視覚テクストの「読み」

17W-01
視覚テクストの「読み」-ザンジバルの土産絵-
Reading of visual texts: Souvenir paintings in Zanzibar
小田 淳一
Jun’ichi Oda
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
Research Institute for Languages and Cultures of Asia and Africa, Tokyo University of Foreign Studies
1. はじめに
2008 年の盛岡から開始された「勝手読み」を巡るワークショップが拠って立つ Credo の一つは,岩垣守彦氏
が[三宅他 2008]の中で次のように端的に示している通りである.
しかし,「読む」という行為は,本質的にいって,作者に「肉薄すること」ではなく,作者がどのような意図で
創ろうとかかわりなく,読者が「言葉」を読むということであり,それは「言葉」に対する読者の内的資源で勝手
に「イメージ」を組み合わせて感動するということである.
これは,例えば[Scholes 1989]が長々と述べていることを簡潔かつ,より汎用的なヴァージョンにしたものであ
ると言える.スコールズは「読み」と間テクスト性との不可分性を出発点として,「読む」行為を「能動的読者が支
配する間テクスト的プロセス」と定義しつつ,対象テクストと自分が持つテクスト体系との接続を最重要の問題と
する.つまりテクストの読みとは,「記憶の中でテクスト化されている記号を検索し,眼前のテクストを古いテクスト
に関連付ける」ことであり,岩垣ヴァージョンの「内的資源」とは,スコールズの「自分が持つテクスト体系」或い
は検索対象となる「テクスト化されている記号」と,そして「イメージの組み合わせ」は「テクストの関連付け」とほ
ぼ等価であろう.ただ,ヨーロッパのテクスト理論を英語圏に紹介するスコールズのような研究者は,風土的影
響によるのであろうか,「読み」の及ぶ範囲を「我々の生というテクストの中で書き換え,我々の生を書き換えて
いく」ことにまで拡張する.また,「詩人は作品を放り出し,読み手が残りの作業を引き受ける」という詩ジャンル
についてのやや修辞的な言説は,マラルメに代表される,言語の不完全性に抗しようとするクラテュロス的意識
の強い孤高の詩人たちにとっては寧ろ余計なお世話に過ぎないものだろう.
一方[Eco 1979]は「読み」を,テクストが語らないものをテクストから引き出して空所を埋める「共同作業行為」
と定義し,「テクストに存在するものを間テクスト性の織物へと連結する」というこの共同作業こそがバルトの「テク
ストの快楽」に至るとする.スコールズよりもそのダイナミズムにおいて圧倒的なエーコは更に,物語ジャンルに
限定することを断りつつ,「解釈の運命が自らの生成メカニズムに属するはずの所産」であるテクストが,「読者
の共同作業を自らの顕在化の条件として要請」し,従って「書き手はテクストの顕在化に共同作業し得るモデル
読者を予想」するとして,テクストの「開かれ」の実用論的体系論を展開する.
織り上げられたるもの(textum)としてのテクストは,ヤーコブソン詩学を些か強引に敷衍すれば,選択軸上で
選択可能な要素のうちから選択された要素が連辞軸上で連結されたものである.グループμは受容の観点か
らは,詩的事象を惹起する偏差の知覚は連辞上に,偏差の還元(理解)は範列上に位置付けられるとしている.
テクストそのものが畢竟,機織機に比するような機械論的結合術(ars combinatoria)の産物であるとすれば,そ
の網目を「読む」こととは,知覚と理解の総合,つまりは,連辞軸と範列軸が交差する参照点の同定/照合作
業となる.ラテン語の「読む legere」が原義としては「拾う」であり(デリダは知覚をそれ自体一種の読みとしてい
る),「理解する comprehendere」が同じく「(ひとまとめに)掴む」であることは,拾い集めたものを掴み上げるとい
う動きとしての「読み」が持つ意味場において,幾つかの意味素,例えば《渇望》や《真摯》を少なくとも強調する
だろう.勝手読みとは,連辞軸と範列軸の巨大なマトリックスの中で浮遊しつつ,手持ちの測定デヴァイスを頼り
に行う孤独な照合作業という面もある.
