山口侑紀 「屠畜場の聖ヨハンナ」の記憶をめぐる5つの覚え書き 1.先日

山口侑紀
「屠畜場の聖ヨハンナ」の記憶をめぐる5つの覚え書き
1.先日、とあるフランス映画を見たのだが、ああ、綺麗だな、という風にあまりにもす
ーっと自分の中を通り抜けて(あるいは私の外を通り過ぎて)いったので、どこか決まり
が悪く感じた。親の死のショックが原因で話すことができなくなった 33 歳の青年が、マダ
ム・プルーストなる人物の淹れたハーブティーを飲むと、思い出の音楽と共に在りし日の
母と父との記憶がよみがえる、といった物語なのだが、心地よく思えた音楽のどのひとつ
も映画館の灯りが付いたころには思い出せない、口遊めない。それに比べて(と、ようや
く本題に入るのだけれど)私は「屠畜場の聖ヨハンナ」の音楽をいまだにほとんど(!→
記憶の中のリストに基づけば。
)口遊むこともできるし、仕事中神保町で「救世軍」の文字
に触れれば、いまだに交差点の後ろから、意気揚々と黒いスカートをひらめかせやってく
るヨハンナたちの息吹を感じることができる。
がむしゃらに毎日を過ごすうち、気が付けば劇場の暗闇に接してから季節がぐるぐると
まわってしまったけれど、まだ私はヨハンナがいる世界をどこか生きている。
2.
「ジュリア」という映画を見るとき――幼馴染だった女の子二人の一人が反ナチスのレ
ジスタンス活動に加わり、もう一人が彼女を助けるために命がけで列車の旅をするシーン
があるのだが、大した確証もなしに互いが互いに命を預ける、その息をのむ展開の間、私
の心の裾を引っ張るような緊張の感覚は、あの、舞台の真ん中に組まれたやぐらの下でう
ずくまっているヨハンナとマルタの姿を呼び起こす。正々堂々と自らの不思議を呼び求め
るヨハンナと、そんな彼女に付いてきながらもその場を去るマルタ。のちにヨハンナが去
った救世軍で、マルタは自らのなすすべのなさを独白することになる。
この二人の関係は、アンティゴネーとイスメネーの関係と似ている。死罪に当たる罪だ
と知りながら、兄に墓を作りに行ったアンティゴネー。そんな彼女を止めようとし、最後
に言葉をかけてアンティゴネーを見送ったイスメネー。彼女の言葉は多様に解釈されてい
るけれど、私はシモーヌ・ヴェイユの解釈が一番好きだ。「分別をなくしているようだけれ
ども、あなたは大切な人です」
。しかしそういう素朴な愛情、ヨハンナを助けることもでき
たかもしれない「肯定」の感情は、大きな十字架の都合の良い正当化の前に声を出すこと
ができない。
(ここにジェンダーを読み込むこともできるかもしれない。)
二人がやぐらの下で、黒い衣装と暗闇の中で互いが互いにそれほど違ってはいなかった
(かのように見えた)瞬間は確かにあった。二人は接近し、そして遠ざかって行ったけれ
ど、あの二人の寄り添ったぬくもりの痕跡が、この劇の一番の良心的なシーンである。そ
してそれは単にプロットだけでは与える感覚が不十分だったのではとも思われる。配置、
照明、俳優の背丈や息吹も相まって、全てが調和的に、悲劇の始まりでありながらも、唯
一希望となるあの一瞬の調和が生まれたのではないだろうか。そしてその調和は、和音が
聴き手に与えるうねり(差音)のように、予期しないところで、観る者の身体に跡を与え
るのである。
3.T先生に言われ、まずは原作を読んでから――と思って観劇よりも前に本を手に取っ
たものの、ヨハンナの「いい子ちゃんぶり」に嫌気が差してしまった。そんな綺麗事を繰
り返したって、何も変わらないじゃないかと。私のようなやさぐれタイプにとって、彼女
のようなタイプは正直苦手だ。勝手に自分の理想を追い求めて、無理が出ただけなのでは
ないだろうか、とさえ思っていた。まるで「自業自得」とのように。
それが素直に、ヨハンナの悲しみに観劇中は胸が苦しくなるようだった。どうしてだろ
う。
(これが俳優の力というものかもしれない。)
うまく言い表すことができないのは自分の保身のためなのかもしれないのだけれど、そ
れでも何かを言おうとすれば、一気に坂を下るようにして苦しみを増していくヨハンナの
姿を見るに――つまり、ハツラツとしている序盤よりも、時に人を憎み、
「理想」とはかけ
離れた彼女の姿を見るに――はじめてヨハンナの人間性が見えてくる。
イエス・キリストを人は敬うが、彼を必要とすることで、彼に苦しみを強いている。た
だ、
「隣人愛」を説くだけではイエスも聖人になれなかった。彼が苦しむことを、転じて人々
は歓んで受け入れざるを得ない。一度、海外のカトリック教会でクリスマスのミサに出席
