トルコ・ドイツ・日本 銭湯

公益財団法人 京都市国際交流協会
25周年記念シンポジウム
「トルコ・ドイツ・日本──銭湯から考える多文化共生」
日時:2014年9月13日(土)
場所:京都市国際交流会館イベントホール
■第1部
ヤマザキマリさん
講演会
こんにちは、ヤマザキマリです。毎回、初回に言うのですが、声が低いので、聴こえな
い方は手をあげてくださいね(笑)
。
京都はこれで何回めになるかわかりませんが、かなりの回数お呼びいただいて、マンガ
の話やイタリアの話をさせていただいているのですが、どういうわけか、関東などほかの
地域よりも圧倒的に関西の人たちに呼ばれることが多くて、関東地方でも対談はするので
すが、リアクション的には関西の方のほうが、あきらかによいのですね。みなさん質疑応
答もないのにずっと腕を組んで、私の顔をずっと見て、なにか言いたそうに口をモゴモゴ
させながらうなずいてくださる方が多くて、すごくやりごたえがございます。
(笑)イタリ
アという国に長くいたものですから、なにせコミュニケーションを成立させていかないと
人として認めてくれない地域でございます。日本は南北、東西に長いですが、関西のこの
あたりに来ますと、私もやっと自分流に、へんな抑圧をせずに、いろいろなことが話せる
なという解放感があって、すごくうれしいです。
ちなみに、京都の思い出の一つとしていちばん強烈なのが、いまから12、3年前だと思
うのですが、
私の姑の友だちを含む約11名のイタリア人の女性、平均年齢65歳というツアー
を引率したことがありました。もう二度としませんが、8月1日から8月7日くらいまで
一週間、京都に滞在しました。あのような、なんの悟りも得られない修行はもうやらない
と思ったくらい、イタリア人の強烈なおばちゃんたちはすさまじかったのです。とにかく
イタリア人の人たちというのは、タクシーで移動するなど、
「便利をする」といろいろなこ
と、見るべきものが吸収できないということがあるものですから、
「歩きたい」、
「バス移動
したい」と。京都のバス移動というものは日本人でもわけがわからいじゃないですか。で
も、
「迷ってナンボよ」という感じですさまじい旅を、炎天下三十何度、湿度80パーセント
のようなところで汗みずくになりながら……。しかも、日本は物価が高いからご飯にお金
を使いたくないということで、コンビニエンス・ストアばかりに行って、そこでものを買っ
ては、お寺の境内で食べるという、すごく恥ずかしい体験をなんどもしました。京都に来
るたびにどうもそれを思い出してしまって。
(笑)でも、あれくらい体験をしておくといい
なと思うのですが。
ちなみにみなさまがたが泊まっていたホテルは京都の駅のすぐそばの、センチュリーホ
テルです。当時はイタリア料理屋さんがあったのです。いまもあるのかな。
みなさん、日本に弾丸ツアーに来ることになって、東京から鎌倉、そして名古屋、飛騨
高山、富山まで行って、富山から京都まで来て、愛媛に行った。愛媛の城(松山城)に登
りたいと言うので登らせたら、
みんなもう、落ち武者のように途中でぜんぶだめになって、
下りたのですが。
(笑)そのような旅をしているなかで、やはり日本に来たからには、「風
呂にも入りたい」とか、
「刺身が食べたい」などといろいろなことを言うわけです。「富士
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が見たい」とか。ちなみに富士は曇っていてぜんぜん見られなくて、私がすごく怒られた
のです。
「富士が見えないじゃない!」と。でもそれは私のせいではない。「ときをあらた
めて、富士山だけは見に来てください」と言ったのですが。
いくら「刺身が食べたい」と言ってもそんなのは最初の何日間だけで、3日くらいたつ
と、
「オリーブオイルのようなものが食べたい」となるのですね。京都に来たときは滞在が
10日めくらいになっていたので、もうみなさんの味覚がイタリア料理ホームシック状態に
なっていて、
センチュリーホテルにあったイタリア料理屋さんに、
「きょうくらいいいよね」
と言って入ったわけです。そうしたらその日を皮切りに、毎日そこのレストランでご飯を
食べることになった。そのイタリア料理屋さんのシェフが、
「ぼくはシェフ歴30年だが、こ
んなにうれしいことはない」
、
「こんなに毎日イタリア人がおいしい、おいしいと言ってぼ
くの作る料理を食べにきてくれて、感無量だよ」と。でも「京都にいるんですけど……」
と。京都にいるのだから、たまには舞妓さんがいるようなところでおいしい京都の料理な
んか食べたいなと、こっちは思うのですが、
「いい、いい。日本のイタリア料理はイタリア
よりおいしいから、ぜひ、これでしめくくって帰りたい」と。でも、しめくくりの最後の
日に、みなさん所持金が500円しかないのです、使ってしまって。イタリア料理なんて食べ
たくても食べられないわけですよね。シェフに「今晩はなににしましょう」と言われるの
で、
「今晩は、じつは申しわけないのですが、みなさん所持金500円なので、コンビニエン
ス・ストアだと思うのですよ」と言ったら、
「いや、わかりました。ではきょうはぼくの財
布から出しましょう。毎日来てくださったのだから」ということで、最後の夜だけ、アグー
豚だとか、おいしい食材を使った超豪華なイタリアの晩餐をひらいてくださって、みなさ
ん、
「本当に日本はすばらしいところね」と泣きそうになりながら帰っていきました。
(笑)
それは一般で経験できる日本とはちがい、ほかの外国の方たちがどこまで日本の楽しい
旅行をされているかはわかりませんが、こちらは神経をすり減らして、ぼろぼろになって、
「どうしてくれるんだ」と思いましたが、それはさいごに、ぜんぶマンガにして紹介しま
した。マンガ本に収録されています。『モーレツ!
