ニュースレター - 小石川植物園後援会

2006 年 8 月
小石川植物園後援会
ニュースレター
第 31 号
目次
トピック 描かれた植物学史―ボタニカル・アートから探る植物学史
大場 秀章 ......................... 1
会務報告 小石川植物園後援会 2005 年度事業報告 .............................................. 11
表紙 Iris persica L.(イリス・ペルシカ), アヤメ科(Iridaceae)
1787 年出版のカーチスのボタニカル・マガジン 第1巻 第1図より(東京大学大学院理学系研究科附属
植物園図書室所蔵)
。
トピック
プルへの改称がおこなわれた西暦 330 年から、そ
描かれた植物学史
の地を拠点としていた東ローマ帝国が滅亡した
1453 年までの期間をいう。現代の登場、意味を正
― ボタニカル・アートから
探る植物学史
しく理解するうえで中世の存在は大きい。
帝国滅亡と前後して発達するのが、書物の印刷
大場 秀章
を通じた普及である。それまでは筆耕により書写
されていた書物がほぼ寸分ちがわずに複製される
ことになった。1484 年に印刷された『ラテン本
モノの識別では視覚という感覚器官の役割が大
草』には木版による図版が挿入されていて、ドイ
きい。モノの理知的理解には感覚による掌握が発
ツ、フランスなどに広く流布した。しかし、その
端となることが多い。感性は理性的認知にも重要
図は例に採りあげたセイヨウキヅタのように文字
な役割を担っているといえよう。
情報がなければ、何の植物を描いたものなのか容
植物の多様性は人類の生存を支えているといえ
易には知りえない代物だった。稚拙な画といえる
るが、それは多様性を分析し、識別し有用性を見
が、この時代の植物画としてはこれが決して例外
い出してこそのものである。万を超える多様な植
的ではなかった。
物を識別し、その属性、差異性、共通性などにつ
残された植物画を通覧し、今日にいたる植物の
いての知識を共有することは植物学の誕生にもつ
視覚的認識の変貌を眺めてみることにしよう。
ながった。識別し差異を明らかにしていく過程で
視覚の果たした役割は絶大である。しかし植物の
視覚化は当初から現在のように正確で厳密なもの
であったわけではない。現在の植物の視覚化は歴
史的発展を経てのものである。
ところでハワイには日系人が多い。小学校で写
生をさせると日系の子供であることがすぐに判る
という話を聞いたことがある。モノの輪郭を正確
に描くことが上手だという。身近かな存在である
植物だが写生しようとすると手ごわい。人間の顔
ほどではないにしろ、かたちにならないことが多
い。そればかりでない。描けないのである。
なぜ描けないか ? 存外描こうとする植物のこと
をよく見ていないことが判る。それでは描けない
のも無理はない。では観察さえすれば描けるのか ?
そうとは限るまい。
器用な日本人には理解されにくいが、あたかも
ありのままに描いたような正確な植物画が登場す
るのは、クラテウアスなど少数の例外を別にすれ
●セイヨウキヅタ Hedera helix L. ( ウコギ科 )。
シ ェ フ ァ ー (Peter Schoeffer)、『 ラ テ ン 本 草 』
(Herbarius Maguntie impressus、1484 年 )。
この書はマインツで印刷されたが、さまざまな
著名表記で知られている。主なものは、The Latin
Herbarius、Herbarius in Latino、Aggregator de
Simplicibus、Herbarius Moguntinus、Herbarius
Patavinus である。
ば、ヨーロッパでは 16 世紀になってからである。
ヨーロッパの歴史は当初、古代、中世、現代に
3 区分され、記述されてきた。古代と現代の間に
はさまる中世とはコンスタンティヌスによりビュ
ザンティオンへの遷都とそのコンスタンティノー
-1-
ボタニカル・アートは薬草の見分けに始まる
したのはまさにこのようなものだったのであっ
近代にいたるまで病気を治す唯一の手段は効き
たとしたら、実に神業としか映らない。この奇怪
目のある薬草を見つけ処方することだった。だか
な図像をありがたく受け継ぐことが学問の権威で
