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のの花 3号

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文
集
も
の
の
は
く
じ
な
思い出のことごと
3
号
思い出すこと ……………………………村井登志子
五軒丁山の思い出のくさたち …………庭田 昭子
趣味を楽しむ
納屋の中に茶の稽古場が出来たこと …紺谷 洋子
還暦から写真をはじめて ………………林
和子
六十一の手習い …………………………竹田外代子
歴史の地を散策して ……………………紙谷 礼子
旅を楽しむ
の の はな
スイス旅行 -自由行動の一日-
谷川
………山村
文子
俊太郎
日常生活の中から
はなののののはな
(花野の野の花)
はなのななあに
(花の名なあに)
なずななのはな
(ナズナ菜の花)
なもないのばな
(名もない野花)
「ことばあそびうた」より
希望 ………………………………………高嶋 久子
只今よちよち歩き中 ……………………瀬東千恵子
近頃の出来事 ……………………………毛利八重子
屋号マップ ………………………………中出 弘子
シンプル…ライフの記録 ………………岡野 葉子
翌年、日支事変が始まり日本中が戦争へと進んでいった。
南京が陥落したときは、島中大喜びで、旗行列やちょうちん行列があった。朝
鮮出身の南君と康君はいつも愉快だった。行列のとき「南君、陥落。康君バンザ
イ」
(南京陥落、皇軍バンザイ)と言いながら笑って友達と一緒に行進していた。
思い出すこと
村井
登志子
5年生の2学期、女学校への進学のため、
私は内地へ帰ってきた。兄も進学のため3
年前に内地へ戻っていた。妹はその後の父
の転勤先テニアンで生まれた。
ヤップ島へ
山城丸の甲板から初めて見るサイパンの海は、美しいエメラルド色。青い空や
たくさんの島々の濃い緑が南国の太陽に輝いてすばらしい風景だった。まだ幼稚
園児の私も感動するほどの強い印象だった。父は南洋庁の勤務で、一家4人で南
島へ渡った。
横浜を出港して5日ほどだったか次は半日たらずでテニアンへ。テニアンには
砂糖工場があった。
2日後、次は目的地のヤップ島へ。島に
は バ ナ
ナ、パパイヤ、マンゴー、パイナップル、
オ レ ン
ジと豊富だった。家はドイツ領だった時の
名 残 り
で四角いコンクリート造りだった。垣根に
は ハ イ
ビスカスが植えられ、一年中真っ赤な花が
咲 い て
いた。
町から離れ、村の方へ行くと木々がこん
も り と
茂り、湿気が多く、地面はトカゲが走るこ
と も よ
くあった。また、大小の石貨が道端に立て
か け て
あり、オールメンハウス(集会所)には大
き な も
のもあった。
海岸は近く、満潮干潮の差が大きく、干
潮 の と
きは、能登の見付島へ行く位の地面が出ていた。大小の貝、ヒトデなどいろいろ
な生き物がいた。ヤドカリや小さなカニが穴の中に隠れたり走ったり、かくれん
ぼか鬼ごっこの様だった。
ヤップには土着のカナカ族、フィリッピン系のチャモロ族がいた。チャモロは
生活も住居なども西洋風で、結婚式に招待されると子供だけでタップダンスをし
たりして、華やかだった。
1936年ベルリンオリンピックがあった。「前畑がんばれ!」ラジオから流
れる河西アナウンサーの声を一生懸命に聴いていた。
太平洋戦争始まる
昭和17年私は金沢の広坂にある師範学校へ入学した。1年の時は平穏だっ
たが、2,3年になるとそうはいかない。自給自足のため泉野の近くや卯辰山を
越えて畑を耕し野菜を作った。工場へも動員されて夏休み返上で作業をした。農
家へ稲刈りの手伝いにも行った。薪をもらいに行った時は4キロも歩いて持って
帰った。
ともかく、食料品も衣料品もすべての物が不足し、『欲しがりません勝つまで
は』と我慢の毎日だった。『出せ一億の底力』日本中は異様な興奮だった。
昭和20年 1 月15日、
富山の不二越工場へ私たちの学年は行くことになった。
上級生は大阪へ、富山の笹津工場へと出発した。
大阪の方は、焼夷弾が落ち夜となく昼となくB29の襲来に備えたとか。
不二越工場はすごく大規模で、富山県中の女学校、中学校、中部地方の師範学
校、朝鮮半島の若者たち、そして小学校高学年や中学生位の女の子が集まってい
た。女の子はチョゴリを着たりして、故里の生活を話してくれた。7月25日、
6ヶ月あまりの作業を終えて学校に帰った。
家に帰ってホットしたのもつかの間、8月2日富山大空襲があった。夜、B2
9が東北東の方へ飛ぶ。そのうち焼夷弾の落ちるのが見え、火の手が上がり空が
真っ赤になっていった。富山が近くに見えた。田圃から息を呑んで見ていた。私
たちは命拾いをしたと思った。
8月4日、私は訓練のため高山市へ行くことになった。引率は小田一郎先生(後
の北陸学院校長)栃尾先生(女学校の先生)野町小学校の先生、学生はニ高女か
2
ら一人と私の二人。中部地方の各県から400人程の人だった。
汽車で富山駅に着くと、駅もかなり焼け、駅前の建物も焼けていた。駅はレー
ルや枕木などくすぶって煙の出ている所もあった。
高山での訓練はなかなか厳しく時間も長かった。救急訓練や早朝から避難する
父は現地召集されていたので、戦死である。
弟が生まれて2週間。7月3日であった。
こともあった。各県の交歓会もあり活発な意見発表もあった。
8月13日、体育館に集合すると、本部から来た大佐殿から「6日広島に9日
長崎にピカドンという威力のある爆弾が落とされた」と言われた。悲惨なことも
現状もわからなかった。
家に帰って台所で食べた真っ赤なトマトがすばらしくおいしかった。
8月15日正午、日本の敗戦を知り、ボンヤリしてしまった。
行してすっかり原始的だとか。
戦争からもう60年。パラオやサイパンは近代的に発展している。ヤップは逆
戦争真っ只中の学校生活。終戦までの3年は戦争完遂に直結。卒業までの3年
は民主主義とは、自由と責任とはと、勉強にも戸惑いながら前に進んでいた。広
坂の6年間を懐かしく思い出す。
今世界は問題山積。イラクや北朝鮮の核問題や地域紛争と緊迫、反面科学の発
展や生活の進歩は見違えるほどで、私などついて行けない有様である。テロも戦
いもない平和に暮らす世界であって欲しいと思う。
戦いの中で人々は
風の便りに知人の消息が聞こえてくる。
島が変形するくらい軍艦から大砲を打ち込まれ、飛行機からは低空から機銃掃
射で狙われ、生きた心地もなかったと思う。せめて子供だけは助けたいと小学校
の高学年になると一人で船に乗せて内地へ帰した。命がけである。その頃は日本
近海まで魚雷があって沈まされる船も多かった。
戦後2、3年たって学校に男子師範の校友誌があった。何気なく開くと「高木
先生を偲ぶ」という一文があった。能登の先生の寄稿でその方も南方にいらっし
ゃったらしい。高木先生は尾鷲出身の方で公立学校の校長先生。高潔で学者肌の
方だった。
島には食糧はなく、餓死寸前の状態だった。タロイモを食べると食べ方によっ
ては命を落とす。タビオカには栄養があるのに何が悪かったのか高木先生は亡く
なられ、日本のほうに向けて葬られたとか。
父も17年、18年と用事のため、日本と南方を行き来していた。南方へ帰る
ときは横浜から次は広島、宇品からと戦況により船を出すのも難しかった。
