派遣回想明滅(II)

しかし,そんな
切なげな望郷の
生活は,周
を
注いで「呑みねえ
,呑みねえ,年何って
言
囲の生.活が
地についている
人達から見れば・
ったけ ね」まるで森の
石松みたいな
調子とな
多分, 隣 れに見えたに
違いない,急に
皆の態
る,ラテン系は
概してこんな
調子なのだ。
度が変ったのが自分でも良く
判った。周囲の
だが,立場上,あ
まリチリ人の
同情に甘え
人達は,以双にも
増して親切て ,私をいたわ
ている訳にはいかない。
チリに協力に
果たと
るように時男
lJに気を使っていた。
私が何か喋
いうのに,貧しい
留学生みたいな
状態で居る
色が見えた。 のはやはりまづい。
ると相手はホッ とした様に安心の
日本政府派遣の
技術者と
毎週誰かに招待されたし。
町中の人が一心に
して言葉少なに
, 奥めかしく,思慮深そうに
なって私に同情している
様だった。まるで交
学識経験者らしく
,専門家然 としてい なけれ
通事故に逢って
両親を亡くした
遺児の様に気
ばならない。これは,案外うまくやれた
,何
の毒がられた。
W 角で義 損金でも集めたら
数
のことはない ,地で行っただけの
事なのだ,
目
で全町民のカンパが
集るのでないかと
思っ
と
言って私の素地がそんな
奥ゆかしい気品と
時に世
た程だ。ことの外, 白石さんが倒れた
重厚さ力引 備わっていたのではない
,本当は,
話になった病院の
医師や看護婦
達には随分慰
められた。特に彼等は英語を
話すので他の
, スベイン語が
喋れ
言葉少などころではなく
ないだけだ。
何か喋ろうと
一生懸命早語を探
どのグルーブよりもつき
合いが深かった。
そ
」,思い出そうとしているその
顔は, 深いぽ、
のほか,ホテルの
従業員達 とも大変うまくい
慮の奥底にある東洋哲学の
境地を街往ってい
った。それは毎日生活を
共にしているような
る様に見えるらしい
,こちらは念々仕様がな
ものだから自然に
家族的な雰囲気が
醸し出さ
解
いので英語で
喋ってしまう。
すると相手が
れ いつでも好きな
時に好きなものを
台所で
らない" 解ってしまえば
大した事ではなく
,
つまみ喰いが出来た。コック達は,むしろ
私
実に単純な事であ
り,
が気楽に台所に来てくれることを
喜んで
くだらぬ事であ
っても
自
それが解らないうちは
何か大変意味の
深い重
分の仕事を得意になって
見せてくれた。「今
要な事を言っている
様に思えるらしい
,まる
日,俺はこんなにジャガイモの
皮をむいたん
で新興宗教の
教祖の御言葉みたいな
不思議な
どうど,すごい
量だろう」と,こちらも
魅力が伴っていたよ であった。大概は,彼
だ。
う
わざと目を丸くして「へえ
, 大したものだな。 等は日本人から
見たチリ国をど
う思うかとよ
お前は本当に
働き者だ。奥さんはさぞかしお
く訊ねた。
しかも時には
自虐的に質問するの
前を誇りに
居 、 っているだろう
, それに俺は
で困ることがあ
る,例えば「チリ
人は頭が悪
イモが好きなので
安心したよ」などと
言って
いバカな 奴ばかりで
; あ まりよく働かないし
やると益々有頂天になってコップにフドー
潤
何をやっても駄目だ,だからいつまでたって
一
1
a7 」その通りだとも
言えないので
一応は。
ゴ
「そんな事はない。
日本にだって
バカな奴は
大勢いるさ,チリの
10@吾は居るよめというと
「おせじ ゃ,謙遜てなく,本当のことを
聞か
, 日本は
せて呉れ」と言 うめ て「本当だとも
チリのⅠ㎝吾の
人口なのて ,バカが10 人に 1 人
居るとすれば数の上では日本人の
方がバカな
奴の数が多いのは
当然だろう。
人間のバカさ
加減など日本もドイツもチリも
比率の上では
大差はないよ 」と答えると
誠に感心して「へ
えコ そ
う
かねえ,成程なあ
」と眩きながら
安心し誇りに 満ちた幸せを感じるらしい。
これが,同じ
事をチリ人が言ったのでは
全く
効き目は無い 様だ。外国人が言うところに
教
祖的な魅力があるのだ。外国人というのは
何
となく新鮮なものを
撒き散らすものだ。
それ
は価値観俳が
異6 場合が多い からである。 そ
の国では全く馬鹿げた事でも
他の国へ行けば
それが大変賢明な
事であり人々の手本とされ
る場合がある。 新興宗教も又価値観俳の
相違
であり,今まで馬鹿だと
思い込んでい たのが,
, その時から一転し
それを信じることにより
て利巧者に変るのであ
る。 努力せずにいい 気
持にさせる。
安上りな哲学が
秘んでいろ。特
にチリの国際的地位は
低く,力も無い 弱者で
あ り。 無声階層であることはチリ
国民自身よ
く知っている。
だから,日本に対して
,一般
的にはひけ目を
感じている様だ。
つまり,日
本人より不幸だと
思っている。そういう人達
へ新たな見方を
取り入れ,不幸どころか
,貴
方達の方が幸せな
面を多く持っている。
と知
みせると,もう,すっかり
嬉しくなって何度
もその話を聞きたがる。
例えば,日本では人
亡しく動いてい
件費が高く,且つ
,世の中が@.
