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〔研究ノート〕
弘前大学経済研究 第 38 号 110-121 頁
2015年12月25日
ハイダーとメルツァー
─ ポピュリスト・リーダーと極右思想家─
村 松 惠 二
目 次
Ⅰ はじめに
Ⅱ 右翼的ポピュリズムと極右
Ⅲ アンドレアス・メルツァー
Ⅳ メルツァーのハイダー評価
Ⅴ ケルンテン州でのハイダーの強さ
Ⅵ むすび
張したことをジャーナリズムから批判されてい
Ⅰ はじめに
たのである。
じつは,メルツァーという政治家・思想家は,
2014年 4 月 8 日,オーストリア自由党(FPÖ,
イェルク・ハイダー指導下の自由党においても,
以下,自由党)の現職欧州議会議員であるアン
同様な理由で党指導部から外されたことがあ
ドレアス・メルツァーが,最終的に欧州議会選
る。1993年秋に,メルツァーは党員教育機関の
挙(同年 5 月25日投票)の立候補を辞退した。
指導者の地位から降格させられ,連邦参議院の
それ以前から,メルツァーは自由党党首H・C・
議員職も奪われた。1994年には,国民議会選挙
シュトラッヘから立候補辞退を要求されてい
の候補者リストからも外された。当時ハイダー
た。シュトラッヘは,メルツァーの発言は,決
は,選挙でのいっそうの躍進のために,極右と
して支持できず,彼を欧州議会議員のような重
のつながりが指摘されているメルツァーを指導
要な地位の候補者とすることはできない,と述
部から排除し,「極右」色を薄めようとしたの
べた。自由党は,ナチスや人種主義とは無関係
である。
であり,オーストリア愛国主義の政治勢力であ
つまり,メルツァーは自由党の重職に就きな
る,
というのがその理由であった 。メルツァー
がら,二度にわたり,党指導部から排除された
は,EU を「ニグロの寄せ集め」と呼び,EU
ことがあるのである。いずれも,自由党が,従
をその独裁性において第三帝国に匹敵すると主
来の枠を超えて,さらに一段階勢力を拡大しよ
1)
うとする局面であった。メルツァーの思想的一
1 )“der Standard”, 2014年 4 月 8 日付。メルツァーの動
向については,本人のホームページや各種新聞,雑誌など
の記事をもとにまとめている。
貫性が,自由党の党勢拡大に邪魔になっている
と判断されたためであった。つまり,ハイダー
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- -
ハイダーとメルツァー
もシュトラッヘもともに,メルツァーを切り捨
「人間の社会的平等を拡大する過程」が進行し
てることによって,いわゆる「極右」色を薄め,
ているという理解を基礎として,その過程を促
選挙での勝利を実現しようとしたのである。
進しようとするベクトルを左翼(=左派あるい
メルツァーは,オーストリア自由党内部の「右
は革新系),その過程を阻害しようとするベク
派」グループの中心的思想家であった。彼は,
トルを右翼(=右派あるいは保守系)と考える。
ジャーナリズムから再三ヨーロッパの極右集団
次いで,民主政(自由主義的民主主義)の法的
とのつながりを非難されながらも,自己のイデ
枠組みを前提にした上で,政治活動のあり方を
オロギーに忠実に振る舞ってきたのである。本
中道(middle, Mitte 穏健,漸進的)と急進(radi-
稿では,メルツァーを自由党内極右思想家の典
cal, radikal 根源的)に分類する。中道と急進を
型として,オーストリア自由党を弱小政党から
分ける指標は,政策内容の方向性,すなわち左
中規模政党へと躍進させてきたイェルク・ハイ
翼的あるいは右翼的ベクトルについて,妥協・
ダーをポピュリスト・リーダーの典型として,
慎重な実践・調停などの準備(ボッビオのいう
両者の関係を浮き彫りにしたい。
商人的美徳)ができているか,あるいは,左翼
1980年代中葉以降,ヨーロッパで急速に勢力
的あるいは右翼的ベクトルを徹底的に追求しよ
を伸張させてきた「新しい右翼運動」は,一方
うとするのかを基準にしている。ただし,中道
では,
「極右」と位置づけられ,ナチズム・ファ
勢力の場合には,むしろ,ヨーロッパの,保守
シズムへの道を開くものとして非難されてき
系(キリスト教民主主義的)諸政党と社会民主
た。他方では,ポピュリズムという性格を重視
主義系諸政党とが,強力なモデルとして先行し
されて,
「右翼的ポピュリズム」あるいは「ナショ
ている。
ナル・ポピュリズム」という呼称を与えられて
このように,二つの軸を設定すれば,政治空
きた。この二つの定義をどのような関係の中に
間を四つに区分できる。具体的には,政治勢
おいて理解するべきなのか。本稿は,右翼的ポ
力・運動を以下の四つのカテゴリー,すなわ
ピュリズムと極右との関係を理解するための一
ち,①急進右翼(右派) ②中道右翼(右派) 試論である。直接の検討対象は,オーストリア
③中道左翼(左派) ④急進左翼(左派),に分
自由党での諸現象であるが,つねにヨーロッパ
けることができることになる。
における類似現象を意識しつつ論じている。
本稿で問題になる「ポピュリズム」という概
念は,大衆動員(選挙での勝利)のための政治
Ⅱ 右翼的ポピュリズムと極右
スタイル(政治戦略・政治手法)を表現する概
念であり,急進的な政策の遂行を求める場合は,
すでに拙稿「『極右』概念の再検討」において,
多くの勢力・運動がポピュリズムという性格を
