(99)「安保騒動」一気に鎮静化 低姿勢が奏功、だが忘れられる改憲 2015.3.15 昭和35(1960)年6月19日午前0時、改定された日米安保条約は参院での審議が 行われないまま、自然承認された。4日後の23日午前、藤山愛一郎外相とマッカーサ ー米大使との間で批准書が交換され、正式に発効する。 東京・白金の外相公邸での批准書交換を終えた藤山が国会内の大臣室に帰ると、 すでに臨時閣議で岸信介首相が退陣を表明した後だった。藤山は自著『政治わが 道』で「なぜ待ってくれなかったのか」と書いている。 だが、恐らく憲法改正まで視野に長期政権を目指していながら、退陣を余儀なくさ れた岸の無念さも強かったに違いない。 岸が安保改定をめぐり後々まで悔やんだことがあった。この年の1月、米国で条約に 調印した後、すぐに衆院解散-総選挙に打って出なかったことだ。 「(選挙は)決して負けなかったと思う。安保改定にマスコミやいわゆる文化人は随分 反対したけど、国民全体からすれば支持した人の方が非常に多かった」 岸は側近にそんなことを語ったという(工藤美代子氏『絢爛たる悪運 岸信介伝』)。 総選挙で勝っておれば、反対運動や混乱も小さく、退陣を迫られることもなかったとい うのである。 確かに前年の34年10月、政府が全国1万人を対象に行った世論調査では改定に 賛成は15%で反対の10%を上回っていた。しかも安保改定が問題となっていることを 知っている者は50%で、この時点で国民の関心は極めて低かった。 岸は帰国後すぐ、自民党幹事長の川島正次郎に検討を命じたが、「党内の態勢が 整わない」という川島の反対で断念した。歴史の「イフ」ではあるが、解散していたら政 治が別の道をたどっていたことは間違いないだろう。 岸の退陣を受けた自民党の総裁選は最終的に池田勇人通産相、石井光次郎党総 務会長、藤山の3人で争われ、官僚派を代表する池田が当選した。ともに安保改定に あたった「盟友」の藤山ではなく、池田を後継に推した岸の影響が大きかったとされる。 池田は大蔵官僚出身で、衆院当選1回で吉田茂内閣の蔵相に起用されるなど、岸 の実弟、佐藤栄作と並んで吉田の腹心といわれた。蔵相時代、中小企業の倒産問題 に関し「いいかげんなことをやってきた人が5人や10人倒れても仕方ない」と述べて批 判されるなど、吉田譲りの「高圧的」なイメージが強かった。 だが35年7月19日、池田内閣が発足した直後の記者会見で「多数党は謙虚な気 持ちで忍耐強くやらなければならない」と述べ、国民をアッと言わせた。 岸政権とは百八十度も違うようなこの政治姿勢は「寛容と忍耐」「低姿勢」などと名付 けられた。官房長官に起用された大平正芳をはじめ、後に経企庁長官などをつとめる 宮沢喜一らかつて池田の蔵相時代の秘書官だった側近らによる「演出」といわれる。 この後、戦後最大の労働争議とされた三池争議を政治主導で解決に導く。さらに 今後10年間で所得水準を2倍にするという「所得倍増計画」を打ち上げ、安保騒動で 失われた国民の自民党や政治への支持を取り戻していく。 この年の11月20日に行われた衆院総選挙は、「安保反対」の流れや、10月に浅沼 稲次郎委員長が右翼少年に刺殺されたことへの同情などから、社会党有利という見方 もあった。 だが実際には自民党が選挙前を9議席上回り、追加公認を加えると300議席と圧勝 した。社会党は145議席で選挙前より増やしたものの、前回獲得議席から党分裂で民 社党が抜けた分を補えなかった。岸が再三述べていた通り、「安保反対」の盛り上がり が「一過性」にすぎなかったことを証明する形となった。 このため池田政権は安定感を増し、経済政策優先で日本は高度経済成長へと邁 進(まいしん)する。だがその一方で鳩山一郎、三木武吉、岸信介らが自民党結党時 に「党是」とした憲法改正や「国の守り」の論議は、次第になおざりにされていく。(皿木 喜久) ◇ 【用語解説】民社党結成 左派主導の過激な反米、反安保姿勢に反発する社会党の西尾末広派と河上丈太 郎派の一部は昭和35年1月、離党し民主社会党を結成した。反共と議会制民主主義 を掲げ、衆参54人でスタート、委員長に西尾が就いた。 安保後、社会党を徹底批判することで党勢拡大をはかったが、その社会党の浅沼 稲次郎委員長が刺殺されて矛先が鈍ったことや、安保改定に対する姿勢があまり明 確でなかったことなどから、11月の総選挙で惨敗、その後も飛躍はならなかった。 岸信介首相の側近だった福田赳夫(後に首相)は岸退陣後に西尾を首班とする民 社党との連立工作を試みたという。
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