2015.07.19 Ⅰコリント18-31「この世の弱い者を選ばれた主」

2015/07/19
礼拝
1コリント1:18-31
「この世の弱い者を選ばれた主」
○
おいのりありがとうございます。二週間ぶりに戻って参りました。
7月4日(土)のお昼には礼拝のメッセージ原稿を作成し、食事。さらに関係する本を本
でおりましたら、段々胃が痛くなってきました。その痛さはどんどん大きくなっていきま
す。横になって痛みを引くのを我慢していましたが、今度は嘔吐が始まりました。
夜家内に練馬区役所にある救急診療所に連れて行ってもらいました。薬を処方してもら
いましたが、どうもおかしいとうことでその足で順天堂大練馬病院の救急に、先生の質問
にもまともに答えられないような状況でした。この日はベッドが満床ということで薬をも
らってもどりました。
痛みはずっと続きます。日曜日には急遽家内が礼拝のメッセージをになってくれ、皆さ
んが祈ってくださいました。
痛みのために、右に、左に体を動かし、ちょっとまどろむとまた痛みの為に目を覚まし
ていました。皆さんがお祈りしていて下さる、そのことが励ましでした。
日曜日の夜に、様子がおかしいのでまた順天堂大練馬病院の救急に。そして入院となり
ました。私はまさか入院になると思っていませんでしたから、とても不思議な気持ちでし
た。薬のためか痛みは和らいできましたが熱は下がりません。
月曜日の夕方先生がいらして、血液検査の数値が悪いので、盲腸炎の手術をしましょう。
ということで緊急手術。
生まれて初めて全身麻酔です。
皆さん全身麻酔のときには、自己呼吸ができないって知っていました?
自己呼吸ができないので、機械で呼吸をさせるそうです。
私は思いました。自分で呼吸ができない。つまりそれは死を意味する。一度私は死ぬん
だ。家族に見守られて、魂を主に委ねて手術に向かいました。
名前が呼ばれたので目を覚ましました。咳をしました。恐らくそのときに自己呼吸が戻って
来たのでしょう。
私は再び生命が与えられました。主に感謝です。
麻酔が段々切れてきますと、痛みが増してきました。
心の中で沢山の讃美歌を歌いました。またみことばを思い出していました。数えてみ
よ主の恵み。主よ、今入院できていること、感謝します。家内に感謝します。子ども達に
感謝します。教会の方々に感謝します。お医者様に感謝します。今日担当して下さる看護
師さんに感謝します。一人の人が入院すると100人の方が病院で関わって下さるって本
当ですね。今とても痛いですが、讃美歌を思い出せます。感謝します。
神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された、それは御子を信じる者が
ひとりとして滅びることなく、永遠の生命をもつためである。ヨハネ3:16
父なる神様、イエス様を遣わして下さって感謝します。イエス様の十字架を感謝します。
今痛いですが、イエス様の十字架の苦しみはこんなものでは無かったでしょう。この私の
-1-
為にありがとう。
強い痛みがくると、「主よ、もう祈れません、でも私の為に今誰かがいのっていてくださ
います。その方のお祈りをきいてください」
そう主に話しました。
長い夜でした。目を覚ましたとき、もう朝かと思いました。「看護婦さん、今何時で
すか」「11時です」長いよるでしたが、手厚い看護のもと、また皆さんのお祈りに支えら
れていました。看護師さんたちは本当によくケアーしてくださいまいました。
(Tさん、Fさん、Iさん、Sさん
ありがというございます。)
手術をしたのが月曜日の夜。火曜日の朝がやってきました。
喉と尿の管が取れ、点滴だけになりました。
ゆっくり起き上がり、歩いてみました。
歩けるとうことは素晴らしい事ですね。
廊下には院長先生などが撮った写真がポスターに貼って飾ってありました。とてもきれ
いな花、風景、心が和みました。
私の入った病室の前には
院長先生がザルツブルグで撮った写真が飾ってありました。
レストランか何かでしょか。その店のところには
ライオン、ライオンには冠と十字架
が。それを見た時にまた主に感謝しました。
聖書によるとライオンはユダ部族の象徴です。ユダ部族の中からまことの王が誕生する。
その方がイエス・キリストです。あのライオンは何を隠そう、イエス・キリストを表して
いました。
その写真の前で主に感謝しました。
皆さん病院には恐らく200を越える病室があるでしょう。病室だけではなく、診療室、
検査室、廊下にはいろいろな写真が飾ってあります。
なのになぜか私が、救急であいていた部屋に入ったのですが、その部屋に
このポスタ
ーが飾ってあったのです。偶然ですか。いいえ神さまの深い励ましの御手が先に先にあり
ました。
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旧約聖書エステル書を見て見ますと、ユダヤからバビロン捕囚となった末裔がペルシャ
にいたことが記されています。おじさんがモルデカイ、養女がエステルです。何とエステ
ルは王妃に抜擢されるのです。モルデカイはエステルにユダヤ人であることをあかすなと
