日時: 2010年 9月 26日 主日礼拝 説教 題名: 私たちが毎日捧げる心のいけにえ 説教: チョー・ヨンギ牧師 御言葉: テサロニケ人への手紙 第一 5章 16~18節 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」 皆さん、秋夕(チュソク)(訳注- 韓国では陰暦の8月15日を指し、日本でいうお盆に あたる)にはゆっくり休まれましたか。私も3日間ゆっくり休みました。隣にいらっし ゃる方に「主が共におられます」と挨拶してください。もう一度おっしゃってくださ い。「あなたに奇蹟が起きます」なぜこのように口で告白してくださいと言うのかと いうと、聖書に人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのですと語られ ているからです。心で一人で信じていても、口で告白する時まで実が現れません。そ の心にあることを告白する人がいなければ、空中を見て告白するにしても告白しなけ ればなりません。 <序論> 今日、私は『私たちが毎日捧げる心のいけにえ』という題名をもって恵みを分かち 合おうと思います。 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。私た ちが祈る度に、神様の御旨通り歩めるようにしてくださいと、また御旨通りに生きま すということです。このⅠテサロニケ5章16~18節を見ると非常に容易いことです。非 常に容易く感じますが、非常に難しいことです。私たちの人生を見れば、いつも喜び、 絶えず祈り、すべての事について、感謝する人は、果たしてどれぐらいいるでしょう か。ですから私は神様にこのように申し上げました。「いつも喜び、絶えず祈り、す べての事について、感謝する人は、果たしてどれぐらいいるでしょうか。どうしてこ のようにおっしゃるのですか」と聞くと、聖霊が「そうする人があまりいないからそ う言ったのだ。皆がその通りにすれば、どうしてそのように言うだろうか。そうする 人が少ないからそのようにしなさいと勧めているのだ」と語られました。神様が皆さ んを愛するゆえに勧めておられるので、勧めに従ってください。私たちも幼い時に、 両親、父親や母親、両親から呼ばれてこのようにしなさいと勧められたら、それを聞 きたくありません。勧めは聞くに良い言葉ではありません。しかし神様は父親、母親 とは違います。王の王、主の主であられ、天地と万物を造られたお方なので、神様が 語られれば「はい」と言うべきであって、口答えしてはならないのです。したがって -1- 私たちがすべきことは、神様、そのようにしますから聖霊様によって助けてください。 神様が助けてくださることを期待します。なぜなら、私たちが今、現在生きている時 代は、中毒の時代に生きているからなのです。いつも喜び、絶えず祈り、すべての事 について、感謝しながら暮らせる時代ではないからなのです。今の時代を「中毒の時 代」と人々は言うのですが、仕事中毒、賭博中毒、麻薬中毒、インターネット中毒、 ショッピング中毒、アルコール中毒など多くの人々が様々な中毒にかかって奴隷生活 をしています。最近、青少年と若者たちの中で人気のある芸能人が、海外に行き来し ながら賭博にはまって社会的に物議をかもしだしているのを、皆さん新聞で読んだこ とでしょう。去る9月15日付の新聞によれば、韓国の賭博中毒者は人口に対して中毒者 数が6.1%だというのです。それだけを見ると多くないように見えますが、イギリスは 1.9%、カナダが1.7%に過ぎないのにもかかわらず、韓国は賭博中毒者が6.1%なので非 常に多いのです。カナダより約6倍多く、イギリスより3倍も多くの人々が賭博中毒に 陥っていることを知ることができます。仕事中毒も深刻で、去る2007年に、ある就職 サイトが会社員を対象として調査した結果、52.1%が自分自身が仕事中毒であると思う と答えたそうですが、これは主に30~40代の大企業に勤めている会社員たちが最も多 くこのように思っているとのことでした。今日このような中毒現象と関連して、中世 の神学者のトーマス・アクィナスの言葉は非常に意味深いのです。彼はこのように言 いました。「人は喜びなくして生きることはできない。そしてまことの霊的な喜びの ない人は世俗的な快楽の中毒になる。」人がこの世で生きることの意味と価値と喜び がなければならないのです。しかし真実の意味と、価値と喜びを心の中に持つことが できなければ、世の中の一時的な意味と価値と快楽でも持つようになるのです。意味 と価値と喜びなしでは生きることができないということを、私は年をとってから更に 皮膚にしみるように悟るようになりました。この頃、更に悟っています。人がまこと に永遠の意味と、価値と、喜びなしで、どのように生きるのか。永遠なるものはあり ません。一時的なことでもなければならないではないのか。そのような気がしたりも するのです。人々はこの快楽を得るために、サタンの奴隷になるのです。私たちが生 きている世の中は、サタンが埋めておいた地雷畑と同じです。