イタリア家族』(講談社、2006年)と
いう、すさまじいイタリアの生活を綴ったエッセイ・マンガがあるのですが、そこにぜん
ぶ暴露しました。参加者にはそれをひとことも言わなかったのですが、最終的にはばれて
しまいました。みんなすさまじい描写で描いてあります。きれいに描かれている人は一人
もいません。まあ、それもなにか楽しい。
「苦労をしてナンボ」という、私の人生自体がそ
ういうものですが、京都においてまで、そのようなことをさせられてしまったという思い
出がございます。
きょうは国際交流協会ということなので、せっかく私も世界のいろいろな地域に暮らし
ていて……。たまたま漫画家という職業におさまっておりますが、もともとは、最初から
漫画家になりたかったわけではありません。漫画をたくさん読んで、
「漫画家になりたい!」
と子どものころから思っていたわけでもない私がなぜ、あのようなへんな漫画を描き、そ
れがなぜか売れて、映画化までされて、阿部寛さんが古代ローマ人を熱演された……、な
ぜそのような転末になったかということに軸をおきながら、いろいろな話をしていきたい
と思います。
もともと日本という国は島国でありますし、
「鎖国」という、海外との交流をもたないこ
とを意図的にきめて閉鎖してきた時間も、ひじょうに長い。このような国は「世界は広し」
といえども、なかなかないのです。いろいろな理由が付随することによって、どうしても
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海外に開きにくい。また、せっかく現代の世の中では情報化がすすんで、いろいろなとこ
ろで海外のことがわかるようになっても、どうしても「海外と本当につながっているかど
うか」という実感が、いまひとつ伝わっていないのではないかと思うわけです。
講演会のたびによくお話しすることですが、日本のテレビは海外のどこの国よりも、た
くさん海外のことを紹介するメディアでいっぱいだと思います。テレビとつけるといつも
海外の旅行番組などをしています。私が子どものころは海外の旅行番組というと、
『兼高か
おる世界の旅』だとか、
『世界びっくりスペシャル』など、いくつかしかなかった。
ところがいまはクイズ番組に絡めたものや、旅行番組ではリポーターがいなくて、まる
で自分がひとり旅をしているような番組が、最初はNHKだけでしていたのですが、ほかの局
でもそういった番組が増えてきてしまった。あれのよさは、ひとりではなかなか実践でき
ない勇気のいるひとり旅を、
「自分でしているつもり」になってしまうところですね。トコ
トコと歩いて行って、まちの人に、何語で話しているのかは知りませんが、全員とことば
が通じています。
「Hi!」とことばをかけると、
「コーヒー1杯どうだい」、
「ありがとう」と。
そこでコーヒーを飲んでいると、おじいさんが「うちに寄っていくかい」と言い、
「いいん
ですか」と言って寄って行く。
「いい眺めだろう……」と、たまたま、そのおじいさんが住
んでいるところが風光明媚なところだったりする。
「本当にいいところだった。じゃあこん
どはここに行ってみよう」として行くと、またそこでなにかあったりする。このように、
すごく便利なすばらしいひとり旅が、バーチャル経験できる。
「すごいなあ」と、日本のメ
ディアの進化というものを、あの番組をとおして痛感するところです。
しかし、このような番組を見すぎてしまうと、ひとり旅行をしなくなりますよね。私が
イタリアに行ったのは1984年です。17歳のときにはじめてイタリアに単身でわたりました
が、そのとき日本には「バックパッカー」という者がたくさんいた。卒業旅行などでされ
た方もいらっしゃるかと思うのですが、リュック1個に、お金もたいして持たず、駅で寝
る覚悟まんまんで行く。
それでもみな、にこやかで楽しいという時代がすこしありました。
いまは、そういう人は一人も見かけません。海外旅行をしている日本人の数自体も、そ
れほど見かけないですね。むかしにくらべると。ちまたのうわさによると、やはりいまの
若い子たちは「海外旅行にエネルギーを費やしたくない」と。海外旅行に行って、ことば
が通じなかったり、異文化に入っていけなかったり。また、ご飯もあわないなど、いろい
ろな理由によって自分の弱さを知らないといけなくなる。
「自分の弱さと直面しないといけ
なくなることに対するエネルギー」だと思うのですが、それを拒絶する傾向が強くなって
きているのではないかという気がします。
それを考えると、むかしのバブルの前の時代だとか、バブル期の日本というのは、みな