言われ、決して言いませんでした。
ハマンという政治家がモルデカイを憎みます。モルデカイはユダヤ人であるとハマンは
知っていましたので、巨額のお金を使って王にユダヤ人を撲滅計画を認めさせます。モル
デカイはエステルに王様にとりなすように言います。エステルは勝手に王の所に行くこと
はできません。いった時に金の尺が向けられ、王の好意が得られれば生きられますが、そ
うでなければ王妃であっても殺されてしまいます。
エステルにモルデカイは、あなたがこの国に来たのはこの時の為であるかも知れない。
と言っています。エステルは断食をして王の前にに出るとうことが記されています。
皆さん、この時のためであるかも知れない。
私が急に体調を崩し、この順天堂大練馬病院に入院したこと、「この時のためであるか
もしれない」主よ、この時とは何でしょうか。福音を伝えることのできる方がいらっしゃ
ったらそのときを与えてください。そう祈っていました。
看護師をしてくださった1人の看護師の方が私のベッドのところに来て下さいました。
そして、自分がクリスチャンだということを話して下さいました。本当に柔和な方でした。
主はそんな出会いを与えてくださいました。
看護師の1人の方が私が牧師とうことを知って話しかけてくださったのです。
その方に御礼とともに、教会のことをハガキに書いてわたすことができました。この方
にも本当にお世話になりました。また、ある入院患者の方とお話しができました。この方
とお話しをすることができ、自分がどのようにしてクリスチャンになったのか。イエス様
がよくして下さったのかを話しました。そしてハガキにご病気が回復される事を祈る祈り
と、教会のことを書きました。また友人が入院中にくれた
アルフォンス・ディーケン
の「心を癒やす言葉の花束」を差し上げました。この方の病の癒やしの為にお祈りしてい
ます。
そして数日後に退院することが許されました。
肉体的な疲れも癒やされ、また霊的な備えを十分することができた二週間でした。
皆さんのお祈りに感謝します。
私は神学院の39期生、家内は一つ上の38期生です。
それだけでも頭があがならいのに、今回のことでは家内に全面的に支えてもらって、ま
すます、頭(あたま)が上がらくなりました。(笑い)
さて、今日の話に移っていきます。
私が大学生のときに、英文科のウィルカーソン教授の部屋にはいりました。掛け軸にこ
う書いてありました。
実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな
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稲が実を熟すほど穂が垂れ下がるように、人間も本当に学問や徳が深まるにつれ謙虚にな
り、いたずらに学問を修めている小人物ほど尊大に振る舞うものだということです。
故事になるぐらいですから、そこには戒めがあります。
伊達に学問、知識が増えるとかえって人間は高慢になってしまいやすいということです。
皆さん、私はこの故事
実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな
を読み返しながら、クリスチャンにとっては
祈るほど頭を垂れる稲穂かな
と言い換えたら良いのではないかと思うようになりました。いかがでしょうか。
祈るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな
パウロは良く祈る人でした。
月足らずでうまれたもの
使徒の中で一番小さいもの
罪人の頭
段々稲穂がたれるようにして、自分がどんなものかを知って謙遜になっています。
私たちも、主の前に祈れば祈るほど、自分の姿が分かり、謙遜になって行きます。
そう、神さまが地の塵に等しいものを愛していて下さるということが分かっていきます。
今日は、無に等しいものを選ばれた主という題で話をします。
○
コリント教会では神につながらないで、人につながっていた状況を前回お話しをしまし
た。それは会社の中の派閥のようなものです。パウロ派、キリスト派、ケパ派、アポロ派。
パウロは自分を尊敬してくれるのは良いのですが、
「先生、私はパウロ派のクリスチャン」
と言われたら本当に悲しかったと思います。
「私ではなく、イエス・キリストにつながり、
クリスチャン同志が派閥争うをするのではなく、互いに愛しあい、協力して欲しい。
主イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい」と仰
ったのです。互いに対抗心をもつのではなく、主にあって一つとなってください」そう言
ったことでしょう。
学校の先生がまだざわつく教室に入ってきたときに、学級委員が「起立、礼」といって
先生に意識を向けさせる号令をかけるように、パウロはざわつく、コリントのクリスチャ
ンに対して、まるで「起立、礼」と言ってイエス様にクリスチャンの目を向けさせていま
す。
イエス様は私たちのために十字架にかかって下さいました。
クリスチャンにとって、十字架は誇りです。神の力です。