政治勢力の分類をもとに極右の位置づけを試み
持つことになる。それぞれ,右翼的ポピュリズ
たが,それを手がかりに,右翼的ポピュリズム
ムと左翼的ポピュリズムが存在するが,その政
と極右の関係をさらに精緻なものにしてみよ
策内容は急進的なので,それぞれ,急進的右翼
2)
う 。
は右翼的ポピュリズムと,急進的左翼は左翼的
まず,左翼・右翼という軸を設定して,政治
ポピュリズムとほぼ同義になる 3 )。
行動全体を大きく二分する。歴史的傾向として,
2 )拙稿「
『極右』概念の再検討」青森法学会『青森法
政論叢』第11号,2010年。
3 )拙稿「『右翼的ポピュリズム』概念をめぐって」弘
前大学人文学部『人文社会論叢』第27号,
2012年。現在では,
ここでの定義を若干変更して,
「大衆民主政とマス・メディ
アの発達という条件のもとで,左右を問わず,現状否定の
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- -
最後に,政治行動が,民主政の法的枠組みを
ものと考えている。これらの勢力は,
そのポピュ
超える場合,その運動・勢力を「過激」extreme,
リズムとしての性格が強調されれば,「左翼的
extrem と形容する。これは非合法の活動にな
ポピュリズム政党」という名称を与えられる。
り,暴力を伴うことが多い。過激な勢力として,
次いで,右翼勢力について見てみると,中道
以下の二つのカテゴリー,すなわち,⑤過激な
的右翼,あるいは穏健な右翼に当てはまる諸勢
右翼(Rechtsextremismus 極右)と⑥過激な左
力としては,保守系(キリスト教民主主義)諸
翼(Linksextremismus 極左)
,を設定する。と
政党(オーストリア国民党)を考えている。ま
りわけ,ドイツ,オーストリアにおいてはナチ
た,右翼的ポピュリズム諸政党,および極右
禁止法が存在するために,ナチ擁護の言動は,
は,すでに述べたように,政治分類としては,
極右(Rechtsextremismus)と認定され,非合
急進的右翼に属することになる。本稿が直接の
法活動になる。現実政治に影響を与える政治勢
検討対象とするオーストリア自由党は,一方で
力にはなりにくい。
は,中道的右翼であるオーストリア国民党との
この二つの過激な勢力を本稿では,それぞれ,
連立による「新しい統治」の是非が議論され
急進的左翼と急進的右翼の一部として位置づけ
る。他方では,極右(ネオナチ諸集団)との関
る。民主政の法的枠組みを重視して,急進的右
わりを問題とされ,非難されることがしばしば
翼,急進的左翼とはまったく別の政治勢力・運
である。したがって,中道的右翼と右翼的ポ
動として論じることも可能ではある。しかし,
ピュリズムの間,また,右翼的ポピュリズムと
現実には,右翼的ポピュリズムは,政治ジャー
極右の間には,いわゆるグレーゾーンが存在
ナリズムから「極右」との関わりが繰り返し問
し,相互浸透現象も十分考慮に入れておかなけ
題にされている。やはり両者の類似性を重視す
ればならない。したがって,中道的右翼と右翼
ることが必要であろう。ここでは,「極右」を
的ポピュリズムと極右,この三者の相互関係も
急進的右翼の逸脱的現象としてとらえておこ
考察されるべき問題になるのである。
う。逸脱現象となるのは,民主政の法的枠組み
が政治ゲームの土俵として定着しているからに
右翼的ポピュリズムのイデオロギー
他ならない。いずれにせよ,両者の関係を正確
に論じることが必要になるのである。
右翼的ポピュリズムのイデオロギーは,振幅
が大きく,変幻自在で,そのイデオロギーの内
結論的に,現存する諸政党諸運動と関連させ
容を確定するのは簡単ではない。すでに論じた
つつ,まず左翼勢力について見てみると,中道
ように 4 ),右翼的ポピュリズムは三つの概念
左翼,あるいは穏健な左翼としては,社会民主
(「人民」と「ネイション」と「自由競争」)を
主義系諸政党,オーストリアの場合オーストリ
政治的シンボル(空虚なシニフィアン)として,
ア社会民主党,を念頭においている。急進的左
イデオロギー闘争を展開する。すなわち,①既
翼としては,共産党,左翼党などが考えられる。
存の支配層(とりわけ諸分野のエリート階層)
緑の党やさまざまな市民運動(オーストリアの
に敵対し,人民(庶民)の利益を尊重すること,
場合,緑の党,あるいは隣人 SOS などの市民
また,②外国人に対して自国民優位を徹底せよ
運動)は,国ごとの実情に大きな違いが見られ
と要求するナショナリズムであること,さらに,
るが,大きな分類としては急進的左翼に属する
③自由競争・自己責任論を核として,戦後福祉
大衆運動(抗議政党)がほぼ例外なく採用する政治スタイ
ル」として,ポピュリズムを定義している。
4 )拙稿「右翼的ポピュリズムのイデオロギー的特徴」,
弘前大学人文学部『人文社会論叢』第30号,2013年
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- -
ハイダーとメルツァー
国家のあり方(オーストリアの場合,いわゆる
以下,極右の思想的要素を理念型的に確認して
合意民主政)に対する理論的批判である。これ
おこう 5 )。
らが核心的イデオロギー要素として一貫してい
極右政治思想の核心は,国家(ネイション)
るが,それ以外の点では,いわば臨機応変でカ
間の闘争状態を前提にして,自民族(ネイショ
メレオン的である。
