草
枕
やま みち
一
かど
じょう
さお
山路を登りながら︑こう考 えた︒
ち
智に働けば角が立つ︒ 情 に棹させば流される︒意地
とかく
を通せば窮屈だ︒兎角に人の世は住みにくい︒
こう
住みにくさが高じると︑安い所へ引き越したくなる︒
え
どこへ越しても住みにくいと悟った時︑詩が生れて︑画
が出来る︒
5
ただ
、の
、世
、を作ったものは神でもなければ鬼でもない︒矢
人
つか
ま
ゆえ
たっ
長閑にし︑人の心を豊かにするが故に尊とい︒
のどか
に画家という使命が降る︒あらゆる芸術の士は人の世を
くだ
くせねばならぬ︒ここに詩人という天職が出来て︑ここ
どれほどか︑寛容て︑束の間の命を︑束の間でも住みよ
くつろげ
越す事のならぬ世が住みにくければ︑住みにくい所を
、の
、世
、よりも猶住みにくかろう︒
国は人
なお
、で
、で
、な
、し
、の国へ行くばかりだ︒人
、な
、し
、の
まい︒あれば人
ゆ
、の
、世
、が住みにくいからとて︑越す国はある
人が作った人
張り向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である︒唯の
6
わずら
住みにくき世から︑住みにくき 煩 いを引き抜いて︑
ありがた
難有い世界をまのあたりに写すのが詩である︑画である︒
い
わ
あ る は 音 楽 と 彫 刻 で あ る ︒ こ ま か に 云 え ば 写 さな い で も
ただ
おん
きょ うり
たん せい
よい︒只まのあたりに見れば︑そこに詩も生き︑歌も湧
き ゅ う そう
け ん らん
お のず
く︒着想を紙に落さぬとも 璆 鏘の音は胸裏に起る︒丹青
とまつ
は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は 自 から心眼
れいだいほうすん
う
に映る︒只おのが住む世を︑かく観じ得て︑霊台方寸の
ぎょうきこんだく
カメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足
おい
ぼんのう
る︒この故に無声の詩人には一句なく︑無色の画家には
せっけん
尺縑なきも︑かく人世を観じ得るの点に於て︑かく煩悩
7
げだつ
り しよく
きはん
ばんじょう
りも幸福である︒
きみ
じ
そう と う
しょうじょ う かい
けんこん
ひょうり
ごと
しゅつにゅう
こん り ゅ う
こんにち
たのし
い
ちょう じ
しみも大きい︒これを切り放そうとすると身が持てぬ︒
︱︱喜びの深きとき 憂 愈 深く︑ 楽 みの大いなる程苦
うれいいよい よ
は屹度影がさすと悟った︒三十の今日はこう思うている︒
きっと
た︒二十五年にして明暗は表裏の如く︑日のあたる所に
めいあん
世 に 住 む こ と 二 十 年 に し て︑ 住 むに 甲斐 あ る 世 と知 っ
か
の子よりも︑万 乗の君よりも︑あらゆる俗界の寵児よ
こ
於 て ︑ 我 利 私慾 の 覊 絆 を 掃 蕩 す る の 点 に 於 て ︑ ︱ ︱ 千 金
が
点に於て︑又この不同不二の乾坤を建 立 し得るの点に
ふどう ふ
を 解 脱 す る の 点 に 於 て ︑ か く 清 浄 界に 出 入 し得るの
8
ま
うれ
片付けようとすれば世が立たぬ︒金は大事だ︑大事なも
ね
のが殖えれば寐る間も心配だろう︒恋はうれしい︑嬉し
い恋が積もれば︑恋をせぬ昔がかえって恋しかろ︒閣僚
せなか
の肩は数百万 人の足を支えている︒脊中には重い天下が
おぶさっている︒うまい物も食わねば惜しい︒少し食え
かんが え
うそく
ば飽き足らぬ︒存分食えばあとが不愉快だ︒⁝⁝
よ
かくいし
そ
余の 考 がここまで漂 流して来 た時に︑余の右足は突
すわ
さそく
然坐 り の わ る い 角 石 の 端 を 踏 み 損 く な っ た ︒ 平 衡 を 保 つ
た
為めに︑すわやと前に飛び出した左足が︑仕損じの埋め
ほう
合せをすると共に︑余の腰は具合よく方三尺程な岩の上
9
お
そび
つ
ぐん
てっ ぺん
あおぐろ
しか
わき
すぎ
ひのき
まゆ
もや
せま
ちょう
の間の空さえ判然している︒行く手は二 丁 程で切れて
はっ きり
底に埋めている︒天辺に一本見えるのは赤松だろう︒枝
うず
面 は 巨 人 の 斧 で 削 り 去 っ た か ︑ 鋭 ど き 平面 を や け に 谷 の
おの
手前に禿山 が一つ︑群をぬきんでて眉に逼る︒禿げた側
はげやま
だらに棚引いて︑続ぎ目が確と見えぬ位靄が濃い︒少し
たなび
根 元 か ら 頂 き ま で 悉 く 蒼 黒い 中に︑ 山 桜 が薄 赤 く だ ん
ことごと
を伏せた様な峯が聳えている︒杉か 檜 か分からないが
みね
立 ち 上 が る 時に 向 う を 見 る と ︑ 路 か ら 左 の 方 に バ ケ ツ
だけで︑幸いと何の事もなかった︒
に卸りた︒肩にかけた絵の具箱が腋の下から躍り出した
10
ケット
なんぎ
いるが︑高い所から赤い毛布が動いて来るのを見ると︑
すこぶ
登ればあすこへ出るのだろう︒路は 頗 る難義だ︒
い
土をならすだけならさほど手間も入るまいが︑土の中
ほりくず
には大きな石がある︒土は平らにしても石は平らになら
そば だ
われら
ぬ︒石は切り砕いても︑岩は始末がつかぬ︒堀崩した土
ゆ う ぜん
の上に悠然と 峙 って︑吾等の為めに道を譲る景色はな
まわ
い︒向うで聞かぬ上は乗り越すか︑廻らなければならん︒
いわ
く
巌のない所でさえ歩るきよくはない︒左右が高くって︑
くぼ
中心が窪んで︑まるで一間幅を三角に穿って︑その頂点
まんな か
が真中を貫いていると評してもよい︒路を行くと云わん
11
わた
なな まが
ひばり
から︑ぶらぶらと七曲りへかかる︒
たちま
もと
つまでも登って行く︒雲雀は屹度雲の中で死ぬに相違な
気が済まんと見える︒その上どこまでも登って行く︑い
の日を鳴き尽くし︑鳴きあかし︑又鳴き暮らさなければ
る︒あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない︒のどかな春
ね
の空気が一面に蚤に刺されて居たたまれない様な気がす
のみ
聞える︒せっせと忙しく︑絶間なく鳴いている︒方幾里
せわ
どこで鳴いてるか影も形も見えぬ︒只声だけが明らかに
忽 ち足の下で雲雀の声がし出した︒谷を見下したが︑
みおろ
より川底を渉ると云う方が適当だ︒固より急ぐ旅でない
12
い
うち
い ︒ 登 り 詰 め た 揚 句 は ︑ 流れ て 雲 に 入 っ て︑ 漂 う て い る
あんま
まっさかさま
う ち に 形 は 消 え て な く な っ て︑ 只 声だ け が 空 の 裡に 残 る
のかも知れない︒
いわかど
巌角を鋭どく廻って︑按摩なら真逆様に落つる所を︑
きわ
際どく右へ切れて︑横に見下すと︑菜の花が一面に見え
る︒雲雀はあすこへ落ちるのかと思った︒いいや︑あの
こがね
黄金の原から飛び上がってくるのかと思った︒次には落
あが
ちる雲雀と︑上る雲雀が十文字にすれ違うのかと思った︒
最 後に ︑ 落 ち る 時も ︑ 上 る 時も︑ ま た 十文字 に擦 れ違 う
ときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った︒
13
ねこ
ねずみ
と
春は眠くなる︒猫は 鼠 を捕る事を忘れ︑人間は借金
いどころ
め
さ
えた所だけ暗 誦 して見たが︑覚えている所は二三句し
あん し ょ う
忽ちシェレーの雲雀の詩を思い出して︑口のうちで覚
なるのが詩である︒
あるものはない︒ああ愉快だ︒こう思って︑こう愉快に
魂 の 活 動 が 声 に あ ら わ れ た も の の う ち で︑ あ れ 程 元 気 の
雀の鳴くのは口で鳴くのではない︑魂全体が鳴くのだ︒
る︒雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する︒雲
はん ぜん
正 体なくなる︒只菜の花を遠く望んだときに眼が醒め
しょうたい
のある事を忘れる︒時には自分の魂の居所さえ忘れて
14
かなかった︒その二三句のなかにこんなのがある︒
We look before and after
And pine for what is not:
Our sincerest laughter
With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of
saddest thought.
しり
﹁前を見ては︑後えを見ては︑物欲しと︑あこがるるか
わ らい
なわれ︒腹からの︑ 笑 といえど︑苦しみの︑そこにあ
おもい
るべし︒うつくしき︑極みの歌に︑悲しさの︑極みの 想 ︑
15
こも
うれい
ぞうきやま
ナ
し ろう と
しばらくは路が 平 で︑右は雑木山︑左は菜の花の見
たい ら
んならば詩人にな るのも考え物だ︒
ん︒超俗の喜びもあろうが︑無量の 悲 も多かろう︒そ
かな しみ
りも苦労性で︑凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れ
ぼんこつ
なら一合で済むかも知れぬ︒して見ると詩人は常の人よ
万斛の 愁 などと云う字がある︒詩人だから万斛で素人
ば ん こく
は行くまい︒西洋の詩は無論の事︑支那の詩にも︑よく
シ
て︑一心不乱に︑前後を忘却して︑わが喜びを歌う訳に
成程いくら詩人が幸福でも︑あの雲雀の様に思い切っ
な る ほど
籠るとぞ知れ﹂
16
た ん ぽ ぽ
のこぎり
ようご
つづけである︒足の下に時々蒲公英を踏みつけ る︒ 鋸
たま
の様な葉が遠慮なく四方へのして真中に黄色な珠を擁護
している︒菜の花に気をとられて︑踏みつけたあとで︑
気の毒な事をしたと︑振り向いて見ると︑黄色な珠は依
のんき
然として鋸のなかに鎮座している︒呑気なものだ︒又考
えをつづける︒
うれい
詩人に 憂 はつきものかも知れないが︑あの雲雀を聞
みじん
く 心 持 に な れ ば 微 塵 の 苦 も な い ︒ 菜 の 花 を 見 て も ︑ 只う
れしくて胸が躍るばかりだ︒蒲公英もその通り︑桜も︱︱
桜はいつか見えなくなった︒こう山の中へ来て自然の景
17
うま
な
ぜ
旨いものが食べられぬ位の事だろう︒
しか
み
おもしろ
が
労も心配も伴わぬのだろう︒自然の力はここに於て尊と
たっ
景色が景色としてのみ︑余が心を楽ませつつあるから苦
が︱︱腹の足しにもならぬ︑月給の補いにもならぬこの
ば︑鉄道をかけて一儲けする了見も起らぬ︒只この景色
ひともう
り詩である以上は地面を貰って︑開拓する気にもならね
もら
の画として観︑一巻の詩として読むからである︒画であ
え
然し苦しみのないのは何故だろう︒只この景色を一幅
いっぷく
けで別段の苦しみも起らぬ︒起るとすれば足が草臥れて︑
くたび
物に接すれば︑見るものも聞くものも面白い︒面白いだ
18
とうや
じゅんこ
い︒吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境
い
に入らしむるのは自然である︒
ま
恋はうつくしかろ︑孝もうつくしかろ︑忠君愛国も結
つむじ
構だろう︒然し自身がその局に当れば利害の旋風に捲き
くら
込まれて︑うつくしき事にも︑結構な事にも︑目は眩ん
げ
でしまう︒従ってどこに詩があるか自身には解しかねる︒
これがわかる為めには︑わかるだけの余裕のある第三
者の地位に立たねばならぬ︒三者の地位に立てばこそ芝
居は観て面白い︒小説も見て面白い︒芝居を見て面白い
人も︑小説を読んで面白い人も︑自己の利害は棚へ上げ
19
ている︒見たり読んだりする間だけは詩人である︒
それすら︑普通の芝居や小説では人情を免かれぬ︒苦
おこ
りよく
まじ
た︒飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返し
につきものだ︒余も三十年の間それを仕通して︑飽々し
あきあき
苦しんだり︑怒ったり︑騒いだり︑泣いたりは人の世
よりは余計に活動するだろう︒それが嫌だ︒
いや
存するかも知れぬが︑交らぬだけにその他の 情 緒は常
じ ょ う しょ
いだり︑泣いたりする︒取柄は利慾が交らぬと云う点に
とりえ
のもいつかその中に同化して苦しんだり︑怒ったり︑騒
し ん だ り ︑ 怒 っ た り ︑ 騒 い だ り ︑ 泣い た り す る ︒ 見 る も
20
ては大変だ︒余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞
する様なものではない︒俗念を放棄して︑しばらくでも
じん かい
塵 界 を 離 れ た心 持 ち に な れ る 詩 で あ る ︒い く ら 傑 作 で も
人情を離れた芝居はない︑理非を絶した小説は少かろう︒
どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼等の特色であ
きょう
げだつ
る︒ことに西洋の詩になると︑人事が根本になるから
いわ ゆる し い か
所謂詩歌の純粋なるものもこの 境 を解脱する事を知ら
ぬ︒どこまでも同情だとか︑愛だとか︑正義だとか︑自
かんこうば
ぜに
由だとか︑浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じてい
か
る︒いくら詩的になっても地面の上を馳けあるいて︑銭
21
の勘定を忘れるひまがない︒シェレーが雲雀を聞いて嘆
ゆう ぜ ん として な ん ざ ん を み る
しんりんひとしらず
こん りゅう
うら
めいげつきたりてあいてらす
十字のうちに優に別乾坤を建 立している︒この乾坤の
べつけんこん
弾 琴 復 長 嘯︑深林人不知︑明 月 来 相 照︒只二
きんをだんじてまたちょうしょうす
を流し去った心持ちになれる︒独 坐 幽 篁 裏︑
ひとりゆうこうのうちにざし
している次第でもない︒超然と出世間的に利害損得の汗
隣りの娘が覗いてる訳でもなければ︑南山に親友が奉職
のぞ
しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる︒垣の向うに
かき
採 菊 東 籬 下︑ 悠 然 見 南 山︒只それぎりの裏に暑苦
きくをとるとうりのもと
うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある︒
息したのも無理はない︒
22
くどく
ほととぎす
こんじきやしゃ
のち
すべ
功徳は﹁不如帰﹂や﹁金色夜叉﹂の功徳ではない︒汽船︑
こ
汽 車 ︑ 権 利 ︑ 義 務 ︑ 道 徳 ︑ 礼 義 で疲れ 果 て た 後 ︑ 凡 て を
ね
忘却してぐっすりと寐込む様な功徳である︒
二十世紀に睡眠が必要ならば︑二十世紀にこの出世間
的の詩味は大切である︒惜しい事に今の詩を作る人も︑
うか
さ か のぼ
