2012/11/18 聖霊降臨後第25主日礼拝

2013/06/30
C年
聖霊降臨後第 6 主日
説教題:「 赦されし二人の罪人 」
説教者:
伊藤節彦
サムエル下 11:26~12:13
ガラテヤ 2:11~21
ルカ 7:36~50
さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家
に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の
人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で
ぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれ
を見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるは
ずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あな
たに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と
言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人
は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。 二人には返す金がなかったので、
金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛す
るだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。
イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われ
た。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれ
なかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわた
しに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻し
てやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を
塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示し
た愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イ
エスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。 同席の人たちは、「罪まで赦すこの
人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救
った。安心して行きなさい」と言われた。
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C 年 聖霊降臨後第 6 主日 広島教会主日礼拝
私達の父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、
皆様お一人お一人の上にありますように。アーメン
【起】
涙の意味には大きく二種類あるのではないでしょうか。一つは悲しみのために流す涙で
す。そのような涙に対して、先週私たちは「もう泣かなくともよい」
、そう一人息子を亡く
したやもめに語られた主イエスのみ言葉を聞きました。主がその涙を拭いて下さったので
す。今日の箇所でもまた、一人の女性が涙を流しています。しかし、この涙を主は受け入
れ喜んでさえおられる。なぜなら、この涙は罪を赦された者が流す、悔い改めの涙、喜び
の涙であったからであります。そしてこの涙は、人の足を拭うほどのものであったのです。
ここにその喜びの大きさ、悔い改めの深さが表現されていると言って良いでしょう。
香油を主イエスに塗るというエピソードは四つの福音書全てに記されていますが、ルカ
の特徴は「二人の債務者の譬え」と組み合わせて描いていることです。そのことによって、
罪の女と記されているこの女性とパリサイ人シモンの対比が鮮やかなまでに浮かび上がっ
てきます。一見この物語の主人公は香油を塗った女性と思われますが、実はパリサイ人シ
モンとこの女性二人の物語に他なりません。このことは、同じくルカが描きました「放蕩
息子の譬え」でも言えることです。この譬えは別名「失われた二人の息子の物語」です。
そのことも念頭に置きつつ、み言葉に耳を傾けて参りましょう。
【承】
先週、私達は「ナインのやもめの息子の蘇りの出来事」を聴きました。この死人の復活
の出来事は、人々を驚愕させるほどのニュースであり、
「ユダヤ全土と周りの地方一帯に広
まった」と記すほどの事件でした。ですから、ユダヤ教の指導的立場だったパリサイ人シ
モンも、この事件を耳にして、自分自身でイエスが『大預言者(7:16)』かどうか確かめたか
ったのでありましょう。また安息日に会堂で説教したラビをもてなすのは当時の礼儀であ
り徳を積むことでもあったのです。そのようなシモンの招待を主は快く受け入れて下さい
ました。そして食事の席に着かれた時、一人の招かれざる客がただならぬ様子で登場した
のです。
女性は主イエスの居場所を突き止めるや否や、香油の入った壺をもってシモンの家を訪
れました。罪の女というレッテルを貼られて生きている彼女にとって、パリサイ人の家は
最も行きたくない場所であったことでありましょう。しかしそのようなひるむ思いを超え
て彼女を突き動かした思いがありました。ルカはその消息を記しませんが、その日主イエ
スが会堂で行った説教を彼女が聴いたのではないか、そして主が語る罪の赦しの福音を彼
女は聴き取ったのではないかと思うのです。だからこそ彼女はその感謝の気持ちを何とし
てでも伝えたい、そのような思いを抱いて主イエスの行き先を探し、よりにもよって最も
近づきたくない人間の家、自分の罪が最も明らかにされるであろうパリサイ人の家へと赴
いたのであります。
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38 節『……泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に
接吻して香油を塗った。
』
ここは福音書で最も美しい場面の一つです。涙で足をぬらすといった描写はルカのみに描
かれる生き生きとした場面であり、彼女の純粋で一途なイエスへの感謝の愛が描写されて
います。しかしシモンにとって、この女性は二重に罪を犯している存在と映りました。罪
の女がシモンの家に踏み入ること自体が、汚れを持ち込むことであり、あろうことか人前