12節を見てみましょう。
「キリストの十字架がむなしくならないために、言葉の知恵によってはならないのです。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神
の力です。」
-4-
神さまはパウロを通して、コリントのクリスチャンがどのようなところから救われたの
かを教えてくださっています。
22 節を見て見ましょう。二つの人々のことが書かれてあります。
ユダヤ人はしるしをもとめ。
不思議な事を見せてくれたら信じてやるという思い
ギリシャ人は知恵を求める
理解出来たら信じてやるという思い
パウロが語ったのは非常に単純なことです。
イエス様はあなたの罪ために十字架にかかり
三日目によみがえって下さった。この方を信じる者は救われる。さあ、罪を悔い改めて神を信
じましょう。
きわめて単純です。
18節をみてみましょう。
十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力
です。(18)
と力強く宣言しています。
皆さん、十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちに
は神の力、神の知恵です。
知者は沢山います。謙遜な人、徳に溢れる人もいます。人格者もいます。しかし、知恵
があるから、謙遜だから、徳に溢れているから、いい人だから、人格者だから、良いこと
をしたことがあるから救われるのではありません。
単純にイエス・キリストを信じる者が救われるのです。
ここで選びについて少し話します。
27節を見てみましょう
しかし神は知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはず
かしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
選びということががかかれています。
神さまの選びということはどういうことでしょうか。
神さまは聖いお方です。そして愛に溢れるお方です。
神さまが人間を造ってくださいました。しかし、人間はアダムとエバからずっと罪の性質
を受けついでいますから、神さまから離れた自分勝手な生き方をしていました。その行
き付くところは永遠の死です。
そのような私たちを救おうとして父なる神様は主イエス様をこの世に遣わして下さり、
私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。
だれでもイエス様を救い主として信じ、悔い改めるなら救われるのです。
「だれでも」です。私たちはイエス様によって誰でも救われるのです。
神様からの招待状はすべての人に届いています。
自然啓示、特別啓示・・聖書ラジオ、テレビ、本、チラシ、友人、知人、
すべての人に聖霊が働いていて下さっています。聖霊は私たちに、神さまのこと、罪
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のこと、救いの事を教えて下さいます。
神さまからの招き、言い換えるなら、すべての人に招待状が届いているのです。
その招待状をどうするかは、その人の自由意志にかかっています。応答するならば誰
でも救われる。
十字架にかかりたる、救い主を見よや、こは汝が犯したる罪のため
讃美歌191にあります。
路傍伝道のときにトランペットで演奏したり、さんびをした曲です。皆さんといっしょに
讃美してみましょうか。英里さん奏楽お願いできますか。
191十字架にかかりたる
一、十字架にかかりたる救い主を見よや
こは汝が犯したる罪のため
(折り返し)
ただ信ぜよただ信ぜよ
信ずる者は誰もみな救われん
二、死より甦りしいのちの主知らずや
罪に死せる人よいま仰げ
三、イエスは罪のために苦しめる者をば
憐みて救わんと招きたもう
四、罪より救われて限りなきいのちを
望む者はイエスにいま鎚れ
神さまはすべての人を招いていて下さいます。
中には今はこころかたくなな人もいます。心開かれている人もいます。
神さまはこの人は神の言葉に耳を傾け、帰ってくるだろう、この人は今は心頑な、自信
があって、神のことばを聞こうとしない。そのようなことを予知なさいます。
それでも、人生の最後の最後まで神さまは、御自分のところに帰ってくるように働きか
けてくださっています。
かつてはイエス様に心閉ざしていた人が、心を開いてイエス様を信じる人も興されるの
は、聖霊が働いていて下さるからです。
先日清水で伝道をしておられる、H先生とお話しをしました。H先生の出身は韓国の済州
島(チェジュド)です。私はある映画を見たことがありますと話しました。その映画は
キリスト教が韓国に入り始めたとき、伝道をしていた宣教師がいました。この宣教師を憎
んだ青年が、宣教師を襲って大きな怪我をさせてしまいます。そのために伝道集会に遅れ
てきたその宣教師は、どうして怪我をしたのかを一言も言わずに、伝道会のメッセージを
したのです。宣教師に怪我をさせた青年は最初は、ざまをみろ、と思っていたのですが、
