2013年 2月】『「みことば」の光に照らされて

2013年 2 月
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『「みことば」の光に照らされて』
市岡
之俊
カナダ・オンタリオ州の冬
新年には多くの人々が、神社、お寺、そして教会の
新年ミサなどへ詣でます。いろいろな思い、願い、
思い、悩みの解決、進路、人生の選択などが、心の
うちにあるかもしれません。それらのどの思いも、
新しい年初めだから生まれてくるのだということで
はなく、むしろ日頃から心に溢れている思いなどが、
より鮮明に現れ、分かりやすく意識化されるという
ことではないでしょうか。特にクリスチャンである
ならば、この時期は新年の抱負とともに、救い主の
誕生を思い起こし、イエスさまとともに歩む日々を、
もう一度心新たにされる時でもあります。
新年に、人ならば、誰もがもつこのような抱負と祈りの時に、聖書の「みことば」を通して私は、
神さまからの答えを頂く、不思議な体験をしました。神社、お寺、教会へと、人生の様々な願いと
思いをもって詣でる人々は、その後に、どのような答えを頂いているのでしょう。私はそのような
中で、
「みことば」を通して神さまと出会えること、また同時に「みことば」を人々に伝えていく、
分かち合っていくことの喜びと使命とを、改めて感じさせられたのでした。
それは昨年から私が祈り続けてきた3つの意向、ある人とある出来事に対して、神さまの恵みと
祝福を願う、具体的な事柄に対してでした。朝の祈りのうちに、1 月 13 日の「主の洗礼」のミサ
の聖書の箇所を黙想していた時のことでした。第一朗読のイザヤ書(40 章 1-2 節)を読んでいた時に、
エルサレムの人々に語りかける神さまのことばが、突然に私の心から離れなくなりました。
『慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる・・・
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。』
この出来事が成就しますように、その人が神さまの
光に照らされますようにという 3 つの意向のうちに、
何かがある方向性に進んで行くように、神さまの光
が照らされていく、ということを感じたのでした。
すぐに何かが変わる場合もあるかもしれませんし、
まったく変わらないかもしれません。しかしそれは、
二の次のことでした。神さまの光に照らされた、と
いう体験なのです。それは調度、フランスの聖地、
ルルドに、多くの人たちが病気の回復を願って巡礼
に出かけながらも、癒しを頂いて帰る人もいれば、
しかしたとえ癒しの恵みを頂かなくとも、神さまの
光を受け、神さまの光のもとに何らかの新しい人生
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スカボロ宣教会本部(カナダ・トロント)のクリスマス
の意味を発見し、新たな信仰と生命の恵みを頂いて、訪れたすべての人が喜んで帰って来る・・・
そのような神さまの照らされる光との出会いと変わらない、不思議な体験でもありました。
『光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった』
(ヨハネ福音書 1 章 5 節)
私たちはクリスマスの日中のミサのうちに、このヨハネ福音書のみことばを通し、暗闇に決して
消えることのない光がすでに来たこと、救い主、イエス・キリストが、飼い葉桶に眠る幼子として
世に来て下さったことを、父である神さまに感謝し、祈ります。そして、この決して消えることの
ない神さまの光が、東方の博士を救い主のもとまで導いた星のように、新しい1年もずっと、照り
渡してくださいますように、そして私たちも決してこの光から離れることがありませんようにと、
祈ります。一方でクリスマスには、主の救いの光に新たに照らされること、他方で新しい一年も、
その救いの光に照らされながら歩むことができますようにと、ダブルの恵みを願いました。
このクリスマス、新年と続いて願い、また神さまから頂く救いの光は、日本に住むクリスチャン
にとって、大きな共同体の力と、大切な MISSION のあり方を現しているように思います。新年に
初詣にでかけ、現れる、すべての人々の中にある純粋で大切な願い、思いを、私たちがどのように
受けとめ、分かち合い、
「みことば」との出会いへと導くことができるのでしょうか・・・?今後、
1 年間を通して現わされる、私たちの共同体の姿、MISSION そのものがあるのです。
まず、私たちの心はどうでしょうか?一人ひとりの存在と人生、思いとが、真に神さまの光に、
照らされているでしょうか?自分の不満、不平、あるいは反対に傲慢の心でいっぱいであるならば、
その神さまの救いの光を、自ら遠ざけてしまう結果にもなります。特に、相対性の優先されがちな
日本の社会と文化、霊性の中において、その成熟した良さにつながる場合も多いのですが、ややも
すると、生きておられる神さまよりも、人間の方が優先されて、がんじがらめに身動きがとれなく
なってしまう落とし穴に陥ってしまうようなことも多々あります。家庭や職場、学校、近所、残念
ながら教会の中でさえも、知らず知らずのうちに、暗闇の中で人間がお互いに見つめ合うだけで、
神さまの光に照らされることがないような状況に陥ってしまうことも、よく見受けられるのです。
このような時は、自らに変化を持たせなければならない時でしょうし、思い切って神さまの光の方
に、良きも悪きもすべてを委ねて、飛び込んで行く時でもあるでしょう。
人生にはあらためて、たゆまない「祈り」を決心していく時があります。本当の意味での「回心」、
神さまの方に「心を回す」時、人間の作る様々な暗闇の現状の中で、神さまの救いの光へと向きを
変え、すべてを委ねなければならない、その決心をする時があるのです。
1月に降誕節が終わったのも束の間、2月に入るとすぐに、灰の水曜日を迎えて四旬節が始まり
ます。しかし、それは単なる1年間の典礼の忙しい循環の中にあるというのではなく、今も私たち
とともにおられる同じイエスさまが、日々、私たちが出会う日常生活の中で、ご自身の救いの秘儀、
誕生、十字架、復活そのものを分かち合ってくださっているという「しるし」、その体験なのです。
そこにこそ共同体の交わりと一致、感謝の力があり、ミッションへの招きと喜びとがあります。
『光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった』
このイエスさまの救いの光との出会いのうちに、歩んでまいりましょう。
七五三
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