詩を読む人もみんな︑西洋人にかぶれているから︑わざ
へんしゅう
おうい
わざ呑気な扁 舟を泛べてこの桃源に 溯 るものはない
もと
き ょ う がい
こころ がけ
様だ ︒ 余 は 固 よ り 詩 人 を 職 業に し て お ら ん か ら ︑ 王 維 や
えん めい
淵明の 境 界を今の世に布教して広げようと云う 心 掛も
かん きょう
何もない︒只自分にはこう云う感 興 が演芸会よりも舞
23
ありがた
踏会よりも薬になる様に思われる︒ファウストよりも︑
や
つ
ね
かつ
やまじ
しょ うよう
に蚊帳を釣らずに寐た男でもなかろう︒矢張り余った菊
か
見詰めていたのでもあるまいし︑王維も好んで竹藪の中
たけや ぶ
そう長く続く訳には行かぬ︒淵明だって年が年中南山を
ねん
勿論人間の一分子だから︑いくら好きでも︑非人情は
もちろん
したいからの 願 ︒一つの酔興だ︒
ねがい
自然から吸収して︑すこしの間でも非人情の天地に 逍 遥
ま
のも全くこれが為めである︒淵明︑王維の詩境を直接に
人絵の具箱 と三脚几を担いで春の山路をのそのそあるく
さんきゃくき
ハムレットよりも難有く考えられる︒こうやって︑只一
24
たけのこ
は花屋へ売りこかして︑生えた 筍 は八百屋へ払い下げ
たものと思う︒こう云う余もその通り︒いくら雲雀と菜
あ
ばしょ
の花が気に入ったって︑山のなかへ野宿する程非人情が
つの
あね
募ってはおらん︒こんな所でも人間に逢う︒じんじん端折
ほおかむ
り の 頬 冠 り や ︑ 赤 い 腰 巻 の 姉 さ ん や ︑ 時に は 人 間 よ り 顔
ひのき
の長い馬にまで逢う︒百万本の 檜 に取り囲まれて︑海
面を抜く何百尺かの空気を呑んだり吐いたりしても︑人
にお
な
こ
い
の臭いは中々取れない︒それどころか︑山 を越えて落ち
こよい
みよう
唯 ︑ 物 は 見 様 で ど う で もな る ︒ レ オ ナ ル ド ︑ ダ ︑ ヴ ィ
ただ
つく先の︑今宵の宿は那古井の温泉場だ︒
25
ことば
ありがたみ
すみだがわ
ぶ
おと
、の
、ま
、ま
、に写
が能から享ける難有味は下界の人情をよくそ
う
来ん︒然しあれは 情 三分芸七分で見せるわざだ︒我等
じょう
情はある︒七騎落でも︑墨田川でも泣かぬとは保証が出
しちきおち
の時 位 は淡い心持ちにはなれそうなものだ︒能にも人
ぐ らい
よし全く人情を離れる事が出来んでも︑せめて御能拝見
浮世小路の何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう︒
うきよこうじ
情 を し に 出 掛 け た 旅 だ か ら ︑ そ の 積 り で 人間 を 見 た ら ︑
の女も見様次第で如何様とも見立てがつく︒どうせ非人
い か よ う
つだが︑音はどうとも聞かれるとある︒一人の男︑一人
ンチが弟子に告げた 言 に︑あの鐘の音を聞け︑鐘は一
26
てぎわ
、の
、ま
、ま
、の上へ芸術と
す手際から出てくるのではない︒そ
ゆう ち ょ う
いう着物を何枚も着せて︑世の中にあるまじき悠 長 な
振舞をするからである︒
りょちゅう
しばらくこの旅 中に起る出来事と︑旅中に出逢う人
しょさ
い
間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう︒
す
な る べく
まるで人情を棄てる訳には行くまいが︑根が詩的に出来
つい
ゆうこう
たち
た旅だから︑非人情のやり序でに︑可成節倹してそこま
こ
いっしょ
で は 漕 ぎ 付 け た い も の だ ︒ 南山 や幽 篁 と は 性 の 違 っ た も
ひばり
のに相違ないし︑又雲雀や菜の花と一所にする事も出来
まいが︑可成これに近づけて︑近づけ得る限りは同じ観
27
ばあ
み
が
ことごと
ばしょう
ほっく
ね
せんぎ
くと見れば差し 支 ない︒画中の人物はどう動いても平
つかえ
をしては俗になる︒動いても構わない︒画中の人間が動
ぐって︑心理作用に立ち入ったり︑人事葛藤の詮議立て
かっとう
う︒然し普通の小説家の様にその勝手な真似の根本を探
人物と違って︑彼等はおのがじし勝手な真似をするだろ
ま
されたものと仮定して取こなして見よう︒ 尤 も画中の
もっ と
爺さんも婆さんも︱︱ 悉 く大自然の点景として描き出
じい
れから逢う人物を︱︱百姓も︑町人も︑村役場の書記も︑
屎 するのをさえ雅な事と見立てて発句にした︒余もこ
いば り
察点から人間を視てみたい︒芭蕉と云う男は枕元へ馬が
28
面以外に出られるものでない︒平面以外に飛び出して︑
こっち
立方的に働くと思えばこそ︑此方と衝突したり︑利害の
交渉が起ったりして面倒になる︒面倒になればなる程美
的に見ている訳に行かなくなる︒これから逢う人間には
むやみ
超 然 と 遠 き 上 か ら 見 物 す る 気 で ︑ 人情 の 電 気 が 無 暗 に 双
方 で 起 ら な い 様に す る ︒ そ う す れ ば 相 手 が い く ら 働 い て
ふところ
も︑こちらの 懐 には容易に飛び込めない訳だから︑つ
うち
まりは画の前へ立って︑画 中の人物が画面 の中をあちら
あいだ
こちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる︒ 間 三尺
げ
も隔てておれば落ち付いて見られる︒あぶな気なしに見
29
ことば
ほと
あざむ
た
かか
が 濃 かで殆んど霧を 欺 く位だから︑隔たりはどれ程か
こまや
くに通り過して︑今は山と山の間を行くのだが︑雨の糸
れる中から︑しとしとと春の雨が降り出した︒菜の花は疾
と
い つ の まに か ︑ 崩 れ 出 し て︑ 四 方 は 只雲 の 海 か と怪 し ま
え切れない雲が︑頭の上へ靠垂れ懸っていたと思ったが︑
も
こ こ ま で 決 心 を し た 時︑ 空 が あ や し く な っ て 来 た ︒ 煮
出来 る︒
事が出来る︒余念もなく美か美でないかと鑒識する事が
かん し き
ら︑全力を挙げて彼等の動作を芸術の方面から観察する
られる︒ 言 を換えて云えば︑利害に気を奪われないか
30
わからぬ︒時々風が来て︑高い雲を吹き払うとき︑薄黒
せ
い山の脊が右手に見える事がある︒何でも谷一つ隔てて
すそ
向うが脈の走っている所らしい︒左はすぐ山の裾と見え
こ
る︒深く罩める雨の奥から松らしいものが︑ちょくちょ
く顔を出す︒出すかと思うと︑隠れる︒雨が動くのか︑
たいら
木 が 動 く の か ︑ 夢 が 動 く の か ︑ 何 と な く 不思 議 な 心 持 ち
だ︒
か
路は存外広くなって︑且つ 平 だから︑あるくに骨は
折れんが︑雨具の用意がないので急ぐ︒帽子から雨垂れ
ころ
がぽたりぽたりと落つる頃︑五六間先きから︑鈴の音が
31
ま
ご
﹁ここらに休む所はないかね﹂
く︒
まか
し
さま
からだ
はおり
ぬくもり
る
られる︒気持がわるいから︑帽を傾けて︑すたすた歩行
あ
尽 し て 肌 着 に 浸 み 込 ん だ 水 が︑ 身体 の温度 で生 暖 く 感ぜ
はだぎ
毎に風に捲かれる様までが目に入る︒羽織はとくに濡れ
ごと
糠の様に見えた粒は次第に太く長くなって︑今は一筋
ぬか
影画の様に雨につつまれて︑又ふうと消えた︒
かげえ
まだ十五丁かと︑振り向いているうちに︑馬子の姿は
﹁もう十五丁行くと茶屋がありますよ︒大分濡れたね﹂
だいぶ ぬ
して︑黒い中から︑馬子がふうとあらわれた︒
32
ぼうぼう
ぎん せん
茫 々 た る 薄 墨 色 の 世 界 を ︑ 幾 条 の 銀 箭 が斜 め に 走 るな
ありてい
かを︑ひたぶるに濡れて行くわれを︑われならぬ人の姿
よ
と 思 え ば ︑ 詩に も な る ︑ 句に も 咏 まれ る ︒有 体 な る 己 れ
じゅんかっかん
を忘れ尽して純 客 観に眼をつくる時︑始めてわれは画
中の人物として︑自然の景物と美しき調和を保つ︒只降
が
り
る雨の心苦しくて︑踏む足の疲れたるを気に掛ける瞬間
じゅし
う ん えん ひ ど う
に︑われは既に詩中の人にもあらず︑画裡の人にもあら
しせい
てい ち ょ う
しょう しょう
ず︒依然として市井の一豎子に過ぎぬ︒雲烟飛動の趣も
い
われ
なおさ ら
かい
眼に入らぬ︒落花啼 鳥 の情けも心に浮ばぬ︒ 蕭 々 と
しゅん ざん
して独り 春 山を行く吾の︑いかに美しきかは猶更に解
33
あるい
うご
すす
さび
こかく
ひさし
せま
つる
う側は見えない︒五六足の草鞋が淋しそうに 庇 から吊
わらじ
軒下から奥を覗くと煤けた障子が立て切ってある︒向
のぞ
﹁おい﹂と声を掛けたが返事がない︒
二
非人情がちと強過ぎた様だ︒
た︒雨は満目の樹 梢 を揺かして四方より孤客に逼る︒
じゅ し ょ う
見詰めてあるいた︒終りには肩をすぼめて︑恐る恐る歩行
あるい
せぬ︒初めは帽を傾けて歩行た︒後には唯足の甲のみを
34
く っ た げ
だ
ぶ ん きゅう せん
が
し
されて︑屈托気にふらりふらりと揺れる︒下に駄菓子の
ま
すみ
うす
箱が三つばかり並んで︑そばに五厘銭と文 久 銭が散ら
ばっている︒
ど
﹁おい﹂と又声をかける︒土間の隅に片寄せてある臼の
め
どべっつい
上に︑ふくれていた鶏が︑驚ろいて眼をさます︒ククク︑
しきい
ちゃがま
クククと騒ぎ出す︒敷居の外に土 竈が︑今しがたの雨
ぬ
に濡れて︑半分程色が変ってる上に︑真黒な茶釜がかけ
い
しょうぎ
てあるが︑土の茶釜か︑銀の茶釜かわからない︒幸い下
た
は
返事がないから︑無断でずっと這入って︑床几の上へ
は 焚き つ け て あ る ︒
35
おろ
はばた
ゆうちょう
ばあ
ま
いぶ
がさらりと開く︒なかから一人の婆さんが出る︒
あ
ます
きつね
しばらくすると︑奥の方から足音がして︑煤けた障子
は次第に収 まる︒
日の移るのを知らぬ顔で︑ 頗 る悠 長に燻っている︒雨
すこぶ
煙 草 盆 が 閑 静 に 控 え て ︑ 中に は と ぐ ろ を 捲 い た線 香 が ︑
たばこぼん
か 狗 の 様 に 考 え て い る ら し い ︒ 床 几 の 上 に は 一 升 枡程 な
いぬ
うと︑雌が細い声でけけっこっこと云う︒まるで余を 狐
よ
ぬける気かも知れない︒雄が太い声でこけっこっこと云
い
は畳の上へあがった︒障子がしめてなければ奥まで馳け
か
腰を卸した︒鶏は羽搏きをして臼から飛び下りる︒今度
36
へつい
のんき
どうせ誰か出るだろうとは思っていた︒ 竈 に火は燃
きま
えている︒菓子箱の上に銭が散らばっている︒線香は呑気
せ
に燻っている︒どうせ出るには極っている︒しかし自分
み
の見世を明け放しても苦にならないと見える所が︑少し
都とは違っている︒返事がないのに床几に腰をかけて︑
いつまでも待ってるのも少し二十世紀とは受け取れな
た かさ ご
い︒ここらが非人情で面白い︒その上出て来た婆さんの
顔が気に入った︒
ぜん ほう し ょ う
ほうき
かつ
じい
二三年前宝 生 の舞台で高砂を見た事がある︒その時
かつじんが
これはうつくしい活人画だと思った︒ 箒 を担いだ爺さ
37
はしがか
こ
ちょっと
うしろむき
﹁生憎な御天気で︑さぞ御困りで御座んしょ︒おおおお
あいにく
﹁大分降ったね﹂
だいぶ
﹁はい︑これは︑一向存じませんで﹂
﹁御婆さん︑此所を一寸借りたよ﹂
こ
の写真に血を通わした程似ている︒
のカメラへ焼き付いてしまった︒茶店の婆さんの顔はこ
ああうつくしいと思った時に︑その表情はぴしゃりと心
余の席からは婆さんの顔が殆んど真むきに見えたから︑
ほん
さんと向い合う︒その向い合うた姿勢が今でも眼につく︒
お
んが橋懸りを五六歩来て︑そろりと後 向になって︑婆
38
大分御濡れなさった︒今火を焚いて乾かして上げましょ﹂
も
﹁そこをもう少し燃し付けてくれれば︑あたりながら乾
かすよ︒どうも少し休んだら寒くなった﹂
ただいま
﹁へえ︑只今焚いて上げます︒まあ御茶を一つ﹂
と立ち上がりながら︑しっしっと二声で鶏を追い下げる︒
こ げ ち ゃい ろ
ここここと馳け出した夫婦は︑焦茶色の畳から︑駄菓子
箱の中を踏みつけて︑往来へ飛び出す︒雄の方が逃げる
ふん
とき駄菓子の上へ糞を垂れた︒
﹁まあ一つ﹂と婆さんはいつの間にか刳り抜き盆の上に
ちゃわん
茶碗をのせて出す︒茶の色の黒く焦げている底に︑一筆
39
む ぞうさ
たす き
ま
た が ︑ そ れ は箱 のな かに 取 り 残 され てい た ︒
そで な
﹁ 鶯 は鳴くかね﹂
うぐいす
﹁へえ︑御覧の通りの山里で﹂
﹁閑静 でいいね ﹂
ちょう
んの横顔を写しながら︑話しをしかける︒
みじんぼう
うずくまる︒余は 懐 から写生 帖 を取り出して︑婆さ
ふところ
婆さんは袖無しの上から︑ 襷 をかけて︑ 竈 の前へ
へっ つい
を 持 っ て く る ︒ 糞 は ど こ ぞ に 着い て お ら ぬ か と 眺 め て 見
なが
﹁ 御菓子を﹂と今度は鶏の踏みつけた胡麻ねじと微塵 棒
ご
がきの梅の花が三輪無雑作に焼き付けられている︒
40
ここら
なお
﹁ええ毎日の様に鳴きます︒此辺は夏も鳴きます﹂
どこぞ
﹁聞きたいな︒ちっとも聞えないと猶聞きたい﹂
さっき
﹁生憎今日は︱︱先刻の雨で何処へ逃げました﹂
へっつい
のきば
折りから︑ 竈 のうちが︑ぱちぱちと鳴って︑赤い火
sっ
が颯と風を起して一尺あまり吹き出す︒
かす
あと
﹁ さ あ ︑ 御 あ た り ︒ さ ぞ 御寒 か ろ ﹂ と 云 う ︒ 軒 端 を 見 る
けむ
おかげ
と青い烟りが︑突き当って崩れながらに︑微かな痕をま
い た びさ し
だ板 庇にからんでいる︒
い
﹁ あ あ ︑ 好 い 心 持 ち だ ︑ 御蔭 で生 き 返 っ た ﹂
てんぐいわ
﹁いい具合に雨も晴れました︒そら天狗巌が見え出しま
41
した﹂
しゅんじゅん
ぜんざん
逡 巡 として曇り勝ちなる春の空を︑もどかしとばか
やまあらし
そび
ろせつ
かた
さんがん
やまうば
い も の だ と 感 じ た ︒ 紅 葉 のな か か ︑ 寒 い 月 の 下 に 置 く べ
もみじ
のみである︒蘆雪の図を見たとき︑理想の婆さんは物凄
ものすご
に存在する婆さんの顔は高砂の媼と︑蘆雪のかいた山姥
ばば
目には半々に両方を見比べた︒画家として余が頭のなか
余はまず天狗巌を眺めて︑次に婆さんを眺めて︑三度
と︑あら削りの柱の如く聳えるのが天狗岩だそうだ︒
ごと
一角は︑未練もなく晴れ尽して︑老嫗の指さす方に纉岏
ろう う
りに吹き払う山 嵐の︑思い切りよく通り抜けた前山の
42
べつかいのう
み
な る ほど
きものと考えた︒宝生の別会能を観るに及んで︑成程老
う
女にもこんな優しい表情があり得るものかと驚ろいた︒
めん
あの面は定めて名人の刻んだものだろう︒惜しい事に作
はるかぜ
者の名は聞き落したが︑老人もこうあらわせば︑豊かに︑
きん び ょ う