るのでサービスする
人がなく,飲み
物や,タ
バコは勿論,一寸した
軽い食事だって自動販
売機で買 23 になっている。これは人間の
う
,
触れ合いが無く
淋しいものだ。
と説明すると
4
ム
目ヒ
も 良い国にならない。
ドイツ人と日本人は
頭
がいい国民だが
,お前はチリ人をどう居、
ぅか
くめ て。あ る。 そのうちに友人。
知人が出来て
な人間関係の
推移や感情の起伏などのように
,
来てコミュニケーションの
輪が広がってくる
人間心理の奥底にかかわり
合い のあるもの。
と,自からそれなりの
世界が現われチリだ
社会構造の奥深いところに
連がりのあるもの
とか日本だとか
何とも巳 れなくなり,鏡で
自
については
¥Q のものが1 つでもうまく
言えな
分の顔を見るまでは
周辺のチリ人と同じ顔を
いのである。 自分では解っていても
,それが
している様な
気になってくる。
人間,世界の
言葉にならない
事の方が多い。
だから,い
何処に住んで
居ても,ごく自然にさえしてい
ら説明しても
,なかなかそうならないゆえん
ればそれでいいのだとは、 ぅ
がそこにある。 厚味や味がうまく
出せないと
よ
う
になった。そ
く
れは生々しい日々の生活と
体験を経て到達す
なると,折角の
専門家特有のものが
消えてし
る一つの境地であ
るのだと思う。
確かに一度
ま
迷う事は自分で
物を考えるようになるための
ものとなるし。
書くとなったら
,なおさらで
い 唯の旅そ千き炎
とか滞在
託 とあ まり変らない
有益な過程であ
る。 自力更生の第一歩を
踏み
あ る。 下手すると他の
表現力の優れた
旅そ 予言失。
出す真のキッカケとなる。
技術協力は人間交
滞在記に圧倒されて
,専門家の実践体験の
肝
流の一つの道なのであ
る,専門家として
派遣
腎なところは。
現在のところ, 殆んど埋没状
されることは
調査とか視察,或はセミナーや 態にある。 その埋没量は
大変な量になって
い
講義,指導とか
親善友好の旅などではない。
るに違いない。
それだけに埋没のままに
放置
しばらく現地村落の
一住民となって地域社会
しやがては忘却の 彼方に追い やってしまう
に , 或は国造りに自分を役立てることであ
る。
のは実に残俳なことだ。
専門家と言えば恰好
建設現場の人となる
事もある。 漁場の人とな
はよいが,任地国は
未開発国か発展途上国で
る
事もある。 ィ知行の一室で
一職員として机を
あ
り,首都や都市を
越えて更に奥地に
展開す
並べる人となる
事もある。 い づれにしても自
る。 思い もよらぬ僻地であ
り,辺境であ
り。
分自身との闘いに
闘いぬいて行くなかで
身に
文化果つるの
地であることが多い。
英語で言
惨み込む何かがある。 それが身につかない
う
ラフロンテ
ア てあり,スペイン
語も殆んど同
ちは。 どんなに態度,物腰が
悠々とみえても
じくフロンテラであ
る。 そういう処へは精神
上辺だけの事でやがて 禿げてもとの
地肌に
若者でなくては
住み切れない
なってしまう。
それはただの
旅行者か視察者
自然環境なのだ。
平気で両の溜り
水を飲み,
に 過ぎない。それてはその
国に尽したとは
盲
唖の入ったコカコーラを
飲み,ま
現地食で地酒
えない。
せいぜいホテル
代 とか食事代の
外貨
を汲み交し時には 生きている羊を
掴まえて
をばら
撒 いて来た程度の
役にしかなっていな
ナイフで殺して
焼いて喰い,何日も
風呂にも
旅行者の場合は
一般に言って
余暇や休暇の
女性を愛したりする
情景は数え切れない
程で
入れなかったり
,或は,一時的にせよま
現地の
時間を献上する
形で行われる。
短期の調査や
あ る。 もしそれを避けて 少しでも日本的な
視察も業務とは
言え旅行の場合と
質的には同
開発国的な生活をしょうとすれば
途方もない
類のものに属する。
それに対して
専門家が現
物が要ることになる。
だから現地の人になろ
王
地に派遣されるという
事は人生を献上した
形
うとするのであ
り自炊環境異質文化への適
で行われる。
従って,その
体験を語るという
応,及び,民出への
溶け込みという
点では,
事は,そんなに
易しいことではない。
思って
こ*
宙里地 は ついた人間交流の道があるであろ
いること,持っていることの
何分の一を,他
うか。 指導しにこの国へ来たのだ.という
意
人に解かるように
詰れるものであ
ろうか。特
識をあまり強く持ち
過ぎるのは危険千万なこ
に,旅行
談。
とだ。
印象談のようなものでなく
微妙
一
3
一
日本政府が派遣した
技術者なのだから
と
思い上るのは
禁物だ。なぜなら日本全体の
ることこそ援助の
基盤造成作業であり, この
べースア出来ることではないからだ。
もし
延長線上に真の
有意義な大型枝神
れ筋力プロ・ジ
そうなら一民族が他民族を
指導するという
考
ェク トや 資金援助プロジェクトが
可能となる
えになるし それはお互いにとって
不幸な結
のである。
対外政策にはいろいろな
外交テクニックが
果をもたらすことにしかならないからだ。
指
導するにしても
極く 限られた一握りの
小数集
あ るが, その中の一つとして
