来訪神の民俗学

来訪神の民俗学
――アカマタ・クロマタ、シヌグ、海神祭――
0. はじめに――来訪神の二つのかたち――
祭りの際に、身を清めて神を迎え、歓待し、祝福を受け、神とともに時を過ごした後に、
神を送る習慣は、世界各地で見られる。その様態は、それぞれの信ずる宗教によって千差
万別だが、その構造は大きく二つに分かれると言ってよいだろう。すなわち、訪れる神が
目に見える場合と、目に見えない場合である。
文化人類学や民俗学の領域で、一般的に「来訪神」といえば、仮面・異装の「目に見え
る神」の訪れをさすことが一般であるが、たとえば日本のお正月の「歳神」のように目に
見えない神も「来訪神」と呼んでよいと思う。なにしろ、あのわらべ歌にあるように「お
正月さん、ござった。どこまで、ござった。○○山の麓まで。なんに乗ってござった。ゆ
ずり葉にのって、ござった」と、目に見えなくても、かつては、歳神さまが各家の「歳棚」
や松飾や、お供え餅の上にやってきたものだ。
お正月が歳神なら、8 月の盆は「精霊さま」である。家ごとに、盆棚を作り、茄子や胡
瓜で馬を作り、門ごとに迎え火をたいて、ご先祖さまをお迎えしたのは、それほど昔の習
慣ではあるまい。そこで、まず、その見えない神の訪れを迎える代表的な例として、能登
半島の「アエノコト」を見てみよう。
1.
見えない神を迎える(能登半島のアエノコト)
アエノコトは、能登半島の能登町や穴水町、門前町や珠洲などで行われている神迎えの祭
りで、「アエ」は「饗」であり「もてなし」を意味し、「コト」は「まつり」を意味すると
いわれる。
地域によって異なるが、例年 12 月 4 日あるいは 5
日に、神棚の下などに種籾の俵をおき、山から切り
出した栗の若木を箸に見立て、饗応のための膳を用
意し、二股大根を供える。しかる後に、主人は紋付
袴の正装で田に向かい、田の神を迎え、扇の上など
に乗せて家に連れ帰り、床の間の神座に案内する。
この祭りの大きな特徴は、祭る人の目には見えな
1
い神を、あたかも目に見え、実際に来臨しているかのように遇することにある。
田の神は、長年の間、泥のなかに留まって田を守ってきた等の理由で、目が見えないこ
とになっている。
主人は、これを予め設えた神座(あるいはイロリの座)につけると、まず入浴のために
風呂場に案内し、あたかも盲目の人に説明するように、風呂の使い勝手を丁寧に説明する。
そして、身を清めて神座についた田の神に食事を勧め、膳のうえのご馳走の内容を説明し、
その一つひとつが神の恵みであることを感謝する。そして、神が食事を一通り終わったと
みると、膳をさげ、家族一同で分かち合い、神の恵みを神とともに食することで、神の霊
威を身につける。
アエノコトでは、神はそのまま年を越すとされ、2月には再び12月とおなじく正装した
主人に送られて、田に帰っていく。その月の 8 日、主人は山に入り、松の若木を切って「若
松様」を作り、神座の種籾に立てる。そして翌 9 日、
12 月の祭りの時と同じく膳を用意し、田の神を饗応
し、入浴させる。そして 11 日、種籾俵に飾った松に
神を乗せて田に降り、雪のなかに立て、三度鍬をふ
るって「田打ち」をして豊年を祈り、神を田に送る。
アエノコトの次第をみれば、誰でも気がつくよう
に、この祭りは、日本の正月の原型を示していると
言えるだろう。現在でも、ずいぶん簡略化されてはいるが、日本の多くの家庭では、スー
パーなどで小さな松飾とお供え餅をかって来て、松飾を家の入口に飾り、家の神棚、ある
いはそれに代わる場所に餅を飾り、橙やゆずり葉を添える。
これが、あたりに山の控えた地方であれば、もう少し丁寧に、山から松を切ってきて松
飾や門松を立てる。餅も自宅でついて、お供えを作る。場合によっては、神棚とは別に歳
神様を迎える「歳棚」があって、注連縄をはって昆布などの歳飾りを添える。歳の初めの
朝、あるいは大晦日の晩、家の主人がお雑煮などのご馳走をお供え餅のある神棚に備え、
その後で、一家が膳を囲むことだろう。
こんな、どこにでも見られる日本の正月の「祭りとしての意味」は、アエノコトにはっ
きりと見て取れる。目には見えないが、お正月の神様が家々を訪れる。家人は、それに感
謝し、饗応し、ともに膳を分かち合って、過ぎ去った年の無事を感謝し、来るべき年の幸
せを願うのである。
こうして正月を祝った後、7 日あるいは 14 日の松が取れると、正月の飾りが処分される。
この時の作法はいろいろあるが、一番分かりやすいのは「ドンド焼き」ではないだろうか。
神社や寺の裏手とか、小学校の校庭とか、適当な場所を選んで、松やゆずり葉を焼く。
そして、その煙に乗って「お正月様」は、どこかに帰って行くのである。
日本の正月に訪れる神は、アエノコトの場合のように「来臨する」わけではないし、祭
りを祝う側の人々も、もはや神の存在を意識することがなくなった。しかし、正月を寿ぐ
人々の心の底には、目に見えぬ神の来訪が今も息づいているのである。
そして、さらに注意してみれば、これとまったく同じタイプの「見えない神の訪れ」が、
盆にも繰り返されていることが、分かるだろう。
盆の場合には、迎え火に乗ってやってきた見えない「ご先祖様」が、盆棚や仏壇に 3 日
2
ほど留まった後に、送り火に乗って帰っていく。盆の飾りは、少し前までは、盆茣蓙など
に包まれて川に流されたものである。
そこで、つぎに、この盆に帰ってくる祖霊が、目に「見える神」として顕現する例とし
て、沖縄の石垣島「アンガマ」を見てみよう。
2. 見える神を迎える――八重山諸島のアンガマ――
沖縄県の八重山地方の島々には、旧暦 7 月 13 日から 15 日にかけての盆の間に、あの世
から帰ってきた翁(ウシュマイ)と媼(ンミー)が、町や村の家々を訪ね歩く「アンガマ」
と呼ばれる祭りが見られる。
石垣島の大浜や白保では、盆の間、あたりが暗くなり始め
ると、木の仮面をつけたウシュマイとンミーが、20 人あま
りの花子(ファーマー)を引き連れて、家々を訪問する。ウシ
ュマイとンミーは、あの世の人なので、この世の人とは違う
独特な甲高い声をあげ、家を訪れると、まず仏壇に挨拶し、
念仏を唱え、先祖の霊を供養する。その後、花子たちが、三
味線、笛、太鼓などの囃子にのって、かわるがわる踊りを披
露し、ウシュマイとンミーが、あの世に行くときに作法や、
あの世の生活について語りながら、家人や見物の人々と滑稽な問答を繰り返す。この間、
踊りを踊り、芸能を披露するファーマーたちは、頭巾で顔を隠しているが、ウシュマイ・
ンミーの子孫であり、男でも女でもないとされているが、かつては男が女の装いをし、女
が男の装いをしたとも伝えられる。
今日では、すっかり芸能化され、石垣観光の目玉商品としてホテルをまわって、観光客
とのやりとりを楽しむようになったウシュマイとンミーの姿は、以前の祭りの姿をずいぶ
ん変えてしまったに違いない。
かつて昭和 33 年から 56 年頃まで、沖縄各地で民俗芸能を調査した本田安次は、波照間、
石垣、竹富、鳩間、西表、与那国など各地のアンガマを訪ね、短い報告を記しているが、
そこに現れる面はボール紙であったり、瓢箪であったりして、現在、石垣島などで用いら
れているものとは、かなり印象が違う。八重山地方の島々のアンガマのなかで、翁と媼の
登場するのは石垣大浜と白保だけである。特に、竹富島の場合には、女たちが蒲葵(クバ)
の笠をかぶって、頬かむりをして、三味線にあわせて輪踊りするのを「アンガマ」と呼ん
でいる。石垣の場合の花子(ファーマー)が輪になって踊ると考えても良い。(注 1)
この時の本田の調査の中で、もっとも興味深いのは、波照間島で偶然見つけられた明治