穏やかに︑あたたかに見える︒金 屏 にも︑春風にも︑
つかえ
ゆびさ
あるは桜にもあしらって差し 支 ない道具である︒余は
かざ
天狗岩よりは︑腰をのして︑手を翳して︑遠く向うを 指
やまじ
しばら
している︑袖無し姿の婆さんを︑春の山路の景物として
かっ こ う
恰好なものだと考えた︒余が写生帖を取り上げて︑今 暫
くという途端に︑婆さんの姿勢は崩れた︒
43
てもち ぶ
さ
た
たず
お
手持無沙汰に写生帖を︑火にあてて乾かしながら︑
こ
ひ
ひ
ます︑御団子の粉も磨きます﹂
こ
を聞い て見る︒
で⁝⁝﹂
い
と う じ
﹁はい︑二十八丁と申します︒旦那は湯治に御越し
だ ん な
﹁ここから那古井までは一里足らずだったね﹂と別な事
な
んな注文も出来ぬから︑
この御婆さんに石臼を挽かして見たくなった︒然しそ
しか
﹁ は い ︒ 難 有 い 事 に 達 者 で︱ ︱ 針 も 持 ち ま す ︑ 苧 も う み
ありが た
﹁御婆さん︑丈夫そうだね﹂と訊ねた︒
44
とう りゅう
﹁込み合わなければ︑少し逗 留 しようかと思うが︑ま
あ気が向けばさ﹂
とん
﹁いえ︑戦争が始まりましてから︑頓と参るものは御座
いません︒まるで締め切り同様で御座います﹂
く
﹁妙な事だね︒それじゃ泊めて呉れないかも知れんね﹂
と
﹁いえ︑御頼みになればいつでも宿めます﹂
ほ
だ
﹁宿屋はたった一軒だったね﹂
し
いん きょじょ
﹁へえ︑志保田さんと御聞 きになればすぐわかります︒
とうじ ば
村のものもちで︑湯治場だか︑隠居所だかわかりません﹂
﹁じゃ御客がなくても平気な訳だ﹂
45
﹁旦那は始めてで﹂
ちょ っと
はじ
写生をやめ て︑同じページの端に︑
いぜん
春風や惟 然が耳に馬の鈴
さっき
ひょ うし
と書いて見た︒山を登ってから︑馬には五六匹逢った︒
あ
に隣りの臼の音に誘われる様な心持ちである︒余は鶏の
をとって頭の中に一種の調子が出来る︒眠りながら︑夢
らんと云う馬の鈴が聴え出した︒この声がおのずと︑拍子
きこ
かに写生していると︑落ち付いた耳の底へじゃらんじゃ
会 話 は ち ょ っ と 途 切 れ る ︒ 帳面 を あ け て 先 刻 の 鶏 を 静
﹁いや︑久しい以前一寸行った事がある﹂
46
ご うた
ふ
くうざんいち ろ
逢った五六匹は皆腹掛をかけて︑鈴を鳴らしている︒今
ま
の世の馬とは思われない︒
のどか
ひびき
え
や が て 長 閑 な 馬 子 唄 が ︑ 春 に 更 け た 空山 一 路 の 夢 を 破
あわ
る︒憐れの底に気楽な 響 がこもって︑どう考えても画
にかいた声だ︒
すずか
馬 子唄 の 鈴 鹿 越 ゆ る や 春 の 雨
はす
と︑今度は斜に書き付けたが︑書いて見て︑これは自分
の句でないと気が付いた︒
だれ
みち
ゆ
只一条の春の路だから︑行くも帰るも皆近付きと見え
ひとすじ
﹁又誰ぞ来ました﹂と婆さんが半ば独り言の様に云う︒
47
はくと う
お
の白頭に至ったのだろう︒
しらが
馬子唄や白髪も染めで暮るる春
し たた
こむら
ことごと
こん にち
、髪
、という字を入れて︑
を見詰めながら考えた︒何でも白
せない︑もう少し工夫のありそうなものだと︑鉛筆の先
と次のページへ 認 めたが︑これでは自分の感じを云い終
おお
幾年の昔からじゃらん︑じゃらんを数え尽くして︑今日
い くねん
い て ︑ 花 を 厭 え ば 足 を 着 く る に 地な き 小 村 に ︑ 婆 さ ん は
いと
われては山を登ったのだろう︒路 寂 寞と古今の春を貫
みちじゃくまく
婆さんの腹の中で又誰ぞ来たと思われては山を下り︑思
くだ
る︒最前逢うた五六匹のじゃらんじゃらんも 悉 くこの
48
ふし
、代
.と云う句を入れて︑馬
、子
、の
、節
、唄
、という題も入れて︑
幾
まと
春 の 季 も 加 え て ︑ そ れ を 十 七 字 に 纏 め たい と 工 夫 し て い
るうちに︑
おふだ
﹁はい︑今日は﹂と実物の馬子が店先に留って大きな声
をかける︒
いく
﹁おや源さんか︒又城下へ行くかい﹂
れいがんじ
﹁何か買物があるなら頼まれて上げよ﹂
かじちょう
よ
﹁そうさ︑鍛冶町を通ったら︑娘に霊厳寺の御札を一枚
もらってきて御呉れなさい﹂
もら
﹁はい︑貰ってきよ︒一枚か︒︱︱御秋さんは善い所へ
49
だろか﹂
覧﹂
こん にち
お
ば
﹁困るよう﹂と源さんが馬の鼻を撫でる︒
な
﹁困るなあ﹂と婆さんが大きな息をつく︒
﹁なあに︑相変らずさ﹂
とは具合がいいかい﹂
﹁本当に御気の毒な︒あんな器量を持って︒近頃はちっ
ちかごろ
﹁仕合せとも︑御前︒あの那古井の嬢さまと比べて御
おまえ
﹁難有い事に今日には困りません︒まあ仕合せと云うの
ありがた
片付いて仕合せだ︒な︑御叔母さん﹂
50
しげ
枝繁き山 桜の葉も花も︑深い空から落ちたままなる雨
の塊まりを︑しっぽりと宿していたが︑この時わたる風
すまい
うえした
に足をすくわれて︑居たたまれずに︑仮りの住居を︑さ
たてがみ
ら さ ら と 転 げ 落 ち る ︒ 馬 は 驚 ろ い て ︑ 長 い 鬣 を上 下に
振る︒
しか
﹁コーラッ﹂と叱り付ける源さんの声が︑じゃらん︑じ
め い そう
ゃらんと共に余の冥想を破る︒
すそ
ふりそで
御 婆 さ ん が 云 う ︒﹁ 源 さ ん ︑ わ た し ゃ ︑ お 嫁 入 り の と
めさき
きの姿が︑まだ眼前に散らついている︒裾模様の振袖に︑
高島田で︑馬に乗って⁝⁝﹂
51
ば
こ
こ
き り と 目に 映 じ た が ︑ 花 嫁 の 顔 だ け は ︑ ど う し て も 思 い
と 書 き 付 け る ︒ 不思 議 な 事 に は 衣 装 も 髪 も 馬 も 桜 も は っ
花の頃を越えてかしこし馬に嫁
して見てしたり顔に︑
もなる︒心のうちに花嫁の姿を浮べて︑当時の様を想像
余 は 又 写 生 帖 を あ け る ︒ こ の 景 色 は 画 に もな る︑ 詩 に
がほろほろと落ちて︑折角の島田に斑が出来ました﹂
ふ
﹁あい︑その桜の下で嬢様の馬がとまったとき︑桜の花
休 ん で 行 っ たな ︑ 御叔 母 さ ん ﹂
お
﹁そうさ︑船ではなかった︒馬であった︒矢張り此所で
52
こつ
つけなかった︒しばらくあの顔か︑この顔か︑と思案し
おもかげ
ているうちに︑ミレーのかいた︑オフェリヤの面影が忽
ぜん
め
然と出て来て︑高島田の下へすぽりとはまった︒これは
だ
の
駄目だと︑折角の図面を早速取り崩す︒衣装も髪も馬も
だて
もうろう
桜も一瞬間に心の道具立から奇麗に立ち退いたが︑オフ
けむり
ェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは︑朦朧と
しゅろぼうき
す い せい
胸の底に残って︑棕梠箒で 烟 を払う様に︑さっぱりし
ひ
なかった︒空に尾を曳く彗星の何となく妙な気になる︒
あいさ つ
ななまが
﹁それじゃ︑まあ御免﹂と源さんが挨拶する︒
あいにく
﹁帰りに又御寄り︒生憎の降りで七曲りは難義だろ﹂
53
かい﹂
ひ
あるき
かこ
あ
お
さいわい
鏡 に 対 う と き の み ︑ わ が頭 の白 き を 喞 つ も の は 幸 の
むか
立つのは早いもので︑もう今年で五年になります﹂
乗せて︑源兵衛が覊絏を牽いて通りました︒︱︱月日の
はづな
﹁志保田の嬢様が城下へ御輿入のときに︑嬢様を青馬に
おこしいれ
﹁あの男がどこぞの嫁さんを馬へ乗せて︑峠を越したの
﹁はい︑那古井の源兵衛で御座んす﹂
げ ん べ え
﹁あれは那古井の男かい﹂
の馬も歩行出す︒じゃらんじゃらん︒
﹁はい︑少し骨が折れよ﹂と源さんは歩行出す︒源さん
54
りゅうこう
むし
部に属する人である︒指を折って始めて︑五年の流 光
と
に︑転輪の疾き趣を解し得たる婆さんは︑人間としては寧
せん
ろ仙に近づける方だろう︒余はこう答えた︒
﹁さぞ美くしかったろう︒見にくればよかった﹂
﹁ ハ ハ ハ 今 で も 御 覧 に な れ ま す ︒ 湯 治 場へ 御越 し な さ れ
きっと
ば︑屹度出て御挨拶をなされましょう﹂
じ
め
﹁はあ︑今では里に居るのかい︒矢張り裾模様の振袖を
い
着て︑高島田に結っていればいいが﹂
ま
余はまさかと思ったが︑婆さんの様子は存外真面目で
﹁たのんで御覧なされ︒着て見せましょ﹂
55
ある︒非人情の旅にはこんなのが出なくては面白くない︒
御座り まし たそうな﹂
﹁へえ﹂
﹁ところがその娘に二人の男が一度に懸想して︑あなた﹂
けそう
﹁昔しこの村に長良の乙女と云う︑美くしい長者の娘が
﹁へえ︑その長良の乙女と云うのは何者かい﹂
﹁いいえ︒身の成り行きがで御座んす﹂
﹁顔がかい﹂
﹁嬢様と長良の乙女とはよく似ております﹂
ながら
婆さんが云う︒
56
﹁な る程﹂
なび
﹁ささだ男に靡こうか︑ささべ男に靡こうかと︑娘はあ
わずら
けくれ思い 煩 ったが︑どちらへも靡きかねて︑とうと
う
ふ ち かわ
あきづけばをばなが上に置く露の︑けぬ べくもわ
は︑おもほゆるかも
よ
と云う歌を咏んで︑ 淵川へ身を投げて果てました﹂
が
余はこんな山里へ来て︑こんな婆さんから︑こんな古
こ
雅な言葉で︑こんな古雅な話をきこうとは思いがけなか
った︒
57
くだ
そのあとを語りつづける︒
け
い
お
い
お
あ
ご りん の と う
には色々な理由もありましたろが︑親ご様が無理にこち
わ
﹁御自身は是非京都の方へと御望みなさったのを︑そこ
﹁はあ︑御嬢さんはどっちへ靡いたかい﹂
人はここの城下で随一の物持ちで御座んす﹂
が京都へ修行に出て御出での頃御逢いなさったので︑一
お
﹁那古井の嬢様にも二人の男が祟りました︒一人は嬢様
たた
余は心のうちに是非見て行こうと決心した︒婆さんは︑
序 に長良の乙女の墓を見て御行きなされ﹂
つい で
﹁これから五丁東へ下ると︑道端に五輪塔が御座んす︒
58
き
らへ取り極めて⁝⁝﹂
め で た く
き
おもら
﹁目出度︑淵川へ身を投げんでも済んだ訳だね﹂
さ
﹁ところが︱︱先方でも器量望みで御貰いなさったのだ
おいで
から︑随分大事にはなさったかも知れませぬが︑もとも
し
と強いられて御出なさったのだから︑どうも折合がわる
くて︑ 御親類 でも大分 御心配の様子で御座んした︒とこ
ろへ今度の戦争で︑旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれ
ました︒それから嬢様は又那古井の方へ御帰りになりま
す︒世間では嬢様の事を不人情だとか︑薄情だとか色々
ごくごく
申します︒もとは極々内気の優しいかたが︑この頃では
59
ようや
大分気が荒くなって︑何だか心配だと源兵衛が来るたび
からだ
か
い
けあな
しみこ
﹁ 御 婆 さ ん ︑ 那 古 井 へ は 一 筋 道だ ね ﹂ と 十銭 銀貨 を 一 枚
で︑垢で身体が重くなる︒
あか
る程度以上に立ち入ると︑浮世の臭いが毛孔から染込ん
にお
されては︑ 飄 然と家を出た甲斐がない︒世間話しもあ
ひょう ぜん
で︑ここまで来たものを︑そう無暗に俗界に引きずり下
む やみ
する様な気がする︒七曲りの険を冒して︑やっとの 思
おもい
仙 人にな り か け た 所 を ︑ 誰か来 て羽 衣を 帰 せ帰 せと 催促
はごろも
これからさきを聞くと︑折角の趣向が壊れる︒ 漸 く
に申します︒⁝⁝﹂
60
しょうぎ
床几の上へかちりと投げ出して立ち上がる︒
おくだ
かた
﹁長良の五輪塔から右へ御下りなさると︑六丁程の近道
みち
になります︒路はわるいが︑御若い方にはその方がよろ
し か ろ ︒ ︱ ︱ こ れ は 多 分 に 御 茶 代 を ︱ ︱ 気 を 付 け て 御越
三
宿へ着いたのは夜の八時頃であったから︑家の具合庭
ごろ
昨夕は妙な気持ちがした︒
ゆうべ
しなされ﹂
61
まわ
しまい
の作り方は無論︑東西の区別さえわからなかった︒何だ
かい ろう
こお んな
い
へや
い
飲んでいると︑小女が来て床を延べよかと云う︒
はしごだん
ことごと
古風な紙燭をつけて︑廊下の様な︑梯子段の様な所をぐ
しそく
うて︑田舎染みてもおらぬ︒赤い帯を色気なく結んで︑
い な か じ
小女一人で弁じている︒それで口は滅多にきかぬ︒と云
給仕も︑湯壺への案内も︑床を敷く面倒も︑ 悉 くこの
ゆつぼ
不思議に思ったのは︑宿へ着いた時の取次も︑晩食の
ばんめ し
が違う︒晩餐を済まして︑湯に入って︑室へ帰って茶を
ばんさん
の小さな座敷へ入れられた︒昔し来た時とはまるで見当
か廻廊の様な所をしきりに引き廻されて︑仕舞に六畳程
62
るぐる廻わらされた時︑同じ帯の同じ紙燭で︑同じ廊下
い
とも階段ともつかぬ所を︑何度も降りて︑湯壺へ連れて行
かれた時は︑既に自分ながら︑カンヴァスの中を往来し
てい る様な 気がした︒
給仕の時には︑近頃は客がないので︑ほかの座敷は掃
除がしてないから︑普段使っている部屋で我慢してくれ
と云った︒床を延べる時にはゆるりと御休みと人間らし
い︑言葉を述べ て ︑ 出 て 行 っ た が︑ そ の足音が ︑例の 曲
とお ざ
りくねった廊下を︑次第に下の方へ 遠 かった時に︑あ
け
とがひっそりとして︑人の気がしないのが気になった︒
63
かずさ
ちょ うし
生れてから︑こんな経験はただ一度しかない︒昔し房
たてやま
とまっ
は
ゆ
い
の︑中二階へ案内をした︒三段登って廊下から部屋へ這入
ちゅうに かい
くと︑荒れ果てた︑広い間をいくつも通り越して一番奥
ま
と云って︑若い方が此方へと案内をするから︑ついて行
こちら
居た︒余がとめるかと聞いたとき︑年を取った方がはい
よ
のかが問題である︒棟の高い大きな家に女がたった二人
むね
宿 の 名 も ︑ ま る で 忘 れ て し ま っ た ︒ 第 一 宿 屋へ と ま っ た
ある所と云うより外に言い様がない︒今では土地の名も
いに歩行た事がある︒その時ある晩︑ある所へ 宿 た︒
あるい
州 を 館 山 か ら 向 う へ 突 き 抜 け て ︑ 上 総 か ら 銚 子 ま で浜 伝
64
い た びさ し
ひとむら
しゅうちく
ろうとすると︑板 庇の下に傾きかけていた一叢の修 竹
な
が︑そよりと夕風を受けて︑余の肩から頭を撫でたので︑
えんい た
既にひやりとした︒椽板は既に朽ちかかっている︒来年
たけのこ
は 筍 が椽を突き抜いて座敷のなかは竹だらけになろう
ば
さ
ね
と云ったら︑若い女が何にも云わずににやにやと笑って︑
出て行った︒
まくらもと
あきら
その晩は例の竹が︑ 枕 元で婆娑ついて︑寐られない︒
くさはら
かき
へい
障子をあけたら︑庭は一面の草原で︑夏の夜の月 明 か
め
なるに︑眼を走しらせると︑垣も塀もあらばこそ︑まと
おおうな ばら
もに大きな草山に続いている︒草山の向うはすぐ大海原
65
とま
なみ
あ
くさぞうし
おどか
らん ま
夜この那古井へ宿るまではかつて無かった︒
