通りすがりの王子 - タテ書き小説ネット

通りすがりの王子
清水 春乃 (水たまり)
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
通りすがりの王子
︻Nコード︼
N3418BJ
︻作者名︼
清水 春乃 ︵水たまり︶
︻あらすじ︼
2013年7月アルファポリス様にて、書籍化されました。応援
いただきましてありがとうございました。
書籍化に伴い本編と外伝・番外編一部を削除させていただきました
m︵ ︶m。
18歳の時、とある場所、とある状況で出会った自称﹁白馬の王子﹂
とは、﹁次に会ったときにお互い覚えていたら名乗る﹂と約束した。
入社式で再会したものの、王子は気付かない。まあ、私、変装して
いるしね。5年も経てば、時効でしょ?お互い、﹁はじめまして﹂
1
でノープロブレム・・・のハズ。
やたら自立志向のオトコ前お嬢を 王子になり損ねた御曹司が 最
後には白馬に乗ってお迎えにいくまで・・・。
書籍化に伴い削除したものの、割愛されてしまった部分を﹁その一
年のエピソード﹂として章立てして再掲載します。若干手を入れて
あります。
2014年5月、﹁通りすがりの王子2﹂刊行予定です。
2
業務連絡 そして 業務命令︵前書き︶
書籍ではだいぶ省略された、﹁会えなかった一年﹂のエピソード。
若干手を入れてありますが、再掲載です。
3
業務連絡 そして 業務命令
﹁スカイプとか?﹂
﹁アレが、仕事以外のことでパソコンに向かって話しているところ
なんて、想像できる?﹂
﹁ぶっ。ないね﹂
森瑞穂 突然の退職に、営業部はもとより社内は騒然となったが、
整然と整えられた、引継ぎの資料と、
一身上の都合による、突然の退職で迷惑をかけることを謝罪し、
後を託すと記された一筆が残されただけで、詳細は語られなかった。
しかし、彼が実は、森羅グループの後継者であり、
そこに戻っていったという話は、その数日後に、瞬く間に噂となっ
て流れ、
か
成程、あの態度といい能力といい、
それは彼の企業の跡取りたる所以のものだったか、と皆を納得させ
たのであった。
千速は何人かから、知っていたの?と興味本位に尋ねられたが、
曖昧に微笑んで、私もビックリ、と答えると、
やっぱりね、という顔で皆引き下がっていった。
千速を煩がらせた、瑞穂の取り巻きからの嫌がらせも、ぱたりと止
んだ。
︱︱︱去るものは日々に疎し。
多忙な日常に紛れ、やがて、それは過去の話題となっていった。
4
例によって、月曜の社員食堂である。
パソコンに向かって甘い言葉を吐く森 瑞穂︱︱︱実里は悶えて笑
っているが、
千速は、目を伏せて、
﹁そもそも、そんな時間が瑞穂には殆ど無いみたいだし、
お互いの時間を合わせることも、難しいもの﹂
と肩をすくめた。
実里が笑いを納め、気遣わしげに尋ねる。
﹁連絡もなし?﹂
千速はちらり、と視線を上げて返した。
﹁⋮⋮業務連絡のこと?﹂
﹁⋮⋮﹂
・・
あ、連絡は一応取れているのね、と実里は苦笑いした。
業務連絡程度ではあるが。
それでも、ほぼ毎日、瑞穂からメールは届いた。
どこそこに居る、とか、何を食べた、とか、何を見た、とか。
それからわかるのは、国内外を問わず、
もの凄い過密スケジュールで動いている、ということだ。
瑞穂が桜井商事を去って、約二ヶ月。
⋮⋮きちんと、休めているのだろうか。
・・・・
一方、業務連絡があってもなくても、
千速は毎日コンスタントにメールを送っている。
内容は、業務連絡に毛が生えたようなもの。
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それでもそれは、二人を繋ぐ、目に見えるたったひとつのものだと
思ったから。
お互いの存在を確かめ合う、簡潔すぎる内容のメール。
読む人がいたとしても、これが恋人同士のやりとりとは、思いもし
ないだろう。
﹁⋮⋮会いに行けばいいのに﹂
そんなに、淋しそうな顔をするくらいなら、と実里は思う。
千速は首を横に振る。
﹁行かない。まだ、瑞穂の立場は万全じゃないもの。
何が原因で足元を掬われるかわからない﹂
﹁そんなもの?﹂
﹁そんなもの﹂
ふーん、と実里は納得しがたそうに相槌を打ち、
﹁じゃあ、そんな顔するな﹂
千速の額を指で弾いた。
﹁忙しい毎日を過ごす合間に、律儀に業務連絡を送るオトコ心にも
っと自信を持ったら?﹂
・・
額を押さえて、千速が目を瞬き、くすりと笑った。
﹁業務連絡なのに?﹂
﹁それ以上のモノが送られてきた暁には、是非、私にも見せるよう
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に﹂
実里がニヤリと笑って言い、
﹁﹁ありえなーい﹂﹂
と、二人で笑い転げた。
* * *
瑞穂は多忙を極めていた。
父は、数ヶ月で社長復帰の予定ではあるが、滞らせるわけには行か
ない取引も多い。
しかも、社内においても、社外においても、
名代として動く、瑞穂の足元を見るような扱いや、力量を試すよう
な駆け引きがあった。
それらを、力で捻じ伏せながら、ひたすら前に進む。
程度の差こそあれ、いずれこれらの状況には直面しなければならな
かったはずだ。
それが、少しばかり早まっただけ︱︱
緊張を強いられる毎日を、どうにかこなしている。
とはいえ、社内の動揺は治まりつつあり、情勢を掌握しつつあると
いってもよかった。
そしてまた、フォレストグループのクリスマスパーティーも、例年
通り開催された。
社長名代として瑞穂が立ち、陣頭指揮を執った。
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わずか二ヶ月であるが、実績を積み、名実共に、その存在を後継者
として認められつつあった。
本来ならば、千速を連れて参加するはずだったパーティーの後、
ときた
けいご
瑞穂は、既に終わってしまったパーティーの招待状に、
﹃来年は一緒に﹄
と書き記し、封筒に入れた。
封筒を秘書であり、従兄弟でもある 時田 恵吾に渡す。
﹁出しておいてくれ﹂
と言うと、怪訝そうな表情で
﹁終わった後なのに?﹂
と宛名をちらりと見、眉を上げた。
﹁そうだ﹂
﹁・・・了解﹂
この三つ年上の従兄弟は、自らも後継者たる資格があるにもかかわ
らず、
﹁俺は、一番より二番手の方が、実力を発揮できるタイプだ﹂
と言って、早い段階から瑞穂のサポートに回ることを公言し、
瑞穂のことを﹁若﹂と呼んでいた。
瑞穂の父が倒れたことによる突然の混乱にも、
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すぐさま瑞穂の元に赴き、そのフォローに奔走した。
二ヶ月で、ここまで情勢を掌握できたのも、彼のお陰だ。
多忙な瑞穂と常に行動を共にし、自らも多忙を極めている。
﹁ところで、若。パーティーの無事成功、おめでとうございます﹂
﹁いや。恵吾や協力してくれた皆のお陰だ﹂
満足そうに笑う恵吾に、瑞穂もふっと笑みを浮かべる。
笑みは、次第にニヤリとしたものに変わっていき、
取り繕った雰囲気は消えうせた。
﹁あの、爺どもの苦々しい顔を見たか?﹂
﹁散々足を引っ張った上に、成功を収められて、自分たちの存在意
義を失った﹂
ククク、と恵吾が笑う。
﹁あーすっきりした﹂
一緒に車に乗り、心地よい疲労感と共に帰宅の途につくと、
瑞穂のスマートフォンにメールが着信した。
﹃仕事納めの日に、部の忘年会があるの。今年は、ホテルで立食パ
ーティーだって﹄
千速からの定期連絡だ。
車内でメールを確認した瑞穂は、眉をしかめ、おもむろに電話をか
け始めた。
隣に座った恵吾が、おや?というようにとこちらを見たのがわかっ
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たが、気にしなかった。
﹁︱︱俺だ。酒は飲むな﹂
﹁久方ぶりに聞く第一声がそれなの?お久しぶり、瑞穂。元気かし
ら?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それに、お忘れかもしれないけれど、お酒の限度は仕込まれてい
ますから﹂
﹁仕込まれていてもだ。自覚がなくても、お前は酔っているだろう
が﹂
﹁⋮⋮そうだったかしら?﹂
瑞穂はちっと舌打ちする。
﹁今までは俺が目を光らせていた﹂
﹁そうなの?でも、須藤君もいるし﹂
﹁あいつじゃ、頼りにならないだろうが﹂
﹁⋮⋮若。着きますよ﹂
﹁あら、移動中なのね? 大丈夫よ、心配しないでも。
いつもの忘年会ですもの。じゃあね﹂
プツン、と切れたスマートフォンを瑞穂は睨み、
再び、別のナンバーに電話をかけ始めた。
﹁誠さん?瑞穂です。
仕事納めの日に部の忘年会があるとか。
誠さんも、営業管轄の役員だから出ますよね?﹂
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イライラと、指で膝を叩く瑞穂を見て、恵吾は益々興味を引かれた
ようだ。
﹁いや、そうじゃなくて。
行けませんよ、多分ドイツに行ってる。
実は、依頼したいことがあって。
加藤のことです﹂
瑞穂の実家の前に、車は停められた。
通話を続けたまま、恵吾の方を向き、
じゃあ、明日、と片手を挙げ、瑞穂は車を降りた。
* * *
﹁それで、何でこんな側にべったりなんですか?
お守りが必要な年齢じゃないんですから。
いいですよ、ほら、他の方々と美味しいお酒を召し上がって来て
下さい﹂
千速がウンザリした声で語った相手は、久世課長だ。
毎年恒例の部の忘年会。
成績優秀者の表彰があったりで、周囲は盛り上がっている。
﹁⋮⋮俺も、是非ともそうしたいところだが、引継ぎが来るまでは
責任があるからな﹂
﹁引継ぎ?﹂
先日、久々に瑞穂から電話が来たと思ったら、第一声が
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﹁酒を飲むな﹂
であった。
ふんっ!と千速は思う。
業務連絡の次は、業務命令ですか。
私は、瑞穂の部下じゃありませんから。
ええ、ええ、美味しくワインを頂きますとも!
手にしたワイングラスを傾けようとすると、
サッと横から手が出てきて、止められた。
﹁?﹂
手の主を見ると、桜井常務であった。
﹁⋮⋮常務?﹂
﹁遅いっ!俺の酒が無くなる。ほれ、姫は無事引き継いだぞ﹂
久世は唸るように言うと、人混みに紛れていった。
﹁あの?﹂
﹁依頼があってね﹂
ニンマリ笑って桜井が言った。
﹁いやー。楽しい。実に、楽しい。
何と、俺に女の見張りを頼んだ奴がいるんだ。
﹃酒を飲ませるな﹄だとさ﹂
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それから、背後に立った実里を振り向く。
﹁というわけで、ここからは谷口に交代。
お前、よく見張っておけよ。
全く俺まで巻き込んで、何なんだこれは。
加藤君は酒乱の気でもあるのか?﹂
千速のこめかみに筋が立った。
﹁⋮⋮あいつめー﹂
ぽん、と千速の肩を叩いた実里が、
﹁そういうわけで、じゃ、美味しいもの漁りに行こうか?これは︱
︱﹂
と言って、手にしていたワイングラスを取り上げた。
﹁ウーロン茶あたりに変更ってことで﹂
そして、千速に身を摺り寄せると囁いた。
・・・・
﹁業務連絡程度とかあっさりしてるなー、って思っていたけど
もの凄い独占欲の一端を垣間見た気がするわ。
いやー、わかってはいたけど、エライのに目を付けられちゃった
ねぇ、うっふっふ﹂
﹁何なのよ、もう﹂
膨れる千速を引き摺って、実里はブッフェコーナーに繰り出し
それとなく、近寄ってくる男共を、これまた、それとなく遠ざけ、
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八面六臂の活躍をしたのであった。
﹁今度、何か驕らせなきゃねー﹂
とハミングしながら。
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陣中見舞い
たかほ
年が明けて、瑞穂の父、貴穂も療養を終え、現場に復帰した。
とはいっても、体調を見ながら限定的に、ではあるが。
それに伴い、瑞穂は、営業本部長という正式役職名がついた。
﹁叔父さん、わざとですね﹂
不在の間の労をねぎらう叔父に、恵吾がさり気なく問い質した。
﹁わざと、瑞穂をひとりで放り出すようなことをしたでしょう﹂
貴穂は、さて何のことやら、と惚けたが、
﹁まぁ、どうにも立ち行かなくなったら出張るつもりでいたが、
私の後を付いて回らせるより、遥かに効果的に顔と実力が売れた
だろう﹂
とニヤリとした。
︱︱︱この狸め。
恵吾はピクリ、と口元を歪め尋ねた。
﹁⋮⋮失敗するかもとは、思わなかったんですか﹂
﹁それなりに、奴の実力を買っているからね。
まぁ、この程度で足を引っ張られてコケるようなら、器じゃない
ってことだ﹂
親というより、厳しい経営者の顔をちらりと見せて、貴穂は言い放
った。
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﹁それに、お前が付いていてくれるのがわかっていたからな﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁何だ。何か言いたそうだな﹂
お陰で、俺も瑞穂も えらい大変な目に遭いましたからね、と恵吾
は思う。
が、言っても詮の無いことだ。
この叔父は、承知で負荷をかけたのだから。
しかし。
﹁このままなし崩しに、瑞穂に権限委譲して、
華絵叔母さんと楽隠居、なんて許しませんからね﹂
﹁⋮⋮そんなことは、考えておらん﹂
いささか後ろめたそうな顔をして、貴穂は答えた。
﹁お前、可愛くないぞ。
そういうことは、わかっていても口にしないでおくものだ﹂
﹁引退するなら、どうしようもない爺どもに、
きちんと引導を渡してからにして下さいね。
順調に片付けても十年くらいですかね?
その間は、前面で活躍していただきますから、体調には充分留意
して下さいよ﹂
十年もか⋮⋮と呟く貴穂に、恵吾は容赦なく追い打ちをかける。
﹁もっと早く引退したかったら、瑞穂をさっさと一人前に仕上げる
んですね。
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能力的なものは、昨年の代理業務で、瑕疵なしと証明できたはず
です。
内部の不穏分子もあぶり出せたようですし⋮⋮﹂
叔父さん、この状況を利用したでしょう、と
恵吾は、叔父を冷ややかに見つめた。
﹁その辺りをさっさと掃除して、瑞穂の環境を整えてやって下さい。
⋮⋮ついては、社長﹂
・
ここで、カチ、と公のスイッチが入った。
﹁若を、新年の挨拶がてら、こちらのリストの経営者と
顔合わせさせてやって下さい﹂
﹁⋮⋮復帰したばかりの社長に対して、容赦ない仕事の振り方だな﹂
貴穂は苦笑して、リストの一覧に目を通すと、
﹁私の秘書にスケジュール調整させなさい。その際は、お前も同席
するように﹂
そう言って、社長の顔に戻り、行け、と手を振った。
* * *
﹃限定的ではあるが、親父が、無事復帰を果たした﹄
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瑞穂からメールが届いた。
﹃おめでとう。良かったね。瑞穂も体に気をつけて﹄
と返す。
少しは時間が出来たのかしら?