36 年頃に書かれたという記録である。筆者は不明だが、こう書かれていた。
「ムシヤマを行わざる時は、アガマなるものを行う。各自紙片にて作りたる仮面を被り、
各戸を廻り歩くなり。道を歩くときは『アガマの来るとぞ。シュルメの来られるとぞ』ホ
ウホ
ホウホ。『味噌も塩も盗み食う』ホウホと呼ぶ。それに使用する言は、『アガマ言』
として裏声を用い、成る可く判定のつかざるようにす。家に入れば円く集合して念仏歌を
歌う」(注 2)
こうして見ると、当時の波照間のアンガマは、盆に家に帰ってきたご先祖様そのもので
はなく、むしろご先祖様のように帰るべき家をもたぬ「まつろわぬ霊」
「雑鬼」の類である
3
ようにも見える。彼らが、家々をめぐって接待を求めたり、ホウホと恐ろしげな声をあげ
て「味噌も塩も盗み食う」ような悪戯をするのは、そのせいではあるまいか。
しかし彼らは、家々に入ると円く集合して念仏歌を歌い、仏壇に帰ってきた祖霊を慰める。
そして父母の恩の深さを説くと同時に、家々の繁栄や、田畑の豊作、海での豊かな収獲を
授けて去っていくのである。
八重山を離れて、沖縄の人々からはヤマトと呼ばれ
る日本本土の盆を見てみると、ウシュマイとンミーの
ような目に見える来訪神が、家々を訪れる例はないよ
うに思われる。
しかし、ここでも注意してみると、日本各地には「笠
をかぶり、頬かぶりして、町や村を流して歩く盆踊り」
が多く見られる。たとえば、よく知られた富山県八尾
町の「おわら風の盆」では、笠を目深にかぶった男女
の踊り手たちが三味線、胡弓、太鼓の囃子にあわせて
町を流して歩く。
八尾の風の盆ほど知られてはいないが、秋田県雄勝郡西馬音内
(にしもない)の盆踊でも、
踊り手たちは笠と頭巾ですっぽりと顔を隠して踊る。
この踊り手たちのなかでも、ひときわ人目を引くの
は「ひこさ頭巾」という目だけが覗く黒い被り物を
かぶった踊り手の存在である。この頭巾のせいもあ
って西馬音内の盆踊りは、一名「亡者踊り」とも呼
ばれている。
この笠をかぶったり、覆面をしたりして踊る人々
は、本田安次が記録した竹富島の蒲葵笠をかぶって、
頬かむりをして踊る「アンガマ」や、石垣大浜や白保で顔を隠してウシュマイとンミーの
後をついてまわり、踊りを披露する花子(ファーマー)とよく似ている。
盆に際しては、よく言われるように「地獄の釜の蓋があく」。
富山県や秋田県で、盆に帰った祖霊の祭りに彩を添える盆踊りの踊り手たちも、八重山
諸島のアンガマの来訪神と同じく、祖霊とともに地獄(あの世)から訪れた「まつろわぬ
霊」「雑鬼」を演じているのではあるまいか。
以上、正月と盆の例で見たとおり、祭りに際して訪れる「目に見える神」と「目に見え
ない神」の問題は、複雑に交差しており、簡単に解き明かすことはできない。
そこで、つぎに祭りを演じる人たちの立場から、この問題を考えてみよう。舞台は、ふ
たたび沖縄である。
3.
西表島古見のアカマタ・クロマタ
「見える神を迎えて祝う祭り」と「見えない神を迎えて祝う祭り」では、祭りを演じる
側に、はっきりとした違いが存在する。
「見える神」を伴う祭りの場合には、当然のことながら、神を演じる祭祀集団が存在す
るのに、「見えない神」を迎える祭りの場合には、それが存在しないからである。
4
この二つの違ったタイプの祭りを考えるために、ふたたび八重山諸島の石垣島や西表島
で祝われる「アカマタ・クロマタ」と、沖縄本島北部の国頭郡を中心とした「海神祭(う
んがみ)」を例にとってみよう。
まず、アカマタ・クロマタについて考える。
気候が温暖で、初夏に稲の刈り上げを祝う沖縄では、旧暦の 5 月、6 月に豊年祭が行われ、
八重山諸島では、この祭りはプーリあるいはプールと呼ばれる。
3 日あるいは 4 日にわたる祭を主宰するのは、
司を頂点とする女性祭祀集団だが、
西表島、
小浜島、石垣島、新城島、上地島などでは、祭りの 2 日目にウムトゥ、ナンビトゥなどと
呼ばれる秘密の場所から「アカマタ・クロマタ」と呼ばれ、仮面をつけ、全身に森の緑を
まとった来訪神が出現し、各戸をまわり、家々の繁栄と豊作を予祝する。
来訪神アカマタ・クロマタの訪れは、まったくの秘儀とされ、厳格な秘密結社的な性格
をおびた「ギラヌム」と呼ばれる男性祭祀集団によって担われる。
まず、この秘儀に関して詳しく報告し、初めて写真を公表した宮良高弘の記述にそって、
祭りの発祥地とされる西表島古見の儀礼の次第を紹介する。古見ではアカマタ、クロマタ
に加えシロマタが登場する。(注 3)
3-1. 祭りの初日
古見豊年祭の初日は、司のニンガイ(祈願)から始まる。
まず料理係が、午前 10 時頃から各々に所属する御嶽の境内で、氏子から寄せられた材料
で供物をつくり神酒とともに御嶽に供える。
そして、司を中心に、男神役と氏子たちが五穀豊穣の祈願を行う。
司は、拝殿での祈願が終わると、森の奥深い拝殿裏のイビと称せられている場所へ入り、
更に祈願を続ける。イビは、最も神聖な所と考えられ、男性の立ち入りは固く禁じられて
いる。
ブサーと称せられる給仕が、イビで司が祈願する回数に合わせて、神酒と供物を運ぶ。
その間、拝殿ではブサーがイビへ行き着く頃を見計らって、男神役と氏子達が、司に合わ
せて祈願を行う。
司がイビでの祈願を終えて、御嶽にもどってくると、銅鑼の音と太鼓の音に合わせて歌
われるミツバナリユンタとともに、一同は地域の御嶽の歴訪を始める。
訪れる御嶽は、パイヌオン(南の御嶽)と呼ばれているミチャーリ(三離)、カネマ(兼
真)の両御嶽、シタズ(宇根)、ウケハラ(請原)、ピニス(平西)、ヨナラという6箇所で
ある。カネマはクロマタの親の御嶽、ミチャーリはクロマタの子の御嶽、ピニスはアカマ
タの親の御嶽、ウケハラはシロマタの親の御嶽、ヨナラはアカマタの子の御嶽、シタズは
シロマタの子の御嶽であるとされている。
その晩、部落のギラヌムの団員たちは、アカマタ、クロマタ、シロマタの面を、安置し
てあるトゥニムトゥ(宗家)から秘儀の行われる場所へと、人目につかぬように運ぶ。そ
して、仮面の修理をし、衣装にする葛をとりに行き、翌朝までにすべての準備を終了する。
3-2. 祭りの 2 日目
豊年祭の第 2 日目は、トゥピィと称せられ、三神が出現する日であるが、その日の未明、
鳥のなく寸前に「クロマタ」のグループはパイヌオンの境内で、
「シロマタ・アカマタ」の
グループはウケハラの境内で会合を持つ。
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この会合において、その年に新しく入団する者(ウイタビ・初旅)の代人(後見人・烏
帽子親)である「ユブス親」は、ウイタビの用意した酒一升と米一斗をウイビト(長老)
に献上する。
その時ウイビトは「俺の家には酒は沢山ある。お前から今日こんな酒をもらい、盃を受
ける理由がない」と白ばくれる。
代人はこれに答えて「いや誰某をウイタビとしたいのです。お納め願いたい。本人は、
シジャヌメー(自分より年長者)のいいつけをよく守り、神さまを立派に祭りとおします
から、よろしく頼む」という。
そこで長老たちによる審査がなされ、合格するとウイビトと代人の間に盃が交わされる。
その席で、当日のシーヌピィト(仮面仮装者・後ろの人)とマイダツ(旗持・前立ち)な
どが決定され、アカマタ・クロマタに関する歌が歌われ、会合を終える。この日に、今年
はじめてアカマタ・クロマタに関する歌を歌うことを「ハツオコシ」という。
午前 10 時頃から舟漕ぎの儀式が行われる。クロマタ・シロマタ・アカマタの 3 グループ
に分かれ、乗組員は、それぞれ自分の所属する黒、白、赤の色をした着物を着て、その色
