トレント公会議後におけるベアータの状況 坂本 宏 トレント公会議は、宗教

トレント公会議後におけるベアータの状況
坂本 宏
トレント公会議は、宗教女性史における画期であったとされる。第 25 会期(1563 年)において厳格な
禁域を義務付けられた修道女は、これ以降、修道院外の世界と接触する機会を断たれることになったか
らである。しかしこの規則が適応されたのは正式な修道誓願を行った修道女だけであり、在俗身分の宗
教女性(第三会員等)の扱いについては、後の教皇の決定に委ねられた。
公会議終了後の在俗宗教女性に対する様々な規制の中で、最も影響が大きかったのがピウス 5 世の教
皇勅書 Circa pastoralis(1566 年)である。これによって在俗宗教女性にも禁域が課されることになった。
スペインでこの規制の影響を被ったのがベアータである。ベアータとは、結婚することも修道女になる
こともせず、在俗身分のまま宗教生活を送る女性のことである。彼女たちは、自分の家で生活すること
もあれば、ベアータ館で他のベアータと共同生活を送ったり、修道会の第三会に所属することもあった。
13 世紀末に制度教会から自律した運動として始まり、托鉢修道会とともに発展を続けたベアータ運動は、
トレント公会議終了後の 16 世紀末には、強制的に修道会に移行させられるか、解散させられることによ
って、終了したとされる。
しかし研究現況では、ベアータの全体的な状況を語ることは難しい。たとえばギプスコアではベアー
タ館の禁域化が進んだが、バリャドリードやグラナダのように 17 世紀以降もベアータ館の創設が盛んに
行われた地域もある。第三会に関しては、16 世紀には衰退傾向にあったが、逆に 17 世紀には大きく発展
している。さらに重要なことに、ベアータに対する規制は、共同生活を送る場合にだけ適用され、修道
会に服さない個人ベアータは規制の対象外であった。個人ベアータについては記録に残りにくいために
未知の部分が多いが、異端審問記録から得られる限られた情報を頼りにするならば、個人ベアータは減
少するどころか、その姿は都市の日常的な光景にさえなっていたと言える。ベアータ増加の背景には未
婚女性の過剰という社会問題があり、この問題が解決されない限りは、いくら教会が規制を試みようが
ベアータ運動が消滅することはなかったのである。
ベアータ身分を称揚する主張が初めて現れたのが、在俗女性の宗教運動を否認したトレント公会議の
終了直後であったことは意味深長である。1570 年代にスペイン南部に出現したアルンブラード(照明派)
という異端は、ベアータこそが結婚や修道女に優る身分であると主張し、セクトの女性メンバーにベア
ータになることを課した。マエストロと呼ばれるセクトの指導者は、大学で教育を受けた教区司祭であ
り、彼らは教区教会において、告解や聖体拝領などの秘蹟の授与を通じて、ベアータたちの霊的指導に
あたった。トレント公会議は、七つの秘蹟の有効性を再確認し、秘蹟を司る聖職者の役割を強調した。
また司教区・教区制度を整備し、教区を日常的な宗教活動の舞台とした。このようなトレント公会議後
のカトリック教会の変化が、この異端の成立条件となったのである。
トレント公会議は、在俗女性の宗教活動を認めなかった。その一方で、在俗においても宗教生活を全
うできるという(ある意味ではプロテスタントに近い)立場もまた、カトリックでは有力な見解であっ
た。スペイン以外のカトリック地域で在俗宗教女性の指導にあたったイエズス会は、後者の立場に近か
った。このように、トレント公会議は、カトリックの立場の全てを代表していたわけではない。またそ
うであるからこそ、在俗宗教女性に対する禁域を徹底させることができなかったのである。