音楽や映像などの時系列芸術ではない視覚テクストについては,連辞軸と範列軸の捉え方が困難ではある
ものの,読み手の内的資源に含まれる「イメージ」が言語化されることなくそのまま接続することによって,その
「読み」は寧ろ,より快楽的になるかも知れない.本論考は,送り手のメッセージが言わば欠失しているような視
覚テクストであると見做し得るザンジバルの土産絵を対象に,グループμのイメージ分析モデルの幾つかを援
用しつつ,それらの「読み」の可能性を勝手に試みる.
-1-
2. ザンジバルの土産絵の視覚記号論
ザンジバルのストーンタウンの土産物屋には特徴的な絵が溢れかえっている.土産物屋で売られていること
からわかるように,地元の住民は外国からの客人に贈るという稀な場合を除いて,それらの絵を買うことはまず
ない.絵には明らかに幾つかの異なる様式が認められるが,同じ様式のものでも絵によって配色やモティーフ
が少しずつ違う.描かれているもので目立つのは,簡略化を含むデフォルメが為された「動物」或いは「人物」
であり,それらのミメーシス的図像記号は,アフリカ芸術が非アフリカ人の受け手から一般に期待されている《素
朴さ》,《力強さ》,《生命の充溢》等々の共示的記号内容を含む.ここでは誇張法はデフォルメの常套的手段
であり,マサイ族やキリンは時に異様なほど細長く描かれている.「歴史的」に最も古い様式は,創始者の名を
取って「ティンガティンガ」と呼ばれる,色彩豊かで一見漫画的な動物絵であり,1960 年代後半にタンザニア本
土の南部に住むマクワ族のティンガティンガが始めたものである.ティンガティンガの殆どが動物のみを描くの
に対して,店に並んでいる量でティンガティンガを圧倒している絵はマサイ族を題材としたものであり,ありとあ
らゆる描き方が用いられている.この,ザンジバルで取り分け目にすることの多い 2 種の視覚テクストを読む際
に,グループμのイメージ体系モデルは内的資源を補強(偏向かも知れないが)する起点となり得るだろう.
2.1 グループμのイメージ体系
グループμは視覚メッセージの記号論及び修辞学を構築する際に,記号の 2 面性をイメージの体系にも適
用して,ミメーシスに関わる「図像」の次元と,絵画性の実質に関わる「造形」の次元を区別する.即ち,図像が
イメージの記号内容面であり,造形がイメージの記号表現面という関係性である.また,イメージの修辞学が対
象とする基本的領域として,それぞれの次元の下位レヴェルにおいても記号表現/記号内容を対応させ,図
像記号内容/図像記号表現/造形記号内容/造形記号表現という 4 項を設ける.
2.2 土産絵の図像記号
図像記号の観点から見た場合,ティンガティンガでは比較的多くの種類の動物が同様の様式で描かれてい
るのに対して,マサイ絵では,マサイ族のみが多くの種類の様式で描かれている.静物画の範列的イゾトピー
を実現するのは,意味素《無生》によって記述可能な対象が反復されることであるが,ティンガティンガが意味
素《動物》を持つ対象の反復であることは明らかであり1,また,動物たちの特徴的な「目」は一種の図像的韻と
でも呼べるものだろう.
一方マサイ絵は,確かに範列的イゾトピーを明らかに示してはいるが,特定の意味素を持つ対象の反復とい
うよりも(意味素《マサイ》によって指示される対象[マサイ族]の反復というのはトートロジーである),構図として
は,マサイのスタンプを数多く押したような,或いは切り口が展開された金太郎飴のような絵が特に多い.図像
記号面の分析を嘲笑うかのようなこの種のマサイ絵が示すウルトラ・イゾトピーは,ティンガティンガがその誕生
以来現在までほぼ同じ様式と描画法を一貫して実践しているのとは異なる事情に因っている.実はマサイ絵の
殆どは,クスワ2という名の,ティンガティンガと微妙な関係にある一方で,現代美術様式とも浅からぬ縁を持つ
ひとりの画家が 2002 年に本土からザンジバルに呼ばれたことを機に,クスワが描いていたマサイ族の村の風景
からマサイだけを抽出した絵が「大量発生」したもので(最近ではクスワ本人も「抽出ヴァージョン」を自ら描いて
いる),しかもそれにも後述するような「変種」が生み出されている.