昭和19年6月、弟が生まれた。すぐ電報を打つと「章と命名せよ」と返電が
来た。以後父からの連絡はなくなった。船が沈んだらしいという話があった。覚
悟はしていたが正式にあったのは、一年近く後であった。
サイパンから民間人を乗せ、2艘の駆逐艦に護衛されてパラオへ向かった2艘
のうち1艘が沈没した。19歳の女性一人だけが助かったが、父は犠牲となった。
3
その頃、ハマナスも丈が高くて、低学年の自分達にとっては、ハマナスの林の
中を歩く感じであった。枝に隙間なくびっしりとついた針のように細くかたい棘
に気をつけ、足元に横たわる棘だらけの枝をふんづけないよう注意して、少しで
も色の濃い赤い実を探すのである。
ちゃかち、ちぶい、それから・・・・
五軒丁山の思い出のくさたち
庭田
子供達はもう、オレンジ色の実がまだ固くてカシカシで味がないを体験的に知
っていた。歯あたりがやわらかくって、もちもちとしていて、甘酢っぱい味を思
い出しながら、色の濃い赤い実を探すのである。
実にありつくと、半分に割って、中にはいっている毛のついた白い種をつまよ
うじ位の小枝で丁寧に丁寧にとり除く。少しでも毛が残っていると、はしかくて
まずい。残った赤い皮を口に入れて、しっかりと味わって楽しむのである。めい
めい1,2個食べた頃にはもう「帰るぞ!」という姉達の声で揃って家に帰るので
ある。
昭子
今回は、ふるさと五軒丁山のくさにまつわる思い出を書いてみることにした。
五軒丁山には、平地にはない珍しい植物があった。ハマヒルガオ、コウボウム
ギ、カワラヨモギ、ハマニガナ、ウンラン等々、砂浜に育つ植物である。
その中から、子供のころにかかわりの深かったものについて書いてみた。
ちゃかち
ちぶい
ちゃかちというのは、ハマナスの実の
こと。
五軒丁山にハマナスの群落があって、
子供の頃も珍しがられ、大事にされてい
た。その頃のハマナスの群落は、現在の
位置よりずっと南で、浜竹松から海へぬ
ける道より村井新側にあった。
はまなす 02.7 CCZ
ハマナスは、5,6月頃にバラの花に
似たピンクの大きな花をつけ、いい薫を
はなつ。花びらが散ると、緑色の実が残り、その実が 7 月頃、オレンジから朱色
に色づく。その赤く色づいた実を「ちゃかち」といっていた。
浜竹松のあたりでは、チガヤのことを「ちぶい」といっていた。今でも五軒丁
山には、たくさん生えている。
春先、ちぶいは、砂の上に先の尖った硬い芽をつくつくに出してくる。その
頃の子供達は、手作りの小さいわらぞうりを履いていたから、ちぶいの芽を踏ん
づけるとたまったものではなかった。ぞうりを突き抜けてつくんとくるのである。
浜へ行くときは、ちぶいの芽のないとこ、ないとこと足元をしっかり見て歩くの
である。
晩春、このちぶいが白い穂を出して一面風に白く波打つ。穂の出る少し前、
友達が「これ食べれるげって」といって穂を孕んでふくらんだちぶいをとって、
中の穂を食べ出した。一緒にいた3人もまねをした。中の穂はぬれていて、まだ
柔らかかった。口に入れるとべちょべちょした感じだった。味はなかった。まず
いとは思わなかったが、おいしいとも思えなかった。
戦時中の食料不足で、毒でさえなければ何でも腹の足しにするという時代の、
就学前の子供達の遊びのひとつである。
夏休みの、晴れて波の穏やかな日に、子供たちは誘い合って海水浴に行った。
海水浴に行くといっても、その頃は、午前、午後の大人が仕事をする時間(とき)
は、畦草むしりその他の仕事の手伝いで遊ぶことができなかった。許されなかっ
た。
昼食後、大人が昼寝をする時間だけが、遊んでもよい時間だった。そのときに、
浜へ水浴びに行くのである。
、
一浴びしたあと、着替えてちゃかちとりにハマナス群落に立ち寄るのである。
友達が「カモの卵を取りに行こう」と言ったので、母に言うと、「ヘビがいる
から行くな」と返ってきた。でも、その頃は卵は貴重品、病気にでもならない限
4
り食べられなかった。巣を見つけて取ってくればいいのならと思い、みんなにつ
いていった。クルミ拾いに持っていく小さいテゴを肩にかけて、最後を歩いてい
った。
倉部川近くの尾根のちぶい
五軒丁山のハマボウフウは、今はもうその姿が見られない。
の草むらの中で、巣を探した。巣の中に、ニワ
トリの卵そっくりの白い卵が5,6個あった。
全部テゴに入れた。大変な収穫があったと思い、 五軒
うれしかった。帰りのことは嬉しさのあまりか
記憶にない。
5月頃、
家に帰って、1 個茶碗に割っ
ハマエエンドウ 02.6 普正寺浜 た。真っ赤な血が入っていた。びっくりして捨
てた。2個目を試した。これもまただめ。3個
目、4個目、全部だめだった。後で母にしかられた。
もちろん、この卵が、かわいいヒヨコになって親の後ろを列をつくって泳ぐ
ことなど全く知らなかった。
ちぶいの草原の思い出である。
はまぼうふう
子供の頃、農家の食事は、ほとんど自分の家でとれた食材でまかなわれた。畑
でとれた野菜がおかずの中心だった。大根のとれるときは、毎日毎日朝昼晩と大
根、ナスの頃はナスばかり。調理法も、漬けるか煮るかで、野菜いためが出てき
たのは、戦後1,2年してからだった。
そんな食事が毎日続いていたある日、浜の畑の草むしりを終えて帰りぎわに
「これ食べれるし」といって、母が畑の脇の草を2株ほどぬいた。白い葉柄に、
濃緑の光沢のある小葉を数個つけた葉が、放射状に何本もついていた。直径30
㎝位あったろうか。名前をハマボウフウといっていた。
家に帰って、母の指示で葉を根元からとり、濃緑の小葉をちぎってとった。
母はその葉柄を 5 ㎝位の長さに切り、更にうすく短冊に切って、酢みそあえにし
てくれた。独特のかおりがした。珍しくて、うれしくてすごくおいしいと思った。
母は農作業が忙しく、普段はめったに食事を作れなかった。作るのは、祭り
と盆と正月だけ。そのせいか、はまぼうふうもそれ以後、一度も食卓にのぼらな
かった。
はまえんどう
五軒丁山の草花でもうひとつ忘れられないのがハマエンドウ。これも、5歳
頃、浜で友達に教えてもらった花である。
五軒丁山に登ると、鮮やかな紫色の花が咲きみだれていた。畑のエンドウの花
とよく似たつくりだが、少し小さく、それに色がまったく違う。草のくせにこん
なに美しい花が咲くのかと子供心に不思議に思ったことを覚えている。心の中で
何か宝物のように思っていたことも思い出す。
どこかでこの花に出会うと、なんだか懐かしい人に出会ったような気持ちに
なるのである。
花が終わる頃になるとハマエンドウも実をつける。長さ4,5cm、巾 8 ㎜位、
サヤエンドウより少し小さい鞘である。
友達の一人が「これ食べれるげ」といったので、みんなで探した。穴のあいた
のは中に虫が入っているからだめだということもその時友達が教えてくれた。残
念ながら、その時は虫の入っていない実は一つも見つけられなかった。
3年ほどして、妹が取ってきたハマエンドウの実が皿に入っていた。ほんの
少しだったけど。ばあばが、それを煮てくれた。それがまた、甘くておいしかっ
た。畑の初もんのさやえんどうよりずっと甘かったことをおぼえている。
今年(2002 年)ちょっと時間ができたので普正寺の浜へ行ってきた。実のつい
た枝(花柄)を一枝とってきた。それをスケッチした。鞘がかなり硬くなってい
たので、種子だけを小皿にいれ、レンジでチンして食べてみた。主人は甘くて香
ばしいといっていた。
....