ン)の価値的優位とその自由の実現を主張する
それは,右翼的ポピュリズムが,選挙に勝利
ナショナリズムである。国家は自民族の独立と
し政権獲得をめざすならば,一方では中道的右
発展のための手段として最も重要なものであ
翼との接触を深めなければならず,他方では極
り,闘争状態を勝ち抜くために,国家が強力な
右的勢力を取り込むことも必要になるからであ
武力を備えた闘争集団(戦闘集団)になること
る。そのために,主張と行動に振幅が大きくな
を要求する。闘争状態を勝ち抜くことが,民族
る。すでに述べた,メルツァーを欧州議会選挙
の自由の実現である。極右政治思想でいわれる
の候補者から外すというオーストリア自由党の
自由とは,端的にこの自民族の自由である。極
措置は,一種の選挙対策として,極右勢力から
右政治思想は,その自由の実現のために必要な,
距離を取ろうとしていることに発している。
「極
めざすべき国家と社会のトータルなイメージを
右」であるという非難をかわし,いわば「信頼
もち,それなりに体系的なものになっている。
できる右翼政党」としてのイメージアップを図
単に権力を掌握することが課題ではない。
その特徴を列挙すると,
るための措置である。自由党も,EU の存在と
その共通の価値,とりわけ反人種主義と反ナチ
①人種主義である。民族(人種)間の差異を強
ズムとが EU 全体に浸透していることを考慮せ
調する,人種差別,外国人嫌悪,移民排斥を主
ざるをえなくなっているのである。EU が一種
張する。人種的混交を忌避する。
の価値共同体になっていることを裏書きしてい
②権威主義的社会構造を要求する。政治的意志
ることにもなる。
決定は上意下達となり,指導者原理が貫かれる。
論理的帰結として,自由主義・民主主義が否定
極右政治思想の核心的要素
される。
このように機会主義的で変幻自在の右翼的ポ
③男女間の差異を強調する。男女の役割分担
ピュリズム・イデオロギーを理解するために
(極端な場合には男尊女卑)を主張する。同性
は,少数派集団として,むしろ思想的政策的一
愛を拒否する。
貫性を示すことが多い極右的勢力の思想要素を
④暴力による決着を容認し,その具体的形態と
確認し,つねにそれと比較しながら理解してい
して軍隊を重視する。武人的行動様式の賛美に
くことが近道である。それは,右翼的ポピュリ
至ることもある。
ズムが,社会像・国家像としてそれなりの一貫
⑤反左翼の立場を貫く。左翼運動(社会主義運
性をもった思想として存在するこの極右的思想
動,労働運動,市民運動)に敵対する。とりわ
から,要素を〈選択的に借用する〉場合が多い
け敵対するのは,多文化主義の主張である。
からである。すでに述べたメルツァーは,有能
⑥ファシズム体制を容認する,あるいは,その
なジャーナリストとして能力を買われ,ハイ
罪の軽減を主張する(歴史修正主義)。これら
ダーによって,オーストリア自由党の教育組織
の体制が,めざすべき国家と社会を実現しよう
の責任者に任命され,党員の思想教育を担当し
とした体制であると理解しているからである。
ていたのである。右翼的ポピュリズムは,こう
した「党内右派」集団を抱えていることが多い。
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5 )前掲拙稿「『極右』概念の再検討」を参照せよ。
これらの思想要素は,自由主義的民主主義の
なったのである。
体制と思想がほぼ確立している諸国(民主政諸
つまり,メルツァーは,ハイダーの党首就任
国)では,とりわけヨーロッパでは,反ナチズム
によって,ハイダーに支えられつつ党内での出
が共通の価値として定着しているために,体系
世の階段を昇ってきたのである。党指導部から
的に展開するのがきわめて困難である。また,
排除された後も,除名されたわけではなく,あ
ポピュリズム政党は,いわゆる「イデオロギー
くまでも選挙戦術上の措置であった。実際,
政党(世界観政党)」ではなく,その行動には,
1999年から2002年まで,ハイダー州知事の下で,
プラグマティズムあるいはマキアヴェリズムの
ケルンテン州文化担当責任者になっているから
要素がつきまとう。政権獲得と維持とが目的で
である。
あり,思想やイデオロギーを体系的に展開する
1995年には,メルツァーは『アウラ』編集部
必要もない。選挙での勝利のために,臨機応変
を引退し,ドイツの憲法擁護庁から,極右と認
にイデオロギーを展開する。ポピュリズムを形
定された週刊紙『若い自由 Junge Freiheit』の
容するために,ジャーナリズムで「カメレオン」
オーストリア版の編集長になった。また,1997
という言葉が多用されるのもここから来ている
年から,週刊紙『現在 Zur Zeit』の主筆となり,
のである。
その後,彼の論考の多くはこの週刊紙に掲載さ
れた。この週刊紙は,上述の『若い自由』をモ
Ⅲ アンドレアス・メルツァー
デルとして創刊され,メルツァーと自由党政治
家ヒルマール・カバスによって編集されている。
2004年 6 月には,欧州議会選挙で当選し,そ
ここで,極右政治思想家の一人として,メル
ツァーについてさらに検討しよう。
の後2014年に至るまで,自由党の欧州議会議員
彼は,1952年シュタイアーマルク州レオーベ
として活動した。欧州議会では,メルツァーは,
ン生まれ。1973年から,グラーツ大学で,はじ
欧州議会に右翼的会派を結成し,ヨーロッパ右
めは法学を,次いで歴史と民俗学を学んだ。
