マスツーリズムの歴史的変遷と今後の行方 tマスツーリズムに終焉はない− 手島 廉幸流通経済大学非常勤講師並びに明海大学非常勤講師 MasstourlSm CCnSists oftwofactors,DODulariAmandmuchvolumeoftourists.kis generalrysaidthat masstourlSminJapanbegan around1960∼70.However,ithasnotappearedsuddenhr.Thereis astrongbasementItis popularizationoftourlSmWhichhad already begunhMeijlperiod.Ihave clarinedthebackgroundofthepopularizationhistoncal1y.Smce1990around,thernasstourlSmhasbeen changlnglittlebylittleinthecontentbutthetotalnumberoftouristsstiucontlnueStOincrease.Istillcallit“masstounsTTl”.LastrY,I would express rnyview that the mass tourlSmwill not be ended for ever and can beallVe keeplng balancewith the protectmn Of envmts. 1.はじめに はなく、健全な形で、先進国から発展途上 を国内、国際別に見る必要がある。以下に 1−1マスツーリズムの一般的概念 国へと世界的に波及していくべきものであ 示す図は1965年(昭和40年)以降の旅行者 マスツーリズム(Mass Tourism)とは観 る。大衆が経済力を得て観光の楽しみを得 数の変遷を国内、国際別に示したものであ 光の大衆化であり大量の観光者が発生する て量的に大きな力となってゆく、それがマ る。(下記図1.2参照)これらの図を見 現象をいう。もともと暇と資産を有する富 スツーリズムなのである。 て注意しなければならないのは図1の国内 裕階級のみが享受できた観光が,大衆の経 経済的に成熟した先進国であるわが国に 宿泊観光旅行者数の単位は100万人、図2 済力の向上、旅行の商品化の進展により大 おいてマスツーリズムにいかに変容してき の海外旅行者数の単位は、1万人でグラフ 衆に普及していった。大衆=uass=大量 たか、又、今後どのような足跡を辿ろうと の単位が大きく違う点である。国内につい という概念がこの言葉の中には含まれてい しているのかを分析しマスツーリズムと何 ては1965年ですでに5100万人という数に上 る。マスツーリズムは、先進国から生じた なのかとの結論を得たい。 っておりこれは国際観光のピークの年2000 年の1782万人よりはるかに大きい数字であ 現象である。具体的にはアメリカ、日本そ 1−2 国内観光と国際観光 して西ヨーロッパ諸国である。 る。 マスツーリズムの変遷を分析するには、 マスツーリズムが発生した時期、またそ れが進展していった時期はいつなのであろ まず、日本における旅行者数の実績の経緯 う。それは国によって異なる。わが国にお 図1.国内宿泊観光旅行者数の変遷 いては、一般的には1960年代から始まり 1964年の海外旅行自由化、さらには1970年 之】○ ・tt t∝偶人、 代のジャンボジェット機登場に象徴される 大量輸送に裏づけられた観光と見られてい和 る。アメリカ、西ヨーロッパにおいてはわ が国より10−20年早いといわれている。こl沖 こでは、我が国、日本を中心にして論を進 めてゆくことにする。 よくマスツーリズムの弊害として、大量 !¢ 化した観光に伴って引きおこされる環境破 壊、不適切な観光施設、観光の主休たる大 ○ 衆の消極的な行動などが挙げられる。しか し大衆化そのものは非難されるべきもので Wt 路雷 ∞雷 08年 −1普鞘掠責童 図2.国際旅行者数の変遷 2−1 観光に関する法整備・行政施策 日本国内観光者数統計は、1963年観光基 本法が制定され観光白書が発行された以降 は、一定基準に沿った統計が残っているが それ以前は体系的な統計が存在しない。し たがって第2次大戦前については、断片的 な情報を分析し大局的に検証する必要があ る。まず、認識しなければならないのは、 70年 間 郎難 め嘉 納霊 桝 的ヰ 叫鶴亀 第2次大戦以前、それも明治にさかのぼっ 後の成長を予測するとテロ・疫病のような て日本人の旅の意識は極めて高く、国内観 図1、図2を見てまず分かることは、国 突発的なことが起きない限り着実に増加し 光地は急速に整備されていったことである。 