ら初期の医学では薬草研究が重要だった。薬草中
あったといえる。余人の立ち入る隙を与えないこ
心の医学を本草学というが、洋の東西を問わず本
とは権威を護るうえで重要であったからだ。日本
草学は医学の要であった。植物についての研究は
でも最近まで医者が患者のカルテを素人に判らな
まず薬草を見分けることから始まった、といって
いドイツ語 ( 多くはドイツ語の単語の羅列 ) で記
よい。似て非なる植物の中から本物を間違いなく
していたことが思い起こされる。実際の植物を見
採取するのに苦労した様子が目に浮かぶ。そうし
分けるための実地の訓練が必要なことはいうまで
たとき、植物を描いた植物画が役に立ったのはい
もない。学塾が生まれ、やがて大学へと発展する
うまでもない。
ことを重ね合わせると、こうした奇怪な植物画の
紀元 1 世紀に小アジアに生まれたギリシアの軍
存在も時代が必要としたものと思えなくもないの
医、ディオスクリデス (Pedianos Dioskurides) は、
である。
後に『マテリア・メディカ』(De Materia Medica)
ルネサンス精神とボタニカル・アート
の名で知られる薬草誌を著わした。しかし、この
書には植物図はなかったらしい。師のクラテウア
絵空事とは、現実には有りえないような奇麗ご
スの著作に彩色の挿図があったためらしい。転
とをいうが、この言葉は画家が事実以上の美を創
戦行軍の間に培った豊富な経験を踏まえたディオ
造するところから来た。植物画では無論絵空事は
スクリデスの書は名声を博した。原著は失われた
許されないはずだが、16 世紀にいたるまで、自
が、東ヨーロッパや地中海地域に伝わりいくつも
然を離れ模写に模写を重ねた結果、植物画は笑止
の写本が生み出された。 17 世紀でさえこの写本が
千万の空絵へと失墜してしまった。
医学・薬学の基本的な文献として重要視されてい
1503 年にダ・ヴィンチがモナリザを、ミケラン
た。写本の中で最も有名なものは、コンスタンチ
ジェロは聖家族を制作した。植物画も絵画の端く
ノープルで発見された、[ ウィーン写本 ] ([ アニキ
れであり、こうした時代とは無縁ではありえない。
ア・ユリアナ写本 ] ともいう ) である。アニキア・
ダ・ヴィンチは植物も描いたが、植物を描いた画
ユリアナのために西暦 512 年頃に製作されたもの
家としてはアルブレヒト・デューラーが有名だ。
とみられている。通常、[ ウィーン写本 ] と呼ばれ
ウィーンのアルベルティナ美術館に蔵される一群
るのは、発見後それがウィーンの帝室図書館に収
のセイヨウオダマキを描いた絵は日本でもよく知
蔵されているためである。
られている。デューラーの絵は鋭い正確な描写に
よるもので、それまでの様式化した植物画とは無
『マテリア・メディカ』の写本づくりに携わっ
縁のものである。
た後世の学者たちはテキストに植物図を描き加え
たのであった。植物図をともなった『マテリア・
デューラーと同派の画家、ハンス・ヴァイデッ
メディカ』の写本からは、次々に新たな写本が作
ツは、植物をありのまま描いた。これを刻版した
られヨーロッパ中に広まっていった。印刷術のな
のが、オットー・ブルンフェルスの著した『本草
い時代である。
写生図譜』(Herbarum Vivae Eicones) である。模
挿入された植物図は筆写を重ねるうちに、この
写 ( 権威 ) から写生 ( 自然 ) という植物画での大き
世のものとは思えない摩訶不思議な姿を呈するこ
な転換を支えたのはルネサンス精神であるといっ
ととなった。にもかかわらず、すぐさま実際に植
てよい。私は、その第 1 巻が刊行された 1530 年
物を観察して描き直す機運は生まれず、挿入され
をもってヨーロッパでは本草書の自然への回帰が
る植物図はますます奇怪さを増すだけだった。
始まるとみる。
ブルンフェルス (Otto Brunfels) の名 ( 姓名 ) は
本草家が薬草を求め原野を探索した際に参考と
-2-
兆す協同する営み
このようにブルンフェルスは、本草と植物画史
に「自然への回帰」という新たなパラダイムを
切り開いた立役者に祭り上げられたが、実のとこ
ろそれはデューラー派の画家ヴァイデッツのおか
げであり、ブルンフェルス自身は植物の画作には
ノータッチだったし、植物自体の記述では旧態然
としていて、まったくディオスクリデス的だった。