翼を統一することが自分の主たる目的だと,し
1980年に大学を去り,本人の申告ではジャーナ
ばしば語っていた。欧州議会に代表を送る各国
リストとして活動した。
の新しい右翼運動の欧州議員たちを糾合して,
1983年から1990年まで,月刊誌『アウラ Aula』
いわば,「国際的右翼的ポピュリズム運動」を
の編集部員となった。この雑誌は,党内の学卒
形成しようとしたのである。一時的には,メル
者たちを主たる対象とする月刊誌である。いわ
ツァーの主導によって欧州議会会派「アイデン
ば党内右派の雑誌といってよいだろう。メル
ティティ・伝統・主権」が結成された。しかし,
ツァーは,同時に,1984年から1990年末まで,
各国の運動も,ナショナリズムを基礎としてい
ハイダーの後継者として自由党週刊紙,『ケル
るために,国際的統一の維持は容易ではなく,
ンテン・ニュース』の編集長を務めた。
結成後,短期間のうちにこの会派は崩壊した。
1989年には,ケルンテン州議会議員になり,
また,2005年には,メルツァーは,アウシュ
1991年 6 月,ケルンテン州選出の連邦参議院議
ヴィッツ解放60周年に欧州議会が可決した,反
員になった。1991年には,ハイダーの要請で,
ユダヤ主義と外国人敵視に反対する議決に賛成
自由党連邦指導部の「基本原則担当者」に任命
することを拒否した。
され,同時に,党の歴史的・イデオロギー的文
2005年 3 月16日,雑誌『現在 ZurZeit』にお
書のまとめ役になった。1992年秋には,
ハイダー
いて党指導部批判を絶え間なくくり返したこと
の要請によって,自由党の教育機関の責任者に
を理由に,メルツァーは自由党を除名された。
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ハイダーとメルツァー
それに対して,自由党右派グループが反乱を起
こし,これがきっかけとなって, 4 月に「オー
Ⅳ メルツァーのハイダー評
ストリア未来同盟」(BZÖ,以下,未来同盟)
が分離することになったのである。メルツァー
メルツァーは,ハイダーの突然の事故死から
は,未来同盟の分離に際しては,主たる働きか
ほどなく刊行された追悼記念集『イェルク・ハ
けの一人だったが,ハイダーの死後は,両党の
イダー 人物・神話・メディアスター』におい
再統合を要求した。
て,死者に悪口は言わないという礼儀をあえて
こうした活動の中で,メルツァーは,センセー
破って,ハイダーについて語っている 6 )。イン
シ ョ ナ ル な 発 言 と 行 動 を く り 返 し た。 メ ル
タビューであるために,不明確なところもある
ツァーは,ヨーロッパの,ネオ・ファシスト的
が,自由党内における,極右思想家のポピュリ
諸政党を含む急進的右翼の会合をしばしば開催
スト・リーダー評として,ここでその内容を検
し,またその種の会合の常連報告者であった。
討したい。
2008年のサッカー・ヨーロッパ選手権の際には,
メルツァーにとって,ハイダーという人物は,
メルツァーは,ドイツ国旗を自宅の前に掲げ,
相互に利用し合う関係だった。自由党は,設立
自分は文化的ドイツ人だと述べて,これを正当
当初から二つの傾向すなわちナショナルな傾向
化した。2009年には,EU には,どんな独裁よ
とリベラルな傾向との妥協の産物であった。ナ
りも多くの規程があり,スターリンのロシアで
ショナルな傾向を代表するメルツァーは,1970
も,ナチスにおいても,EU ほど多くの規程は
年代から1980年代前半に党を支配したリベラル
存在しなかった,と発言した。EU を第三帝国
派から自由党を取り戻すためにハイダーが必要
と比較したということで非難を浴びた。ちなみ
であった。他方,ハイダーは,自由党を支配し,
に,2010年 8 月には,東京で開催された愛国主
それを基盤にオーストリアの政権を掌握するた
義運動国際会議(一水会主催,正式には「世界
めに党内右派を必要としたのである。
メルツァーは,ハイダーのポピュリスト・リー
平和をもたらす愛国者の集い」)に参加し,靖
ダーとしての能力を高く評価する。メルツァー
国神社に参拝した。
2013年 5 月末,パリでの同性結婚に反対する
によれば,ハイダーの行動範囲はケルンテン州
デモに,
「国民戦線」のマリー・ル・ペンなど
とオーストリアという狭いもので,ローマ時代
とともに参加した。同年末,ロシアでは同性愛
のカティリナのような政治的冒険家ではある
者同士の結婚が,西欧諸国とは異なり,若者を
が,それほどの暴発力も危険性もなかった。彼
守るために禁止されている,と好意的に紹介し
の推測では,ハイダーの「鬼火のような動揺の
た。2014年,あるパネルディスカッションで,
激しいメフィスト的な側面」が彼の政治行動の
メルツァーは,あらためて,EU を第三帝国と
効果を高めることになったのである。ハイダー
比較し,その独裁性を非難した。そして EU は
自身はむしろ臆病な人間で,一歩踏み出すよう
「ニグロの寄せ集めだ」と表現し,物議を醸し
彼をしばしば説得しなければならなかったとい
たのである。
このように略歴を瞥見するだけで,メルツァー
が,ネオ・ナチとの接触という非難を恐れず,
自己のイデオロギーに忠実であり続けているこ
とがわかる。
6 )Georg Lux u.a. (Hg.), Jörg Haider. Mensch, Mzthos,
Medienstar, 2008, 62ff.