むこうみずで、
「どっかでなんとかなるわ」とまで思えていた時期だと思うのです。いまは
みな、
「つぶしがきかない」という精神性のなかで生きている……。ぜんぜん、つぶしがき
くとは思うのですが、どんどん視野を閉ざしてしまっている。海外交流どころか、日本の
なかですら閉ざしてしまう。自分の家の、自分の部屋の、自分の一角くらいにまで狭まっ
ている気がします。
それにたいして、なにかを示唆するためということではないのですが、私はたまたま祖
母の代から海外に開けた家に育った。うちの祖母は1915年から1925年まで、銀行の支店を
つくるためにアメリカに長く暮らしていた人なのですね。アメリカから戻ってきたあとは
モンゴルに行ったりと、自分の意思ではないのですが、とにかく海外に長くいた人です。
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そういう親に育てられた娘である私の母親も、海外にたいしてリベラルな人になった。ミッ
ションスクールに通っていたのですが、海外の文化の一つとしてヴァイオリンを習わせら
れた。けっきょく、それが彼女のプロフェッショナルに導くものとなった。いまは80歳で
すが、ずっとオーケストラで、現役でビオラという楽器をしていた人です。
クラシック音楽をしていたということで、海外からの演奏家などもしょっちゅう家に来
たりしていました。そのようななかで私が育まれた。ですから私は、外国人の人が家にい
るとか、家族が外国に行くとか、そういったことが渾然一体となっていることにたいして、
「なにかがおかしい」と思ったことは一つもないわけです。むしろ、それがあたりまえと
いうか。うちの母親は、早くに父親が亡くなったものですから、女手ひとつで私と妹をか
なり早い時期から育てていました。預けていたさきが、ドイツ人のフランシスコ会の修道
管区というものが当時、札幌にあり、そこに私と妹をおいていくわけです。そうすると私
たちは、ドイツ人のお坊さん(宣教師)たちとずっとすごすわけですが、ドイツ語しか話
していない。ドイツのお菓子をもらったり、ドイツの映画を見たり、ドイツの歌を聴かさ
れたりして育つのです。ですから、そういうものにたいする「違和感」だとか「異質感」
というものは、自分のなかで育まれなかった。むしろ早いうちから「日本のなかだけだと、
なにか足りないのでは」と思うようになっていった。
私は本を読むのが大好きで、
児童文学を母親経由で託されて、たくさん読んでいました。
おもしろいことに、じつは絵を描くのもすごく好きで、いまもそうですが、白いスペース
があるとどうしてもなにか絵で埋めたくなるというへんな性質があります。家の壁もぜん
ぶ漆喰に塗り替えてもらって、そこをぜんぶ落書きしていたのです。ある日突然、私が「絵
描きさんになりたい」と母に発言したときに、母は内心、
「まずい。そんなにお金にもなら
ない商売をこの子は夢みてしまって、どうしよう」と思ったらしい。そしてある日、母が
私に買ってきた本が『フランダースの犬』です。
「まずこれを読んでみなさい。絵描きさん
になるというのは、こういうことだから。それでもいいなら、なりなさい」と言われて読
みました。まだアニメ化される前の話です。(笑)
読んで「悲惨な話だな」と思ったのですが、そのとき、いっしょに渡された本が『フラ
ンダースの犬』と『アランビアン・ナイト』、『ニルスのふしぎな旅』でした。この3冊を
どうじに連覇して読んでしまったので、「『フランダースの犬』のようになりそうだったら
旅に出たらいいわ」と、
「のがし」の方向にいってしまった。まるで山下清さんのように「絵
を描きながら放浪すればよいかな」といった方向にいってしまった。そうしてけっきょく、
自分のなかであせることもなく、
「絵描きになりたい」と言い続けていた。
そんななか、14歳の中学校2年生の冬休みに、本当は母が行くはずだったドイツとフラ
ンスの一か月の旅が、仕事でキャンセルになってしまった。当時は飛行機のチケットは名
義を変えると使えたので、
「あんた、代わりに行ってきて」と言われ、突然、私は一人でド
イツとフランスを旅しないといけなくなりました。
目的地まで行けば、母の音楽家のお友だちがいるのでよいのですが、そこまでの移動な
どはすべて、自分一人でしないといけないわけです。ドイツからフランスへ行く途中、ベ
ルギーで列車を乗り換えようとしているときに──これは再三、講演でお話ししたり漫画
にも描いているのですが、一人のあやしいおじいさんにあとをつけられた。車内はガラす
きであるにもかかわらず、おじいさんも私のコンパートメントに入ってきた。目の前にバ