内観光は1965年の時点でかなりの数字に達 てゆくと考えられる。日本人海外旅行者数 明治時代に入り我が国は、脱亜入欧により していたという事実である。大阪万博の後 が2000万人を超える時も、そう遠くはある 富国強兵に努め近代化を目指した。観光の の落ち込み約5年間は、その状態で殆んど まい。マスツーリズム分析でまず念頭副こ産 分野でも西欧諸国に遅れることなく近代的 増減のない時期が続いている。これは大阪 かねばならないのは、国内と国際をそれぞ な法整備・行政施策に努めている。すなわ 万博が終わったあとの落ち込みであるが、 れ支える人数のパイは圧倒的に国内が大き ち1896年、外国人訪日観光客の誘致を目的 同時にこの頃より国際観光の進展より国際 いということである。 とした貴賓会が設立された。さらに1912年 観光にシフトした層がいたことも無視でき 観光が大衆化していく一つのプロセスと に鉄道省の傘下に、外客誘致と国際旅行斡 まい。国内観光の特徴は大きなイベントを して国内旅行から海外旅行が可能になって 旋業務を行うジャパン・ツーリストビュー きっかけに上昇し、そのあとは、増えたレ いくことをあげる論もあるがマスツーリズ ロー(日本交通公社と国際観光振興会の共 ベルがそのまま維持されるという形をとっ ムをあくまで観光の大衆化、集団化として 通の前身)が設立された。国際観光のみな ている。バブル経済ピークの1991年に2億 とらえるならば、むしろ国内観光、国際観 らず国内観光も扱うことになりその後のわ 1500万人を記録し1965年に比べ約4倍に増 光を分けて分析しその実態を論ずるほうが が国における国内観光進展に大きく寄与し 加している。その後は漸減傾向が続いてい 適切だと判断する。日本の場合、上述のご た。この1912年という年は、ヨーロッパ諸 るがこのデータは宿泊旅行者数の実績なの とくマスツーリズムは国内旅行から海外旅 国で政府観光局が相次いで設立された時期 で日帰り旅行者が含まれていない。マイカ 行への進展で捉えられがちであるが、国内 より早い時期にあり(スイス1917年、イタ ーによる日帰り旅行の増を推定すると下落 旅行はそれ以前に大衆化のプロセスを踏ん リア1919年、ドイツ1928年等)観光を重視 傾向を過大視はできないだろう。むしろ国 でいる可能性がある。日本は、島国であり した我が国の姿勢がうかがわれる。国内観 内観光の内容の変化に着目すべきである。 国内観光と国際観光は、歴史的に異なった 光は、大正時代末の1920年ごろから急増し 国内観光は1億5千万人を超える成熟した 成長過程をとっていること、あるいは、観 てくる。自然観光資源の保護にも力が入れ 市場である。国際観光のような大きな成長 光の媒介である交通を取ってみれば、国内 られ1931年(昭和6年)国立公園法が成立 率を期待することは難しい。 の交通アクセスは、自動車はあるが、島国 している。成立当初は、国内外の観光客誘 一方、国際観光については図2に示すよ 日本では自動車はなく、航空と船のみであ 致が主なるものであったが、次第に自然環 うに1964年の海外旅行自由化をきっかけに り、しかも98%は航空が担っていることな 境の保護地域としての性格を強めている。 して右肩上がりの上昇を続けてきた。1970 どを考えれば国内と国際をまず分けて分析 国立公園制定により国民の国内観光に対す 年のジャンボジェット機導入を機に急増し することが妥当と判断する。 る興味はだんだんに高まってゆき1936年 (昭和11年)には訪日外国人・日本人国内 1985年までは比較的なだらかな成長を続け てきた。1985年秋のプラザ合意以降の急激 な円高とバブル経済の影響を受け1990年に 1000万人の大台を突破した。 2.国内観光(第2次大戦前) 国内観光の歴史的変遷を見るには、観光 観光客数は、ピークに達する。第2次大戦 前にも国内観光の高まりがあったというこ の途絶えた第2次大戦を境に大戦前と大戦 とであり、特に大衆化の傾向が、その時期 その後も着実に成長を続け2000年には 後に分けて論ずるのが妥当であろう。第1 からあったことは見逃せない。上に述べた 1782万人と史上最高を記録したが、相次ぐ 次大戦においては、我が国は戦地とならな 国立公園法などは訪日外国人誘致のための テロ、SARSなどで減少に転じたが2004年か かったことより観光への影響は少なかった。 