国際理解教育に望むもの

国際交流学習の成功の秘訣
国際理解教育に望むもの
―開発途上国との技術協力に携わって来た者から―
植 松
抄
録
卓 史
左手で茶碗,汁椀を持ち,茶碗類をテーブルに置き,そ
いまやグローバル化の世の中で,日本だけが世界から
れに口を近づけて食べるのは「犬食い」といって最も嫌
孤立して生き続けることはできない。そして,これまで
われた。しかし,筆者がフィリピンにいたとき韓国人の
国際銀行,JICA 等だけに頼ってきた国際協力も全国民が
友人から,
「ここはフィリピンだからいいけど,韓国では
意識して立ち向かっていかねばならない時代である。こ
絶対に茶碗を持ち上げないでくれ」と注意された。韓国
れまであまり世界との接触がなかった日本人として一番
では,女性は片ひざを立てて座るのが正式だそうだが,
問題を感じるのが,外国人との価値観の差,習慣の差だ
日本ではとんでもない行儀だ。本当にお隣の国なのにこ
ろう。世界中で起きている紛争,戦争もほとんどこの価
んなにマナーが違い,それが知られていない。
値観の差をぶつけ合って起きている。もちろん,日本人
同士でも個人により価値観は違うが,大体日本人同士の
フィリピン人を和食の会席料理に招いたときに,
「日本
価値観の差は周りで同調する人を見つけて解決できるが,
の蕎麦のうまい食べ方はこのようにするのだ」といって
相手が外国人の場合はなかなかそうはいかない場合が多
ずるずる音を立てて食べて見せたら「ママに怒られるぅ
い。世界には非常に多くの違った価値観があり,その背
∼」といって騒いでいた。しかし,日本では蕎麦は音を
景を知った上で,価値観の上下,善悪をつけることなく,
立てないで食べたら落語にもならない。
相互にそれらを尊重し合って,協調していく道を探るこ
とを学んでほしい。
2
<キーワード>
国際理解教育,価値観の差,グローバル化
多民族国家
そして,国際というのは決して欧米だけが対象ではな
く,世界の大半を占めるいわゆる開発途上国が非常に大
1
きなウエイトを占めることを忘れてはいけない。
プロローグ
よく日本の常識,世界の非常識,といわれることが多
東芝が,イランのパーレビ国王の時代にイランのカス
い。世界を旅していると我々本人から見て,はてなと思
ピ海沿岸に家庭電化製品の工場を建てた。工場は完成し,
うような習慣,価値観に出会うことも多い。日本は,幸
日本人は幹部だけが残り,工場の運転はイラン人に任さ
か不幸か徳川 300 年の間にほとんど世界各国から隔絶さ
れていた。ところが,ときどき事故が起こり,工場が自
れた生活を強いられ,ダーウィンの進化論のように独自
動的にストップする。運転を再開するには,なぜ止まっ
の文化を育んできた。しかし,日本と近いアジアの他の
たのか原因を調査しないと,すぐそのままスタートする
国々では,それまでも我々日本人以外の世界の人々と広
とまた自動ストップする恐れがある。日本人の幹部は原
く,いろいろな関係,交流を持ち,共通の価値観,慣習
因を調べようとするが,イラン人は見え透いたうそをつ
を持っていることが多い。世界 60 億の人口の中で,むし
いても自分がミスをやったとはいわない。誤解を覚悟で
ろ1億の日本人のほうが特異である場合のほうが多いの
あえていえば,日本人は皆同一言語,同一民族,家族的
ではないだろうか。
社会だが,ここカスピ海沿岸では,イラン人,アルメニ
ア人,クルド人などいろいろな人種の交じり合ったとこ
日本では,我々の世代は食事のとき右手に箸を持ち,
UEMATSU
Takashi:国際協力機構
ろで,同一職場で仲間同士で仕事はしていても,実際に
元国際協力専門員 国際協力総合研修所(東京都新宿区本村町 10-5)
- 33 植松卓史:国際理解教育に望むもの
は言葉も,価値観も違う,いわば敵同士なのだ。そこで
もうだいぶ昔になるが,バングラディシュの農村に派
自分に不利益なことを発言したら,決定的に将来的な不
遣されていた青年海外協力隊員がいた。彼は現地で働い