五軒丁山のことを書いていると、絣(かすり)やニコニコの着物を着てかけま
わっていた子供の頃が目に浮かんでくる。
5
年が明けて、納屋を改めて見回す。
昔はこの一階で農作業を、二階で藁仕事をしたと思われる農機具がいろいろと
置いてある。 ――わぁー、この道具、全部片付けなければ改造できないなぁ、こ
の大八車も・脱穀機も・斗みも・コモも・むしろも・縄も、ちょっともったいな
納屋の中に茶の稽古場が出来たこと
紺谷
いなあ。でも、置くところもないし、使う機会もないし、――
最近は近くで燃やすことが出来なくなったので、産業廃棄物処理業者に頼むこ
とにした。4t車いっぱいになった。本なども、燃やそうと焼却場へ持って行く
と受け取れないと言う。廃品回収に出さないと駄目なのだそうだ。昔のものがだ
んだんなくなる。一抹の寂しさも無い訳ではない。
4月に入り、M工務店の大工さんが入ってきた。
まず、外壁の柱の補強。柱と柱の間に斜めに木を渡す。次に、梁の部分。弱く
なっている所があるらしく、大きなUの金具で引っ張るように打ち付ける。三階
の床をはずす工事では「わぁ∼っ」「わぁ∼っ」と奇声をあげるほどの藁屑の山
が出たようで、いかに長い間、人が入らなかったかが伺える。
――や はり、この建物古いし、壊して新しいのに建て替えた方が良かったのでは
――と 、つい弱音になる。Kさんにほのめか
すと、
「この納屋の中に、家が建つような格好にな
るんやし、ま、20年程は壊れんわいね」
「20年しか持たない物作って、後から後悔
しても遅いしねぇ」
「あんた、ここで教室作って、せいぜい何年
教えること出来るいね」
「15年出来れば最高だと思うわ」
「そうやろ
変身した姿
いね、わしら人生の半分以上過ぎたもんやし、
あんたの元気なうちはなんともないわいね」と話し合っていると、
横で黙って聞いていた大工さん、小さい声で「30年は持つと思うよ!」と、言
っている。
考えてみれば、私のこれからの人生で、趣味を活かせて安らげる場所がここに
出来るのならば、それはそれで良いことではないか。という気持ちになって、く
よくよ思わないことにした。
洋子
私の家の南東に二階建ての納屋がある。
それは、舅にあたる人が65年前に建てた納屋
である。なんでも、始めは屋根が無く、屋上に上
がれて、秋の収穫時に籾を干す場所にしたそうだ。
当時としては四角いモダンな建物だったようで
ある。しかし、数年たつと雪や雨でモルタル塗り
の床も漏り出し、仕方なく屋根を付け足したそう
藁の入った二階
で、実際は3階なのだとか。納屋としては広く見
える。
昨年の春、姑の部屋の廊下側を雪囲いをやめて雨戸を取り付ける事にした。同
時に、納屋の外壁にトタンを張り付け、木窓をサッシ窓に取り替えてもらった。
ガラス屋のKさんは、中学校の同級生だったので、いろいろと雑談をしていた
ところ、
「この納屋に、教室作ったらどうやいね」と、言ったので、
「こんな古い建物に、そんな部屋できるかね」
「どんないやろ、昔の建物やし、木も太いの使ってあるし・・・。外側の木は古
くなってボスボスの所あるけど、補強すりゃなんともないやろ」と言う。
「どうせ作るんなら、新しく建てたほうが良いしねぇ」と、答えると、
「あんた、ばあちゃん元気やし、あの人の旦那さんが建てたもん壊しにくいやろ
いね」
「そうやねぇ」
「ま、わしゃ大工じゃないさかい。建てたかったら、わしの知ってる大工なら、
いつでも紹介してあげっぞ!」と、言うことで終わっていた。
その年の暮れ、息子夫婦と納屋の話が話題にのぼった。すると、
「母さん、炉を切ることが出来るんやったら、やってみたら?」と言われ。考
えてみることにした。
補強工事に一ヶ月ばかり要した。
その間に、どんな間取りにすれば良いか、いろいろな方に相談に乗ってもらっ
6
た。最終的に、下部分は玄関・トイレ・和室・台所・水屋作り。上には、洋室2
つ作れるようになった。
一番困ったのは、和室の床の位置だった。
八畳は欲しい、床を付けると狭い。残念だけれど床を作らないで可動式の置き
るだろうけれど、完成の喜びもあるだろうなと思う。そんな仕事を見ていて、ま
た一つ何か学んだような気がした。
床にし、天井だけに四角い落ち掛けを付ける事に落ち着いていた。
木の香りが漂い、すがすがしく気持ちが良い。あんな古かった内部が一変した。
納屋だって壊されずに残ったことを喜んでいるかも知れない。
7月に入ってようやく完成した。
ある日、テキストの稽古場訪問の箇所を見ていたら、大阪市・Y先生宅の四畳
半の床の写真が出ていた。蔵を改造し、床のスペースが確保できなかったので、
せめて掛け物が掛けられるようとの工夫であった。床框(かまち)を据え、上の
落掛けを斜めに設け、床の間の奥行きを出しているものであった。――わぁ良い
なぁ。せめてこんな様式になればなぁ――と思った。
工務店の方にその写真を見せると、
「今なら出来るよ」「だけど、床柱には銘木を使ってあるから、今ある普通の
木では使えないよ。この写真の竹一本でも並みの物ではないよ」と言われて驚き
感心した。
――そ う言えば、亡くなった主人が「家の床柱は北山杉を若木の時に手を加えて
絞り?を入れたものだから、これだけの太さのものは値打があるよ」と言ってい
たよな。黒柿のなんとかとか?あの時もっと真剣に聞いていれば良かった。 ――
と、思いを回らしていると、同級生のKさんが、
「どうや、銘木店にMさんと行ってみて、自分で好きな木見てきたらどうや」と
いう話になった。「社会勉強に付いて行こうかな」と、とんとんと話が進み、近
くだと言うことで付いて行った。初めての体験である。
八月に入り、家でやっていた稽古を納屋で行えるようになった。
九月に、「お席開きの茶会」を催すことができた。
京都から先生の代わりにお弟子さんが3人来てくださったし、稽古の人達・息
子夫婦・私の兄姉たち、みなさんに協力していただいたお陰で、無事に茶会を終
えることができた。ほっとした。それまでに、多くの方々との出会いがあり、か
かわりが出来たことをとても嬉しく思い心から感謝している。
今後、自分の身体に無理をかけないで、茶を楽しみながら教え教えられて、い
ろんな事が経験できたら、幸せだなと思うこの頃である。
機会があれば、みなさんも、一度一服いかがでしようか。
『餅は餅屋』だとつくづく思った。
たった一本の木なのに、多くの種類があり、また太さもいろいろあり何十本と
並べられている。北山杉にしても、天然木の部屋・手を加えた木の部屋とあり、