の鉢巻をしめ、各御嶽の前で舟漕ぎをする。潮が引いている時は沖に出て漕ぐこともある
が、舟なしで徒歩で往復することもある。これは競技ではなく儀式としての舟漕ぎである。
岸から沖に漕ぎ出して、岸に戻るという往復 9 回の舟漕ぎが繰り返される。沖へ漕ぎ出す
ときは、フナクイ(舟漕ぎ)ユンタを唄いながら、ゆっくりと漕ぎ出し、岸へ漕ぐ時には
太鼓を早打ちして大声で「ヘット、ハット、ヘット、ハット、ヤークリ、ホッホ」と繰り
返しながら、大急ぎで舟をこぐ。
舟漕ぎが終わり、舟子一同が浜に並び、司から全員に、それぞれの色の鉢巻の上に葛が
授けられる。これで儀式は終了し、爬竜船競技が行われる。これが終わったあと舟子たち
は御嶽へ赴く。
日が暮れると、いよいよ三神の出現である。森の奥深いウムトゥと呼ばれる神聖な場所
から出現し浜に降り、舟漕ぎの行われた場所から上陸する。ウムトゥの儀式にはギラムヌ
しか参加できず、ウイタビはウムトゥから 1000 メートル、マタタビは 300 メートル離れた
ところで待たされる。
1972年に祭祀撮影のために古見を訪れ、調査した北村皆雄によれば、アカマタ・シロマ
タのウムトゥは、北側の村落を西に向って山のほうにしばらく行った人目につきにくい木
立の中にある。そこは、祈り手が西に向って位置するように作られた小さな空間である。
一方、クロマタのウムトゥは、村の南の方向、カネマ、ミチャーリの後方にある。クロマ
タの墓の方向と思われる。(注4)
クロマタはカネマ御嶽から出てくる。出てくる時は、地の底のニーラから出てくるのを
象徴するかのように小さい半円形の門=兼真の門を潜って出てくる。
仮面仮装神がやって来ると、ユブスウヤがウイタビの側に居て、
「立ってお辞儀をしなさ
い」「いま手を合わせなさい」などと仮装神をお迎えする心構えを注意し、ウイタビはその
行列の前列に立たされる。仮装神は村はずれの道を通って請原御嶽の前から村に入ってく
る。
こうして、司たちの待つトゥニムトゥ(宗家)に太鼓打ち、銅鑼打ち、その他の団員に
護衛されながら、三神が出現する。
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シロマタ、アカマタの二神は、対を成して、シロマタ、ついでアカマタのトゥニムトゥ
に出現する。
部落の人々は、シロマタのトゥニムトゥで初めて仮面仮装者を迎えて礼拝する。団員以
外の村人や観客は、トゥニムトゥに軟禁状態になり、神を畏怖して決して直視しない。神
の出現中、頭をさげて祈願するので、中には神の様相さえわからない者もいる。
ついで、アカマタのトゥニムトゥへ行き、クロマタのトゥニムトゥと同じことを繰り返
す。そしてトゥニムトゥをでてピヌス御嶽に行き、ウムトゥバナリヌ・ユンタが唄われる。
アカマタ・シロマタは、村人に見送られながら仮装神は山中に消えていく。
アカマタ・シロマタが去ると、クロマタの登場になる。クロマタとアカマタ・クロマタ
とは、路上で会うことを禁忌としているので、クロマタの来訪は遅れる。クロマタは帰る
とき、御嶽の前に草の衣装を置いていく。これは来年の豊作のしるしという。クロマタは、
出るところは見せるが、帰るところは見せない。アカマタ・シロマタは、逆に出現は見せ
ないが、帰るところは見せるという。
その後、部落の人たちは家に帰り、旗持ちなどアカマタ・シロマタのお供をした人たち
は、ヨナラ御嶽とウケハラ御嶽をまわる。その後、夜 12 時まで、このお供たちがアカマタ
とシロマタのトゥニムトゥを唄い回る。
3-3. 祭りの 3 日目と 4 日目
豊年祭の第三日目にはアサギシキ(朝儀式)またはトゥニ儀式(トゥニムトゥで行われ
る儀式)という儀式が、クロマタのグループはクロのトゥニムトゥで、アカマタ・シロマ
タのグループはアカのトゥニムトゥで行われる。
豊年祭の第四日は「トゥルバライ」
(とり払い)と称せられ、あとかたずけがなされるが、
その夜は部落の老若男女を交えて、歌の掛け合いがなされる。
4.
大宜味村謝名城の海神祭
つぎに私自身の 1985 年 5 月の調査に基づいて、
「見えない神」を迎える海神祭について
考察してみよう。(注 5)
「うんがみ」または「ウンジャミ」と呼ばれる海神祭は、沖
縄本島北部の国頭の村々で旧暦の盆明け初の亥の日に祝われる
祭りである。この日は、大宜味村謝名城(じゃなぐしく)の根
神、大城茂子の歌うウムイ(神歌)にも「ニレーから上がりて
ィもち、遊(あし)びならてィ、踊(うどゥ)いならてィ、か
たすべく島や、遊びたらじ、踊いたらじ(ニラヤから上がって
こられて、遊びを習って、踊りを習って。辺鄙な島(部落)で
は、遊ばれない、踊れない。遊び足りない。踊り足りない。)と
あるように、沖縄の人たちが信ずる神々の住処、ニライ・カナイから訪れる神を招く尊い
日である。
謝名城の祭りを主宰する城祝女(ぐしくのろ)は、喜如嘉、大宜味、饒波、大兼久、謝
名城の五集落の神人を集め、訪れた海山の神に、豊年と子孫繁栄、悪疫の退散を祈願する。
今日では、祭りは簡略化され、ほぼ一日で終わるが、かつては5日を要した盛大な祭り
だった。
7
祭りが現在のように簡略化される以前には、祭りの4日前に、城集落の祝女殿地で「ウ
タカビ」が行われた。これは祝女殿地に祀られた火の神を通して、ニライの神、山の神、
御嶽の神などに祭りの報告を行う儀礼である。この時、新たに祭りに加わる神人があると
「アラダムトゥ」という儀礼が行われる。これは、まず前の神人の神をもどし、次に新し
い神人に白装束をつけて、神の加護を願うことからなる。しかし、この新しい加入者に本
格的に神を降ろすのは、さらに祭りの前日に行われる「ハンサガ」という儀礼まで待たな
ければならない。この祭りは、城のアサギで施行される加入儀礼で、かつては祭りの後に
祝いの酒をくみかわし、めでたい祝いの歌を唄って夜通しアサギ内で祝い明かしたといわ
れている。
昭和初期に刊行された島袋源七の『山原の土俗』には、謝名城から少し離れた辺土のウ
タカビの記録がみえる。島袋によれば、辺土の神
人は、祭りの3日前から水祓いして身を清め、集
落の創建にかかわる根屋(本家・ウフムトゥ)に
こもり、根屋の火の神に祭りの報告を行う。この
間、村の人々は夜間の外出を禁じられ、
「もし外出
中に神人に行き逢うと、神の祟りで早世する」と
言われていた。(注 6)
こうして迎えた祭りの朝、かつての神人たちは、
大宜味崎の浜まで出向いて、ニライの神を迎えし
て、城のアサギまで上ったという。これを「朝ウイミ」といった。それがその後短縮され、
駕籠で喜如嘉まで行くことになり、さらに大正の頃には根謝名と一名代の境のウスザキま
でとなり、第二次大戦後には、まったく姿を消した。
神人が、浜で迎えに立っても、もちろん神は目に見えるかたちで現れることはない。し
かし、彼女たちは「見えるかのように」神に接し、駕籠に乗せ、祭りの場まで誘うのであ
る。
もはや「朝ウイミ」をしなくなった 1980 年代の神人たちは、祝女殿地で祈りを捧げて、
ウムイを唄いながら御嶽に上る。城に着くと火の神に加護を願い、アサギ内部のタムトゥ
(座)につく。神人たちは、神酒を酌み交わし、集まった
集落の人々は、神人から盃を受ける。そして、いよいよ神
遊びが始まる。
この神遊びは、一言でいえば、祭りの庭に迎えられた海
の神と山の神の交換と祝福の儀礼である。
まず、アサギの横にしつらえた祭りの庭(ウマー・御庭)
の、御嶽に正対する正面に設けられた座に祝女を迎え、祭
りの遊びを司る「遊び神」と呼ばれる神人が、白衣をつけ、ヤブランで作ったハーブイと
いう被り物をつけ、弓矢をもって「ウンクーイ、ウンクーイ」と唱えながら弓遊びをする。