新たなパラダイムは、文ではなく画からのもので
あるのは明らかであり、植物学の進歩に植物画が
大きな貢献をはたしたことはたいへん意義深い、
とみている。
ブルンフェルスがやらなかった執筆と画業の協
同によって、科学的にもより正確な「植物画」と
「記述」をものにするという偉業を成し遂げたの
がフックス (Leonhart Fuchs) である。バイエルン
●クリスマス・ローズ Helleborus niger L. ( キン
ポウゲ科 )。
ブルンフェルス (Otto Brunfels) の『本
草写生図譜』(Herbarum Vivae Eicones、第 1 巻、
1530 年 )。
彼の姓はマインツ近郊の出身地名による。生年
は 1464 年 (1490 年とも ) といわれ、様々な遍歴
の後、シュトラースブルグで教師となり、余暇に
本草研究を行った。彼は、植物相が地域によって
異なることを理解していなかったので、図譜に載
せた中央ヨーロッパ産の植物をデオスコリデスに
準拠して記述した。図はデューラーと同派の画家、
ハンス・ヴァイディツ (Hans Weiditz) による。標
本による不自然さが見られる。
地方生まれのフックスは 13 歳で大学入学を許さ
れたほどの秀才であった。長じてチュービンゲン
大学の教授になったが、1529 年にドイツ地方を
襲った疫病に効果的処方をしたことで名声はヨー
ロッパ中に広まっていた。
医者として超多忙な中を時間を見つけては植物
の研究に勤しんだ。自著『植物誌』では、写生、
版下作製、彫版が分業で行われ、それぞれの担当
者の名前も明らかにされている。フックス自身も
画作に関与した。ここがブルンフェルスと決定的
に違う点である。もちろん忙しい人だから完璧に
マインツ近郊の出身地名によるといわれている。
それができたわけではない。
生年は 1464 年あるいは 1490 年ともといわれるな
フックスは植物の全形を図版に収めるのに拘っ
どはっきりしない。様々な遍歴の後、シュトラー
たように思われる。また、縦長のフォリオ版とい
スブルグで教師となり、余暇に本草研究を行った。
う組版も図に影響している。植物の全形を図版に
もちろん準拠したのはディオスクリデスである。
納めるために、相対的な大きさが歪められ、樹形
彼は、植物相が地域によって異なることを理解し
も枝ぶりもかなり不自然になってしまった。彫版
ていなかったので、図譜に載せた中央ヨーロッパ
師スペクレの趣味といわれている。概して草本は
産の植物に東部地中海の植物を基礎に記述した
より写実的で、自然さがあふれ出ている。とはい
ディオスクリデスの記述をそのまま当てはめよう
え画の一部は明らかに変だ。それに装飾的になっ
とした。この点で彼は旧態然とした当時の本草学
ていることは否めない。
者のひとりに過ぎなかった。新時代を開いたのは
フックスはこの本に用語集を付していた。いま
彼の記述ではなく、ヴァイデッツの植物画なので
では専門書に用語集をつけるのはかなり普通なこ
ある。
とだが、これも初めての試みではないだろうか。
フックスをもって本草学における真の自然への回
-3-
●セイヨウミザクラ Cerasus avium Miller ( バラ
科 )。フックス [ フクシウス ] (Leonhart Fuchs)『植
物誌』(De historia stirpium、1542 年 )。
フックスのこの書では、写生画家のアルブレヒ
ト・マイヤー、版下作製のハインリッヒ・フェル
マウラー、彫版師ファイト・ルドルフ・スペクレ
が植物画の製作に携わった。
● カ ー ネ ー シ ョ ン Dianthus caryophyllus L. ( ナデシコ科 )。 ドドネウス (Rembert Dodoens
[Dodonaeus])『本草書』(Cruydeboeck、1554 年 )。
植物の観察力が増し、細部にいたるまで特徴
をとらえているだけでなく、それを表現する技
術も格段に上達してきたことは前回のフックス
で述べた。ドドネウスの『本草書』は植物画自
体もそのフックスのものの焼き直しであること
が多い。このカーネーションもそうで、全形を
無理やり紙幅に収めるために、葉の位置や姿勢
などが作為的に歪められているなど、フックス
の画作の欠点を引きずっている。
帰がなされたといってよい。一般に知られてはい