あおむけ
おい
だいてつ
かい む かん しき
げ
か
や
ちく
らっ か ん
も慥かに見える︒余は書に於ては皆無鑒識のない男だが︑
たし
影払 階 塵 不 動と明らかに読まれる︒大徹という落款
えい か い を は ら っ て ち り う ご か ず
りの縁をとった額がかかっている︒文字は寐ながらも竹
ふち
仰向に寐ながら︑偶然眼を開けて見ると欄間に︑朱塗
しゅぬ
その後旅も色々したが︑こんな気持になった事は︑今
ご
事だ と考えた︒
のうちに辛防しながら︑まるで草双紙にでもありそうな
しんぼ う
はとうとう夜の明けるまで一睡もせずに︑怪し気な蚊帳
よ
でどどんどどんと大きな濤が人の世を威嚇しに来る︒余
66
へいぜい
もく あん
おうばく
こうせん おしょう
おもしろみ
いんげん
平生から︑黄檗の高泉和尚の筆致を愛している︒隠元も
そくひ
がじゅん
即非も木庵もそれぞれに面白味はあるが︑高泉の字が一
そうけ い
番蒼勁でしかも雅馴である︒今この七字を見ると︑筆の
あたりから手の運び具合︑どうしても高泉としか思われ
ない︒しかし現に大徹とあるからには別人だろう︒こと
ぼうず
によると黄檗に大徹という坊主が居たかも知れぬ︒それ
じゃくちゅう
つる
にしては紙の色が非常に新しい︒どうしても昨今のもの
としか受け取れない︒
とこ
横を向く︒床にかかっている 若 冲 の鶴の図が目につ
く︒これは商売柄だけに︑部屋に這入った時︑既に逸品
67
わがい
ね
い
ひょうい つ
ふ り そで
せいち
ひとふで
すやすやと寐入る︒夢に︒
ながら
お
のっ
はし
こも
引っ張る︒女が急にオフェリヤになって︑柳の枝へ上っ
のぼ
い き な り ︑ さ さ だ 男 と ︑ さ さべ 男 が 飛 び 出 し て 両 方 か ら
長良の乙女が振袖を着て︑青馬に乗って︑峠を越すと︑
あ
く︒戸棚の中には何があるか分らない︒
ている︒床の隣りは違い棚を略して︑普通の戸棚につづ
だな
甚 だ吾意を得て︑飄 逸の趣は︑長い嘴のさきまで籠っ
はな は
立った上に︑卵 形の胴がふわっと乗かっている様子は︑
たまごな り
の 鶴 は 世 間 に 気 兼 な し の 一 筆 が き で︑ 一 本 足 で す ら り と
きがね
と認めた︒若冲の図は大抵精緻な彩色ものが多いが︑こ
68
む こ う じま
おっか
て︑河の中を流れながら︑うつくしい声で歌をうたう︒
さお
救ってやろうと思って︑長い竿を持って︑ 向 島を追懸
けて行く︒女は苦しい様子もなく︑笑いながら︑うたい
ゆくえ
わき
ながら︑行末も知らず流れを下る︒余は竿をかついで︑
おおいおおいと呼ぶ︒
さ
そう
だいえぜんじ
そこで眼が醒めた︒腋の下から汗が出ている︒妙に
が ぞ く こん こう
ごと
雅俗混淆な夢を見たものだと思った︒昔し宋の大慧禅師
のち
と 云 う 人 は ︑ 悟 道 の 後 ︑ 何 事 も 意 の 如 く に 出来 ん 事 はな
ただ
せいめ い
いが︑只夢の中では俗念が出て困ると︑長い間これを苦
な る ほ ど もっと
にされたそうだが︑成程 尤 もだ︒文芸を性命にするも
69
い
だれ
たし
き
か
よ
かすかに搏たせつつある︒不思議な事に︑その調子はと
う
い 声 に は 相 違 な い が ︑ 眠 ら ん と す る 春 の 夜に 一 縷 の 脈 を
いちる
と耳を 峙 てる︒慥かに誰かうたっている︒細く且つ低
そばだ
世 の 声 が 遠 き 夢 の 国 へ ︑ う つ つな が ら に 紛 れ 込 ん だ の か
夢のなかの歌が︑この世へ抜け出したのか︑ 或 はこの
あるい
気の所為か︑誰か小声で歌をうたってる様な気がする︒
せ
が二三本斜めに影をひたしている︒冴える程の春の夜だ︒
さ
返りを打つと︑いつの間にか障子に月がさして︑木の枝
んな夢では大部分画にも詩にもならんと思いながら︑寐
え
のは今少しうつくしい夢を見なければ幅が利かない︒こ
70
にかく︑文句をきくと︱︱枕元でやってるのでないから︑
はず
文 句 の わ か り よ う は な い ︒ ︱︱ そ の聞 えぬ 筈 の ものが ︑
よく聞える︒あきづけば︑をばなが上に︑おく露の︑け
ぬべくもわは︑おもほゆるかもと長良の乙女の歌を︑繰
り返し繰り返す様に思われる︒
えん
や
初めのうちは椽に近く聞えた声が︑次第々々に細く
とおの
遠退いて行く︒突然と已むものには︑突然の感はあるが︑
あわ
憐れはうすい︒ふっつりと思い切ったる声をきく人の心
には︑矢張りふっつりと思い切ったる感じが起る︒これ
じねん
と云う句切りもなく自然に細りて︑いつの間にか消える
71
あつ
また
こた
さ
いちせつな
うどう焦慮ても鼓膜に応えはあるまいと思う一刹那の
あせっ
になっても︑あとを慕って飛んで行きたい気がする︒も
その声を追いかけたくなる︒細くなればなる程︑耳だけ
ざかるに連れて︑わが耳は︑釣り出さるると知りつつも︑
つ
今 ま で は 床 の 中に 我 慢 し て聞 い て い た が ︑ 聞 く 声 の 遠
恨みを 悉 く萃め たる調べがある︒
ことごと
か︑已むかとのみ心を乱すこの歌の奥には︑天下の春の
く︑消えんとしては︑消えんとする燈火の如く︑今已む
とうか
の細さが細る︒死なんとしては︑死なんとする病夫の如
ごと
べき現象には︑われも亦秒を縮め︑分を割いて︑心細さ
72
たま
ふとん
前︑余は堪らなくなって︑われ知らず布団をすり抜ける
ひざ
と共にさらりと障子を開けた︒途端に自分の膝から下が
斜 め に 月 の 光 を 浴 び る ︒ 寐 巻 の上 に も 木 の 影 が 揺 れ な が
ら落 ちた︒
障子をあけた時にはそんな事には気が付かなかった︒
せ
あの声はと︑耳の走る見当を見破ると︱︱向うに居た︒
かいどう
花 な ら ば 海 棠 か と 思 わ る る 幹 を 脊に ︑ よ そ よ そ し く も 月
も う ろう
ま
の光りを忍んで朦朧たる影法師が居た︒あれかと思う意
しか
かど
識さえ︑確とは心にうつらぬ間に︑黒いものは花の影を
むね
踏み砕いて右へ切れた︒わが居る部屋つづきの棟の角が︑
73
せい
でがえ
まく ら
さえぎ
たもとどけい
こ
なかに山つづきの庭へ出るのがちと不穏当だ︒何にして
嬢 さ ん か も 知 れ な い ︒ 然 し 出帰り の 御 嬢 さ ん と し て は 夜
しか
なければ人間で︑人間とすれば女だ︒あるいは此家の御
こ
し込んで考え出した︒よもや化物ではあるまい︒化物で
ばけもの
を出して見ると︑一時十分過ぎである︒再び枕の下へ押
再び帰参して考え出した︒括り 枕 のしたから︑袂時計
くく
寒いものと悟った︒ともかくもと抜け出でた布団の穴に︑
い
茫然としていたが︑やがて我に帰ると︑山里の春は中々
ぼうぜん
借 着 の 浴 衣 一 枚 で ︑ 障 子 へ つ ら ま っ た ま ま︑ し ば ら く
ゆかた
すらりと動く︑脊の高い女姿を︑すぐに 遮 ってしまう︒
74
も中々寐られない︒枕の下にある時計までがちくちく口
を き く ︒ 今 ま で 懐 中 時計 の 音 の 気 に な っ た 事 は な い が ︑
今夜に限って︑さあ考えろ︑さあ考えろと催促する如く︑
け
寐るな寐るなと忠告する如く口をきく︒怪しからん︒
怖いものも只怖いものそのままの姿と見れば詩にな
すご
る︒凄い事も︑己れを離れて︑只単独に凄いのだと思え
ば画になる︒失恋が芸術の題目となるのも全くその通り
である︒失恋の苦しみを忘れて︑そのやさしい所やら︑
うれい
かっ かん
同情の宿る所やら︑ 憂 のこもる所やら︑一歩進めて云
あふ
えば失恋の苦しみその物の溢るる所やらを︑単に客観的
75
し
はん もん
に眼前に思い浮べるから文学美術の材料になる︒世には
び
き
が
じ ょ う にん
うゆう
りん かく
ぐ
こっ かく
草鞋旅行をする間︑朝から晩まで苦しい︑苦しいと不平
わらじ た
家として常人よりも愚である︑気違である︒われわれは
上幾多の芸術家は︵日常の人としてはいざ知らず︶芸術
点に於て全く等しいと云わねばならぬ︒この点に於て世
壺中の天地に歓喜すると︑その芸術的の立脚地を得たる
ごちゅう
で そ の 中 に 起 臥 す る の は ︑ 自 か ら 烏有 の山 水 を 刻 画 し て
うち
う︑気違だと云う︒然し自から不幸の輪廓を描いて好ん
きちがい
快を貪ぼるものがある︒ 常 人はこれを評して愚だと云
むさ
有りもせぬ失恋を製造して︑自から強いて煩悶して︑愉
76
そう ゆう
を鳴らしつづけているが︑人に向って曾遊を説く時分に
ちょう ちょう
は︑不平らしい様子は少しも見せぬ︒面白かった事︑愉
あざむ
快であった事は無論︑昔の不平をさえ得意に 喋 々 して︑
あえ
したり顔である︒これは敢て自ら 欺 くの︑人を偽わる
、人
、の心持ちで︑
のと云う了見ではない︒旅行をする間は常
、人
、の態度にあるから︑こんな矛
曾遊を語るときは既に詩
盾が起る︒して見ると四角な世界から常識と名のつく︑
まめつ
一角を磨滅して︑三角のうちに住むのを芸術家と呼んで
へきえき
この故に天然にあれ︑人事にあれ︑衆俗の辟易して近
ゆえ
もよかろう︒
77
がた
せま
きせつろう
なづ
せつ
りん ろう
へいこ
くうげ
れが見ても︑誰に聞かしても 饒 に詩趣を帯びている︒
ゆたか
余が今見た影法師も︑只それ限りの現象とすれば︑誰
ぎ
までは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである︒
汽車を写すまでは汽車の美を解せず︑応挙が幽霊を描く
辱 得 喪 の わ れ に 逼 る 事 ︑ 念 々 切 な る が 故に ︑ タ ー ナ ー が
とく そう
墜するが故に︑俗累の羈絏牢として絶ち難きが故に︑栄
ぞくるい
から現象世界に実在している︒只一翳眼に在って空花乱
いちえい
は美化でも何でもない︒燦爛たる彩光は︑炳乎として昔
さんらん
上 の 宝 璐 を 知 る ︒ 俗 に こ れ を名 け て美 化 と 云う ︒そ の 実
ほう ろ
づ き 難 し と な す 所 に 於 て ︑ 芸術 家 は 無 数 の 琳 琅 を 見 ︑ 無
78
かえい
げつぜん
ていしょう
宵の花影︑︱︱月前の低 誦︑
しゅんしょ う
︱︱孤村の温泉︑︱︱春
おぼ ろよ
せんぎ
︱︱朧夜の姿︱︱どれもこれも芸術家の好題目である︒
い
こ の 好 題 目 が 眼 前 に あ り な が ら ︑ 余 は 入 ら ざ る詮 義 立 て
をして︑余計な探ぐりを投げ込んでいる︒折角の雅境に
りくつ
理窟の筋が立って︑願ってもない風流を︑気味の悪るさ
が踏み付けにしてしまった︒こんな事なら︑非人情も
ひょうぼう
ふい ちょう
標 榜する価値がない︒もう少し修行をしなければ詩人
タ
リ
ア
ど ろぼ う
とも画家とも人に向って吹 聴する資格はつかぬ︒昔し
イ
むれ
は
い
以太利亜の画家サルヴァトル︑ロザは泥棒が研究して見
かけ
たい一心から︑おのれの危険を賭にして︑山賊の群に這入
79
ひょうぜん
がじょう
は
なのは何でも蚊でも手当り次第十七字にまとめて見るの
する義務を有している︒その方便は色々あるが一番手近
自分の屍骸を︑自分で解剖して︑その病状を天下に発表
しがい
これを検査する余地さえ作ればいいのである︒詩人とは
その感じから一歩退いて有体に落ち付いて︑他人らしく
ありてい
ば︑ おのれの感じ︑その物を︑ おのが前に据えつけて︑
す
こんな時にどうすれば詩的な立脚地に帰れるかと云え
かしい事だ︒
を出でたからには︑余にもその位の覚悟がなくては耻ず
い
り込んだと聞いた事がある︒飄 然と画帖を懐にして家
80
のぼ
もっと
が一番いい︒十七字は詩形として 尤 も軽便であるから︑
かわ や
顔を洗う時にも︑ 厠 に上った時にも︑電車に乗った時
に も ︑ 容 易 に 出 来 る ︒ 十 七 字 が 容 易に 出来 る と 云 う 意 味
は安直に詩人になれると云う意味であって︑詩人になる
ぶべつ
かえ
と云うのは一種の悟りであるから軽便だと云って侮蔑す
くどく
る必要はない︒軽便であればある程功徳になるから反っ
ちょっと
て尊重すべきものと思う︒まあ一寸腹が立つと仮定する︒
腹が立った所をすぐ十七字にする︒十七字にするときは
自分の腹立ちが既に他人に変じている︒腹を立ったり︑
俳句を作ったり︑そう一人が同時に働けるものではない︒
81
いな
﹁海棠の露をふるふや物狂ひ﹂と真先に書き付けて読ん
かいどう
く︒
と︑念入りの修業だから︑例の写生帖をあけて枕元へ置
仕立てる︒出来たら書きつけないと散漫になって行かぬ
い
を実行して見ようと︑夜具の中で例の事件を色々と句に
これが平生から余の主張である︒今夜も一つこの主張
へ い ぜい
しさだけの自分になる︒
自分から遊離して︑おれは泣く事の出来る男だと云う嬉
うれ
れしくなる︒涙を十七字に纏めた時には︑苦しみの涙は
まと
一寸涙をこぼす︒この涙を十七字にする︒するや否やう
82
で見ると︑別に面白くもないが︑さりとて気味のわるい
事もない︒次に﹁花の影︑女の影の朧かな﹂とやったが︑
しょう
これは季が重なっている︒然し何でも構わない︑気が落
のんき
か
ち付いて呑気になればいい︒それから﹁ 正 一位︑女に
お
化けて朧月﹂と作ったが︑狂句めいて︑自分ながら可笑
しくなった︒
わ
こ の 調 子な ら 大 丈 夫 と 乗 気 に な っ て 出 るだ け の 句を み
よ
春の夜の雲に濡らすや洗ひ髪
ぬ
春の星を落して夜半のかざしかな
なかき付ける︒
83
こよい
春や今宵歌つかまつる御姿
海棠の精が出てくる月夜かな
うた折々月下の春ををちこちす
ふ
思ひ切つて更け行く春の独りかな
よこた
さ
めいかく
き
が
あいだ
にて︑眠ると評せんには少しく生気を剩す︒起臥の二界
あま
に縷の如き幻境が 横 わる︒醒めたりと云うには余り朧
る
は誰あって外界を忘るるものはなかろう︒只両域の 間
たれ
思 う ︒ 熟 睡 の う ち に は 何 人 も 我 を 認 め 得 ぬ ︒ 明 覚 の 際に
なんぴと
恍惚 と云うのが︑こ んな 場合に用い るべき形容詞かと
こうこ つ
などと︑試みているうち︑いつしか︑うとうと眠くなる︒
84
どうへいり
しいか
もっ
か
ま
を同瓶裏に盛りて︑詩歌の彩管を以て︑ひたすらに攪き雑
かすみ
ぜたるが如き状態を云うのである︒自然の色を夢の手前
あり
なめら
までぼかして︑有のままの宇宙を一段︑ 霞 の国へ押し
ようわん
けん こん
流す︒睡魔の妖腕をかりて︑ありとある実相の角度を 滑
やわ
は
けむり
かにすると共に︑かく和らげられたる乾坤に︑われから
かす
と微かに鈍き脈を通わせる︒地を這う 烟 の飛ばんとし
い
ためら
て飛び得ざる如く︑わが魂の︑わが殻を離れんとして離
てい
るるに忍びざる態である︒抜け出でんとして逡巡い︑逡
めいふん
し
し