ウンクーイは「乞い祈る」の意味で、遊び神は、この所作によって、ユガフー(世果報)
という「豊かな恵み」を乞い祈る。
弓遊びが済むと、神人は白衣から色物に着替えて、今度は、手をつないで輪になり、ウ
ンクーイ、ウンクーイと唱えながら、祭りの庭を 7 回まわる。仲松弥秀によれば、かつて
8
は、海の神を演じる神人が青または薄黄の衣装をつけ、山の神を演じる神人が白衣をつけ
たという。(注 7)
次に縄遊びに移り、再び白衣をつけた神人が、網に見立てた二本の縄の間に入り、ウム
イを唄いつつ踊る。その間に、見物する村人たちに向ってムキク(海藻)とシークワサ(蜜
柑)が投げられる。ムキクは海の神の土産で
あり、シークワサは山の神の土産であろう。
山からの土産には、ほかにスブイ(冬瓜)と
野ネズミがあり、島袋源七によれば、かつて
はこのスブイを猪に見立てて、槍でつきころ
がし、猪狩りの所作をしたという。
神アサギでの祭りは以上だが、これをまと
めてみると、(1)山の神と海の神に対する礼
拝、(2) 山の神による祝福、(3)山の神と海の
神の交歓と祝福、(4)海の神の踊り(漁の所
作)(5)双方の土産の交換と祝福、[(6)山の神の踊り(猪退治の所作)]という6段階からな
るように思われる。
しかし、このウマーで行われる神遊びに関して、もう一つ指摘しておくべきことは、祭
りの間タムトゥに座したままで、礼拝や芸能を置けとる側の祝女と、それを演じ献ずる遊
び神との間の役割上の明確な区別である。
これも、島袋源七によれば、この時タムトゥに座る神は、祝女と若祝女と海の神の掌神
である坐タムトゥ神 4 名であって、いずれも祭りの前日に喜如嘉の根屋においてウングマ
イ(お籠り)をして過ごしたものである。これに対して、芸能を演ずる遊び神は、山の神
とも呼ばれ、謝名城の根神を中心とした土地の神であるという。
かつての謝名城の祭りの形が、正確に記録されているわけではないから、即断はできな
いが、ウマーにおける神遊びでは、祝女を中心とした坐タムトゥの神人たちが来訪神とし
て共同体を訪れる神を演じ、根神を中心とした遊び神の神人たちが、訪れた神を招き入れ
歓待する土地の神を演じていたのではないかと推測される。そして、その際、来訪神を演
ずる者たちが、かつて集落の外部から制度として導入された巫女の長である祝女であり、
土地の神を演ずる者が集落の草分けに連なる根神であることも興味深い。
さてアサギでの祭りが終わると、神人たちはウムイを唄いながら御嶽を下りて、祝女殿
地に近い「御殿庭(ウドゥンマ)」に至る。いまは、この海を見晴るかす美しい場所で、ふ
たたびウムイを歌い、海の神を送る。これを「ナガリウークンザク」という。
しかし、これも島袋源七によれば、かつては駕籠に乗って喜如嘉まで行き、根屋に集ま
ってウムイを歌い、踊り、さらに浜に下りて、スブイと野ネズミを捧げ、神酒を供して海
と山を拝し、神遊びに用いたハーブイと一緒に捧げものを海に流したという。
以上が、「見えない神」を迎えて豊饒を祈る海神祭のあらましである。
沖縄の祭りは、アカマタ・クロマタなどの「見える神」が顕現する八重山諸島の豊年祭
の場合も、海と山から「見えない神」を迎えて祝う海神祭の場合も、祝女あるいは司と呼
ばれる女性祭祀組織によって祭りが担われる。しかし、「見える神」の祭りでは、神を演ず
る「ギラヌム」などという男性祭祀組織が大きな役割を果たす。
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そこで次に、男性と女性の祭祀組織の基本について論じた岡正雄、佐喜眞興英などの考
察を管見しながら、もう少し考察を進めてみよう。
5. 来訪神と秘密結社
日本の来訪神の問題を論ずるときに「見える神」の問題に初めて注目し、それを秘密結
社と結びつけて考えたのは、おそらく岡正雄が初めてではなかったろうか。
岡が 1928 年に雑誌「民族」弟 3 巻に発表した「異人その他」という論考は、その「古代
経済史研究所説草案への手控え」というサブタイトルにも見られるとおり、無言交易など
の原初的な交換システムと異人の問題を論じたものだが、そこには既にメラネシア及びポ
リネシア社会におけるの秘密結社の役割に関する強い関心が見られる。
岡は、秘密結社について、こう記している。
「メラネシア又はポリネシアの社会生活の根幹となるものは所謂秘密結社である。之に
は未成年者や女子を参加せしめず、加入には厳重な入社式を施行し、時あって異様の服装
を纏い怪音を出してその出現を報じ、村々を横行して強奪威圧を敢えてし、或いは祝言を
述べ、その他種々の行動を試みる。」
(注 8)
岡は、その異人と秘密結社の一例として、ニュー・ブリテン島のドゥク・ドゥクを次の
ように紹介している。
「ドゥク・ドゥクの祝祭は一月の始まる時に行われる。この祝祭
の一ヶ月程前に長老者はドゥク・ドゥクの出現を予め部落民に云い
触らして、食物の用意をさせておく。出現の前日から女等は家の中
に隠れて外出しない。ドゥク・ドゥクは海の彼方の国から来るもの
と信じられているので、島の男共は、海岸へ出て之を待ち受ける。
暫くすると、太鼓の音、歌の声が海上に聞え、それから間もなく姿を現してくる二個の異
容の怪物が独木舟の上に作られた壇の上に立って、叫声をあげて踊っている。かくして上
陸するや二つの怪物は怪音を発しつつ島中を横行す。長老等は島人
の供えた食物を、タライウという叢林の聖地に運びさる。かくして
入社式が始まるのである。」(注 9)
岡正雄は、この論考を公表した直後の 1929 年にウィーンに留学
し、1935 年までその地に留まり、1933 年には、ウィーン大学に博
士論文「古日本の文化層」を提出した。この大部の論文は、ついに日本語で公刊されるこ
とはなかったが、国際的に高い評価を受け、その後の日本の民族学、文化人類学そして民
俗学の大きな影響を与えることになった。
特に注目されるのは、一般に「単一民族の単一文化」とされることが多い日本文化を、
歴史的に、地域的に、さまざまの民族文化が重層し、混合し、並存した雑種文化として捉
えなおし、神話、宗教、社会組織、生業などの視点から、精緻な検討を加えたことである。
人類学や民俗学を学んだ者なら、誰もが知るとおり、一国の文化の起源を知ろうとする
ことは、不可能である。それは、まさにパンドラの箱なのであり、開いたら収拾がつかな
いことは、分かりきっている。岡は、その危険と限界を知りながら、敢えて蓋をあけたの
である。
この岡の無謀な試みは、さまざまな形で紹介されているが、そのなかで最もよく知られ
10
た「日本文化の基礎構造」を見てみよう。彼は、そこで日本文化の成り立ちを、次の 5 つ
の文化層に分けて考える。(注 10)
1
母系的・秘密結社的・芋栽培ー狩猟民文化
2
母系的・陸稲栽培ー狩猟民文化
3
父系的・ハラ氏族的・畑作ー狩猟・飼蓄民文化
4
男性的・年齢階梯的・水稲栽培ー漁撈民文化
5
父権的・
「ウジ」氏族的・支配者文化
岡は、本稿の主題となるアカマタ・クロマタ的な「秘密結社」と「来訪神」の文化を、
日本文化の最古層をなすと思われる第一の「母系的・秘密結社的・芋栽培ー狩猟民文化」
の中核においている。
そこで、岡の主張を、生業、宗教、社会組織という視点から要約してみよう。
まず生業から見ると、文化複合第一層には、東南アジア、ポリネシア、メラネシア、イ
ンドネシアに分布するタロイモ(里芋など)
・ヤムイモ(ヤマイモなど)の栽培文化の痕跡
が残されている。
岡は、このイモ栽培文化が、既に縄文中期には開始されたと考えているが、開始時期の
問題はともかくとして、この主張は、後に坪井洋文等によっても指摘されたとおり、従来