ンと座り、へんな英語で「おまえ、家出してきただろう!」と言うわけです。私は14歳で、
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当時は松田聖子ちゃんがはやっていた時期でした。髪型が「松田聖子」で、
「ハマトラ(横
浜トラディショナルの略)」という服装がはやっていたのですが、どう見ても10歳くらいに
しか見えない。それがあんなに大きなかばんを持って歩いていたので、おせっかいじいさ
んは気になって「家出だろう」と。
「いや、ちがう。私はこういう家に育ち、母親が来られ
なかった旅行で代わりに来ている」。そして「絵描きさんになりたいと言ったら、ヨーロッ
パに行って本当の絵を見て来いと言われたから来ている」と話した。いまは流暢に話して
いますが、ぜんぶ片言の英語で話しています。
そのような説明をしたら、おじいさんは急に激怒りをしたのです。バーン!と、コンパー
トメントのテーブルを叩き、
「イタリアが入っていないではないか!」と、いきなり怒りだ
した。
「関係ないじゃないですか、イタリア……」と思ったが、
「『すべての道はローマに通
ず』だ!」と。そのとき、私は「すべての道はローマに通ず」ということばをおじいさん
からはじめて聞いた。
「絵がやりたい、絵が描きたいのにイタリアをとばすなんて、なんと
センスのない旅だ」と言われた。なんだかわからないが、見ず知らずのおじいさんに、さ
いごまで怒られまくった。
「とにかくわしはおまえがきちんと日本に帰ったかどうか知りた
いから、母さんに手紙を『着きました』と、よこせ」と言われた。
無事、一か月の旅を終えて帰ったあと、
「へんなイタリア人のおじいさんに会って、すご
く私のことを気にしていたので、
無事に生還したという手紙を書いてくれ」ということで、
母がそのおじいさんに手紙を出した。そうすると、母とそのおじいさんがペンフレンドに
なってしまったのです。むこうのおじいさんも楽器を弾いたり、文化的な人だったので、
「おもしろいおじいさんやな」という話で、どんどん仲良くなっていった。私はふつうの
高校にすすんでいたのですが、おじいさんのほうから「そういえばマリは『画家になりた
い』と言っていたが、どうした、その後」と言う。「イタリアだったら、もういいかげん、
美術の高校だとか美術家をめざして、そういう教育を受けているだろう」と。私はミッショ
ンスクールだったので、エスカレータ式でふつうの高校に行って、
「通訳などをやりたいと
言っているみたい」と母が言ったら、また「けしからん!」と怒られた。
「あんなに絵描き
になりたいと言って、14歳であんなにあぶなっかしい旅までひとりでしておいて。それは
きちんとした絵を本場で見ていないからだ!」と。そして「1回、イタリアによこせ」と
言われて、私の同意がまったくなされない、ふたりだけのやり取りのなかから、いきなり
私は17歳でイタリアに行くことになったのです。
私の略歴のなかで、イタリアに長く住んでいた、イタリアに留学していた、イタリアの
エキスパートのようにいろいろなところで言われ、「ヤマザキさん、いいわね。イタリア、
すてきね」と言われますが、ぜんぜん自分の意思ではなく、行きたくもなんともなかった
ところです。
できればそのころ、
パンクの音楽が好きだったのでイギリスなどに行きたかっ
たのですが、ぜんぜん、見当ちがいのところに連れていかれた。
そしてそのおじいさんが、いまも忘れられない、ローマのフィウミチーノ空港に迎えに
来た。ローマに行かれた方は列車で市内に入られると思うのですが、あのときはまだ列車
がなく、バスで市内まで行かないといけないのです。アッピア街道のあたりからフォロ・
ロマーノ、そしてコロシアムという歴代の、2000年前の、ものすごいものがボコボコ建っ
ているあいだをバスが通っていくわけです。あれを見たときに「やばい!」と思った。
「ぜ
んぜん、自分と血のつながりも、まったくなんの関係もないところに来てしまった」と。
おじいさんだけをあてに、しかも、自分の意思はゼロで。ものすごくあせりを感じました
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が、あれが本当の「異文化に来た」という感覚ですね。あれ以降、ああいった感覚は、そ
れこそ中東のシリアに行ったときくらいしかない。本当にびっくりしてしまいました。
私は京都と姉妹都市であるフィレンツェというところで、そのおじいさんのところにし
ばらくいたのですが、
「ここでは勉強にならん」と言われ、フィレンツェにある、イタリア