しかし私たちが恐れな いのは、イエス・キリストの十字架の血潮に頼って、聖霊の力に頼れば、神様が私た ちをいつも喜び、絶えず祈り、すべての事について、感謝するように助けてくださる のです。イエス様の血潮で、私たちの過ちを絶えず消してくださり、そして聖霊によ って私たちを助けてくださり、神様の御旨通り歩めるように恵みを注いでくださるの です。したがって神様がくださる恵みを通して平安と喜びをもって、私たちがよく言 う幸せを味わい楽しんで生きることができるのです。 <本論> 1. いつも喜んでいなさい -2- 一番目に、今日、いつも喜んでいなさいという御言葉を一度考えてみましょう。 私たちが生きているこの世には、悲しみと絶望がどこに行ってもあるのです。私に だけ悲しみと絶望があり、他の人にはないだろうと思ってもそうではありません。私 が歩んできた過去のヨイド純福音教会の牧会50年間の歳月をしっかりと振り返ってみ ても、昔は見て見ぬふりをしたこともありましたが、今はそうする必要がなくなり、 正直に振り返ってみると、悲しみと苦しみのない日は一日もありませんでした。牧師 が牧会しながら教会では神様の働きをするので、他人にはいつも喜び楽しみなさいと 言いながら、自分の心の中には心配、憂い、不安、焦りが絶えずあったことをみる時、 神様に頼らない世の人々は、どれほど多くの悲しみと苦しみの泥沼の中で生きている ことだろうかと思うのです。アダムとエバが堕落して、アダムとエバから受け継いだ この世は呪われているのです。祝福された世を受け継いだのなら良かったのですが、 呪われた世を受け継ぎました。神様がこの地は呪われ、いばらとあざみが生えると言 われたのです。その当時は科学が発展しておらず、文明が発展しておらず、社会が発 展していなかったので、いばらとあざみであり、今はいばらとあざみが他の名前で出 てきます。様々な中毒の名前で出てくるのです。様々な生活環境の悪い習慣と、罪悪 の名前で出てくるのです。いばらとあざみが出てきて顔に汗を流して糧を得ることが できると語られたのです。顔に汗を流して糧を得るために、職場を探してもうまく探 せません。ですから職場があっても心配、憂いがなくても心配、こうであっても心配、 ああであっても心配、人生の心配事がなくなりません。 創世記3章17節から19節をみれば「また、人に仰せられた。『あなたが、妻の声に聞 き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あな たのゆえにのろわれてしまった。… あなたは、一生、苦しんで食を得なければならな い。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、顔に汗を流し て糧を得』」 いばらとあざみと汗、この三種類は私たちがこの地に住む間、どこに行ってもつい てくるということです。いばらとあざみはあまり聞くに良い単語ではありませんね。 額に汗を流してこそ糧を得るというので、皆さん、ひとりだけそのような環境にいる のではなく、皆がそのような状況に向かい合っているのです。ですから自動的にその 実は、人生の落胆と悲しみ、怒りと挫折、憂鬱、憎しみ、悪い感情、あらゆる否定的 な実を結ぶことになるのです。 箴言17章22節に「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」 陽気な心は良い薬になる。したがって良い両親、良い先生、良い友人、良い隣人が いる人は、最初からサプリメントの中で生きていることになるのです。しかし悪い先 生、悪い友人、悪い隣人、その中で生きている人は、骨を枯らす苦しみの中で生きる のです。 コロサイ3章7節から8節に「あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていた -3- ときは、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなたがたも、すべてこれ らのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべき ことばを、捨ててしまいなさい。」 心の中の怒りも捨ててしまい、憤りも捨ててしまい、悪意も捨ててしまい、そしり も捨ててしまい、恥ずべきことばも全て清算しなさい。私たちの人生にこのようなも のがなければ本当に良いのですが、なくなりませんね。 南アフリカで働きをしているある宣教師が、印象に残る話しをしたことがあります。 この宣教師がジャングルに入ったのですが、偶然、コブラともう一匹の蛇が争ってい ます。蛇同士でも争うようですね。私はいつも蛇同士では仲間だと思っていたのです が… 人間だけが戦うのではなく、蛇同士でも戦います。コブラともう一匹の蛇が戦う のですが、コブラは毒が非常に強いですね。その毒が満ちた歯でもう一匹の蛇をガブ ッと噛むと、すぐにもう一匹の蛇から力がなくなってしまいます。そしてコブラは、 もう一匹の蛇を食べます。頭から… 半分ぐらい食べると、自分が噛んで殺したその蛇 の中にある自分の毒が、自分の体の中に入ってきて、自分も痙攣を起こしてそのまま 伸びて死んでしまいます。