喉平手打ち幸せ

梁 山 仙 姑
結話
ムーラン
木蘭の乱から半月が経ち、ようやく町も落ち着きを取り戻してきたころ。
リャンシャン
梁 山 楼から俺宛に招待状が届いた。
ハイダン
差出人は海棠だった。今回、色々と頑張った俺をねぎらうため、宴席を設けたとのことだっ
た。大したことはしてないのに大げさな奴だな、と俺は苦笑したが、喜んでその招待を受ける
ことにした。
宴は、明日の晩に始めると書いてあった。
シャンフェン
翌日の夕方。裏口から外に出ると、隣のドアの前で、 香 風 が腕組みして立っていた。ふて
くされた顔をしている。
「どこへ行くの」
「お前には関係ねえだろ」俺は、いつもどおりの減らず口を叩いたつもりだった。ところが、
シャンフェン
香 風 は急に顔を歪め、涙をぼろぼろとこぼし始めた。
「そんないい方……ないじゃない」
「お、おい」
シャンフェン
俺は慌てた。まさか 香 風 からこんな反応が返ってくるとは思ってもいなかった。いつもと
違う状況に、どう対処すればいいのかわからず、あたふたとしてしまう。
リャンシャン
リャンシャン
リャンシャン
「 梁 山 楼だよ、梁 山 楼。この間の事件の慰労で、俺に宴席を設けてくれるんだって。梁 山
楼に行くっていったら、お前がヤキモチ焼くんじゃないかと思って、それで隠しただけだ。別
に意地悪したくて乱暴な返事したわけじゃないぞ」
「妬くわよ」
「え」
「妬くに決まってるじゃない! そんなのっ」
シャンフェン
香 風 は俺の頬を平手打ちした。直後に、俺の胸に飛び込んでくる。
「どうして私を責めないの!? 私がどんなことしたか忘れたわけじゃないでしょ!? お願いだ
から怒ってよ! 私をなじってよ! 私を――私を、見捨てないでよぉ!」
シャンフェン
泣きじゃくる 香 風 。俺は彼女の言葉を聞いて、自分の犯した小さな過ちに気がついた。罪
を見逃すのは、優しさじゃない。相手によっては、それを絶縁の始まりととらえるんだ――せ
シャンフェン
めて、
あの事件の後、
何か説教でもしてやるべきだった。
何もいわなかったから、
かえって 香 風
は俺に嫌われたと、勘違いしたのだ。
1
シャンフェン
俺は 香 風 の頭を抱え、
髪の毛をグシャグシャと掻いた。
我ながら乱暴な動きだと思ったが、
これが俺なりの、最高級の説教だ。
シャンフェン
「この、大バカ女」俺の言葉に、 香 風 はさらにワッと大声で泣き出した。だけど、声から哀
しみが抜けた。抜けた、ような気がした。
シャンフェン
しばらく、俺は 香 風 の涙を受け止め続けていた。
リャンシャン
梁 山 楼の宴は盛大だった。
山海の珍味をそろえた会席料理に、大宋国各地から取り寄せた大量の地酒。
「おう、今宵は派手じゃのう!」
ジウニャン
大広間に所狭しと並べられた酒や料理を前にして、弓 娘 は障子を開けるやいなや、喚起の声
ジウニャン
ハイダン
を上げた。参加する妓女たちのなかでは、弓 娘 が一番最後だった。幹事の海棠は、仏頂面で、
「遅い」と文句をいった。
「それほど遅れてはおらんではないか。まだ五分程度の遅刻じゃよ。まったく、細かい奴じゃ
ジウニャン
のう……」唇を尖らせて、弓 娘 はブツブツと文句をいった。
酒宴が始まると、たちまち場は賑やかになった。
ジウニャン
ヘイレン
酩酊した弓 娘 が隣に座り、俺のうなじに腕を回して、
「ううん、愛してるぞぉ、黒刃」とい
ジウニャン
つものようにからかってきた。俺はニヤリと笑い、
「俺もだ」と返してやった。一瞬、弓 娘 の
頬にボッと朱が差した。
「嘘だよ、バーカ」すぐに舌を突き出した。
ジウニャン
弓 娘 は俺の隣を離れた後、
「あんな若造に逆にからかわれるとは!」と大声で騒いでいた。
俺は溜飲が下がる思いだった。いつもいつもからかわれるだけで終わってたまるか、ってんだ
よ。
「おお、やってるな。どれ、私も参加させてくれ」
広間に入ってきた男の声に、俺は驚きのあまり、酒を気管に流し込んで、ゲホゴホとむせた。
いつも、このロマンスグレーは、唐突に姿を現しやがる。
チャン
「なんだよ、 張 知府。あんたも呼ばれていたのか」
リャンシャン
「私は 梁 山 楼を管理している天導司だぞ。来て悪いか。……もっとも、その役目も今日まで
だがな」
「ん、どういうことだよ」
ジンヘイレン
「本日をもって、陛下は天導司の辞任願を受理された。代わりに、秦黒刃――お前の着任につ
いて許可を出してくださった。よって、今日この瞬間より、天導司としての全権をお前に委譲
する」