で女性が髪を解くという恥知らずな行為によって、二重にシモンの家に恥辱を与えたので
す。シモンにとっては一刻も早く家から放り出したい、そんな気持ちだった筈です。しか
し、その気持ちを超えてシモンには皮肉な思いが浮かびました。自分が確かめようとして
いた大預言者かどうか、そのことをこの女性の素性をイエスが見破る能力に見出そうとし
たのです。ここに私たちの陥り易い過ちがあります。神の御言葉を預かる預言者、その人
に人を裁くことを求める。その時、み言葉も裁きの道具となってしまいます。しかし、主
はここで反対に赦しを語られるのです。そして主は彼女の愛の行為を受け入れられる。こ
こでシモンの中で既にイエスは預言者ではないとする裁きがなされました。しかし、その
ようなシモンの思いを見通すように、主は一つの譬え話を始めたのです。
【転】
丁度今、聖書研究会では主の祈りの罪の赦しを学んでいるところです。この箇所は、日
用の糧を与え給えという願いとセットになって語られています。ドイツのルーテル教会で
は伝統的な食前の祈りで次のように祈るそうです。
「主よ、私どもになくてならないものが
二つあります。それを、あなたの憐れみによって与えて下さい。日毎のパンと罪の赦しを」。
私たちが日に三度、食事をする度に罪の赦しを願う。ここに日々悔い改めによって新たに
生かされる私たちの力の源があるのです。しかし私たちは日毎のパンを願うことはあって
も、日毎に罪の赦しを願うことは少ないのではないでしょうか。その理由は大きく二つあ
るように思います。一つは、自分の罪を認めたくないからです。自分が罪を犯していると
は思っていないからです。もう一つは、本当に罪の意識に苛まれている時に、このような
罪を犯した自分は誰からも赦されることはない、そう信じている時です。今日の話で言え
ば、自分は正しい人間であり罪など犯したことがない。そう信じ罪の赦しなどの必要性を
感じていないのがパリサイ人シモンであります。一方の女性は、人に罪深い女と後ろ指を
さされながら生きてきた人でした。彼女はシモンと反対に、自分の犯してきた罪を赦して
もらうことは出来ないと信じて生きてきたことでしょう。その二人に向かって主は譬えを
語りかけられるのです。
42 節 を私訳いたしますと『 二人は返すための物を何一つ持っていなかったので、金貸
しは二人の負債を恵みによって完全に赦した』となります。
50 デナリと 500 デナリ。金額に差はあるものの、主人の目から見れば、二人とも返すた
めのものを全く持っていなかったのです。言い換えれば一方的に借りるばかりで「返すこ
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とが出来ない」存在。その無力さにおいて二人は同じ存在でありました。しかしシモンは
そのことに気づいていないのです。その二人に一方的な恵みによってその負債が完全に赦
されるという驚くべきことが起きたのです。一見すると有り余る財産を持つ金持ちが、気
まぐれで赦してくれたようにも読めます。しかしこの福音書を書いたルカ、そして読者で
ある私たちは既に、神の子であるキリストが十字架にかかって下さり、私達の罪を命をも
って贖って下さったことを知っているのです。
シモンの中に自分の姿を見出さない者は、この物語を読み損なったと言って良い。人は
自分自身の欠点が見えない時に最も無防備なのです。自分が敬虔で正しい人間だと考える
者は、赦されることが何を意味するか理解できず、自分の赦しの必要性に気づかないので
す。ですから主イエスはシモンにこの罪の赦しを渇望する女性を指し示しながら語るので
す。
「この人を見よ。自分の罪が赦されたことを知る、この人の姿の中に、あなたが求める
神の国が現れている。そしてその赦しは既にあなたにも与えられているのだ」と。
【結】
「あなたの罪は赦された」と語る主イエスがいます。
ここでは過去に犯した一つ一つの過ちを赦しているのではありません。個々の罪の赦し
よりも、存在としてのどうしようもない「罪人である私」の赦しをここで語っておられる
のです。ルターはよく「罪赦された罪人」という言葉を使いました。
放蕩息子の譬えに出てくる二人の息子も、今日のテキストにある二人の債務者も共に神
の赦しと愛の中に生かされています。身を持ち崩してどん底を経験した放蕩息子と罪の女
は、自分がいかに赦しを請うべき存在かを知っていました。それ故に神の赦しと愛を多く
感じ、感謝することが出来たのです。一方、兄と負債の少ない者はそのことに気付いてい
ない。しかし彼らもまた赦しと恵みの中に置かれているのです。
「子よ、お前はいつも私と
一緒にいる。私の物は全部お前のものだ」と語って下さり、その命を分け与えて下さる父
がおられるのです。
放蕩息子の兄とこのパリサイ人シモンのその後をルカは記しません。しかしこの言葉が
全てを物語っていると思うのです。ルカは敢えてシモンという名を記しました。それはこ
の一人の固く閉ざされた魂が、既に命の書に記されているかのようです。どんなに頑なな
心も、一匹を探しだし愛し給う大牧者イエスが、名前を呼び、その心を開いて下さるので
す。
本日の旧約の日課は、ダビデが「わたしは主に罪を犯した」と告白する場面でした。そ
の罪の告白に対して預言者ナタンは「その主があなたの罪を取り除いて下さる」と罪の赦
しを宣言するのです。私たちルーテル教会の礼拝でまず最初に行われるのが、この罪の告
白とその赦しの宣言であることを思い起こして下さい。そしてみ言葉を聞いた後に、奉献
が行われますが、奉献頌として歌われるのが詩篇 51、すなわちこのダビデの悔い改めの歌な
のです。私たちは、わずかばかりのお金を献げるだけでなく、何よりも私たちの悔いたる、
み言葉によって砕かれた魂をこそ、主の御前に献げるのです。神の愛を、赦しにおいて経
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験する時、神の愛によって引き起こされる感謝の思いが私達の生活を変える力になります。
これこそが「罪赦された罪人」であるキリスト者の新しい生き方に他なりません。
「安心して = 平安(シャローム)へと行きなさい」という祝福をもらうことが出来たのは、
自分の罪の深さを知ることが出来た者でした。今日、皆さんがこのシャロームのみ言葉を
受け取る者となりますように。そしてヌンクディミティスで「今私は主の救いを見ました」
と讃美しつつ喜びの福音を携えて、この礼拝から派遣されていくことが出来ますよう心か
ら祈ります。
人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリ
スト・イエスにあって守るように。 アーメン
以上本文
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