最終的には敵を殺したその毒が自分に戻って来て、自分を 殺してしまいました。その宣教師はこう言いました。そこで非常に感じたことは、私 たちが隣人を殺せば、その毒が自分に戻って来て自分を殺す。自分が他人を非常に苦 しめると、それによって自分は満足したかのようだが、その苦しみが戻って来て自分 自身を苦しめるということです。 私たちの社会は、悲しみと絶望が満ちていて、互いに争い傷つけ、落胆して憤り、 憎しみなどの悪い感情をもって生きています。しかし最終的にはそのような心の毒は 隣人にだけではなく、自分自身にとっても致命的な毒となってしまうのです。与えな さい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり 入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょうと、聖書に語られてい るように、私が隣人に良くしてあげようが、してあげまいが、最終的には自分自身に 戻ってくる時があるということです。このような暗い精神状態を克服するためには何 が必要でしょうか。喜びです。それで主が、いつも喜んでいなさいと言われるのです。 私たちに負担をもたらそうとするのではなく、この暗闇の世界の中で様々な苦しみが 絶えず近づいて来るのに、それらのことを克服するためには心の中に喜びがなければ ならない。いつも喜んでいなさい。神様が私たちに語られた御言葉は、最終的に私た ちが良くなるための御言葉であって、私たちに負担をもたらせるものではないのです。 したがっていつも喜んでこそ幸せになります。人々は幸せなら喜ぶ。幸せな人がゲラ ゲラ笑って喜ぶと思っているのですが、実はそうではないということです。幸せだか ら喜ぶのではなく、喜ぶから幸せだということです。よく笑う人が結果的に幸せにな りますが、幸せだからと言って笑わないということです。したがって今日から皆さん、 幸せを待たずに、教会で礼拝を捧げた後、教会から出て行きながら笑い始めてくださ -4- い。始めは微笑を浮かべて、その次には少し声を出して笑い始め、その後は大声を出 して笑って、そうするとその笑いが幸せをもたらすということです。私が人々をよく 見ると、よく笑う人がいます。アリが這っているのを見てもハハハと笑う人がいます。 どれほど幸せな人でしょうか。私たちにはおもしろくありません。それを見ても… そ れを見て少し笑えばよいのですが、笑いませんね。私たちは… しかしすぐ笑って、よ く泣く人は本当に幸せな人なのです。大きなプレゼントなのです。中身のない人では ありません。しまりのない人ではありません。幸せな人です。したがってたくさん笑 えるように切に願って憚りありません。なぜならⅠテサロニケ5章16節に「いつも喜ん でいなさい」と語られているからなのです。ええっ、牧師先生、喜ぶための理由があ ってこそ喜びます。この世で生きながらずっとそのように言い、喜びがないと言った 後、どのような喜びがあって喜びますか。このように言う人がいるでしょう。ノンク リスチャンは喜ぶ理由がないのです。その通りです。しかしイエス様の十字架の恵み が心の中に入ってくれば、その恵みが、私たちが喜びながら生きることのできる理由 になるのです。イエス様の恵みを受けたら、私たちの心の中に喜びが近づいて来るの です。わが喜び、わが望み、わがいのちの主よ。賛美がありますね。 ♪わが喜び わが望み わがいのちの主よ 昼たたえ 夜歌いて なお足らぬを思う♪ 私が今日、2部礼拝の時、堂会長の説教を聞きながら恵みを受けていると、イ・ヨン フン牧師先生が独唱します。それで私も独唱を一度しなければならない。私たちが喜 びと望みといのちを恵みで受けたので、いつも喜んでいなさいと語られるのです。主 の御前に出てくれば、主が恵みを価なしにくださるのに、価なしに私たちに主が持っ ておられる喜びをください。主が持っておられる望みをくださりいのちをください。 ヨハネの福音書15章11節を共に一度読んでみましょう。 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのう ちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」 見てください。主がもっておられる喜びを私たちにくださるということです。恵み でくださる。したがってクリスチャンだけが喜べる理由があるのは、イエス様が持っ ている喜びを私たちに分けてくださるということなので、私たちが喜ぶしかないので す。私たちには喜びがありませんから。したがって私たちは主の御前に出て来た時、 主よ、主の喜びを私の心の中に今日もください。求めることができるのです。したが って私たちはイエス様の恵みをいつも覚えて、イエス様の恵みが私に溢れ出ることを 夢見て、イエス様の恵みが私の心の中に入ってきて、奇蹟が行われることを信じて、 イエス様の恵みが私と共にあると口で告白する皆さんとなるように、主の御名でお祈 りします。私たちが心の中で、この様々な理由によって喜ぼうと決心しなければなら ないのです。自分自身で決心する以外ないのです。 