ないが、植物画は「自然の回帰」というルネサン
ス精神を実に見事に成し遂げていたのである。
出版で普及する植物画
ド ド ネ ウ ス (Rembert Dodoens [Dodonaeus と
16 世紀初頭のヨーロッパはスペインによる新大
も綴る ]) は、アントワープにも近いメクレーンに
陸への進出が進む一方で、ドイツなどでは宗教を
生まれ、ヨーロッパ各地を廻って修行し、ウィー
めぐる対立に揺れた時代にみえる。両者の地域的
ンのハプスブルグ家のマクシミリアン二世、ルド
なはざまともいえるアントワープでは商業が栄え
ルフ二世の主治医を経て、ライデン大学の医学教
た。その時期、
相前後してドドネウス、クルシウス、
授になった。1554 年に出版された『本草書』は、
プランタンという 3 人の学者がこの町に集った。
ただちにクルシウスがフランス語に、1587 年には
3 人はお互いに交流し、ネーデルランド学派とし
ライトが英訳し普及した。
て、最盛期の本草学を飾ったのだが、この成功は
その『本草書』の中身であるが、植物自体の観
出版と強く結び付いていたことが注目される。
察があり細部に及ぶ詳細さを増してはいるもの
-4-
の、植物画としてはフックスの焼き直しといって
もよいくらいで独創性に欠ける。したがって、知
名度の高まりはもっぱら出版によったものといっ
てもよい。
芸術絵画とは異なり多数のコピーが存在するこ
とが最初から意図されていることが多い植物画
は、画集あるいは図集として纏められ出版される
ことが多い。つまり植物画は、本質的に印刷と出
版との強い結び付きを有している。ドドネウスの
高い知名度の源泉にはこうした植物画の本質が隠
されていたといえるであろう。
ところでドドネウスの『本草書』は、1659 年に
オランダ商館長ワーヘナルにより将軍家綱に献上
され、日本に移入された最初のヨーロッパの博物
学書になった。その後に移入されたヨンストンの
『動物図説』とともに、この本を通じてドドネウ
スは江戸時代の本草学に大きな影響を及ぼした。
学術研究の盛衰が出版と強く結び付いていること
を示している。
全形図からの解放
●ライラック Syringa vulgaris L. ( モクセイ科 )。
マッティオリ (Pier Andrea Mattioli)『ディオスク
リデス薬物誌注解』(Commentarii ... in sex libros
Pedacii Dioscoridis、1565 年 )。
ディオスクリデスの『薬物誌』の注解という書
名は、権威への癒着というイメージを与えかねな
いが、内実はまったく異なる。本書は、薬用性に
頓着せず多数の植物を記載図解することで、本草
学を植物学へと転換させた重要性をもつ。植物を
観察する技術の向上に加え、全体を描くことに執
着せず、その植物の特徴をよく示す部分のみを描
く試みの意義は大きい。枝ぶりの不自然さもだい
ぶ消えている。上手とはいえないが、細い平行線
を用いて陰影をつける試みも見逃せない斬新な手
法である。なお、この図は世界最初のライラック
の図と考えられ、マッティオリは実物を見ること
なくおしば標本でこれを描いた。
ルネサンス揺籃の地イタリアは、植物の研究で
も先導的だった。それにイタリアの植物相はディ
オスクリデスが研究したギリシアの植物相に類似
しており、実物によって学説の検証ができた。こ
うした地の利が継承発展という、学問のスタイル
誕生の契機ともなったといってよい。
1501 年にシエナに生まれたマッティオリ (Pier
Andrea Mattioli) は、フックスやドドネウスとほ
ぼ同時代人だが、まさにディオスクリデスの学問
を継承発展させた本草学者といえる。主要著作は
ディオスクリデスの『薬物誌』に対する注解とし
て出版されたが、とくに注目されるのは『薬物誌』
にはない新植物の記述であった。マッティオリは
教えていた彼は、300 ほどのおしば標本をマッティ
皇帝マクシミリアン二世などの侍医を勤める一方
オリの研究に提供したという。生きた植物はもち
で、薬用性に頓着せず多数の植物の記載図解に一
ろんだが、標本を利用することで離れた地域の植
生を捧げた。薬用性を超えての植物研究は、まさ
物を季節に関係なく比較することができるように
に植物学の確立といってもよい。
なり、形態観察の精度が一段と高まった。