技術協力がある。
団に限ってのことだ。
私はもともと指導とい
昔は植民地政策というのがあ
ったが,戦後は
う言葉は好きでない。
その言葉を見地で使っ
それが無くなり
,ニューフェースとして
登場
ているうちにその
言葉の奥にある思想が意識
甜協力であ
る。 歴史が浅い ためか
したのが枝柿
ェ
の壁として出てくるからだ。
だかb, いつも
この技術援助とか
技術計脇カといわれるものの
協力という言葉を
使うことにしている。
協力
理念は,まだ国際的にも
確立されてはいない。
は 相手が望む事に
力を貸すことであ
り,常に
北欧の慈善的な
発想によるもの
,米国の投資
相手が主体であり,相手の嫌がることはやる 的な発想のもの
,或は,平和部隊とか
青年協
べきではない。
基本的に日本人自身が
反省し
ア の理念に基
力隊とか言ったニューフロンテ
なければなもな
い ことはそのことであ
る。 い
づくもの,大衆指向性を
基盤とし同化させて
かに技術が大事なものだからといっても
,相
卦多 民とか,漁業移民とか
言われるも
行く枝柿
手が好まないものを
押付けるとllW
中 g までは
の等,様々な
理念があるわけだが,
い づれに
失敗に終る。
そして,彼等にやる
気がない ,
しても,
堕落した国民だ
,などとうそ ,
であれ
二 うすればこうなる
,こうゆう」
X況
ば, 実は自分が既に自滅の断崖に
立っている
だからこうゆう
答になる,こうゆうものがあ
t 」ばうまくいく ,と言ったような
数学的な定常
様なものだ。日本人がやる
気という場合,
大
解があるものではない。
彼等の@ 値観に立って
体頭に描くものはモ
ー レッ社員型のものであ
その国に,その
社会に,その
地域に何が必要
るが,それがやる
気の総ててはない。
赴任し
なのかを考え・
そのために具体的な
方策を探
たばかりの専門家で
最初にこの問題にぶつか
し出すことであ
って答を見出すことではない
って絶望と挫折感の
深い 谷底に墜落して
い
解答だと思って
のてある。 なぜなら,それが
く
よ
う
く
者が多い。中には這い上れずにそのままにな も, 日本では答になるかも
知れないが,その
ってしまう例もあ
る。
国ては価値観が
異るから答 とはならず,
依扶
これはいわぬる
意識のすれ違いてあ
り,相
手の心掛けがなっていないからだ,などと
として問題のままで
残り,時には
深い傷跡と
して刻印の様に
残ることさえあ
るのだ。
その土地の自然
いう筋合い のものではない。
私の経験から
無理に結論といったものを
言
条fTや歴史的,宗教的.社会的,政治的な
背
わせるならば
,派遣された1 人 1 人が自分の
景から来るものであることが多 がめてあって,
全人格と能力をもって
創造の世界に入ること
説得や卒先 して範を示す
事で直ちに意欲力斗
勇
にほかならないと
思 うめ てある。 技術移転は
様なものではないのだ。
第二それがより
現地への融け込みを前提として
推進されるの
く
良ぃ事だと主張してみても
, より良い 事なる
てある。 だから最初に
問題となるのはその
人
ものは人間の
価値観によって
決まるのてあ
人の,性格・ 品, 性 ・教
の専門的能力よりもその
処変れば品変るであり,お国柄と
言う
養・経験・思考・
意志‥清操・
心情といった
それ程にやる
気を持たせる
事は実に難かしい
もの,つまりその
人の人生経験そのものが
前
事であり,部分的にでもその
兆が見えたら
大
面に出さ化しそれがその
地に融け込み
,ま
現地
り
成功だと思 べきであろう。やる気を起させ
う
一
4
のルールと生活リズムがわかった
時点て 技術
が移転されるのであ
る。 だから逆にな
何に技
耐えて来たのか
本当にわからなくなってしま
術的に優れた人でも,学術的に
評価の高い人
う。 それは本人にとっては
恐しいことだ。
む
でも, もし融和性が
無ければ人間的な
交流と
しろ, 日本社会に伺っては
, 自分の得て
来た
口
はならず,あ
たかも日本から
参考文献を郵送
ものを国内還元すべきであ
ろうと居、
い 効果しか得られないだ
る
したのと大差のな
が自己に忠実な
事であり,愛国心でもあ
ろう
う
,それなら何も
高い旅費や日当を
払ってま
う
。 それ
と居、 うのてある。 間違ってもらっては
困るの
ここで私が言う
愛国しほついて
耳文 えて t
で人間を派遣することはない。
数百円の切手
で,
代で充分であろう。
釈を加えておくが 往年の職別なる皇国史観
一国一民族一言語で
地面上の国境を
持たな
言
で サ吾メつ れた右翼的な
愛国心ではない。
外国を
い島国日本国内では
,ともすれば
,相対価値
知らないて力んでいた
往年の愛国日ではない。
観に乏しく,或る
価値観が子
俺寸 的なものとし
一時に熱中して
命まで絶つ様な
愛国心でもな
て三振される
傾向が極めて
強い。それはク、 し
い。
振りに帰国する
度毎に戸惑わされることであ
り,海外生活を
通じて培われた
文化価値の多
自然で大らかで
長続きのする
愛国しであ
り,派遣双の
日本的日本人に
戻るのに暫 らく
元件への理解,それ