観光資源の保護育成というのが大きな目的 ら大幅な回復を見せ2005年には1740万人と 従って明治、大正、昭和第2次大戦前まで であったが、結果としては日本人大衆にと 史上2位の数字を記録した。国際観光の今 を一くくりとする。 っての国内観光の振興という側面のほうが 一12 貢献度は大きかったように見受けられる。 2−2 観光の主体 わが国の旅の歴史を振り返ってみると、 て通過儀礼の旅ともいえ、経済的ゆとりの の鉄道事業が比較的短期間にその線路網を ない大衆でもなんとか経験する貴重な旅と 全国に広げていった背景には各地域のロー もいえる。 カル線の多くを民間鉄道に任せたことがあ 社員旅行、農協等による団体旅行につい げられる。主要幹線は国鉄、ローカル線は 江戸時代から庶民の旅はすでに始まってい ても触れたい。企業がその従業員の慰労の 私鉄という棲み分けはインフラの早期整備 たことが分かる。江戸時代の伊勢参詣は、 ために温泉地等に連れて行く、あるいは、 という観点からはそれなりの効果をあげて 庶民にとって一生に一度は達成したい夢で 農業協同組合が農閑期に構成員そろって小 いる。1906年(明治39年)には鉄道国有法 あった。その経済的負担を解決するため伊 旅行に行くといった日本独特の旅行形態は、 が制定された。明治時代末期には全国津々 勢講という互助制度でその夢を実現した。 その原型は第2次大戦前からあり、このよ 浦々、鉄道を使えば何とかどこでも旅行が 御師(おし)といわれる参拝、ならびに宿 うな旅行をになう主体は大衆であり、集合 出来るという状況になった。鉄道網の整備 泊、食事等の手配をする現代の旅行業者の 体としての量もかなりのものとなっていっ に平行する形で旅館が鉄道の駅を中心に広 役割を持つ人がいた。さらに伊勢神宮では た。この団体旅行の宿泊地には、温泉地が がっていった。 しばしば大麻札が天空から落ちてくるとの 多く使われたが有名な温泉地は、どこも戦 噂から大挙して伊勢参詣を目指す「御蔭参 後は昭和30年代が活況を呈したというが、 ならないのは温泉の存在である。温泉の歴 り」という集団行動もあった。これらを見 温泉によっては第2次大戦前のほうがもっ 史を概観すると、当初療養、保養を目的と ると旅行の商品化、それに伴う大衆化、あ とにぎやかで活気があったという温泉関係 して発生し共同浴場や自炊宿を中心として るいは御蔭参りに見られる集団化が見られ 者の声もある。かように国内観光における 温泉集落が形成された。明治末期ごろから 近代におけるマスツーリズムの萌芽が見ら 大衆化は、修学旅行、新婚旅行、社員・団 は旅館がだんだん内湯化し、短期滞在の観 れるのである。 体旅行といった独特の形で始まったといえ 光客が増えるようになっていった。温泉地 明治以降、第2次大戦前までの日本人の るのである。わが国においては、旅の大衆 が観光旅行の宿泊地にする形は、日本独特 国内観光を推進したものは、修学旅行、新 化が急激に現れたのではなく、日本独特の のものでありその主役は大衆であった。観 婚旅行、企業・地縁による団体旅行である。 スタイルでかなり早い時期から始まりじわ 光を終え温泉旅館に着き、温泉につかり上 修学旅行は、1888年文教政策の一環とし りじわりとその底辺を広げてきたと考えら がって、ご馳走を食べる、浴衣姿で下駄を れる。 引っ掛け、散歩して土産物屋巡りをすると て正式に発足した。修学旅行のように全国 観光という側面から見た場合、忘れては 民を対象とした学校旅行制度は、世界に例 個人ベースの旅行の大衆化という観点か いう日本独特の旅のスタイルができ広まっ がなく日本独特のものである。17−19世紀 らは、海水浴をあげねばならない。1885年 ていった。このような形の旅のスタイルは 英国の貴族の子弟が、ヨーロッパ大陸を歴 日本で最初の海水浴場が神奈川県の大磯に 世界どこを探しても日本以外には見つから 訪する「グランドツアー」があったが旅行 開設された。大磯から始まった日本の海水 ない。それを支えたのが大衆であったとい をするのは恵まれた貴族の子弟であり、我 浴は、鉄道の発達と共に全国に広がり大衆 うことを忘れてはなるまい。日本に温泉が が国の修学旅行が貧富に関係なく全ての学 化された。日帰り客のためにはよろず張り 多いこと、それを観光の重要な一要素とし 童が旅行するという点で大きな相違がある。 の浜茶屋や海の家が、短期滞在者のために て観光地化させたことは、国内観光におけ 修学旅行は、第2次大戦中一時中断したが は旅館や民宿が活況を呈した。明治44年 るマスツーリズム進展に大きく寄与したと (1943−1946)終戦後まもなく復活し現在 (1911年)刊行された日韓旅館要録による も続いている。