ハイダーは,2008年10月11日深夜,突然交通事故で亡く
なった。自ら公用車を運転中の事故であった。検察庁によ
れば,時速142キロという高速で,相当量のアルコール摂
取の状態(1,8パーミル,酩酊状態)で運転していたという
(Ebenda, S.201)。以下,この文献からの引用は本文中に頁
数のみ示す。
115
- -
う(62)
。
のが自由党の閣僚たちに力を与え,彼らがハイ
メルツァーは,ハイダーが党首になって以降
ダーから解放されるようになったことである。
の自由党は,別の党に,すなわち右翼的ポピュ
その結果,ハイダーが電話をすると,リースパッ
リズムの政党になったと理解している。以前の
サーの事務所の責任者から追い払われるという
自由党は,「ナショナルでリベラルな名望家政
事態が生じたのである(64)。
党」であったが,右翼的ポピュリズム政党への
その後,ハイダーは,税制改革(減税)と迎
転換によって,社会政策的施策が大衆からせが
撃戦闘機の問題を手段として,党内の主導権を
まれることになった。ハイダーは,さらに,自
ふたたび手中にしようとした。その結果が,ク
由党をいわゆる「ヤッピー」集団(上昇志向の
ニッテルフェルトでの代議員大会であり,リー
強い都会の高学歴の若者)を獲得目標とするブ
スパッサー副首相,グラッサー財務相,ヴェス
ルジョア勢力に変えようとしたのである(63)。
テンターラー議員団長などの辞任であった
ひと言でいえば,ハイダーは,あらゆる領域
(64)。自由党は混乱し,これを首相シュッセル
ですべてを約束することによって,選挙での得
に利用されて,国民議会選挙となり,国民党の
票を最大化しようとしたのである。これが,既
大勝,自由党の大敗という結果になった。この
存システムに対する原理的な反対姿勢と相まっ
結果,政党としては破滅したが,ハイダーは,
て,大きな成功を収めた。しかし,その過程で,
三つの大臣ポスト(法務相,社会問題相,交通相)
ハイダーは,はっきりと党内右派(メルツァー
と三つの次官ポストを手に入れた。メルツァー
自身の言葉では「第三陣営」)を周辺に追いやっ
によれば,彼はどんなことをしても政権にとど
た。メルツァーによれば,ハイダーにとって,
まることを欲した,名誉と尊敬という魔法にと
党内右派は,選挙での勝利をめざすハイダーの
りつかれていたのである(64)。
邪魔をする存在になり,重荷になってきたので
オーストリア未来同盟は,ハイダー周辺の党
ある。その理由を,メルツァーは,自分自身を
員(主に閣僚と議員たち)によって,2005年 4 月
含むこの集団が,自己のイデオロギーに忠実で,
結成された。この党は,経済的自由主義の近代
妥協を受け入れない姿勢が堅固であったからだ
的政党になろうとしたが,その後,再び反外国
と述べている(63)。
人を主要テーマにした(71)。2008年国民議会
メルツァーは,オーストリア独特のシステム,
選挙では,一定の成功を収めた(得票率10.7%)
つまりオーストリアの合意民主政を破壊したこ
が,それは,以前の選挙戦略,すなわち,反外
とをハイダーの最大の功績とする。ハイダーが
国人と貧者救済,に戻ったからだ(71)。
巧妙に国民党との連立を可能にし,まったく新
インタビューの最後に,ハイダーとメディア
しい政治を可能にした。合意政治ではなく,
「中
の関係を問われて,メルツァーは,彼のメディ
道右派ブロックと中道左派ブロックが対決する
ア利用の能力を高く評価した。ハイダーは,き
対立政治」
(63)になったという。
わめて巧みに楽器を演奏した。この点では他の
しかし,ハイダーは,連立政治の内容を自分
誰をも凌駕していた。とりわけテレビが中心に
が決定することができ,しかも,拘束を受けな
なった選挙で,彼はテレビ討論で優位に立った。
い状態を欲していた。そのために,リースパッ
卓越した扇動能力を示したのだ,と(72)。
サーやグラッサーなど,自分の取り巻き連中を
このようにまとめてみると,メルツァーが,
政権に送り込んだ。たとえば副首相リースパッ
きわめて有能なポピュリスト・リーダーとして
サーはハイダーの秘書のようなものだった。し
ハイダーを位置づけていたことがわかる。メル
かし,ハイダーの誤算だったのは,職務そのも
ツァーにとって,ハイダーは,自分の所属する
116
- -
ハイダーとメルツァー
右派陣営に属する政治家ではなく,気まぐれで,
する要素についての精神分析からの説明に言及
うぬぼれが強く,本来は臆病な,しかし,演出
していたが,ここでは,ケルンテン現象を精神
の上手な,論争にたけた,大衆感覚の鋭い,ポ
分析の立場から考察し批判し続けているクラウ
ピュリスト・リーダーだったのである。メル
ス・オットマイアーのハイダー論 8 )を参考にし
ツァーは,自由党を党内右派が支配する中規模
ながら検討しよう。
政党に発展させるためにハイダーを必要とし
た。メルツァーにとっては,ハイダーは高い地
ハイダーの多くの役柄
位と名誉を求める出世主義者であり,自分の親
まず,指摘するべきは,ポピュリスト・ハイ
世代のナチ党員を擁護するために,親ナチズム
ダーの多面性である。ポピュリズムは,依拠し
的発言をくり返しはしたが,思想とイデオロ
ようとする「人民」の多様な集団から支持をう
ギーに忠実な政治家ではなかったのである。
るために,多様な集団のすべてに,その利益を
実現することを約束する。ハイダーは,知的な
Ⅴ ケルンテン州でのハイダーの強さ
階層からはひんしゅくを買いながらも,じつに
多面的に,さまざまな顔を見せ,それぞれの役
自由党の凋落が始まった以降も,じつはハイ
ダーは,自ら州知事を務めるケルンテン州にお