の稲作文化を中核とする柳田國男的な日本文化起源論を覆す上で、先駆的な着眼である。
つぎに宗教的な側面から見ると、この文化の基盤をなすのは霊魂崇拝、祖霊=祖先崇拝
であり、祖霊が死者の国から訪れるという宗教観念である。岡は、季節ごとに訪れるアカ
マタ・クロマタ、ナマハゲなどの仮面仮装の来訪神の存在と入社儀礼をともなう秘密結社
の存在がその根拠となると考える。「異人その他」でメラネシア・ポリネシア文化の考察か
ら出発した岡は、八重山諸島のアカマタ・クロマタのような日本各地の来訪神とニュー・
ブリテン島のドゥク・ドゥクのような来訪神の間に親縁性が存在すると考えた。
メラネシアの場合には、既婚男子は男子集会所=男子結社で生活し、霊魂崇拝、祖霊崇
拝が顕著であり、二重葬制、頭蓋崇拝が存在するが、日本文化の最古層にも、男子結社の
存在があり、祖霊崇拝と二重葬制などが見られるというのである。
さらに岡は、社会組織という視点から母系制の存在から日本とメラネシアの文化構造の
共通性を考える。岡によれば、日本には、イロ・ハ(母)イロ・エ(同母の兄)イロ・ネ
(同母の兄/姉)イロ・ト(同母の弟/妹)イロ・ネ(同母の妹)などの古典語の存在が
存在するが、イロは同系同母集団をあらわし、母系相続制や母処・訪婚的社会、そして女
酋の存在をもうかがわせる。これは、メラネシアの母系、母処・訪婚的社会と通底する。
以上の構造的な同一性の傍証として、日本文化とメラネシア文化の間には、輪積法土器、
渦巻文、乳棒状石斧、仮面、切妻家屋など、誰の目にも理解しやすい物質文化の類似も指
摘される。
岡の開いたパンドラの箱の最古層は、ざっとこのようなものである。
彼が、ここで「母系的・秘密結社的・芋栽培ー狩猟民文化」と呼んだものが、文化複合
として一体的かつ整合的な性格の持つか否かは、検証不可能である。今日の文化人類学や
民族学の成果から見れば、岡の主張は壮大にすぎ、緻密さを欠く。
11
「アカマタ・クロマタ」のような仮面仮装を伴う秘密結社的な祭りが、縄文後期に起源
し、母系制を伴う等ということは、簡単には認めることはできない。
しかしながら、岡が迷走を重ねながらも、ここで日本列島には南のアカマタ・クロマタ
に始まり、北のナマハゲに至るまで、秘密結社的な性格をもった来訪神が存在し、それが
霊魂崇拝・祖先崇拝の信仰と結びつくと指摘したことは、興味深い。ここに、国立歴史民
俗博物館が来館者用に用意したパンフレットに基づいて「日本の主な仮面仮装来訪神の分
布」を参考のために掲げてみよう。(図1)
アカマタ・クロマ
タの祭りの時にす
でにみたように、神
を演ずる男たちは
「ギラヌム」という
男性秘密結社に属
しており、祭りの秘
密を他言すること
を厳しく禁じられ
ている。
そして厳しい入
社儀礼が行われる。
宮良高弘によれば、
古見のギラヌム入
団儀礼の次第は以下の通りである。(注 11)
「新しく秘儀集団に入団することを、古見ではウィムトゥ・イリ、小浜、宮良、新城で
はナビンドゥ・イリといっている。入団が許された初年者を、古見ではウィタビ(初旅)
またはアラタビ(新旅)、小浜ではアラシンツキ(新客付き)、宮良・新城ではシンツキャ
ー(新客に付いた者)などと称し、非団員とは区別されている。
」
「新入団者には、仮装神に関する秘密が伝授され、村の祭礼などでは一人前の人間とし
て遇される。たとえ団員といえども、祭礼期間を除いては語ってはならず、神の由来の伝
説や歌も、祭礼のときに伝授されるので、覚えの悪いものは何年経っても覚えきれないこ
とになる。したがって、同じ年に入団した者でも能力に差が生じ、こうして少数の長老の
みに最大の指揮権が与えられ、彼らを頂点として秘儀集団のヒエラルキーが構成されるこ
とになる。こうして長老は、村人からウヤ(親)ないしウィビトゥ(年寄り)と呼ばれ、
村落生活においても絶対の権威を持つことになる。
」
「入団資格は、第一に、一定の年齢に達していなければならない。古見においては 17、8
歳、小浜その他では、中学校を終える頃の 14、5 歳の男性なら入団資格がある。第二の原
則は、当該部落の、生まれながらの成員権を持ち、しかもその村に居住していなければな
らないのである。第三は、品行方正の者でなければならない。」
そして、入団候補者に対しては、さまざまの試練が課せられる。
たとえば「トゥニムトゥの太陽のカンカン照るなかで正座させられ、ギラヌム達の歌と
太鼓に合わせて、長時間にわたって、両手を大きく開いたり合わせたりさせられる。」また
12
「少しでもウイタビの姿勢が崩れると、棒でなぐられたり、水をかぶせられたりする。昔
はヒザに棒をはさみ、石の上にひざまずかされたそうである。」
このような苦行がおわると、今度は「ママリ」をさせられる。
「ママリとは、自分の好き
な女性の告白である。もし、自分につりあわない年輩の女性の名を言おうものなら、何度
でも最初から苦行のやりなおしである。だから彼ら(ウィタビ)は必ず年頃の自分が心に
とどめている娘の名をいうのである。」
このような厳しい加入儀礼や秘儀の伝授は、現代の私たちの目から見れば、考えられな
いことだが、かたちは違っても、たとえばメラネシアのドゥク・ドゥクの場合にも存在し
た。
また、かつて日本各地にみられた若者組や青年団の加入儀礼でも、よく行われたことで
ある。こうした若者たちが、一定の年齢に達しった時に、婚姻までの間に親の家を離れて
起居をともにしたのが「若者宿」であり、この民俗は、西南日本の沿海部に広く分布し、
東北の青森、秋田にもその存在が知られている。そしてアマミハゲ、ナマハゲ、ナモミ、
ヒガタタクリなどという来訪神を演じた若者たちの結社も、東北の石川、秋田、岩手など
の沿海部に分布している。
いうまでもなく、若者宿のあるところに、かならず来訪神があるわけではない。しかし、
山車や神輿の担い手、太鼓や笛の囃子方、獅子舞などの激しい踊りなど、祭りの中心とな
る出し物や芸能が、日本各地の祭りで男子の若者たちによって担われてきたことは、周知
の事実である。そして、その伝承には、年齢階梯的な厳しい入社儀礼がともなうこともし
ばしばであった。
たとえば、
よく知られた九州博多の「祇
園山笠」の祭りでは、祭りの担い手は、
中学を卒業するくらいから祭りの組に入
り、一人前の引き手になると赤手拭を締
め、経験をつみ、取締り、総代へと出世
するたびに手拭の色や模様を変えていく。
祇園山笠の場合には、祭りを担う男た
ちが、若者宿で生活をともにしているわ
けではないが、試練を経て、次第に責任
ある立場に上り詰めて行く姿は、アカマ
タ・クロマタの「ギラヌム」と同じである。
また祭りの中心である「山笠」は、仮面仮装の
来訪神ではないが、荒ぶる神を乗せて走り抜ける
姿は、まさに神そのものと言っても過言ではない。
アカマタ・クロマタを演ずる若者たちが命懸けの
誓いを立てるように、祇園祭りで赤手拭をしめた
若者も、命をかけて山笠を引くのである。
(右の手拭映像は、
http://www.hakata-kasaya.co.jp/ 参照)
かつて若者たちが起居をともにし、祭りの準備に余念が無かった「若者宿」も、今とな
13
っては姿を消したも同然だが、その姿をしのぶよすがは、まだ各地に存在する。
たとえば川崎市立日本民家園に移築された三重県志摩郡大王町船越の歌舞伎舞台の正面
を飾る鬼瓦には「若」の一字が刻まれている。これは、この舞台を若者組が運営していた
ことを示している。
紀伊半島の先で育った若者たちの「若者宿」の大切な役割は、もちろん漁などの生業技
術の伝承であるが、彼等の「船越歌舞伎舞台」は、同時に祭りを支える囃子や、踊り、時
には地芝居などの芸能の伝承の場でもあったのだ。
6.