マ ッ テ ィ オ リ は 植 物 画 の 進 展 に も 貢 献 し た。
マッティオリには多くの協力者がいた。最大
の支援者はおしば標本の創始者といわれるルカ・
フックスやドドネウスが紙幅に無理して全形を描
ギーニである。ボローニャとパドヴァの両大学で
いたのに対して、その植物の特徴を示す部分のみ
-5-
彼が全形図に部分図と解剖図が完備した「三点
セット」を現実のものにしていたことである。
解剖図の登場は植物を描く技術の一層の向上を
もたらしたことはいうまでもない。正確な細部の
観察は当然全形図にも反映するからだ。細部に及
んだ観察は従来同一とされた植物の中に多くの異
分子があることを明らかにしたこともあった。植
物画が植物学者の注意を喚起したのである。
一方、画家も画の真偽はもとより植物学者から
教えられることが多くなった。解剖図の登場は
植物学的、つまり科学的な評価に耐える植物の画
としてのボタニカルアート誕生の契機となったと
いってよい。また、画家と植物学者の間に相互補
完の関係を生み出したのである。本草学の植物学
への転換はもう間近に迫っていた。。
拡大図や解剖図が登場したことで植物を正確に
描く技術は格段に向上した。より科学的かつ芸術
的植物画の出現にとって、木版印刷による複製が
最大の障害になっていたといってよい。このこと
●シクラメン Cyclamen persicum Miller ( サク
ラソウ科 ) 。 マッティオリ、『植物覚え書』(De
Plantis Epitome、1598 年 )。
は 16 世紀の印刷された植物画をその手書きされ
た原画と比べると歴然とする。
植物学者にも植物画家にも印刷技術の改革は難
を図示したことだ。また、細い平行線による陰影
題であったが、植物画にも改良されるべき点は
を与える手法も新しい。16 世紀は植物を描く手法
あった。そのひとつはともすれば正確さを追求す
が大きな進展をみせた時代だった。
るあまり忘れられていた芸術性であり、ほかのひ
とつは植物画を描く科学的目的の明確化であっ
解剖図の誕生
た。つまりその画がなんのために描かれるのかと
一部を調べれば全体を見なくてもそれが何か解
いう、植物学者のもくろみである。
る、というのは現代のわれわれには何でもない考
もう一度植物画の歴史を簡単にふり返ってみよ
え方なのだが、こういう思考が定着するまでには
う。歴然としているのは、薬効をもつ植物の鑑別
結構時間がかかった。全形図に対しての部分図登
が始原であったことだ。次第に薬効への拘りが消
場の時差がそれを物語っている。
滅し、植物を鑑別すること、すなわち異同と類似
部分図だけで植物自体の認識や分別が可能とな
を明らかにすることに関心が移り、類をまとめる
ると、その植物の特徴がよりよく現れている部
分類学の萌芽をみたのである。その異同を証かす
分を強調して描くことの重要さや、それを拡大し
ために厳密な植物画の重要性が増した。 拡大・解
て示すことの効果に当然目がいく。当代のプリニ
剖図が役立ったのはいうに及ばない。しかし、厳
ウスと呼ばれたゲスナー (Conrad von Gesner) は
密であるだけでは類をまとめることに役立たな
1516 年にスイスのチューリッヒに生まれ、ぼう大
い。類をまとめるにはそのための ‘ 鍵 ’ や基準、
な著作と植物画をものにしたが、死後、植物画は
そして何よりも思想がいる。これを確立すること
同業のカメラリウスの手に移り、その一部はマッ
が分類学の発展の歴史でもある。
ティオリも著作に使用していた。注目されるのは、
-6-
比較は科学の常道ではあるが、分類学ではとく
● ザ ク ロ Punica granatum L. ( ザ ク ロ 科 ) [ 中
央上 ] その他 。 デラ・ポルタ (Giambattista della
Porta)『植物指南』(Phytognomonica、1588 年 )。
1535 年頃にナポリに生まれたデラ・ポルタは、
お人好しの藪医者兼植物学者であった。今からみ
れば奇想天外な思考の持ち主といえようが、当の
本人はまじめに動物と植物の別もなく類似するも
のを較べて図化している。このような「似た物較
べ」から科学的な比較への道は決して平坦ではな
く、途中には幾多の紆余曲折が待ち受けていた。 にそれがむずかしい。対象の間に関係があること
が保証されないものの比較は意味をなさないから
