総領事便り12月号 お熱いのがお好き(Someone like it hot) 私は辛いの

総領事便り12月号
お熱いのがお好き(Someone like it hot)
私は辛いのが好き
初鰹芥子がなくて涙かな
英
一蝶
先般、11月16日付の英字紙「ジャカルタ・ポスト」を捲っておりました
ら、「SOME LIKE IT HOT」という見出しに目が釘付けとなりました。
みなさんは、「Someone like it hot」(お熱いのがお好き)という題名の米
国映画をご覧になったとがありますか。巨匠ビリー・ワイルダー監督が脚本も
担当した1959年作のラブ・コメディーです。ジャック・レモンとトニー・
カーティスの女装姿が妙に艶めかしく、それと同時にマリリン・モンローの魅
力が、スクリーン一杯に溢れ出た大変お洒落な映画です。
題名に入った「HOT」の真の意味するところは、映画の最後のところで明
らかになる仕掛けになっているのですが、1959年にこの様な映画が創られ
たこと自体、当時の米国の底力がとてつもないものであったことを推察させて
くれる様です。
題名の邦語訳は、「お熱いのがお好き」ですが、これは、よく考えますと、
大変な名訳でないでしょうか。傷心でヴェネチアを旅行する中年女性の哀愁を
描き出したキャサリン・ヘップバーン主演の「September Affairs」は、
「旅愁」
と翻訳されておりますが、この訳も正に名訳の一つであり、個人的には、この
二つの映画のタイトルの翻訳は、我が国の外国映画翻訳史上、出色の出来映え
ではないかと思っております。
さて、今回の総領事便りは、「お熱いのがお好き?」ではなく、「辛いのが好
き」ということで一席申し上げたいと思いますので、暫しお付き合い願います。
冒頭の「ジャカルタ・ポスト」の記事に戻りますが、その記事は、副題が、
「Indonesia's sambal love affair」となっており、コチ・ジャンやラー油ー
とは一味異なったインドネシアの香辛料、「サンバル」に関する記事でした。
私自身、サンバルは大好きで、バリのワルン(小食堂)にてナシ・チャンプ
ル(混ぜご飯)を注文する際は、付け合わせのサンバルは必ず大盛りに御願い
しています。
バリのDFS(免税店)の裏手に、ガレリアという名のモールがあります。
そのモール中に、「ワルン・ワルン」という美味しいナシ・チャンプルを出
してくれるジャワ料理屋があり、以前は、週末の昼時、買物がてら良く通った
ものでした。しかし、最近、そのお店は、幸か不幸か、讃岐うどんのお店に替
わってしまい、悲しいやら嬉しいやら、どっち付かずの不思議な気持になって
います。
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「ワルン・ワルン」は、家内が同僚のインドネシア人の配偶者から教えてい
ただいたお店で、自分でご飯の廻りに載せるおかずを選んで食べるナシ・チャ
ンプル(混ぜご飯)が大変美味でした。
何故、そこのナシ・チャンプルが美味しかったのか、今考えてみますと、そ
のお店の特性のサンバルによるところが大であったせいではないかと思いま
す。サンバルの辛くて旨味のある調味料がおかずと白いご飯の仲を取りもち、
口福が口の中で広がりました。
サンバルには種々の種類がありますが、私は、特に生サンバルの「サンバル
・マタ」が大好きです。他のサンバルと比較しますと、ナシ・チャンプルの味
が、その辛さとオリーブ・オイルの風味等と相俟って更に深みを増し、ご飯と
おかずの組み合わせを更なる味の世界の高みに連れて行ってくれる、魔法の調
味料ではないかと思っています。
また、サンバル・マターは、それだけでも、独立した酒の肴として十分楽し
むことができます。特に、ビンタン・ビールとの相性は良く、週末の「ワルン
・ワルン」での昼食は、ビンタン・ビール、ナシ・チャンプルそしてサンバル
・マタで至福の時を過ごすことが出来ました。これは、
「お熱いの」ではなく、
「辛くて美味いのが好き」の世界ではないかと思っています。