オナリ神信仰と女性祭祀組織
次に、これも日本文化の最古層に属すると思われる「オナリ神」の信仰を手がかりとし
て、沖縄の祝女組織について考えてみよう。
沖縄の女性祭祀組織を考える上で、よく引用される一節
が魏志倭人伝にみられる。邪馬台国の卑弥呼をめぐる、よ
く知られた記述である。
「其の国、本亦男子を以って王と為す。住まること七、八
十年、倭国乱れて、相攻伐すること年を歴たり。乃ち共に
一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と日う。鬼道を
事とし、能く衆を惑わす。年、己に長大なれども、夫壻無
し。男弟有りて国を佐け治む。王と為りて自り以来、見ゆ
ること有る者少なし。婢千人を以って自ら持らしむ。唯男
子一人有りて、飲食を給し、辞を伝えて出入す。居処、宮
室、楼観、城柵、厳かに設け、常に人有りて兵を持して守
衛す。」(注 12)
ここに記された卑弥呼は、一般に、鬼道を事とし、天の声を聞くことのできるシャマン
(巫女)であり、婢千人に囲まれながら、男子一人が言葉を取り次ぎ、弟が卑弥呼の言葉
に従って国を治めていたと考えられている。
北山、中山、南山のいわゆる三山統一以前の古琉球の政治形態について、オモロ等の資
料をもとに考察し、キコエ大君と呼ばれる「王姉なる女君が古琉球に女治を振るった」と
考える佐喜眞興英は、魏志倭人伝のこの記述をうけて『女人政治考』のなかで、こう書い
た。
「私は之を前述古琉球の女治に比較する時、其の類似の著しいのに驚くのである。古琉
球に於て女君が王姉にあたっていた如く玆でも『男弟佐治』となって居る。古琉球の女君
が、独身を守って神に奉仕した如く、卑弥呼も『亦事鬼道能惑衆年、年己長大無夫壻』で
ある。尚卑弥呼の配下に婢千人とあるのは、浅薄な皮想の観察で実は卑弥呼の事鬼道を補
助する女神官達ではなかったろうか。斯く見るならば倭人伝記にあらわれた古代日本の女
治と古琉球のそれとはいよいよ似てくるのである。」
(注 13)
佐喜眞興英が指摘するように、『魏志倭人伝』における「聖なる天の声を聞く女姉と世俗
的な権力を振るう男弟との関係」は、沖縄における世俗的な王と聖なる王姉(聞得大君)
の関係と、よく似ている。
そして沖縄の人々の信仰の核心に、この世俗的な役割を果たす男(ウッキー、エケリ)
14
と霊力によって男を支える女(ウナイ、オナリ)の関係(オナリ神信仰)が有り、男が女
の姉妹または妻であることも周知の事実である。
ただ、言うまでもない事だが、沖縄に聞得大君を頂点とし、その下に三名の大阿母志良
礼(おおあもしられ)をおき、さらに按司などの各地域の支配者の姉妹や妻を祝女とする
整然とした女性祭祀組織が誕生するのは、第二尚氏第三代の尚真王の時代である。
大林太良は、
『邪馬台国』のなかで、上田正明の佐喜眞興英に対する批判を援用しながら、
その経緯を次のように分かりやすく纏めている。(注 14)
「琉球に最初の統一王国ができたのは 1429 年である。次の王朝(第二尚氏)の尚真王(1
477-1526 年)は全群島を統一し中央集権的な政治を行った。その場合、王は仏教に帰依
し、かつ儒教倫理を政治上の指標としたと考えられると仲原善仲は論じている。ところで
その一方において尚真王は妹を聞得大君に任命し、全琉球のノロを組織し、統轄せしめた
のである。つまり、儒教を《政治上の指標》とした全群島の中央集権的政治体系の樹立と
平行して、聞得大君によるノロの組織化が行われたのであった。聞得大君の出現は政治面
における中央集権化の余波として生み出されたものであり、かつ儒教的な政治体系と固有
信仰(=オナリ神信仰)の分離の結果発生したものなのである。このような聞得大君歴史
的背景を考えるならば、これを卑弥呼とただちに比較するのが不適当であるというのはも
っともと言えよう。」
沖縄の祭りと信仰を考える上で欠くことのできない祝女を中心とした祭祀組織は、ここ
で大林が簡潔にまとめているように、一方では「オナリ神信仰」という沖縄の固有信仰に
基づいたものでありながら、他方においては沖縄における中央集権確立の政治的道具とし
て人為的に組織化されたもので、尚真の時代から琉球処分にいたるまで 400 年もの間、有
効に機能してきた政治支配の装置でもあった。
そこには、沖縄固有の信仰と政治の歴史があり、それをいきなりヤマトの魏志倭人伝と
結びつけるのは乱暴である。
しかし、その一方で、魏志倭人伝に見える「鬼道をよくする姉とそれを補佐する男弟」
の間に「オナリ神信仰」が垣間見られることも確かである。
佐喜眞興英は、同じ「女人政治考」のなかで、こう書いている。
「古琉球は、面積狭少、交通不便、近世は是に加うるに薩摩の圧搾政策のために永く文
化の光に浴するを得ず、人民の多数は近代まで暗の中に古代的生活の歩を歩まねばならな
かった。それは固より古琉球人にとっては筆につくせぬ不幸であったに相違ないが、神様
は公平なものでその代わり是に償うに古代研究家のために一大宝庫を供すると云う高尚な
幸を持ってした。柳田國男氏の力説される如く、古琉球は古代日本史と原始諸民族社会と
を結合する橋の如き観がある。我が女治問題に関しても亦多くの重要な材料の残って居る
ことは我が国学のためにはもとより世界学界のために喜ぶべきことである。古琉球には女
君もあれば女治官もある。母権もあれば母系もある。而して是等の原因変遷は、今日尚割
合に容易に是を明かし得る。」
(注 15)
今日の私たちの目から見れば、オリエンタリズム的偏見に満ちた言辞だが、これが大正
年後期に柳田國男のみならず岡正雄、折口信夫等の日本民俗学・人類学の研究者たちが沖
縄に向けた視線であり、沖縄人である佐喜眞も、その一端を共有していたのである。
当時の日本民俗学・人類学にとっては、沖縄におけるオナリ神信仰と魏志倭人伝の記述
15
の相同性の発見は、大きな驚きであったはずである。
師の柳田についで、沖縄に深い関心を抱き、すでに大正 10 年に沖縄にわたり、その民俗
学研究を深めた折口信夫も、オナリ神の問題に多く言及しているが、魏志倭人伝と聞得大
君の間に、斎宮の存在を差し挟むことで、佐喜眞より一歩問題の理解を深めた。
折口は、その「続琉球神道記」の「色々の巫女」という項で、沖縄の女性祭司について
論じながら、聞得大君について「聞得大君は我国の斎宮、斎院と同じ意味のもので、其居
処聞得大君御殿は琉球神道の総本山のような形があった。この琉球の斎王が、皇后の上に
あったと言う事は、琉球の古伝説に数多い、巫女と巫女の兄なる国王、島主の話を生み出
した根元の、古代習俗であったのである」と書いている。(注 16)
斎宮の制度がいつ頃から始まったかは、簡単には言えないが、すでに『日本書紀』の崇
神紀には、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて宮中
に祭られていた天照大神を倭の笠縫邑に祭らせたと
いう記述が見えるから、天皇の近親にあたる女性を
祭司とする習慣はかなり以前にさかのぼると考えて
もよいだろう。
『扶桑略記』には、天武天皇の時に初
めて大来皇女を斎宮として置いたという記事がある
から、このあたりを起源としてもよいかもしれない。
しかし、この制度は、後醍醐天皇皇女の斎宮祥子
内親王を最後に絶えてしまう。
(1336 年)この時期を境に、日本本土(ヤマト)においては、