巡いては抜け出でんとし︑果ては魂と云う個体を︑もぎ
いん うん
どうに保ちかねて︑氤氳たる瞑氛が散るともなしに四肢
85
い
てんめん
び
せんにょ
さかい
い
うち
い
れんれん
しょ う よう
ま ぼ ろし
えりあし
からかみ
なが
しか
とは解らぬが︑色の白い︑髪の濃い︑襟足の長い女であ
わか
音も立たぬ︒閉ずる 眼 のなかから見る世の中だから確
まな こ
這 入 る ︒ 仙 女 の 波 を わ た る が如 く ︑ 畳 の上 に は 人 ら し い
は
来 た の で あ る ︒ ま ぼ ろ し はそ ろりそ ろり と部 屋のな かに
閉じている 瞼 の裏に幻影の女が断りもなく滑り込んで
まぶた
め て い る ︒ 眺 め る と 云う て は 些 と言葉 が強 過ぎ る︒余 が
ち
と現われた︒余は驚きもせぬ︒恐れもせぬ︒只心地よく眺
ただ
すうと開いた︒あいた所へまぼろしの如く女の影がふ う
あ
余が寤寐の 境 にかく 逍 遥していると︑入口の唐紙が
ご
五体に纏綿して︑依々たり恋々たる心持ちである︒
86
ほかげ
る︒近頃はやる︑ぼかした写真を灯影にすかす様な気が
する︒
まぼろしは戸棚の前でとまる︒戸棚があく︒白い腕が
く らや み
袖をすべって暗闇のなかにほのめいた︒戸棚が又しまる︒
ま ぼ ろし
こま
畳の波がおのずから幻影を渡し返す︒入口の唐紙がひと
た
りでに閉 たる︒余が眠りは次第に濃やかになる︒人に死
ね
して︑まだ牛にも馬にも生れ変らない途中はこんなであ
ろう︒
あいな か
いつまで人と馬の相中に寐ていたかわれは知らぬ︒耳
元にききっと女の笑い声がしたと思ったら眼がさめた︒
87
よる
ふ
ろ
ば
向側へ渡ったのだろう︒
ゆかた
だ︒
たけごうし
すみ
ろう︒昼と夜を 界 にこう天地が︑でんぐり返るのは妙
さ かい
らない︒第一昨夕はどうしてあんな心持ちになったのだ
ゆうべ
のなかで顔を浮かしていた︒洗う気にも︑出る気にもな
浴衣のまま︑風呂場へ下りて︑五分ばかり偶然と湯壺
ゆつぼ
地はなさそうだ︒神秘は十万億土へ帰って︑三途の川の
さんず
い た 様 子 を 見 る と ︑ 世 の 中 に 不思 議 と 云 う も の の 潜 む 余
で明るい︒うららかな春日が丸窓の竹格子を黒く染め抜
はるび
見れば夜の幕はとくに切り落されて︑天下は隅から隅ま
88
からだ
ふ
たいぎ
身体を拭くさえ退儀だから︑いい加減にして︑濡れた
まま上って︑風呂場の戸を内から開けると︑又驚かされ
た︒
ゆうべ
﹁御早う︒昨夕はよく寐られましたか﹂
ほと
あいさ つ
戸 を 開 け る の と ︑ こ の 言 葉 と は 殆 ん ど 同 時に き た ︒ 人
であいがしら
の 居 る さ え 予 期 し て お ら ぬ 出 合頭 の 挨 拶 だ か ら ︑ さ そ く
いとま
の返事も出る 遑 さえないうちに︑
﹁さあ︑御召しなさい﹂
まわ
ありがと
と後ろへ廻って︑ふわりと余の脊中へ柔かい着物をかけ
ようや
た︒ 漸 くの事﹁これは難有う⁝⁝﹂だけ出して︑向き
89
直る︑途端に女は二三歩退いた︒
ようぼう
昔から小説家は必ず主人公の容貌を極力描写すること
きま
ろう ばい
ねじ
かず
しりめ
いま
て︑かかる表情を見た事がない︒美術家の評によると︑
れない︒然し生れて三十余年の今日に至るまで未だかつ
こんに ち
叙すべき用語を拾い来ったなら︑どれ程の数になるか知
きた
驚 愕と狼狽を心地よげに眺めている女を︑尤も適当に
きょうがく
余と三歩の隔りに立つ︑体を斜めに捩って︑後目に余が
たい
を争うかも知れぬ︒この辟易すべき多量の形容詞中から︑
へきえき
用せられたるものを列挙したならば︑大 蔵 経とその量
だいぞうきょう
に相場が極ってる︒古今東西の言語で︑佳人の品評に使
90
ギリシャ
たんしゅく
希臘の彫刻の理想は︑端 粛の二字に帰するそうである︒
端粛とは人間の活力の動かんとして︑未だ動かざる姿と
らいて い
せい
思う︒動けばどう変化するか︑風雲か雷霆か︑見わけの
ひ ょ う びょ う
つかぬ所に余韻が 縹 緲 と存するから含蓄の趣を百世の
のち
後に伝うるのであろう︒世上幾多の尊厳と威儀とはこの
たん ぜん
湛然たる可能力の裏面に伏在している︒動けばあらわれ
る︒あらわるれば一か二か三か必ず始末がつく︒一も二
ろう
いかん
も 三 も 必 ず 特 殊 の 能 力 に は 相 違 な か ろ う が ︑ 既 に 一 とな
た でい たいすい
り ︑ 二 と な り ︑ 三 と な っ た 暁 に は ︑ 揓 泥帯 水 の 陋 を 遺 憾
い
な く 示 し て ︑ 本 来 円 満 の 相 に 戻 る訳 に は 行 か ぬ ︒ こ の 故
91
どう
うんけい
におう
し もぶ く れ
ほくさい
ぶ
う り ざねが た
くも︑こせ付いて︑所謂富士額の俗臭を帯びている︒の
いわゆる ふ じ び た い
豊かに落ち付きを見せているに引き易えて︑額は狭苦し
か
すきさえ見出すべく動いている︒顔は下 膨の瓜実形で︑
みいだ
に迷った︒口は一文字を結んで 静 である︒眼は五分の
しずか
ところがこの女の表情を見ると︑余はいずれとも判断
事が出来べき筈だ︒
はず
美人の形容も大抵この二大範 鋳のいずれにか打ち込む
だい はんちゅう
これがわれ等画工の運命を支配する大問題である︒古来
ら
の漫画も全くこの動の一字で失敗している︒動か静か︒
に 動 と名 の つ く も の は 必 ず 卑 し い ︒ 運 慶 の 仁 王 も ︑ 北 斎
92
まゆ
せま
れ
はっか
みならず眉は両方から逼って︑中間に数滴の薄荷を点じ
じ
たる如く︑ぴくぴく焦慮ている︒鼻ばかりは軽薄に鋭ど
くもない︑遅鈍に丸くもない︒画にしたら美しかろう︒
かように別れ別れの道具が皆一癖あって︑乱調にどやど
やと余の双眼に飛び込んだのだから迷うのも無理はな
い︒
せい
つと
元来は静であるべき大地の一角に陥欠が起って︑全体
そむ
が思わず動いたが︑動くは本来の性に背くと悟って︑力
むかし
め て 往 昔 の 姿 に もど ろ う と し た の を ︑ 平 衡 を 失 っ た 機 勢
こんにち
に制せられて︑心ならずも動きつづけた今日は︑やけだ
93
から無理でも動いて見せると云わぬばかりの有様が︱︱
が出来る︒
けんか
か
おとな
てい
すが
われ
わ
に統一の感じのないのは︑心に統一のない証拠で︑心に
の家に喧嘩をしながらも同居している体だ︒この女の顔
うち
出る︒どうしても表情に一致がない︒悟りと 迷 が一軒
ま よい
とも思わぬ 勢 の下から温和しい情けが吾知らず湧いて
いきおい
めいている︒才に任せ︑気を負えば百人の男子を物の数
見える︒人を馬鹿にした様子の底に慎み深い分別がほの
ば
それだから軽侮の裏に︑何となく人に縋りたい景色が
けいぶ
そんな有様がもしあるとすれば丁度この女を形容する事
94
統 一 がな い の は ︑ こ の 女 の 世 界 に 統 一 が な か っ た の だ ろ
お
ちがい
う ︒ 不 幸 に 圧 し つ け ら れ な が ら ︑ そ の 不 幸 に 打 ち勝 と う
ふしあわせ
ちょっとえしゃく
としている顔だ︒不仕合な女に 違 ない︒
ありがと
﹁難有う﹂と繰り返しながら︑一寸会釈した︒
かろげ
か
﹁ ほ ほ ほ ほ 御 部 屋 は 掃 除 が し て あ り ま す ︒ 往 っ て 御覧 な
さい︒いずれ後程﹂
い
えり
と云うや否や︑ひらりと︑腰をひねって︑廊下を軽気に馳
い ちょ うが えし
かたかわ
けて行った︒頭は銀 杏 返に結っている︒白い襟がたぼ
くろじゅす
の下から見える︒帯の黒繻子は片側だけだろう
95
四
な る ほど
と だな
ぽ か ん と 部 屋 へ 帰 る と ︑ 成 程 奇麗 に 掃 除 が し て あ る ︒
た
ゆうぜん
しごき
かたかわ
お ら て が ま
い
せ
少々詰めてある︒一番上に白隠和尚の遠良天釜と︑伊勢
はくいん おしょう
しい衣裳の間にかくれて先は見えない︒片側には書物が
いしょう
出 て 行 っ た も の と 解 釈 が 出 来 る ︒ 扱 帯 の上 部 は な ま め か
かかって︑いるのは︑誰か衣類でも取り出して急いで︑
だれ
は 小 さ な 用 箪 笥 が 見 え る ︒上 か ら 友禅 の扱 帯 が 半 分 垂 れ
ようだんす
一寸気がかりだから︑念の為め戸棚をあけて見る︒下に
96
ゆうべ
すわ
からき
物語の一巻が並んでる︒昨夕のうつつは事実かも知れな
い と思 っ た ︒
ざ ぶ と ん
はさ
何気なく座布団の上へ坐ると︑唐木の机の上に例の写
ちょう
生 帖 が︑鉛筆を挟んだまま︑大事そうにあけてある︒
ものぐるい
夢 中 に 書 き 流 し た 句 を ︑ 朝 見 た ら ど ん な 具 合だ ろ う と 手
に取る︒
かい どう
﹁海棠の露をふるふや物 狂﹂の下にだれだか﹁海棠の
あさがらす
露をふるふや朝 烏﹂とかいたものがある︒鉛筆だから︑
わか
書体はしかと解らんが︑女にしては硬過ぎる︒男にして
びっく り
は柔か過ぎる︒おやと又吃驚する︒次を見ると﹁花の影︑
97
おぼろ
によかろう︒
ま
か
ね
たものだ︒これでは午飯だけで間に合せる方が胃の為め
ひるめし
時だなと時計を見ると︑もう十一時過ぎである︒よく寐
ね
れない︒出て来たら様子が少しは解るだろう︒ときに何
後程と云ったから︑今に飯の時にでも出て来るかも知
い
か︑余は思わず首を傾けた︒
よ
添削した気か︑風 流の交わりか︑馬鹿か︑馬鹿にしたの
ば
﹁御曹子女に化けて朧月﹂とある︒真似をした積りか︑
おんぞうし
と つ け て あ る ︒﹁ 正 一 位 女 に 化 け て 朧 月 ﹂ の 下 に は
しょ う
女の影の 朧 かな﹂の下に﹁花の影女の影を重ねけり﹂
98
ゆうべ
なごり
なが
右側の障子をあけて︑昨夜の名残はどの辺かなと眺め
うず
る︒海棠と鑑定したのは果して︑海棠であるが︑思った
あおご け
よりも庭は狭い︒五六枚の飛石を一面の青苔が埋めて︑
素 足 で 踏 み つ け た ら ︑ さ も 心 持 ち が よ さ そ う だ ︒ 左 は山
がけ
つづきの崖に赤松が斜めに岩の間から庭の上へさし出し
みど
さら
や
ている︒海棠の後ろには一寸した茂みがあって︑奥は
おお たけやぶ
さえ
大竹藪が十丈の翠りを春の日に曝している︒右手は屋の
むね
ふ
ろ
ば
棟で遮ぎられて︑見えぬけれども︑地勢から察すると︑
お
へいち
山 が 尽 きて︑ 岡 とな り ︑ 岡 が尽 きて︑ 幅三 丁程 の平地
おか
だらだら下りに風呂場の方へ落ちているに相違ない︒
99
となり︑その平地が尽きて︑海の底へもぐり込んで︑十
い
うち
な
こ
い
はしごだん
はず
むやみ
た り ︑ 異な 仕掛 の 家 と 思 っ た筈だ ︒
のぼ
かかと
くだ
岩のなかに春の水がいつともなく︑たまって静かに山桜
今度は左り側の窓をあける︒自然と凹む二畳ばかりの
くぼ
に着く︒道理こそ昨夕は楷子段を無暗に上ったり︑下っ
ゆうべ
平屋になる︒椽から足をぶらさげれば︑すぐと 踵 は苔
えん
囲い込んだ一 構 であるから︑前面は二階でも︑後ろは
ひと かま え
の麓を出来るだけ崖へさしかけて︑岨の景色を半分庭へ
そば
摩 耶 島 とな る︒ こ れ が 那 古井 の 地 勢 で ある︒温 泉 場は 岡
ま や じ ま
七里向うへ行って又隆然と起き上がって︑周囲六里の
100
ひた
こ
いけがき
くま ざさ
かど
いろ
のぼ
の影を蘸している︒二株三株の熊笹が岩の角を彩どる︑
く
向うに枸杞とも見える生垣があって︑外は浜から︑岡へ上
そば み ち
きわ
る岨道か時々人声が聞える︒往来の向うはだらだらと南
みかん
下がりに蜜柑を植えて︑谷の窮まる所に又大きな竹藪が︑
白く光る︒竹の葉が遠くから見ると︑白く光るとはこの
おおかた
時初めて知った︒藪から上は︑松の多い山で︑赤い幹の
せきとう
らん かん
間から石磴が五六段手にとる様に見える︒大方御寺だろ
う︒
ふすま
入口の 襖 をあけて椽へ出ると︑欄干が四角に曲って︑
方角から云えば海の見ゆべき筈の所に︑中庭を隔てて︑
101
き
が
三層楼上に起臥する訳にな る︒
い
ま
しめ
よ
じ
戸締りさえ︑するかしないか解らん︒非人情の旅にはも
あけず︑あけた以上は夜も閉てぬらしい︒これでは表の
た
ぞくの外殆んど皆無なのだろう︒〆た部屋は昼も雨戸を
ほと
名がつきそうなのは大抵立て切ってある︒客は︑余をの
て︑右へ折れた一間の外は︑居室台所は知らず︑客間と
ほか
家は随分広いが︑向う二階の一間と︑余が欄干に添う
ひとま
の下にあるのだから︑ 入 湯と云う点から云えば︑余は
に ゅ う とう
張り同じ高さの二階なのには興が催おされる︒湯壺は地
ゆつぼ
表二階の一間がある︒わが住む部屋も︑欄干に倚れば矢
102
って来いと云う屈強な場所だ︒
くうざんひとをみず
時計は十二時近くなったが飯を食わせる景色は更にな
ようや
いかん
い︒ 漸 く空腹を覚えて来たが︑空山不見人と云う詩中
ぐ らい
はい ざんまい
い
にあると思うと︑一とかたげ 位 倹約しても遺憾はない︒
え
ぼ
さんき ゃくき
画をかくのも面倒だ︑俳句は作らんでも既に俳三昧に入
や
っているから︑作るだけ野暮だ︒読もうと思って三脚几
くく
く
しゅんじつ
せなか
に括りつけて来た二三冊の書籍もほどく気にならん︒こ
く
うやって︑煦々たる春 日に脊中をあぶって︑椽側に花
お
の影と共に寐ころんでいるのが︑天下の至楽である︒考
げどう
えれば外道に堕ちる︒動くと危ない︒出来るならば鼻か
103
い
き
として二週間ばかり暮して見たい︒
こじょろう
す
あさめし
え
び
わん
ふた
ば早蕨の中に︑紅白に染め抜かれた︑海老を沈ませてあ
さわらび
言わぬ︒焼 肴 に青いものをあしらって︑椀の蓋をとれ
やき ざ かな
﹁遅くなりました﹂と膳を据える︒朝飯の言訳も何にも
ぜん
矢張り昨夜の小女郎である︒何だか物足らぬ︒
ゆうべ
の方へ引き返す︒襖があいたから︑今朝の人と思ったら︑
の前でとまったなと思ったら︑一人は何にも云わず︑元
る︒近づくのを聞いていると︑二人らしい︒それが部屋
やがて︑廊下に足音がして︑段々下から誰か上ってく
あが
ら呼吸もしたくない︒畳から根の生えた植物の様にじっ
104
い
る︒ああ好い色だと思って︑椀の中を眺めていた︒
おきら
﹁ 御嫌 い か ﹂ と 下 女 が 聞 く ︒
ばんさん
さら
﹁いいや︑今に食う﹂と云ったが実際食うのは惜しい気
あ
がした︒ターナーが或る晩餐の席で︑皿に盛るサラドを
見詰めながら︑涼しい色だ︑これがわしの用いる色だと
かたわ ら
傍 の人に話したと云う逸事をある書物で読んだ事があ
るが︑この海老と蕨の色を一寸ターナーに見せてやりた
しょ くもつ
い︒一体西洋の食 物で色のいいものは一つもない︒あ