ピリピ4章4節に「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさ -5- い。」 神様の命令ではありませんか。いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。 喜びなさい。 ハバクク3章17節から18節に「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木 は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから 絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあ って喜ぼう。」咲かせず、みのらせず、実りがなく、出さない。絶え、いなくなる… あってこそ私は喜ぶ。私はぶどうの木の実がなければなく、オリーブの木の実もなけ ればなく、畑に食物がなければなく、私たちの羊がいなければなく、牛は牛舎にいな ければなく、それによって喜ぶ。それでは落第生です。あるのに喜ばない人がいるで しょうか。しかし実際、持っている人が更に喜ぶことがありません。良く笑う人を見 てください。お金持ちの家に行けば、笑い声はあまり聞こえてきません。貧しい家に 行けば、笑い声が更にたくさん聞こえてきます。お金持ちの家ではどうして笑わない のでしょうか。欲深いので、心の中は欲望がいっぱいで意地悪な態度ばかりで、喜び が生まれません。しかし貧しい家は何もないので、どうなっても笑うだけです。この 世の中で欲望の限度があるのでしょうか。限りがないので欲望は幸せの条件にはなり ません。 去る7月7日の世界銀行の発表資料によれば、私たちの国の一人当たりの国民所得(GN I)は1万9千830ドルで、韓国の経済規模は世界で15位になるということです。しかし経 済規模はこのように上位圏に属する私たちの国の幸せ指数は、どれぐらいだと思いま すか。世界の中で102位です。約2万ドルも収入があり、世界の15位という経済規模が ある私たちの国の幸せ指数は、100位以下の102位なのです。最近、三星経済研究所は、 成均館(ソンギュングァン)大学と合同で『韓国人が考える幸せの条件』について研 究調査しました。その結果、私たちの国の人々が幸せの条件として選んだものは次の ようでした。一度、皆さんの考えと比較してみてください。私たちの国の人々の平均 として、これさえあれば幸せであると思う第一に、若ければ幸せである。私のように しわがなければ幸せです。このごろ鏡を見ると首のしわが随分くっきりしてきました。 ですから首のしわをなくす方法はないかと思って、ワイシャツの首周りが狭いものを 着ようかと研究中です。私も首にしわがなければもう少し幸せになれそうです。二番 目に、他人よりも豊かな暮らしができれば幸せである。お互いに豊かな暮らしをして いなくても、貧しいもの同士が比べあったとしても、自分の家の方がもう少し豊かな 暮らしをしていれば幸せだと感じるのが韓国人の心情であるということです。三番目 に、多くのことを学ばなければならない。多くのことを学んでこそ幸せである。皆さ んよくご存知ですよね。皆が多くのことを学ぼうとします。四番目、社会に対して信 頼度が高くなければならない。五番目、宗教行事に時々行かなければならない。六番 目、家族との余暇を大切にしなければならない。七番目、結婚の有無は幸せとは関係 -6- がない。私たち韓国人は結婚しても良いし、しなくても良い。結婚の有無は幸せとは 関係がないというのです。ゆえに私は結婚していないから幸せではないと考えないで ください。結婚をしていなくても、していても、幸せとは関係がないというので、関 係ないと考えなければなりません。聖書にはとにかく神様が喜びをくださるから、神 様の恵みを得て「いつも喜んでいなさい」と語られたのです。条件によって喜ぼうと するならきりがありません。条件なしで、恵みで神様の御前に出てきて祈れば、神様 が喜びをくださるということです。 ウィリアム・ジェームズも「私たちは幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せで ある。」と言いました。 『喜びの花』という詩を書いた人がいます。私たちが暗闇の精神状態を克服するた めには、明るい心の喜びが絶対的に必要なのですが、イ・ヘイン氏が『喜びの花』と いう詩を書いたのですが、それを読むと私たちが喜びを味わい楽しむためには、どう しなければならないのかを知ることができます。皆さんもよくご存知でしょうが、詩 とは遠まわしにされた表現が多くて、何のことか分からない時があります。しかし少 し文学的な素質のある人は悟ることができます。皆さん、文学的な素質があるのかな いのか、一度みてみましょう。 「一回ずつ 欲望を捨てて 憎しみを捨てて 怒りを捨てる度に そうそう 頷いて 優しい眼差しで 私の心に咲く 喜びの花 きれいな花」 何と言っていますか。心の欲望を捨てて、憎しみを捨てて、憤りを捨てる時、喜び の花、きれいな花が心に咲き始めるということです。 