見上げた私に、
今は亡き先輩の顔がほほえむ。かつて、
四国出張する私、そして私の部下たちに
「ょうこそノ高松ヘ J と 、 夜 の 高 松 を 案 内
し、旅の疲れをいやし、水道人の生きる
道を説いた先輩の姿はない・・
宇部市水道事業管理者
昭 和 23年 、 卒 業 し て 宇 部 市 水 道 局 に 就
田中悦雄
職した私の社会的人生は、即水道人生で
あり、その先達者は先輩であった。
2月 22日 、 日 曜 日 の 早 朝 、 底 冷 え す る
彼との出会いは、私が係長に昇格して
岡山の駅頭で¥私は受話器をとり、牟礼
中 四 国 の 技 術 協 議 会 に 参 加 し た 昭 和 41年
(むれ)町の先輩宅にダイヤルを回した。
の頃からであった口起債用務で上京した
突然の電話に、ちょっと驚かれた奥さん
ときの混遁(かいごう)、地方支部総会の
だったが、話するうちに涙声となり、感
懇親会での献酬(けんしゅう)、全国総会
情が込み上げてくる私は、 1
0時 頃 お 伺 い
で同席の観光旅行など、在りし日の先輩
する旨を伝えて電話を切り、あふれる涙
との交情が走馬灯のように私の脳裡を駆
をハンカチで、拭った。やがて、電車を待
け 回 る 。 特 に 、 昭 和 59年 10月 の 北 海 道 の
つ私の全身に寂審感が襲った…
釧路総会で先輩に次ぐ大臣賞の栄に浴し
o
昭和 22年 、 宇 部 工 専 ( 現 在 の 山 口 大 学
たとき、「早過ぎた春だ」と文句っけなが
工学部)を卒業した彼は、広島県庁に就
ら、私の肩を抱き、わがことのように喜
職、水道行政に携わった後、岡山県南部
んでくれた。そして、上司であった故越
上水道組合の創設事業を完成させて、高
村局長に了間中を頼む」と再三懇望して
松 市 水 道 局 の 第 5次 拡 張 事 業 に 参 画 し た
いた先輩の背中を、室1
1
1路 の 夜 と と も に 忘
のは、昭和 30年 3月のことであった。
爾来、高松の水資源確保に心血を注い
できたのであるが、労務管理に疲れた彼
れ る こ と の で き な い 私 の 人 生 の 1ペ ー ジ
で、ある。
。 。 。
は、昭和 5
3年 度 に 消 防 長 へ 転 任 、 土 ホ 建
先輩の闘病生活に泣き、奥さんの好意
築 部 長 を 最 後 の 公 職 と し て 、 昭 和 58年 8
に甘えて、山田家の讃岐うどんをご馳走
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随筆
になり、再び連絡船の展望台に立ったと
き1
2時 は 過 ぎ て い た 。 雨 に 濡 れ そ ぼ る 高
松港が、ゆっくりと私の視界から小さく
遠去かっていく。かつて、水利権で泣き
節 水 に 端 い だ 高 松 は 、 昭 和 48年 の 大 渇 水
を最後に、香川用水で街は生き返った口
今、吉野川の原水で潤う高松市は、四国
第 1の都市として、 2
1世 紀 の 雄 飛 を め ざ
している。高松の人となり、高松の水を
つくり、高松で死んだ彼にとって、亡き
母の待つ尾道は、永遠に望郷の地となる
のであろうか・・・
元気だった頃の岡本開三氏(左側)と筆者
。。
であったという口
1月 2日、長男の 2人 目 の 孫 の 帰 郷 を
。
喜んだ彼は、家人とともに初詣でを楽し
いつの聞にか雨はやみ、西の雲が切れ
んだ。 1月 9日 、 再 び 病 床 生 活 に か え っ
て空は薄明るくなった。あの西の彼方に
票い
た彼は、浅;い眠りと混濁する意識に j
先輩ありとするならば、死の恐怖感も少
ながら、生命の灯の燃えつきるのをひた
しは薄らぐ。しかし、彼は「俺の分まで
すらに待つ。ときには、見積運算の注意
生 き て こ い J と叱ることだろう・・… '0