どの部屋とも色別・太さ別に整然と置かれている。自分で木を選ぶなんてとんで
もない、手も足も出ない。でも、ひとつ賢くなった気持ちになった。
一階の部分は赤シャツの好きな40代の若い大工さんが担当し、二階の方は6
0代の方が仕事にあたっていた。互いに相手の箇所にはタッチしないかわり、口
だけは相当檄を飛ばしている。やはり大工さんには大工さんの誇りというか、こ
だわりと言うか、そう言うものがあるのだなあと伝わってきた。茶床を作る・炉
を切る・水屋を作る所は、手作りならではの匠の技が感じられる。難しい面もあ
お席開き茶会の裏方
7
で、アマチュア美術展入選(寒雀)
、北国女流美術展入選(父と子)
、松任市美術
展次賞(春に遊ぶ)、その他少々が入選し、励みになっています。
これからも肩の力を抜いて、やわらかく生きていきたいと思っています。
還暦から写真を始めて
寒雀
春に遊ぶ
林
和子
私は昭和40年から平成元年まで、地元松任を離れていました。主人の転勤で
北海道から九州まで、3人の子供を転校させながら、日本中を見て歩きました。
ほとんど夏季の移動、3年毎でしたので、パートも趣味もいつも途中です。
30余年が過ぎ、子供たちも全員結婚して家を離れ、ボランティアと介護で気
がついたら60歳になっていました。
母が60歳から日本画を始めて楽しそうにしていたのに憧れて、私も還暦の機
会に生涯学習をと、あれこれ考えて写真に行き当たり、一年余がたったのです。
写真を始めてからは、何かいい題材がないかと、探す毎日です。空の様子、庭
の草花の葉の裏、木の枝のしずく、鳥、周りの子供達のうれしそうな様子、四季
の変化、母を車椅子に乗せての散歩、一つも見逃すまいと楽しみにかえています。
時はあっという間に過ぎていきました。写真が性分に合っていたのか、初出品
父と子
8
あれば復習していたものだ。当日、本式のカツラをつけ、白ぬりに化粧し、引き
ずる着物をきて踊った時は、もう頭が真っ白で、ただただひたすら覚えているこ
とを間違わさずに踊るのが精一杯であった。
入門してからもう5年近くになるが、一向に上達しない生徒で、習う者よりも
六十一の手習い
竹田
外代子
教える先生の方が、どんなに大変であろうかと思われる。先生の根気よく教えて
下さるのに感謝し、そして長唄や清元のお囃子に合わせて体を動かしていると、
その唄の内容も理解され、日本伝統の美意識が感じられ楽しくなる。まあ「継続
は力なり」の言葉をモットーに下手ながら続けられる限り続けてゆきたいと思っ
ている。
現在、生涯学習が叫ばれているなか、私は、70歳過ぎた生け花の生徒にも「生
涯学習が大切よ」と言い、自分にも云い聞かせている。
本年、松任市生涯学習振興大会のサブタイトルは 《いつでも、どこでも、何
からでも学ぼう》
何ていい言葉ではありませんか!!
どちらかと言うと私は好奇心旺盛な方であると思っている。
22歳の時から58歳まで36年間郵便局に勤務していて、仕事を辞めたらあ
れもしたい、これもしたいと思っていた。
趣味としての池坊の生け花だけは結婚前から続けていて、30年程前から自宅
で、生け花教室を開き、現在も教えている。
退職後4月に入り、すぐ自動車学校へ行くことにした。勤務が自宅前だったの
で、自動車に乗れなくても、そんなに不自由を感じなかったが、やはり雨の日な
んかバイクに乗っていると、どうしても自動車に乗りたいとの思いにかられたの
であった。仕事の傍らではなく、自動車学校だけ行っているので、年齢の割には
短期間で免許を手にする事が出来た。
その後2年間は婦人会のお世話をさせていただき、私の思いは中断していた。
婦人会活動もすみ、さて何を習い始めたら良いかと思い悩んでいた。そんな時、
短大のクラス会があり、担任の矢部マサミ先生も出席されていて、その時「貴女
達は、まだ60歳でしょう、私は80歳だけれど、洋裁の他に新しい事への挑戦
をしているのよ。何年か前からステンドグラスに取り組んでいるし、これからま
た、新しい事を始めたい」と言われたのに、とても刺激された。「そうだ、わた
しも実行しなくては」と。
何年か前に日本画を短期間習っていて、その材料は皆揃っているし・・・退職
する時に洋裁をしようと思って高いミシンも買ってあるし・・・子供の時に習っ
ていた習字もしてみたいし・・・また、ピアノも弾けたらどんなに楽しいだろう
し・・・茶道も結構、免状もいただいているし・・・なんて考えていると、一体
自分は何をしたいのか、あまりにも欲張りな自分にあきれてしまう。
たまたま婦人会長の時に知り合いになった藤間流の藤間紫穂先生の人柄のす
ばらしさと、私も音楽に合わせ体を動かす事が好きだとの思いで、平成10年9
月、61歳の時に先生に教えを乞う事になった。
けれど、もともと身体は硬いし、覚えの悪い方で、なかなか覚えられないし、
自分の動きが、どんなに下手であるかもよくわかる。私をよく知っている友達に
は「貴女にはミス・マッチよ」なんて云われる始末。
2年前に金沢文化ホールでおさらい会があった時は、覚えるのに必死で暇さえ
9
長坂町の「大乗寺」と
スイス旅行
歴史公園「野田山墓地」を散策して
紙谷
―自由行動の一日―
礼子
山村
文子
大乗寺
この寺は、富樫氏が、今から約710年前に、永平寺の三代徹通義介を迎えて
石川郡の野々市に開いたもので、北陸の曹洞宗総持寺(大乗寺)派の温床となっ
た。
そのあとかなり長い“さすらい”を経たが、加賀藩の重臣の筆頭、本多政長を
パトロンに、本多町の大乗寺坂下からいまの場所に移った。
墓所には、本多氏累代の墓があり、なかでも注目されるのは、テロリストによ
り、本多政均(まさひら)が殺され、家臣が、二年がかりで仇討ちをなしとげた
“十二義士”の墓である。
昨年(前泊から入れると)6月26日(水)∼7月4日(木)まで2人でスイス
旅行ツアーに参加した。帰ってきて、出発から我が家に帰るまでの毎日の記録を
まとめた。
パソコンワード、A4,1 枚1440字 19 枚に。400 字詰原稿用紙にすると約
70 枚になる。
それは、パソコンでワードを打つ練習を兼ねていたのだが。
この旅行中、ツェルマットで半日、インターラーケンで 1 日の自由行動があっ
た。前もって計画を立てて出発した。そのうちのインターラーケンでの自由行動
の記録を「ののはな」に載せてもらおうかなと思った。
野田山墓地
すばらしい歴史公園。規模と由緒と風情をそなえた墓地は、先ず例がない。
...
