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新約概論Ⅲ 「パウロ書簡」

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四国教区福音学校第Ⅱ期
新約概論Ⅲ
「パウロ書簡」
芦田
道夫
1.パウロの生涯
パウロは現在のトルコ中南部メルスィン県のタルスス市、古代ローマ帝国の
属州キリキアの州都タルソスでユダヤ人の家庭に生まれました。イスラエルのベ
ニヤミン族の末裔で、生まれながらローマ市民権を持つディアスポラ(離散のユ
ダヤ人)でした。パウロのユダヤ名はサウロでした。
生まれた年代はわかりませんが、主イエスと同年代ではなかったかと考えられ
ています。ギリシャ文化の州都タルソで教育を受けた後、ラビとしての教育を受
けるためにエルサレムに上り、当時の大学者ラビ・ガマリエル(パリサイ派ヒレ
ルの孫)の門下生となったようです。パウロ自身が「ユダヤ教に精進し、先祖た
ち の 言 い 伝 え に 対 し て 、だ れ よ り も は る か に 熱 心 で あ っ た 」
(ガラテヤ1:14)
と言っているように、熱烈なパリサイ人であったと思われます。そのために「こ
の道の者」と呼ばれていたキリスト教徒を迫害することに熱心でした。ところが
キリスト教徒を迫害しようとしてダマスコに近づいたとき、突然天からの光に打
たれて回心し、今度は残りの生涯をまったく異邦人伝道にささげるキリスト教の
伝道者となりました。
回心後アラビアに3年間退修してから、エルサレムのペテロとヤコブに会いま
したが、まだエルサレム教会の多くの人々はパウロを恐れていました。その後お
そらく、十数年間シリア、キリキア地方に退いて伝道していたようですが、シリ
アのアンテオケ教会にバルナバによって招かれ、このアンテオケ教会からパウロ
の異邦人伝道が始まります。第1回伝道旅行はバルナバとヨハネ(マルコ)と共
にキプロス島と対岸のパンフリアに渡り、そこでバルナバたちと分かれて、現在
のトルコ中央部を伝道して回りました。
しばらくすると異邦人も割礼を受けなければ救われない、と主張するユダヤ人
たちがあらわれ、パウロやバルナバたちと大論争になりました。この問題を解決
するために、多分紀元49年頃、エルサレムで使徒や長老たちを集めて会議が開
か れ ま し た 。 こ れ は 「 エ ル サ レ ム 会 議 」「 使 徒 会 議 」 と 呼 ば れ る も の で 、 キ リ ス
ト 教 の 基 本 教 義 を 定 め た 最 初 の 重 要 な( 教 会 )会 議 と な り ま し た 。( 使 徒 1 5 章 )
間もなくパウロはシラスを伴って第2回伝道旅行に出発します。今度は第1回
伝道旅行で伝道したところを通りながら、現在のトルコ西部トロアスにたどり着
きました。そこから海を渡ってマケドニアの町々に迫害を受けながら伝道し、つ
いにギリシャのアテネに伝道します。しかしアテネでは必ずしも成功したとは言
えず、アテネを去ってコリントに行き、一年半もの間とどまって伝道しました。
コリント伝道は紀元51年~53年頃ではないかを考えられています。
コリントからアンテオケに戻ったパウロはしばらくして、第3回伝道旅行に出
かけます。今度は第1回、第2回伝道旅行で通ったガラテヤやフルギアを訪問し
ながら現在のトルコ西南部の大都市エペソに伝道します。エペソではツラノの講
堂を拠点に2年以上も伝道し、エペソ教会の基礎を築くと共にコロサイやラオデ
キアなどの周辺都市への伝道もなされたようです。
-1-
エペソからマケドニア、コリントをまわってエルサレムによったパウロは、そ
こでユダヤ人の暴動に遭い、捕らえられて地中海に面したカイザリアの牢に2年
間入れられることになりました。その後皇帝の裁判を願ったので、ローマに護送
されることになります。途中船が難破しますが無事ローマに着き、囚われの身な
がら満2年の間、かなり自由に伝道ができたようです。その後の足取りについて
はよくわかりませんが、紀元64年に皇帝ネロの迫害の時に殉教したと伝えられ
ています。
2.パウロの著作
新約聖書にあるパウロの名による手紙は13通あります。これらすべてが本当
にパウロの手紙であるかどうかについては、200年間論じられてきましたが、
確 定 的 な 結 論 に は 至 っ て い ま せ ん 。( 括 弧 内 は 口 語 訳 の ペ ー ジ 数 )
ロ ー マ 人 へ の 手 紙 ( 2 3 頁 )・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 5 7 年 頃
コ リ ン ト 人 へ の 第 一 の 手 紙 ( 2 2 頁 )・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 5 5 年 ~ 5 6 年 頃
コ リ ン ト 人 へ の 第 二 の 手 紙 ( 1 5 頁 )・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 5 5 年 ~ 5 6 年 頃
ガ ラ テ ヤ 人 へ の 手 紙 ( 8 頁 )・ ・ ・ ・ 4 8 年 ? 又 は 5 3 年 ~ 5 5 年 頃 ?