国立フィレンツェ・アカデミア美術学院という美術学校に移動した。そこで10年間くらい、
もっとはやく済んだはずの勉強ですが、だらだらといろいろなことをして暮らしていた。
そのあいだに、ルネッサンスのまちですから、ルネッサンスの模写技術、つまりボッチ
チェリとかラファエロの描いた絵をコピーする技術、そういったものをしながら写実系の
油絵をしつつ、ルネッサンスの歴史、美術史を学んでいたのです。ルネッサンスの美術史
を学ぶということは──けっきょく、ルネッサンスというのは「復興」を意味している。
古代ローマのときに、人間力や人間のもっているポテンシャリティやキャパシティといっ
たものが最大限に出力され、最大限にあふれていた時代が本当はあったはずなのに、それ
が全部土の下に埋もれた。中世という時代です。そのあと、あらためてそのスピリットが
復興してきた。おそろしいほどの、神がかりとも思えるほどの人間の手技というものが出
てきて、フィロソフィーが生まれてくる。それがルネッサンスです。必然的に私も、古代
ローマを学んでいくに至ったわけです。
最終的に古代ローマへの興味につながっていくわけですが、まさかそれが、最終的には
漫画というかたちになって表現されることになるとは、まったく思いもしなかった。うま
くしたもので漫画は、
「おもしろい漫画をつくる!」としていても、出てこないのです。経
験値のなかに蓄積されたものが、どこかでへんな化学反応をおこして、パッと出るもので
す。
私はとにかく長きにわたって、17歳から日本を出た。いったん日本に帰っていた時期も
あるのですが、その理由というのはじつは、10年間イタリアにいたときに、いっしょに暮
らしていた彼氏がいました。結婚はしていなかったのですが、その10年間暮らしたあげく
に子どもが生まれてしまった。子どもが生まれたときに、申しわけないが、
「でっかい子ど
もの面倒より、小さい子どもの面倒をみたい」と言ってその方と別れた。(笑)
当時、私はいろいろなことをしていました。フィレンツェで商売して、お金の事情が─
─いま、時間がそれほどないので話せないのですが、詳しいことを知りたい方は私のエッ
セイ漫画なり、エッセイの本なりを読んでいただくと、くわしく書いています。
(笑)とに
かく、別れるということになった。それまで、子どもがいなければべつに、
「ボヘミアンの
芸術家きどりで、餓え死にしたっていいや。フランダースの犬でもいいや」といったこと
ができたのですが、子どもがいて「フランダースの犬」は、だめです。犯罪になってしま
いますから。だから意を決して、
「私も社会的な貢献者である、一般的な仕事もできる人で
ありたい」という気持ちがめばえ、いったん、日本に帰りました。日本に帰ってなにか手
に職をもとうということで、大学で先生をしたりしていました。
そしてなぜか、そのとき母は移住して北海道の札幌にいたのですが、札幌のテレビ局の
方から「イタリア料理をテレビでつくってくれ」と言われた。当時の1994年ころは、すご
くイタリア・ブームで、テレビをつければパンチェッタ・ジローラモさんという方が出て
いた。あの人がイタリアの象徴のようにテレビに出ていますが、あとで話そうと思ってい
たのですが、ぜんぜん、イタリアに行ったらジローラモのような人はほとんどいません。
言っておきますが。ジローラモさんも、じっさいに話を聞くと、「空港で服を取り替える」
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と言っていました。
(笑)日本にあわせたイタリア需要の効果が、どんどん活性化していた
時期なのです。
そんななか、イタリア料理屋さんの一軒に連れて行かれた。たまたまそこで、テレビ局
のプロデユーサーと話をした。そのときに食べたイタリア料理が、
「アーリオ・オーリオ・
ペペロンチーノ」という、日本でいえば「盛りそば」のようなもので、
「ただのパスタに塩
胡椒をふって、唐辛子を少し入れてオリーブオイルで……」といった、お金がないときに
食べるご飯です。それは私の常備食です。それがその高級レストランでは一皿1,500円で出
たのです。私はびっくりして、
「ちょっと待ってください。これ、原価100円とか、200円で
すよ」という話をしたら、そのプロデューサーから「おもしろいね。それ、テレビでして
くれないか」と言われた。「こんなことテレビで言っていいのですか」というと、「そうい
うことを主婦は知りたがっている。みな、イタリアンというと、どうも敷居が高い。なか
に入るとイタリア人が一人もいるわけでなくても、みなイタリア語を話ししているし、入