頂上近くに前田家の墓がある。それは廟もなく、石塔もなく鳥居の奥に塚をき
1
づいただけの質素なものだが、利家の兄の利久を葬ったのにはじまり、12年後
には利家自身もここに眠ることになった。
家臣や町人の墓は、前田家のものより低く、重臣、上級武士、下級武士、町人
と、生きしときの身分そのままに地割がきめられたという。また、ここには、4
2
千をこえる無縁墓もある。
うっそうと繁る無数の大木の下を歩く時、心も鎮まる思い、ひとときを仏心に
近づけたように感じたことでした。
晴れた場合、赤い蒸気機関車に乗りに行く
インターラーケン→電車→ブリエンツ(小さな木工工芸の町)→赤い蒸気
機関車で約 1 時間→ロートホルン(2,298m)
雨の場合、スイスの首都ベルンへ
インターラーケン→電車で、急行で約1時間→ベルン
赤い蒸気機関車に乗りに行こう!
7月2日(火)朝方まで雨、朝曇り、昼頃より晴れてくる。
夕べもあまり眠れなかった。5時過ぎ起き出す。外は雨。窓からユングラフヨ
ッホが見えない。雨だけど彼の望んだ蒸気機関車に乗りに行こうか。晴れるかも
しれない。OPの人たちと同じ時間朝食をする。そこで水をもらい、ペットボト
ルに詰める。
8時過ぎホテルを出る。雨は落ちていない。まずオスト駅に向かう。昨日みつ
けておいたバンクで両替をする。にこやかなウーマンの対応に気持ちが和む。ち
義士の墓傾くもあり秋小寒
秋気満つ両膝を抱き石に座す
そぞろ寒利家の墓に触れもして
10
ゃんと手数料を取っている。ツェルマットでは取らなかったのに。彼は「あのに
こやかな挨拶の分だよな」と言った。
次は駅、チケット売り場に先客がいた。私の番
が来た。売り場はウーマン。
ようであった。
水を補うためしばらく留った。のどかで絵本の世界。山肌に線路がずっと見え
る。
またどんどん機関車が頑張ってくれて、頂上へは1時間ほどで着いた。
「Please,ticket to Brienz?」
彼女はうなずく。
「A round trip two」といって彼を示した。彼
女はにっこり笑って2枚くれた。9時 30 分の急
行に乗りたかったので、9:30はメモ帳に書い
て
「Express charge?」と尋ねると「no...」と言っ
たので「Thank you」と言って窓口を離れた。3
番線に行き入ってきた電車に乗り、座ったら9時
20分だった。急行の座席はゆったりしていた。2番ホームには昨日行ったクラ
イネシャデク行きの黄色と緑の電車が入って来て混んでいた。
9時30分電車は発車した。急行はブリエンツに最初に停車するのでわかりや
すい。ブリエンツ湖に沿って走る。だんだん晴れてきて美しい車窓の眺めを楽し
んだ。停車しない駅が3つあった。ブリエンツまでインターラーケンから17分。
ブリエンツに着いた。市内電車のようにホームの高さがなく、駅構内まで続
いている。駅の向こう道を挟んでロートホルンの蒸気機関車の駅がある。さあ、
いよいよ蒸気機関車に乗るんだ!
到着10時50分。頂上は急に霧がかかり視界が悪い。霧のため湿っぽく寒い。
レストランやお土産店の建物に入らないと寒くて堪らない。ここは2,298m
の高さなのである。この高さに備えなかった私たちだった。晴れていたら、こん
なに寒くはなかったのではないか。
レストランで温かいコーヒーを注文して、そこの大きなガラス窓から外を眺め
たが、遠くはガスで見えない。レストランの女主人が、「Yesterday it was fine
day....Very very beautiful」と日本人にもわかる English で言われた。
昨日はブリエンツ湖や、湖の上にアイガーやユングラフがきれいに見えたそう
だ。私たちはその素晴らしい天気の日にユングラフに登っていたのだから。
「眺めを楽しむのは諦めるしかないか」と言いながら温かいコーヒーを飲んだ。
展望を楽しめないので、レストランのお手洗いを使い,降りることにした。
登るとき一緒だった日本人夫婦と降りる時も一緒になる。この方とはインター
ラーケンの電車から一緒だった。彼等は個人で旅しているようだった。
頂上に 1 時間足らずいたことになるか。11 時40分の蒸気機関車に乗った。
乗る前にかわいい車掌さんと列車をバックに写真を撮った。日本の奥様も一緒で。
少し降りると、周りの草原がきれいで放牧されている牛が線路近くまで来て草
を食べていた。時々線路の上までやってくる牛もいて機関車が停まる事もあるそ
うだ。今度も停まるかと思うほどだったが、汽車はスピードを落としすれすれに
走った。乗っている私たちは牛に触れるくらい。こうして 1 時間あまりの乗車を
楽しんだ。
蒸気機関車でロートホルンへ
ロートホルン鉄道BBBのふもとの駅は、蒸気機関車に似つかわしい木造の
かわいらしい駅だった。
「Please,Rothorn」2枚のチケットの値段は136スイスフラン、日本円で約
11,000円。
2車両で後ろに蒸気機関車、引っ張るのではなく押し上げるのである。車両
の窓は丸く、天井まで押し上げて開くガラス窓である。
9時52分発。しばらくは林の中を走る。木立の間からブリエンツの町や、
ブリエンツ湖が見え隠れした。高く上るにつれ牧草地になった。途中下りてく
る機関車と交差した。向こうの山から下りてくる赤い機関車は絵本に出てくる
ブリエンツ湖を眺めながらお弁当