いては自由党の勢力を維持し続けた。ケルンテ
を上手に演じきった。テレビを巧みに利用しな
がら,オーストリア全土で『ハイダー・ショー』
(オットマイアー)を展開したのである。
ン州は,人口55万強の小さな州であるが,2002
オットマイアーによれば,ハイダーが最初に
年の国民議会選挙において,連邦規模では自由
利用した人物像は,民衆のために闘った義賊
党が得票率を激減(26.9% から10.0へ)させたと
「ロビンフッド」であった(25ff.)。ポピュリズ
きにも,ケルンテン州では,前回比マイナス
ムの基本戦略は,エリートと庶民との対立を強
15% ではあったが,23.6%の得票率を維持した。
調することであるが,ハイダーは,好んでロビ
その後,ハイダーの死の直前におこなわれた
ンフッドの仮装でカーニバルに現われ,庶民の
2008年の国民議会選挙では,新党「未来同盟」
立場に立つ闘士であることをアピールする。
として,38.5% を獲得した。また,ケルンテン
オーストリアの既存の政治的支配層(社会民主
州議会選挙では,2004年の選挙でも,前回比プ
党と国民党の政治家たち)への不満を組織する
ラス0.3% の,42.4%を獲得し,1999年以降その
うえで,ロビンフッドは,戯画的ではあるが,
死まで,ハイダーは州知事職をつとめ続けた。
単純に庶民の利益の擁護を象徴する動員力の強
また,2009年の州議会選挙では,未来同盟が,
い人物像であった。1991年に公開されたアメリ
ハイダーの遺産の継承を訴えて,44.9%の得票
カ映画「ロビンフッド」の人気もこの戦術を効
率をえたのである。いずれにせよ,ケルンテン
果的にする要因であったろう。
州におけるハイダーの人気は尋常のものではな
く,
「ケルンテン現象」といわれるほどのもの
だったのである。
ハイダーはなぜケルンテン州で圧倒的支持を
得たのか。すでに,拙稿「ポピュリズム・イデ
オロギーの動員力」7 )において,動員力を構成
7 )拙稿「ポピュリズム・イデオロギーの動員力」弘
前大学人文学部『人文社会論叢』第31号,2014年。
8 )Klaus Ottomeyer, Jörg Haider. Mythos und Erbe,
2010. 以 下, 本 書 か ら の 引 用 は 本 文 中 に 頁 数 を 示 す。
Ders., Die Haide-Show. Zur Psychopolitik der FPÖ, 2000.
Harald Goldmann, Hannes Krall, Klaus Ottomeyer, Jörg
Haider und Sein Publikum. Eine Sozialpsychologische
Untersuchung, 1992. K・オットマイアーは,自らクラー
ゲンフルト大学教授として,ケルンテン州の政治を観察し
ながら,心理セラピストとして実践活動も行なっている精
神分析家である。
117
- -
ハイダーが成功した第二の人物像は,「マッ
のための,大きなサイコドラマの舞台に変えた
チョなスポーツマン」である(29ff.)
。バンジー・
のだと主張する(36)。その後,EU14ヶ国によ
ジャンプに挑戦し,マラソン大会で優秀な成績
るオーストリア制裁の影響もあって,あからさ
を収め,男らしい強いリーダー(けんか強い
まなナチ正当化は減少したが,時折,抑圧され
リーダー)としてイメージアップを図った。ハ
ているものが表面化する。一般に,オーストリ
イダーの銃のコレクションは,強さを象徴する
アでは,ナチ問題が家族の問題にされ,自由党
物理的武器として,庶民の心理に深い印象を与
以外の政党においても,ナチ関係者が排除され
えただろう。ハイダー信奉者にとっては自分を
あるいは非難されたことはほとんどなかった。
守ってくれる強い守護者として映ったのである。
その最大の事例がかつての国連事務総長ワルト
第三の人物像は,「露天ビアホールの社会主
ハイムだったのである。
義者」である。ハイダーは,あらゆるお祭りご
とに顔を出し,テントの中の仮設ビアホールで
トラウマ治療者ハイダー
ビールをともにし,人々と握手し,肩を組んで
さて,オットマイアーは,とくにケルンテン
一緒にカメラに収まった(33ff.)。しかし,人々
州を取り上げ,そこでのハイダーの男性として
は同時に,ハイダーが敵対者を失脚させ,笑い
の役割を強調する(45ff.)。ケルンテン州は,ハ
ものにする怖い側面もあわせ持つことを知って
イダー支持がとりわけ強く,ハイダー死後も彼
いた。実際,ハイダーは,党内の政敵を次々と
に対する崇敬の念が消えていない。そこでハイ
排除していった。しかし,人々は,ハイダーに
ダーは,頼りになるよき父親として,よき息子
屈服させられたとは意識しない。ハイダーとの
あるいは娘婿として州民に相対し,政治的には
出会いでの屈服という側面は,無意識下に抑圧
州父の役割をはたしていたというのである。た
される。というのも,それは,自由で誇り高い
しかに,ハイダーは,勤勉で有能な行政府の長
人間という人々の自己像とうまく折り合わない
であった。州民の心理においては,彼は「あこ
からである。ハイダーの死を追悼する言葉で,
がれの父」だったというのである。
彼がまさに普通の人間であったとしばしば強調
されたのはこのためである(34)。
ケルンテン州は,非嫡出子の割合が,51.7%と
極めて高い。この特殊な家族関係 9 )のなかで,
ハイダーを成功させた第四の人物像は,いわ
ハイダーは,上手に父の役割を演じ続けた。ハ
ゆる「戦争世代」の傷心を癒やすセラピストで
イダーは,一方では忠実な夫であり,娘とトー
ある(35ff.)