るに入りにくい」と言う。
「それほど間違った情報の伝わり方になっているのだったら、い
いですよ」ということで、テレビに出ました。私は料理家でもなんでもないですから、き
ちんと調理もできないのですが、切り刻んだものがぜんぶまな板の外に出て、それを集め
てそのままフライパンに手で投げるというようなやり方をしたら、主婦の方にはうけまし
た。レストランからはクレームの嵐でした。
そのようなことがあり、私は料理番組コーナーをもっていました。
『ヤマザキマリの週末
はイタリアン』というへんなコーナーを、ずっとしていたのですが、そのテレビ局で、
「料
理番組だけでなく、食べることも好きだが、どうも風呂も好きなんだってね」と言われた。
じつはその「風呂が好き」というのがどこからきているのかというと、長きにわたる海
外生活で、湯船のある家に住んだことが一回もなかったのです、いちども。しようがない
から「たらい」などを買ってきて、そこにお湯をためてかけ湯をする。そうすると、なん
となくお湯と接触面積が増えるのですね、かけると。その一瞬だけ夢見るのです、「ああ、
風呂……」と思うのですが、つかの間で終わってしまう。(笑)
そのようなむなしい生活でずっとすごしていたので、たしかに日本に帰るたびに「お風
呂はいいな」と。私は1年か2年おきに日本に帰ってきたのですが、1年間や2年間お風
呂に浸からないで、入ってみてください。すごくへんなことが起こります。体が、全身鳥
肌。
「もう、このまま死んでもいい」というくらいの覚醒状態になるのです。まあ、異常で
すよね。
お風呂文化に慣れて、ふつうにお風呂に入ってきている人間にとってはやはり、お風呂
に入れないというのはつらいことです。まして私の場合、かつて祖父母などと暮らしてい
たとき、
「お風呂に入りに行く」という意味もあるが、
「コミュニケーションの場」として、
家風呂があったにもかかわらず、祖父母は銭湯に行きたがるのですね。私も連れられて行
くと、フルーツ牛乳を買ってもらえたり、いろいろと楽しいわけです、銭湯に行くと。裸
の付き合いだし、ヒエラルキーもない。どこのだれかもさっぱりわからない。洋服を着て
しまえばなんだかすごいおばちゃんだったりしても、脱いでしまえばわからなかったりす
る。そういったへんな、意図的な「自分はこうなのだ」とアプローチするものが取れてい
るので、みな、ものすごく解放感に浸れる。
「やはり日本はすばらしい。こういうことがある文化圏って、すばらしい」と思ったらじ
つは日本だけではなく、古代ローマ人もおなじことをしていたというのが、古代ローマの
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勉強をしていたときにわかった。古代ローマの遺跡に行くと、使われていない浴場の跡な
どが、かならず一区間に一つはあるのです、ぜったいに。しかも、使われていないのです。
水道管はあるのに、水は通っていなかったり。まあ、通っていないですが、2,000年前です
から。くやしかった。いまだに消滅せず、このお風呂の文化がつづいていたら、こんなに
私はお風呂に枯渇しなくてよかったのに……、というくやしい思いがずっとつのっていっ
た。
そのような話をどこかでしたことがあり、きゅうに、「『ヤマザキマリの週末はイタリア
ン』もよいが、風呂の旅にも行ってくれ」と、JR東日本が主催になっていた旅のコーナー
で、北海道と東北地域の温泉をぜんぶ網羅しました。そのときはただたんに、現地に行く
と、
「ああ、気持ちがいい、しみますわい」と、いろいろな温泉の質を体感する。いろいろ
な地域のすてきでゴージャスなお風呂から、なんの仕切りもないような、海とつながって
いるようなお風呂に入らされたり、いろいろなことをしました。
それはそれで楽しかったわけです、お風呂の知識もどんどんと拡がりますし。でもその
とき、先ほど言ったように何足ものわらじをはいていたので、お風呂に入った次の日、大
学の授業に行き、論文を集めて採点などをしていると、下のほうに、
「きのう、テレビをつ
けると先生が風呂に入っていた」などと書かれていたりする。
「そういうのは単位あげませ
ん!」といった感じで……。
(笑)大学に行くときは先生なりの風情で行くわけですから、
だいなしじゃないですか。風呂に入って「しみますわい」というのが、お茶の間で流れて
いたら。
しかしそれが、結果的にどういうことになっていったかというと、ご紹介していただい
た、みなさんご存じの『テルマエ・ロマエ』という漫画になったわけです。これも結果的