相変わらずの、業務連絡ぶりなんですけど。
そう思う千速であったが、
こちらも新年の挨拶に、父、兄と同席させられて、多忙な休日を過
ごしていた。
* * *
一方、瑞穂も父の側に控えて、新年の挨拶を受けることが続いてい
た。
似たような人脈に接するが、出会うことは無い。
しかし、お互いにお互いの、それとない噂を耳にするのであった。
﹁いや、復帰おめでとうございます﹂
で始まり、世間話のついでに
﹁加藤建設さんにもご挨拶にお伺いしましてね。
例年、社長とご子息のお二人でしたが、今年はご令嬢も同席され
ておられて。
あんなに美しいお嬢さんがいらっしゃるとは、存じませんでした
よ﹂
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などと耳にすること数回。
表情は変わらないものの、ピクリと反応する瑞穂に、
父と恵吾は気付いているだろう。
・
何故、今、表に出始めた⋮⋮
自分が身動きの取りにくいこんな時期に、と瑞穂は苦々しく思う。
﹃滝川重機の社長が、年明けの挨拶で千速に会ったと言っていた﹄
メールを送る。
﹃そう?面白い社長さんだった﹄
返信を見て、瑞穂は眉を顰める。
自分が聞きたいのは、そういうことではない。
﹃何故、同席をすることに?﹄
イライラしながら返信を待つ。
そしてまた、あっけない答えが。
﹃休日に秘書をわざわざ呼び出すのも可哀想だから、
お前が代わりにどうだ、どうせ暇だろう、と父に言われたの。
確かに暇だし︵笑︶﹄
千速の父の何らかの思惑もあるのだろうが︱︱︱
頼むから、自分が迎えに行くと約束した時まで、
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大人しく、ひっそりと、過ごしていてくれないだろうか。
余計な心配をしないで済むように。
しかも、自分の身にも、予想はしていたことであるが
様々な、そして巧妙なトラップが用意されることが増えた。
﹁是非一度、ご子息も交えて会食を﹂
などという誘いに、仕方なく父に同行してみれば、
先方には、社長令嬢が着飾って伴われていたりするのだ。
社長である父不在中も、滞りなく大企業の舵取りをこなした、
そんな実績が、将来有望な後継者、婿候補として瑞穂の名を高めた。
自分が、意図しない所で、憶測をたっぷり含んだ自分の噂が流れる。
恐らく、千速もそれを耳にしているだろうが、
それを問い質すメールが送られてくることはない。
それは、ある意味千速らしくもあり⋮⋮
・・・・
業務連絡は続く。
* * *
﹁ところで、瑞穂が面白いことになっているのをご存知ですか?﹂
恵吾が、貴穂に探りを入れた。
貴穂はふっふっと笑った。
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﹁お前も気付いたか﹂
﹁この所、表向き見せませんがイライラしています﹂
貴穂が、少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。
﹁私が倒れたせいで、瑞穂は獲物を狩り損ねているんだよ﹂
﹁⋮⋮獲物、ですか﹂
恵吾は、終わったクリスマスパーティーの招待状を手にしていた瑞
穂を思い出した。
パーティー前は、社内の重鎮達からも足を引っ張られることが多く、
自分も瑞穂も、肉体的にも精神的にも追い詰められていたように思
う。
思い通りに運ばない諸々に、イライラを募らせていた時だった。
夕飯をとる暇もなく、二人とも残業で遅くまで残っていたある日。
おもむろに引き出しを開けた瑞穂が、恵吾に向かって何かを放り投
げた。
肩に当たったそれを、拾い上げて見ると、紙に包まれたチョコレー
トだった。
キオスクで売られているような、個包装されて紙箱に入っているよ
うなもの。
﹁お前、酷い顔してる。
しんどい時ほど、この程度のこと何てことないって顔をしていろ。
俺たちには、これを乗り越える知恵も、力も、時間もある﹂
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そう言って、自分でもひとつ口に入れた。
あの瑞穂が、安物のチョコレートをデスクに常備とか?
﹁⋮⋮何でこんなもの﹂
﹁体が元気になると、気持ちも元気になるんだと﹂
恵吾も紙を剥き、口に放り込んだ。
じんわりと広がる甘みが心地よく、
確かに、体が糖分を求めていた、と訴えているようだ。
﹁誰が、そんなことを?﹂
同じようなシチュエーションがあったかのような言い方だ。
﹁⋮⋮俺の獲物﹂
﹁?﹂
少し淋しそうに口角を歪めた瑞穂だったが、
次の瞬間には
﹁血糖値上げて、乗り切るぞ﹂
いつもの冷静な、表情に変わったのだった。
結局、パーティーの成功によって、瑞穂の力量が認められることに
なり、
その他諸々のことも、嘘のようにスムーズに進むようになった。
そして今は、父が復帰したことで、後ろ盾を得て磐石の立場に立っ
た。
22
・・・・
︱︱︱あの時、瑞穂は俺の獲物と言っていた。
あの招待状の宛名は。
・・
﹁その獲物の仕業ですかね。
年末には、あの瑞穂が、女に一方的に通話を切られてましたね﹂
貴穂は、ぶわっはっはっ、と大笑いしながら、
﹁そうか、そうか。そうだろうとも﹂
と頷いていた。
﹁ご存知なんですか?﹂
・・
﹁ん?まあな。お前も、そのうちにお目にかかるだろう。
瑞穂を面白いことにしているのは、間違いなくその獲物だろうな﹂
時々︱︱︱そう、一日に一度、多くて二度。
着信したメールを眺めて、表情を緩める瑞穂がいる。
側にいるからこそ、わかる。
大した長さもない、メールだ。
そのメールが、瑞穂の緊張を解く。
・・
そしてまた、このところのイライラ⋮⋮
・・
それをもたらしているのも、その獲物。
恐らく、その獲物に関する噂が、原因だ。
23
︱︱︱さて。どうしたものか。
が、バレンタインの翌日、それはあっさり解決された。
小さな紙バッグを下げて、迎えの車に乗り込んだ瑞穂は
非常に機嫌がよかった。
﹁何か、あったのか?﹂
﹁いや、何も﹂
⋮⋮何かあったことは、悪いが丸わかりだ。
あのイライラはどこへ行った。
社に着き、自分の部屋に入ると、
瑞穂は真直ぐにデスクに向かい、
紙バッグから、チョコレート︱︱︱例の、キオスクで買えるタイプ
の安価なもの︱︱︱
を大量に取り出すと、大事そうに引き出しに納めた。
!?
何でまた、そんな安価なチョコレート?
バレンタインなのに?
﹁どうしたんですか、それは?﹂
思わず口にした疑問に、
24
・・
﹁陣中見舞い。獲物からの﹂
瑞穂が、甘やかな微笑を浮かべて恵吾を見上げた。
⋮⋮なるほど。
只者ではない、と了解した。
25
段ボールいっぱいの、たぶん、愛
﹁義理とはいえ、秘書だからそれなりのもの、っと﹂
バレンタイン前の、OLで混雑するチョコレート売り場で物色しな
がら、
実里は、隣で物珍しそうに眺めている千速に尋ねた。
﹁なに。こういうとこ、初めてってわけじゃないでしょ﹂
﹁義理チョコは一度も渡したことがない﹂
﹁はい?﹂
人混みの中、ぐるり、と千速に向き直った。
何か、OLとして有り得ないこと言ってませんでしたか。
﹁本命もないけど。
あ、父と兄には母と一緒に用意しているけど、母が主導権を﹂
﹁あ、そ﹂
実里は脱力して、再びチョコレートの物色に戻った。
﹁千速は、どんなのにするの?﹂
﹁うーん。ここじゃ見当たらないかな﹂
高級専門店でご購入ってことですかね?
悔しいぞ。
本命のチョコレートは、今年も購入すること叶わず︵だって、いな
いんだもーん︶。
唸りながら、実里は、桜井用のチョコレートを購入した。
26
﹁じゃ、それを買いに付き合うよ﹂
﹁そう?﹂
バレンタイン特設売り場を脱出して、
千速は、食品売り場のお菓子コーナーまで来ると、
箱に入り、紙で個包装されたチョコレートを物色し始めた。
﹁?﹂
実里が見守る中、千速は何種類かを手にし、ちょっと悩みながら選
んでいる。
義理チョコは渡したことがないし、渡さないんじゃ?
﹁抹茶チョコだって。美味しいのかな、これ﹂
﹁ねぇ﹂
千速が、実里に振り向いた。
﹁これ、美味しい?﹂
﹁まぁまぁかな。⋮⋮じゃなくて、それは営業部の人たちに?﹂
﹁ううん。瑞穂の﹂
・・
・・
実里の目が驚愕に見開かれた。
あの瑞穂に、このチョコレート!?
﹁ほんの少しの高級なチョコレートより、
普段、机の引き出しに入れておいて、食べてもらえるようなもの
がいいの。
今年は、直接渡せるわけじゃないし﹂
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﹁⋮⋮そうか﹂
色んな種類を入れて、どれが美味しかったか聞いてみようかなー、
と呟きながら、
千速は、チョコレートをカゴに入れ始めた。
箱を開けた瞬間の、瑞穂の呆れた顔が目に浮かんで、口元に笑みが
浮かぶ。
そんな千速を眺めながら、実里は思う。
沢山の高級チョコレートが届く中で、
こんなありふれたチョコレートは、逆に目立つことだろう。
それに、大量だし。
カゴに放り込まれる量を見て、実里はクスリと笑う。
しかし、千速にそんな計算があるわけではなくて、
単純に瑞穂を喜ばせたくて、
真剣に吟味するのだ。
純粋に瑞穂の側に置いて欲しくて、
この百数十円のチョコレートを
⋮⋮なんて可愛いヤツ。
実里は、千速のウエストにムギュッと抱きついた。
﹁千速っ!男に生まれ変わったら、私、千速と付き合うっ﹂
﹁⋮⋮そんなに、このチョコレート好き?﹂
﹁⋮⋮﹂
そんなに美味しかったっけー?と首を傾げる千速に抱きついたまま、
実里はクスクス笑い出した。
敵わないわー。
28
* * *
そういえば、特別な贈り物って初めてよね。
箱の底に、プレゼントの万年筆を入れながら、千速は思った。
瑞穂の立場では、書類に直筆のサインと印が必要なことも多いだろ
う。
そう思って選んだのだ。
その上から、大量のチョコレートを箱に詰める。
気付くかしら?
うーん。ペンシルチョコレートも混ぜてみたら面白かったかも。
⋮⋮。
やらないけど。
メッセージカードを ちょっと躊躇った後で、
やっぱり底の方︱︱万年筆の上︱︱に置いた。
蓋をして、ガムテープで止めて、ふと手が止まる。
初めてのバレンタインに、段ボール箱で、
しかも宅配便使って送りつけるとか⋮⋮あり?
︱︱ありっ!!!
肩をすくめて、宛名を書き、コンビニに持ち込んだ。
29
* * *
父の入院中から、瑞穂は実家住まいだ。
バレンタイン当日、帰宅してみると、
﹁お届けものがあるのよ∼﹂
出迎えた母が、そわそわしながら、瑞穂を居間に引っ張っていった。
瑞穂宛の、それなりの量の届け物が居間に積み上げられている。
﹁適当に処分しておいて﹂
と言おうとして、可愛らしい袋や美しい包みに混じって置かれた、
普通のダンボール箱に目が留まった。
⋮⋮これは、違うんじゃないのか?
﹁あら。さすが我が息子、お目が高い﹂
母が、にんまり笑いながら、
その箱を よいしょ、っと瑞穂に手渡した。
差出人を確認すると︱︱千速だ。
抱えて、そのまま自室に向かおうとする瑞穂に、
﹁ここで開けるんじゃないの?﹂
30
何だか面白そうな匂いがするのにー、と残念そうに母が呟く。
﹁残りはよろしく﹂
しかし、瑞穂は軽くスルーした。
取り合えず部屋に持ち込み、箱を開けてみる。
中に大量に詰め込まれていたのは、
最後の日に、千速がスーパーで買っていたものと似たようなチョコ
レート。
一瞬呆気にとられたものの、
こみ上げるものを押さえきれず、部屋でひとり、瑞穂は笑い出した。
・・
お前、仮にもバレンタインだろう。
同期の俺には寄こしたことのないチョコレートだが、
これを、この量ってどいういうことだ。
しかも、ブラックやミルクチョコレートならまだしも、
抹茶やストロベリーとか、俺に食えというのか?
ククク、と笑いながら、箱の中身を確認する。
︱︱いやぁ、あのような美しいお嬢さんがおられるとは⋮⋮︱︱
・・
そうだ、その美しいお嬢さんは、実はこんなユーモアも備えている。
31
ユーモアと⋮⋮
見つけ出したメッセージカードを開く。
﹃ 常備薬をどうぞ。
側に置いて。 千速 ﹄
ユーモアと、洞察力だ。
︱︱大丈夫だ。一番のヤマはもう乗り切った、心配しないでも。
箱の底には、細長い包みが、チョコレートで隠されるように入って
いた。
包装紙を開けると、美しいドイツ製の万年筆が出てきた。
スマートフォンを取り出し、
﹃受け取った。ありがとう﹄
いつものように、瑞穂はメールを送る。
﹃どれが美味しかったか、そのうち教えて﹄
千速からの返信に、チョコレートのように甘い言葉は、もちろんな
32
い。
それでも、寄り添おうとしてくれる気持ちを、瑞穂は感じるのだ。
* * *
﹁﹃受け取った。ありがとう﹄だけど?﹂
﹁ええ∼っ!もっとビビットな反応は無かったの?﹂
実里が、千速に事の顛末を聞いている。
やっぱり段ボール箱で送るとか只者じゃない、と密かに思いつつ。
﹁抹茶はイマイチだったって。ブラックがいい、って言ってた﹂
﹁⋮⋮食べたんだ、抹茶﹂
* * *
一ヵ月後のホワイトデーに、千速は封筒を受け取った。
﹃ こっちだったら付き合ってやれる。
約束の、前払いだ。
瑞穂 ﹄
33
入っていたのは、水族館のチケットが二枚だった。
34
不在の確認 あるいは 存在の実感
四月には、瑞穂の席に支店から転勤してきた男が座ることになった。
声も体も大きな体育会系の山下は、
瑞穂の営業スタイルとは全く異なったやり方で成績を伸ばし、
あっという間に本社営業部に馴染んでしまった。
冷たく研ぎ澄まされたような雰囲気は、もうその席には存在しない。
時々、無意識にその席を眺めていた千速に、
ある日、山下がツカツカと歩み寄ってきて尋ねた。
﹁俺のこと、見てるでしょ?﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁加藤さん、俺のことよく見てるし、目が合うでしょ﹂
何だ、その自信満々な物言いは。
誘われてやってもいいぜ、なオーラは。
千速は、山下を見上げて言った。
﹁席は見ているかもしれないけれど、目は合ってないですね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁山下さんを見ているわけじゃないですから﹂
興味を失って、ツ、と視線を逸らし、やりかけの仕事に戻る。
﹁どういうこと?﹂
35
パソコンを覗き込みながら、千速は答える。
﹁⋮⋮不在の確認、ですかね﹂
﹁ますます、わからない﹂
﹁つまり、山下さんをお誘いしているわけじゃないってことです。
誤解させてしまったなら、すみません﹂
﹁⋮⋮はっきり言うなぁ﹂
わはは、と笑い、山下はどかっと須藤の席に腰を下ろした。
﹁俄然、興味が沸いてきた。
ずっと見られてるって思ってたから、気になってたけど、違うん
だ﹂
﹁⋮⋮その興味、微妙に迷惑です﹂
﹁おおーっ!すげぇ。切って捨てられた﹂
﹁どうでもいいですけど、仕事の邪魔です﹂
﹁俺に興味、全くナシですか﹂
﹁何で、山下さんに興味を持たなくちゃいけないんですか﹂
﹁ほら、俺、結構優しくて頼り甲斐のある、そこそこイケメンで売
ってるでしょ﹂
﹁⋮⋮それは、知りませんでした﹂
﹁⋮⋮﹂
遠目にそのやりとりを眺めていた久世は、
はふーっ、と大きくため息をつき、
なり
﹁でっかいムシが一匹出現だぜ。面倒な。
何でまた、あんな地味な格好をした女を構おうとするかね。
寄るな、触れるな、俺の仕事を増やすな、そこの筋肉﹂
36
そう愚痴りながら立ち上がり、千速のデスクにさり気なく近付いた。
﹁山下。ここの区画は禁猟区だ。
狩りは他でやってくれ﹂
山下はビックリした表情で久世を振り返る。
﹁うえっ?まさか?﹂
しかし、久世と千速を交互に見比べると、成程!と納得した表情に
なり、
ピッと立ち上がり敬礼した。
﹁了解しました!知らなかったこととはいえ、失礼しましたっ!﹂
そう言い残して山下は去っていった。
﹁⋮⋮なんですか、あれ﹂
千速が、眉を顰めながら呟く。
﹁まぁ、何やら勝手に誤解をして、納得したらしいな。
ああいう体育会系は、思考回路が非常に単純で直線的だ﹂
脱力した久世はそう呟くと、くるり、と千速のほうに向き直り、指
差した。
﹁言っておくが、俺はお前のムシ取りホイホイじゃないぞ。
自分にたかるムシは、ちゃんと払え﹂
﹁たかられてませんけど﹂
37
・・・
﹁今のが、たかられている以外の、何だって言うんだ﹂
﹁⋮⋮何か、腐ったものになった気分です。
ショウジョウバエかなんかに、たかられているみたいな言われ方
で﹂
千速は、口を少し尖らせて、不満気に言った。
⋮⋮ヤツは、ショウジョウバエか?