ればサラドと赤大根位なものだ︒滋養の点から云ったら
すこぶ
どうか知らんが︑画家から見ると 頗 る発達せん料理で
105
い
い
こんだて
﹁あの外にまだ年寄の奥様が居るのかい﹂
﹁若い奥様で御座んす﹂
﹁ありゃ何だい﹂
﹁へえ﹂
質問をかけた︒
くちとり
ひと はし
﹁うちに若い女の人が居るだろう﹂と椀を置きながら︑
御茶屋へ上 がった甲斐は充分ある︒
か
着けずに︑眺めたまま帰っても︑目の保養から云えば︑
刺身でも物奇麗に出来る︒会席膳を前へ置いて︑一箸も
ものぎれい
ある︒そこへ行くと日本の献立は︑吸物でも︑口取でも︑
106
お
な
﹁去年御亡くなりました﹂
だんな
﹁旦那さんは﹂
お
﹁居ります︒旦那さんの娘さんで御座んす﹂
﹁あの若い人がかい﹂
﹁へえ﹂
﹁ 御客 は 居 る かい ﹂
﹁居りません﹂
﹁わたし一人かい﹂
﹁へえ﹂
﹁若い奥さんは毎日何をしているかい﹂
107
﹁針 仕事を⁝⁝﹂
ひ
おもしろ
﹁和尚さんが三味線でも習うのかい﹂
﹁いいえ︑和尚様の所へ行きます﹂
おしょう
﹁御寺詣りをするのかい﹂
まい
これは又意外である︒御寺と三味線は妙だ︒
﹁御寺へ行きます﹂と小女郎が云う︒
い
﹁それから﹂と聞いて見た︒
これは意外であった︒面白いから又
﹁三味を弾きます﹂
しゃみ
﹁それから﹂
108
﹁いいえ﹂
﹁じゃ何をしに行くのだい﹂
だいてつ
﹁大徹様の所へ行きます﹂
ぜん ぼ う ず
な あ る程 ︑ 大 徹 と 云 う の は こ の額 を 書 い た 男に 相 違な
ら てがま
い︒この句から察すると何でも禅坊主らしい︒戸棚に
お
い
遠良天釜があったのは︑全くあの女の所持品だろう︒
は
﹁この部屋は普段誰か這入っている所かね﹂
﹁普段は奥 様が居ります﹂
ゆうべ
﹁それじゃ︑昨夕︑わたしが来る時までここに居たのだ
ね﹂
109
﹁へえ﹂
﹁知りません﹂
﹁色々って︑どんな事を﹂
﹁それから︑色々⁝⁝﹂
﹁それから︑まだ外に何かするのだろう﹂
﹁何で御座んす﹂
﹁それから﹂
﹁知りません﹂
をしに行くのだい﹂
﹁それは御気の毒な事をした︒それで大徹さんの所へ何
110
おわ
うえこ
会話はこれで切れる︒飯は漸く了る︒膳を引くとき︑
あけ
ほおづえ
小女郎が入口の襖を開たら︑中庭の栽込みを隔てて︑向
いちょうがえ
う二階の欄干に銀杏返しが頬杖を突いて︑開化した
よ う り ゅ う かん の ん
うつむ
ひと み
楊 柳 観 音の様に下を見詰めていた︒今朝に引き替えて︑
はな は
甚 だ静かな姿である︒俯向いて︑ 瞳 の働きが︑こちら
そう ご う
ぼうし
へ 通 わ な い か ら ︑ 相 好 に か ほ ど な 変 化 を来 た し た も の で
な る ほど
い ずく
かく
あろうか︒昔の人は人に存するもの眸子より良きはなし
い
じ ゃ く ねん
よ
あ
じ らん
と云ったそうだが︑成程人 焉 んぞ廋さんや︑人間のう
め
ちで眼程活きている道具はない︒ 寂 然と倚る亜字欄の
ちょう ちょう
下から︑ 蝶 々 が二羽寄りつ離れつ舞い上がる︒途端に
111
かた
ごと
くう
わが部屋の襖はあいたのである︒襖の音に︑女は卒然と
となる︒
みけん
The shutting of thy fair face from my sight.
To travellers journeying on,
Lost ere the kindling of dawn,
Sadder than is the moon's lost light,
余は又ごろりと寐ころんだ︒ 忽 ち心に浮んだのは︑
たちま
女郎が︑ 又はたと襖を立て切った︒あとは至極呑気な春
のんき
て︑会釈もなく余が眉間に落ちる︒はっと思う間に︑小
えしゃく
蝶から眼を余の方に転じた︒視線は毒矢の如く空を貫い
112
けそう
いちべつ
と云う句であった︒もし余があの銀杏返しに懸想して︑
あ
うれ
くちお
身 を 砕 い て も 逢 わ ん と 思 う 矢先 に ︑ 今 の 様 な 一 瞥 の 別 れ
たまぎ
を︑魂消るまでに︑嬉しとも︑口惜しとも感じたら︑余
は必ずこんな意味をこんな詩に作るだろう︒その上に
Might I look on thee in death,
With bliss I would yield my breath.
と云う二句さえ︑付け加えたかも知れぬ︒幸い︑普通あ
き ょ う がい
りふれた︑恋とか愛とか云う 境 界は既に通り越して︑
しか
そんな苦しみは感じたくても感じられない︒然し今の
せつな
刹那に起った出来事の詩趣はゆたかにこの五六行にあら
113
の
べ
たなび
かすみ
あいだ が ら
せつ
おもい
あて はめ
く
も
ど なわ
てうつくしい︒万一この糸が見る間に太くなって井戸縄
い
糸︒切ろうとすれば︑すぐ切れて︑見ているうちは勝れ
すぐ
る虹の糸︑野辺に棚引く 霞 の糸︑露にかがやく蜘蛛の
にじ
い と 苦 に は な ら ぬ ︒ そ の 上 ︑ 只の 糸 で は な い ︒空を 横 切
ただ
実となって︑括りつけられている︒因果もこの位糸が細
くく
果の細い糸で︑この詩にあらわれた境遇の一部分が︑事
に引きつけて解釈しても愉快だ︒二人の間には︑ある因
見るのは面白い︒ 或 はこの詩の意味をわれらの身の上
あるい
ないとしても︑二人の今の関係を︑この詩の中に適用て
うち
われている︒余と銀杏返しの 間 柄にこんな切ない 思 は
114
の様にかたくなったら?
がこう
そんな危険はない︒余は画工
である︒先は只の女とは違う︒
せいじ
はち
突然襖があいた︒寐返りを打って入口を見ると︑因果
ゆうべ
の相手のその銀杏返しが敷居の上に立って青磁の鉢を盆
たたず
に乗せたまま 佇 んでいる︒
い
おく
﹁また寐て入らっしゃるか︑昨夕は御迷惑で御座んした
な ん べん
ろう︒何返も御邪魔をして︑ほほほほ﹂と笑う︒臆した
は
たん ぜん
景色も︑隠す景色も︱︱耻ずる景色は無論ない︒只こち
せん
らが先を越されたのみである︒
ありがと
﹁今朝は難有う﹂と又礼を云った︒考えると︑丹前の礼
115
べん
云う三字である︒
あご
すべ
ひとま
ひじつぼ
もっと
派な羊羹が並んでいる︒余は凡ての菓子のうちで 尤 も
よう かん
﹁ 難 有 う ﹂ 又 難 有 う が 出 た ︒ 菓 子 皿 の な か を 見 る と︑ 立
﹁御退屈だろうと思って︑御茶を入れに来ました﹂
の柱を立てる︒
ず腹這になって︑両手で顎を支え︑しばし畳の上へ肘壺
はらばい
う﹂と︑さも気作に云う︒余は全くだと考えたから︑一先
きさく
﹁まあ寐て入らっしゃい︒寐ていても話は出来ましょ
女 は 余 が 起 き 返 ろ う と す る 枕 元 へ ︑ 早 く も坐 っ て
すわ
、有
、う
、と
をこれで三返云った︒しかも︑三返ながら︑只難
116
すき
はだ あい
羊羹が好だ︒別段食いたくはないが︑あの肌合が滑らか
ちみつ
ねりあ
に︑緻密に︑しかも半透明に光線を受ける具合は︑どう
ろう せき
見ても一個の美術品だ︒ことに青味を帯びた煉上げ方は︑
ぎょく
玉 と蝋石の雑種の様で︑甚だ見て心持ちがいい︒のみ
な ら ず 青 磁 の 皿 に 盛 ら れ た 青 い 煉 羊 羹 は︑ 青 磁 のな か か
な
ら今生れた様につやつやして︑思わず手を出して撫でて
見たくなる︒西洋の菓子で︑これ程快感を与えるものは
ふる
一つもない︒クリームの色は一寸柔かだが︑少し重苦し
いちもく
い︒ジェリは︑一目宝石の様に見えるが︑ぶるぶる顫え
て ︑ 羊 羹 程 の 重 味 が な い ︒ 白 砂 糖 と 牛 乳 で五 重 の 塔 を 作
117
ごんごどうだん
対して遜 色がない﹂
そん しょ く
とま
さ
た
﹁この青磁の形は大変いい︒色も美事だ︒殆んど羊羹に
満足である︒
事はない︒只美くしければ︑美くしいと思うだけで充分
もせず羊羹を見ていた︒どこで誰れが買って来ても構う
源兵衛は昨夕城下へ留ったと見える︒余は別段の返事
ゆうべ
たに召し上 がられるでしょう﹂
﹁今しがた︑源兵衛が買って帰りました︒これならあな
げ ん べ え
﹁うん︑中々美事だ﹂
みごと
るに至っては︑ 言語道断の沙汰である︒
118
あな
かす
女はふふんと笑った︒口元に侮どりの波が微かに揺れ
しゃれ
あたい
たし
ち
え
た ︒ 余 の 言 葉 を 洒 落 と解 し た の だ ろ う ︒ 成 程 洒 落 と す れ
けいべつ
ば︑軽蔑される 価 は慥かにある︒智慧の足りない男が
ナ
無理に洒落れた時には︑よくこんな事を云うものだ︒
シ
﹁これは支那ですか﹂
﹁何ですか﹂と相手はまるで青磁を眼中に置いていな
い︒
﹁どうも支那らしい﹂と皿を上げて底を眺めて見た︒
﹁そんなものが︑ 御好きなら︑見せましょうか﹂
﹁ええ︑見せて下さい﹂
119
こっとう
だいぶ
れ ん たい
れんじゅう
もったいぶ
はんさ
ことご と
でなくてはならぬ︒あれは商人とか町人とか︑まるで趣
つかえるだろう︒廻れ右︑前への連 中は 悉 く大茶人
まわ
うちに雅味があるなら︑麻布の聯隊のなかは雅味で鼻が
あざぶ
で結構がるものは所謂茶人である︒あんな煩瑣な規則の
いわゆる
ましく︑必要もないのに鞠 躬 如として︑あぶくを飲ん
きっきゅうじょ
て︑極めて自尊的に︑極めてことさらに︑極めてせせこ
流人はない︒広い詩界をわざとらしく窮屈に縄張りをし
なわば
茶と聞いて少し辟易した︒世間に茶人程勿体振った風
へきえき
す︒父にそう云って︑いつか御茶でも上げましょう﹂
﹁父が骨董が大好きですから︑大分色々なものがありま
120
う
の
味の教育のない連中が︑どうするのが風流か見当が付か
りき ゅう
ば
か
ぬ所から︑器械的に利休以後の規則を鵜呑みにして︑こ
かえ
れ で 大 方 風 流な ん だ ろ う ︑ と 却 っ て 真 の風 流 人 を 馬 鹿 に
する為めの芸である︒
﹁ 御茶 っ て ︑ あの 流儀 の あ る茶 で す か な ﹂
おいや
﹁いいえ︑流儀も何もありゃしません︒御厭なら飲まな
くってもいい御茶です﹂
ついで
﹁そんなら︑ 序 に飲んでもいいですよ﹂
﹁ほほほほ︒父は道具を人に見て頂くのが大好きなんで
すから⁝⁝﹂
121
ほ
﹁負けて︑沢山御褒めなさい﹂
﹁ええ︑居ました︑京都にも居ました︒渡りものですか
﹁然し東京に居た事がありましょう﹂
﹁それじゃ幅が利きます﹂
き
﹁人間は田舎の方がいいのです﹂
﹁人間は田舎なんですか﹂
﹁ は は は は ︑ 時に あ な た の 言 葉 は 田 舎 じ ゃ な い ﹂
いなか
﹁へえ︑少しなら褒めて置きましょう﹂
﹁年寄りだから︑褒めてやれば︑嬉しがりますよ﹂
﹁褒めなくっちぁ︑いけませんか﹂
122
ら︑方々に 居ました﹂
﹁ここと都と︑どっちがいいですか﹂
﹁同じ事ですわ﹂
かえ
﹁こう云う静かな所が︑却って気楽でしょう﹂
いや
﹁気楽も︑気楽でないも︑世の中は気の持ち様一つでど
のみ
うでもなります︒蚤の国が厭になったって︑蚊の国へ引
越しちゃ︑何にもなりません﹂
﹁蚤も蚊も居ない国へ行ったら︑いいでしょう﹂
﹁ そ ん な 国 が あ る な ら ︑ こ こ へ 出 し て 御覧 な さ い ︒ さ あ
ちょう だい
出して 頂 戴﹂と女は詰め寄せる︒
123
﹁御望みなら︑出して上げましょう﹂と例の写生帖をと
さらさらと書いて︑
お
い
の
か︒そんな所が御好きなの︑まるで蟹ね﹂と云って退け
かに
﹁まあ︑窮屈な世界だこと︑横幅ばかりじゃありません
景色を伺うと︑
様子では︑よもや︑苦しがる事はなかろうと思って︑一寸
ちょっと
と鼻の前へ突き付けた︒驚くか︑耻ずかしがるか︑この
さき
﹁さあ︑この中へ御這入りなさい︒蚤も蚊も居ません﹂
は
咄嗟の筆使いだから︑画にはならない︒只心持ちだけを
とっさ
って︑女が馬へ乗って︑山桜を見ている心持ち︱︱無論
124
た︒余は
のきば
な
うぐいす
ふたり
﹁わはははは﹂と笑う︒軒端に近く︑啼きかけた 鶯 が︑
かた
そば だ
いったん
そこ
中途で声を崩して︑遠き方へ枝移りをやる︒両人はわざ
ど
あ
と対話をやめて︑しばらく耳を 峙 てたが︑一反鳴き損
の
お
あ
ね た咽 喉は 容 易に 開 け ぬ ︒
きのう
ご りん のとう
い
﹁ 昨日 は 山 で 源 兵 衛に 御 逢 い で し た ろ う ﹂
﹁ええ﹂
ながら
﹁長良の乙女の五輪塔を見て入らしったか﹂
﹁ええ﹂
﹁あきづけば︑をばなが上に置く露の︑けぬべくもわ
125
た
は︑おもほゆるかも﹂と説明もなく︑女はすらりと節も
ちゃみせ
﹁その歌はね︑茶店で聞きましたよ﹂
ばあ
諳 誦してしまいました﹂
あんしょ う
ったのですが︑何遍も聴くうちに︑とうとう何も蚊も
話をして聞かせてやりました︒うただけは中々覚えなか
﹁ 私 が まだ 若 い 時 分 で し た が ︑ あれ が来 る た びに長 良 の
と余の顔を見たから︑余は知らぬ風をしていた︒
したもので︑私がまだ嫁に⁝⁝﹂と云いかけて︑これは
﹁婆さんが教えましたか︒あれはもと 私 のうちへ 奉公
わたくし
つけずに歌だけ述べた︒何の為めか知らぬ︒
126
しか
﹁どうれで︑むずかしい事を知ってると思った︒︱︱然
あわ
しあの歌は憐れな歌ですね﹂
よ
﹁憐れでしょうか︒私ならあんな歌は咏みませんね︒
ふ ち かわ
第一︑淵川へ身を投げるなんて︑つまらないじゃありま
せんか﹂
﹁成程つまらないですね︒あなたならどうしますか﹂
﹁どうするって︑訳ないじゃありませんか︒ささだ男も
妾にするばかりですわ﹂
お と こめ かけ
ささべ男も︑男
﹁両方ともですか﹂
﹁ええ﹂
127
﹁えらいな﹂
う﹂
ど
ふくらむ咽喉の底を震わして︑小さき口の張り裂くるば
の
すと︑あとは自然に出ると見える︒身を 逆 まにして︑
さ かし
り返してか︑時ならぬ高音を不意に張った︒一度立て直
たかね
ほーう︑ほけきょうと忘れかけた鶯が︑いつ 勢 を盛
いきおい
﹁蟹の様な思いをしなくっても︑生きていられるでしょ
かに
済む訳だ﹂
﹁成程それじゃ蚊の国へも︑蚤の国へも︑飛び込まずに
﹁えらかあない︑当り前ですわ﹂
128
かりに︑
ほーう︑ほけきょーう︒ほーー︑ほけっーきょうー
さえ
と︑つづけ様に囀ずる︒
﹁あれが本当の歌です﹂と女が余に教えた︒
五
だんな
﹁失礼ですが旦那は︑ 矢っ張り東京ですか﹂
﹁東京と見えるかい﹂
だいち
﹁見えるかいって︑一目見りゃあ︑︱︱第一言葉でわか
129
りまさあ﹂
ど
こ
いなせ
わっち
ゃ︑みじめですぜ﹂
か
よつや
﹁えへへへへ︒からっきし︑どうも︑人間もこうなっち
﹁道理で生粋だと思ったよ﹂
どうれ
﹁こう見えて︑ 私 も江戸っ子だからね﹂
め
﹁ ま あ そ んな 見 当 だ ろ う ︒ よ く 知 っ て る な ﹂
それじゃ︑小石川?でなければ牛込か四谷でしょう﹂
うしごめ
じゃねえようだ︒山の手だね︒山の手は 麹 町かね︒え?