日本人の旅行好きは、幼い と、海水浴旅館という旅館が海水浴地で既 頃よりの修学旅行が影響しているかもしれ に営業を始めていることが分かる。海水浴 3.国内観光(第2次大戦後) ない。いずれにせよ、貧しい家庭の子供で は、コストのかからない大衆的な楽しみで 3−1国内観光の復活と急成長 も旅行の機会が与えられる、旅行の大衆化 あり、夏に限定された楽しみとはいえ大衆 は明治時代から始まっていた。 に浸透した人数的にもかなりなものと判断 より中断する。戦後の復興により大衆の生 される。 活にゆとりらしきものが生まれ、国内観光 次に新婚旅行であるが、そもそも新婚旅 行とは欧米のハネムーンから由来したもの である。幕末の偉土、坂本竜馬が新婚旅行 をした初めての日本人といわれているが、 いえる。 日本の国内観光は、不幸な第2次大戦に が復活し始めた時期を1955年(昭和30年) 2−3 大衆化を進めたもの一鉄道・旅 館・温泉 ごろと考えたい。1985年の国民生活白書に よると国民の消費支出の歴年変化を見ると 大衆の間に定着し始めたのは大正時代末か 観光の大衆化には観光インフラの整備が 1955年(昭和30年)頃から旅行関連支出が ら昭和初期であろう。関東においては当時 必須である。この点について検証してみよ 含まれる「その他の消費支出」が30%を超 の目的地は、熱海、湯河原あたりであり、 う。我が国の鉄道は、1872年(明治5年) えた。戦前のツーリズムを大衆化と大量化 新婚旅行は、修学旅行同様、日本人にとっ の新橋1新橋間の鉄道開通に始まる。日本 と両面から見た場合、量的な面よりマスツ −13− る構成は、修学旅行者と種々の団体旅行者 とも言える。1980年代、1990年代の国内観 ら急増し始めた国内観光はマスツーリズム であった。修学旅行は戦後まもなく再開さ 光は交通等インフラの整備が進み順調に成 といってよい状況となっていた。日本のマ れ順調に実績を上げていった。新婚旅行に 長していった。国際観光との競合というこ スツーリズムの起点を19弱年(昭和30年) ついては、第2次大戦後も昭和30年前半ま とがクローズアップされたのもこの時期で におくことが妥当と考える。この時期は、 では、やはり熱海あたりが新婚旅行のメッ ある。 まだマイカー時代にはなっておらず国内観 カであった。昭和30年代後半から昭和40年 光の主役は国鉄、私鉄であった。先に述べ 代前半は京都、さらには宮崎といったより たコミュニティーによる旅の存在が大きい 遠い場所に目的地が移っていった。新婚旅 が個人単位の旅も経済的に余裕のある層か 行の目的地として海外が選ばれるようにな 期低落傾向といわれる。匡=村旅行延人数、 ら段々に広まっていった。昭和30年代に国 ったのは、ジャンボジェット機が登場した 宿泊旅行回数、観光消費額、どれをとって 内観光が急成長したことは先に述べたとお 1970年(昭和45年)以降でハワイ、グアム、 も漸減傾向といえる。その主な理由として りであるが、昭和39年(1964年)の東京オ サイパンなどに日が向くようになってから は、長期的な景気低迷、国際観光へのシフ リンピック開催に伴う道路網等のインフラ である。国内も沖縄、北海道と飛行機で行 ト、海外旅行で目の肥えた顧客を取り込め が整備されたことが、それ以降の観光振興 く遠隔地が選ばれるようになった。 ない等が挙げられている。一方、国民の余 ーリズムとはいえなかったが1955年ごろか 3−4 国内観光の今後の傾向 国内旅行のここ数年の傾向をいえば、長 暇活動に関する将来の関心度を調査した結 に果たした役割が大きい。 3−3 マスツーリズムの本格的到来 果によれば、ダントツの1位が国内観光旅 1970年(昭和45年)には大阪万博が開催 行である。そのあと外食、ドライブと続き、 1955年(昭和30年)以降。国内観光は、 され国内観光は、ボリューム的に過去経験 海外旅行は4位である。(2005年度調査、レ 飛躍的に成長するがこの間の国民の経済旅 しないような実績を上げた。この時期は同 ジャー白書)そもそも国内観光市場は、す 行の伸びを検証してみよう。昭和20年代に 時にジャンボジェット機が導入され国際観 でに十分成熟した市場である。国際観光と おいても上述の通り修学旅行、新女昏旅行、 光が飛躍的に伸びた時期である。大阪万博 は遠い、パイが極めて広く、大幅な成長を 社員旅行等は、すでに復活しつつあったが、 が終了した後、しばらくの間、その反動で 期待することは難しい。よく国内観光の現 それらを含めて国内観光全般が急速な成長 国内観客数が落ち込んだため、国鉄ではデ 状を表す数字として国内宿泊観光旅行の回 を遂げたのは1955年(昭和30年)から19的 ィスカバージャパンキャンペーンをはって 数及び宿泊数が出される。