暫くして、千速と久世が付き合っているらしい、という噂が流れ、
久世は苦々しく呟いた。
﹁俺は、ムシ取りホイホイどころか、完全にムシ除けじゃねぇか﹂
おとこ
・・
自分の中では、カテゴリー漢に属する部下は、
桜井によれば、どうやらあの御曹司、森瑞穂の想い人らしい。
いやはや、一体いつの間にそんなことに?
森は、どこぞの美女と噂になっていなかったか?
そんな久世の疑問には、誰も答えてくれない。
それなのに。
もりやく
年末の忘年会以来、桜井経由で
も
姫の﹁守役﹂を仰せつかってしまった。
こんな天然の予測不能の女をどう守れってんだかよ、と久世はこと
りごちた。
38
* * *
﹁もうすぐ誕生日だろう?渡したいものがある。時田恵吾という者
が行く﹂
念のため、と時田の顔写真が添付されたメールが届いたのは、
五月も半ばを過ぎた頃であった。
五月二十五日は千速の誕生日である。
﹃了解。十日ほどは、お姉さまとお呼び︵笑︶﹄
瑞穂の誕生日は六月五日なので、
その時に、瑞穂への品物も託そうと千速は考えた。
駅近くのこぢんまりした喫茶店を指定して、仕事が終わった後に向
かう。
からりん、とドアベルを鳴らして、千速は店内に足を踏み入れた。
﹁加藤です。お待たせしました﹂
そう言って、こちらに向かって座る時田の前で、足を止める。
どうやら瑞穂から、何も聞かされていなかったらしい。
どんな人物を期待していたのか、想像に難くないが、
大いに予想を外していたのだろう、一瞬、時田の目が瞬き、
しかし、次の瞬間にそれは巧妙に隠された。
39
・・
・・
あの瑞穂が、必死に狩ろうとしている獲物がコレか?
という疑問が透けて見えた。
千速はそれを見逃さずに、おかしそうに口元を歪ませる。
そんなに驚いてもらえると、ちょっと嬉しいかも。
﹁どうぞ、お掛け下さい﹂
促されて、席に着き、それぞれコーヒーを注文した。
﹁瑞穂さんは、お元気なんでしょうか?
無理、されてませんか?﹂
今も、忙しいことはわかっている。
それでも、聞かずにはいられなかった。
﹁元気ですよ。
でも、無理はしてます、チョコレートを食べてね。
私にも、時々飛んできますよ。
﹃酷い顔をしているな﹄ってね﹂
千速は、ふふっと小さく笑って尋ねた。
﹁抹茶チョコレートのお相伴はありましたか?﹂
千速の柔らかく微笑んだ顔をじっと見つめながら、
時田は、声を低くして静かに尋ねた。
﹁⋮⋮一緒にこちらに来て、手伝おうとは思わなかったんですか。
あなたは、かなり優秀な方だと聞いている﹂
40
瑞穂があの頃、必死に持ちこたえようと踏ん張っていたのをわかっ
ているだろう?
そう、その視線は責めているようにも見えた。
千速は、笑みを消し、時田の視線を真直ぐに受け止めた。
﹁私が、それを申し出なかったとでも?﹂
﹁若が断ったとして、それで簡単に引いたんですか﹂
﹁瑞穂が⋮⋮瑞穂さんが、それを望んだので。
⋮⋮実際の所は、私が側にいることで逆に
瑞穂さんの足元を掬われることもあるかもしれない、と
怖かったこともありますけど。
それに﹂
千速を見定めるように、強く見つめる時田から視線を外すことなく。
﹁瑞穂さんは、自分ひとりで乗り込んでいって、
状況を上手くコントロール出来ることを証明しなければならなか
った。
︱︱そう理解してます﹂
そう言って、千速は鮮やかに微笑んだ。
﹁そして、それは、証明されたのでしょう?﹂
時田は、暫く沈黙したまま千速を見つめると、
ふっと表情を緩め、頷いた。
﹁ほぼ、ですがね﹂
41
どうやら、千速についての吟味は終了したようだ。
﹁これを﹂
小さな箱を渡された。
﹁若から預かってきました。
これについては、宅配便を使うのは嫌だったそうです﹂
全く、忙しいのに何我儘言っているんだか、と
時田は苦笑いを浮かべる。
﹁ここで、開けてもらえますか?若のご希望なんで﹂
﹁⋮⋮ここで?﹂
千速はゆっくりとリボンを解き、包み紙を解き、
中から出てきたビロードの小箱の蓋を開け︱︱
﹁⋮⋮名前の、担保じゃなかったのかしら。
聞かないで、済ませちゃうつもりなのかしら⋮⋮﹂
そう呟いて、そこにあるものを暫く見つめ続けた。
それから、そっと箱の中から取り出したのは、懐かしい品物だった。
42
一粒のパールの下側を細かなダイヤが飾り、
そこから雫型のパールがひとつ、下がっている。
かつて︱︱まだ十代だった千速と瑞穂が、初めて出会った時、
瑞穂が千速から取り上げたもの。
近いうちに、会えるつもりで。
絶対に会うつもりで、手に入れたもの。
イヤリングだったそれは、今の千速に合うように、ピアスにリメイ
クされていた。
﹃もうひとつは、まだ担保だ﹄とメッセージカードに記されていた。
納められていたのは、片方だけ。
千速は目を閉じた。
ああ、だめだ、泣いてしまいそう。
まだ取ってあったなんて︱︱
﹁どうやって、若に約束させたんですか﹂
﹁⋮⋮え?⋮⋮約束?﹂
そこに時田がいることをすっかり忘れ、
完全に自分の世界に入りこんでしまっていたので、
千速はよく考えずに、上の空で思ったままを言ってしまった。
﹁約束させたんじゃないわ。
約束させられたのよ、一年だけ待ってくれって⋮⋮﹂
43
ククク⋮⋮と笑う声で、ハッと我に返り、
千速は少し赤くなって時田を見つめた。
﹁⋮⋮あの﹂
﹁よく、理解しました。
取り合えず、一年大人しく待ってあげてください﹂
﹁⋮⋮大人しくって⋮⋮﹂
﹁言葉の通りです。そのために頑張っているみたいですから。
では、私はこれで﹂
そう言って、時田は席を立った。
﹁あのっ、これを﹂
慌てて千速は、用意したプレゼントを取り出した。
﹁これを、瑞穂さんに。
︱︱それから﹂
時田を見つめる千速の瞳が揺れた。
﹁それから︱︱⋮⋮﹂
一度、目を伏せてから、再び、強い視線で時田を見つめる。
﹁一年しか待たない、って伝えてください﹂
そう言って微笑んだ。
44
﹁⋮⋮承知しました﹂
時田は、そういって穏やかに微笑み、去っていった。
45
プレゼントを君に︵前書き︶
46
プレゼントを君に
﹁戻りました﹂
午後八時過ぎに、まだ仕事を続ける瑞穂の部屋へ恵吾が戻ってきた。
真直ぐ瑞穂のデスクの所まで歩を進めると、小箱を置く。
﹁預かってきました。誕生日のプレゼントだそうです﹂
それだけ言って、自分のデスクへとスタスタと戻ってしまった。
そして、積み上げられた﹁未決﹂の書類に目を通し始めた。
﹁⋮⋮﹂
それだけか?
確かに私用にかり出して、恵吾の仕事を滞らせた。
その自覚はあり、申し訳なく思っていたりもする。
パソコンを横にずらし、デスクに置かれた小箱を手に取った。
包みを開けると、中からシンプルなシルバーのカフリンクスが出て
きた。
多面カットされたスクエアで、少し表情がある。
万年筆といい、カフリンクスといい、千速の選ぶものは全くもって
千速らしい。
シンプルで、機能的で、美しい。
瑞穂は、ひとつ取り出して、目の前にかざした。
無駄な装飾のない、千速そのもののようだ。
︱︱既に半年。
自分が決めたこととはいえ、直接会うことの叶わないままだ。
47
﹃ 誕生日おめでとう。
次は一緒にお祝いできるかしら ﹄
メッセージカードには、そう記されていた。
ちらり、と恵吾を見遣る。
⋮⋮俺がイライラしているのを、絶対楽しんでいる。
無意識に、指先が机の上でタップし︱︱
とうとう我慢できずに、瑞穂は尋ねた。
﹁どうだった?﹂
書類に印をグイっと押してから、恵吾が目を上げた。
﹁⋮⋮お前は、バカか﹂
﹁何だと﹂
恵吾が千速をどうみたか、
それによって自分の気持ちが変わることはないだろうが、気にはな
る。
﹁あの手の物件は、逃げ足が早いか、他所に掻っ攫われる確率が高
いんだ。
何でもっとちゃんとツバをしっかりつけておくか、
モノで縛るかしておかないんだ﹂
お前にしては抜かったな、という眼差しだ。
﹁⋮⋮アレが、大人しく縛られるタイプに見えたか?﹂
﹁いや﹂
48
たち
無自覚なだけに性質の悪い獲物だな、と呟いて恵吾はニヤリと笑っ
た。
それから、
﹁後でだ﹂
と言って、もう少し尋ねたい瑞穂を遮り書類に埋没してしまった。
* * * 最後の書類をトンと揃えて、処理済のトレーに放り込むと、
デスクの上に手を組み、恵吾は瑞穂に尋ねた。
﹁さてと。アレは⋮⋮昨年の創立記念に連れていた女か?﹂
﹁そうだな﹂
﹁随分な変わりっぷりに、最初は気付かなかった﹂ 渡されたプレゼントを手に眺めながら、瑞穂が自嘲気味にふふん、
と笑った。
﹁⋮⋮俺は二年も気付かなかった﹂
そうだ。
千速を創立記念パーティーに、無理矢理連れ出してから一年経つ。
・・・
﹁イヤリングは⋮⋮ピアスに作り変えたんだろう?
お前の探し物はようやく見つかったわけだ﹂
49
﹁まあな﹂
﹁驚いていたみたいだったぞ﹂
泣きそうになるくらいにな、と恵吾は内心呟く。
距離があっても、目に見えるモノがなくても、
二人の間は、確かな繋がりが存在しているってわけだ。
﹁一年大人しく待ってやってくれ、と一応言っておいてやったが、
最後に、こう言付かった。
﹃一年しか待たない﹄とさ﹂
クス、と瑞穂は笑って、侮れねーと呟いて椅子の上で仰け反った。
そういう時は、ずっと待つとか言うもんじゃないのか?
その時、瑞穂のスマートフォンにメールが着信した。
千速だ。
﹃ありがとう﹄
というひと言と、珍しいことにファイルが添付されている。
開いてみると、視線だけをこちらに、
パールのピアスを見せるように首を傾げ、
斜めを向いた千速が微笑んで写っていた。
眼鏡をかけず、髪を解いていることからして、自宅か。
パタ。
スマートフォンを伏せて、瑞穂は唸った。
﹁どうした?﹂
50
﹁⋮⋮獲物に牙を剥かれた﹂
﹁は?﹂
﹁⋮⋮いや、なんでもない﹂
プライベートでの千速の写真を、瑞穂は持っていない。
二人で写ったものも、ない。
そんなことに、距離を置いてから気付いた。
付き合いだした頃、千速がポツリと呟いたことがある。
﹁会社で会えるから、いつも一緒にいるような気になっていたけど
そういうのって、きっと違うのよね﹂
そう、確かに会う努力をするようになってはいた。
・・・
しかし、その気になればいつでも会える、と思っていたから、
わざわざカタチに残す必要を感じなかった。
千速の画像を保存しながら、瑞穂は思う。
本人は、何気なく思いついてしたことなのだろう。
カフリンクスも確かに嬉しかったが︱︱
俺に必要だったものは。
︱︱︱あと、半年。
それまでには。
* * *
51
千速と瑞穂は絶妙にすれ違っている。
それぞれ社交行事には参加しているが、同じ会場で顔を合わすこと
は、ない。
それは、主に瑞穂の父の配慮であり、千速の父の思惑であった。
どうやら思いあっている子供たちであるが、
瑞穂の父が倒れたことで、他人がつけ入る隙を作ってしまった。
瑞穂は一年と期限を決めて、自分の足場を固めようとしている。
それは、ほぼ達成されているともいえるが、
実は、その隙を突くように周辺で怪しい動きがあった。
千速を危ないことに巻き込むことは避けたい。
しかし、いずれ瑞穂の横に立つのならば、
﹁加藤﹂の家の看板を背負った、加藤千速として、この社会で認知
されているほうがいい。
すれ違いを意識的にさせることで、
いわゆる、瑞穂周辺の怪しい動きからも、千速を守れるはずであっ
た。
約束の期日まで、あと二ヶ月︱︱
隠そうとしたところで、どこからか密やかに、
瑞穂には心に決めた女性が居るらしい、という噂が流れ始めていた。
クリスマスパーティーには、二人の関係を公のものにしたらどうか、
という具体的な話も出始めた頃。
﹁加藤千速さんをお願いできるかしら﹂
桜井商事の受付に、突然訪れた者があった。
52
プレゼントを君に︵後書き︶
秘書時田恵吾視線の、瑞穂と千速の様子が番外編にて語られていま
す。
﹁秘書時田恵吾による、探し物の行方﹂
53
再びの蝶々
﹁シラセ様?﹂
受付から、来客の連絡をもらった千速は眉を顰めた。
今日はこれからアポがあり、三十分ほどで外出する予定である。
﹁はい。女性の方なのですが、名前を伝えればわかるはずだと⋮⋮﹂
⋮⋮わかりませんが、誰?