ティンガティンガとクスワ系のマサイ絵との差異は,図像記号面では動物/人物というモティーフそのものの
違いやデフォルメの仕方(約言すれば前者はやや漫画的で後者は幾分現代美術風であると言えよう)などに
見られるが,マサイ絵の epidemic を引き起こした決定的な要因は,ティンガティンガがブラシ(筆)を用いるのに
対して,クスワ系のマサイ絵は(ペインティング)ナイフのみを用いることにある.つまり,ブラシよりもナイフの方
が(絵の抽象度が高いほど)描くのに容易であり,またマサイの「抽出ヴァージョン」は相対的に短い時間で描け
るために数をこなすことが可能となり,その結果模倣する者が一挙に増え,模倣の過程で変種も現れたのであ
る.要するに,マサイ絵の epidemic とは,マサイという図像記号よりも寧ろ描画法と(従って用いられる素材とも)
深く関わっているのであり,マサイ絵の読みをここで図像記号から造形記号の観点に移行することが可能となる.
2.3 造形記号の規範と逸脱
グループμが造形記号における規範と逸脱のシステムを考察する時に,まず規範としたのが,造形記号表
現の「素材」のイゾトピー(等-素材性)と,「変移性3」のアロトピー(異-変移性)という 2 重の規範である.ここ
1
ティンガティンガはモジュール画とでも言えるもので,約 30 センチ四方の絵が単位となり,1 単位=1 枚のこともあるし,1
枚に多くの単位が含まれる場合もある.従って,その範列的イゾトピーはジャンルとしても,また多くの単位を含む「1 枚」の
絵についても実現されている.これはグループμが試みている「枠の修辞学」の格好の分析対象であるかも知れない.
2
クスワ(或いはキスワニタ)はアフリカ本土のタンガニーカ湖近くの出身で,父と叔父が現代美術を制作していた.普段は
ダルエスサラーム郊外にある「ティンガティンガ村」の門の「外」でマサイ族の村の風景を描いており(門の「内」側ではティ
ンガティンガのみ描かれる),その様式は或る種の SF コミックの筆致と似ていなくもない.
3
「変移性 gradation」に対して,筆者は今まで「漸進性」という訳語を充ててきたが,色や線の分離可能性をより明確に示
すと思われる「変移性」に替える.
-2-
での「素材」は現象学的意味における素材そのものであり,「変移性」とは表現素材の現働化における或る種の
対立を示し,同一の造形的「場」において色彩や線等について 2 つの部分を「分離」出来る時に,変移性が存
在するとされる.この規範モデルに最も近いものは記録写真であり,その造形記号は臭化銀の有無だけに基
づくために等-素材性を示し,また写真は,図像記号の認識レヴェルのみにおいて色や線の変移性分布を示
すので,造形記号自体は異-変移性を示している.修辞事象とは規範に対する逸脱であるというのがグルー
プμのドグマであるが,「等-素材性」+「異-変移性」という造形記号の規範に対する逸脱は,理論上次の 3
種である.
「等-素材性」+「等-変移性」
「異-素材性」+「異-変移性」
「異-素材性」+「等-変移性」
写真と同様の「等-素材性」については比較的容易に理解することが可能であり,次のヴァザレリの構成や
ラースロー・モホイ=ナジのフォトグラム作品4などは一見して等-素材的であると認識出来る.また,「等-変
移性」に関しても,特にヴァザレリの例では顕著であり,同一の造形的「場」でシマウマを浮き上がらせている部
分と周りの部分が「線」について分離可能である.
ヴァザレリの Zebra
ラースロー・モホリ=ナジのフォトグラム
「異-素材性」+「異-変移性」を示す作品の場合,「異-素材性」5についてはコラージュでお馴染みであ
る.次のピカソのパピエ・コレ(papier collé)6やシュヴィッタースのコラージュ作品は,異なる素材を貼り合わせて
いるので当然,異-素材的である.また,色彩や線の分離が認識可能な部分は,上の例と異なり同一の造形
的「場」ではないため,異-変移的である.
ピカソのパピエ・コレ
クルト・シュヴィッタースのメルツ画 305
4
フォトグラムは印画紙上に「直接」被写体を載せて感光させることによって作られる.