。ハイダーの両親は積極的ナチ党員
クショーに出演するような理想的な家長として
だった。オットマイアーによれば,ハイダーは,
振る舞い,他方では,軽快にスポーツマンらし
両親とともに,罪を犯したような精神的負い目
く,あちこち出かける政治家であった。彼の事
を,いわば「罪のトラウマ」をもっていた。ハ
故死の後,多くの州民が,ハイダーを家族の一
イダーが,この父母の世代をトラウマから救出
員のように受けとめていたことが明らかになっ
する役割を果たしていたという。一例として,
た。オットマイアーは,インタビューや新聞紙
ハイダーが,1995年,自分の両親を含むかつて
のナチ党員たちを前にした演説で,あなたがた
は,
本来は行儀のよいまじめな戦争世代である,
と彼らを慰めた事例を挙げているのである。
オットマイアーは,さらに旧著から引用しな
がら,ハイダーが,オーストリアを家族セラピー
9 )ケルンテン州は,小さな州である。山形県あるい
は青森県ほどの面積で,しかも山岳地帯がほとんどの地域
に,人口55万強の人口を抱えているにすぎない。歴史的に
も,この州はスロベニアとの国境の町であり,きわめて貧
しい州であった。家族関係での特殊性は,2005年時点で,
独身女性から生まれた子どもの割合が,51.7%(ウィーン
が29.2%)と,極めて高いことである。
118
- -
ハイダーとメルツァー
上に現われた州民の声をまとめながら,ハイ
すでに自由党は勢力を失って分裂し,ハイダー
ダーが,きわめてまめに州民と接触していたこ
は未来同盟の党首であった。彼は,歴史的に他
と,忠実な父または男性(老婦人にとっては息
民族との間のトラウマを抱えるケルンテン州を
子)として存在していたことを明らかにする。
舞台に,一言語地名表示を通じてのみ,州の平
そして,「市井の人々が,自分の代わりはいく
和を維持できると示唆することによって,ふた
らでもおり,自分はよけいものではないかと感
たび外国人排除のナショナリズムに依拠して勢
じる資本主義社会では,こうした人間がいるこ
力を拡大しようとしたのである11)。ハイダーは,
とが,とても大きな慰安になるのだ」(51)と,
同年10月 1 日投票の国民議会選挙でも,宣伝ポ
ハイダーの成功の理由を述べているのである。
スターや新聞折り込み広告で,「ケルンテン州
さらに,オットマイアーは,ケルンテン州の
は一言語になる」という,スロベニア系州民に
特殊性として,国境の州としての歴史を問題に
抑圧的なスローガンを提起したのである。オッ
する(56ff.)
。すなわち,ケルンテン州は,トラ
トマイアーによれば,ここでは,ハイダーは,
ウマを引き起こすような,多くの悲惨な経験を
多数派のドイツ系州民にとっては,ドイツ語だ
している。第一次世界大戦では,兵士の大量殺
けの地名表示を擁護する「一種のトラウマ治療
戮が国境近くで生じたし,ケルンテン州南部が
者」
(62)として現われたのである。
ユーゴスラヴィアの軍隊に占領される恐れも
あった。ナチ時代には,民族浄化によるゲルマ
大盤振る舞いと財政破綻
ン化が行なわれ,終戦直後には,報復行為も行
ポピュリズムは,すべての選挙民にすべてを
なわれた。いずれにせよ,ケルンテン州では,
約束する。ポピュリストとして人気を維持し,
トラウマを引き起こすような悲惨な事件が連続
政権を維持するために,いわば〈大盤振る舞い〉
したという 。
が求められ,膨大な財政的裏付けが不可欠とな
10)
こうしたトラウマは,1972年,ドイツ語とス
る。ハイダー自身が大富豪であり,州政府に自
ロベニア語の二言語による地名表記に対する反
己資金を貸し付けたりしているが,オットマイ
対運動の昂揚の中でよみがえった。トラウマに
アーは,ケルンテン州で実施された大盤振る舞
よる不安と恐怖が,スロベニア系少数派にも,
いと,それに起因する州財政の破綻状況を明ら
ドイツ系多数派にも生じることになったのであ
かにしている(89ff.)。
る。これらのトラウマが解消されないまま,ケ
ハイダーは,州の貧民救済の措置をさまざま
ルンテン州民の心理的条件として,存在し続け
実施した。たとえば,老婦人や母親への援助金
ているのである。
が実施された。60歳以上で,少なくとも一人,
そして,オットマイアーは,このトラウマが
子を育てていること,年金の権利を持たないこ
ハイダーによって悪用されたという。すなわち,
と,収入が月収690ユーロに届かないことなど
2006年 2 月,ハイダーは,手荒なやり方で,地
が条件であった。ハイダーは支給をイベント化
名表示板の問題を勢力拡大に利用しようとし
して,ハイダー自身が州政庁で手渡した12)。ま
た。具体的には,ハイダーは,ごく小さなスロ
ベニア語の地名表示板をドイツ語の地名表示板
の下にぶら下げる措置をとったのである。当時,
10)ケルンテン州における民族問題については,馬場優
「ケルンテン州の民族問題とオーストリア連邦制」
(龍谷大
学『社会科学研究年報』43, 2013年)を参照のこと。
11)自由党を中心としたオーストリアの政治経過につい
ては,拙稿「オーストリアの新右翼」,山口定・高橋進編
『ヨーロッパ新右翼』第4章(朝日新聞社,1998年),拙稿
「右翼的ポピュリズム政党の成功・凋落・再生の政治的メ
カニズム」
(青森法学会『青森法政論叢』第16号,2015年)
を参照せよ。
12)ちなみに,ハイダーは,さまざまなイベントを連続