力斗 且国 日本の文化価値に
る。 それは日本社会から
時間がかかるのであ
対して向けられた
時こそ,帰国者の
一時的な
見てリズムが
狂っていると
考えることも出来
日本社会の伝統アレルギーが
自から消えて
本
る 。 私の場合,毎度単身赴任だから
帰国して
物のしぶいいぶし銀の様に
荘麗て沈静な倦き
目分の家自分の 家庭に戻ってさえも
家族と
のこない愛国心となるのであ
る,それは日本
ッブがどうしても
埋まら
の間に価値観のギヤ
国籍を持つ総ての
人の幸せを願う 心であ
り・
ない部分がある。 家族でさえそう
感じるのだ。 自民党員,共産党員の
区別もなく,仏教徒で
ましてや社会一般.職場
弍』周辺の人達はそれ あ ろうとキリスト
教徒であろうと区別な
を,外国ボケ
,時差ポケ,季節ボケ
,南米ボ
日本国に住んで
い る総ての人が
幸せであって
ケ ,スペインボケ
等と種々に言うが
,本当に
欲しいと願 気持が自然と湧くのである。 そ
南米ボケなのか
,それとも今の日本の方がお
の事に関しては日本だけにしか
住んだことの
かしいのか,思いがけないところで
意識の壁
ない人の方が
愛国心という点ではずっと
低調
にぶち当ってしまうのであ
る。 しかしあ れ
だと思 。 日本の国を本当の
意味で愛してい
う
う
はタイム・トンネルだ。
早く忘れて日本社会
るのであろうかと疑いたくなるのであ
る。 国
に 順応すべきだ
, と言うことは
出来ない。な
際社会の中では
,資源を持たない日本は,
ぜなら,それでは
一体何のためにあ
んな処 ま
はや工業国として
生きて行くほかはない
国で
も
て行って来たのか
,せっかく相が
@ 値観とい
あ る。 それは本当に
本当だと巳う 。 外国に住
う存在を掴んで 一廻り大きくなって
帰って
んでみて外国から
日本を見た時に
嫌でも居い
釆たというのに
,何のために人生の一部を
提
知らされる。ラジオ,テレビ
,カメラ,ステ
ケ
供したのか訳が
分からなくなるのであ
る。 帰
レオ,時計,冷蔵
庫,洗濯機 自動車・等々
国した当人の
方も或る程度は
割り切らねばな
外国では高嶺の
花であり高価な品物となって
らないことも
確かにあることはあるのだが,
いるが,日本国内では
殆んどが所有しており
,
日本に帰って
来て,気持を
整理する過程で
;
新しいものに買 替えようと思えば
簡早にそれ
貴重な体験を
切り捨てて日本社会への
後刷 l頁
が出来る.つまり
安いのだ。だが,いくら
安
応 という言葉を
自分で自分に
言い聞かせて元
し
@
ぁ
くても,テレビやカメラを
皿にのせてショー
ム
の木阿弥に帰るのであ
れば,それこそ
一体何
ユ をかけて食べる
訳にはいかないのだ。
南米
のためにパ タゴニアまでマ
寸ってあ
んなにまで
のⅡ、さな貧しい町から
日本を見ると
, まさに
一
5
一
経済大国であり,少々の不景気があ
っても韓
日本人,
国や東南アジア
諸国井に レベルが下った
訳で
居てもいいと思 。 その逆が北米中米南
もなく,依然として
輝けるアジアの
大国であ
米には沢山いるではないか
,アメリカが自由
り,天国のような
国に見える。それなのに毎
なのは母国を
捨てた個人によって
作られた移
年,春闘だ械闘だと,よくまあ
騒ぎ立てるが
民の国であるからだと思われる。
南北両末大
そんな事をやってて
本当にいいのだろ
陸は概してそうだがチリも殆ど同じ感があ
Ⅰ札
ラテン系日本人,ユダヤ
系日本人が
う
うか。 と心配になる。
そんな事をやる
位なら
る。 唯,違 ところは北米がアンバロ
系が大
バカンスでもとってゆっくり
家族と楽しんだ
半を占め,南米はラテン
系が大半を占めてお
う
らよさそうに思うのである。 若し,本気でそ
り,北米をアンバロ・アメリ
;,南米をラテ
うやっているなら
,それ程に日本に
不満があ
ン・アメリカと 言 う 程度の違い だけで,国家
るなら,どこかに亡命するか
南米にでも移民
の構成原理の
基本は変らない
様だ。この点が
したらいい のにと居 、 う 。
日本の基本的に
異 8 部分である。 しかし或
日本の様に亡命を
認めない国,受入れない
国は,移民という
言葉さえ何となく国を捨て
る一面には日本にもそうした
部分がない 訳で
はない。北海道がそうであ
る。 日本という縮
逃げ出したようで
,あまりいい響をもたない。図的な世界観の
中では米大陸のそれを
極めて
多分, この国が一民族一言語の
海に囲まれた
似た精神的風土,心情的土壌を
持っている。
, 自分の生
島国というせい もあ るのだろうが
不思議な事に北海道の自然も
又どことなく
異
れた国以外には
住む場所はないものと
思い込
質なものがあり,何となく
自由な憧れの
地と
んでいる。観念的に日本離脱の
自由を持たな
して見られている。
つまり日本 (本州,四国,
いし考えもしないことなのだ。これは反面
九州りを捨てて
来た人達が風雪の
幾年を重ね
外国人の日本人化をも
不自由にさせているこ
て造った国であり。 各県の移民によって
構成
とにつながる。
日本の歴史を
見ても,政変な
, 日本
された新世界なのだ。
私の知っている
どで他国へ亡命した