グループμは造形記号の「異-素材性」を拒むコラージュの例として,マックス・エルンストがコラージュを「写真」に撮っ
た作品を挙げている.つまり,写真になったことで元のコラージュの「異-素材性」が「等-素材性」に変わる訳であり,逸
脱の逸脱が規範に近い例のひとつである.これは,或る詩の統辞上の違反=逸脱(詩句末と統辞上の句読との不一致)
が,その詩に旋律を付けた作曲家が「勝手に」同一楽句内に収めることで,違反が規範に戻る場合と比較し得るだろう.
6
パピエ・コレは様々な種類の紙やそれに類した薄片を貼り付けることによって作られる.
5
-3-
「異-素材性」+「等-変移性」を示す作品としては,次のイジー・コラーシュのコラージュが挙げられる.こ
れは 2 つのタイプのアロトピー(つまり素材的に異なり,変移性を示す)を累積したもので,図像の次元での断
絶が明らかとなり,それによって素材的コラージュと造形的韻の効果が生み出される7.
イジー・コラーシュのコラージュ作品
2.4 マサイ絵の造形記号
グループμによる現代美術の「読み」はさて置いて土産絵に戻ると,マサイ絵の造形記号表現の(ここでも現
象学的意味における)「素材」で,様々な様式に共通しているのはペンキであるが(絵具のような高価なものは
使われない),マサイ絵が記録写真のように完全な「等-素材性」を示すとは言えないだろう.何故なら,マサイ
絵の中でクスワ系ではない絵の中には描くのにブラシを用いるものもあり,ナイフ・ペインティングとブラシ・ペイ
ンティングとでは,ペンキに混ぜるものが異なる.具体的には,ナイフ絵ではペンキにグリスを混ぜて塗料を重
めにし,ブラシ絵ではペンキに灯油を混ぜて相対的に軽めにするのが通例である.
つまり,見掛け上の「等-素材性」の背後には,用いる道具に関わる素材の微細な相違が存在しており,グ
ループμが用いている,表現素材に関わる現象学的な「素材性」という一元的な概念は,コラージュなどの現
代美術の「読み」には有効であるかも知れないが,少なくともマサイ絵にはそぐわないだろう.しかしながら,マ
サイ絵の制作においてはいずれにしても描画法が関与的であるので,マサイ絵の造形記号に関わる何らかの
概念体系を新たに定義しなくてはならなくなる.
グループμはイェルムスレウによる言語の 3 項(素材/形相/実質)を図像/造形の次元に適用させようと
する際に,「原初的マグマのような不定形の塊である素材が,恣意的に形成され,切り取られて実質が生み出
される」という関係から,既に述べたように造形記号については,「素材」及び,それと区別される「形相-実質」
の全体を表す概念としての「変移性」という 2 項を対応させた.つまり,不定形のマグマ=素材に対して変移を
分布させるのが等-変移性である.ここで,マサイ絵が「素材」を切り取って造形記号を生み出す時に介入する
のが「道具」の 2 項対立8,即ち「ブラシ性」/「ナイフ性」9である.
グループμはまた,造形記号内容の自律性を示すために,造形的なるものにおいて作用する「色」「形式」
「空間性」という 3 系列の「軸」を導き出し,それぞれの軸上,或いは異なる軸上への変移性の関与によって造
形記号内容がイメージとして出現するとしている.それらの軸のうち,まず「色」を基点とすれば,マサイ絵の色
彩には「等-多色性」(本土のクスワによるものや,ザンジバルのブラシによるもの)と「異-多色性」(サンジバ
ルのナイフによるもの)の対立が明確に認められる.これによって,「異-多色性」を示すナイフ・ペインティング
のマサイ絵に多い赤や黒がどのような造形的意味素を有し,他の 2 軸(形式と空間性)とどのような距離関係に
あるかを観察することが可能となる.
このことは,3 角形,4 角形,円などの「形式」の軸,及び相対的な長さや大きさに関わる「空間性」の軸をそ
れぞれ基点とした場合についても同様である.例えば,「形式」軸を基点としたマサイの顔の部分(クスワでは楕
円に近く,ザンジバルでは楕円よりは円に近い)と「色」軸(多色性の差異)との関係性,或いはまた,「空間性」
7
「視覚」に関わる一種の無意図的陥穽とも言えるのであるが,ここで挙げたすべての作品の「画像」自体は,実物を写真
に撮ってデジタル化したものであることから,造形記号レヴェルでは必然的に,規範である「等-素材性」+「異-変移性」
を示している.