エ ペ ソ 人 へ の 手 紙 ( 7 頁 )・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 6 0 年 代 初 期 ?
ピ リ ピ 人 へ の 手 紙 ( 6 頁 )・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 6 0 年 代 初 期 ?
コ ロ サ イ 人 へ の 手 紙 ( 5 頁 )・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 6 0 年 代 初 期 ?
テ サ ロ ニ ケ 人 へ の 第 一 の 手 紙 ( 5 頁 )・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 5 0 年 頃
テ サ ロ ニ ケ 人 へ の 第 二 の 手 紙 ( 3 頁 )・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 5 0 年 頃
テ モ テ へ の 第 一 の 手 紙 ( 6 頁 )・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 6 0 年 代 初 期 ?
テ モ テ へ の 第 二 の 手 紙 ( 5 頁 )・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 6 0 年 代 初 期 ?
テ ト ス へ の 手 紙 ( 3 頁 )・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 6 0 年 代 初 期 ?
ピ レ モ ン へ の 手 紙 ( 2 頁 )・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 6 0 年 代 初 期 ?
このような新約聖書の配列はかならずしも書かれた年代や重要性の順番という
わけではなく、おそらく手紙の分量の多い順番ではないかと考えられています。
当時の個人的な手紙はパピルスに書かれ、一枚の大きさはおおむね25センチ
四方の大きさです。長い手紙ではそれを巻物のようにつなぎ合わせて用いられま
した。パピルスの上に細かな文字を書くことは、誰にでも容易にできることでは
なかったので、熟練した専門の筆記者が頼まれました。ロマ書16:22や第一
コリント16:21、コロサイ4:18、第二テサロニケ4:17などにその痕
跡を見ることができます。そのためパウロの著作性の真贋を文体や用語だけから
決定することは難しいのです。わたしたちはこのような事情を考慮しながら、聖
書自身が主張しているパウロの著作性にしたがいます。
3.パウロの信仰(思想)
(1)その特質
a.キリスト中心(キリスト論的神学)
パウロの信仰の中心は、創造者である父なる神に関する信仰告白ではなく、キ
リストへの信仰告白にあります。パウロが使徒として召されたのはキリストによ
る の で あ り 、そ の は た ら き は「 そ の 御 名 を 広 め て す べ て の 異 邦 人 を 信 仰 へ と 導 く 」
事 で し た 。( ロ マ 1 : 5 ~ 7 ) つ ま り 「 わ た し た ち は 自 分 自 身 を 宣 べ 伝 え る の で
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は な く 、主 な る キ リ ス ト を 宣 べ 伝 え る 」( 2 コ リ 4 : 5 )の で す 。そ の 中 心 は「 十
字 架 の 言 葉 」「 十 字 架 に つ け ら れ た キ リ ス ト 」( 1 コ リ 1 : 1 8 ~ 2 5 ) で あ り 、
こ の キ リ ス ト こ そ 「 神 の 知 恵 と な り 、 義 と 贖 い と な ら れ た 」( 1 コ リ 1 : 3 0 )。
パウロはある時から「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以
外 、 何 も 知 る ま い と 心 に き め て い た 」 と 言 い ま す 。( 1 コ リ 2 : 2 )
b.啓示による(啓示の神学)
「 聖 霊 に よ ら な け れ ば 、 だ れ も イ エ ス は 主 で あ る と は 言 え な い 」( 1 コ リ 1 2