には日本でうまれた漫画ではない。
そのあと、さきほどお話しした、14歳のときに「けしからん!」と怒ったイタリア人の
おじいさん──マルコじいさんというのですが、いろいろと紆余曲折があるなかで、母と
マルコじいさんが仲良くなっていった。私はフィレンツェに行ってからマルコじいさんと
はまったく疎遠になってしまったのに、母だけはマルコじいさん家族とずっと仲良くつき
あっていたのです。私が日本に帰って来ても、子どもがうまれてもずっと仲良くつきあっ
ていて、ある日、
「あなた、日本に帰ってきて久しくなるけど、たまにはまたイタリアに行
かない?」と言われ、いっしょにイタリアに行きました。そのときマルコじいさんはもう、
亡くなっていたのですが。
するとこんどは、マルコじいさんの娘の家族とも仲良くなっていたのです、母は。その
家に行って知りあった娘の息子、つまりマルコじいさんの孫が、当時20歳の大学生だった
のですが、その彼が私のだんなになったわけです。年の差は14歳、離れているのですが。
なぜ、それほどの年の差でも結婚したかというと、まず、古代ローマの話で、夜どおし話
しまくったわけです。その人は「古代ローマ」だったら、歴代古代ローマ王の名前もぜん
ぶ言えるくらいの古代ローマ・オタクでした。
「ローマがいかにすばらしいか」ということ
を話させたら3日くらい、衰弱して自分が死んでも話しているくらい、古代ローマ好きな
のです。私もおもしろくて、それを聞いていると。そのときは、結婚するといっても自分
に経済力もありましたし、子どもも生まれていた。家庭を築くというよりも、おもしろい
共存者がいてほしいという夢もあって、
「この人といっしょにいたら、すごくおかしいかも」
と思って結婚したのです。
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じっさい、おもしろくてへんな人だったのですが、彼は中東の文学の研究をしていて、
そのあとエジプトに留学することになったので、結婚式はエジプトのカイロのイタリア大
使館でした。そのあと、
「エジプトのアラビア語はぼくはきらいだから、シリアのアラビア
語をしたい」など、わけがわからないですけどね、言っていることの。しかし、
「はい」と
言って、シリアに移動した。
当時のシリアはすばらしく平和でした。これも話しだすと長くなってしまうのですが、
漫画に描いてありますので、
漫画を読んでいただけたらと思います。シリアでの暮らしは、
通算で2年くらいになるのかな。いまは、当時暮らしていたところもぜんぶボロボロで、
なにもない。ダンナがお世話になった文学研究所の館長さんも、みな、どこに行ってしまっ
たのか、だれとも連絡はつかない。まさかあの国に二度と戻れなくなる日がくるとは、そ
のときは思っていないわけですが。
本当にシリアはすばらしい国だと思ったのは、2回くらいシリア全土を車で旅行したと
きです。シリアというのは、古代ローマの属州だった場所です。みなさん、古代ローマの
遺跡を見たいと思ったら、まずはローマなどに行かれるのではないですか。ぜんぜん、お
話しにならない数と保存状態の古代ローマ遺跡がどこにあるかというと、中東です。シリ
アやレバノン、ヨルダンなど。またはマグリブの国だったり、チュニジア、リビアだった
り。よりによっていちばん、戦争がひどいところに、すばらしいものがたくさん残ってい
るのです。
私はシリアに滞在していたときに旅行をした。そのような国なので、どこを見ても、全
部ユネスコに登録しておかしくないだろうと思われるようなところが、もう、野ざらし。
だれもいないし、管理もしていない。
「こんなの、柱を一本もぎ取ってきてもわかりやしな
いだろう」というくらい、だれもいない。ところがそういったところに行くと、どこから
ともなく、地平線の果てから、バイクに乗った、こんなものを巻いたおじいちゃんがやっ
て来て、
「チケット買え!」と言う。チケットといっても日焼けしてしまって、バラバラの
へんちくりんなものです、だれも来ないので。それを、
「おれは国から雇われているチケッ
ト売りだ」と言うので、
「じゃあ」と言って払う。でも払うといなくなってしまうので、べ
つにいいのですが。そのまま私たちは見てまわりました。
すると、2,000年前にできた神殿のようなところに、カラフルなものがはためいている。
「なんだろう。なにもない、砂漠のこんなところにはためいているものは……」と思い、
近くで見ると、洗濯物でした。洗濯物が、ローマ神殿の柱と柱のあいだにはためいていた。
「なに?」と見ていたら、中からおっちゃんが出て来て、「なんか用?