人物は殆どお目にかから
に来たことのある米国人,カナダ
人,チリ
人,
ない。他国へ行けば悠々と生きられるのに
,
ブラジル人の
中 て 期せずして同じ
事を言う 人
じっと自分の
国にしがみついて
我慢する。第
が居るのは誰にも
写る共通の印象であ
ること
二次大戦の時にはナチス・ドイツに
反抗して
る。 それは「北海道は
日本
を証明するものであ
外国へ亡命した有名人,無名人は
数限りない。
と違う ,どことなく
独立国的な色彩があ
七日
しかし,
,日
本の植民地的な
感がする。
日本語が通用し
日本では軍部のファシズムに
反抗し
た 人はいても亡命した
人はいない。なぜか日
本円が通用し
,日本政府の
行政の傘下に入り,
本民族は日本という
国に足村山手枕をはめら 経済的には完全に日本の支配下にあ
る国だ」
れた中での自由しかない
様に苦う 。 それは多
と言 人が何人かいた。
私自身,実は彼等に
う
分, 日本人の国家観俳,文化観俳によるもの 言われるまでもなく
,以前からそういう
感じ
と
思うが,日本人が近年,如何に
海外旅行を
は気持の隅にあ
るのだが,日本の人に怒られ
積極的に行っても
本当にインターナショナル
, 23 言わんのだが…。その
そうな気がして
な 民族になりきれないのは
, この辺に壁があ
意味からも日本の
人がにの場合本ナl、 lとして
るように思われてならない。
現に日本人以覚
おこう) 四国に住もうが
,九ナ
l.l
に住も が,
う
"外ルと 称して一束ひとからげに
国籍,
北海道に住も が或は,沖縄に 住もうが。
民族,人種の何かを全く問題とせず
疎覚して
それはその人の
自由であり,その人力
潤尊兄す
しまうところに
依然と閉塞的な
面があること
べき事である。 その逆であってもいい,北海
で示される。 イギリス系日本人,
ドイツ系
道の人が九州に
住みたければそれも
本人の自
を
う
一 6
白である。 それと同じ様に
,
も
う一廻り世界
んなことを思
い つく私の方がへンなのだろう
か?
観を広げて考えてみた
時に,離脱の自由とい
うそのことが
容易に理解されると
居 九
本束人間には
ヘンな事ではないにしても
,現実には
日本人になり
得るはっきりした
法律は
球上のどの国の国民にな
無いらしい。どこの国てもど すれば その国
土山
う
キ巽択 すべき事だと
居、 。 気に入
るかは個人の
の国民になれるか
法律で決っているものだ
らなけれ性生れた
国を出て行っても
一向ぽか
が,先進国の
本国にはそれがなりというのは
まわないし気に 入った国があ
れば そこに住
どうもへンだ。
かと言ってネ廿寸に 駄目だとい
ぅ
みついてその
国に属してしまうのも
個人の自
う規制もないようだ。
欧米南米もそうだが,
由だと居、。 私は通算2 年以上チリに住んだ
何年かその国に
住めば市民権が与えられる
,
ぅ
ので,チリの
ィ鈍斤から,お前はチリが
好きか, 条件といえばその
国の言葉を自由に
喋れて国
と
聞かれ大好きだ ,
とれるがど
う する 7
と
答えたら,永住権
が
家に忠誠を誓う事ぐらいであ
る。 米国などは
移民の国だから
英語をロク に喋れない米国人
と訊かれてビックし し
たことがある。 そして,生れて
始めて国を選
も随分いる。まして読み書きなど全く問題
ぶ自由,生国離脱の
自由が有在することを
知
外なのだ。
ったのである,これは私にとって
一大発見で
あ り,
中南米には未だ
文盲が沢山いる。
メキシコ
日本国憲法で
保障されている
信教の自
を除く中米経済用語で言う中米共同市場
国
・
由,言論の自由,職業の
自由, もう一つ何だ
つまりグアテマラ
,エルサルバドル
,ホンジ
ったか忘れたが
四つの自由の
外に五つ目に
離
こそ本当の自由であ
ろうと思う。
離脱の自由
ュラス,二カラグワ 。 コスタリカ等合せて
49.8% が文盲である,メキシコでも
24 拷が文
盲。南米では一等国のブラジルが
33%, ペル
とは国を離れる
二とばかりではない。
生残そ
一も33%,
の 逆があらねばならない。
つまり。青い目,
コロンビア
27% 。 最も多いのがボリビアの
62
脱の自由があるべきだと思 。 そして,これ
う
エクアドル
SlWお,パラガ
金髪,ニバロの日本人が居てもいいのだ。
勿
おでまさに驚きであ
る。 私の住んだチリ
ーは
論,彼等が望むならだ。
ところが,どういう
南米ではアノ レゼンチン
と略々同じく10 老で南
訳か我が日本国はそういう
面は,はなはだ
閉
米では最も教育水準の
高い 国である。 人口比
鎖的であり,彼等を桝げと称して我々と
にすると,アルゼンチンは
人口2,360 万で文
はっきり一線を
画して自からを
区別して,被
チリ
盲率が9% だから212 万人の文盲がいろ。
等が少しでも日本的なしぐさをすると
目を丸
は人口1.000 万で10% だから100 万人の文盲が
くして「へんな
外人」にしてしまう。
つまり,
い ることになる。
それでも教育に
関しては,
外人とは椅子に
腰掛けてナイフとフォークア チリは1942,年以来政府が全国的に
監督してお
肉を喰い.