8
「道具」については,グループμ風にイゾトピー/アロトピーの体系である「等-道具性」/「異-道具性」という対立も考
えられるが(他所では恐らく利用可能だろう),本論考は厳密な体系化を目指している訳ではないので,具体的な道具の
2 分法に拠る.
9
2 つの道具の用い方の共通点はペンキを「塗る」ことであるが,ナイフ・ペインティングによるマサイ絵の下位ジャンルとし
て 2006 年に,カンバスの大部分に予め下塗りをしてその上からナイフでマサイを「削り出す」技法が現れた.従って,ナイ
フの用い方には実際には「塗り」/「削り」という下位の 2 項対立が存在することになる.因みに「削り」絵の図像記号として
は,やや写実的なものと抽象画並みのデフォルメを施されたものに分かれている.
-4-
軸上で造形的意味素《長い》が強調されているマサイ絵がどのような色彩によって描かれているかなど,これら
の 3 軸間相互の調和や隔たりをひとつのシステムとして捉えることが出来るのである.但し,これらの軸上でマ
サイ絵の造形記号内容を的確に記述するにはより精密な読みが必要となることは言うまでもない.
最後に,本来は図像の次元に関わるが,同じイゾトピー/アロトピーの対立としてここでまとめて挙げておく
のが「等-変形性」と「異-変形性」である.これはデフォルメの度合いを敢えて示すことを試みるものであり,あ
くまでも直感的(即ち,幾らか恣意的)な区別にならざるを得ないものの,造形記号次元の対立構造との関連を
考慮して用いる.
2.5 土産絵の主要 2 種におけるイゾトピー/アロトピーの体系
次の表は上で述べた,造形記号及び図像記号に関わる 2 項対立を,ザンジバルの土産絵の多くを占めるテ
ィンガティンガとマサイ絵について対応させた一覧である10.
ティンガティンガ
道具性
多色性
変形性
ブラシ
等
異
マサイ絵
(クスワ系)
ナイフ
等
等
マサイ絵
(非クスワ系)
ブラシ
異
等/異
マサイ絵
(クスワの抽出)
ナイフ
異
等
ここに同じ組み合わせの絵がないことは,後述する「介在者」が(明確に意識しているか否かは別として)商
品のヴァラエティーを考慮して偏らないように操作していることに因る結果であると思われる.この表中に存在し
ない組み合わせのうち,ブラシによって描かれ,等-多色性,等-変形性を示す絵は別ジャンルとして存在し,
後述する「アフリカン・ダンス」がそれに該当する.そして,ナイフによって描かれた絵で,異-変形性を示すも
のはまずないと言えよう.何故ならば,異-変形性は自ずと写実性を意味し,ナイフによって写実性を実現させ
る「技量」がナイフの使い手にはないからであると推測される.
以上は,グループμのイメージ体系モデルの一部を,ザンジバルの土産絵のうち,ティンガティンガとマサイ
絵に対して(勝手に)援用した考察であるが,この主要 2 種(及び下位種)が,その描画法の差異においてマク
ロな調和を示していることは実は予想していなかった.従って,この調和が,後述する他の観点による土産絵の
「読み」においても,何らかの意味かつ別の形で保持されているとしても,それ程驚くべきことではないだろう.
3. ザンジバルの土産絵の「物語」的諸相
盛岡のワークショップにおいて[阿部 2008]は,「アボリジニが 80 歳を過ぎて筆を持ち、具象画ではなく、抽
象画とも思われる絵画を製作している」というエミリー・ウングワレーの物語,或いは「現代に於いて売れるとは
何かを考え、それに従って作品を製作」する村上隆などを挙げつつ,作品の付加価値としての「物語性」を指
摘している.グループμの視覚記号論モデルを遠く離れた以下の諸々の付加情報は,ザンジバルの土産絵に
関する,恐らくは読まれることのない物語であるが,一方では記号論モデルの仮説を補強するものであるかも
知れない.