「一回ずつ良いことを考え 良い言葉を語り 良いことをする度に そうそう 快く笑って 感謝の花蕊をつけて 私の心の中に咲く 喜びの花 きれいな花 変わらぬ真心で 喜びの花を咲かせ 喜んで生きなければ 愛で育てて 隣人にも分かち合う -7- 実も結ばなければ」 私たちはいつもイエス様の恵みに感謝を捧げて喜ぶことを心に決めましょう。 最初から、今日、私たちが集まって礼拝を捧げる時に心を決めましょう。隣にいる 方々に唇で一度告白しましょう。「喜びながら生きましょう。」喜びが来ることを待 つならば、いつ来るか分かりません。神様の御前で私たちが恵みで喜びを得、味わい 楽しまなければなりません。黒い髪の毛が白くなる前に、喜びをもって楽しみながら 生きていかなければなりません。一生涯の短い歳月の中で喜びなしに生きるのは、あ まりにも哀れなことです。 2. 絶えず祈りなさい 二番目に、聖書には絶えず祈りなさいと語られています。 これもまた、とても大変な要求です。ただ祈りなさいと言われるなら良いのですが、 絶えず祈りなさい。これは昼夜休むこともできず、絶えず祈りだけをしなさいと言う なら、どのようにして休まずに祈ることができるのでしょうか。どうして絶えず祈る のが大変なのかというと、今回の秋夕(チュソク)の間にテレビを見ると、全部娯楽番 組です。祈りとは関係がありません。全て世俗的な娯楽番組です。そして多くの集ま りが祈りのない集まりです。集まって友達に会って、親戚に会ってというのも、特に 祈ろうとせずに、ただ安否を尋ねて喜んで、食べ物を分け合って食べて、ある集まり では祈ることを恥ずかしく思い… 神様がいないという人本主義者たちはむしろ神様を 敵対視するのです。 詩篇14篇1節に「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐ってお り、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない。」と語っておられるのです。 私たちに、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。ということは、いつもぶつ ぶつ唱えなさいということではなく、祈り、考えて行動しなさいということです。心 の中で、口で話さなくても、心の考えの中で絶えず祈って考えて行動しなさい。そう すればそれには私は合格することができます。私はぶつぶつ言わなくても、心の中で 絶えず祈って考えて行動するのです。祈りはできなくても考えることはできます。祈 らなければ。ですから絶えず祈りなさいということは、絶えず祈りを心の中で考えて、 心の中でいつでも祈らなければという義務を覚えて歩みなさいということです。 ローマ8章26節に「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私た ちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもな い深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」 私たちが祈れなければ聖霊が直接祈る。直接祈るということは異言ではありません か。異言の祈りは、異言で祈らなければ長い時間祈ることができません。分かる言葉 で祈るなら、すぐに祈りが終わってしまうのに… たくさん語る言葉がありますか。そ -8- うすれば異言で祈らなければ… そしてまた分かる言葉で少し祈って… 異言で祈って … 聖霊が祈ってくださるのです。聖霊を受けていない人は異言で祈らないので、長い 時間祈ることができません。しかし祈りを一度本当にしようとするなら、1時間以上祈 らなければなりません。そして2時間以上祈れば、私の心が感動して、神様が感動され るのです。2時間の祈りというのは非常に心を尽くしてこそ2時間祈ることができるの です。1時間祈っても私が拍手してあげます。ものすごいことです。よくやったのです。 そして私たちが言葉として聞こえる祈りだけが祈りではなく、心の中で黙想して祈る 祈りも祈りなのです。ゆえにバスに乗って行く時、地下鉄に乗って行く時、買い物に 行く時、むしろ言葉で祈るなら大変です。バスに乗って、主よ~、バスに乗ります。 今から行きます。神様、今日も助けてください。と祈るなら大変です。バスに乗って からはむしろ黙想の祈りをすることが正常な祈りなのです。地下鉄の中や買い物をす る時には… しかし教会に来てから、または家で、静かな所では声を出して祈ればはる かに効果があります。自分の祈りが自分の口から出てきて、自分の耳に聞こえるなら、 祈った効果が2倍あるのです。黙想で祈った祈りよりも、2倍の効果があるのです。そ れゆえ声を出して祈ったほうが良いのです。 Ⅰテサロニケ5章17節に「絶えず祈りなさい」と語られていることは、まさにこのよ うな祈りのことを言っているのです。 また、私たち神様を信じる人は、いつも神様に委ねなければならないので、委ねま すから主よ、お願いします。と言わずにどのように委ねますか。そうですね。私たち が何かを任せるにしても、この荷物を少し預かってくださいとお願いします。