的に開催し,メディアを通じて州民の耳目を集めた。「イ
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- -
た,2006年国民議会選挙直前には,出産支援金
の給付が決定した。第一子には800ユーロ,第
Ⅵ むすび
二子には900ユーロ,第三子には1000ユーロが
支給されることになった。さらに,2004年のイ
オットマイアーのハイダー論には,ハイダー
ンド洋津波災害の際には,ハイダー自身が救援
の交通事故死が,政治活動に行き詰まった末の
運動の先頭に立った(94)。2006年 3 月25日に
一種の自殺行為であるという推定が底流にあ
は,ハイダーは,インドネシアのバンダアチェ
る。これは事故直後から出されていた疑問で
州で,孤児の村の開村セレモニーに出席してい
あったが,ケルンテン州ではハイダーを傷つけ
たのである。
るものとして忌避されてきた。しかし,ポピュ
ハイダーの人気が,こうした大盤振る舞いに
リスト・ハイダーの陥った苦境を考えるとき,
支えられていたことは間違いない。しかしそれ
とりわけケルンテン州財政の破綻を考慮すると
は同時に州財政の逼迫を伴うものであった。
き,オットマイアーの推定を排除することはで
オットマイアーによれば,2009年初め,州民一
きないだろう。
この危機を乗り切るために,一方で,ハイダー
人あたり4000ユーロの州債務があった。他の州
とは比較にならないほど多額の債務であった。
は,事実上の州立銀行を売却し,その売却資金
州予算の年度末決算は,2009年 3 月の州議会選
を利用して,ロビンフッド・イメージを維持す
挙後に延期され, 2 年以上にわたって,決算が
るための資金源として「ケルンテン未来基金
行なわれていなかった(89)
。財政破綻が,
ポピュ
Kärntner Zukunftsfonds」を創設した。右翼的
リスト政治の重要な帰結の一つなのである。
ポピュリズムのイデオロギーは,すでに論じた
ハイダーはもちろんこうした状況を熟知して
ように,ナショナリズムと反エリート主義,新
いた。この危機を乗り切るために,ハイダーは,
自由主義を三大構成要素とするものであった。
2007年に,事実上のケルンテン州立銀行である
とりわけ,重大な矛盾は,名もない庶民の利益
ヒュポ銀行(Hypo-Alpe-Adrea-Group)を,バ
を重視する路線と,新自由主義から派生する福
イエルン州立銀行に売却するという奇策に訴え
祉給付の切り詰めとの間に生じる矛盾であっ
たのである。ケルンテン州は,これによって豊
た。その矛盾を乗り切るために,ハイダーは,
かになるというのが,ハイダーの主張であった。
州立銀行を売却する挙に出たのである。
しかし,ヒュポ銀行は,東欧諸国とバルカン諸
他方では,ハイダーは,矛盾を乗り切るため
国へのリスクの高い融資があり,それが,リー
に,結局,人種論的ナショナリズムに依拠せざ
マンショックを背景として,不良債権化し,金
るを得なくなった。ハイダーのケルンテン州統
融スキャンダルになったのである。ヒュポ銀行
治の最終局面で,彼が集中的に採用したのは,
は,大量の不良債権を抱え,破綻寸前のところ
外国人排除を中心とする人種論的ナショナリズ
を政府が2009年に国有化した。破綻を先送りし
ムにもとづく諸政策であった。チェチェン人難
つつ,徐々に衰弱死させようとしているのであ
民の問題,スロベニア人集住地域における地名
る。現在,国民議会に調査委員会が設置され,
表示板の問題で,ハイダーは,ケルンテン州を
調査が進んでいる。
ドイツ系住民の集住地域として純化しようとし
たのである。これを支える心理的基盤,あるい
はトラウマが,ケルンテン州の歴史には存在す
る。ハイダーと未来同盟は,最終的にこれに依
ベント州ケルンテン」と揶揄された。
拠せざるをえなくなったのである。この人種論
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ハイダーとメルツァー
的ナショナリズムこそ,極右政治思想の中心的
ティティであった。集団外部の他者として,ケ
要素の一つなのである。
ルンテン州では,スロベニア系住民や外国人,
メルツァーのいうように,ハイダーは志操堅
オーストリア全体では,外国人,とりわけ黒人
固な極右的政治家ではない。彼の親ナチ発言
が攻撃の的になる。他者性を強調するために
は,自分の両親を含む戦争世代の旧ナチ党員た
は,容姿と言語・文化の差異を強調すること
ちへの共感が主要な動機であろう。だからこ
が,すなわち人種論的議論が近道になる。その
そ,一方では,メルツァーを遠ざけることがで
ために,右翼的ポピュリズムは,結局,極右政
きたのである。しかし,財政的な限界を前にし
治思想の中核思想である人種論的ナショナリズ
て,ポピュリズムが権力を維持しようとすれ
ムから派生する諸政策を採用せざるをえなくな
ば,自己の陣営から離れ始めた諸階層を,集団
るのである。右翼的ポピュリズムは,極右思想
的アイデンティティを強化することによって凝
から離れることはできないのである。ハイダー
集させる以外にない。ハイダーが依拠したの
とメルツァーの関係は,右翼的ポピュリズムと
は,ケルンテン州民としての集団的アイデン
極右との関係の一つの典型である。
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