3.1 介在者の存在
[阿部 2008]が指摘している,作品を創る「介在者」の存在は,ザンジバルの土産絵については自明の事実
である.つまり,殆どすべての土産絵は,鑑賞者(買い手)の購買動向を「読む」介在者(土産物屋の売り子或
いは店主)が発注することに「のみ」よって制作されるのである.買い手が買わないものは発注されないので,
結果的に土産絵は鑑賞者によって創られているとも言えよう.発注される土産絵の種類は概ね次の通りである.
尚,付記されているスワヒリ語の表記については揺れがあるために確実ではない.
ティンガティンガ
tingatinga
ナイフのマサイ
kis-masai
ブラシのマサイ
brashi-masai
魚 samaki
アフリカン・ライフ
アフリカン・ダンス
maisha ya afrika
ストーンタウン(街並み)
stonetown
ダウ(船)dhow
村の風景
kijiji
ザンジバル・ドア
抽象画
10
ティンガティンガの変形性については等-変形性と解釈することも可能であるが(特に鳥類について),全体的に見て,
それ程顕著な変形性を示すとは思われない.また,マサイ絵(非クスワ系)の変形性が「等/異」であるのは,双方に該当
するものがあることを示している.尚,ナイフのマサイ以外の土産絵はすべてブラシで描かれる.
-5-
ナイフのマサイの下位種である「削り絵」(注 9 参照)は,或る描き手がアフリカン・ダンスの一部の箇所で試し
たところ,その絵がよく売れたので,売り手が「売れる絵」として認識して発注を増やし,その結果この新しい手
法を他の多くの描き手も真似るようになった.「抽象画」は,在庫 300 点程度の店で 2~3 枚あるかないかという,
大まかにみて全体の 1%程度の量であるが,少なくとも需要があることは確かである.
これらの絵が土産物屋に並ぶには,店が画家に発注し,描き手は注文に応じて制作するが,指定された種
類の範囲内で構図,配色などを変えて描く.描き手からの仕入値は絵の種類を問わずサイズで一定となって
おり,30 センチ四方で約 2000~3000 タンザニア・シリング(2 ドル前後,つまり 200 円程度)である.店頭での
売値は欧米の観光客を相手に約 10 倍の 20 ドル程度が付けられるが,実際の価格は勿論交渉次第である.
また,描き手と店の間で売買が成立した後は,絵は事実上,店の所有物となるので,時折,描き手の署名が
売り子か店主のものに書き換えられることがある(但し,他の描き手の署名にはされない).これは,売り子=店
が「いい作品」に自らを刻印し,「署名」された名前を買い手に覚えてもらうためであり,これについて描き手は
一切文句は言わない.このように,ザンジバルの土産絵においては「売り子」が目的因に全面的に関与してい
ると言えるのであり,[阿部 2008]における介在者としての編集者或いは出版社に該当するだろう.
3.2 描き手たちとその移動,内と外
ザンジバルの土産絵の描き手の多くは,実際には本土から渡って来た,「観光業」に従事する出稼ぎ労働者
である.彼らは,本土よりも稼ぎがいいはずのザンジバルに自らの意思で来たり,或いは土産物屋に呼ばれて
「出張」し,滞在して絵を描く.ザンジバルにいる描き手は現在 100 人以上と思われるが,雨季のローシーズン
には本土に戻る者が多く,一方乾季のハイシーズンには,ストーンタウンには来ないで,注文を出した店がある
ビーチリゾートと本土との間を直接往復する者もいる.
ひとりの描き手は通常 2~3 種類の絵をレパートリーとしているが,種類は勿論描き手によって異なり,「ドア」
しか描かない描き手もいる.地元ザンジバル人のチュム MChum 氏はブラシのマサイを得意としているが(非常
に洗練された筆致である),ティンガティンガも描き,モジュールのひとつにマサイのアフリカン・ダンス(maisha
ya masai)をさりげなく含めるという洒落たセンスの持ち主である.本土から 4 年前に渡って来てチュム氏と同じ
「工房」で制作するカウ Kau 氏はナイフのマサイが主で(「削り」も制作する),ブラシの「ドア」も描くがティンガテ
ィンガは描かない.