パ、
ノを 食べ。 英語を喋り,サシミ
り,義務教育を
制定したラテン・アメリカ
最
や ソバ, シオカラ, タクアン.
米等は食べず, 初の国である,㏄年を過ぎた
現在それでも
未
日本語は解らないものと決めつけているの
だ100 万人の文盲がいるのだ。
人類の姉つの
課題,食哺鵬 病気,文盲の
三
だ。 そして大抵の
人は覚人に合 と「いつま
う
い つ帰国するのですか」 悪は。いや応なしに
何とかせねばならぬ
問題
で滞在ですか」とか「
と訊ねる。
つまり外人が日本に水住するとい
だが,幸いにして
日本には文盲率は
0% 。 飢
う事は全く考えられない
事であるらしい。
外
3(@年前の懐しい思い出話しにな
餓も今日では
人は覚国に住むものと
決め込んでいるのだ。
ってしまった。
病気も伝染病は
殆ど無く。結
そ
核も抽くなった。
文盲率の低い チリでは他の
う
思い込んている日本人の方が
本当は一寸
ヘンだと居 、 うのだが,どんなものだろう
7 そ
一
ラテン・アメリカ
諸国からみれば
結核て 死ぬ
7
一
人 も少くなったし 飢えに@ む乞食同然の
者
日は先ず見込みなしということになった。
そ
も少ない方だ。
しかし 日本の様にゼロに
近
の 2 一 3 日の予定が更に
4 一 5 日になり,宿
いものではない。
日本ではめったにお
目にか
賃は無くなりとうとう
姉のところに泣きつい
からぬ乞食や
餓鬼 (本当の餓鬼である。 リン
て来た。姉てある私の女中は
,主人たる私の
ゴの噛 り残りを棄てれば
我れ先に拾って食べ
ところに迷惑はかけないから
飛行機が飛ぶま
む 子供達, かつにチョコレー
たりする哀れ
てこの家に泊めてやってくれと
頼んで来た。
トなどやったりすると
, いつまでもゾロゾロ
勿論。私はOK だ。 何しろ古い家だが
台所と
ぅ
つけて来る子機運
) がレストランのゴミ
縄
風呂, トイレ,食堂を
合せて13 も部屋がある
を野良犬の様に
首を突込んで
飢を凌いでいる
大きな家だったので
泊る処はいくらでもあ
っ
のを良く見かける。
そういう情景を
見ると何
た。 丁度,魚網の
修理をやっていたので
彼に
と
ともやいきれない
気持と, 今の日本が余りに
3 日間,
も手伝わせて
賃金を払う事にした。
幸せ過ぎてそれが
罪悪てさえあるような妙な
彼は良く働いたが
,賃金を払って
領収証にサ
インをさせようと
思ったが名双が
書けないの
気持にさせられる。
チリの10 人に 1 人の文盲率は田舎に偏重し
ており,私の
住んていたコ ジ ャイケという バ
で困ってしまった。
彼はいつもサインする
時,
針金の輪のような
二重丸を描くのだが・こん
タゴニアのⅠ、
さな町にも私の
周辺に何人か
居
なサインで国際協力事業団に
現地業務費の
証
た。 私の傭っていた
女中もその中の1 人であ
拠書類として
提出するのはいかにもインチキ
った。彼女はその町から
飛行機で南へ
約1時
臭くて信用を疑われる様な
気がしたので
,
間, ヘ ネラルカレラという
湖のほとりにある
う
も
少しちやんとした
名前を書かせたのだが
,
チ ンチコというⅡ、 さな村から,更に
馬でパ;
最初に私がお前の名前はこうい スペルなの
バカと 野を越え, 林をぬけ, 山を越え3 日が
,何
だからこの様に
書けと3CW方位練習させて
かりで南へ行ったコクランという
村はずれの
とか恰好ついたところで
本番のサインをさせ
貧しい農家の7 人兄弟姉妹の
長女だった。
年
た。
は 37 歳だった。つい最近第 1 人が病気で亡く
姉の方も,一見堂々としたイタリア
映画に
風格だが文字の
読
出て来るオバさんみたいな
なったが。
旅費がないため
,葬式に家へ帰る
う
ことも出来ず
一人で台所で悉 しそうに泣いて
み書きは出来なかった。
そのため,スペイン
いた。言ってくれれば
旅費仕出してやったの
語が丸で駄目な
私が,その字を
読んてやった
にと言ったのだが
, その通知を受け
取ったの
り,綴りを書いてやったりしたものだ。
彼女
は郵便事情が
悪く一ケ 月も過ぎてからその
手
が郷里へ出す手紙はいつも
彼女にゆっくりは
紙を受取ったのだ。
私は少し気が楽になった。 っきり発音させ
,私がタイプで
書取ってやる
クリスマスと
正月に二週間の
休暇と旅費を与
のだ。そんなことは日本では考えもしなかっ
えた。彼女は八年振りで
帰郷するので
両親の
たことだった。
幸い スペイン語は
