インドと日本

「インドと日本:岡倉天心の周辺」
多木浩二・藤枝晃雄監修、尾崎信一郎他編 『日本近現代美術史事典』 東京書籍 2007年9月10日、502信503頁
インドと日本
岡倉天心の周辺
1
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8
年)をインドに派遣する。ガガネンドラ
説
記
ナート・タゴール (1867~1938年)、アパニン
みξ
ドラナート・タゴール (1871~1951 年)の兄
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文通
れぞれベンガル音ではゴゴネンドロナト・タ
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弟、ナンダラル・ポース
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岡倉覚三(天心、 1862~1913年)は].マクラ
(1882~1侠泊年)
クル、オボニントロナト・タクル、ノンドラ
ウド(1 858~1949年)とともにインドに 1901
ル・ボシュに近い]らとの交流が知られる。
来E
年末から翌年にかけて初滞在する。セイロン
春草は従来の仏教図像を脱し、ピーナを奏で
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経由でカルカッタ(現・コルカタ)に到着し、
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月6日にはベルールの僧院にヴイヴェ
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03年)、「流燈j
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カーナンダ師(1 863~1902 年)を訪ねる。彼
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1年)ほかの作品を残す。アバニンドラナ
香警
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年のシカゴ・コロンプス万国博覧会の
一トは膿臓体に刺激を受けて水彩施した画面
折に開催された世界宗教者議会で伝説的な成
を水に浸す「ウォッシュ」と呼ばれる手法を
て註
功を収めていた。この近代ヒンデイズム改革
開発し、ナンダラルは昇竜の図に霊感を得る。
師持
者を京都に招き、第2回世界宗教者議会を開く
のが、岡倉と仏教学者織田徳能の夢だった。
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年には、スレーンドラナートの家庭教師、
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3年) が
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ん (1879~ 1
年)
師の弟子でアイルランド出身のシスター・ニ
立美術学校で日本画教授となり、翌年には、
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ヴエディタ(旧名 E.M. ノーブル、 1867~ 1
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チベット経由でインドに入った河口慧海
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卯2
年)は、岡倉がインド滞在中に書き上げた
(1槌6~1945年)とダージリンを訪問。春草は
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東洋の理想 j (
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年)に序文を寄せ、『アジ
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9年)の原稿校閲も手がけた
アの覚醒 J(
アジャンター壁画を法隆寺壁画と比較する手
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記を残す。町田曲江
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年)を契機にスワ
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(1 886~1953 年)
(1879~1967年)、九里
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2年に訪問、また
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デシ運動と呼ばれる英国製品ボイコットの国
民運動にも関与してゆく。その周辺からは
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インドの彫刻と絵画 J(
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インドの
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08年)などの著者、 E
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(1 861~1934 年)や『中世シンハリ義術』
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粉年)を著したアナンダ'K.クーマラスワ
ーミ(あるいはクマーラスワーミー、 1877~
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7年)などが現れる。ハヴェルには岡倉の
著作の題名を想起させる『インド美術の理想』
1
1年)も知られる。これらの著作はスワデ
(
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シ国民運動と連動して「本質的インド性」を
語い、従来の].ファーガソン
(1808~1886年)
らによるグレコ・ロマンに模範を取るガンダ
ーラ仏教重視の美意識を否定した。ここに、
大英帝国統治下のインドで、国民統合の象徴
としての美術史観が成立する。
岡倉は 1
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3年、日本美術院に属する委L白
しゅんそう
春草(1 874~1911 年)、横山大観 (1868~
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アジアの中の日本
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アパニンドラナート・タゴール「パーラト・
J1906年頃
マータ(インドの母 )
事項・テーマ舗
ヲン兄ぞタラ
論詳説鋒(1877~ 1967年)が翌年に模写を試
みる。岡倉は2回目のインド滞在 (
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年)で
意匠が応用される。
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5年日本に密入国していたインドの革命
詩人P.D.パネルジー (1871~1935年)を知り、
家、R.B. ボース
文通するが、 13年に死去。同年アジア人最初
パ・ラール・グプターの 2
人は、国外追放命令
のノーベル文学賞を受賞したラピーンドラナ
を受け、玄洋社の頭山満の依頼を受けた相馬
ート・タゴール (
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1~1941 年)は 1916年初
憂議(18初~1954年) ・嘉延 (1871~1955年)
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むらかみかがく
来日し下村観山、村上華岳らと交友(1924、
(1886~1945年)とへーラン
と弓やまみつる
そうま
夫妻により、新宿中村屋に匿われる。隠れ家
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は彫刻家の議民年t備が発案し画家の科 葬が
のうす
渡った荒井寛方 (1878~1945年)は、野生司
滞在していたアトリエだ、った。ボースは相馬
繕 (1885~ 1973年)と合流し、アジャンタ
夫妻の娘・俊子と結婚し中村屋サロンを軸に
ー壁画を模写 (1917~18年)。滞印作の一部は
独立運動に挺身する。
関東大震災で喪失するが、模写体験は、やが
て法隆寺壁画模写に生かされる(十号壁「薬
いまむら
インドを題材とした作品としては、今村
索祉(18剖~1916年)の「熱国の巻J
(
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1
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年)
などの東洋趣味、道属議揺 (1884~ 四47年)
1902 年、建築学者、伊東忠太(1 867~1954
の装飾画ほか、戦後では、グジャラート州カ
官
年)が単独のユーラシア大陸横断旅行の途上、
ツチの女性装飾絵画に着目した秋野不矩
陸路インドに入札修行中の堀至徳 (1876~
(1卯8~2∞1 年)の連作が特筆に値する。
月余の踏査記録として、 3
冊の野帳(フィー
参考文献:
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丸山海は手 里
、
層
あきの小く
(稲賀繁美)
ルド・ノート)と日記、大量の写真乾板が今
日に伝わる。帰国後の西本願寺鎮西別院
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1年設計)はブッダ・ガヤーの大精舎を
訪梯とさせる大構想だが、同寺第二代門主S
国会"・にと今ずい
天谷光瑞 (1876~1倒8年)の資金難から中断。
可睡斎護国塔(1911年竣工)や築地本願寺
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アジア近代絵画の夜明け j 展(図録)
985年
。 Tapati Guha国立国際美術館ほか、 1
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下村観山「弱法師 J(部分) 1
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本作に感動した滞日中のタゴールは、荒井寛方による模写を
所望した。
菱田春草「サラスヴ 7 ーティ
J1903年
インドと日本
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