ダブルブッキングしたか、と脳内スケジュールをチェックするも、
そういった名前は、記憶にない。
とはいっても、来社している以上受付で追い払うわけにも行かない。
一階のフロアには、いくつかの接客用ブースがある。
﹁接客ブースは空いているかしら?﹂
﹁はい﹂
﹁じゃあ、お通ししておいてくれる?すぐ下ります﹂
* * *
﹁お待たせしました﹂
パーティションで区切られた接客ブースに足を踏み入れた千速は、
54
目の前に座る女を目にして、ああそういえば、と思い出した。
立ち上がりもせず、背を椅子に預け足を組み、
下から千速を不遜に見上げているのは、
かつて千速を﹁なあんにも知らないのね﹂と嘲りに来た女だ。
﹁お久しぶり、加藤さん﹂
彼女は今日も、お嬢様仕様の上品なピンクのワンピースを身につけ
ている。
綺麗にネイルアートされた指で、長い髪をサッと払い、高飛車に言
った。
﹁座って﹂
この段階で、ビジネスではない、と千速にもわかっていた。
︱︱瑞穂め。
・・・・
側に居ないくせに、会えないくせに、こんな蝶々を送り込んでくる
とは。
今度は、常務の娘ときたか。
︱︱面倒な。
であるが。
今回の蝶々来襲の背後が、どうなっているのか知る必要がありそう
だ。
にこり、と千速は微笑んで、椅子に座りながら尋ねた。
﹁今日は、お父様の⋮⋮お遣いですか?﹂
55
・・・
お遣いという言葉に、眉を顰めて、
﹁失礼ね。私は、私の意志で来たのよ﹂
白瀬美月は声を荒らげた。
つまり、父親の意向でここに乗り込んだわけではない、と。
﹁そうですか。では、どういった立場でいらしたのでしょう?
名刺を頂いても?﹂
美月はグッとつまって
﹁私は、働く必要がないのよ。花嫁修業中なんだから﹂
と千速を睨んだ。
﹁なるほど。
しかし、私は就業時間中です。
ビジネスでもない私用で呼び出されるのは、
しかも、アポイントもなしに押しかけられるのは、はっきり申し
上げて迷惑です。
お仕事をしていようが、いなかろうが、社会人としての常識です﹂
そう言って、千速はちらりと腕時計を見た。
﹁アポイントがありますので、出掛けなければなりません。ご用件
は?﹂
千速を睨みつけたまま、低い声で美月が言った。
56
﹁瑞穂さんの回りをウロチョロしないで﹂
﹁は?﹂
﹁彼は、私と婚約間近なのよ。邪魔しないで﹂
そういえば、白瀬常務もそんな事を言っていたか⋮⋮
﹁森さんとは、彼が退職して以来お目にかかっておりませんが﹂
そう、嘘はついていない。
﹁瑞穂さんは、お父様が倒れられてから、社内を纏めるのに大変な
のよ。
社内の結束を固めるためにも、私と結婚して、
父の派閥の協力を取り付けた方がいいの﹂
美月は、つんと顎を上げて言った。
父親から、そう聞かされているのだろう。
社内の実情を調べるなどと考えもせず、思い込みと勢いで飛び込ん
できた。
﹁つまりあなたのお父様は、森さんがあなたと結婚しなければ協力
しないと?﹂
﹁そんなことはっ﹂
千速は眉を上げた。
そうとられても、仕方のない言い方だったけれど。
﹁森さんが、あちらに戻られて一年近く経ちますし、
社長も復帰されたと伺っています。
57
それなのに、社内に問題が?﹂
﹁あなたにはわからないかもしれないけれど、
社長の息子というだけでは、納得しない人たちもいるということ
よ﹂
・・
例えば、あなたの父親とか、かしら。
まさか、あの瑞穂をその若さゆえ御し易し、と見くびっているとか?
それならば、愚かと言うほかない。
﹁そちらの社内のことはよくわかりませんが﹂
千速は、肩をすくめた。
﹁この程度の事態さえ森さんがひとりでは乗り切れない、と思って
いるわけですか?﹂
千速の言葉に、美月が怯んだ。
地味な外見と侮って、強く出れば引き下がると踏んでいたのに、思
いの外手強い。
﹁実績が充分でない、と?﹂
手元の時計を再び目にして、千速は立ち上がった。
﹁森さんは、既にもうご自身の体制を敷かれているのではないかと
思っておりました。
協力、と言いながらもその足を引っ張ろうとしているとか⋮⋮﹂
美月は顔色を変えて、ガタッと席を立った。
58
﹁何を言うのっ﹂
﹁既に退職した会社の同僚である私のところに、
何のためにいらしたのか、よくわかりませんが﹂
千速は冷たい目で、美月を見据えた。
・・
﹁彼がそんな愚策を丸呑みするほど、切羽詰った状態だとは思えま
せんね。
あなたも、そう思いませんこと?﹂
そんな事をするくらいならば、
瑞穂ならば、惜しみもせずにその部分を切り捨ててしまうだろう。
何となれば、新しく作り出すことなど彼にとっては容易いことだ。
それだけの、実力も権力も、既に手にしているはずだから。
それに気付かないのは、己の既得権にしがみついている古い埃。
瑞穂にふり払われて飛ばされてしまうまで、
自分がそのような存在だとは気付かないのかも。
・・
愚策と言われて、腹に据えかねたのか、
﹁身分違いなのよっ!彼とあなたとでは、住む世界が違うのっ!﹂
美月の本音が出た。
私こそが相応しいはずだ、という驕りが透けて見えた。
千速はフッと口元を緩めると、甘やかされた世間知らずの蝶々を
軽蔑をこめて眺めた。
﹁本当に。住む世界が⋮⋮そうですね、全く違うようですね﹂
59
あなたと森さんとは、というニュアンスを言外にたっぷり含めて。
常務の娘である、ということ以外に、あなたには何があるの?
瑞穂のために、何が出来るというの?
﹁⋮⋮時間です。どうぞ、お気をつけて﹂
出口に手を向けた。
千速の横を勢いよく通り抜けながら、
﹁覚えてなさいよっ﹂
顔を歪め、そう吐き捨てると、蝶々は去っていった。
﹁覚えてるかっつーの﹂
* * *
さて。
この蝶々の来襲を、どう扱うべきか⋮⋮
千速はちょっと悩んでから、結局、秘書の時田に連絡することにし
た。
﹁はい、秘書課、時田です﹂
﹁お忙しいところ、申し訳ありません。桜井コーポレーションの加
60
藤千速です。
ご無沙汰しております。実は、ご報告したいことがありまして﹂
﹁何でしょう?﹂
﹁今日、白瀬常務のお嬢さんが、桜井コーポレーションに、私を訪
ねてやってきました﹂
﹁⋮⋮それはまた﹂
呆れて絶句した気配が、電話の向こうから漂う。
﹁瑞穂さんに手を出すな、と迫られまして﹂
ふふっと千速は笑う。
﹁婚約間近だとは存じませんでした。
あ、これは、昨年私の兄が瑞穂さんにも言ってましたっけ﹂
﹁ガセだとわかってらっしゃるんでしょう?﹂
﹁⋮⋮どうだか﹂
それから、千速は笑いを納た。
﹁嘘です。瑞穂さんは、そういうことになったら
直接、私を切りに来るタイプですもの。
本題は、白瀬常務の件です。
もう、手配されているのかもしれませんが、
白瀬常務の周りで、怪しい動きがないかどうか注意して下さい。
常務の娘さんが言うには、
社長の息子というだけでは納得しない勢力がある、ということで
した﹂
時田は、フッと笑って答えた。
61
﹁承知してますよ。若に隙はありません。
ご心配おかけしました。
常務の娘がそちらに行ったということは、
暫く身辺に注意していただかないといけません。
あなたを﹃神世建設﹄と結び付けたとは思えませんが、
社交行事への参加は、当分控えていただいた方がよろしいでしょ
う。
お父様とお兄様へも、私から事情をお話させていただきます﹂
あと暫く大人しく身を潜めていて下さいよ、と時田が笑った。
﹁︱︱あの﹂
﹁はい、何でしょう﹂
﹁瑞穂さんはお元気でしょうか。
メールは相変わらず業務連絡止まりで﹂
何というか、その文面を見るたびに、
逆に淋しくなるのは、何でだろう。
﹁ひとつ、面白いことを教えてさしあげます﹂
時田が笑いを含んだ声で言った。
﹁あのパールのピアスはお気に召したのですね?﹂
﹁?⋮⋮はい﹂
﹁若は、そのピアスをつけたあなたの画像が、お気に召したようで
す﹂
﹁はっ?﹂
﹁ふふふ。こっそり保存しているんですよ。
62
内緒ですよ、私が教えたことは。バレてないと思ってるんで﹂
時々、眺めているのを、私は気付いているんですけどね。
こちらの︱︱若の事情にお付き合いさせてしまい、申し訳ありませ
ん、
くれぐれも、身辺に気を付けられますように。
そう言って、時田の電話は切れた。
千速を赤面させたまま。
63
再びの蝶々︵後書き︶
書籍と整合性をとるため、名称と内容を少し変えてあります。
64
風雲急を告ぐ
﹁何だか面白いことになってるみたいだね﹂
休憩室でココアを飲んでいると、司がフラリとやってきて
甘くて良い匂いがするなぁ、と言って
同じくココアを手にすると、千速の横に腰掛けた。
﹁昨日、変な女が千速ちゃんのトコ来たんだって?﹂
﹁あれ。実里じゃないけど早耳だね﹂
司は困ったような顔をして千速を眺めた。
﹁あのね。
久世課長の婚約者が、久世課長と社内恋愛中の千速ちゃんのとこ
ろに
殴りこみに来たってことになってるんだよ﹂
﹁⋮⋮はあ︱︱っ?﹂
千速は手にしたココアを取り落としそうになった。
危ない危ない。
﹁一階のフロアだったでしょ?
パーティションじゃ、防音ってわけにいかないからね。
婚約がどうこうって声に、効果的にエコーがかかったらしいよ﹂
そりゃもう、朝からすごい噂だよ、と司が肩を竦める。
千速は天を仰いだ。
65
なるほど、それで久世課長は、真っ黒な空気を背負っていたわけだ。
はた、と千速は首を傾げる。
﹁⋮⋮ちょっと待って。
その前に基本的な質問があるんだけど﹂
司に向き直って、身を乗り出した。
﹁何で、私と久世課長が社内恋愛中?﹂
危うく流しそうになっちゃったわよ。
﹁身に覚えがないのかな。
営業の山下さんが、それはもう嬉しそうに
﹃薄墨の君が、ご領主様のお手つきとは知らなかったぜー﹄
って吹聴していたんだよ、だいぶ前にね﹂
千速は額に手を当て、アレか!と呻いた。
久世課長の言ったように、確かに単純で直線的な思考回路の持ち主
だったのだ。
﹁あの人、脳味噌も筋肉で出来ているのね。
っていうか、否定してよ、声を大にして﹂
くすくす笑いながら、司は、いいじゃない、と言ってのけた。
﹁図らずも、瑞穂の願う格好の噂ってわけだね。
目の届かないところにいる千速ちゃんをガードするための、さ。
攻撃は最大の防御って言うじゃない。
久世課長の恋人を狙おうなんて猛者は、そうそういないよねー﹂
66
突然、黒い空気が流れ込んできて、司が慌てて口をつぐんだ。
﹁おお。これはこれは。俺の恋人ともあろう者が、こんな所で他の
男と密会中か?﹂
﹁⋮⋮課長、怒ってます?﹂
﹁い︱︱や。怒ってなんかおらんぞ。俺は、通常営業中だ﹂
﹁⋮⋮嘘だ﹂
と呟く千速に、ギロリと視線を飛ばし、
コーヒーのボタンを勢いよく押すと、千速と司に向き直った。
﹁ある筋から守役を仰せつかっているからな。
この程度の私生活の犠牲は、暫くは致し方がないと諦めた。
それに﹂
と口の端を上げてニヤリと笑みを浮かべ、
﹁恋人でもある優秀な我が部下は、
今期の予算を一割り増しくらいで達成してくれそうだ﹂
だ・よ・な、と目で念押しした。
﹁鬼だ⋮⋮﹂
﹁俺の名義貸しは、それ位高いんだ﹂
﹁私のせいじゃないですよぅ﹂
隣に座った司が、千速の肩をポンと叩き、
﹁千速ちゃんも、苦労するねぇ⋮⋮﹂
67
と苦笑すると、
コーヒーを取り出し、どっかと座り込んだ久世が
﹁お前もだ、常盤。
上手い具合に面倒な役を逃れたお前も、同罪だ﹂
と凄んだ。
﹁そんな、言いがかりですよ⋮⋮﹂
﹁い︱︱や。
実績の上がるような営業企画を 是非是非、我が課に提案してく
れたまえ。
楽しみにしているぞ﹂
はっはっはっ!
と肩を怒らせて笑う久世を残して、千速と司は、休憩室から退散し
た。
﹁とばっちりだ⋮⋮﹂
﹁私のせいっていうより、瑞穂のせいじゃないのよね?﹂
﹁あそこ、当分誰も近寄れないね。邪悪なオーラが漂っている⋮⋮﹂
* * *
﹁どうやら、面倒に巻き込んでくれたみたいだな﹂
68
竜海が、眼鏡のブリッジを指先で押さえながら、ため息をついた。
桜井コーポレーションまで、白瀬常務の娘が乗り込んで行った、と
いう報告を
時田から受けたのだった。
事情があって、白瀬周辺の事情を探っていることもあり、
あえて、その思い込み、目論見を否定することをしていない。
そこで、図に乗って娘がしゃしゃり出たのだろう、ということだっ
た。
﹁お前が﹃加藤﹄の家のものだと知っていれば、
下手な手出しはしないだろう。
だが、今回はそういった背景をあえて晒していない。
だから尚更、手加減なしで来る可能性があって怖いんだ。
暫くは、帰りは迎えに行く。気をつけろよ﹂
竜海は千速にそう宣言すると、
会社近くまで、自ら迎えに来ることを正当化し、
千速はそれを呑むしかなかった。
﹁⋮⋮何だか、視線が痛いんだけど﹂
そしてまた、とある月曜の社員食堂にて。
﹁うん。実はある噂が⋮⋮﹂
﹁またなのっ!﹂
69
パチッと箸を置いて、千速は実里を睨んだ。
﹁私が流してるわけじゃないもーん。
秘書課まで漂ってくるだけだもーん﹂
そう言って、卵焼きをひと口放り込むと、
チラリと千速を見上げ、
﹁聞きたい?﹂
と尋ねた。
﹁聞きたくない。だけど、聞いておかないと後で大変なことになる
のを知っている﹂
眉間にしわを寄せて、千速が唸った。
ふっふっふ、と実里が笑って、
﹁あたし、千速のそういうトコ好き。
さーよく耳の穴をかっぽじって聞きたまえ。
君にまさかの二股疑惑が持ち上がっておるのだよ﹂
と、身を乗り出した。
﹁⋮⋮見えた?今、私の口から魂が抜けていったでしょ﹂
﹁見えた見えた。さあ、戻っといで、千速ちゃん!﹂
千速は、置いた箸を再び手にして、
力なく、ほうれん草のおひたしをつつきながら尋ねた。
70
﹁で?二股って誰と誰の?