そうし てこそそれがまさに祈りではありませんか。私がここで立ち上がる時、今日、聖霊様 お願いします。今日の説教を聖霊様がしてください。私は体を管としてお貸しします から。私の唇と舌を通してお語りください。私はお願いしたのですが、結果的にはそ れが祈りです。それが祈りなのです。私たちがいつもこの世で生きながら、疲れと重 荷を負って生きるので、主にお願いして、それが自然に生活に密着した祈りとなるの です。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わた しがあなたがたを休ませてあげますという御言葉を忘れないでください。とても良い インビテーションです。このように良い招待状がどこにありますか。疲れた人、重荷 を負っている人を皆嫌がるのに… 誰も来ることを願いません。しかし主は、わたしの ところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしを呼べ。そうす れば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あ なたに告げよう。したがって主の御前に来て叫んでお願いすれば、引き受けてくださ るのです。主は今日も私の内に、体としては現れませんが、様々な祈りを聞き入れて 答えてくださり、助けてくださることを通して、私たちと共におられることを現して くださるのです。 ヘブル7章24節から25節に「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることの -9- ない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、 完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、 とりなしをしておられるからです。」 皆さんが祈れば、主がそこにプラスαして、共に祈ってくださるのです。母親が幼 い子どもの背中に手を置いて、幼い子どもと一緒に祈るように、主は皆さんが祈れば 来られて祈りに加えて祈りをしてくださり、神様から答えを受け取るように助けてく ださるということです。ああ、牧師先生、私は祈れません。まだクリスチャンになっ てまもないので、祈りが出てきません。簡単な祈りを教えて差し上げましょうか。感 謝します。本当に簡単でありながらも一番の祈りです。つぶやくよりはるかに良い祈 りです。神様、感謝します。ただただ感謝します。私が仏光洞(プルクァンドン)で 牧会する時、長く祈る他の教会の執事さんが一人おられたのですが、私たちの教会に 来て早天祈祷をします。その執事さんのことが鮮明に思い出されます。このように体 を動かしながら、最初から最後まで他の祈りはしません。いつもただただ感謝します。 ただただ感謝します。ただただ感謝します。ただただ感謝します。それで私が肩を叩 きながら、それが祈りですか。ただただ感謝します。するとそれも感謝します。それ も感謝します。その人が早天祈祷会に、その遠い所にまで来ていつも祈るのが、ただ ただ感謝しますと言って帰っていくのですが、近頃よく考えてみると、その人は本当 に賢明な人だったなと。どうしてでしょうか。生きてみると結局ただただ感謝しかあ りません。ただただ感謝ではありませんか。良いことは良いので良く、良くないこと は良くなるから良くて… すべてのことを働かせて益としてくださるので、ただただ感 謝します。したがって、ただ感謝すると言う言葉が、非常に初歩の祈りでありながら も、一番最高の祈りでもあるのです。ゆえに祈りができない人は感謝だけをしてくだ さい。 ピリピ4章6節から7節に「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささ げる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうす れば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イ エスにあって守ってくれます。」 ただ感謝して、感謝しながら中間に一言ずつ言葉を入れていくのです。これを助け てください。これをこのようにしてください。感謝します。感謝します。 コロサイ4章2節に「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」 いつも感謝するということを私たちの祈りの中で合わせてしていかなければならな いのです 3. すべての事について 感謝しなさい 三番目に、すべての事について、感謝しなさい。 すべての事において語っておられるのです。良いことは良いから良く、良くないこ - 10 - とは良くしてくださるので良いと、良いことにも感謝し、良くないことにも感謝しな さいということです。しかしこの世で生きながら、良くないことが良いことより更に 多く起きます。絶えず心配、憂い、不安、焦り、絶望に陥ります。それらのことに陥 るので、良くないことが起きれば十分に皆さん、討論もして、お互いに論争もして、 心配もして、結果をどのようにして終えますか。