「お昼はどうする?」駅前から東西に伸びるメインストリートを歩きながらレ
ストランを探した。右手にCOOPがあった。
「ここでお弁当になるものを買お
うか」「そうしょうか」と言うことに決まり中へ。
小さなパン、プラム、生ハム、牛乳、水、ジュースなどを買い、ブリエンツ湖
の遊歩道的公園に下り立った。湖に沿って少し歩き、道端の岩が積んであるとこ
11
ろでさっきのお弁当を広げた。
湖の上を定期船が通って行く。あの船はインターラーゲンとブリエンツ間を往
復している定期便である。電車よりずっと時間がかかるし、船酔いするからと電
車にしたが、片道は船にした方がよかったかなと、眺めながら思った。でも往復
を買ってあるので諦める。
ブリエンツは木彫りの町として木工芸品が素晴らしい。そのためか、私たちが
お弁当を広げた近くで、テントを張って丸木を彫っている彫刻家が2人いらっし
ゃった。ノミをふるっては、図案(デッサン)を見、またノミを振るう。暑いの
で、ペットボトルの水を飲んでは彫る、を繰り返して頑張る。一人は丸い物の上
に人が立っているもの、もう一人は3人の人物が絡み合っている像だった。
とてもゆったりした時間を過ごす。外国を旅行しているようには思えない、の
どかな、のどかな7月2日、午後2時22分である。ロートホルン頂上にいた時
と違い暖かい日差しがさしている。
ブリエンツの町
ブリエンツの町は、南が湖に面しており、その湖に沿って東西に細長く開けて
いる。私たちは主に駅の近くを300mほどぶらぶらした。川の橋を越えた西側
まで行くと、ヴァイオリン製作学校や木彫学校等もあったのだがその辺りまでは
行かなかった。通りの家々のヴェランダに彫刻を施してあり建物そのものが民芸
調であった。
「3時12分の電車で帰ろうか」
3時頃駅に戻る。お手洗いをすませホームで急行を待つ。駅の前はブリエンツ
湖が広がり船着場もある。ひたひたと小さな波の音がする。
反対側(インターラーゲンの方)から電車が来て停まり、発車して行った。ま
もなく私たちの乗る急行がやって来た。
急行は車内が明るくてきれい。テーブルも付いていて休まる。車内は空いてい
た。見慣れた湖に沿ってずっと走り、あの見慣れたインターラーゲンのホームに
着いた。午後3時30分。
おお!やったぞ!2人で切符を買い見知らぬ土地を訪ねたのだ。とても満足。
12
るのかと思い、何時入場してくるのかと思い、何処に座るかといちいち多数の一
年生の中のたった一人の孫に注意がいくのはいたしかたなかった....私の意識
の中では、すべての可愛い子等にではなく一人の子にそうしても、もういいのだ
と言い訳するように、目も心も集中させて見ていた。
希望
高嶋
久子
退職して間もなくまる4年になろうとしている。
その間、ゆったり座る間もなく後片付け、その他に振り回されて自分の時間と
名のつく自由な時間はなかったように思う。
最近ようやく諸々の片付けが一段落して、冬季であるということで外出もせず
自分の時間があるようになった。いわゆる小さな暇ができてきたのだ。
昨年一年間はあまりにも事がありすぎた。
娘の出産、父の死、息子の結婚と、どれも人の一生の節目の出来事ばかりだっ
た。
いったん体を休めるとどっと疲れが出てくるような気もした。幸いにも、どれ
もみなよい結果とあって、十分満足な状態であり、いやな思いもせずに過ぎたの
だけれど、落ち着いてみれば自分自身を省みる暇がなかったことに気づく。
しかし、そんな毎日の中で、夜寝る前にその日一日をメモしておこうとする時、
緊張した感情がほぐれる一時であった。
2002年の日記も出だしはよかった。
こんな調子で去年の出だしは、積極的に家の中の閉じこもりから大きく羽ばた
こうとする自分であったのだけれど、そのうちに、通院の手伝いが増えたり、入
院する者が出たりしてくると、私のエネルギーも段々に減り始め、日記メモもた
だのメモだけになりだした。
そして、5月に娘の二人目の孫の出産と父の死がほとんど同時にぶつかったり、
直後に息子の婚約と夢のような一ヶ月を通過した。一度に喜び悲しみ、嬉しさ、
安堵といった感情が一ぺんに押し寄せてきた。多分私の顔は豊かな表情どころで
はなかったであろう。あまりの多忙が支配したからだ。豊かだったのは顔のシワ
ばかりであった。
父の初七日も済み落ち着いてみると、日記は途絶えがちになっていたが、それ
でもなんとか一頁を埋めている。
6 月 4 日(火)
父の死 (父 5 月 26 日死去)
実感がない。この今の私。しかし、何かがとても大きく変わってしまったのだ。
父の死は大往生であった。
そして母は大きな土台を失い、一人で立ち上がろうと懸命な日々。母にとって
はあまりに突然であった。高齢の父の死はいつか来るものと覚悟はしていても、
そんなそぶりのなかった父から、死は考えられるものではなかった。母の衝撃は
計り知れるものではないだろう。
父は生前母に「おまえとわしとは、腹の中にいる時から夫婦であった」といっ
たと聞いた。無口な父の母に対する精一杯の表現だったのであろう......
3 月 17 日(日)
暖かさがしだいに増してきた。外が魅惑的になってきて映える光が美しい。ま
たしても年度の始まりが希望ある時期になって感じられる。退職後可能である、
と思われていたことをやりたくなるのだ......