いい。わかってる。ひとりは久世課長なわけね。
で、もうひとりは、どこのどいつってか?﹂
﹁じゃじゃーん!それはだね﹂
ピ!と指を立てて実里が唱えた。
しろがね
たつにい
﹁美しき、銀の君﹂
﹁⋮⋮竜兄﹂
﹁見られちゃったみたいよ﹂
会社周辺にシルバーの外車を停車し、千速を待つ男。
背が高く、眼鏡の似合うクールな容貌は、さぞかし目立っているこ
とだろう⋮⋮
がっくりと千速は脱力した。
﹁何で連日お迎え?﹂
﹁例の蝶々飛来以来、用心しておけってお達しが⋮⋮﹂
﹁そうかー。そういえば、桜井常務も、ちょっと気にしてた﹂
以前からちょくちょく迎えには来ていたが、
それが毎日になり、目撃される危険も上がってはいたけれど。
﹁兄です、って宣言するか⋮⋮﹂
﹁この際、エントランス正面に乗り付けてもらっちゃえば?
久世課長との噂なんてぶっ飛ぶんじゃない?﹂
﹁いずれにしても、面倒臭い⋮⋮﹂
暫し沈黙した千速であったが、突然
71
﹁ええい、黙殺っ!﹂ と宣言すると、ランチに取り掛かり始めた。
﹁⋮⋮あんた、黙殺って⋮⋮﹂
実里が、ぷぷぷっと吹き出しながら、面白すぎる、と呟いた。
* * *
蝶々の来襲以降、千速周辺はそれなりの用心を重ねていたが、
表立って、これといったことは起きず、そろそろ約束の一年が経と
うとしている。
コンビニの駐車場で、疲れを全身に纏った瑞穂が夜空を眺めていた、
あの時。
合鍵を返し、瑞穂の部屋からひとりで去った、あの朝。
吐く息が白く、冬のおとないはすぐそこだった。
通勤電車から吐き出され、会社へ向かう道を歩きながら、
また冬がやってくる、と千速は思う。
道行く人はコートの襟を立て、髪を揺らす風は冷たい︱︱
72
それぞれの思惑
﹁クリスマスパーティーの席で、ですか?﹂
﹁そうです﹂
瑞穂は、自分の席の前に座る白瀬に、笑みを見せた。
﹁そこで正式に発表したいので、準備をお願いします﹂
﹁承知しました。では、早速手配します﹂
喜びを隠しきれぬ表情で白瀬は立ち上がり、部屋を急ぎ足で出て行
った。
その様子を見ていた恵吾は、呆れたように言った。
﹁日本語の妙だな。
主語と目的語が曖昧なままでも会話が成り立つ﹂
﹁誤解と、思い込みでな﹂
瑞穂が、ニヤリと笑窪を浮かべた。
﹁邪な思いを持っているから、思考がそっちに流れる。
自分の足元に、火がついていることにも気付かないでな﹂
社長が病気療養中、白瀬は小賢しく立ち回り決して表には出なかっ
たが、
若い、未経験な後継者に対する重鎮の不安を煽り、
積極的に協力させないことで瑞穂の足を引っ張っていた。
社内に動揺をもたらし、そこに付け込んで己が勢力の拡大を密かに
目論み、
73
更には、社内をまとめることと引き換えに、縁戚を結ぼうとする野
望も垣間見えた。
しかし、瑞穂と恵吾が昨年のクリスマスパーティーを
力技で成功裡に終わらせてのち、明らかに風向きが変わり、
更に年明けの社長復帰で、瑞穂の立場は磐石となった。
今更、白瀬の力など必要ではない。
いや。
白瀬がどう信じようと、元々必要ではなかった。
︱︱状況の変化をあの男は認めようとしない。
瑞穂は、眉をしかめた。
恵吾によれば、白瀬の娘が千速のところへ押しかけたらしい。
これ以上、千速に手が伸びないよう、敢えて白瀬の誤解を利用して
いるが⋮⋮
このまま、白瀬の好きなように振舞わせるつもりはなかった。
若い、経験不足、と侮るのならば、捻じ伏せるまで。
社内が動揺していた時に、敢えてそれを煽るような行動をした奴を
そのまま使うほど、瑞穂も甘くない。
尻尾を捕まれていない、と思っているならば、見縊っている。
それでも手が出せない、と高を括っているのならば、思い知ればい
い。
白瀬が馬脚を現すのを、瑞穂は冷静に待っているのだ。
不正な取引や、バックマージンの痕跡はある。
しかし、森ホールディングスから放逐するには、
明白な不正の証拠か、明らかな失態の現場を押さえるしかない。
* * *
74
白瀬は、高揚していた。
・・
身一つで、ここまで上り詰めることが出来たのは、
根回しと策略と、流れを読み誤らない嗅覚があったからだ、と自負
している。
しかし、どうしてもこれ以上権力の中枢へは近づけない。
社長が倒れるという好機に乗じて、自分の勢力を拡大しようと目論
んだが、
後継者の瑞穂は、思った以上に切れ者で、
サポートに付いた従兄弟の時田も、有能であった。
付け入る隙が、見当たらなかった。
自分が信じ込まされた以上に、社長の回復は早く、
色々と弄した策は、不発に終わっている。
いや、むしろ、自分の暗躍が露見する危険さえあった。
だが。
と、白瀬はほくそ笑む。
まだまだ、若い、ということだ。
昨年、自分に﹁勝手な噂を流すな﹂と咎めた瑞穂が、
今回のクリスマスパーティーで、
自分の娘、美月との関係を正式なものにすると言ったのだ。
社内を取りまとめるためには、自分の協力が必要だと売り込み、
縁戚に連なる野望は、すぐそこで達成されようとしている︱︱
ところが、パーティーが迫っても、
娘は元より、義父になるはずの自分にも
何の約束もなく、表立った進展もない。
︱︱まさか、なかったことに?
いや、パーティーまでは内密に進めるのだろう。
釈然としないものを感じつつ、不満を飲み込んでいたのだが。
75
今日、いよいよその表舞台に、娘共々上がることが出来る。
高揚した気分で、白瀬は会場の手配を点検していた。
発表時には、グラスとシャンパンだ、とその確認に出向こうとした
時、
受付にあの女をみつけた。
昨年、創立記念パーティーで瑞穂と共にいた女だ。
こんな時に、あんな女が現れたら︱︱!
周囲の視線など構っていられなかった。
白瀬は、その女の腕を乱暴に掴み、思いきり引っ張った。
﹁このあばずれがっ!﹂
転落の道へと、一歩踏み出したことを自覚することもなく、
白瀬は己の野心成就以外、何も見えなくなっていた。
目の前の美しい女の、怯えることのない冴えた視線に、
なおさら煽られるように手に力を込めた。
76
あのときのアリス
﹁早く連れて来いって煩いんだ﹂
正確に言えば、
﹁逃げられる前に、早く連れてきなさい。
千速さんが、うっかり目を覚ますとも限らないでしょう﹂
だったが。
それが、母親がひとり息子に言うセリフか?
しかも、
﹁前科があるでしょう?﹂
とは、どういうことだ。
﹁楽しみにしているみたいなんだ﹂
千速は、瑞穂の実家へと招かれた。
* * *
長いアプローチを瑞穂の車で抜けている時から、
何となく、感じてはいた。
にこやかに出迎えてくれた瑞穂の両親と、
玄関先で挨拶を交わした時にも。
77
どうぞ、とリビングに案内され、
そのリビングに続くサンルームを見た瞬間。
千速は目を丸くして、足を止めた。
振り返って瑞穂の母を見ると、それはそれは楽しそうに、
﹁思い出した?﹂
と言って微笑んだ。
隣で瑞穂が、眉間に僅かなしわを寄せて
﹁何を﹂
と尋ねる。
千速は瑞穂の顔を見上げると、まじまじと眺めた。
額に掛かる、癖のない艶やかな黒髪。
涼やかな目元。
引き結ばれた薄い唇。
かすかに痕跡を刻む笑窪。
そうか。
この人は、こんな風に面影を残しているのだ。
おもむろに人差し指で、瑞穂の眉間をクイクイとこすると、
﹁そんな難しい顔してると、しわが出来ちゃうよ、瑞穂クン﹂
78
千速はにっこり笑った。
﹁ずっと昔も、そんな風に難しい顔してた﹂
* * *
玄関先で、二組の親子は固まっていた。
お互いの子供を見て、困惑を隠せずにいる。
﹁あら﹂
﹁まあ﹂
招待した方は、それでも気を取り直し、
﹁とりあえず、上がってちょうだい﹂
と言った後、ぷ、と吹き出した。
招待された方も、
﹁では、お邪魔します﹂
と答えた後、くす、と笑った。
﹁やだ、私達ったら﹂
﹁思い込みって、危険ですわね﹂
79
社交の場で出会った二人は、
・・
立場も年齢も近かったということから話が合い、
しかも、お互いに同性の同い年の子供がいるということで、
では、今度子供も一緒にお茶でも・・・という話になったのだった。
子供達はといえば、お互いに
﹁同い年の男の子が遊びに来るわよ﹂
﹁同い年の女の子がいるところへ遊びに行くわよ﹂
と言われており、いざ、向かい合ってみれば、
相手が女の子であり、男の子であることに、
少なからぬ肩透かしを食らった気分だった。
・・・
・・
﹁千速ちゃん、だったのね﹂
﹁瑞穂くん、だったのね﹂
﹁でも、同い年ですものね?﹂
﹁それなりに、遊ぶのではないかしら?﹂
そう言って母親達は、薄情にも
﹁遊んでらっしゃい﹂
と二人を放り出した。
五歳とはいえ、既にオトコはオトコ、であり、
オンナはオンナ、なのであるが、
その辺の機微は、都合よく忘れ去られた。
明るいサンルームまで歩いてくると、
80
﹁僕は今日、男の子と遊ぶつもりでいたんだ。
幼稚園でだって、女の子とは遊ばない﹂
瑞穂は、不機嫌そうに言った。
﹁なんで?﹂
不思議そうに千速は尋ねた。
私は、幼稚園で男の子とも女の子とも遊ぶけど。
﹁女の子は面倒だ。泣いたり、拗ねたり、わめいたり﹂
それは、男の子だって同じ。
男の子の方が、もっと聞き分けがなくて、単純な分、面倒。
力に頼ろうとするし。
千速はそう思ったけれど、それを口にはせず、
瑞穂の眉間に指をぴた、と当てるとクイクイとこすった。
﹁おっかないお顔してると、そのまんまになっちゃうよ﹂
それから、にっこり笑って言った。
・・
﹁千速は、お兄ちゃまがいるから、男の子の遊びもできるよ。
何して遊ぶ?﹂
瑞穂はムッとした。
幼稚園では、ある意味王子である瑞穂に対して
こんな風に勝手に話を進める女の子などいない。
81
置いてあるボードゲームなどを眺めながら、千速は聞いた。
﹁瑞穂くんは何月生まれ?﹂
﹁六月﹂
﹁千速は五月。じゃあ、千速がお姉さんだ﹂
くるり、と振り返って、くふふ、と笑った。
瑞穂は、益々不機嫌そうな顔になった。
﹁将棋盤だー。将棋するの?﹂
﹁回り将棋や、はさみ将棋はやらない﹂
﹁本将棋だよ﹂
﹁勝負する?﹂
・・・・
瑞穂は、将棋盤と駒を持って、サンルームのソファーに陣取った。
何が、お姉さんだ。
一ヶ月しか違わないのに!
﹁王手﹂
﹁・・・﹂
何度か、かわしたものの、もう数度詰められていた。
子供同士の将棋で、ここまで瑞穂が追い込まれることはなかった。
オンナのくせに、本将棋が出来るなんて。
しかも強いなんて。
瑞穂の前に座る千速は、小首をかしげて、瑞穂の次の手を待ってい
る。
82
﹁待った﹂をかけるのは、五歳とはいえオトコのプライドが許さな
い。
瑞穂は、唇を噛んだ。
その時、千速が庭を指差して、
﹁ねぇ、瑞穂くん、あれってブランコ?﹂
と尋ねた。
庭には楓の大木があり、その大きな枝から
卵を斜めに切ったような形の、籐のブランコが下げられていた。
﹁そうだけど﹂
﹁すごいね!千速、乗りたい!﹂
瑞穂は逡巡した。
﹁・・・まだ、勝負がついてない﹂
千速は、難しい顔をしている瑞穂の視線を捕らえると、ニコリと笑
いかけた。
﹁お願い﹂
大きな猫目が、ワクワクしている気分を映して、きらきら輝いてい
る。
瑞穂は勝負に拘っている自分が、急に馬鹿らしくなった。
83
︱︱︱まぁ、負けることもあるさ。
﹁いいよ﹂
そういって立ち上がると、やったぁ!と喜ぶ千速を庭先に案内した。
﹁・・・将棋、強いね﹂
ブランコ目指して走りながら、瑞穂は隣の千速に言った。
﹁お兄ちゃまに教えてもらったの。
千速のお兄ちゃまは、格好良くて、頭が良くて、優しくて、運動
も出来るの﹂
瑞穂は少し面白くない。
幼稚園では、いつだって何だって、瑞穂が一番よく出来た。
隣を走る女の子は、リボンをつけたツインテールをぴょんぴょんさ
せながら、
楽しそうにスキップしている。
水色のワンピースの裾が、フワフワ跳ねた。
ブランコは、子供二人が仲良く並んで座れる大きさだった。
ゆっくりと揺らすと、
木漏れ日がちらちらと落ちてきて、
涼やかな風が、千速のスカートを揺らし、瑞穂の前髪をさらりとは
ねていった。
﹁すてきー﹂
﹁ここで本を読むと気持ちいいんだ﹂
84
卵の殻の中に納まるみたいにして、
ふたりは体を寄せあって、穏やかな午後の庭を眺めながら揺れてい
た。
暫くしてブランコから、ぴょん、と飛び降りると、
千速は、空に向かって伸びている大きな木の枝を見上げた。
風に揺れて、生い茂った葉がザワザワと音を立てている。
﹁大きな木だねー﹂
﹁木登りも出来るんだ﹂
枝振りが、ちょうど子供の木登りにも適していて、
ブランコの吊るしてある枝よりも少し上が、瑞穂の秘密基地であっ
た。
﹁男の子の遊びも出来るんでしょ?木登りもする?﹂
瑞穂はちょっぴり意地悪な気分で言った。
こんなフリフリのワンピースを着ていたら、汚すのが嫌で、きっと
断るだろう。
だけど。
自分の秘密基地に案内したい。
あの特別な場所を見せてあげたい、そんな淡い好意を抱いてもいた。
千速は、自分のワンピースを見下ろして、少し躊躇ったが、うん!