将来、日本に帰国した際は、サンバル・マタとナシ・チャンプルが美味しい
インドネシア料理屋を是非探し出してみたいと計画しているところです。
サヌールのバイパス通り沿いに、お客でいつも賑わっている「イカン・バカ
ール」(焼き魚)のお店があります。実は、そこのサンバル・マタも私のお気
に入りの一つです。他店と比べるとその辛さは、かなりの衝撃度がありますが、
柑橘系の小さな小さな果実もそのまま入っており、ほどよい酸味も効いている
せいか、辛さ、旨さそして酸味が三味一体となって、まさに絶妙の味わいとな
っています。
そのお店では、いつも、サンバル・マタだけで、大ビール1本を軽く空けて
しまいます。お店のお兄さんは、物好きの邦人の願いを聞き入れてくれ、いつ
も帰り際、サンバル・マタをお土産に包んでくれます。サンバルマタは、勿論、
無料なのですが、いつもなにか申し訳ないという気持ちと同時に、大変得した
との気持ちでそのお店を出ることが出来る様です。
ウブドのマス村在住のバリ人で、奥様が日本人でビダダリ美術館館長のスデ
ィアナさんが、ある日、サンバル・マタの作り方を直伝すると言ってくれまし
たので、お言葉に甘え、公邸の台所で、その作り方を実演していただいたこと
がありました。
隠し味は、蝦の醤(ひしお)とココナツ・オイルにあることがわかりました。
唐辛子や大蒜は勿論、発酵した蝦の醤も混ぜてそれを叩いて潰し、絡めるこ
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とが美味の秘訣で、まさに、唐辛子の辛さとアミノ酸の旨味の絶妙なマッチン
グが味の秘密だと感じたことでした。
これも個人的なお話しで恐縮ですが、私的には、スパゲティには酢漬けの鷹
の爪または乾燥した鷹の爪の輪切り、ピザにはタバスコ、味噌汁には七味辛子、
盛り蕎麦のお露の中には生の緑のピッキ・ヌー(タイ国で、一番辛い唐辛子で、
その形からタイ語で「鼠の糞」と呼ばれています。)、ということで、その食べ
合わせは最高だと思い込んでおります。
一つ、珍しい料理を紹介させていただきます。バリの韓国料理屋にて初めて
食して、その後、はまった「白菜サラダ」です。白菜を一口サイズに切り、そ
の後、氷水でシャキッとさせ、細長く切った緑の白髪ネギを載せ、ほんの少し
の醤油とごま油を混ぜたソースをかけ、更に真っ赤な一味唐辛子を上から振り
かけるだけの極く簡単な料理です。ごま油と一味が決め手ですが、きっと新し
い白菜の世界があなたを待っていることでしょう。
以上、前書きが大変永くなってしまい、大変申し訳ありません。カミング・
アウトする気は全くないのですが、私は、実は、「唐辛子マニア」ならぬ「唐
辛子中毒者」、辛いのが大好き人間なのです。
人に歴史あり?そんな大仰なことではないのですが、大学一年の春休み、知
人の強い勧めもあり、隣国の韓国へ貧乏旅行に出かけたことがありました。釜
関フェリーで釜山に渡り、汽車やバスを乗り次いで安宿に投宿しながら、ソウ
ル、板門店、木浦、済州島を約1週間かけて巡り廻りました。
黄色い連翹の花が咲き乱れる早春のソウル市内の秘園、散りゆく桜吹雪がこ
の世のモノとは思えないほど美しかった慶州のお寺、済州島の海に山から直接
落下している滝の下で食べた海女さんの採った鮑や栄螺の刺身。
財布が極めて軽い、貧乏旅行には違いなかったのですが、美しい風景を愛で、
美味しい料理に出会うことが出来た素晴らしい旅でした。帰国後も、その楽し
さの余剰・余韻に漬かった日々が続きました。
そして、それは、ある日突然やって来ました。韓国旅行から帰国した約1週
間程度時間が経ってからのことでした。禁断症状?無性に辛い料理が食べたく
なってしまったのです。その辛い要求を食べたいとの要求は、私の胃袋だけの
要求では無く、私の脳自体も辛いモノを求めている、そんな不思議な感覚さえ
したことでした。今までに体験したことの無い様な感覚に、これは一体何なの
だと、驚愕さえ覚えた程でした。