利益を残すことになり,したがって自己防衛のためには
ているうちにここで重要なのは,畑に十分な水を供給す
見え透いたうそをつかざるを得ないのである。
るための灌漑用ポンプであると気がついた。そこで,彼
は JICA,外務省に掛け合い,日本の最新のポンプを寄贈
マレーシアにはマレー人,インド人,中国人が混在し
しようとする JICA,外務省に反対して,地元で作ってい
て生活し,会社,工場等の社員食堂には各民族向けのメ
る手動ポンプを大量に購入,しかも市価の半額で農民に
ニューがあり別々の食事が用意される。
売り与えた。農民は,自分で購入したポンプであり,盗
日本では工場長から一般まで同じユニフォームを着て,
難を恐れ,大切に使用し,破損したら現地の工場で修理
同じ食堂で,同じメニューの食事をとる。世界で人権先
を行った。これは爆発的に普及し,地元産業も潤った。
進国である米国も同じ多民族国家だが,企業内で大学出
「バングラディシュの手押しポンプ」として NHK でも放
は最初から幹部候補生として扱われ,組合にも属さない
送されたプロジェクトだった。日本の最新技術をそのま
し,ブルーカラーとは全く別の扱いを受ける。ある意味
ま現地に,しかも無償で持ち込めばよいというものでは
で日本は,本当に平等の世界だが日本人はそれに気がつ
ないといういい例である。もし無償で農民に配れば,壊
いていない。
れても盗まれてもまた直ぐもらえばいいと考える人もい
ただろう。また最新技術のポンプは動力に,電力,ある
筆者は,JICA 以前にも海外との接触が多く,会社,JICA
時代を含めると訪問した国,地域は 60 近い。そこで,こ
いは燃料,メンテナンス等の余計な負担を農民に課した
だろう。
の経験を生かして国際協力事業団(国際協力機構の前身)
で,長年にわたってこれから海外に派遣される日本人専
門家およびその奥さん方に現地赴任に当たっての覚悟,
心構え等を講義してきた。
3
好奇心に富む日本人
遠く戦国時代の 1541 年に種子島にたどり着いた鉄砲
このようなグローバルな時代で海外旅行等をしている
は好奇心に富む日本人鍛冶屋によってたった 30 年後に
方は多いが,単に旅行で行くのと,そこで生活するのと
は 2,000 丁も作られ,1571 年に起こった長篠の戦ではそ
は大いに違う。頭ではわかっているようでも現実に直面
のうちの 1,200 丁を保有していた織田:徳川勢に使用さ
するとやはり自分の持つ価値観,習慣とぶつかり合って
れて武田軍は壊滅した。
しまうのである。
明治維新の頃は,大勢の欧米人が教師として日本に招
途上国に派遣された専門家は,まず派遣国の政府機関
かれ,日本政府は彼らを教師として厚く待遇し,日本人
に配属され,自分の仕事を伝授,指導する相手(カウン
も彼らを敬って,一生懸命その技術の習得に努めるとと
ターパート)に紹介される。そこで日本人専門家に出て
もに,すぐにそれを日本独自のものに適応,改良してい
くる相手に対する不満は,
「彼らは時間にルーズだ。約束
った。
を守らない。仕事が遅い。自尊心だけ高い。」等々である。
幕末の頃英国人アーネスト・サトーという人がいて通訳
今時大戦後の日本の経済発展にもこの日本人の好奇心
をやっていた。サトーといっても純粋の英国人である。
の表れが多く貢献している。いわゆる一時画期的産業経
彼が書いた「サトー日記」という本を読むと当時の外国
営手法として全世界から熱い注目を浴びた日本的経営思
人が日本人の役人をつかまえて言っていた愚痴,
「仕事が
想・手法も,1950 年に日本科学技術連盟が W. E. Deming
ルーズだ。約束を守らない。仕事が遅い。自尊心だけが
を招いてたった一週間開いた品質管理のセミナーを,日
高い。」というのがそのまま今の日本人専門家のカウンタ
本人が完全に理解し,ただちに日本の産業にあわせるた
ーパートに対する不満に当てはまる。いまや日本人もそ
め改良を進めたことが原因となっている。数年のうちに
の当時の西欧人と同じ価値観になってしまったようだ。