と頷いた。
85
﹁男の子の遊びもできるよ!﹂と言うだけあって、
千速は木登りも上手だった。
瑞穂の秘密基地に座って、足をブラブラさせ、
こっそり隠された、瑞穂の﹁宝物﹂を一緒に検分した。
﹁お茶にするわよー。戻ってらっしゃい﹂
庭先に出たはずの、ブランコにいたはずの子供たちの姿が見えず、
瑞穂の母は、そう呼びかけながら周囲を見渡した。
すると、楓の木の上に、瑞穂だけでなく千速の姿も認めて慌てた。
﹁危ないから、ちょっと待って!﹂
もちろん、そんな言葉はあっさり無視され、
瑞穂は枝を少し降りたところから、ぴょん、と飛び降り
ニヤリと笑って千速を見上げた。
千速もニヤリと笑って、当然瑞穂の後に続いた。
大丈夫。お家でも、木登りはしているもの。
スカートをはためかせて無事地面に着地した千速だったが、
水色のワンピースは、途中の枝に引っかかり、
ビリッと音を立てて、スカートに大きな裂け目が出来ていた。
しまった、と瑞穂の顔が歪んだ。
千速は、裂けてしまったスカートを振り返り、硬直した。
﹁どうしよう﹂
86
大きな目が涙をためて瞬いた。
お兄ちゃまが、よく似合うねって褒めてくれたワンピースなのに。
﹁泣かないで。一緒に謝ってあげる﹂
瑞穂が、千速の頭を撫でながら言った。
ごめんね、僕が木登りに誘ったりしたから。
千速は、涙をいっぱいためた瞳で、瑞穂を見つめた。
ああ、涙がこぼれそうだ。
瑞穂は、千速のほっぺたを両手で包むと、
ちゅっ とキスをした。
その瞬間、声にならない叫びが後ろから発せられて、
瑞穂の首元が、グイと引かれた。
﹁︱︱︱︱︱︱瑞穂っ!﹂
瑞穂の母が、肩で息をして、仁王立ちしていた。
後からやってきた千速の母が口元を押さえて、あらまあ、と呟いた。
びっくりして、千速の涙が引っ込んだ。
﹁な、何やってんのっ!﹂
﹁マコくんが、女の子が泣いていたら、キスすれば泣き止むって言
ってた﹂
﹁・・・あのワルガキ・・・﹂
その後、クスクス笑う千速の母のとりなしで、
87
裂けたスカートも、キスも、﹁仕方ないわね﹂のひと言で、片付け
られ、
但し、危ないことはしないように、ときつく言い渡されて
お茶の席に戻ったのだった。
* * *
あの後︱︱︱。
﹁あの後、ずっと会わなかったね﹂
﹁あの後?﹂
瑞穂はまだ思い出さない。
︱︱︱またいつか、あそぼ。
千速は、サンルームまで歩いていくと、瑞穂を振り返って
﹁王手﹂
と駒を指すまねをした。
瑞穂の眉間のしわが徐々に晴れて、目が驚愕に見開かれた。
それから、千速を指差し、
﹁お前。あのときのアリス﹂
88
水色のフワフワのワンピースを着た、ツインテールのアリス。
名前の記憶が薄れ、顔立ちの記憶が薄れ。
瑞穂の中では、
あの時千速が着ていた、水色のフワフワのワンピースとツインテー
ル、
クスクスというい笑い声だけが︱︱︱アリスみたいな女の子のイメ
ージだけが強く残った。
﹁何、アリスって﹂
千速が不思議そうに言う。
﹁水色のワンピース﹂
﹁やだ。それだけでアリス?﹂
瑞穂が、首を振って笑いながら尋ねた。
﹁・・・あの時、お前、わざと将棋を止めたのか?﹂
霞んでいた面影が、焦点を合わせる。
そうだ。
この、大きな猫目。
悪戯そうな、輝き。
千速は、肩をすくめて
﹁竜兄に、オトコを追い詰めちゃいけないって教えられていたもの﹂
そう言って笑った。
89
﹁・・・敵わないな﹂
﹁お茶が入ったわよ﹂
瑞穂の母が二人を呼ぶ。
瑞穂は千速のもとまで歩いていくと、顔を覗き込んだ。
﹁木登りは、まだする?﹂
﹁・・・そうね。スカートじゃなかったら﹂
二人は顔を見合わせて微笑み、サンルームを後にしてリビングに向
かった。
﹁秘密基地はまだあるの?﹂
﹁どうだったかな。まだ何か残っているかも﹂
二人の気持ちをつなぐ、小さな思い出のかけらが。
90
あのときのアリス︵後書き︶
実は昔、一度会っていた二人。
千速の﹁幼稚園の時にしたキス﹂というのが、コレでした。
そして、マコくんとは、当然、桜井 誠氏です︵笑︶ 当時中学生。
ご指摘を受けまして、誤字修正しました。ありがとうございました。
大分前にご指摘いただいており、修正したつもりが直っておらず・・
大変遅くなりました。
91
ウェディング ナイト︵前書き︶
結婚式の夜のお話。
この二人の事なので、当然、色っぽいお話にはなりません︵笑︶
92
ウェディング ナイト
せっかく素敵なウェディングドレスを作ったのだし、
気に入っているから、別のドレスはいらない。
千速はそう言って、お色直しをしなかった。
カクテルドレスを身につけた時の千速の美しさを知る瑞穂は、それ
を少し残念に思う。
しかし。
露出度の高いドレス姿を、わざわざ人目に晒す必要もなし。
千速の美しさは、自分だけが知っていればいいことなのだから。
ホテルの最上階のレストランを貸し切って行った二次会も、
ベールを外し、髪を下ろして白い薔薇を飾り付けたものの、
千速はウェディングドレス姿のままであった。
もちろん、それはそれでかなり人目を引き、
会場に辿り着くまでにも、
﹁うわぁ、モデルさん?何かの撮影?﹂
と通りすがる人が思わず立ち止まって見送ったり、
会場に入ってからは、その美しさに、どよめきとため息が沸き起こ
ったのであるが。
二次会では、それぞれの学生時代の友人や会社の同僚などが大勢集
い、
様々なエピソードが暴露され、場は大いに盛り上がった。
﹁なんだ、その﹃美しき刺客﹄っていうのは﹂
千速の友人が語った大学時代のエピソードに、瑞穂は呟いた。
93
﹁あら。言い争いには簡単には負けませんってことよ。
彼女も、夫婦喧嘩の際は気をつけてって言ってたでしょ?﹂
当時論客としてならし、並みいる男共をバッサバッサと切り捨てて
いたという千速が、
笑いを含んだ声で答えた。
﹁それよりも、﹃実に美食家で、なおかつ淡白だった﹄って話の方
が気になる、かな﹂
瑞穂は苦い顔をして、余計な話を暴露した友人を軽く睨んだ。
学生時代、瑞穂は美しい女性にしか手を出さなかったし、
出したとしても、必要以上に近付かせなかった。
﹁それは、お前が見つからなかったからだ﹂
﹁は?﹂
﹁どこに行っても、お前を見つける事が出来なかった。
お前がいたら、余計な狩りはしないで済んだ﹂
﹁⋮⋮な、何言っちゃってんのっ﹂
千速がじわじわと赤くなって、瑞穂から少し身を引いた。
﹁はいはーい!
そこのお二人さん、見詰め合って自分たちの世界を作らないでね
ー。
僕達、いたたまれなくなっちゃうからー﹂
司会を買って出た司が、茶化して言った。
94
﹁ところで、今日はせっかくの機会なので、二人にインタビューを
したいと思いまーす! 皆さん、聞きたくても聞けなかった事がいっぱいあるはずなので、
質問受け付けまーす!﹂
ばばばっ!と、もの凄い数の手が挙がった。
千速が目をぱちくりとさせ、その隣で瑞穂は口元を歪めた。
瑞穂は友人達にさえも、結婚に至るまでの詳細を尋ねさせる隙を見
せなかったし、
千速は、余りにもあっけらかんとしていて、
逆にどう聞いたものか、みんなを躊躇させたようなのだ。
そう、恐らく皆﹁どんな風に!?﹂あるいは﹁いつから!?﹂
と聞きたいはずなのだ。
案の定、最初の質問は、瑞穂の桜井商事時代の同僚からの
﹁二人は、どういった経緯でお付き合いする事になったんですかっ
!?
僕達は、全く気が付きませんでしたっ!﹂
であった。
隣で千速は、悩んでいるようだ。
﹁どういった﹂とは、どこの時点ことを言うのだろう?
それは、あの十八の時?
それともフォレストの創立記念パーティーの時?
瑞穂は、ひとこと言い放った。
﹁俺がくどいた﹂
95
どっと会場は沸いたが、あちこちから、
﹁それじゃ、わからなーい!﹂
﹁もっと詳しく話せー!﹂
のコールがかかった。
もうしゃべらない、という構えの瑞穂と、首を傾げる千速の横から、
﹁では、本人達になりかわりまして、私が﹂
と、実里が高らかに宣言した。
﹁とっても面白いので、最初の馴れ初めなど、ご披露させていただ
きたいと思います﹂
瑞穂は目をむき、千速はまずい、と俯いた。
﹁実は、二人は十年近く前に出会っておりまして⋮⋮﹂
実里が、千速から聞いていた当時の出来事を面白おかしく語ると、
会場がどよめく。
﹁すげぇー。オトコひとりオトしてあっさり消えるとは﹂
千速が片手で顔を押さえた。
﹁執念深くそのシンデレラを探していた新郎は、
会社の同僚が実はその時の少女だと気付いてからは、猛追。
天然の新婦にいいように翻弄された末、
どうにか本日の佳き日までこぎつけたのであります。
96
皆様拍手っ!﹂
盛大な拍手の中、瑞穂は渋い表情を浮かべていたが、
次の瞬間には、ニヤリと笑い、千速の手を取って恭しくキスを落と
した。
﹁まあ、嘘じゃないしな﹂
それから、その手をくいっと引き寄せ、瑞穂を見上げた千速の唇を
塞いだ。
﹁︱︱︱︱っ!!!!!﹂
あからさまな所有権の主張に、会場は更に沸き、千速は目を見開い
たまま硬直した。
いや、このヒト、こんなキャラだっけ?
* * *
二次会を終えて皆を見送り、仕切ってくれた司と実里に礼を言い、
二人はホテルのスイートに引き上げた。
﹁長い一日だった。ずっと終わらないかと思った﹂
瑞穂はそう囁き、
千速の︱︱彼の、ようやく手に入れた﹃妻﹄の︱︱腰を抱き寄せ深
く口づける。
花嫁のウェディングドレスを自分の手で脱がせるなんていうのは、
世の男の願望じゃないか?
ゆっくり手を千速の背中に滑らせ、ウェディングドレスのボタンに
97
手をかけた。
︱︱ボタン?
もう一度、手を滑らすと、もの凄い数の小さなボタンが手に触れた。
瑞穂が、顔を上げると、千速がちょっとおかしそうな、
困ったような顔で瑞穂を見上げていた。
千速の体をくるりと回す。
目の前のドレスには、背中から腰の下まで、
小さなくるみボタンがループで留められてずらっと並んでいた。
﹁⋮⋮これは、何だ?﹂
ちらりと振り向いた千速が、申し訳なさそうに言った。
﹁えっと、全部小さなボタンで留まってるの。
五十はないと思うんだけど、ひとつずつ外さないと脱げないの。
瑞穂のお母様が、﹃絶対ボタンにしてちょうだい﹄って﹂
﹁⋮⋮引き裂いてもいいか﹂
﹁だめ。気に入ってるんだもの﹂
﹁⋮⋮何でまた﹂
瑞穂はひとつずつボタンを外し始めた。
﹁お母様が、﹃あの子が我儘言って千速さんを振り回しているんだ
から、
少し困らせてあげたほうがいいの﹄って﹂
﹁︱︱いや、俺は困ってないぞ﹂
焦れているけどな。
でもって、俺を焦らしたら、どんな目に遭うのかわかってないんだ
ろう、コイツは。
98
﹁そう?なら、良かった。﹂
千速は後ろを向いたまま、ほっとしたように言った後、
再びちらりと視線を後ろに投げた。
﹁でも、眉間にしわ、寄ってる﹂
﹁︱︱ボタンが小さくて、外しづらいからだ﹂
﹁ふうん。
この下のビスチェも背中を紐でしっかり締めてあるから、ひとり
じゃ脱げないの。
その紐も、緩めてくれる?もう、苦しくて﹂
﹁︱︱もちろんだ﹂
瑞穂は、後ろを向いた無邪気な赤頭巾に、オオカミの笑みを浮かべ
た。
そうとも。
俺は、全く、困っていない。
99
デフォルトでいこう
﹁今までと同じでいい﹂
瑞穂のそのひとことに、彼の秘書で従兄の時田が眉を顰める。
そして、千速の左手に嵌められたマリッジリングに
視線をチラリと飛ばしながら、皮肉っぽく口にした。
﹁もう、お前のものなんだから、誰も手を出したりしない﹂
隣で聞いていた千速は頬を赤らめた。
﹁しかも、これからずっと傍に置くんだろう?