感謝して終えれば良いのです。御父 よ、討論もして、論争もして、心配もしました。しかしこれらのことは私たちにでき る最高の道です。私たちはこれ以上できませんから、神様に委ねます。神様、引き受 けてください。感謝します。途方もない奇蹟である恵みを体験したにもかかわらず、 つぶやくことに有名な人々が聖書の中にいます。誰ですか。分かりませんか。ユダヤ 民族。イスラエル民族が、エジプトから出て荒野を通過する間、途方もない祝福を受 けたにもかかわらず、どれほどたくさんつぶやいたのでしょうか。マラでは水が苦く て飲むことができず、すぐにモーセを恨み、シンの荒野ではモーセとアロンに向かっ て食べるものがないとつぶやき、アロンの芽の出した杖をあかしの箱の前に置いてつ ぶやかさせないようにしましたが、ずっとつぶやくので、神様が燃える蛇を送って、 彼らを噛みついて殺すことさえされたのです。 民数記21章4節から6節にある御言葉を私たち共に一度読んでみましょう。 「彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、 途中でがまんができなくなり、民は神とモーセに逆らって言った。『なぜ、あなたが たは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもな く、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。』そこで主は民の中に燃 える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。」 つぶやきは、つぶやける状況にあっても言わないのが良いのです。イスラエルの民 は水がないとつぶやいて神様が水をくださいました。食べ物がないとつぶやく時にマ ナをくださいました。肉がないとつぶやく時にうずらをくださいました。それでもつ ぶやくので燃える蛇を遣わせて、えい、燃える蛇でも食べろ。噛みつかれてたくさん 死にました。したがって私たちがつぶやくほどの状況にの中にあっても、つぶやかな い方が良いということです。感謝して賛美した方が良いのです。アダムとエバが堕落 した理由がまさにつぶやいたゆえに悪魔が隙を見たのではありませんか。悪魔が来て 「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われ たのですか。」「いいえ、私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、 園の中央にある木の実を食べる日には神様から追い出されると思います。」「いや、 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のように なる。」 そのようにつぶやくのでサタンがひっきりなしに誘惑してくるので、サタンのそそ のかしに陥って、善悪の知識を知る実を取って食べ、神様に背信するようになったの です。 - 11 - Ⅰコリント10章10節に「また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつ ぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」 つぶやきは簡単にすることができます。子どもたちも両親に向かって簡単につぶや き、国民は指導者たちに簡単につぶやき、指導者たちは神様に簡単につぶやき、皆自 分が過ちを犯しておきながら、苦しみに遭えば自分より上にいる人につぶやくのです。 なぜならばつぶやけば自分が逃げることができるので、自分は大丈夫だ。私は一生懸 命しようとしたのにこの人のせいで… 家庭に事件が起きれば夫は妻のせいで… 妻は このせいで… 子どもたちは、父親、母親のせいで… 全部、何々のせいでと言ってこ そ生きるのです。自分が避け道を得るために… しかし私たちクリスチャンはそのよう につぶやかない方が良いのです。過ちは、全て私の過ち、良いことは全て神様に栄光 をお帰しすれば良いのです。神様、私が過ちを犯してこのようになったので、神様、 私を叱ってくださり、主が栄光をお受け取りください。 詩篇37篇8節に「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への 道だ。」 そうすればどのようにこの世で生きながら、多くの不平、不満、嘆きがあるのに、 感謝しながら生きることができるのでしょうか。十字架を見上げて、五重の福音と三 重の祝福を感謝してください。十字架で神様がイエス様が、体を裂いて血を流して五 重の福音と三重の祝福をくださいました。五重の福音、皆さんご存知ですか。最初に、 新生の福音、一度つづけておっしゃってください。新生の福音。二番目に、聖霊充満 の福音。三番目に、癒しの福音。四番目に、祝福の福音。五番目に、再臨の福音。十 字架で五重の福音を主がくださいました。そして三重の祝福は、たましいに幸いを得 ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。