● ツ バ キ Camellia japonica L. ( ツ バ キ 科 )。
ケ ン プ フ ァ ー (Engelbert Kaempfer)『 廻 国 奇
観 』(Amoenitatum Exoticarum Politico-PhysicoMedicarum、1712 年 ) 。
1651 年にドイツのレムゴーに生まれたケンプ
ファーは、スエーデンの外交使節の一員として、
中央アジアからペルシアを旅行し、後にオランダ
の東インド会社に雇われ、来日した。同書の第 5
分冊は Plantarum Japonicarum( 日本植物誌 ) と題
され、図版 28 とともに約 400 の日本植物が記述
された。リンネはケンファーの図版をもとにツバ
キ、イチョウなどに学名を与えた。この図がツバ
キのタイプである。
である。これを問う相同と相似が区別されるのは
植物学者と植物画家が共働した名高い例として
19 世紀になってからである。
18 世紀初頭のツーヌフォール (Joseph Pitton de
Tournefort) が行なった植物画家オーブリエを伴っ
奇花珍草を伝える
16 世紀、航海の発達はおびただしい数の未知な
たレヴァントへの探検、バンクス (Joseph Banks)
る植物をヨーロッパにもたらした。植物園が登場
をリーダーとする、クックの第一回航海の植物学
し、こうした植物を栽培し、研究と紹介に役立っ
者ゾランダーと植物画家パーキンソンの参加があ
た。新しい植物を学会や一般に紹介するために植
る。
物画の需要は大幅に高まった。新しい植物や動物
木版に変わって金属に彫って印刷する手法は 15
が競われ、探検隊が派遣された。それには画家が
世紀には開発されていた。また、銅版を薬品で腐
同行することもあったが、探検家が自分でめずら
食する技術も出来上がっていた。時代は下がるが、
しい動植物を描くことも多かった。また、採集し
17 世紀中頃レンブラントがこの技術を用いた作品
た標本からあたかもそれが生きていたように復元
を制作したのは有名だ。植物画でも従来の木版が
した植物画も多くつくられた。結果がもたらした
金属を用いる方法に次第に取って代わられる。植
のは巧拙入り交じっての植物画の幅の広がりであ
物の細部に及ぶ正確な描写の要求とテクニックの
る。
向上と無関係ではないだろう。
-7-
ドイツのレムゴーに生まれたケンプァー
植物の観察の鋭さと作画は、単に天才的な天分
(Engelbert Kaempfer) はオランダ商館医師として
だけに帰せられるものではない。植物を科学する
日本にやってきた。元禄 3 年である。画才も備わっ
精神とそれを効果的に伝える合理性の結合が生み
たケンプァーは多くを描き視覚的に日本を記録し
出した結果だといってよいと思う。植物画はここ
た。日本文化が自生の植物の多様さと深く結びつ
でさらに一段階の飛躍をとげるのである。
クリフォート (George Clifford) が自邸に集めた
たものであると解した彼は、調査記録である『廻
国奇観』の 1 分冊を割いて日本の植物を記述した。
世界各地の植物を詳細に観察することでリンネ
ケンプァーの植物画は標本だけからでは描けない
はヨーロッパ外の植物の多様性を学ぶ機会をもっ
立体感をもち、細部の観察も行き届いている。稚
た。この体験が、世界のどんな未知の植物につい
拙な印刷だがそれでも金属彫版が役立っているの
ても簡単にその分類体系上の位置を与えることが
は明らかだ。
できる新しい分類法の提唱を導いた。一方、エー
レットはそこに滞在し、リンネの科学的成果を芸
開く科学と芸術の融合
術の領域にまで昇華させたといってもよい植物画
植物画の歴史をどのように紐解くにしろ 1708
を描いて友情に応えた。
年生まれのエーレット (Georg Dionysius Ehret) は
エーレットはリンネの哲学と方法論に惹かれ
外せない。エーレットが協力を惜しまなかったリ
た。有花の植物では雄しべと雌しべの数に着目す
ンネとの協働による画業のことを省くことはでき
れば、まったく未知の植物でも分類体系上の位
ない。
エーレットは生まれつきの才能の持ち主であっ
たが、植物学者との出会いに恵まれた。いうまで
もなくそれは生物学の父、リンネとのそれである。
私は近代の植物画はエーレットをもって出発点と
みる。エーレットと彼以前の植物画との大きな違