だったら、尚更お前に相応しく装った方がいいんじゃないのか﹂
何を話し合っているかと言えば、
瑞穂の秘書として勤務するにあたっての、千速の服装についてであ
る。
しかし、千速は時田に向かってこう言った。
﹁いえ、どちらかといえば、瑞穂さんに相応しくあるために、
今までの装いを通そうかと思っているんです﹂
瑞穂の﹁薄墨の君﹂仕様への、よくわからない執着は置いておくに
して。
千速としては、瑞穂がちゃらちゃらとした女連れでやってきた
ちょろい御曹司とみなされるようなことは、
万が一にも避けたいと考えている。
何となれば自分は、とても誤解を招き易い外見であると自覚してい
るので。
千速の言わんとしていることを理解したらしい時田は、
ため息まじりに頷いた。
﹁まあ、そういうことなら。
ですが、それはそれで、あなたに皺寄せが行くことになると
思うんですが⋮⋮﹂
﹁慣れてますから﹂と言って肩を竦めた千速の隣で、瑞穂が満足げ
100
に頷く。
時田がやれやれ、というように苦笑したのには、気付かないふりを
した。 * * *
︱︱さて。
ニューヨーク支社への初出勤日である。
瑞穂の隣に並んだ千速は、デフォルトのグレーのスーツ、
銀縁眼鏡、ひっつめ髪であった。
﹁いや、せめてコンタクトにするとか、髪型は変えるとか⋮⋮﹂
時田は最後までそう言って渋ったが、瑞穂は
﹁このスーツには、この眼鏡とこの髪型だ。
そうでなければ、千速じゃない﹂
という、これまたよくわからない理屈を押し通した。
まあ、千速としてもその方向で是非、と思っていたので
否やはなかったのだが。
そして本日、千速のこの姿を目にした社員の顔に浮かんだ表情は、
主に二つ。
どうやら、仕事面で迷惑をかけられることはなさそうだ、という安
堵。
あるいは、成程これは典型的な政略結婚であったか、という合点。
それから、後ひとつ︱︱
これは何人かの女性社員の目に浮かんだ︱︱もしかしたら、という
強かな野望。
ニューヨークに派遣されるような、優秀な者たちなのだ。
その能力にも、容姿にも自信がある者も多い。
瑞穂本人に関して言えば、この二年ばかりの森羅での働きによって、
101
その能力は充分証明され、広く認知されている。
そしてまた、そのやけに整った容貌と他者を圧するような雰囲気で、
既に只者ではない存在感を放っていた。
しかし、千速は。
突然彼の秘書として現れた千速は、その実力も不明なまま、
﹁妻﹂と言う立場であるがゆえに、周囲から寄せられる視線もシビ
アだ。
何となれば、ここは仕事をする場であるから。
通常勤務が始まると、力試しとばかりに、
千速にはあらゆる仕事が投げられた。
重要なものも些末なものも遠慮なく、時として千速の職域を超える
ものも。
しかし、そこは千速だ。
無理な捻じ込みには、あっさりNOを突き付け、
しかし、必要とあれば労を惜しまず手を尽くした。
営業は、成果が見えやすい職種であった。
数字が、その働きを証明してくれるのであるから。
しかし秘書となれば、それは非常に難しい。
一番に求められるのは、サポートする人物が︱︱
瑞穂が、動きやすくあるよう環境を整えること。
そして、同じくらい重要であるのは、周囲の人々が、
瑞穂と関わりやすくあるよう繋ぐこと。
忙しく、尚且つ無駄を嫌う瑞穂に、すんなり話が通しやすいように、
千速は予め瑞穂に上げられる書類をチェックして、担当者に助言す
る。
これは時田の流儀をそのまま踏襲した。
追われるように仕事をこなすうち、二週間もすると、
千速の実力もまた周囲に認められるようになった。
そんなわけで、仕事に関しては極めて順調な滑り出しを切ったと言
102
えた。
一方。
千速を﹁政略結婚で瑞穂をしとめた女﹂と見る向きには、
それなりの嫌味な対応をされることがままあった。
結婚してもこれかいな。
女というものは全くもって厄介な生き物だ、と千速は思う。
しかし、日本であったような、
下らない露骨な嫌がらせを受けることは、ない。
何といっても、そこはプライドの高い優秀な者の集まりであるがゆ
え。
﹁どうせ、政略なんでしょ﹂
﹁きっと、支社長もこっちまで付いて来られて
ウンザリしてるんじゃない?﹂
こんな嫌味ぐらいは、痛くも痒くもない。
* * *
事態が変化したのは、もう少し後、
ニューヨーク赴任一か月後のことである。
千速が瑞穂に伴われて、とある取引先のパーティーに参加した翌日。
﹁︱︱加藤さん﹂
職場では、便宜上、旧姓を使っている千速である。
﹁はい﹂
振り向くと、やり手の営業として鳴らしている春日涼子が立ってい
た。
肉感的な口許に皮肉っぽい笑みを浮かべ、
セミロングの黒髪をさらり、と揺らしながら近づいてくる。
彼女はいわゆる、﹁もしかしたら﹂属の一員である。
103
美女科もしかしたら属。瑞穂の周囲に多数生息⋮⋮
そんなことを考えて、千速は内心ちょっと笑った。
彼女は、﹁何でしょう?﹂といった表情を浮かべた千速に、
嘲笑と憐憫を滲ませたような視線を向けてくる。
﹁昨日のパーティーには、支社長と参加されたの?﹂
﹁ええ﹂
﹁支社長⋮⋮真赤なドレスの女性と、
とても親しそうにされているところをお見かけしたわ﹂
大きなホテルで開催されるパーティーは、
もちろん人目に触れる機会が多い。
千速は固まった。
それを見て取った春日は、薄く笑みを浮かべたまま、
尚も千速の反応を探るかのように続ける。
﹁お似合いだったわ。美男美女で目立っていたわよ﹂
あなた以外の誰かと親密そうだった︱︱春日はそう匂わせているの
だ。
そう理解してはいたが、
千速の口から思わず洩れたのは、こんなセリフであった。
﹁め、目立っていましたか。やっぱり⋮⋮﹂
そして頬を染め、目を伏せた。
期待されている反応とは違うものを返してしまっているからだろう、
春日は焦れたように繰り返した。
﹁そうよ。とても、目立っていたわ﹂
︱︱ぷち。
千速の中の何かが切れた。
﹁⋮⋮真赤はやりすぎだと、私も反対したの﹂
﹁は?﹂
﹁でも、こっちではそれくらい何でもないとか言っちゃってっ!﹂
104
千速は春日にキッと視線を向け、ずいと迫った。
鬼気迫るものを感じたのか、春日が、じりっ、と後ずさる。
﹁派手だったでしょう?そうよね、私も凄く派手だったと思うもの。
派手だったから、目を引いたってことでしょう?﹂
サンタドレスくらいよ、日本人に真赤で許されるのは。
千速は眉を顰め、そう唸る。
﹁⋮⋮あの真赤なドレスの女性、ご存知なの?﹂
春日が、戸惑ったように口にする。
﹁ご存知って﹂
千速は、はっはと引き攣ったように笑った。
﹁鏡に映った自分は見ましたけど?派手だなって﹂
﹁⋮⋮ええっ!?﹂
春日は千速を指差し、目を見開いて叫んだ。
﹁あれっ! あの真赤なドレス!﹂
﹁真赤、真赤って繰り返されると、
地味にボディーブローでダメージが⋮⋮﹂
千速は鳩尾を押さえてよろめいた。
﹁って、加藤さんだったわけっ!?﹂
﹁私がエスコートするのが妻なのは、当然だろう﹂
背後から声が掛かって、二人は飛び上がった。
瑞穂が可笑しそうに千速を見つめている。
そんな瑞穂に千速はにじり寄った。
﹁だからっ!だからやだって言ったのよ﹂
﹁何が?﹂
瑞穂は空っとぼけた。
﹁真赤は、こっちでもやっぱり真赤で、派手なのよ!
どうせ誰にも見られないとか、嘘ばっかり。
あんな格好見られたなんて、恥ずかしくて仕事できない﹂
千速は、ぶん、と春日を振り返った。
﹁あれは、私の趣味じゃないの。支社長の趣味⋮⋮﹂
105
﹁おい﹂
﹁あ、私、今何も聞こえませんでした﹂
春日がひょいと肩を竦めた。
﹁う゛。裏切り者。見たの春日さんだけですか?﹂
﹁ええ、まあ﹂
がしっとその手を握り、千速は身を乗り出した。
﹁お願い。内密に。真赤とか⋮⋮特に、真赤とか﹂
春日は間近に頬を染める千速の顔を見て、
どうやら、何かを納得したようだ。
﹁言いませんよ、真赤なドレス着てたなんて﹂
﹁い、言ってるじゃないですかっ!﹂
﹁しかも、支社長といちゃいちゃしていたとか﹂
くぅぅーーーっ!と叫んで、千速は春日の口を塞いだ。
﹁お、面白がってますね﹂
﹁だって、面白いもの﹂
﹁いや、いちゃいちゃしていたとか、誤解が﹂
﹁べたべたされていた﹂
﹁春日さん!私をいじめて楽しいですか?﹂
﹁すっごく楽しい﹂
瑞穂が笑いながら去っていくのを、千速は背後に感じた。
︱︱おのれ、瑞穂め。
その後、瞬く間に﹁美女科もしかしたら属﹂は消え失せた。
﹁︱︱何で?﹂
千速は首を捻ったが、当然である。
﹁やってらんない。
御曹司がベロベロに惚れ込んだ女を、
わざわざ地味に装わせて近くに侍らせとくとか、
物凄い執着の一端を垣間見るようで空恐ろしいわ﹂
春日がそう触れ回っていたことなど、千速は知る由もない。
106
﹁それなのに、
プライベートではえらく派手に装わせて連れ歩いてるんだから。
赤よ。赤いドレス。それも真赤。完全に見せびらかしてたわね、
あれは﹂
ついでに、そう付け加えられていたなんてことも。
千速は、あっという間に職場に溶け込んだのだった︱︱
107
デフォルトでいこう︵後書き︶
皆様の応援に感謝をこめて。
108
愛の夢
︱︱そのピアノリサイタルの演目はリストだった。
渡米してからこちら、瑞穂は確かに多忙である。
しかし日本にいた頃のように、
多方面から際限もなく仕事が押し寄せる、ということはないため、
却って時間のコントロールは容易になっている。
同僚からピアノリサイタルのチケットを二枚譲られた千速は、
せっかくだからと、瑞穂と連れ立って出かけたのだった。
﹁お前はピアノを弾くのか?﹂
﹁弾けないわけじゃないわよ﹂
千速は瑞穂と腕を絡めながらコンサートホールの階段を上った。
若草色のシルクタフタのワンピースの裾が、さらりと揺れる。
﹁でも、竜兄の方が上手だったわね。瑞穂は?﹂
﹁まあ、ショパンをどうにか﹂
﹁ああ、いやだ。
ここにも華麗にピアノを弾きこなす貴公子が。
そのスキル、変なことに使ってないでしょうね﹂
﹁変なこと?﹂
﹁竜兄はショパンの﹃幻想即興曲﹄だったらしいの﹂
﹁何が﹂
﹁﹃キメの一曲﹄よ。
女の子は、ショパンが好きな娘、多いじゃない﹂
﹁⋮⋮竜海さんが? っていうより、何でお前がそれを知っている﹂
﹁ふふふ。私が大人しく竜兄の妹をやっていたと思ったら、大間違
109
いよ。
色々な駆け引きや手管を、こっそり学ばせていただきました﹂
のわりに、ニブかったじゃないか、と瑞穂が思ったことなど
千速は知らない。
﹁それで?
瑞穂の﹃キメの一曲﹄は何だったの?﹂
悪戯っぽく瑞穂を見上げる千速は、したり顔で続ける。
﹁過去のオイタのお話なら、結婚式の二次会で免疫があるから、
そこそこなら、許してあげる﹂
瑞穂は苦笑した。
母は残念そうな顔をしていたが、
ピアノは小学校を卒業と同時に、やめてしまっていた。
﹁そのつもりがあったとしても、﹃子犬のワルツ﹄じゃ、無理だっ
たろうな﹂
﹁そういう意外性が、実はぐぐっとくるのかもよ﹂
千速が、くすくす笑いながら、そう口にした時︱︱
﹁︱︱瑞穂﹂
開演前の賑わったロビーで、その声はとても通って聞こえた。
呼び止められて、瑞穂が振り向く。
﹁恵理﹂
110
瑞穂が名前で呼ばれ、名前を呼んだことからして、
その女性は、彼にとってはある意味特別な存在なのだと知れた。
千速も、その声の主の方に身体を向ける。
瑞穂を呼び止めたのは、何となく見覚えがあるような雰囲気の女だ。
︱︱どこかで会ったことが?
黒いジョーゼットのワンピースを、すらりと着こなした姿。
少し切れ上がった大きな目。
色素の薄い髪は、ハーフアップにされ、華やかだ。
︱︱私に、似ている?
千速は目を瞬かせた。
恵理、と呼ばれた女性は、千速のその反応を見て小さく微笑む。
﹁佐伯恵理。学生時代の友人だ。
こっちは妻の千速﹂
・・
瑞穂が、口許に笑みを浮かべて紹介する。
妻のを微妙に強調したことを聞き取って、
千速は頬を赤らめた。
﹁風の噂に聞いていたわ。
結婚おめでとう、でいいのかしら?﹂
佐伯は、瑞穂に向かって優雅に首を傾げた。
﹁彼女には、話していないの?
111
﹃本物﹄を探していたんだって。
それとも、﹃似て非なるモノ﹄が﹃本物﹄に変わった?﹂
それから、千速に向かってこう続ける。
﹁私に初めて声を掛けた時、
瑞穂は﹃似て非なるモノか﹄なんて、失礼なことを言ったのよ﹂
﹁莫迦を言うな、恵理。
俺がそんな紛い物で手を打つと思うか?﹂
瑞穂は千速の腰に手を回てぐっと引き寄せ、口角を上げた。
﹁見つけたぞ、俺は、本物を﹂
そう言って、甘やかな視線で千速を見下ろす。
佐伯の瞳に微かに痛みのようなものが走ったのを、千速は見た。
しかし、それはすぐに見えなくなり、穏やかな声が瑞穂に向けられ
た。
﹁そうなの。じゃあ、本当におめでとうなのね﹂
伏せられた瞼が一瞬震えたが、柔らかな微笑みが千速に向けられた。
﹁瑞穂は、とても一途にあなたを探していたのよ。
側にある何かを代わりにしようとはしなかった﹂
私では代わりになれなかった︱︱どんなに望んでも。
その瞳は、そう語っていた。
千速は、ただ微笑み返すしかできなかった。
112
﹁お前も、結婚すると聞いた﹂
瑞穂のセリフに、佐伯はくっと顎を上げ、艶然と微笑んだ。
﹁そうよ。私のことを、とても愛してくれる人を見つけたの。
いつまでも友情を装って、誰かの代わりを望むような不毛なこと
はやめたわ。
私、幸せになるのよ﹂
﹁︱︱そうか。幸せになれ﹂
佐伯は﹁当然よ﹂と言って笑い、くるりと背を向け、去って行った。
﹁︱︱ねぇ、瑞穂﹂
その後ろ姿を見つめながら、千速は瑞穂に身を寄せた。
﹁何だ?﹂
﹁どうして︱︱⋮⋮﹂
﹁どうして?﹂
﹁⋮⋮ううん。何でもない﹂
千速は瑞穂の腕を取ると、その瞳を探った。
彼女の気持ちは、あんなにもわかりやすく側に在ったのに、瑞穂は
迷わなかった?
﹁⋮⋮俺が欲しかったのはお前だ。
似ている誰かじゃなくて﹂
そう言うと、瑞穂は千速の頬にかかる髪をそっと払った。
113
﹁迷うことも許されなかったんだ、俺は﹂
だから、きっちり責任を取って俺の側にいるんだな。
そう続けて瑞穂は歩き出す。
何となく頬が赤いのは、見間違いじゃないと思う。
﹁側にいてくれ﹂じゃなくて、﹁側にいるんだな﹂、ね︱︱
瑞穂の横を歩きながら千速は、くす、と笑った。
俺様瑞穂様は、時々千速の心のどうしようもない深いところに踏み
込んで、
その存在を刻み込んでいく。
﹁欲しかったのお前だ﹂とか。
* * *
﹁愛の夢﹂が、ロマンティックに奏でられている。
その調べに耳を澄ませながら、千速は思う。
元々は歌曲で、歌詞を持つこの曲は、色々な解釈があるが、
人類愛を謳っているとか、神への愛を謳っているとかいわれる。
︱︱おお、愛しうる限り愛せ!︱︱
でも、こんなに抒情的な曲を捧げるのならば、
それは心から愛する誰かに、ではないのかしら?