4月 5 日(金)
母は八十一歳にして、一人住まいをしなければならなくなったが、父との思い
出を子供の我々には、明るくいい面ばかりを話してくれる。そして、自分みたい
幸せな者はいないと、人々のお蔭を喜んでいる。
そんな母の状況を見ると、私もまた幸せと感じる。
また春が近づいてくる。
今年は過ぎ去ろうとする4年間になかった異なった面もあるだろう。
あきつぐ
晴れわたった空の下、晟嗣(長女の第一子)が一年生になる入学式。私もおこ
がましくも三馬小学校の入学式に出席させてもらった。式を行うと見る側とは大
違い。我が孫が一年生になり、立派に式の主人公となって、入場してくる様子に
なんとも言えない感慨をおぼえる。
見ることができてよかった。思い切って来てよかったと何度も思い、何組にな
13
読書と縁の薄い今の生活状態ではあるけれど、一日寝る前の十分程度の本読み
は気長に続いている。続けて飲む漢方薬のようでそれがないと眠れないからだ。
今年はほんとうの読書時間を作り出したいものだと思う。読みたい本があるの
だから。
只今よちよち歩き中
瀬東
一つそのことを目標にかかげてみよう。一日一日を輝かしくするのは、消え失
せない意欲があることだ。それを支えるのは健康であってこそと、多くの諸先輩
から学ぶところである。
千恵子
あれば便利だろう、少しでも若いうちに馴れる方がよいかもしれぬと前々から
パソコンの購入を気にしながら随分の月日が経った。
5月の連休に帰省していた長男のアドバイスをもらって、数日後に再び夫と販
売店へ。パソコン本体、プリンタ、デジカメ、机など注文してルンルン気分で帰
途についた。
あと5ヶ月で還暦を控えていた私に、まさに60の手習いのパソコン生活が始
まった。
販売店でパソコン講座の無料受講券を3枚もらったが利用したのは1枚のみ。
よく見れば2枚は賞味期限切れとなっている。勿体ないので再度利用できないか
聞いてみようかな。
まがりなりにもマウスの扱いにも馴れ、最初のころは時の経つのも忘れて冷房
をガンガン入れて真夏の夜を楽しんだこともあった。
時々あてもないメールが入っていないかと自分が送信しないのに他人からの
受信を密かに期待している自分を笑ってしまう。
見よう見まねはいいとして、無闇にパソコンをいじり、うんともすんとも反応
してくれないことがあった。さすがに困って横浜の長男宅へSOSを発したとこ
ろ、ガイドをよく読んだらと諭された。空返事をしながらそれでもガイドそっち
のけで自分の世界にいる私。
義母の葬儀の諸々の処理は帰省中の長男が見事に分類整理してくれてパソコ
ンの威力に感心した。傍観していないでファイトファイトともう一人の私が叱咤
激励する。
外孫の香南ちゃんはパソコンでお絵かきが大得意。色使いもよくて驚くばかり。
5歳に負けじと見栄を捨てて教えてもらう。童心に返ってチューリップを描きな
がらワクワクしている私は精神年齢五歳の祖母ということか。
俳句の吟行会は越後路に決まり早速検索してみた。謙信の春日城址界隈 ―豪 農
の館 ―月岡温泉一泊 ―弥彦山界隈―良 寛堂等々、懇切丁寧な情報を即座に入手で
きて何と便利だろうと吟行会が待ち遠しかった。バスに揺られながらパソコンで
得た知識をフルに活用して旅行を楽しみながら句会に臨むことができた。
14
(春日山城址にて2句)
木の実振る片足ゆるき靴加減
たてぼり
みぞ そ
近頃の出来事
ば
毛利
縦堀を占めて溝蕎麦盛りなり
お土産も前もってパソコンで調べておいたので、要領よく買い物が出来たりし
て有意義な旅だった。
またテレビ局から番組「じゃんけんぽん」のリポータを依頼され、ニュースポ
ーツ「キンボール」を取材したことがあった。見たことも聞いたこともないこの
種目を検索して情報が見つかった時はうれしかった。予備知識があるので、世界
の舞台でキンボールを楽しんでいる金城大学の学生の取材もスムーズに行 うこ
とが出来て、またパソコンをほめてやりたくなった。
はがき作りにも挑戦してみた。組み込まれているソフトの操作方法も言葉が理
解できず、あてずっぽうに何度も何度もやっているうちに手順が少しずつわかっ
て来て、ついに形になった時、赤子が這い這いから歩けるようになった状態かな
と自信が湧いてきた。
先日新聞の広告欄で講演会の「受講者募集」が目に止まった。Eメールでも受
け付けるとのことなので早速送信してみたが、果たして返答が来るだろうか。ま
だまだ幼稚の域を脱していない自分に平気なのは年齢のせいかしら。
とにかく一つずつこなして行く楽しさは格別であり、
「ののはな」の原稿がパチ
ャパチャと処理出来る日を夢見ながら、今夜はオークションの電子辞書をさがし
ている私である。
松任市主催の「パソコン講座」が2月に4回実施されるので少し技術向上を
めざしたい。
八重子
昨年より老人会の役員を.
...と村の人に言われてエツと驚き、あらためて自分
の年をふりかえった。そして私もそんな年になったのだわと思いながらも、どこ
かにまだ老人会に入るのに抵抗を感じてゴテゴテと言い訳をしていましたが、順
番とのことでお受けした。
4月からだと思っていたら1月の新年会にきてほしいとの事。どうして.
..と
言ったら引き継ぎをしなければならないからとの事でした。
はじめて村の公民館での新年会に参加して、なんとたくさんのお年寄りがいら
れることかとびっくりしました。私の村は37軒の小さな集落なのになんと45
人(私もふくめて)の老人がいらっしゃるとの事。でも出席された人は30人で、
残り15人は都合の悪い人、ねたきりの人、歩けても介助の必要な人で、欠席で
した。本当に今の若者はこの人たちを支えるのは大変だなあと思いました。
家では若い人たちの会話に入れない人、一人孤独でさみしい思いをしている人
もここでは、とてもいきいきと会話がはずみ、とくに目が輝いていました。その
..
中の82歳のおばあちゃんが、「うら、あした老人会の新年会だと思うとうれし
...
..
くてゆんべ眠れなくて、今日の集まる時間がへしなくて早(はよ)う行ったら公
民館に鍵がかかっていては入れなくて、外で待っていたら寒くて困ったよ」と言
われて、おばあちゃん共々皆で大笑いしました。
なんと可愛らしくてうれしい言葉でしょう。まるで幼稚園の遠足みたいだわ.
..
私は老人会をチョット考え違いしていたように思いました。今はいつもあくせ
くと走りまわっている私も、いつか、いやもうすぐにこのおばあちゃんの様に新
年会が待ちどおしくなるだろうか...それには健康でいなくてはならない。考え
てみると近頃やたらに健康のことが気になりだしているのは年のせいかもしれ
ない。
一人一人のご老人はそれぞれの人生を一生懸命に生きてこられた人達であり、
人生の晩年は元気で楽しいものであってほしいものです。私も高齢社会の仲間入
りし自分のなす事は人に迷惑のかからない様に、自分で自分を守り、少しでも社
会に貢献できれば幸せだと思っています。
ごも
晩学のパソコン遊び冬篭り
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屋号マップ
中出
シンプル・ライフの記録
弘子
岡野
母はこたつの中で
作家のように思い出の断片を
パズルのように繋ぎ合わせ
時間と空間を自由にこえる
住み慣れた里の仲間を引き連れて
自分の空間へわたしを誘いこむ
不意打ちをくらったわたしは
新たな迷路へまよい込む
葉子
「60歳を過ぎたら身辺スリムに」を心がけているつもりであるが、なかなか
思うようにはいかない。思い切って何もかも捨てられず、そうかといって物は増
える一方。以下はささやかな取り組みである。
五年日記
母の思い出話に繋がりたいと
遠い日を手繰り寄せ
故郷の地図を描いた
母の確かな呪文は続く
さくんだ くっさび まっそも
くよも じろさぶ よじべしんだく
さんにょも こちろ いしぐら
どのまえ ひょうも やまさぶろ
自分のかすかな記憶が嬉しくて
母の駄目だしを受けながら
継ぎ接ぎだらけの
変形マップができあがった
退職してはや5年が過ぎた。退職の年に新しくした5年日記も満杯。この正月
から新しいものに更新した。婦人雑誌(義理で買わされた)の付録の家計簿兼日
記などに所々抜けては記録していた昔のものは嵩だか。14,5冊はあったろう
か、必要事項を大学ノート 1 冊に転写して処分した。退職を機に5年日記にした
のである。毎日のメモから買物記録、冠婚葬祭、交際、旅行の記録などは別項と
して、毎日記載の習慣が根づいた。一日も空欄がないことが、自分で自分への花
丸か。
洋裁記録
5年前の10月、タンスの中に眠っている着物や服たちを何とか生かせないか
と始めた洋裁だが、はまってしまった。
布地を買い、デザインを考え、苦心惨憺の
末出来上がるとうれしくて、大学ノートに作
品、出来上がり写真、布地用尺、購入先、価
格等を記録した。そのノートも6冊になった。
今数えてみたら作品数が246点と出た。も
ちろん簡単なエプロンから、スーツ、オーバ
ーまで一点に数えるのだが。
今は5年前の作は下手で着る気がせず、ク
ッションカバーや、裂かれて油ふきに落ちたりしているが。
この頃はダンボール、7,8函に溜まったはぎれをどう活かして減らすか悩ん
16
でいる。
かなか出来ない。海外旅行のフライト中や、長距離列車の車中が今まで比較的続
......