いは、科学的先端性と芸術性の見事なまでの融合
にある。エーレットの植物画は植物学的にも正し
いだけでなく、花の肖像画とでもいうべき芸術性
を備えていた。やがて来るべき花の肖像画として
のボタニカルアートの開花を予兆するものであっ
た。
ところで成功を収める後年までエーレットは辛
酸を舐め続けた。ハイデルベルグで貧しい小農の
家に生まれた彼は、少年の頃から植物を描くのが
好きだった。レーゲンスブルクでようやく格安の
画稿料で植物画を描く仕事にありついた。ニュー
ルンベルク、バーゼル、パリ、ロンドンなどを転々
とし、エーレットはオランダのライデンにやって
来た。その時、ハールレムの南方にあった植物好
きの富豪クリフォート邸にリンネは滞在していた
●ツルネラ・ウルミフォリア Turnera ulmifolia
L. ( ツルネラ科 )。 エーレット画。リンネ (Carl
Linnaeus) 著『 ク リ フ ォ ー ト 邸 植 物 』(Hortus
Cliffortianus、1738 年 )。
のだ。それを知ったエーレットは徒歩でその若い
スウェーデンの学者に会いにいき、終生に及ぶ友
情の絆を結んだ。
-8-
置を与えることができた彼の分類法は斬新であっ
た。一方のリンネもエーレットの正確な描写力と
芸術的天分に魅せられた。リンネの植物の「性分
類体系」を図解したのもエーレットだった。彼は
科学的な図解でも群を抜いていた。
ボタニカル・アート誕生
18 世紀のヨーロッパは革命に象徴されるが、イ
ギリスでは産業革命が市民の間に裕福な層を広げ
た。園芸や野外の植物への愛好が広がった。植物
への関心の高まりが植物画の掲載を中心とした雑
誌の誕生を生んだ。1787 年に出版されたその雑誌
は、途中何回かの中断はあったものの、現在にい
たるまで刊行が続けられている。最初の刊行者の
名前を採って、今日では『カーチスのボタニカル・
マガジン』と呼ばれるが、刊行の当初、「戸外あ
るいは温室で栽培される観賞用園芸植物を主体に
図解し、記述する」、という目的がタイトル・ペー
ジに記されていた。
2 百年以上を経て現在に続く雑誌を誕生させた
カーチス (William Curtis) の先見性は賞賛に値す
るが、この雑誌が植物画に及ぼし続けてきた影響
は計り知れない。大袈裟にいえば、この雑誌が後
の花の肖像画という植物画のスタイルを決めてし
まったといえるだろう。
『ボタニカル・マガジン』
が成功した理由は、すべての植物を彩色画で提示
●キンセンカ Calendula officinalis L. ( キク科 )。
ウ イ リ ア ム・ ジ ャ ク ソ ン・ フ ッ カ ー (William
Jackson Hooker) による。カーチスの『ボタニカル・
マガジン』、3204 図 (1832 年 )。
カーチスのボタニカル・マガジンを支え、その
継続に力を貸したフッカーはグラスゴー大学教授
から王立キュー植物園長になった植物学者だが、
植物画もよくした。この雑誌の普及に一役かった、
花を中心に置く花の肖像画としての植物画のスタ
イルがよく現われている。
したことであり、当時の一流の植物学者を執筆陣
に起用したことであったろう。それがため、この
物画の登場を待ち望んだことだろう。手による彩
雑誌は一般向きであると同時に専門家の間でも無
色ではあったが、ともかく原色画を出版した『カー
視できない存在となった。プロとアマチュアを区
チスのボタニカル・マガジン』が植物画へ及ぼし
別しないイギリスならではである。
た影響は衝撃的といってもよい。
さて、カラー印刷も未発達の時代にどうやって
モーツアルト誕生の 3 年後、文豪シラーとは同
原色図を製作したのかというと、これがすべて手
年の 1759 年にベルギーで生まれたルドゥーテは
彩色によっていた。輪郭線を印刷した原図に手で
植物画の大改革者であった。彼がパリで活躍した
絵の具を塗っていくのである。文字通りの手作業
のは市民革命と続くナポレオン帝政期である。ナ
であった。雑誌を手にした人々は本物と紛う植物
ポレオン妃ジョゼフィーヌがマルメゾン宮に蒐集
の姿に狂気したにちがいない。とかく人は色や香
したバラを描いたバラの画家としても有名だが、
りには眩惑されやすいものだ。
エーレット同様に当時の偉大な植物学者のドゥ・
印刷による植物画が普及したといっても、色の