政治的な支配者である男を霊力をもって女が支えるという制度は、公的には消滅した。
沖縄に聞得大君という公的な制度が確立されるのは、斎宮の制度が途絶して 150 年ほど
たってからである。
なぜヤマトにおいて終焉した制度が、沖縄で大きな政治的・宗教的な役割を果たすもの
として生き延びたかは不明であるが、これ以降の沖縄に於いては「見えない神」を迎える
神祭りの大半が公式の女性祭祀組織によって担われ、仮面仮装の来訪神の祭りは、年齢階
梯的な男性秘密結社によって担われるというデュアリスムが鮮明になっていくのである。
7. 男性祭司と女性祭司との交歓
ここまで、戦略的に「見える神を迎える祭り」と「見えない神を迎える祭り」
、
「年齢階
梯的な秘密結社を伴う男性祭祀組織」と「オナリ神信仰に基づき公の秩序に従う女性祭祀
組織」とを対比的に概観してきた。これは、伊波普猷の指摘にはじまり、柳田國男、岡正
雄、佐喜眞興英、折口信夫、馬渕東一等によって久しく論じられてきた周知の問題である。
日本人の固有信仰と日本文化の基層を考える上で、これまで基本資料とされてきたものば
かりである。
日本と琉球の歴史をたどれば、双方の根底に「聖なる女の霊力が、世俗的な男の政治を
助ける」という「オナリ神信仰」がある。これは、柳田國男が「妹の力」と呼んだものと
同じ性格のものである。
また八重山諸島から津軽海峡を越えて北海道にいたるまで、日本全国を見渡してみれば、
季節ごとに見える神と見えない神を迎える来訪神の祭りが無数にあり、そのうち「見える
神を迎える祭り」において神を演ずる者たちの多くが年齢階梯的な秘密結社を伴う男性祭
16
祀組織に属していることも明らかである。
しかし、「見える神を迎える祭り」と「見えない神を迎える祭り」、「年齢階梯的な秘密結
社を伴う男性祭祀組織」と「オナリ神信仰に基づき公の秩序に従う女性祭祀組織」という
二つの違った文化層から生まれたと思われる祭祀と祭祀集団は、八重山諸島の「アカマタ・
クロマタ」に見られるように、当初から密接に結びつき、複雑に交錯している可能性が高
い。アカマタ・クロマタという仮面仮装の神は、女性祭司によって執り行われる 3 日間の
豊年祭の 2 日目に登場するのである。
こうした男性祭祀組織と女性祭祀組織との複雑な交錯をさらに詳しく見て、考察を深め
るために、もう一度、沖縄本島北部の山原にもどってみよう。ここで素材とするのは国頭
村の海神祭とシヌグである。
昭和 13 年に調査を行った宮本演彦に
よれば「国頭村の北と東との海岸の各部
落、即ち辺戸・奥・楚洲・安田・安波に
は、隔年旧 7 月、稲の刈あげの頃、シヌ
グと呼ぶ祭りが行われる。」宮本は、そこ
で明治末年迄の 4 日間に亙る大掛かりな
祭りの次第について紹介している。
(注 1
7)
宮本によれば、祭りの一日目は、祝女
殿内において勢頭という神人2人を女の
神人が拝むことから始められる。
勢頭は、
独身を通す安波のノロクモイ(祝女)に使える男神人であるとされている。ついで、女神
人も男神人から拝まれるという。
祭りの二日目には、25歳以下の青年9人がソオジ山に登り、祝女殿内後方の林に入り、
ここで裸体となり、全身にクロツグ(一名マニ)の葉を纏う。このように装束して右手に
笞を持ち山から降りてくる。先頭に立つ者は必ず巳歳生まれで、この人のみ左手に赤塗の
鼓(ちじん)を持ち、これを打つ。一同、鼓の音に合わせてファファホゥホゥホゥと叫び
ながら村内の各戸を訪れ、一番座(奥座敷)、二番座、台所をまわり、ファファホゥホゥホ
ゥと唱えつつ室内を巡り、柱や器物を笞でたたく。同じ時刻に、メエバ山、フガ山にもそ
れぞれ三人の青年が上り地域の各戸をまわり、祝福して歩く。
三地域の家々を回り終えた若者たち3組 15 人はビジュルメエ(霊石の前)という拝所に
集まり、ノロクモイをはじめ集まった人々を笞で打つ。打たれた人たちは真青葉(まあう
ふぁ)を神に捧げる。神は、左手に抱えるほどの草束を持ち、川岸づたいに浜に出て、海
中に入り、草束を流した後、身につけたクロツグを解いて沖に流し、決して後を見ること
なく川を上る。
村の男たちは、帰宅して衣装を改めると、ビジュルメエに建てられた間口、奥行とも7、
間ほどの仮屋に籠もり、この日から3日間ここで暮らす。ここをシヌグモウ(シヌグの野)
といい「男の国」という。これに対し、女たちはアサギの庭に集まり、ここを「女の国」
とする。
三日目は、男たちは仮屋で暮らし、三味線を弾いて歌ったり、舞ったり、川で釣りをし
17
たりして過ごす。女たちは時々食事を運ぶ。男たちが女たちの所に行くことは厳禁されて
いるが、なかには、このタブーを破る者もいる。
四日目には、女たちがシヌグモウに降りて臼太鼓
(ウシデーク)という踊りと歌を披露して帰る。仮
屋からは勢頭と老人が上り、男女の神人がクェーナ
という歌を掛け交わした後、アサギに村人一同が会
して、猪狩、魚捕、唐船柱を行う。猪狩で、弓矢を
もって狩りの所作をするのは女神人であり、魚捕で
漁の所作をするのは男である。唐船柱は、二間ほど
の丸太を船に見立て、二本の帆を立てて、女子4,
5人が一端を男女20人ほどが一端を持って、歌いながら押し合う芸能である。この唐船
柱をもって祭りは終わる。
安波をはじめ国頭村一帯のシヌグは、すっかり影をひそめてしまったが、安田のシヌグ
だけは 1978 年に国の重要無形民俗文化財に指定されたこともあって、現在でも盛んに行わ
れている。
安田では、旧暦7月の初亥の日に行われるが、ウフシヌグ(大シヌグ)とシヌグンクァ
ー(シヌグ小)が隔年に祝われる。ウフシヌグは男子神人を女が拝む(ウキーウガミ)男
子神人を中心とした祭りであり、シヌグンクァーは海神祭(ウンジャミ)とも呼ばれ、女
子神人を男たちが拝む(ウナイウガミ)男子神人を中心とした祭りである。(注 18)
すでに 1713 年に琉球国王尚敬の命で、各地方からの報告書をもとに編纂された『琉球国
由来記』にも、シヌグと海神祭を隔年に祝う集落として辺戸・奥・安田・安波の名が上げ
られ、ほかにシヌグを7月、海神祭を 11 月に行う伊平屋島、シヌグのみの伊江島、海神祭
のみの集落として大宜味村城(ぐしく)をはじめ 50 ほどが記載されているから、安田や安
波におけるシヌグと海神祭の隔年交替のあり方は、長い歴史をもつといってよい。
1976 年に私家版の『国頭村安田のシヌグ考』を刊行し、当時のシヌグの様子を記録した
宮城定盛によれば、ウフシヌグは大正の初めまでは 3 日間の祭りであったが、76 年当時は
2 日で、1 日目はヤマヌブイ(山登り)
、タークサトエー(田の草取り)
、ヤーハリコー、ウ
シンデーク(臼太鼓)であり、二日目は相撲大会とウシンデークである。
シヌグンクァー(海神祭)は、一日目が、ヤマシシトエー(猪捕り)、ユートエー(魚捕
り)、インコー、ウシンデークの順で、二日目が 相撲大会とウシンデークである。
宮城の記述が優れているのは、祭りを
祝うものが大切に思うことを内側から記
録している点である。宮城によれば、ヤ
マヌブイはメーバ(65 人)、ヤマナス(1
30 人)、ササ(75 人)の 3 組に分かれて
行われる。
「参加人員は、かなり定着して
いるが、外来者の参加も何の規制もうけ
ず、開放されているので、年によって増
減が見られる」という。
安田の祭りは、国指定の重要無形民俗文化財となり、地域の重要な観光資源となること