再び日本を訪れたDeming は,彼の思想が全国の産業界
日本はいまや世界に冠たる技術国で,その最新技術は
にくまなく広がり,しかも日本風にアレンジ・改良され
世界中から注目されている。そして一刻も早く自国にも
ているのを見て,
「まもなく世界は日本の優秀な製品で席
その技術を導入したいと思っている国も少なくない。
巻されるだろう」と予言したといわれる。戦前の日本製
品は,世界的に「安かろう。悪かろう」といわれていた
- 34 学習情報研究 2007.3
ものである。しかし,その発展の裏側には日本独自の労
NGO 等の協力も大きく抱き込み,災害援助,環境対策,
働思想,労働倫理,雇用形態,慣習等の裏打ちがあった
貧困対策,平和構築,人材育成等,一国だけでの力では
ので,それを理解せずに単にそれを外国人が手法として
なく,全世界が協力して立ち向かっていかねばならない
形だけ学んでもすぐ成功するものではない。
時代に突入している。そしてグローバルな世界になった
今,国際協力も単に政府機関の国際協力機構や国際協力
4
日本の戦後の国際協力は賠償から始まった
銀行等だけに頼っているだけでよい時代ではなくなって
きている。
今や世界で一位,二位の援助国になる日本も,大戦後
は満足に食べる物もなく,生活物資にも事欠いて他の先
進国や国際機関から援助を受けた。南北アメリカ諸国か
らの「ララ物資」,アメリカの「占領地域救済政府基金」
による食料や肥料,留学生に対する援助,アメリカの民
間援助団体「ケア」からの医薬品や学用品,
「国連児童基
金」
(ユニセフ)からのミルクや衣料品等,さまざまな物
資や資金が日本に送られた。また世界銀行からも製鉄,
自動車,造船等のさまざまな分野で多額の資金を借り入
れ,新幹線,ダム,高速鉄道等の社会基盤の整備もこう
写真 1 日本の戦後賠償で作られたインドネシア・ホテル
した借金で行った。これらの資金をすべて完済し終えた
のは実に最近のことなのである。
確かに,今 TV 等を見ても日本国内でもいろいろな社会
の矛盾が出て,解決せねばならぬ問題が山積みで,とて
したがって ,今の日本の繁栄の元はこれらの世界の
も外国のことなど気を配っていられない気持ちになるの
国々からの厚い援助によって生まれたことは決して忘れ
ももっともなところもある。しかし今の日本があり,人々
られることではなく,今や少し豊かになった日本として
がある程度平和な生活を送っておられるのも皆日本だけ
は,これらの国々の恩に報いるために,さらに発展の途
でやり遂げた実績ではなく,これまでにもたらされた外
上にある国々に対して,今度は日本が応分の助力,協力
国からの支援もあったからであり,また,これからも世
をすべき時代に来ていることは確かである。
界の人々と無縁で日本だけが生き延び,繁栄することは
ありえない。テロひとつとっても世界中の人々と協力し
また,その後の戦後の日本の政府ベースの国際協力は
1954 年にコロンボプランに加盟したときに始まった。そ
て解決しなければならないし,環境も決して一国だけで
解決できる問題ではない。
して,この 1954 年に当時日本の国民総生産(GNP)が僅
か 300 ドルという時代に,政府はコロンボプラン農業専
同時に世界にはいろいろな慣習,価値観があるのも確
門家を派遣し,アジアの農業生産性向上のための援助を
かである。しかし自分の価値観と違う,自分の生き方と
無償で開始した。
違うからといって排斥し,異議を唱えるのは決して賢明
ではない。人にはそれぞれの考えがあり,生き方がある。
更に,1954 年 11 月に日本・ビルマ平和条約及び賠償・
経済協力協定が調印され,1956 年5月外務省アジア局に
それが自分と異なるからといってどちらが善か,どちら
が上かなどということはない。
賠償部設置,1958 年 1 月日本・インドネシア平和条約及
インドで町を歩いていると 子どもたちが 寄って来て
び経済協力協定調印,10 月日本・ラオス経済及び技術協