こうじまち
﹁そうさね︒東京は馬鹿に広いからね︒︱︱何でも下町
ば
﹁東京は何所だか知れるかい﹂
130
いなか
﹁何で又こんな田舎へ流れ込んで来たのだい﹂
おっ
﹁ちげえねえ︑旦那の仰しゃる通りだ︒全く流れ込んだ
かみいどこ
きた
所かね︒所は神田松永
か ん だ ま つな が
んだからね︒すっかり食い詰めっちまって⁝⁝﹂
もと
﹁固から髪結床の親方かね﹂
ねこ
﹁親方じゃねえ︑職人さ︒え?
ちょう
りゅうかんばし
町 でさあ︒なあに猫の額みた様な小さな汚ねえ町でさ
はず
つ
く
そいつも知らねえかね︒竜閑橋
あ︒旦那なんか知らねえ筈さ︒あすこに竜 閑 橋てえ橋
がありましょう︒え?
なだい
ゃ︑名代な橋だがね﹂
シャボン
﹁おい︑もう少し︑石鹸を塗けて呉れないか︑痛くって︑
131
いけない﹂
いと
シャボン
わっち
かん しょう
少し湯か石鹸をつけとくれ﹂
ひげ
ほ
やけに頬の肉をつまみ上げた手を︑残念そうに放した
ほお
体︑髭があんまり︑延び過ぎてるんだ﹂
てい
﹁我慢しきれねえかね︒そんなに痛かあねえ筈だが︒全
ぜん
﹁我慢は 先 から︑もう大分したよ︒御願だから︑もう
さっき
るんじゃねえ︑撫でるんだ︒もう少しだ我慢おしなせえ﹂
な
気が済まねえんだから︑︱︱なあに今時の職人なあ︑剃
す
て︑逆剃をかけて︑一本々々髭の穴を堀らなくっちゃ︑
さ かず り
﹁痛うがすかい︒ 私 ゃ癇 性 でね︑どうも︑こうやっ
132
たな
ぺら
シャボン
お
よ
親方は︑棚の上から︑薄っ片な赤い石鹸を取り卸ろして︑
ちょ っと
はだ かシャボン
水のなかに一寸浸したと思ったら︑それなり余の顔をま
ま
しか
ぬ
んべんなく一応撫で廻わした︒裸 石 鹸を顔へ塗り付け
た
られた事はあまりない︒然もそれを濡らした水は︑幾日
く
前に汲んだ︑溜め置きかと考えると︑余りぞっとしない︒
既に髪結床である以上は︑御客の権利として︑余は鏡
に向わなければならん︒然し余はさっきからこの権利を
い
放棄したく考えている︒鏡と云う道具は平らに出来て︑
なだらかに人の顔を写さなくては義理が立たぬ︒もしこ
そな
の 性 質 が 具 わ ら な い 鏡 を 懸 け て︑ こ れ に 向 え と 強 い るな
133
らば︑強いるものは下手な写真師と同じく︑向うものの
ひ きが え る
も う し ご
ま っ たい ら
お
つぶ
けんきん
る︒ 苟 もこの鏡に対する間は一人で色々な化物を兼勤
いやしく
少しこごむと福禄寿の祈誓児の様に頭がせり出してく
ふくろくじゅ
る︒仰向くと蟇 蛙 を前から見た様に真 平に圧し潰され︑
あおむ
右を向くと顔中鼻になる︒左を出すと口が耳元まで裂け
なくされている鏡は慥かに最前から余を侮辱している︒
たし
辱するには及ぶまい︒今余が辛抱して向き合うべく余儀
価 以 下 の 顔 を 見 せ て ︑ こ れ が あな た で す よ と︑ 此 方 を 侮
こちら
挫くのは修養上一種の方便かも知れぬが︑何も己れの真
くじ
器 量 を 故 意 に 損 害 し た と 云 わな け れ ば な ら ぬ ︒ 虚 栄 心 を
134
ま
しなくてはならぬ︒写るわが顔の美術的ならぬは先ず我
は
慢するとしても︑鏡の構造やら︑色合や︑銀紙の剥げ落
しょう じん
ば
り
ちて︑光線が通り抜ける模様などを総合して考えると︑
つう よう
この道具その物からが醜体を極めている︒小 人から罵詈
が
だれ
されるとき︑罵詈それ自身は別に痛痒を感ぜぬが︑その
き
のぞ
小人の面前に起臥しなければならぬとすれば︑誰しも不
愉快だろう︒
ただ
ながぎせる
その上この親方が只の親方ではない︒そとから覗いた
あぐら
ときは︑胡坐をかいて︑長烟管で︑おもちゃの日英同盟
たばこ
国旗の上へ︑しきりに烟草を吹きつけて︑さも退屈気に
135
は
い
ふる
ごう
たく
りじん
あげ
しい声が出た︒しかも本人は日本一の手腕を有する親方
時分にはごりごり︑ごりごりと霜柱を踏みつける様な怪
はぞきりと動脈が鳴った︒顋のあたりに利刃がひらめく
あご
らん︒頬にあたる時はがりりと音がした︒揉み上の所で
も
彼は髪剃を揮うに当って︑毫も文明の法則を解してお
かみそり
に 釘 付 け に さ れ て い るに し て も こ れ で は 永 く 持 たな い ︒
くぎづ
がい出した位︑容赦なく取り扱われる︒余の首が肩の上
るのか︑将た幾分かは余の上にも存するのか︑一人で疑
は
驚ろいた︒髭を剃る間は首の所有権は全く親方の手にあ
そ
見えたが︑這入って︑わが首の所置を托する段になって
136
もっ
を以て自任している︒
い
ガ
ス
最後に彼は酔っ払っている︒旦那えと云うたんびに妙
にお
ど
こ
な臭いがする︒時々は異な瓦斯を余が鼻柱へ吹き掛ける︒
なんどき
これではいつ何時︑髪剃がどう間違って︑何所へ飛んで
わか
とくしん
行くか解らない︒使う当人にさえ判然たる計画がない以
が
つもり
上 は ︑ 顔 を 貸 し た 余 に 推 察 の 出来 よ う 筈 がな い ︒ 得 心 ず
け
か
くで任せた顔だから︑少しの怪我なら苦情は云わない 積
の ど ぶ え
なま
だが︑急に気が変って咽喉笛でも掻き切られては事だ︒
シャボン
﹁石鹸なんぞを︑つけて︑剃るなあ︑腕が生なんだが︑
旦 那 の は ︑ 髭 が 髭 だ か ら 仕方 が あ る め え ﹂ と 云 い な が ら
137
ほう
親方の命令に背いて地面の上へ転がり落ちた︒
あんま
来なすったのかい﹂
に さ ん ち
﹁二三日前来たばかりさ﹂
﹁へえ︑どこに居るんですい﹂
とま
﹁志 保田に逗ってるよ﹂
たよっ
すよ︒︱︱なにね︑あの隠居が東京に居た時分︑わっし
と思ってた︒実あ︑ 私 もあの隠居さんを 頼 て来 たんで
わっし
﹁うん︑あすこの御客さんですか︒大方そんな事たろう
こっ
﹁旦那あ︑ 余 り見受けねえ様だが︑何ですかい︑近頃
ち かご ろ
親 方 は 裸 石 鹸 を ︑ 裸 の ま ま 棚 の 上 へ 放 り 出 す と ︑ 石 鹸は
138
が近所にいて︑︱︱それで知ってるのさ︒いい人でさあ︒
ご しん ぞ
も の の 解 っ た ね ︒ 去 年 御 新 造 が 死 ん じ ま っ て︑ 今 じ ゃ 道
ひね
具ばかり捻くってるんだが︱︱何でも素晴らしいもの
かねめ
が︑有るてえますよ︒売ったら余っ程な金目だろうって
話 さ﹂
でがえ
﹁ 奇 麗 な 御嬢 さ ん が 居 る じ ゃ な い か ﹂
﹁あぶねえね﹂
﹁何が?﹂
めえ
﹁何がって︒旦那の前だが︑あれで出返りですぜ﹂
﹁そうかい﹂
139
﹁そうかな﹂
めえ
さわぎ
い︒景色のいい 所ですよ﹂
ぜい たく
﹁本家は岡の上にありまさあ︒遊びに行って御覧なさ
おか
﹁本家があるのかい﹂
﹁当り前でさあ︒本家の 兄 たあ︑仲がわるしさ﹂
あにき
た日にゃ︑法返しがつかねえ訳になりまさあ﹂
ほうがえ
居さんがああしているうちはいいが︑もしもの事があっ
ねえって︑出ちまったんだから︑義理が悪るいやね︒隠
来なくってもいい所をさ︒︱︱銀行が潰れて贅沢が出来
つぶ
﹁そうかいどころの 騒 じゃねえんだね︒全体なら出て
140
シャボン
﹁おい︑もう一遍石鹸をつけてくれないか︒又痛くなっ
て来た﹂
こわ
だ
め
﹁よく痛くなる髭だね︒髭が硬過ぎるからだ︒旦那の髭
そり
こ
じゃ︑三日に一度は是非剃を当てなくっちゃ駄目ですぜ︒
ど
わっしの剃で痛けりゃ︑何所へ行ったって︑我慢出来っ
こねえ﹂
﹁これから︑そうしよう︒何なら毎日来 てもいい﹂
とう り ゅ う
こ
ろく
﹁そんなに長く逗 留 する気なんですか︒あぶねえ︒お
えき
よしなせえ︒益もねえ事った︒碌でもねえものに引っか
あ
か っ て ︑ ど ん な 目に 逢 う か 解 り ま せ ん ぜ ﹂
141
﹁どうして﹂
﹁なぜ﹂
てるんでさあ﹂
んのんだ﹂
か
めん
の
﹁ お れ は 大 丈 夫 だ が ︑ ど んな 証 拠 が あ る んだ い ﹂
お
﹁可笑しな話しさね︒まあゆっくり︑烟草でも呑んで御
お
﹁だって︑現に証拠があるんだから︑御よしなせえ︒け
﹁そりゃ何かの間違だろう﹂
まちがい
﹁なぜって︑旦那︒村のものは︑みんな気狂だって云っ
きちげえ
、印しですぜ﹂
﹁旦那あの娘は面はいい様だが︑本当はき
142
いで
出な せえ話すから︒︱︱頭 あ洗いましょうか﹂
け
﹁頭はよそう﹂
ふ
たま
つめ
﹁頭垢だけ落して置くかね﹂
あか
ずがいこつ
親方は垢の溜った十本の爪を︑遠慮なく︑余が頭葢骨
ごと
の 上 に 並 べ て ︑ 断 わ り も な く ︑ 前 後に 猛 烈 な る 運 動 を 開
くまで
ごと
始した︒この爪が︑黒髪の根を一本毎に押し分けて︑不
きょう
毛の 境 を巨人の熊手が疾風の速度で通る如くに往来す
る︒余が頭に何十万本の髪の毛が生えているか知らんが︑
ことご と
あが
じばん
あ り と あ る 毛 が 悉 く 根 こ ぎ に さ れ て ︑ 残 る 地面 が べ た
めめずばれ
一面に蚯蚓腫にふくれ上った上︑余勢が地磐を通して︑
143
のう み
ま
そ
らつわん
﹁非常な辣腕だ﹂
しんとう
はげ
こうやると誰でも薩張りするからね﹂
からだ
ょう︒ちと話しに御出なせえ︒どうも江戸っ子は江戸っ
おいで
ぷ く 御 上 が ん な さ い ︒ 一 人 で志 保 田に 居 ち ゃ ︑ 退 屈 で し
うも春てえ奴あ︑やに身体がなまけやがって︱︱まあ一
やつ
﹁そんなに倦怠うがすかい︒全く陽気の加減だね︒ど
けったる
﹁ 首 が抜 け そ う だ よ ﹂
﹁え?