18
で、祭りの参加者に広く公開されたものとなり、かつての男性秘密結社的な性格は、失わ
れてしまったと考えてよい。
私が、ここで大切だと思うのは、山の神の祭り(シヌグ)と海の神の祭り(海神祭)が、
隔年に祝われるということである。これを分かりやすく整理してみると、一方に、山の神・
男性祭祀組織(秘密結社・年齢階梯)
・男の国があり、もう一方に海の神・女性祭祀組織(オ
ナリ神信仰・公的結社)
・女の国がある。
そこには男が女を拝む「ウナイ拝み」と女が男を拝む「ウッキー拝み」があり、二つの
組織の神は交歓する。シヌグにおける相撲では、男が女と相撲をとり、かならず女が勝利
する。猪捕では、女が弓をとり猪を退治する。ここに見られるのは、男と女の役割の交替
である。
さらに安波のシヌグに見られる「男の国」と「女の国」の仮屋による隔絶は、男女の交
歓をタブーとしながら、その一方で強く促している。タブーを破って「女の国」を訪れる
男たちは、ノロクモイによって厳重な抗議を受けるが、罪を犯した者は木の上などに上り
隠れて一晩を明かせば、お構いないなのである。こうした祭りの晩の「お構いなし」の状
況は、風土記や万葉の高橋虫麻呂の歌にも見える筑波山の歌垣にもある「人妻に吾(あ)
も交はらむ、わが妻に人も言問へ」といった、日常的な境界規制の消滅を思わせる。
シヌグが、
『琉球国由来記』の編纂を命じた尚敬の時代に、清国の冊封使徐葆光の北部巡
見の際に禁止されたとういうのも、祭りのこうした「男女有別を基本とする儒教的秩序に
反する性格」によったのではないだろうか。
残された問題は、沖縄本島北部に残る海神祭とシヌグの関わりである。
8. まとめ――男性祭祀集団と来訪神に関する一つの仮説――
ふたたび『琉球国由来記』にもどると、シヌグと海神祭を隔年に祝う集落は、辺戸・奥・
安田・安波、シヌグを7月、海神祭を 11 月に行うのが伊平屋島、シヌグのみを祝う伊江島
にすぎず、海神祭のみを祝う集落の数が圧倒的に多い。
シヌグは、かつて清国の冊封使徐葆光の北部巡見の際に禁止されたというエピソードが
示すとおり、琉球の王朝支配の道具となった儒教的な倫理にはそぐわない。また、シヌグ
に見られる男性祭祀組織の優位は、琉球王朝の公的な祭祀組織である祝女の権威とも対立
する。
私は、ここで、「かつて沖縄本島北部の山原では、安田や安波のような形態の、男性祭祀
組織によって演じられる<見える神>の顕現するシヌグの祭りが、
『琉球国由来記』の記録以
上に、広く祝われていたのではないか」という仮説を提起してみたい。
この山の緑を身につけた男たちによって演じられる秘密結社的な祭祀が、オナリ神信仰
に支えられ、琉球王朝の支配的な祭祀組織と出会ったとき、山原の多くの集落では、女た
ちが男を拝む「ウッキーウガミ」のシヌグと男たちが女を拝む「ウナイウガミ」の海神祭
が一つの祭りに組み込まれ、男たちのシヌグ(ウフシヌグ)と女たちの海神祭(シヌグク
ァー)の両立が企てられたと考えるのは、早計だろうか。安田や安波のシヌグ・海神祭の
隔年交替は、その出会いの名残なのではあるまいか。
しかし、その後に男性祭祀組織優位のシヌグは、支配的な儒教倫理にも押されて、女性
祭祀による海神祭に吸収され、その多くが姿を消したものと推測される。
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私が、この仮説に魅力を感じるのは、山原の祝
女組織のなかには、なお勢頭神という男の神人が
存在し、海神祭でも一定の役割を果たしているか
らである。
またヤマヌブイのように山にこもって山の緑を
纏った男を拝む「シヌグ」のない大宜味村の塩屋
の海神祭の場合には、男たちの漕ぐハーリー船の
到着を女たちが海に入って迎え、熱狂的に舞う「ウ
ッキーウガミ」の形態が見られる。
さらに沖縄本島南部の知念、玉城などの村々の
集落にも「シヌグ」と呼ばれる祭りが数多く残さ
れているが、そこにはヤマヌブイのように仮装し
た男たちが登場することはなく、稲の害虫や鼠を
追い払う虫送り(畦払い・アブシバレー)的な要
素のみが残されている。
知念や玉城は、辺境の村であるが、聖地久高島
と正対し、祖神アマミキヨが住んだとされる女性
祭祀集団の聖地である。この地の祭りからは、早
く男性祭祀集団の色が払拭され、名ばかりの「シ
ヌグ」が残されたと考えられる。
図1で示したような日本の来訪神の分布図を見
ると、アカマタ・クロマタをはじめ、マユンガナ
シ、アンガマ、トシドン、ポゼなど琉球弧の来訪
神たちが、琉球王朝支配権の周縁地域にのみ登場
するのが分かるだろう。シヌグの残された沖縄本島の北部の安田や安波もかつては船で通
うのがやっとの辺境であった。また、シヌグの分布をさらに詳しく見ていくと、与論島や
沖永良部島などの奄美文化圏(=琉球文化の周縁)にも祭りの痕跡を残していることがわ
かる。
こうした分布を見る時に、儒教倫理とオナリ神信仰に基づく琉球王朝の中央集権の勢力
の拡張が、秘密結社的な性格を持つ男性祭祀組織の演ずる「目に見える神」を迎える祭り
を、次第に周縁に追いやっていった構図が浮かび上がってくるように思われるのだが、い
かがだろうか。
なお、本稿は、社会科学研究所グループ研究 A「沖縄・八重山における民衆の宗教・民俗
意識と共同体論」(2006 年度~2008 年度、代表=古川純所員・法学部)の研究成果の一部
である。
注
注1.
本田安次『沖縄の祭りと芸能』第一書房 1991 年刊 p.114-125
注2.
本田安次 前掲書 p.117
20
注3.
宮良高弘「仮面仮装の習俗」
、季刊「自然と文化」所収、観光資源保護財団 1989 年
刊
注4.
pp.10-20
北村皆雄「秘儀を撮る・撮らない」、北村ほか編著『見る、撮る、魅せるアジア・ア
フリカ!』所収、新宿書房 2006 年刊 pp.144-182
注5.
樋口淳「謝名城村採訪ノート」、
「現文研・第 63 号」所収、専修大学現代文化研究会
1985 年刊
pp.11-24
注6.
島袋源七「山原の土俗」郷土研究社 1929 年刊 pp.3-34
注7.
仲松弥秀「古層の村」沖縄タイムス社 1977 年刊 p.200
注8.
岡正雄「異人その他」
、『異人その他』所収、言叢社 1979 年刊 p.136
注9.
岡正雄「異人その他」
、前掲書 p.139
注10. 岡正雄「日本文化の基礎構造」
、前掲書 pp.18-36
注11. 宮良高弘 前傾論文 pp.18-19
注12. 藤堂明保監修『倭人伝』学習研究社 1985 年刊 pp.81-81
注13. 佐喜眞興英『女人政治考』岡書院 1926 年刊 pp.65-66
注14. 大林太良『邪馬台国』中央公論社 1977 年刊 p.101
注15. 佐喜眞興英 前掲書 pp.44-45
注16. 折口信夫「続琉球神道記」
、島袋源七「山原の土俗」所収、郷土研究社 1929 年刊
p.19
注17. 宮本演彦「沖縄国頭のシヌグ祭」、馬渕東一ほか編『沖縄文化論叢3』所収、平凡社
1971 年刊 240-248
注18. 宮城定盛『国頭村安田の「シヌグ考」』私家版 1976 年刊
図 1.
p.46
「聖なる来訪者たち」 国立歴史民俗博物館・入館者用パンフレットより作成
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