「金をくれ,金をくれ」とまつわりつく。いやな国民だ
力協定調印,1959 年 3 月日本・カンボジア経済及び技術
なと思っていた日本人があるときわざと自分も汚い格好
協定,5月日本・南ヴェトナム賠償協定調印等,このよ
をして外出すると,例によって子どもたちがまつわりつ
うに日本の戦後のアジア諸国に対する国際協力は賠償に
いてきた。そこで彼は「実は俺も金がなく,昨日から何
よって始められたことがわかる。
も食べていないんだ。」というと,彼らは「それはかわい
そうだ」といってポケットからいくばくかの金を出して
しかし,これらの戦後賠償等で始まった国際協力銀行,
彼に渡したという。貧者の一灯というか,持てる者は,
国際協力機構主導の日本の国際協力も今や大きく変貌し,
持たざる者に恵むという精神なのか,彼はこのことです
- 35 植松卓史:国際理解教育に望むもの
っかり考え方,見方が変わったという。
それでも教室が足らず,一日にその状態で二部授業を行
筆者がいたアルジェリアのキャンプでも我々が歩くと
っているので,教室の増設を日本政府に要請したのだっ
小さな子どもたちが寄って来て,「金をくれ,金をくれ」
た。しかし,そのような環境の下で子どもたちがとても
とまつわりつき,中にはズボンのポケットにまで手を突
楽しげで,しかも非常に躾のよいことに驚いた。先生も
っ込んでくるものもいた。しかし,これは現地に住む日
とても尊敬されているようだし,日本のいじめは想像で
本人にとって使い道のない現地通貨を子どもたちにばら
きない。
まいていた日本人派遣者がいけないので,日本人のいな
い地方の村落に行ったらそのような光景はなかった。
結局,彼らがそのような価値観を持ち,行動するには
我々とは違うそれなりの社会の歴史,環境等があり,そ
のようになったのであって,そのような背景を理解せず
にただ自分の価値観と違うと反発するのは早計である。
彼らの背景を理解した後で,排斥するのではなく,どの
ようにつきあったらよいのか考えて行動しなければなら
ない。
アルジェリアで,キャンプの面倒を見てくれていたア
写真 2 マリの小学校
ルジェリア人のおばさんが使っていた洗濯板を見たら,
形が楕円形であっただけで原理は日本のものと全く同じ
なのを見て驚いた。まさか日本から技術移転されたもの
ではないと思うので,結局人間の考えることは皆同じな
のだなあという感想だった。ただその後の洗濯物の絞り
方は,日本人が見たらなんといって説明したらよいかわ
からないが,とてもやりにくそうな仕草だった。
5
アフリカの小学校建設
国連が世界の最貧国と位置づけた 50 ヶ国のうち,更に
下から数えたほうが早い西アフリカのギニア・ビサウ,
写真 3 マリの教室内
マリ,セネガルの3国から小学校建設の依頼があり,調
査に出かけた。ギニア・ビサウはその中でも最下位の最
貧国である。首都とはいっても全く町らしいものがない。
小学校も多くはニッパ椰子で葺いた小屋があるだけだ。
6
終わりに
国際というと,何か外国人と英語をしゃべって格好い
いことのように思うか,全く自分とは関係ないことのよ
マリはギニア・ビサウに比べればまだ豊かに見えるが,
うに思うかの人たちもいると思うが,日本古来の文化と
小学校の教室といっても決して近代的な日本の小学校を
思われているものも,遠く外国から学んだことであった
想像してはいけない。そこで見たのは日本ではとても教
ことを知り,地球上には自分とは全く違った考え方,生
室とはいえない,維持費のかかる電灯も,窓ガラスもな
活様式,価値観の人たちが大勢いることをただ知るだけ
い,日中 40 度を超える気温に対して通風対策だけの暗い
でも国際理解の初めなのだ。
ただの四角い部屋の中に,2学年の子どもたち 120 人く
らいが一緒になってまさにすし詰め状態で勉強をしてい
る光景だった。日本では3人がけに相当するような長い
すに4∼5人くらいが座り,まだ机が足らず,父兄が木
箱を壊して作った粗末な机に二人が押し込められていた。
- 36 学習情報研究 2007.3