,ほんの一
顔を見た時に
何も言えず泣き出してしまった
部を除いて,殆ど
発音通りにローマ
字式に綴
そうだ。両親はスペイン
系とイタリア
系であ
ればよいので
,彼女の発音と
単語の区切りさ
るが,祖父母の
代に原住民の血が混ったらし
え確かであれば何とか書き
取れた。但し, 私
く,彼女の一番下の
弟がちょっとそれをしの
は書けても読めてもその
意味が何であるか辞
書を見なければわからない。
だか㌦書き終
ばせる面影を
残した顔付きがあ
った。この弟
が コ ジ ャイケに用があって1 週間程汚ない安
って, 丸 私が全体を読んで
聞かせる。日 下
宿に投宿して
, 念々帰る日になったら
天候が
発音さえすれば
彼女には意味が 解るのであ
悪くて飛行機は
飛ばないことになり
, 2一
3
一 8
る。 そして私の知っている
僅かの卑語の綴と
・
私の全く知らない
単語の綴を発音して
聞かせ
い
読み方を1 一 2 カ月ほど教えてやったが
,相
覚ではないことが
折に触れて感じられるので
女なので・
手は37 年間スペイン語で暮して来た
あ る。 つまり一個の人間が先ずあって,その
う
事であって " 日本人の専門家
" という感
やがて手におえなくなり
夜学へ通わせること
人間が或る技術や
経験を持っており。
その人
にした,チリでは
昼間働く者のために
夜の中・
は日本から釆た。 という思考態度
て"あ る。
高・大学があ るのは幸いだった。
お陰で以未
本ではこれが
逆になる。例えば "アメリ力人
私の夕食はいつも
夜の10 時過ぎとなった。し
の専門家が未
た "。 となり。 個人性よりも
,そ
かし,それては
私の方もたまらないので
,火
の人の国家とか
民族の方が先にあ
ってその国
日
曜と金曜のスペイン
語と算数のクラスだけに
の国民の1 人の技術者という
見方をする。そ
同時に失耳諒
した。 だが,私の帰国と
んな事はどちらだっていかではないかと
思Ⅱ
アルセ。
ンチンヘ稼ぎに行く事になり
,それも中断せ
が,外国で仕事をする
上ては大変重要なべ
一
さるを7% なくなった。
ス となる。
一見どっちでもいい
様なものがこ
日本では解らない
者同志が集ったって
何が
れは大変な分厚い
意識の壁となり
,それを越
解るか,というのが普通で
誰もそう思うのだ
えて向う側に
入れるかどうか
,言い換えれば
,
が南米では解らない
者が集っても
解るのだか
その専門家がうまくその
社会に融け込めるか
ら不思議な処であ
る。 これが移民の
国, 多民
どうかの鍵がどうやらこの
辺に秘んでいるか
旗国家の妙なところであ
り, そ 二には両者の
らである。 つまり.先ず人間として信頼され
民族的,国家的な
距りは全くなく
,人間同志
ることが事の
始まりである " 合流行の言葉で
の関係しかなり。
つまり,掩が出来るのはこ
帰ることである。 その意
言 なら原点に立ち
れお前は何が 出来るのか9
味では,彼等の
言葉で過し,彼等と
大差のな
う
というだけの
ことでお前は 外人だから解る
訳がない 等と
い 物を食べ,彼等と
似た様な家に住み (バタ
いう日本人がよくやる
外国人と自国民との
図
ゴ ニヤでは可成りひど
ぃ 木造のボロ
家),彼等
別はあ まりないようだ。
その事で今でも
想い
と同じ職場の
人になって数年間過すという
方
出すのは,一番最初にチリ
ヘ派遣され赴任先
法は,これ性徹底したやり 万は,そ
の漁業局へ出頭した
時に,局長室て
悟 課長池
はないに違いない。
そして,前記のな
中の様
関係スタッフが
居並ぶ中で「貴方の
任務は何
, Q,7歳になる
に想像を絶する
田舎で生れ育ち
う
ろ
ですか」「貴方は
多く
我々に何をしてくれますか」 まで読み書きを
知らずに他人の
家を点々と奉
「貴方は何が
出来ますか」等と
訊かれ ド 肝を
公して生き続け
,なおかつ自からを
確立する
,派遣要請し
ぬかれビック したものだった
努力を続けている
姿を見る時,幸せとは
何か,
し
ておいて,今更そんな
質問をするなんて
失敬
里甲斐とは何か
,文明とは何かという
類の間
,業
な奴等だと思ったが
,良く考えてみると
題が実践の世界に
飛ぴ 込むことによって
直観
合理的な質問であ
, これはなかなか
務契約みたいなものだから
的に解明されることが
多い。誠に開眼の良き
り,答える自分自身も
焦点
機会だったと
思㍉
が絞られニーズを 掴む点でも已を
知る上で