2004年度実績に 年(昭和40年)である。最初の観光自書が 顧客の回復に努めた。まもなく客足は戻っ よれば、それらの数値は1人当たり1.71回、 刊行されたのは、1964年であったが、この ていったが、大衆化が進む国際観光との競 2.78泊、これらの数値はここ数年大きな変 自書からいくつかの統計を抜粋してみたい。 合という問題もでてきた。国内観光の主催 化はなく国内観光は長期低迷であるとの説 商品が大量に市場にでてきたのは、1970年 明がなされる。長期間休みが取れない、景 代以降であるが、既にこの時期においても 気の低迷などがその理由として掲げられる。 国内観光に関しては、それを支える観光者 だが、果たして国内観光の状況をそんなに の総数は大きなベースになっているが、注 単純に割り切ってしまってよいものだろう 目しなければならない点がある。それは、 か。もともと国内観光を支えるパイの大き 延べ4700万人 新幹線の誕生と、マイカーの増加である。 さを考えると単純には割り切れない。 昭和36年 東海道新幹線は、1964年(昭和39年)開通 2000年代以降の国内観光については、内 述べ1億900万人 したが、70年代に入り新幹線網は、ますま 容面の変化に注目すべきと考える。内容的 す拡大し、鉄道の高速化の拡大が急速にす に特筆すべき変化をいくつかあげてみたい。 すんだ。又、70年代中頃よりマイカーの購 ●航空のビームライン化により広域周遊型 入が庶民のものになり高速道路網が整備さ の旅行が減り一点集中、あるいは狭い地 れ、マイカーの存在は国内観光の形を変え 域を目指すピストン型のツアーが増えて るまでになってきた。このような交通革新 きた。 3−2 経済力伸張の蓑づけ 個人消費支出 昭和30年⇒昭和37年 個人消費支出 約2倍増 国鉄周遊券利用者 昭和33年⇒昭和37年 約3倍増 国立公園利用者 昭和30年 修学旅行 昭和34年小中学生の8割が 参加、実数約M万人 丞整数 昭和㍊年⇒昭和謂年 6年間で22%増 これらの数字を見ても分かるように、昭 和30年代は、国内観光が急速に成長した時 のもと国内観光客数は漸増していった。 ●企業の団体旅行が減り個人企画旅行の比 率が増えつつある。 期といえる。19開年(昭和33年)12月に東 一方、航空が国内観光において、交通手 京タワーが完成しているが、30年後半∼40 段としてそれなりのシェアを占めるように ●マイカーを利用する旅がますます増えて 年代前半は、東京タワーの見学者がバスで なったのは、1970年代からである。1970年 きた。又、航空機、JRとレンタカーを組 連日押し寄せ、まさに当時の国内観光の姿 代は、交通に関しては国鉄、航空機、マイ み合わせた企画旅行が人気になっている。 を象徴するような光景であった。その主た カー・バス等の自動車が競合し始めた時期 ●旅行目的の多様化がみられる。たとえば、 −14− 「日本の祭り」を見学する旅、「日本の 国際観光におけるマスツーリズムを考え 開設がある。JA上がグアム線を開設して以 世界遺産」を訪ねる旅、「産業遺産」を るとき、日本人の海外旅行における大きな 来、グアム訪問者数は急増した。1972年の 訪ねる旅などがもてはやされている。特 傾向を、見る必要がある。1970年より2000 JALのPOLAR経由ニューヨーク線、1975年 に「世界遺産」のネームバリューは大き 年までの大まかな傾向をまとめてみると以 のJALのシドニー線等、ナショナルキャリ い。 下が挙げられる。(拙論文:大交流時代の アが直行便を開設することによる需要創出 観光立国参照) 効果は極めて大きいことが分かる。眠って ●どこの国でも国際観光は自国近くの国々 いた潜在需要が目を覚ますのである。 ●ゆっくり、長期間、同じところでのんび りしたいという好みが見られるようにな った。 を廻る傾向が多いが日本の場合、距離は 日本のマスツーリズムは、戦後の国内観 あまり気にしない。ヨーロッパもアメリ のハノイ支店長に着任した。当時、ホーチ 光から始まったが今後そのボリュームを維 カも近隣地域と同じくらい旅行する。遠 ミン線はすでにあったがハノイはオフライ 持しつつその内容を変化させていくであろ 方でも中近東、アフリカには行く人は少 ンであった。支店長に着任してマーケット ない。 調査を行ったらこれは行けるとの判断が得 う。 手前味噌ではあるが、論者は1999年JAL ●西欧文化に対するあこがれが強い。 られ本社に直行便開設を強く求めた。