聖霊が彼の心に働いてくださり、パウロが光の中復活の主イエスに会ったように、不思議
ですね、復活の主に会うのです。そして自分がどんなに罪人であるかをしり、宣教師の所
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に行って謝るのです。宣教師は彼を赦し祈るのです。この青年が李基豊(イキプン)という
人です。彼は韓国で最初の牧師となります。その後に済州島に行き伝道をするのです。ま
た韓国で最初の殉教者となるのです。彼の生涯の映画「死に至るまでも」を見た」とH先
生に話しましたら、「李基豊(イキプン)先生、もちろん知っているし、その映画知ってい
るよ。だって、あの映画でエキストラ出てていたんだよ。李基豊(イキプン)先生とても有
名な先生です」と話しておられました。
皆さん、今は反対していたとしても、パウロのように後で回心し、キリストの弟子とな
る方がおこされることがあります。
神さまはいつもすべての人を招いて下さっているのです。
福音の機会が与えられたら、そう「この時のためであるかもしれない」と思って、主に
祈ってみましょう。聖霊の不思議な導きで、聖霊の助けで証しをすることができます。
馬場姉も病床のお父様にお父様に福音を伝えられました。
「イエス様を信じれば天国に行けるんだよ、信じる?」と聞くと声を出すことができなかっ
たけれど、相づちをうってくださったそうです。ハレルヤ。
皆さん、神さまの招きに応じて、罪悔い改め、イエス様を信じた人は、誰でも救われま
す。
こうして神さまの所に戻った人のことを「選ばれた人」と言います。
神さまは、この人は救いに選び、この人は滅びに選んでいるということは無いのです。
すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
神さまは何と素晴らしい方でしょうか。
○
私の大好きな賛美の中に
讃美歌の中に地の塵に等しかりというものがあります。
地の塵、無数ある、地の塵、価値も無いようなも、実はそれが私たちです。その私たちを
神さまは愛して下さっているのです。
自分には知恵がある、自信がある、本当の神など要らないと思っている人には、救いと
いう神さまの賜物、プレゼントは与えられません。正確にいうと、プレゼントを受けとら
ないのです。
しかし実れる稲穂のように遜って十字架のことばイエス様の福音、私たちの罪
の為に十字架にかかって下さり、三日目によみがえって下さったまことの神様、誰でもイ
エス様を信じるなら救われるこの福音のことばを信じる者は救われます。
一方、ギリシャ人が知恵をもとめ、ユダヤ人がしるしを求めるように、十字架の言葉を
受け容れない人達もいます。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする」19節
の言葉の通り、まことの神などいらない自分は知恵がある、賢い者だと思う人を神さ
まは知恵を滅ぼし、賢さを空しくされるのです。
生涯を終えて、神の御前に行く時に、自分は知恵者です、賢い者です。と言ったとこ
ろで何の意味もありません。神は知恵を滅ぼし、賢さを空しくされます。
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神さまは自分は無に等しいと思う人こそ救って下さる方です。
この世の弱いものを選ばれたのです。27節
私たちを神さまは選んで下さったのです。
○
ゴスペルで有名な曲、アメイジンググレイスというのがあります。
この曲を作ったのが、後に英国の牧師となるジョン・ニュートンです。彼は以前、軍
艦、貿易船に乗り、その後に奴隷船の船長もしていました。
彼が幼い頃は母親から聖書の話を聞き、お祈りをすることを教えられ育ったのですが、
神から離れている生活をしていました。彼が船で大嵐に遭遇しました。波は容赦無く船に
打ちつけ、そして水が船室に入ってきました。波にさらわれる者もいました。彼らができ
ることは水を汲み出すことだけでした。そのような中でも船は沈みませんでした。ジョン
は助かったのです。ところが風が悪く、陸地に近づくことができません。船の食料の大半
は流され、わずかにあったものもそこをついていました。このまま駄目かと思っていたと
きに、急に風が変わり船は港についたのです。この二つの出来事を通して、神など無いと
思っていたジョンは神がおられることを信じるのです。彼は船を下り、教会に行きやがて
牧師になるのです。
彼はジョン・ウェスレーやホイット・フィールドとも親しく、奴隷解放を進めていたオ
リバーフォースとも親交があったそうです。
ジョン・ニュートンだけではありません。私たちも罪の中にいたものです。かつては目
が見えなかった者ですが、今は見えるものにしてくださったのです。そう、無に等しいも
のを選んでくださったのが、あなたの神です。この方を信じませんか。
クリスチャンのかたは心からの感謝とともに、全き信仰と献身をもって仕えようではあり
ませんか。
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