:3)と言っているように、キリスト中心の信仰は聖霊による啓示によらなけれ
ばならないと考えます。おそらくパウロ自身の回心の経験が強い確信を与えてい
るのでしょう。生まれながらの人には十字架のキリストを認識することができな
い か ら で す 。パ ウ ロ は 自 分 の 回 心 の 経 験 か ら 、パ リ サ イ 的 な 律 法 遵 守 に よ っ て も 、
ガマリエルの門下生としての律法の研究によっても、さらに巧みな言葉(弁論術
による説得)によっても、キリスト信仰は生まれないことを確信していました。
このことは今日でも変わりません。キリストを自分の贖い主として個人的に受
け入れることは、どんなすばらしい説教や読み物、学びによっても生じないので
す 。た だ 聖 霊 に よ っ て 啓 示 を 受 け た と き 、な ぜ そ う な る か 人 は 説 明 で き ま せ ん が 、
キリストを主とする、キリスト中心の信仰へと変えられるのです。
c.宣教の愚か(宣教の神学)
第2回伝道旅行でパウロはアテネの人々に伝道しました。当時アテネはすでに
最盛期は遠い過去のものとなりローマの支配下にありましたが、それでもなお哲
学、文化の中心地でありました。使徒行伝17章を見ると、パウロがアテネで行
った説教で、天地を造られた創造主である神から説き起こして、説得的な宣教を
試みている様子がうかがえます。他の所での伝道とは違い、アテネでは反発より
も 冷 笑 、 嘲 り に 終 始 し 、 ア テ ネ を 後 に し て コ リ ン ト に 向 か っ た パ ウ ロ は 、「 弱 く
か つ 恐 れ 、 ひ ど く 不 安 で あ っ た 」( 1 コ リ 2 : 3 ) の で す 。
その反省から「わたしの言葉も宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と
力 と の 証 明 に 」 よ り 、「 ユ ダ ヤ 人 は し る し を 請 い 、 ギ リ シ ャ 人 は 知 恵 を 求 め る 。
し か し わ た し た ち は 、 十 字 架 に つ け ら れ た キ リ ス ト を 宣 べ 伝 え る 」( 1 コ リ 1 :
22)決意をします。
それは福音の躓きを取り除くのではなく、むしろそれを徹底的に明らかにして
「神の言葉を曲げず、真理を明らかに」していくことでした。
d.キリストのからだとしての教会(教会の神学)
パウロ書簡の中で最も印象的なことは、パウロが教会をキリストのからだとし
て教えている点です。キリスト者が分かちがたく有機的に一つのキリストのから
だを形成しているという教会観こそパウロが後世に残した最大の貢献であったか
も知れません。
このことをもっとも端的に語っているのは、教会内に分派争いがあったコリン
へ 教 会 へ の 手 紙 で す 。( も ち ろ ん そ の 他 の 手 紙 に も 述 べ て い ま す が )
パウロは「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体で
あ る 」( 1 コ リ 1 2 : 2 7 ) と し て 、 そ の 根 拠 を 一 つ の 洗 礼 と 一 つ の 聖 餐 に お い
て い ま す 。「 な ぜ な ら 、 わ た し た ち は 皆 、 ユ ダ ヤ 人 も ギ リ シ ャ 人 も 、 奴 隷 も 自 由
-3-
人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そし
て 皆 一 つ の 御 霊 を 飲 ん だ か ら で あ る 」( 1 コ リ 1 2 : 1 3 ) と 言 う の で す 。
エ ペ ソ 人 へ の 手 紙 で も 「 教 会 は キ リ ス ト の か ら だ で あ っ て 」( エ ペ ソ 1 : 2 3 )
と述べ、コロサイ人への手紙でも「キリストのからだなる教会」を周知のことと
しています。
e.聖書によって(旧約聖書の解釈学)
パウロは律法学者を目指していたパリサイ人として、旧約聖書とそのラビ的解
釈学に精通していたはずです。それゆえパウロの言葉には常に旧約聖書のキリス
ト論的解釈というものがそのバックグラウンドとなっているのです。パウロの回
心の神学的要点は、旧約聖書の言葉がキリストにおいて成就したという確信だっ