しか 4.国際観光 ●インフラの整った、きれいな所を好む。 し本社は、当初ハノイが直行便を開設する 4−1 成長の概要 ●高温多湿を好まない傾向が他民族に比べ だけの目的地としての需要に疑問を持った。 国内観光のマスツーリズムは、2つの上 昇線を描いてきたが、国際観光の場合は単 強い。 論者はいろんな手段を用いて潜在需要の大 ●同じ所に、じっとしていられない。一般 きさを訴えた。本社も結局は論者の意見を 純である。すなわち1964年の海外旅行自由 的にせっかちである。 取り入れてくれ2002年7月にめでたく東京 化から徐々に観光者数は増え始め1970年の 日本人観光客の行き先は、遠方も厭わな 一ハノイ直行便開設にこぎつけることがで ジャンボジェット機導入より大量輸送時代 いとはいえ、かなり限定的である。すなわ きた。東京一ハノイ線は2003年SARSで一時 が始まった。JALパック/Lookに代表され ちハワイ、グアム、アメリカ西海岸、ニュ 苦境に立ったが、その後盛り返し、ビジネ るパッケージツアーによる海外旅行がもて ーヨーク、ロンドン、パリ、香港、シンガ ス客だけでなく観光客が急増し、今やJAL はやされるようになった。海外旅行の盛況 ポール、ソウル、シドニー、2000年以降は を支える黒字路線の一つになった。ベトナ により1970−75年には、国内旅行に影響を 北京、上海といった定番都市である。この ムを訪れる日本人は平成16年約27万人で、 及ぼし国内旅行が横ばいという状況にもな 様な定番都市にジャンボジェット機で大量 これはスペインを上回る数字となっている。 った。日本人海外旅行者数は右肩上がりに に観光客を送るというのが日本のマスツー マスツーリズムにとって航空会社の果たす 上昇を続けたがオイルショック等により リズムの姿であった。 役割が極めて大きいことを示す一例である。 4−3 航空会社の果たす役割 4−4 今後の傾向 1985年までは漸増という状況であった。 1985年以降円高とバブル経済で海外旅行需 要は爆発的に成長した。最も上昇率が高か 日本は先述したとおり島国であり。国際 国際観光の現在における傾向を見てみた ったのは1985年から2000年で2000年(平成 観光の足は航空機と船しかない。そのうち い。レジャー白書2005によれば、国民の余 17年)に過去最高の1782万人に達した。 98%が航空機を利用する。換言すれば、国 暇活動に対する潜在需要を調査したところ 1990年はじめまでは、海外旅行の流れはパ 際観光のマスツーリズムは航空機と不即不 第1位は性・年齢を問わず「海外旅行」で ッケージツアーを中心とした文字通りの大 離の関係にある。これは、その成長が航空 最も高く、第2位は「国内観光旅行」とな 量輸送による団体旅行が国際観光を支えて 会社のリーダーシップに頼る割合が大きい っている。「海外旅行」の特徴は、潜在需 きたといっても過言ではあるまい。1990年 ということを示している。上記4−2で述 要は大きいが実際の参加率は低いという点 代に入り徐々に海外旅行の個人化が進み始 べた日本人旅行者がよく行く場所はいずれ にある。観光旅行の三大要素といわれる める。航空運賃の主力運賃がGITよりⅠITに も日本からの直行便、それもジャンボ機が 「時間・お金・意識」のうち何がこの大き 変更となる。2000年以降は、テロ、SARSな 早くから飛んでいる場所である。航空会社 な潜在需要の阻害となっているのか。断言 どで上昇にブレーキがかかった。特に2003 としても決まった場所に大量に安定的に送 するのは難しいが、「意識」という点に絞 年のSARSの影響は大きい。2004年以降は 客することにより利潤を確実に確保する、 れば行きたい魅力のある場所が必ずしも用 再び上昇に転じている。マスツーリズムの これがマスツーリズムの実態であった。こ 意されていないということにも注目すべき 大きな波は、その内容を変えながらも着実 の傾向は、日本の航空会社が直行便を開設 ではないだろうか。国際観光の潜在需要は に上昇線を描いてきた。 する効果が大きいことも歴史的に証明して 大きい。先に述べた航空会社の役割もまだ いる。 まだ広げる余地は残っているといえる。こ 4−2 国際観光の傾向 たとえば、1971年のJALによるグアム線 −15− こで国際観光の顧客の希望をもう少し細か く見てみよう。(株)ツーリズム・マーケ テイング研究所が行った「海外旅行嗜好調 査2004年・2005年」によれば、海外旅行ス タイルの希望で高率を示す項目を示すと以 下のようになる。 ●1ヶ所か2ヶ所にのんびり滞在したい。 ●毎回違ったところに旅行したい。 ●できるだけ少人数で旅行したい。 ●便利なパッケージツアーをできるだけ利 用したい。 ●ブランド品より地元の人が使う日用品や ●アジア:チベット、スリランカ、モンゴ ル、ネパール 上、ロサンゼルスがあるのでそこからアメ リカの国内線でつないだほうが経済的に見 ●ヨーロッパ:クロアチア、ハンガリー、 ポーランド、ポルトガル ●中近東:アラブ首長国連邦、ヨルダン、 イスラエル 合うという判断らしい。しかし論者はこの 決定については反対である。マスツーリズ ムの観点からは、直行便の効果、日本の航 空会社が運航することの効果、潜在需要の ●アフリカ:南アフリカ、ケニア、チュニ ジア、モロッコ ●米州:ペルー、キューバ、アラスカ 日本からの航空路、直行便が無理でもス 大きさ、どれをとってもこの路線は継続す べきであったと考える。嗜好の多様化から 見てラスベガスは、これからのホープであ った。 ムーズな接続便があれば、潜在需要は目を 雑貨を買いたい。 覚ますであろう。これは、航空会社の役割 5 まとめ 上記はこれからのマスツーリズムの一つ である。定期便のみならずチャーターの役 5−1 日本のマスツーリズム も傾向を示しているともいえる。論者が特 割もますます大きくなってゆくと見る。 に注目したいのは、1回行ったら同じ所に は行きたくない、どうせ行くなら、まだ1 回も行ったことのない所に行きたいという 心理である。 4−5 デスティネーションの多様化 上記に関連しこれからの傾向で忘れては マスツーリズムは、冒頭論じたように大 衆化という側面と集団化という側面がある 4−6 噂好の多様化 日本人の今後の国際観光で大事なのは嗜 が論者は、「大衆化」に力点をおきたい。 観光の大衆化は国内観光より始まった。 好の多様化である。かつての物見遊山だけ 日本人は、「旅」の好きな民族である。 では納得しない層が増えつつあることであ 観光の基盤となる交通機関、旅館の整備、 る。物見遊山、ショッピング、美術館めぐ 観光資源の保護等は、明治時代の比較的早 り、スポーツ、リゾート休養、産業観光、 い時期よりなされた。旅館などは江戸時代 ならないのはデスティネーションの多様化 テーマパーク観光等、様々な形態が考えら の延長である。その観光主体はだんだん大 であろう。既に行ったことのあるところで れる。上に述べたとおり、日本人はじっと 衆化してゆき明治末期から大正時代にかけ はなく、未知の場所に行ってみたいという しておれない性分の人が多い。旅先ではの ては数の上でも相当な人数になっていった。 希望は、今後ますます強くなってゆくであ んびり、長くいたいとは言っても、いる間 1910年を始期とするこの時期を大衆化が進 ろう。ハワイ、香港、シンガポールといっ は何かしていたいという傾向である。リゾ んだ時期と判断したい。修学旅行が定着し、 た定番の観光地が低落傾向にある反面、ベ ート地でもオプショナルツアーやェステ。 温泉地では浴衣姿で土産物屋をそぞろ歩き トナム、トルコ、ペルーといった、これま マッサージ、とにかく好奇心を持って挑戦 する日本独特の旅のスタイルが定着した。 であまり目が向けられなかった場所がじわ するのが日本人である。バリ島などのリゾ このマスツーリズムを支えたのは大衆をベ じわと客足を伸ばしつつある。ペルーなど ート地で、一日中プールサイドで寝ている ースとするコミュニティーであった。修学 は、世界遺産のマスコミによる報道の影響 欧米人と対照的である。これからの観光地 旅行、新婚旅行、企業・団体旅行などであ もあろう。潜在需要の望むものは何か、十 は、ラスベガスのようなあらゆる旅行者の る。この上昇ラインは第1時世界大戦をは 分に調査の上対応すれば、大幅な増が見込 嗜好を飲み込むようなリゾート地が延びる さむが、1940年(昭和15年)ごろまで続く。 まれるというのが国際観光の姿だと考える。 のではないかと考える。ラスベガスは、砂 他の先進諸国と比べ特徴的なのは、1910− ただこうした増加は日本がかつて経験した 漠の真ん中に作られた人工都市で一年の殆 1940年という時期にこれほど大衆が、観光 ようなハワイ、西海岸といったジャンボ機 んどが、快晴である。(安定した天候は観 の基盤を支えてきた国はないということで クラスのボリュームではない。量的には中 光にとって極めて重要)公営賭博のみなら ある。フランス、スイスを中心に第2次大 レベルでそれが拡散する形が進むと予想す ず大ショッピングセンター、ホテルのプー 戦後、ソーシャルツーリズムが起こったが る。現在必ずしもメジャーな観光地でない ル、遊園地、各種のショーなどが楽しめる。 