これが神様 がくださった祝福なのです。感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。 その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せようと聖書は語っておられるので す。感謝のいけにえをささげることを神様は本当に正しいとお考えなのです。感謝す る人には更に大きな恵みをくださるのです。主がサマリヤとガリラヤの境にある村を 通り過ぎる時、十人のツァラアトに冒された人が、声を張り上げて、「イエスさま、 先生。どうぞあわれんでください」と言った。前にも皆さんに申し上げましたが、神 様が答えてくださる人は、心に願いと信仰がある人に答えてくださいますが、信仰と 願いのない人には、主は答えてくださいません。いくらツァラアトに冒されて路上に 座っていても、何も言わずに座っていれば、そのまま通り過ぎ去られるのです。良く なりたいという願いがあって、信仰がなければならないのです。皆さんが主の御前に 出てきて祈る時、主から答えをいただくという願いがあって、信仰があってこそ祈り の効果があるのです。願いもなく、信仰もないのに、主が答えてくださるだろうと考 えてはならないのです。この十人のツァラアトに冒された人も主を見上げて、声を上 げて、イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。病が癒されることを切に願っ - 12 - て信仰で叫びました。するとイエス様が「わたしがあなたに何をしてあげようか。行 きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」どうしてそう言われたかというと、ツ ァラアトに冒された人がきよめられれば、祭司長に体を見せるのです。良くなったか ら祭司長に見せなさい。そして彼らが祭司長の所に行く途中に癒されたのです。その うちのひとりが、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、主よ、ツァラアトが 癒されました。すると主が十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。 あなたひとりで帰ってきたのか。立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あな たを直したのです。彼はツァラアトだけ癒されたのではなく、たましいの救いまで得 ました。ですからどれほど良いことでしょうか。先ほどの人々はツァラアトだけ癒さ れて、救いを受けることができませんでした。感謝するのでツァラアトが癒されたう えに救いまでくださったのです。皆さんが主に感謝すれば、主が更に多く与えてくだ さるのです。だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っ ているものまでも取り上げられるのですと語られたので、感謝をもって神様にいけに えを捧げれば、神様が更に恵みをくださるということを知らなければならないのです。 コロサイ2章6節から7節に「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入 れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、ま た、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」 神様の御前に願いをもって信仰で祈り、そして感謝するということをあふれるばか りにすれば、神様が皆さんに答えてくださるのです。いつも喜んでいなさい。絶えず 祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあっ て神があなたがたに望んでおられることですとおっしゃいました。 イギリスの有名な主のしもべだったスポルジョン牧師先生はこう言いました。ロウ ソクの灯りを見て感謝すれば神様が電灯をくださり、電灯の灯りを見て感謝すれば月 の光をくださり、月の光を見て感謝すれば太陽をくださり、太陽の光を見て感謝すれ ば天国をくださる。神様はひっきりなしに段階を上げられるのです。つぶやいて不平 不満を言う人に祝福を与えるのではなく、感謝する者に主がますます祝福をくださる のです。 <結論> いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝すれば、私と神様の関係が非常 に発展し、まことの平安と幸せの実を刈り取ることができます。それゆえいつも喜ば ないので主が喜ぶように語られ、絶えず祈らないので主が絶えず祈りなさいと語られ、 すべての事について感謝しないのですべての事に感謝しなさいと語られたので、私た ちがこの御言葉を私たちの人生において実践し、豊かな恵みと祝福を得て歩めるよう に主の御名でお祈りします。アーメン - 13 -
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