うちに」と言う。
「うちって……、おたくですか、これ。ガイドブックに出ていますが、古代ローマの遺跡
ではないのですか」と言うと、
「わかんないけど、住めるから住んでいるんだ」と言う。そ
して、
「あそこでは羊を飼っている」と言い、礼拝所のようなところでは羊を飼っていた。
みな、家族でそこに暮らしているのだと。文句を言う筋合いもないので、
「おじゃましまし
た」と伝えて出てきましたが。
でもあれを見たときに、私はタイムスリップ感というか、ダマスカスというまち自体も
そうでしたが、われわれがいくら先進国だからといっても、世界の国ぐにもいっしょに、
対等に年数をとっているわけではないのです。本当に、がっつり認識していかないといけ
ないのは、それぞれの国のちがい──たとえば宗教間であったり法律であったり。すべて
そうですが、自分たちの「ものさし」ですべてが通用するかというと、そうはいかない。
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シリアに行ったときに、
「こんなに『ものさし』が通用しないところはない」と思いました。
まさか、ローマ神殿に人が住んでいるとは思わない。しかし、彼らにとってみれば、2,000
年前や500年前、あるいは10年前だろうが、ぜんぜん、使えるものにこしたことはないとい
うことで、そこに暮らしている。そのおもしろさを痛感したわけです。
『テルマエ・ロマエ』ができた理由は、そういうことがすべて頭のなかに入っている段階
で、ワッと化学変化が起こった。ポルトガルで洗濯物にアイロンがけをしているときにお
風呂に入りたくなったのですが、そこもやはり風呂桶がなくて、銭湯のことをイメージし
ていた。すると、
「そういえば、日本の銭湯にいきなりローマ人とかが出てきたらおかしい
な」と想像して、自分でふっと笑ってしまった。絵に描いてみようと思い絵に描いて、友
だちにファクスで送ったら、友だちがげらげら笑った。「なにこれ!?」と、「これでひと
話できるじゃん!」と言われた。
友だちを喜ばせるために描いた漫画です。それが、こんなことになりました。1話めは
じつは、気づかれている方もいらっしゃると思いますが、現代の日本ではありません。1977
年、銭湯に貼ってある映画のポスターをご覧になっていただければ、
『男はつらいよ』や『ス
ター・ウォーズ』が貼ってあります。現代の日本では、銭湯にみなさんそれほど通わない
ですし、銭湯のコミュニケーションの場としての必要性というものもなくなってきていま
すよね。
いまの日本ではたして、古代ローマ人が湯船からバッと出てきたときに、
「おまえさん…
…」などと言う老人がいるかどうか、私にはわからないです。
「うぇ!
気持ちわりぃ」と
いなくなるか、または黙っているか、見てみぬふりをするか。そのような感じかもしれな
い。関西はちがうかもわからない。(笑)でもほかは、「やばい、あの外人」のような感じ
になってしまうと思うのです。しかし、1970年代ころまでは、まだ人情味だとか、おせっ
かいなどがすごくふつうだった状態で、
「うざい」などということばもなかった。そういっ
たものがふつうに受け入れられた時代だった。
「こういう時代だったら、古代ローマ人は楽
しく日本を習得できるかな」ということで、時代を限定して、1話めをそうしたのです。
1話めを描いたら2話めを描いて、3話めを描いているうちに一巻めの本が出た。一巻め
の本が売れたから、
「ヤマザキさん、いっそ100冊までいきましょう」と。
「いや、風呂ネタ
で100冊はむりです。
『美味しんぼ』ではないので、むりです」とお断りしたので、6巻ま
ででやめました。あの漫画にかんしては、いま言ったような素性があってできあがってお
ります。
レジュメにはこの3分の2以上のことが書いてあるのですが、ぜんぜんむりです。余計
な話をいっぱいしてしまったので、このあとのシンポジウムや3人のパネリストの方と話
すときに、のこりのことをお話しさせていただきます。そのようなわけで、銭湯が導いた
国際交流──また、べつの機会につづきをゆっくり話させていただきます。どうもありが
とうございました。
(拍手)
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