図面訂正指示などの仕事の譜言(うわご
昭 和6
0年 7月 、 私 の 局 長 昇 格 を 祝 っ て
と)で時間を過し、ときには、夢の中で
キンマ塗りの朱肉ケースを贈ってくれた。
亡母が招くのか「お母さん」と岐き、「浄
彼の温(ぬく)もりを怯えるように、机の
土の仏さんがきれいだった」と話したと
上でじっと私を見守る口奥さんは、 10年
もいう。
前の部下たちが岡本につくした厚情に泣
立春の目、風なく、暖かで、気分がよか
き「お父さんは早過ぎたけれど、悔いの
ったのか、朝スープ、昼バナナ、夕方に
ない人生を送ったんよ」と最後の言葉を
は 牛 乳 、 そ し て 2杯 の 水 を 飲 ん だ の が 末
結んだ。
期 の 水 と な っ た D 午 前 2時 頃 か ら 心 音 が
添 わ れ 、 親 友 Kさんの弔辞に送られ、今
uさん、
A さんに最後まで付 き
A
途 切 れ が ち に な り 、 午 前 3時 20分、奥さ
また後輩に追慕される彼は、死んで果実
んに看取られながら彼は逝った。死顔は
の咲く数少ない男の中のひとりであろう口
安らかで¥満ち足りており、如月(きさ
行 年6
0歳 、 岡 本 開 三 氏 の 戒 名 は 「 正 三
らぎ)の別れに相応(ふさわ)しい大往生
随応居士」である。
パッテン、今度は名古屋あたりがかなり深
水不足といえば福岡の専売特許のゴ卜ある
ッセ(ごらんなさい)、必ず運の向いてくる
ソiタイ、誰でん(でも)福岡で湖いてンナ
栄転ゲナ、ホンニ目出たい事ですたい。
博多の気質は、開けっぴろげで、明るく、
刻パイ。
U
格式や物事にあまりこだわらず、気さくで付
nhEoquohδnhyuph3ρh苫σ
勺υPA30hEnh30h30
勺
合いやすいといわれます。少し口かずが多い
この町は福多うか(福岡)とやもん。
ナi ンノ、心配の要りますもんかい。
ごと縁起のよござすけん。
んな、博多では仕事がしやすい、商売がしや
︿大将に従順なところ﹀
かな。事実、私の友人で他所から来た人はみ
間もなく終り(尾張)よ。
から水道管理者(別名・水奉行)に行ってド
小田さんナ(は)消防局長(別名・火消奉行)
※陣内局長さんに失礼。実力である事間違いなし
ですが、それでは仁O加になりまっせん。
いて、ナ lシ(何故)彼女ば作らにゃいかん
目には判らんもんね。
︿あつかましいところ﹀
ゲン(どう)しござろうか。
とナ口
あんたアゲナ(あんな)美人パ嫁さんにしと
︿楽天的なところ﹀
すいといいますね。福岡が活気ある町、発展
する町であるのには、政策でも金でもない。
市民の豊かな心、人情が肝腎と申していい過
北海道生まれの私がいうのだから間違いあ
ぎでしょうか。福岡はそういう町です。
それでは、博多気質を仁O加で二つ二一つ。
りません。
OA3ayunh苫nhER30hyuohERBR30h苫ohEoh苫
彼女もまた別品(別績)タイ。
辞り
せご
ソlタイ、家内は別嬢じゃパッテン、
この頃歌の文句に、男パ泣かす(中洲)とか、
︿正直なところ﹀
ずぎ
る
てば
H
7
G
11
チ
。
(作者は福岡市水道事業管理者)
※心意気だけは買って下さい。これがホントのオ
水・気
火・に
もや
那珂川には有名な中洲、があるとタイ。
そ
九地建の陣内局長さんナ今度河川局長に御
女パ泣かすとか歌いよるパッテン、あんた
相変わらず、ょう行きよろう。
ゾlタンのゴト(冗談。ゃない)
なんせ商売が、泣かず(中洲)飛、はず。
︿気取らんところ﹀
よ
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2号
ダクタイル鉄管
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