たのです。このことはパウロに限らず、初代の使徒たちに共通する経験であり、
この旧約聖書の霊的開示こそが宣教の力であり、内容でもあったのです。
旧約聖書にしっかりと根付いた新約の信仰によって、後にマルキオンなどの強
力な異端に対して正統信仰を護る力となりました。旧約聖書のキリスト論的解釈
によってキリスト教信仰は道徳主義や律法主義に陥ることなく、救済史的信仰と
して福音を伝えることができました。
(2)その内容
a.創造
パウロは旧約聖書に従い、神を無からの創造者とし、世界と人間をその被造物
と位置づけています。
b.罪
ア ブ ラ ハ ム の 子 で あ る こ と を 誇 る ユ ダ ヤ 人 に 対 し て パ ウ ロ は 、「 ユ ダ ヤ 人 も ギ
リ シ ャ 人 も 、 こ と ご と く 罪 の 下 に あ る 」( ロ マ 3 : 9 )、「 律 法 を 行 う こ と に よ っ
て は 、 す べ て の 人 間 は 神 の 前 に 義 と せ ら れ な い 」( ロ マ 3 : 2 0 ) と し ま し た 。
し た が っ て 、「 す べ て の 人 は 罪 を 犯 し た た め に 、 神 の 栄 光 を 受 け ら れ な く な っ て
おり、彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによ
って義とされる」以外にないことを宣教したのです。
このような罪の理解とそれからの救いは、キリスト教がユダヤ人、ギリシャ人
を越えて世界に拡大した大きな要因でした。人間である限り人種や民族、文化に
よらずすべての人が救われなければならない罪人であることが明言され、キリス
トの救いがそれらすべての人に対して有効であることを示したのです。
c.イエス・キリスト
パ ウ ロ の 描 く イ エ ス ・ キ リ ス ト は 、 神 の 像 で あ ら れ た が ( ピ リ ピ 2 : 6 )、 私
た ち と 同 じ よ う に 「 女 よ り 生 ま れ 」( ガ ラ テ ヤ 4 : 4 )、 肉 体 を も っ て ( コ ロ サ
イ1:2)歴史的・現実的・一回的にこの地上に生きられた。キリストは「罪の
肉 の 様 で 罪 の た め に 」 遣 わ さ れ ( ロ マ 8 : 3 )、 そ の 有 様 は 人 と 異 な ら ず 、「 僕
のかたち」をとられた、と述べます。神はキリストの「肉において罪を罰せられ
た 」( ロ マ 8 : 3 ) と し て 、 キ リ ス ト の 十 字 架 に お い て 人 間 に 対 す る 罪 の 支 配 が
打 ち 砕 か れ た こ と を 宣 言 し て い ま す 。パ ウ ロ は キ リ ス ト の 十 字 架 を「 過 越 の 小 羊 」
(1コリ5:7)と見る使徒的信仰を共有していました。
-4-
パ ウ ロ は ま た 、「 イ エ ス は 主 で あ る 」( 1 コ リ 1 2 : 3 、 ロ マ 1 0 : 9 、 ピ リ
ピ2:11)という信仰告白を共有していました。
d.教会・・・・前述
e.信仰
パウロはキリストに接がれた新しい人間の生き方を「キリストにある」者(エ
ン クリストウ)と言います。ロマ書6章ではバプテスマにおいてキリストと共
に死に、キリストと共によみがえらされて、キリストのものとなり、キリストに
あって(エン クリストウ)生きる者とせられると教えます。バプテスマによっ
てキリストのからだとなり、他のキリストのからだと有機的な、切り離すことの
できない関係に入れられるというのです。パウロにとって信仰とは、一人で心の
中で信じています、ということではなく、このようなキリストにあってキリスト
の肢体との交わりに生きるということを指しているのです。聖餐はこの事態を具
体的に味わうことであり、愛がなによりもまずキリストの十字架の愛であるよう
に、教会における交わりはまず何よりも聖餐における交わりを指しています。
ま た パ ウ ロ は 信 仰 は 、栄 光 の 終 末 を 待 ち 望 む 希 望 の 信 仰 で も あ る と 考 え て い ま す 。
(ロマ書8章)
《課題》
1コリント13章13節で「最も大いなるのもは、愛である」と言われて
いますが、なぜ愛がそうなのでしょうか?
次回
11月12日(第二日曜日)
-5-
「公同書簡」
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