幸い、当時の下宿近くに韓国料理屋がありましたので、脇目も振らず飛び込
んで、唐辛子で真っ赤になった豆腐チゲ鍋を頼むことが出来ました。相当な激
辛でしたが、胃袋も脳も納得できる本当に美味しい料理であったことを今でも
鮮明に覚えています。
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汗だらけの顔を汗でビショビショになったハンカチで拭きとりながら、この
辛さとこの旨味のマッチングは一体何のだと自問していました。
その後、懐具合と相談しつつの韓国料理店遍歴が続きましたが、外務省入省
後、幸いなことに、更なる辛い料理との邂逅が私を待っていました。
辛さとのご縁で言えば、私の前世がインド人であったのか、タイ人であった
のか定かではありませんが、辛さ好き、これは、私の宿命と考えざるを得ませ
ん。
外務省入省後、タイ語研修を命じられ、国内研修終了後、タイ国に語学研修
に出ることとなりました。タイ国はインドと肩を並べるほど世界でも有数の辛
い料理の大(タイ)国です。
バンコクに語学研修に出発する際、外務省の諸先輩から、「辛いタイ料理と
タイ女性には気をつけなさい。」と、訳のわからないアドバイスをいただいた
ことがありました。全く役立たないアドバイスだと思っていましたが、後に、
あのアドバイスは真に箴言であったと実感する局面に多々出会ったことでし
た。
タイでは、語学研修の効果を上げる目的でタイ人下宿に預けられ、語学学校
及び大学に通学しました。タイ人下宿での生活は、タイ料理を含むタイ文化や
タイ語の勉強に役立つのではないかという語学指導官のアドバイスに従ったも
ので、タイ文化、タイ社会を肌で実感できる大変良い機会となりました。
タイ警察の高級幹部の実家である下宿では、朝・晩の二食、主にタイ料理を
食べさせていただきました。料理は、唐辛子の他に、蝦ペーストやナム・プラ
ー(魚醤)を使った炒め物が主で、タイ料理には辛さの中にアミノ酸の旨味が
隠れており、「タイ料理は想像以上にいける」と、直ぐに好きになってしまっ
た程です。勿論、下宿のアヤさん(女中さん)の料理の腕が素晴らしかったこ
とも、タイ料理を好きになる一因であったのは確かなことですが。
タイのアルファベットは、最初に「ゴー」という子音ではじまります。「ゴ
ー・ガイ」(にわとりの・ごー)と覚えるのですが、「ゴー」の子音の入った単
語にはグン(蝦)という単語があり、その蝦を使った辛くって酸っぱいタイ料
理、「トムヤム・グン」(邦人の中には富山君と覚える人もいる由です)を試し
てみる機会が、タイ研修開始後、直ぐにやって来ました。
その昔、料理研究家の江上トミさんが、タイの「トム・ヤク・クンは、世界
三大スープの一つ。」と紹介したことがありました。他の二つのスープが、何
処の国のスープであるかはさておき、世界三大スープに入るほどトム・ヤム・
クンは美味いスープと解釈しました。
バンコクにおける研修開始直後、日本では食する経験の無かったトム・ヤム
・クンを何処で食べたら良いのか、種々悩みましたが、庶民の行きつけの店で、
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味本位のタイ料理屋が望ましいと考え、第二次世界大戦中、旧日本軍が司令部
として使用したという外見がコロニアル風な白い色の瀟洒なホテル内のタイ料
理屋に、ある日勇んで出かけました。
「コー・トムヤム・クン」(トムヤム・グンを下さい)とウェイターに注文
すると、ややあって、パクチー(香菜)で下が見えない程のスープ・ボールが
うやうやしく運ばれて来ました。亀虫の様なきつい臭いのするパクチーの山を
掻き分け、スプーンで掬ったスープを一口、一口と口に入れます。ちょっぴり
の酸味及びアミノ酸の旨味と共に舌が麻痺するかのようなの辛さが舌の上に広
がり、思わず、「ユリーカ、探していたのはこれだ-」と内心で叫んでいまし
た。
パクチーについてですが、当時の私は、「アー、仮に、このパクチー(英語