した時、私は祈り方も分からず、ただ他人の真似をしている間に、彼が生まれてこなけれ
ば苦しむことはなかったのに、と思わざるを得なかった。皆が生誕を祝うその人は「エリ、
エリ、レマ、サバクタニ」
(主よ、どうして私を見捨てたのですか)と言って(一度は)絶
望の内に殺されたのと同じ人物なのに、その苦しみを強いていいわけがないと思ったので
ある。
そもそもヨハンナを「聖人」に祭り上げたこの作品が、波及的にひとつひとつ、聖人に
バツをつけていくとすれば、いずれはキリストその人も、他者に祭り上げられたカッコつ
きの「聖人」でしかないのだと、
(つまり、現在の個々人の問題ではないということ)<そ
もそも>を揺り動かすことになる。あまり考え始めると、底の見えない奈落から自分を保
っている、わずかに足のサイズを出るでしかない場を自らで崩すような行為になりそうだ。
それでもつま先で砂をえぐり続けた、おそるべしブレヒト。
4.今回「屠畜場のヨハンナ」を2度観劇させていただいたが、一番印象が変わったのは
モーラーである。単なるヒールではない。しかし、よくある「実はいい人」というわけで
もない。初回時(ゲネプロ時)には、モーラーはいい人だ、という印象を受けたが、最後
に見たときには、単に二極で表せない、けれど複雑であるとまでは言い切れない、何と言
ってよいか分からないけれども、ひどく合点がいった。つまり、完全に「悪い人ではない」
と「~ではない」と言い表すでしかない、それでいて自立した人物のように感じたのだ。
資本主義というシステムの中にあって、彼は代替可能であるように見えて、実は流れによ
って姿を変える特異な人物のようにも思われる。そのつかみどころのなさが、常にこちら
に感情を投げかけるヨハンナと、対称をなしている。
5.私は福島県出身なのだが、大っぴらにお土産を拒否されたり、行きたくないと言われ
ることよりも、一番堪えるのは、例えば次のような瞬間にある。通っている語学学校で、
出身地の話をしている時に、
「福島出身」と言おうものなら相手は気を使って話を聞こうと
しない。初対面の人に出身地を聞かれ、答えると、
「えっ……大丈夫でしたか」と会話が止
まってしまう――。差別というのではなく、そもそもは他のどんな地名とも代替可能だっ
たものが、何か触ってはいけないもののように扱われる瞬間に、私はとても辛く思う。
3・11以降、
「フクシマ」は演劇で取り上げられるテーマとなった。言葉にならぬモヤ
モヤに、とても元気をくれる演劇も中にはあったけれども、観劇して辛くなったものも、
感想が自由に言えず悲しくなったものも、たくさんあった。「猫も杓子も」という印象を、
正直抱いた。
私が好きな某先生は、震災後のどんなシンポジウムその他にも加わらなかったけれど、
それは彼女なりに、ここで騒いでは自らの学問の無力さを露呈するだけだ、という相当の
覚悟があったからだという。
今回のヨハンナは、もちろん原発事故と無縁ではいられなかったと思うけれども、それ
でも無理に現在に寄せようとはしなかったことが、それ自体、あまりに個人的な感想なの
かもしれないけれども、私の大きな励ましとなった。無理にこじつけなくても、十分に何
かメッセージを感じることができる。それに、観客もそれほど馬鹿じゃない。示さなくて
も、勝手に繋がりを感じるかもしれないし、時には作り手に思いもよらぬような超個人的
な体験を結びつけるかもしれない。ハイナー・ミュラーが言った、私の好きな言葉に、テ
クストは作家よりもはるかに雄弁である、という一節がある。(これはプラトンも『饗宴』
の中で言っている。
)言葉の繋がりは、作家の思う以上の効果を与える。演劇も同じことな
のだと思う。
無理に舞台を現在に寄せない、とは書いたけれども、プロジェクターやスクリーンを多
用した舞台づくりや、何より最後の、日々更新される現在の世界情勢ニュースは、ストー
リーへの没頭を防がない形で、フィクションをどこかに感じさせるものであったかもしれ
ないし、舞台を昔だと切り捨てるのではなくスムーズに現代に誘導させるものであった。
時に、観劇数が少ない私でさえ、観たことを忘れる舞台がある。でも、「屠畜場の聖ヨハ
ンナ」は、今もまだ、そこかしこの街角に登場人物がいるような、振り返ってしまうよう
な、思い出の痕跡を保っている。まだ私は、ヨハンナのいる世界を生きている。幕の無い
舞台の終わりでいざなってくださった現在で、いろんなことを試されているだろうなとも
思います。素敵な舞台をありがとうございました。