そして同時に
,バタ臭さの漂った意味での
も大変役立った。
以後,私が人を
傭う場合,
国際的センスではなく
,国際的視野の
栖養と
初対面の人と
一諸に仕事をする
場合,遠慮な
異質な社会,異質な
文化価値への
謙虚さが身
く, この様な質問をすることにしている
,そ
についた様にも
思う。確かに我々は日本人と
れは全然失敬なことではないのだ。
むしろ相
しての思考態度をもっと
柔軟に生かすべきで
手の能力を尊重することになるのだ。
彼等の
あ ろうと居 、 ぅ,
私に対する意識は。
日本から
未た専門家
特に,技術協力においては
, この辺りが
景
と
一
9
一
も
困難な難所であ
ろうと思、 う 。 この問題は技
て 実践内容を高め
, 自からの手による
事例研
術以双の問題であり。 この難所は,技術の
展
究の技法を開発しこの 領域における
学問的
示を媒介しながらも
本質的には文ィヒ 約手法・
研究の発達を促していかねばならないと
思げ
もっと踏み込んで
言えば,人格,人柄,性格
のである。
の問題であり,更に突込んで
言えば心技を
以
亦,派遣専門家も
異質な生活文化の
世界に
ってしか超え
得ないものではなかろうか。
従
入って行くに
最Ⅱ、限必要な文化的素養
と,状
って技術協力で
専門家を派遣するということ 況を把握し課題をつきとめて
行くに必要な
理
は人格そのものがま
賭失 されることにほかなら 論的素地が無ければならないし物の見方,
ない。私の体験からもそれは
妥当な表現だと
物の考え方の
面でその素要を高めておかねば
技術を飛び越えて
思 う 。 しかし乍ら,それは
ならない。派遣専門家の
実践内容力
汚頁脳 作業
あ くまでも技術が
到達し得るものではない。
的な見地でのみ
肥え得るものではもとよりな
媒体とならねばならない。
ぃが,専門家の場合は
格別に学問の支援が必
第 1 に,やはり言葉の
問題である。 言葉よ
りも,してあ るとか,言葉は
通じなくても
心は
要であり,考える実践者であ
ることが要請さ
れるのである。
通ずるということは
一面の真理ではあ
るが,
チリの サケ マス計画もやっ
この様な考えの
奥底には,往々にして
,苦手
きものが見えて
来たし,事業が
軌道に乗りか
の 語学修得を避けて
通ろうとする
安易な気持
かろうとしている
現在,正念場とも
言える回
が潜んでい ると 思、 のであり。 かつて戦前に
帰の問題にさしかかって
来た。私は今一息彼
大和魂を強調する
余り装備を軽視した
往年の
等と共に汗を流し彼等の環境の 中で考え,
竹槍主義の現代版という
感じがするのであ
何とかして,この
計画を成功に
導きたりと考
る。 異民族,異言語の
世界に飛び込もうとす
えている。でなければ一体何のためにこれま
ぅ
るにしては言葉の
習得努力が不足しているこ でやって未たのか,これらの
得難い体験が
何
とは反省しなくてはならない。
のためであったのか。自分自身の問題として
第 2 に,学問的武装の
問題である,専門家
も訳のわからぬものとなってしまう
" 又,自
が直面する状況は
派遣された国や
地域によっ
分の枠から一歩広げて
自分の職場であ
る北海
て千差万別てあ
るだけに,教科書もガイド
,
道さけますふ
化場にとっても
同じ事だ。もっ
フックもないそれぞれの
世界に突入して
行く
と具体的にⅡ、
さな例を挙げるなら
ぱ, 私がは
のだと見るほかはない。
その意味では
海外技
からずも身につけたささやかなスペイン
語が,
協力援助が未だ
歴史が浅い だけに草分け
時
この職場に,この
i期斤に 一体何の役に立つの
代であり,パイオニア
時代と言えよう。
何せ
であろうか,という類の間頭が
数多く残るし
律れ
日本としては
始めての新しい
職業分野であ
役に立たないからといって
元の木阿弥になる
国内の他の業種とは
全く異るのでこれまた
教
, 自分
には日本のためにもならないだろうし
科書のない 前人未踏の領域であ
り,海外協力
のためにもなりたくな
い,
り
理論とか,技術協力学といった
学問が存在す
るに至っていない。
これから経験や
多くの専
門家の事例をもとに
独自に体系や論理をきづ
日刊 犬 が未だ続くことであ
き上げねばならない
ろうが。 バイオニアの
語感に自から酔って学問
的研究を放置しておく
訳にはいかない。
専門
家は実践家であ
るが常に学問との
接点を求め
一 10 一
(本場企画課技官)