でパクチーは、コリエンダーと呼ばれていますが、そのコリは、カメムシの臭
いのもとである化学成分と同じ由です)さえなければ、「トムヤム・クン」は
もっと美味いハズなのにと思いました。また、何故、この様な臭いのきつい野
菜を入れてトムヤムの味をスポイルしてしまうのか、と本気で怒った程でした。
ところがどっこい、みなさん慣れとは本当に恐ろしいモノです。タイでの種
々の食事の機会に、パクチーが入ったタイ料理を食べ込んだせいでしょうか。
その後、パクチーの臭いは次第に気になくなり、タイの高級中国料理店等で、
フカヒレ・スープを食べる際には、パクチーが入っていないと何か物足りない
様な気分にもなっていました。
トムヤク・クンを皮切りに、辛くて美味いタイ料理の迷宮に迷い込んでしま
った私にとり、次なる嬉しい邂逅は、「パット・バイ・クラパオ」でした。こ
れは、豚や牛の挽肉にハーブのバジルそしてプリッ・キ・ヌーというタイで一
番辛い唐辛子を入れて炒めた実に大変美味しい料理です。
多分、パット・バイ・クラパオ(バジル炒め)、という料理法で料理すれば、
お肉でも、お魚でも、野菜でもなんでも美味しく食べられるのではないかと思
います。
パット・バイ・クラパオについては、小さい頃、通産官僚であったお父さん
のパリ勤務に連れられ、フランスで幼少時代を過ごしたK大使は、私が知る限
り外務省でもA級ばかりではなくB級グルメを知り尽くした方です。K大使は、
当時、日比谷にあったタイ料理店のパット・バイ・クラパオが大好きだと良く
言っていましたが、同大使のタイ料理との邂逅は、出張でタイを訪問する度に
食べ込んだ辛いタイ料理の旨さが原点だと聞いたことがあります。
バリの生活では、健康管理を兼ねて、公邸の近くにある、9ホールのゴルフ
場に、芝刈りに行く様に心がけています。でも、よく考えてみると運動を楽し
むよりは、芝刈り後のハイネッケンの生ビールと、お通しとしてついてくる揚
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げピーナッツが楽しみとなっている様です。
揚げピーナッツには、必ず、生の唐辛子を刻んで入れてもらっていますが、
辛いのが大好きな変な日本人がいると顔を覚えてもらったせいか、今では、私
がビールを頼むと、黙っていても刻んだ生の唐辛子がでて来る様になりました。
インドネシアの中でも、特に辛い料理が好きと言われているバリ人からも変
な日本人と殆ど呆れられている様です。
バリへ転勤して来る前のチェンマイ在勤時代、公邸料理人のタクシンさん、
そして私用車の運転手であるチャワリットと共にチェンマイ郊外の山の麓にあ
る滝見学に行ったことがありました。滝自体は、さほど感激する様なものは無
く、滝の入り口付近にある仕舞た屋風のレストランにて食事することとなりま
した。
その際、公邸料理人と運転手の食事の仕方を近くで垣間見ることができたの
ですが、タイ人二人の辛子の消費量が半端ではないことに度肝を抜かれてしま
いました。
二人の頼んだ料理は、目玉焼きが載った豚肉ミンチのパット・バイ・クラパ
オでした。料理が出て来るやいなや、彼等は、テーブルの上に置かれたナム・
プラー(タイの魚醤)の中に刻まれた唐辛子の入った調味料を手元に引き寄せ、
やおら、唐辛子だけを何杯も何杯も何杯も掬い上げ、料理の上におてんこ盛り
に載せて、なんとも言えない笑顔で、本当に嬉しそうに食べ始めたのです。
調味料入れの中の唐辛子は、あっというまに無くなり、本当にビックリ仰天
しました。
これは、大変不思議なのですが、公邸料理人のタクシンさんは、日常大変辛
い料理を食べているのですが、そのタクシンさんの創ってくれる和食は大変美
味しく、懐石料理でも通常の日本人料理人以上に美味しい料理を作ってくれて
います。特に、懐石料理の中で、最も難しいといわれているお椀(お吸い物)
ですが、彼の創るお椀の味は、昆布と鰹だしから出た旨味が佳く出ており、こ
れまで全てのお客様より、大変美味しく素晴らしいお椀との激賞をいただいて
おります。