けた読書時間であった。就寝前の睡眠促進読書はわずか。
内なる読書意欲より、外からの刺激をと、読書会に入れてもらい、読書記録を
つけ始めた。しかしこれは、あまり熱心に書いていない。最近は、洋裁をしなが
ら朗読ライブラリーのカセットや、CDを聴いている。これがまた楽しい。図書
館の棚のものをかなり聴いた。森鴎外、樋口一葉、夏目漱石、太宰治、林芙美子
等々・・・。
それぞれに味がある。
旅行記録
旅行記録も、5,6冊溜まった。アルバムは7冊。当初は旅の余韻を楽しむた
めに厚めのアルバムを揃えた。しかしこのところ考えてみると、私のモットーに
反するので、なるべく、軽く、薄くと考えた。
夏の北海道旅行(2泊3日小樽、富良野)は大学ノートに写真、パンフレット、
記録などまとめた。これは手軽で安上がり。秋の京都、滋賀の旅もこの方法で納
めた。今後はこの方法でと思っている。
旅行記は今流行のインターネットのホームページにも収めてある(夫が勝手
に)が、これも一つの方法であろう。
こうして並べてみると、記録だけでかなりのもの。シンプル・ライフのために
はこれも整理しなくちゃ、自分で始末できなくなる前に・・・・。
わが家の健康生活
アルバム
昔のアルバムも整理した。厚く、重く、大型のものは取り出して広げるだけで
腕の筋肉を相当使う。運動不足解消にはなるが、高齢になったときのために(生
きているかどうか?)思い切ってスリムにした。小型で薄いものに張り替える。
当然剥いで捨てるのが多く出る。捨てるには忍びないのはまた別の場所に保管。
思い切って物を捨てられないのは、あきらめが悪いせいか、と思いながら....
「ああおいしい!体中にしみわたる!」
朝食前、夫の作った生ジュースを飲みながら、毎朝私の発する言葉である。
わが家は平均年齢75.6歳の年寄り3人。子どもたちが家を離れ、私が定年
退職して5年経つ。
夫のジュース作りは7,8年前から続いている。中身は、リンゴ、ニンジン、
バナナ、それに牛乳だが、畑で取れたての野菜もよく入る。
お陰で3人とも元気である。
義母93歳は、身体は元気だが、痴呆の症状のため介護保険制度のお世話にな
っている。が、近年はずっと医者にはかかっていない。当初の書類提出の時困っ
た。近所の町医者に
介護記録
これは2000年からのもの。今93歳の義母の様子を客観的に観察、記録し
たつもりだが、ストレスのはけ口をぶつけたものと自分でも思う。
今は落ちついていて(2003 年1月現在施設入所中)ほとんど書くことがないが、
2002年夏はあの猛暑の中で大変な思いをした。
「胸が苦しい。息ができん」
「腰
が痛い。おしっこがしたい。便所どこや」介護するほうもされるほうも辛い夏で
あった。ノートには殴り書きが、数ページも。いずれ自分が反対の立場になった
時、密かに読むこともあろうか。
「主治医の意見と言っても、当院にかかってないので主治医ではありません」
「今度からかかりますから、どうぞお願いします」
と、やっと書いてもらった。
夫69歳。結婚して42年になるが、未だ入院は勿論、何日も寝込む病気は覚
えがない。
私65歳。血圧と心臓が少々よくないし、毎晩風呂上がりの体重計が気になる
この頃であるが、元気である。
この3人老人ホームの栄養士兼炊事係の私は、野菜、果物たっぷりの食事にす
るように気を使っている。 野菜は、なるべく自給をと畑を耕し、ミカン、ビワ、
読書記録
自由な時間がうんとあるから「よし!読書するぞ!」と思ったのは最初で、な
17
柿、イチジクの木はせっせと生ゴミで作った肥料を与えている。
料理は得意ではなく、調理にあまり時間をかけたくない。しかし、野菜の煮付
けは欠かしたくない。そこで、煮物は前の食事の後片付けをしながら作ることに
している。
あとがきにかえて
つまり、こうである。食事の片付けに掛かりだしたら、まず野菜を切り、鍋に
火をつけてから、米磨ぎ食器洗いを始める。こうして片付けが終わる頃煮物も出
来上がる。後は、余熱利用保冷ケースに入れておけば味がしみこんで美味しい。
タンパク質源の魚(がほとんど)と、酢の物に先の野菜煮物がわが家の定食。
それに軽い一膳のご飯で満腹する。
朝食と夕食は野菜たっぷりの和食が主であり、昼食は麺類に生野菜が主の軽い
ものとしている。
間食は一切しない。若い頃はそうではなかったが、年とって運動量が減ったの
と、入れ歯のせいである。食後すぐに歯磨きをする習慣がつくと、間食で汚した
くない。スーパーなどで試食を勧められても「歯磨きして来たから」と断ること
にしている。義歯も悪いことばかりでもない。
生活のリズムも崩せない。何しろ3人の子育てをしながら40年間勤めた身体
は、何もしないで一日は過ごせない。義母の「老いの具体」を目の当たりにして
いるだけに、
「今のうちに」「できるうちに」との気持ちが働く。朝の5時頃から
夜の10時過ぎまで、介護、家事、庭仕事、趣味(洋裁)、読書と、常に身体と
頭を働かせる生活のリズムがほぼ毎日定まっている。
ストレス解消は旅行。義母のショートステイの時を好機として夫と出掛ける。
以上が、私の健康法。この生活が一日でも長く続くよう願っている。
(2002年10月 1 日付 国保新聞入選)
「ののはな」3 号をお届けします。投稿者が前号よりさらに増えたことを嬉しく
思います。そこで今回は、内容によってある程度まとめて掲載しました。初めて
自分用パソコンでの作業のため、不慣れ、不備な部分があると思いますがご容赦
願います。
2002 年は、皆さんにとってどんな年でしたか。
この 3 号にその一端を伺うことができますが、目を外に向ければ、不況、リスト
ラ、高齢化、北朝鮮、拉致問題、イラク問題等々・・・。
暗いことばかり考えないで、明るく、楽しいことは? 日本人が 2 人もノーベ
ル賞を貰ったこと、松井選手のこと?W杯?・・・あまり浮かびません。
ともかく、お互いにこの 1 年を元気に生きて、書けたことに感謝しましょう。
貴重な原稿をお寄せくださった方々に編集者として心より感謝いたします。
2003 年 2 月
(何気なく目に留まった新聞の募集記事に軽い気持ちで応募。忘れた頃に賞状
と賞金5万円が送られてきた。孫一家も入れての賞金食事会は満腹と満足だっ
た。
)
18
岡野
葉子
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