俺は杯を床に落とした。このオッサン、何をほざいてやがる。
「あらまあ、押司はんが天導司はんに昇格ですえ。こらほんまにめでたいわぁ」
2
赤龍がまったりした口調で、俺の着任を祝福してくれた。だけど、ちっとも嬉しくない。頼
むから、俺に面倒事を増やさないでくれ。
「なあ、前々から聞きたかったんだけど、どうしてあんたはそんなに俺に目をかけるんだよ。
江賊だった俺の罪を許して配下にしたり、皇帝暗殺計画の阻止なんて大事な仕事を、俺にばか
り任せたり……俺の何に期待して、あんたは俺を取り立ててくれてるんだ?」
ずっと感じていた疑問。俺は自分を卑下するほど、自分が優秀ではないなんて思っていない
が、それにしてもここまで抜擢されるほどの人物でもないと思っている。
チャン
すると、 張 知府は意外なことを語ってきた。
「罪滅ぼし、かな」
「えっ?」俺は首を傾げる。
イェン
「五年前、袁 知県の邸で、お前は恋人を助けようとしたな。しかし、あとちょっとで外に出ら
れるというとき、誰かが門を叩いて袁知県のことを呼んでしまったため、見つかった」
「ああ、それで? ……いや、待て――まさか、そんな!」
「あのとき、扉を叩いていた役人――それは、私なんだ」
チャン
張 知府の告白に、俺は体が痺れたようになって動かなくなる。このとき感じていた気持ちを
どう表現すればいいのか。怒りか、哀しみか、憎しみか。あるいは何も感じていなかったのか。
「だから、私は知府となったとき、誓ったのだ。もしもお前が再び私の前に現れるようなこと
があれば、そのときは、かつて恋人を救えなかったお前のために、父親代わりとして、精一杯
面倒を見てやろうと……そう思ったのだ」
「だから、俺のことをずっと気にかけて……」
「しかし、それも今回で終わりだな。お前は十分独り立ちできる力を持っている。その力を発
揮するための道具――天導司の役職とともに、梁山楼を与えた。これで、父親代わりとしての
ヘイレン
私の務めは終わりだ。あとは――頑張れよ、黒刃」
チャン
チャン
張 知府に何かいわねばと、俺は口を開きかけたが、そのことを察したのか、早々と 張 知府
は別の席へと移っていった。
タイミングを外された俺は、ただひたすら呆然として座っていた。
リンリン
しばらく飲んでいるうちに、凛凛が横についてきた。
「どうぞ」
リンリン
リンリン
涼やかな声が耳をくすぐる。
凛凛に注がれた酒を、
俺はひと息に飲み干した。
ふと、
もしも凛凛
に、
「愛している」といってやったら、どんな反応が返ってくるのだろうと思った。ちょっとか
らかおうかと思った。酒宴だから、それぐらいのことは無礼講だろう。
リンリン
ところが、なぜか凛凛に対しては、妙に強く意識してしまい、冗談でも「愛している」など
3
とはいえなかった。胸が高鳴る。まさか、と俺は思い、自分自身の気持ちを振り返ってみる。
リンリン
これまで、ずっと凛凛と行動を共にしてきて、俺は何を感じていたのか。すると、自分のこと
リンリン
ながら、驚く結論が出てきた。俺は、もしかして凛凛に本気で――
リーファ
「李花さんは、どんな方だったんですか?」
リンリン
二杯目の酒を注ぎながら、凛凛は聞いてくる。その質問の内容が、いま俺が考えていたこと
を心の片隅に押しやった。
リーファ
「李花は、名前のとおり、花のような女だった」
リーファ
春夏過ぎて、秋冬が来ても、一年中花が咲いているような女性。周りの連中は、李花の美貌
リーファ
ばかり褒めていたが、俺が感じていた李花の魅力はそんなものだけじゃない。どんな苦しいと
きでも屈託なく笑っている、闇夜でも明るい桃李の花のような、眩いばかりの存在感。それが
リーファ
李花の本当の美しさだと、俺は思っていた。
リンリン
沈んだ表情になった俺を見て、凛凛も眉をひそめる。
リーファ
ヘイレン
「李花さんのことは、本当にご愁傷さまです……でも、黒刃さまは、悪いことはしてません。
正しいことだったと、私は思います」
「そうだと、信じたいな。まだ、自信が湧かないけど」
ヘイレン
リンリン
ヘイレン
リーファ
「黒刃さまは」心なしか、凛凛は唇を舐めたようだった。
「黒刃さまは、その後の、李花さんの
行方を知らないのですね」
「ああ」
※ ※ ※
リーファ
五年前のあの日、李花は死ななかった。
イェン
リーファ
死んだのは 袁 知県だけ。李花だけは、医者に連れていかれ、無事に一命を取り留めた。
リーファ
だけど、李花の体には傷が残った。 背中に斜めに入った切り傷。赤黒く変色し、治療した
後も、醜い傷跡がずっと残っていたそうだ。
リーファ