実は、私自身の舌が、タクシンさんと同様にかなりタイ化(退化)してしま
っているので、タクシンさんの料理が美味く感じられるのではないかとも考え
たこともありました。しかし、日本から来られた舌の肥えた多くのお客様方か
らも、タクシンさんのお椀は素晴らしい、まさか、バリ島でこの様な繊細で美
味しい日本のお椀を頂けるとは思ってもいなかった等のお褒めの言葉をいただ
いる程です。
バンコクでは、懐石料理専門の邦人料理人の多くが、舌がダメになるから辛
いタイ料理は絶対に食べないようにしていると言っているのを仄聞したことが
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あります。タクシン公邸料理人の舌の構造は一体どうなっているのか、大変気
になるとこではあります。
公邸にてお客様に天麩羅をお出しする際、天つゆと大根おろしのみではなく、
岩塩を削ったお塩、カレー粉、ライム、そして生のトウガラシを刻んだものを
調味料として併せて出させていただいております。
お客様の中には、生のトウガラシを大いに評価してくれる有り難いお客もお
ります。これからも、タクシンさんと共にお客が驚愕し、かつ、(辛くて)涙
を流して喜んでくれるような辛くて、切ないほど透明感がある美味しい日本料
理の開発に精進して参りたいと思っているところです。
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今、私の机の上に「唐辛子の文化誌」(晶文社)という奇書が載っており、今回の文章
を書く上で、参考にしようと思っておりましたが、同書は、唐辛子に関する貴重な情報が
満載であり、その一部を敢えて紹介させていただくこととしました。げに、唐辛子の世界
は大変深いモノがあるようです。
〇たとえば、侵略してきたスペイン人を撃退させれるために、インカ人の人々が使ったも
のは、トウガラシだった。彼らはスペイン人の行く手に乾燥させた赤トウガラシを山と積
み上げて火を放ち、侵略者の目をくらませたのだ。
〇メキシコのユカタン半島に住んでいるマヤの人びとは、特定のトウガラシ以外には目も
くれない。それは、世界でも指折りの辛さだと誰もが認めるハバネーロという品種である。
これをマヤの人びとは焼いてからライムをしぼった汁につけこんで、調味料として使う。
〇世界で一番大量にトウガラシを食べるのはインド人ではなく、タイ人だ。一人当たり一
日にとるトウガラシの量は平均5グラムで、これはインド人の二倍に相当する。タイ人は、
非常に辛いグリーン・ピッキヌーというトウガラシを使って、とんでもなく辛くした透明
なスープを残さず食べてしまう。
〇アメリカの宇宙飛行士には辛口ソースが好きな人も多い。たとえば、持ち物キットの中
にちゃっかりトウガラシ・ソースを入れていた人もいたようだし、ウィリアム・ルノワー
ル飛行士は、1982年の打ち上げのときに、ハラペーニョと呼ばれるトウガラシを宇宙
飛行に持参したという。
〇世界でもっとも有名なトウガラシ・ソースといえば、タバスコ・ソースだろう。このソ
ースは、1870年、ルイジアナ州にあるジャズ発祥の地、ニューオリンズに住む銀行家
が考え出し、その後、彼のレシピに従って、同州アヴァレー・アイランドで製品化された。
そのジャズ全盛時代の1920年代、パリではタバスコ入りのカクテルがつくられた。
フェルナンド・ペティオットが、トマトジュース、ライムの絞り汁、ウスターソース、
塩、ウォッカにタバスコを少々入れて「パケット・オブ・ブラッド」と名付けたのだ。そ
の後それは、「レッドスナッパー」と呼ばれ、1930年代、彼がこのレシピをニューヨ
ークへ紹介すると「ブラッディー・マリー」という名となった。
〇1989年、ミルウォーキーにある醸造会社パブスト社は、トウガラシ入りのビールを
つくった。
〇南に済む人は北に住む人よりも辛い食事を好むのである。この法則は大陸や国の単位に