日本ではそれ以前にすでに旅の大衆化を経 が、価値ある観光資源を有し今後やり方次 又、グランドキャニオンなどへのオプショ 験しているのである。 第では旅行者数を伸ばす可能性のある国と ナルツアーの基地にもなっており自然景観 日本のマスツーリズムの波は、戦後復興 して下記を挙げたい。これらの国々は著名 の観光も可能である。このラスベガスに に余裕ができた1955年(昭和30年)にまず な世界遺産、あるいは、旅行者をひきつけ 1998年10月日本航空が直行便を飛ばし始め 国内観光から始まった。国際観光が大衆の る観光資源を持っており大集団とはいえな 日本人観光客がじわじわと伸びていた。し ものとなったのは国内観光から10年遅れた かし日本航空は路線の見直しで2006年9月、 1965年(昭和40年)からである。国際観光 突如この路線を休止してしまう。路線収支 の成長は1964年の海外旅行自由化から始ま いがじわじわと、旅行者数が伸びている。 (非有名地、オフザビートントラック) ー16− り70年代に本格化した。成長率は国内より リズムを前提としたものとして捉えたい。 当然のことながら大きい。その上昇ライン マスツーリズムという大河は、これからも、 は基本的には現在でも続いている。国内観 とうとうと流れ続けるであろう。最も重要 光の上昇線は高位継続という形で今後推移 な点、それは大衆化であり、大衆化は望む するであろう。又、1990年代後半より国内、 べきものであり全世界的に可能な限り多く 国際共にその内容が徐々に変わってきてい の人々が、観光の楽しみを享受してゆくこ るのは上述の通りである。 とは理想とも言える。大衆化が進めば必然 的に大量化が伴ってくる。一昔前、観光の 5−2 マスツーリズムの位置づけ 一方的な観光受入国であった韓国、中国が マスツーリズムについて検証してきた。 観光送り出し国になった。マスツーリズム 日本の旅の大衆化は先進諸国と比較しても 花盛りである。マスツーリズムに未来永劫、 引けをとらないほど早い時期に始まってい 終焉はない。 (完) た。大衆化は明治時代末期(1910年)から 始まった。集団性という面については、旅 (引用文献) のスタイルが大人数の団体という形でとる 岡本仲之「観光学入門」有斐閣アルマ べきではなく、あくまでも、トータルでの 2004年 人数の塊で見るべきというのが論者の考え 長谷政弘「観光学辞典」同文会出版 2002 である。マスツーリズムの変遷は、叙上の 年 通りであるが、1970年代より観光の大衆化、 /、ンスモーリッシュ「植物学者ハンスモー 大量化の弊害として環境破壊が唱えられる リッシュの大正ニッポン観察記」草恩社 ようになった。この批判は、大衆化そのも 2003年 のを批判するのではなく大量化した観光に 「日本国際観光学会論文集 第11号」 よって引き起こされる環境破壊に対する批 JAFIT 2004年 判であることを認識すべきである。その観 塚本丈助「日韓旅館要録 明治44年度」国 点からの新しい観光のあり方としてオー′レ 立国会図書館蔵 ターナティプ・ツーリズム(alternative 布施克彦丁昭和33年」筑摩書房 2006年 tourism)という言葉が生まれ1980年代未 日本旅行業協会「数字が語る旅行業2006」 から盛んに使われるようになった。オール 2007年 ターナティブ・ツーリズムは、観光態様に 運輸省 「昭和45年版 観光自書」 おけるマスツーリズムの対語であり、観光 「昭和50年版 観光自書」 の主体に注目すればインディビディアル・ 国土交通省「平成19年版 観光白書」 ツーリズム、時代の流れに目を向ければポ 経済企画庁「昭和60年版 国民生活白書」 ストモダン・ツーリズムが対語となる。又、 (財)社会経済性生産性本部「レジャー白 新しい旅ということでニューツーリズムと 書2006」 言葉で総称する考えもある。だがこれらの 日本航空人事部研究開発室「ツーリズム論 対語はいずれもマスツーリズムが生まれ変 I」2006年 わり新しいツーリズムが生まれるという考 えが基本にある。果たしてそうだろうか。 確かに旅のスタイルは団体中心から個人中 心に変遷しつつある。しかしトータルの観 光者数の人数の塊はむしろ増加を続けてお り廃れてはいない。論者はこれを依然とし てマスツーリズムと呼びたい。むしろマス ツーリズム、そのものが変容してきたと見 たいのである。インディビヅアルツーリズ ム、ポストモダンツーリズム等はマスツー −17−
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