その後、俺の家族が村を追い出されるのと同時に、李花もまた妓楼を追われた。俺の家族は
リーファ
東の海に出て、小さな島国へと移住したという話を聞いたが、李花のその後は悲惨だった。各
リーファ
妓楼を転々としていた李花だが、背中の傷がネックとなって、まず雇ってもらえず、雇っても
らえても長くは勤められなかった。商品にならないからだ。
リーファ
リーファ
そして、李花は完全に行方不明になった。妓女として生きることもできない李花が、最後に
はどうなるか、ちょっと考えればすぐにわかる。噂では、どこか遠い土地で野垂れ死んだとい
う話だった。
俺は、自分を呪った。
4
リーファ
俺のせいで李花は無残な最期を遂げた。そう思うと、自分がのうのうと生き続けていること
が、許せなかった。
俺は自暴自棄になり、江賊の仲間入りをし、二年後には黒龍団の幹部となっていた。あるい
イェン
リーファ
は、俺は誰かに裁いてもらいたかったのかもしれない―― 袁 知県殺しの罪ではなく、李花を死
へと追いやったことに対する罪滅ぼしとして。
だけど、俺は生かされた。
イェン
チャン
リャンホー
チャン
あのとき、 袁 家の門を叩いていた男、 張 ――いまは梁 河 府の知府にまで出世した、 張 叔
夜によって。
※ ※ ※
ヘイレン
「……あの、黒刃さま」
リンリン
うつむきながら、凛凛は話かけてくる。
「実は、私たちから贈り物があるんです」
「贈り物?」
「はい」
リンリン
凛凛は浮かない顔をしている。贈り物をするというのに、おかしな様子だった。
ハイダン
リンリン
リウ シ ー シ
「そのことなんだが」海棠が凛凛の横に座って、話に加わってきた。
「実は、劉師師が、お前に
会いたいそうだ」
リャンシャン
リウ シ ー シ
梁 山 楼のトップ、劉師師。彼女に酌をしてもらった客はほとんど存在しないという、まさ
シェンクー
に高嶺の花の存在。龍船賽の会場で会ったときですら、俺と面と向かうことを拒んでいた仙 姑 。
いや、あのときは様子が違った。おそらく、もしも、俺の推測が単なる夢物語でないとした
リウ シ ー シ
ら、劉師師は――。
リウ シ ー シ
「これが劉師師の部屋に入る鍵だ。受け取れ」
ハイダン
リンリン
海棠にうながされ、凛凛は胸元から紙袋を取り出した。その中から、さらに鍵を出す。鍵に
ついている翡翠の玉を見た瞬間、俺の背筋に電撃が走った。
「まさか」俺は呟いた。
リンリン
リンリン
「いいのか……?」二つの意味を込めて、俺は凛凛に尋ねた。凛凛は切なそうに眉根を寄せた
が、すぐににっこりと微笑んだ。
無理している感じが伝わってくる。俺の胸にチクリと痛いものが走った。もしも、こういう
ことがなく、二人の関係がずっと続いていたなら……いや、やめよう。こうなったら、その未
来はなくなったも同然だ。考えるべきじゃない。
俺は、自分もまた微笑むことで、湧き上がりかけた感情を押し殺すことにした。
5
目を覚ますと、そこはまだ大広間だった。
シェンクー
チャン
仙 姑 たちも、 張 知府もいない。俺だけ眠っていたようだ。すでに外は明るい。酒に酔って
熟睡していたから、時間の経過が実感を伴わない。頭を振るが、頭痛はしない。良質な酒だか
らこそ二日酔いで響かないようだ。
ふと昨日の宴は夢だったのだろうかと考えてみる。
いつの間にか食事や酒は片付けられており、机も外に運び出されている。宴があった痕跡な
ど存在していない。
リウ シ ー シ
だが、俺の手には鍵が握られている。劉師師の部屋へと通じる鍵。紛れもない現実。そして、
いまの俺に求められていることは――。
廊下に出て、階段に向かう。大広間のある五階から、最上階を目指して。
「行ってこいヨ」
ファマン
部屋からひょっこりと、花蔓が色黒の顔を出し、俺にエールを送ってくる。その小さい頭に
ファマン
手をのせ、グシャグシャと髪を掻いてやる。ゴロゴロと花蔓は嬉しそうに喉を鳴らした。
「行っ
てくる」俺は応えてやった。
タオメイ
階段を上っている最中に、踊り場で刀妹と出会った。無表情だが、微かに目が笑っているよ
うに見えた。俺たちは、互いに目で会話をし、すれ違った。
ジウニャン
ジウニャン
八階の廊下を歩いていると、弓 娘 がはやし立ててきた。俺は殴る振りをした。弓 娘 は笑い
ながら、応戦する振りで返してきた。
ついに目的の部屋の前に到着した。
翡翠の玉が扉の中央に埋め込まれ、蛇のような文様が艶やかに刻まれている。その扉に手を
かけ、俺は部屋のなかに入った。
ふわっ、と桃梁香の薫りが漂ってきた。
...