カンドルと共働して植物画付きのモノグラフとも
ない線画から植物の緑の色合いや花色を想像して
いえる『多肉植物図譜』や『ユリ科植物図譜』を
愉しめる人はごく少数であり、大方は色刷りの植
著わした。
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科学的にも正確に植物を描いた絵画が広い意味
でのボタニカルアートである。こうした絵画は科
学的な要求に応じて描かれたものであったが、次
第に科学の分野を超えて愛好者の層が広がり、時
代が下ると植物画の掲載を主とする専門誌も誕生
し、やがて植物画家の個展も催されることになっ
た。その盛況ぶりはとりもなおさず、ボタニカル・
アートへの社会の大きな関心を表している。
ボタニカル・アートの人気は、あたかも実物を
見ているように描かれた植物画を楽しむことにも
あるが、鑑賞者も知っている植物を描き手がどの
ように料理したのか、その技の上手下手や創意工
夫をかなり客観的に批評できる点にもあるだろ
う。
以降のボタニカル・アートにとって重要なのは
個性の輝きだからだ。百花繚乱の趣を眼前にする
●ローザ・モリッシマ Rosa mollissima Willd. ( バ
ラ科 )。 ルドゥーテ画 . ルドゥーテ著『バラ図譜』
(Les Roses、1817-1824 年 )。
ルドゥーテの『バラ図譜』はナポレオン妃ジョ
ゼフィーヌがパリ郊外にあるマルメゾン宮に集め
た、ぼう大なバラのコレクションを克明に描いた
ものである。本書は 19 世紀初頭の多様な園芸バ
ラを知るうえでも貴重な文献である。スティップ
ル法を取り入れることで植物画から輪郭線がなく
なり、画面上の植物に精彩感を与え、生き生きと
描くことに成功している。
とき、その二千年にも近い長いアプローチの意義
も明らかである。25 万を超す多様な植物を人類が
完全に自家薬籠中のものとするのはまだまだ先の
ことではあるが、そのひとつとしてのボタニカル
アートはすでに技法を確立し、その膨大な試みに
果敢なる挑戦をしかけているのが、昨今の有様だ
と私には思えるのである。
おわりに
ここでみてきたように植物の視覚的理解が存外
彼は作品の仕上がりが一点一点異なる手彩色を
容易ならざるものであったことに気づかれたこと
嫌った。また、色塗りのためには欠かせない黒
であろう。聴覚のように時間の軸に沿って知覚し
い輪郭線も目障りだった。実際の植物に輪郭線が
たことを秩序だてていくことが視覚による知覚に
あるわけではないのだから、これはもっともなこ
は欠けるきらいがある。多様性への秩序的な理解
とではある。ルドゥーテは訪英中にフィレンツェ
はリンネの体系化まで待たねばならなかった。そ
生まれの彫版工バルトロッツィーから聞いたス
れが今日の系統発生に則した秩序立てにつなが
ティップル法で銅版多色刷り印刷を試みた。簡単
る。この時間軸に沿った視覚認知の理解は絶妙と
にいってしまえば、原画を線ではなく点によって
もいえる。が一方で視覚理解を超えたものである
製版し、多色刷りしても色が混ざり合うことを防
ところに無理もあるのである。植物をどのように
ぐことに成功したのである。かたちを色の点とし
理解するのかを考えるとき、植物画という視覚を
て捉えた点では画家マネーの作品や後のカラー印
通じての理解がもつ意義を改めて考えてみること
刷が重なる。スティップル法は画面から黒い輪郭
もあながち無意味ではないであろう。
線を一掃した。また、仕上がりは均一化し植物画
の印刷による普及に大きな力となったのは勿論で
(おおば ひであき 東京大学名誉教授)
ある。
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小石川植物園後援会ニュースレター
第 31 号
発行日
2006 年 8 月 20 日
発行者
久城 育夫
編集責任者 杉山 宗隆
編集担当
東馬 哲雄
発行所
小石川植物園後援会事務局
〒 112-0001 東京都文京区白山 3-7-1
国立大学法人東京大学大学院理学系研究科
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©2006 小石川植物園後援会
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