隣の席からそっと手が伸びてきて、千速の手を握った。
リストは弾かない、と瑞穂は言った。
聴くばかりだ、と。
114
千速も、リストを弾くほどではなかった。
でも。
今度、練習してみようかしら︱︱
瑞穂を口説く、﹁キメの一曲﹂として。
115
愛の夢︵後書き︶
書籍に入れようとして、入らなかった部分を少しアレンジしました。
ちょうど、フィギュアの浅田選手が、この曲を使っていましたね。
116
指輪
︱︱その指輪に目を引かれた
デパートの外商が瑞穂の前に並べたのは、
品質も価格もハイブランドの名に恥じぬ、素晴らしいものばかり
だ。
目的からすれば当然のことながら、似たようなデザインのものば
かりではあるが。
大きなダイヤがセッティングされたもの。
あるいは、そのダイヤをもう少し小さなダイヤが取り囲むもの。
あるいは、そのリングにもダイヤがあしらわれたものなどだ。
約束の一年には、まだ半年もある。
しかし瑞穂は、すでに千速への婚約指輪を選ぼうとしていた。
﹁こちらですか?﹂
外商の販売員が、瑞穂の視線をたどって、その指輪を瑞穂に手渡
した。
どこが、なのかわからないが、﹁これだ﹂とわかった。
それは、瑞穂が初めて千速と出逢った時の感覚に似ている。
その指輪は、華奢なリングに、ラウンドカットのダイヤがひと粒
セットされていた。
シンプルだが、しかし、その石自体の美しさで目を引く。
そうだ、そういえば華美な装飾など、千速には相応しくなかった。
﹁これで﹂
瑞穂があっさり言うと、
117
後ろから眺めていた従兄で秘書の恵吾が慌てたように言った。
﹁おい、他のを見ないでいいのか﹂
﹁何で﹂
﹁いや、普通迷うというか、いくつか手に取って比べたりするだろ
う⋮⋮﹂ 販売員も、他にもたくさん種類がありますよ、というように苦笑
している。
品物を広げて五分もしない内に決まるなどと︱︱しかも婚約指輪
だ︱︱
思いも寄らなかっただろう。
﹁同じタイプの指輪でも、微妙にデザインが異なるのですが⋮⋮﹂
指し示されたいくつかは、
確かに装飾のないリングに、ひと粒のダイヤがセットされたもの
なのだが、
そのセッティングの方法が違うのか、瑞穂には全く違った雰囲気
に思えた。
﹁やっぱりこれだ﹂
﹁だから、少しは迷えよ﹂
呆れたように呟く恵吾に、瑞穂は言った。
﹁わかるんだよ。お前も、きっとそうなったらわかる﹂
﹁︱︱何だ、その哲学者みたいな言いようは。
疲れているんだな。そうだ、お前は疲れている。俺も疲れている
が﹂
118
くくくと笑って、瑞穂は販売員にサイズ直しと文字入れを指示し、
引き取らせた。
確かに、瑞穂にしろ恵吾にしろ、
あわよくば足を引っ張ろうとする勢力に対抗すべく、
がむしゃらに、要求されるスピードと成果以上のものを上げよう
と必死だ。
表向きは、あくまでも泰然自若と振る舞っているが。
﹁ところで、何で、サイズを知っているんだ﹂
﹁千速のお袋さんに教えてもらった﹂
﹁お前、どこからどうやって手を回しているんだ。こんなに忙しい
のに﹂
﹁忙しくても、外せない所はしっかり押さえていく﹂
そう言って、瑞穂は口を引き結んだ。
会えない間にも、千速の噂は瑞穂の所に届いている。
﹃神世建設の社長令嬢が、公の場に顔を出し始めたようだ﹄
﹃ついこの間まで、社交の場にほとんど姿を見せなかったが、
最近、両親や兄に連れられて姿を現すようになった﹄
﹃二十代半ば、そろそろ結婚相手を探そうという事かもしれぬ﹄と
いう風に。
先日の政財界交えてのパーティーでは、
兄にエスコートされて現れ、その華やかな美しさと知性で話題を
攫ったようだ︱︱
もちろん、﹁ようだ﹂だ。
その場に瑞穂は居合わせることはなかったのだから。
実に巧妙に、瑞穂と千速はすれ違っている。
119
聞くところによれば、銀行頭取の息子で高級官僚の男は、
どうせ、君には理解できないだろうが﹂というスタンスで
千速と始めた小難しい経済政策の議論が、思いの外白熱して
﹁席を移してもっとじっくり議論を尽くしたい﹂と言ったそうだ。
その議論に加わっていた政治家の世襲三世は、
﹁それだけの見識を持ち合わせているのであれば、
どこぞの有閑マダムになるのはもったいない、
一緒に政治の世界で活躍してみないか﹂と誘ったらしい。
他にも、大企業の後継者達がその輪に加わり、
それはもうそうそうたるメンバーになっていたようだ。
恐らく千速にはそんなつもりは全くなかったのであろうが、
周囲の男共に半端ないインパクトを与えた挙句、
﹁今日は色々な立場の方とお話が出来て有意義でした﹂
のあっさりしたひとことと、艶やかな微笑みを残して、
兄に伴われて振り返りもせず去って行ったのだそうだ。
その去り際には、未練たらたらの男共が
連絡先を我先にと彼女に差し出したのだが、
それらの名刺︵個人のスマートフォンのナンバー、メールアドレ
ス入り︶は
ひとまとめにされて、無造作にクラッチバッグに押し込まれたの
だ。
神世建設社長令嬢が次に出席するパーティーの情報を、
みんな必死に収集しようとしている︱︱らしい。
瑞穂はいつの間にか自分が拳を握りしめていることに気付き、意
識して力を緩めた。
ポンと頭の上に手が置かれ、わしわしと整えた髪を乱される。
﹁何するんだ、恵吾﹂
120
﹁久々に、お前が年下の可愛い従弟だってことを思い出したよ。
心配するな。彼女は加藤で守ってもらっている。
お前に相応しく隣に立てるように、周辺を整えているだけだ﹂
恵吾がニヤリと笑った。
﹁確かに、えらいキレる女だとは思った。物怖じもしないしな。
しかし、俺はあの地味なOLがどんな風に化けたのか、そこに興
味をそそられるね﹂
瑞穂はふふん、と笑って言った。
﹁アレは本人によれば﹃お仕事バージョン﹄なんだそうだ。そっち
が化けてる方﹂
一瞬呆気にとられて、﹁侮れねー﹂と恵吾が噴出した。
あの指輪は、もちろん千速のための物である。
しかし、一方で、瑞穂のための物でもある。
﹁一年で必ず迎えに行く﹂という誓いの印︱︱
これを必ず千速の左手薬指に嵌めてみせる、という決意の証︱︱
そして今、約束の一年を迎え。
瑞穂の腕の中で、この一年の瑞穂の葛藤や焦りなど知る由もなく
眠る千速がいる。
その左手の薬指にそっと指輪を嵌めて、瑞穂はようやく満足した。
この指輪は、お前のようだと思ったんだ。
たくさんの似たような物の中、一際目を引く存在感で。
121
身じろぎした千速が、ゆっくりと覚醒した気配がした。
瑞穂の腕の中からそっと抜け出して、身体を起こし︱︱
違和感を感じたのか、左手を目の前に持ってきて固まった。
上掛けを抱え込み、微かに首を傾げる千速の背中に、瑞穂は言う。
﹁それは、保険だ﹂
振り返った千速が、訝しげに繰り返す。
﹁保険?﹂
瑞穂は千速の腕を引き、再びベッドに沈めてその顔を見下ろした。
大きな猫目が、様々な感情を映して瑞穂を見上げている。
喜びと、戸惑いと、それから、ちょっとした怒り。
瑞穂はその瞳を見つめたまま、千速の左手を取り、薬指に唇を寄
せた。
︱︱ Dec.24.20XX promise ︱︱
指輪に刻んだ文字は、千速に伝わるだろうか?
八年前の約束も、一年前の約束も、叶えられた。
これは、これから先、未来への約束だ。
きっと、幸せにする。
︱︱余談であるが。
この時の、説明不足で不用意な︱︱だが、ある意味瑞穂の本音に
近い︱︱
ひとこととやり方に、千速が不満を爆発させるのは、また別の話
である。
122
﹁﹃保険﹄ってなに、﹃保険﹄って!
それが、仮にも一生を共にしてくれって申し込む言葉っ?
しかも、指輪は渡されたわけじゃないのよ。
いつの間にか嵌められていたのっ!﹂
123
指輪︵後書き︶
2013年﹁どこでも読書エタニティフェア﹂参加作品です。
出版社の許可をいただきまして、こちらで再掲載させていただきま
した。
124
聖なる贈り物
森羅のクリスマスパーティは、今年もまた盛大に催されている。
ウェルカムドリンクを片手に、見知った顔を呼び止めあるいは呼び
止められ、
さざめく人々の間を瑞穂は流れるように歩く。
パーティーはまだ始まったばかりだ。
春先にニューヨーク支社長の任を解かれ帰国した彼は、
森ホールディングスの専務に就任した。
約二年に渡る駐在期間はもちろん多忙であったが、
公私が比較的しっかりと線引きしやすかったことを考えれば、
長いハネムーンのようなものだったとも言える。
しかし今は。
かつて父が倒れた時ほどではないにせよ、
その任に相応しい実力があるかどうか︱︱
森羅の後継者として相応しいかどうかを試されている。
再び瑞穂の側に付いた時田と共に、ひたすらに、がむしゃらに、
その証を立てるべく仕事に取り組む日々だ。
彼の妻は︱︱千速は、と言えば⋮⋮
華やかに着飾った人々の間から、
押しの強そうな男が現れ、ニヤリと笑いかけてきた。
﹁気もそぞろだな、瑞穂﹂
おさなご
まだたどたどしい足運びの幼児の手を引き、近付いてくる。
125
﹁でもまあ、その気持ち、わからなくはない﹂
そう言って、彼は愛しそうに自分の娘を見下ろした。
﹁ようこそ、誠さん﹂
瑞穂は、彼の兄貴分でもある桜井をそう歓迎する。
それから、屈んでその娘に微笑みかけた。
かおる
﹁薫ちゃんも、ようこそ﹂
ワインレッドのワンピースを身に着けた幼児の、
市松人形のような面差しは、美しい彼女の母にそっくりだ。
﹁ますます実里だな﹂
そう呟く瑞穂を、大きな目を瞬かせて見上げると、
はにかんだように、父の脚にしがみついた。
﹁本人がこんなふうに恥じらう様を見たことはないが﹂
﹁寄るな、近い﹂
上から降って来た不機嫌な声に、瑞穂はくす、と笑う。
﹁取って食いやしませんよ、誠さん。
そもそも、実里に食指が動いたことはなかったんですから﹂
﹁それはお互いさまよ﹂
桜井の後ろから現れた、訪問着姿のかつての同期は艶やかに微笑ん
だ。
126
﹁こんばんは、瑞穂。
大変だわね。
病院から来たんでしょう?﹂
瑞穂は頷いた。
﹁ここに来るギリギリまで側についていたんだが、
大丈夫だから行ってこいと、千速に追い立てられた。
あんなに辛そうなのに、何が大丈夫なんだ﹂
そう、千速は今まさに産みの苦しみの中にある。
瑞穂はスマートフォンをポケットから出し、ちらりと確認するが、
彼女に付き添っている義母からの連絡は、まだない。
﹁もう十時間だ﹂
不規則だった陣痛が、だんだん定期的になり、
間隔が短くなり、それに伴って痛みが増してゆく︱︱
必死に息を整え、それに耐える千速は、
信じられないような力で瑞穂の手を握っていたというのに。
千速の側にいて、彼女が戦うのをただ見守るしかない歯がゆさを味
わうのは、
今に始まったことではない。
ではあるのだが︱︱
こんなふうに苦しむ様を目の当たりにするのは初めてで、
それが瑞穂を心許無くさせた。
だというのに。
﹃大丈夫よ、瑞穂。
127
心配しないで。
パーティーが終わる頃には、
森羅の新しい、小さな後継者がここで待っているわよ、たぶん﹄
汗ばんだ額に張り付いた髪をそっと払う瑞穂に、
千速はそう言って微笑んだのだった︱︱
﹁そりゃあ辛い思いをしても、それだけのものが待っているんだも
の。
十時間かかろうが、二十時間かかろうが、
耐えられるし、大丈夫なのよ﹂
実里が娘の頭を撫でながら、母の顔で笑った。
﹁それに千速のことだもの。
自分は自分の持ち場で精一杯頑張るから、
瑞穂は瑞穂の持ち場で、
期待される役目をきちんと果たして来いって言いたかったんじゃ
ないの?﹂
瑞穂は苦笑した。
長い付き合いなだけあって、実里は遠慮ない物言いをするし、
千速や瑞穂のことをよくわかっているのだ。
﹁⋮⋮かもな﹂
時田が人波の間から現れ、目線で瑞穂を促した。
︱︱やれやれ。
森羅後継者として、期待される役目を果たしてくるとするか、千速。
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﹁では、楽しんで﹂
そう言い残して、瑞穂は桜井一家から離れた。
﹁あのピリピリした雰囲気、
身重の妻のもとに駆け付けたいがためとは、
誰も想像しないでしょうねぇ﹂
どこからどう見ても、隙の無い切れ者森羅御曹司って態だもの。
さすがよね。
その後ろ姿を見送りながら、実里がくふりと笑う。
﹁瑞穂も加藤の前ではただの男というわけだろう。
俺だって実里の前ではただの男に成り下がる﹂
﹁そうだったんですか?﹂
実里が悪戯っぽく目を瞬かせる。 ﹁そうだったんだよ﹂
桜井はそう言って、彼の愛する妻の腰に手を回した。
* * *
タクシーから飛び出すと、
瑞穂は自動ドアに肩をぶつけながら慌てて病院に駆け込んだ。
面会時間ギリギリだが、それなりに行き交う人は多い。
場違いなタキシード姿のまま血相を変えて急ぐ様に、
通りすがる人々が振り返って見ているのがわかったが、今は気にな
らない。
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足早に病室に向かい、ノックもそこそこにドアを開ける。
ベッドの上の千速は、疲れが残る青褪めた顔をしていたが、
瑞穂の姿を認めると、柔らかい輝くような微笑みを浮かべた。
﹁瑞穂﹂
ベッドからゆっくり身体を起こした千速が、
傍らに置かれた小さなベッドを覗き込む。
﹁眠ってるの﹂
瑞穂はその場に立ち尽くしたまま、視線をそこに向けた。
﹁瑞穂?﹂
透明な籠のようなベッドに、瑞穂は息をひそめて近付く。
小さくて、赤くて、皺くちゃのそれは、
白い産着と白いタオルに包まれて、そこにいた。
少しこちらに向いた顔は、誰に似ているのか、今は正直わからない。
しかし︱︱
瑞穂は指先で、そっとその目元に触れた。
小さな黒子がそこに︱︱
やっぱり、お前だったか。
あきほ
﹁︱︱明穂﹂
眠っているはずの赤子の目が不意に開き、
その声の主を探すかのように、周囲を見回した。
130
﹁瑞穂の声がわかるのね﹂
千速が囁く。
瑞穂は笑った。
﹁違う。
自分の名前を呼ばれたのが聞こえたんだ﹂
以前、瑞穂は夢を見たことがある。
胸元に突然かかる重みに目を開けると、
自分を見下ろす自分そっくりの子供の顔︱︱
しかし、髪は癖のある茶色で、右の目元には黒子があった。
明穂。
その男の子を、千速はそう呼んで抱き上げた︱︱
そういう、夢だった。
・・
﹁瑞穂の見た、明穂なのかしら?﹂
千速が指を握らせながら、うっとりと赤子に微笑みかける。
﹁そうみたいだな。
だから、初めまして、じゃない。
ようこそ、だな﹂
﹁じゃあ、名前はもう決まりね﹂
﹁自分で名乗ったんだから、それに従ってやるべきだろう?﹂
ふふ、と笑って見上げる千速に、瑞穂は口づけを落とした。
﹁ありがとう、千速。すごい贈り物だ﹂
﹁私も、こんなに素敵な贈り物をもらったの、初めてよ﹂
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明穂と名付けられることが決まった赤子が、
両親の見守る中、はふ、と大きく欠伸をして目を閉じた。
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聖なる贈り物︵後書き︶
アルファポリス様、エタニティ番外編SS﹁明け方の夢﹂の続きと
なります。
﹁明け方の夢﹂はエタニティサイトの特別番外編、バックナンバー
より、読むことが出来ます。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n3418bj/
通りすがりの王子
2014年12月23日19時07分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
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