あいつが好きだった、桃の匂いがする香。
...
本当にそうだとわかって、俺は一歩踏み出すのを躊躇した。だけど、
「もっと、近くへ」
..
部屋のなかの彼女に手招かれ、俺はフラフラと歩を進めていった。
※ ※ ※
ずっと苦しんでいた。あいつは俺をどう思っているのだろうと。
イェン
俺にはああするしかなかった。袁 知県のもとから、あいつを救い出す。愛する女が惨い目に
遭ってると聞いて、黙っていられる恋人がどこにいる?
6
けど、そのせいであいつは地獄の苦しみを味わった。
俺が動かなければ、何も変わらなかったかもしれない。
あいつも運命を受け入れて、幸せに生きる術を見つけていたかもしれない。
だから、あいつも同じことを考えているに違いないと、俺は思っていた。俺がバカな行動を
起こさなければ、野垂れ死ぬことはなかった。家族を失うこともなかった。恨んでいるに違い
ないと、そう感じていた。
あの世であいつに再会できたら、俺は甘んじて恨み言をぶつけられようと、覚悟を決めてい
た。
あいつを不幸にした原因は、俺にあるのだから――
※ ※ ※
窓ぎわに翠色の梧桐や竹が並べられ、
陽光を受けて輝いている。
室内には白梅が鉢で飾られ、
薫り高く雪のように白い花びらが、卓上にはらはらと散っている。壁一面に本が並んでいる、
本棚のなかに、香の盆が置かれている。桃梁香。
彼女は、
碧と白の爽やかな衣を身にまとい、
妓女風に艶やかな感じで両肩を露出させている。
リャンシャン
真っ直ぐ、背筋を伸ばして立っている。威厳と風格。 梁 山 楼の楼主としての誇り。でも、俺
の目には、懐かしいあいつの姿が重なって見えた。
「俺を」俺は胸の詰まる思いをこらえ、声を絞り出した。
「俺を、恨んでいないのか……」
窓の外を見ていた彼女は、しばらく黙っていた。やがて、こちらへとゆっくり顔を向け、ふ
っ、と笑みを浮かべた。その笑顔に、俺は見覚えがある。五年前まで、いつもそばにあった愛
らしい笑顔。俺の大好きだった表情。
「私は」彼女は微笑みながら、穏やかに話しかけてきた。
「私は、変わらぬ私のままです」
リャンシャン
風に運ばれてきた桃花が、 梁 山 楼の外で舞っている。花びらが窓から室内に入ってくる。
俺と彼女の間の床に落ちる花びら。俺が拾おうとすると、その手に、彼女の手が触れた。二人
で同じ花びらをつまみ、胸の高さまで持ち上げ、見つめ合う。
「これはほんの一瞬の邂逅」彼女の笑みは寂しげなものに変わった。
「それでも」
俺は彼女を抱き寄せる。人間の俺と不老の彼女。役人の俺と妓女の彼女。五年前のように肩
を並べて歩くことは許されない。愛し合えば傷つくだけ。だからこの再会は夢と思わなければ
ならない。天が与えてくれた刹那の奇跡。
「ありがとう」
耐えようとしたはずなのに声が震えた。涙が頬を伝う。
7
リーファ
「ありがとう、李花」
リャンシャン
梁 山 の桃花は一年中咲く。まさにこの世の楽園。桃源郷。それでも花びらは散ってゆく。
リーファ
リウ シ ー シ
永遠の存在にも消えゆくものがある。李花という花びらは散っていった。ここにはもう、劉師師
という妓女しか存在しない。
それでも。
リーファ
この幸せが永遠に続くといいな――俺は心のなかで李花に囁きかけた。
リーファ
李花は俺の胸に顔を埋めた。
桃梁香の甘い薫りが、胸の奥まで染み渡ってきた。
8