ブラシで描くティンガティンガは用いる色ごとに乾かす工程を繰り返すので 1 枚を完成させるのに最低でも 3
日程度はかかる上,等-多色性が示す通り,色の異なるペンキが必要である.一方,ナイフのマサイは描くの
が最も容易で 20 分もあれば 1 枚を描ける11.ティンガティンガとナイフのマサイの両方を手掛ける描き手にとっ
て,ナイフのマサイは手っ取り早く稼ぐための言わば賃仕事であるが,彼がティンガティンガも描くのは,別にア
ーティストとして作品の質に拘泥している訳ではない.ティンガティンガは制作に時間がかかるものの,描ける
人間が相対的に少ないため,貴重なレパートリーとして発注が来る可能性がその分だけ高いという理由による
のである.
このように,本土とザンジバルや他地域の間で描き手が売り子の要請などによって移動を繰り返す過程で,
ナイフのマサイのように,本土から渡って来た等-多色的作品の異-多色的変種がザンジバルで大量発生し,
それによって本土でも売れるようになるという現象は,本土のティンガティンガ村の「外」で描かれていたクスワ
によるナイフのマサイが,内地(大陸本土)から外地(ザンジバル)に渡り,変種として再回付されるというダイナ
ミックな相互回付の「物語」であると言えよう12.しかし次に述べるように,制作及び販売の双方で移動することの
ない,ザンジバルの「内側」で完結する土産絵の物語も存在しているのである.
3.3 もうひとつのザンジバル絵画
ザンジバルには JICA の援助によって建てられた Nyumba ya Sanaa(アートの家)という,デザインやデッサン
を教える施設がある.但し,そこで教えられ制作されるのは西洋スタイルの写実的絵画に限定されている.ザン
ジバルではそれらの絵も土産絵として売られているが,「出稼ぎグループ」の絵と区別するために,ここでは「ロ
ーカル画派」13の絵と呼ぶことにする.
ローカル画派の描画法上の特徴は,時間をかけて多くの絵具を使って制作することにあり,(確認はしてい
ないが)まともな筆でまともな絵具を用いているようである.描かれているものはダウ船,ストーンタウン,ドアなど
が主で,それらを描いた水彩画もある14.ローカル画派は,一般の土産物屋には絵を卸さないで系列店にのみ
売り,それらの店はザンジバルに 5~6 軒程度存在する.絵の価格も出稼ぎグループの土産絵と比較してかな
11
既に述べた通り本土のナイフのマサイでは使われる色の種類が多いのに対して,ザンジバルで描かれるものは,線の
配色はせいぜい黒と赤で,背景色は白か,或いは夕陽を表した赤とオレンジである.その理由は至って単純で,描き手が
多くの色のペンキを買わない(或いは買えない)ことと,色が多くなると配色が難しくなるからである.
12
日本における同種のジャンルである大津絵や長崎土産絵,或いは江戸泥絵の描き手との比較は興味深いものとなろう.
13
ローカル画派は元々ひとつのグループであったが,現在は分かれており,またそれらの描き手のすべてが必ずしも「ア
ートの家」で学んだとは限らない.
14
ローカル画派の絵は当然,ブラシ性,等-多色性,異-変形性を示す.
-6-
り高価であるが,描き手たちは(教育機関で美術を学ぶことが可能な階層であることからも推測出来るが)売れ
ることにそれほど拘らないという話である.
興味深いことに,上で述べたような,一般の土産物屋が出稼ぎグループに発注するダウ船,ストーンタウン,
ドアなどの絵は,実はローカル画派が描いたものを出稼ぎグループが「模倣」した絵である.両者の違いは,大
抵の場合絵を比較すればすぐにわかるが,中にはわかりにくいものもあり,その場合はカンバスを見ることで判
断がつく.つまり,ローカル画派の作品の方が,質の良い厚いカンバスが用いられ,しかも裏側の画布が木枠
にしっかり留められているのである.
ローカル画派の土産絵の存在は,本論考で試みた視覚テクストの「読み」においては奇貨としての価値があ
るように思える.と言うのも,ナイフのマサイのような絵は,或る意味では共同作業行為にも似た模倣によって変
種を生み出すことが可能な「開かれ」を顕現していると解釈出来る一方で,ブラシを用いて写実的技法によって
描かれたローカル画派の絵は,恐らく「開かれ」てはいないと解釈出来るからである.