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おいてもあてはまる。同じアメリカ大陸のなかでも、南部の住人のほうが北部の住人より
も辛口の食事を好む。
〇16世紀、ギリシャの香料商人は、トウガラシの果実をコショウの果実と区別するため
チリ・ペッパーと呼んだ。それをハンガリー人がパプリカと変え、イタリア人は、ぺぺロ
ーネと呼んだ。また、イギリスではレッド・ペッパー、ドイツでは「インドのコショウ」
を意味するインディアニシャー・ペファーと呼んだ。
〇トウガラシにまつわる名称はさまざまであるが、それをそのまま名前に使っている島が
ある。バリ島から海峡を横切ったところに位置するインドネシアのロンボク島だ。ロンボ
クはジャワ語で赤トウガラシを意味しているのだ。
〇なお、チリの国名はトウガラシからきたものではない。これには、チリ原産の鳥の名前
に由来するという説と、先住民の指導者の名前だっという説がある。
〇乾燥したトウガラシを飼料に混ぜてニワトリにあたえると、その足は明るい黄色に、卵
の黄身はオレンジ系の赤色になる。
〇アステカではトウガラシの辛さをナワトル語でつぎのような6種類に分類していた。
ココ(辛い)、ココパティック(たいそう辛い)、ココペツ・パティック(非常に辛い)、
ココペツティック(激辛)、ココペックァウィトル(究極に辛い)、ココパラティック(逃
げだすほど辛い)
〇有名な医学雑誌は、トウガラシには心臓の発作の危険を軽減したり、ガンを予防したり、
肥満を予防する性質があると報告している。
〇トウガラシの原産地はインドあるいは中国だと信じている人も多いが、じつは南アメリ
カ原産である。厳密な原産地を特定することは、植物学者のあいだでも重要な研究課題と
なっており、いまなお議論が続いているが、ボリビア中部地方というのが定説になってい
る。トウガラシの原産地がインドだという勘違いは、史上最大の誤解のひとつであり、イ
ンド国民があまりに熱狂的にトウガラシを好むために起こったものだ。
もう一つのスパイス、コショウ、つまり黒コショウの原産地はインド、もっと厳密にい
うとマラバール海岸である。この黒コショウの小さな粒は、インド西海岸にある港町カリ
カットとキロンからアラブ商人によってギリシャ、そしてヨーロッパへ伝えられた。その
後、ポルトガル、スペイン、イタリア、オランダ、イギリスなどのヨーロッパでコショウ
は珍重された。そこで、香辛料貿易を独占しようとして、ヨーロッパ人達は激烈な競争を
しながら、未知の海洋へと乗り出していったのだ。
〇コロンブスが持ち帰ったトウガラシは、ローマカトリック教会司祭達の印象にのこるこ
とはなかった。ジェノバの一市民であった冒険家のコロンブスがそうであったように、ト
ウガラシもヨーロッパでは長い間忘れ去られてしまったのである。
一方、ポルトガル人は、南へ南へと進路を取りながら航海していたが。その時偶然、ブ
ラジル東海岸の交易地プルナンブコでトウガラシを見つけた。このトウガラシをポルトガ
ル人はガリオン船に積み込み、次の交易地であるアフリカ西海岸にタバコや綿花と一緒に
運んでいったのだ。
その後、トウガラシを乗せた船は喜望峰を通ってインドの西海岸にあるゴアに到着した。
船に積まれてきたトウガラシは、その地でプルナンブコ・ペッパーの名で知られるように
なる。さらに、トウガラシは、ゴアを出向し、マレー半島とスマトラ島の間をまっすぐに
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通り抜け、マカオへ、日本の長崎へ、さらに南に向かってフィリピン諸島を通って、そこ
でアフリカ人奴隷と共にオランダとイギリスの船に積まれたトウガラシは、インドネシア
とニューギニアの間にある香料諸島(モルッカ諸島)へ向けて航海をつづけ、さらに、故
郷のアメリカ大陸へ向けて太平洋を横断していったのだ。こうしてトウガラシは、50年
足らずの間に、世界一周の旅を成し遂げたのである。
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