4. おわりに
本論考は 2009 年 2 月 4 日~26 日に 2 つの科学研究費補助金[基盤研究 B「イスラム世界の形成過程に
おけるアラブ音楽創出メカニズムの解明」(代表:兵庫教育大学名誉教授水野信男),萌芽研究「計量修辞学
による文彩の情報学的分析」(代表:東京外国語大学准教授小田淳一)]の連結執行によって,ザンジバル島
(タンザニア)で行われた調査の期間中にまとめたものである.
当初はそれぞれの科研の調査目的である音楽テクスト及び民話テクストを対象とする「読み」を扱う予定であ
り,両テクストについて或る程度の量の資料は収集したものの,今回のワークショップでの報告は断念せざるを
得なかった.ザンジバルのアフロ・アラビック伝統音楽であるターラブ Taarab は,楽団自体の演奏は興味深か
ったものの,情緒過多の歌詞及び歌い手にはどうも馴染めなかったし,東アフリカ地域の音楽を中心として年
に一度ザンジバルで行われる音楽祭 Sauti za Busara では(素晴らしい演奏家も出演したが),若者向けの大仰
なアフロ・ポップや DJ が多かったことや,随所に見え隠れするヨーロッパ系スポンサーの様々な意図に辟易し
たことなどが,音楽テクストの「読み」を諦めた理由である.民話テクストの方は,多くのインフォーマントが主に
スワヒリ語で語ったため,「読む」に足る量のテクストを筆者が解読可能な言語へ翻訳してもらう時間がなかった.
そのような中で,現地の土産絵を数年来調査されている京都大学大学院の井上真悠子氏(筆者の元同僚の
弟子である)と街中で偶然出会い,氏の案内で炎天下の猛暑の中を多くの土産物屋や工房を訪ね回って幾つ
かの情報を得ることで,ワークショップのために「読む」テクストを土産絵に決めた次第である.聞き取り調査の
過程で最も印象に残ったのは,多くの描き手の意識の中では artiste(芸術家)ではなく artisan(職人)が優勢で
あるということである.職人が作り上げるものの中に,自意識過剰の芸術家が押し込もうとする半端なメッセージ
よりも遥かに詩的なメッセージを読んでしまうことがよくあるが,それも個人的内部資源の偏向による勝手読み
の一例であるかも知れない.
本論考はまた,筆者が[小田 2007]で素描しか出来なかった(と同時に浅い読みであった)グループμの視
覚記号論への言及を改めて試みる契機ともなった.グループμは時に衒学的な読みを強調する嫌いはあるも
のの,インド洋西端の島で大量に制作される(最後まで「製作」という語を使用しなかったのは描き手たちへの
オマージュである)土産絵を「読む」際にも彼らのモデルが或る程度(批判的にであるが)使えることが確認出来
たのは収穫である.
謝辞
ザンジバル調査において,現地在住の言語学者である宮﨑久美子氏(東京外国語大学アジア・アフリカ言
語文化研究所共同研究員)から,通訳を始めとして,音楽祭のチケットの手配やインフォーマントとの連絡,そ
の他ロジスティック全般に亘って多大なご協力を得た.また前述した通り,京都大学大学院アジア・アフリカ地
域研究科博士課程の井上真悠子氏からは土産絵に関わる詳細な情報を得た.末尾ながら両氏に厚く御礼申
し上げる.
付記 1
本論考におけるザンジバルの土産絵に関する記述は,井上氏からの情報や参考文献で挙げた氏の報告要
旨,更には筆者が単独で行った聞き取りを元にしたものであるが,誤記や錯誤等については筆者が全責任を
負うものである.また,研究対象に関する井上氏のプライオリティーを明示かつ尊重するために,本論考では土
産絵の実例を一切示さずワークショップ当日に幾つかの例を呈示することとした.土産絵の詳細については
『アフリカ研究』に投稿された井上氏の論考(現在査読中)を参照されたい.
付記 2
本論考は,平成 20 年度科学研究費補助金(萌芽研究)「計量修辞学による文彩の情報学的分析」(代表:
東京外国語大学准教授小田淳一,課題番号 18652014)による研究成果の一部である.
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参考文献
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