さっぱ
﹁どうです︑好い心持でしょう﹂
い
を掻き廻わした︒
か
骨 か ら 脳 味 噌 ま で 震 盪 を 感 じ た 位 烈 し く ︑ 親 方 は 余 の頭
144
子同志でなくっちゃ︑話しが合わねえものだから︒何で
お あ い そ
すかい︑ 矢っ張りあの御嬢さんが︑御愛想に出てきます
みさけ え
ふ
け
かい︒どうも薩ぱし︑見境のねえ女だから困っちまわあ﹂
し
からっ きし
﹁御嬢さんが︑どうとか︑為た所で頭垢が飛んで︑首が
抜けそうになったっけ﹂
ちげえ
のぼ
﹁ 違 ねえ︑がんがらがんだから︑殻 切︑話に締りがね
ぼうず
えったらねえ︒︱︱そこでその坊主が逆せちまって⁝⁝﹂
﹁その坊主たあ︑どの坊主だい﹂
なっしょ
﹁ 観 海 寺 の 納 所坊 主 が さ ⁝ ⁝ ﹂
﹁納所にも住持にも︑坊主はまだ一人も出て来ないん
145
だ﹂
﹁女がさ﹂
せっ かち
﹁誰が驚ろいたんだい﹂
驚ろいちまってからに⁝⁝﹂
にがんばし
ちげ
うん︑そうか︑矢っ張りそうか︒するてえと 奴 さん︑
やっこ
ると︱︱こうっと︱︱何だか︑行きさつが少し変だぜ︒
い
口説たんだっけかな︒いんにゃ文だ︒文に違えねえ︒す
くどい
ちまって︑とうとう文をつけたんだ︒︱︱おや待てよ︒
ふみ
来 そ う な 坊 主だ っ た が ︑ そ い つ が 御前 さ ん︑ レ コ に 参 っ
おめえ
﹁そうか︑急勝だから︑いけねえ︒苦味走った︑色の出
146
お
﹁女が文を受け取って驚ろいたんだね﹂
し
ふみ
﹁ と こ ろ が 驚 ろ く 様 な 女 な ら ︑ 特 勝 ら し い んだ が ︑ 驚 ろ
くどころじゃねえ﹂
﹁じゃ誰が驚ろいたんだい﹂
くどい
﹁口説た方がさ﹂
くどか
﹁口説ないのじゃないか﹂
じれっ
﹁ええ︑焦心てえ︒間違ってらあ︒文をもらってさ﹂
﹁ そ れ じ ゃ 矢っ 張 り 女 だ ろ う ﹂
﹁なあに男がさ﹂
﹁男なら︑その坊主だろう﹂
147
﹁ええ︑その坊主がさ﹂
きじ るし
も狂印だね﹂
かあい
﹁どうかしたのかい﹂
﹁へええ﹂
さあ﹂
くび
たま
ね
て︑出し抜けに︑泰安さんの頸っ玉へかじりついたんで
た い あん
﹁そんなに可愛いなら︑仏様の前で︑一所に寐ようっ
いっしょ
突 然あの女が飛び込んで来て︱︱ウフフフフ︒どうして
い きな り
﹁どうしてって︑本堂で和尚さんと御経を上げてると︑
おしょう
﹁坊主がどうして驚ろいたのかい﹂
148
めんくら
きちげえ
はじ
﹁面喰ったなあ︑泰安さ︒気狂に文をつけて︑飛んだ耻
を掻かせられて︑とうとう︑その晩こっそり姿を隠して
死んじまって⁝⁝﹂
﹁死んだ?﹂
さ
﹁死んだろうと思うのさ︒生きちゃいられめえ﹂
﹁何とも云えない﹂
きちげえ
﹁そうさ︑相手が気狂じゃ︑死んだって冴えねえから︑
ことによると生きてるかも知れねえね﹂
おもしろ
﹁ 中 々面 白 い 話 だ ﹂
﹁面白いの︑面白くないのって︑村 中大笑いでさあ︒と
149
いそ
あお
じい
はす
うち
しゃあしゃあ
うずく
がら︑だまって貝をむいている︒かちゃりと︑小刀があ
こが たな
向うの家では六十ばかりの爺さんが︑軒下に蹲踞まりな
うち
ぐり抜ける 燕 の姿が︑ひらりと︑鏡の裡に落ちて行く︒
つばめ
親方の暖簾を眠たそうに煽る︒身を斜にしてその下をく
のれん
生温い磯から︑塩気のある春風がふわりふわりと来て︑
なまぬる
﹁ちっと気を付けるかね︒ははははは﹂
り何かすると︑大変な目に逢いますよ﹂
あ
大丈夫ですがね︑相手が相手だから︑滅多にからかった
して平気なもんで︱︱なあに旦那の様に確然していりゃ
しっ かり
ころが当人だけは︑根が気が違ってるんだから︑洒唖々々
150
み
ざる
むこう
たる度に︑赤い味が笊のなかに隠れる︒殻はきらりと光
かげろう
か
き
りを放って︑二尺あまりの陽炎を 向 へ横切る︒丘の如
うずた
て がい
くに 堆 かく︑積み上げられた︑貝殻は牡蠣か︑馬鹿か︑
ま
馬 刀 貝 か ︒ 崩 れ た ︑ 幾 分 は 砂 川 の 底 に 落 ち て︑ 浮 世 の表
ゆくえ
から︑暗らい国へ葬られる︒葬られるあとから︑すぐ新
ただ むな
しい貝が︑柳の下へたまる︒爺さんは貝の行末を考うる
いとま
暇 さえなく︑唯空しき殻を陽炎の上へ放り出す︒彼れ
ど
の笊には支うべき底なくして︑彼れの春の日は無尽蔵に
の
砂川は二間に足らぬ小橋の下を流れて︑浜の方へ春の
長閑かと見える︒
151
ぬくも り
ほし あみ
さいわい
しんし
え ん ぜい
大な豪傑ではなかった︒いくら江戸っ子でも︑どれ程た
方鑿の感に打たれただろう︒ 幸 にして親方はさほど偉
ほうさく
頭脳に与えたならば︑余は両者の間に立って 頗 る円枘
す こぶ
方 の 人 格 が 強 烈 で 四 辺 の 風 光 と 拮抗 す る 程 の 影響 を 余 の
きっこう
この景色とこの親方とは到底調和しない︒もしこの親
の色だ︒
鈍刀を溶かして︑気長にのたくらせた様に見えるのが海
腥 き微温を与えつつあるかと怪しまれる︒その間から︑
なまぐさ
として幾尋の干網が︑網の目を抜けて村へ吹く軟風に︑
いくひろ
水をそそぐ︒春の水が春の海と出合うあたりには︑参差
152
こん ぜん
じ ょ う ぜつ
ろう
たいとう
んかを切っても︑この渾然として駘蕩たる天地の大気象
かな
い
い
には叶わない︒満腹の 饒 舌を弄して︑あくまでこの調
おい
子 を 破 ろ う と す る 親 方 は ︑ 早 く 一 微 塵 とな っ て ︑ 怡 々 た
うち
たいく
ひょ う たん あ い い
あた
る春光の裏に浮遊している︒矛盾とは︑力に於て︑量に
もし
於て︑若くは意気体躯に於て 氷 炭相容るる能わずして︑
く らい
はな はだ
しかも同程度に 位 する物若しくは人の間に在って始め
みいだ
し じん ろ うま
かえ
て︑見出し得べき現象である︒両者の間隔が 甚 しく懸
よ うや
たいじん
絶するときは︑この矛盾は 漸 く澌礱磨して︑却って大
ここう
まいしゃ
勢 力 の 一 部 と な っ て 活 動 す るに至 る か も 知 れ ぬ ︒ 大 人 の
しゅそく
手 足 と な っ て 才 子 が 活 動 し ︑ 才 子 の 股 肱 とな っ て 昧 者 が
153
る︒
しんぷく
のんき
もっと
のどか
や
じ
こくい
す
ちかづき
さいしき
よ
も
や
ま
だから︑とうに帰るべき所を︑わざと尻を据えて四方八方
しり
こう考えると︑この親方も中々画にも︑詩にもなる男
え
平の 象 を具したる春の日に 尤 も調和せる一彩色であ
しょう
様な気持ちになった︒この極めて安価なる気燄家は︑太
き え ん か
ある︒余は思わず弥生半ばに呑気な弥次と近付になった
やよい
べき筈の彼は︑却って長閑な春の感じを刻意に添えつつ
はず
して︑一種の滑稽を演じている︒長閑な春の感じを壊す
こっけ い
が為めである︒今わが親方は限りなき春の景色を背景と
活動し︑昧者の心腹となって牛馬が活動し得るのはこれ
154
のれん
まるぐけ
の話をしていた︒ところへ暖簾を滑って小さな坊主頭が
もら
しろもめん
﹁ 御免 ︑ 一 つ 剃 っ て 貰 おう か ﹂
や
あら
ころも
は
お
すこぶ
と這入って来る︒白木綿の着物に同じ丸絎の帯をしめて︑
か
こないだ
上から蚊帳の様に粗い法衣を羽織って︑ 頗 る気楽に見
える小坊主であった︒
りょうねん
﹁了 念さん︒どうだい︑此間あ道草あ︑食って︑和尚
しか
さんに叱られたろう﹂
ほ
﹁いんにゃ︑褒められた﹂
つ かい
﹁ 使 に出て︑途中で魚なんか︑とっていて︑了念は感
心だって︑褒められたのかい﹂
155
す
﹁若いに似ず了念は︑よく遊んで来て感心じゃ云うて︑
こぶ
﹁わしが云うたのじゃない︒老師が云われたのじゃ︒そ
﹁篦棒め︑腕が鈍いって⁝⁝﹂
べらぼう
﹁腕は鈍いが︑酒だけ強いのは御前だろ﹂
おまえ
﹁はははは頭は凹凸だが︑口だけは達者なもんだ﹂
ぼこでこ
﹁ 捏ね 直 す 位 な ら ︑ ま す こ し 上 手 な 床 屋 へ 行 き ま す ﹂
次 か ら ︑ 捏 ね 直 し て来 ね え ﹂
こ
るなあ骨が折れていけねえ︒今日は勘弁するから︑この
﹁道理で頭に瘤が出来てらあ︒そんな不作法な頭あ︑剃
どうれ
老師が褒められたのよ﹂
156
おこ
とし が
い
う怒 るまい ︒年 甲斐 もない﹂
﹁ヘン︑面白くもねえ︒︱︱ねえ︑旦那﹂
﹁ええ?﹂
ぜん てい
﹁全体坊主なんてえものは︑高い石段の上に住んでやが
く っ たく
っ て ︑ 屈 托 が ね え か ら ︑ 自 然に 口 が 達 者 に な る 訳 で す か
くちはば
ね
ね︒こんな小坊主まで中々口幅ってえ事を云います
どたま
ぜ︱︱おっと︑もう少し 頭 を寐かして︱︱寐かすんだ
てえのに︑︱︱言う事を聴かなけりゃ︑切るよ︑いいか︑
血が出るぜ﹂
﹁痛いがな︒そう無茶をしては﹂
157
﹁この位な辛抱が出来なくって坊主になれるもんか﹂
して死んだっけな︑ 御小僧さん﹂
はず
り く ぜん
はてな︒死んだ筈だが﹂
﹁泰安さんは死にはせんがな﹂
﹁ 死な ね え ?
のち
ちしき
法はあるめえ︒御前なんざ︑よく気をつけなくっちゃい
おめえ
﹁ 何 が 結 構 だ い ︒ い く ら 坊 主 だ っ て ︑ 夜逃 を し て 結 構 な
よにげ
て︑修行三昧じゃ︒今に智識になられよう︒結構な事よ﹂
ざんまい
﹁泰安さんは︑その後発憤して︑陸前の大梅寺へ行っ
だいばい じ
﹁ ま だ 一 人 前 じ ゃ ね え ︒ ︱ ︱ 時に あ の 泰 安 さ ん は ︑ ど う
い ちに ん め え
﹁坊主にはもうなっとるがな﹂
158
け ね え ぜ ︒ と か く ︑ し く じ るな あ 女 だ か ら ︱ ︱ 女 っ て え
きじ るし
ば︑あの狂印は矢っ張り和尚さんの所へ行くかい﹂
そ すり
﹁狂印と云う女は聞いた事がない﹂
み
なお
﹁通じねえ︑味噌擂だ︒行くのか︑行かねえのか﹂
ご きとう
﹁狂印は来んが︑志保田の娘さんなら来る﹂
たた
﹁いくら︑和尚さんの御祈祷でもあればかりゃ︑癒るめ
せん
え︒全く先の旦那が祟ってるんだ﹂
かな
﹁あの娘さんはえらい女だ︒老師がよう褒めておられる﹂
さ かさ ま
﹁石段をあがると︑何でも逆様だから叶わねえ︒和尚さ
きちげえ
んが︑何て云ったって︑気狂は気狂だろう︒︱︱さあ剃
159
ほめ
れたよ︒早く行って和尚さんに叱られて来ねえ﹂
とつ
かんしけつ
﹁咄この乾屎橛﹂
﹁何だと?﹂
六
き
夕暮の机に向う︒障子も 襖 も開け放つ︒宿の人は多
ふすま
青い頭は既に暖簾をくぐって︑春 風に吹かれている︒
しゅん ぷう
﹁勝手にしろ︑口の減らねえ餓鬼だ﹂
が
﹁いやもう少し遊んで行って賞められよう﹂
160
よ
いくまがり
くもあらぬ上に︑家は割合に広い︒余が住む部屋は︑多
きょ う
くもあらぬ人の︑人らしく振舞う 境 を︑幾 曲の廊下に
わずらい
ま
隔 て た れ ば ︑ 物 の 音 さ え 思 索 の 煩 に はな ら ぬ ︒ 今 日 は
ひとしお
一層静かである︒主人も︑娘も︑下女も下男も︑知らぬ間
の
かすみ
に︑われを残して︑立ち退いたかと思われる︒立ち退い
ただ
かじ
たとすれば唯の所へ立ち退きはせぬ︒ 霞 の国か︑雲の
あるい
ま
国かであろう︒ 或 は雲と水が自然に近付いて︑舵をと
も のう
さ かい
るさえ 懶 き海の上を︑いつ流れたとも心づかぬ間に︑
がた
白い帆が雲とも水とも見分け難き 境 に漂い来て︑果て
は帆みずからが︑いずこに己れを雲と水より差別すべき
161
いまご ろ
はる
か
知れぬ︒とにかく静かなものだ︒
れいふん
さ
なごり
とど
お ちつばき
の下に︑伏せられながら︑世を香ばしく眠っているかも
かん
とめを果したる後︑蕋に凝る甘き露を吸い損ねて︑落 椿
ずい
行ったかも知れぬ︒又は永き日を︑かつ永くする虻のつ
あぶ
の 黄 を 鳴 き 尽 し た る 後 ︑ 夕暮 深 き 紫 の たな び く ほ と り へ
め ぬ 様 に な っ た の で あろ う ︒ 或 は雲雀 に 化 し て ︑ 菜 の 花
ひばり
い天地の 間 に︑顕微鏡の力を藉るとも︑些の名残を留
あいだ
これまでの四大が︑今頃は目に見えぬ霊氛となって︑広
しだい
思われる︒それでなければ卒然と春のなかに消え失せて︑
う
かを苦しむあたりへ︱︱そんな遥かな所へ立ち退いたと
162
むな
はるかぜ
おのず
空 し き 家 を ︑ 空 し く 抜 け る 春風 の ︑ 抜 け て 行 く は 迎 え
つらあて
こころ
る人への義理でもない︒拒むものへの面当でもない︒自
きた
あご
ごと
から来りて︑自から去る︑公平なる宇宙の 意 である︒
たな ご こ ろ
掌 に顎を支えたる余の心も︑わが住む部屋の如く空
きづかい
しければ︑春風は招かぬに︑遠慮もなく行き抜けるであ
ろう︒
ゆえ
こめかみ
お それ
踏むは地と思えばこそ︑裂けはせぬかとの気遣も起る︒
い ただ
かたく
戴 くは天と知る故に︑稲妻の米噛に震う 怖 も出来る︒
いちぶん
けんこん
人と争わねば一分が立たぬと浮世が催促するから︑火宅
まぬ
の苦は免かれぬ︒東西のある乾坤に住んで︑利害の綱を
163
の
ちゃく
た のし み
か
し
す
がかく
ひん
あだ
みつ
てっこつてつずい
こう
こ
ざ
みいだ
はち
を樹立すべき余地は茫々たる大地を極めても見出し得
ぼうぼう
てその物になるのである︒その物になり済ました時に︑我
われ
て悔いぬ︒彼等の 楽 は物に着するのではない︒同化し
かれら
霞を餐し︑露を嚥み︑紫を品し︑紅を評して︑死に至っ
さん
こ の 待 対 世 界 の 精 華 を 嚼 ん で ︑ 徹 骨徹 髄 の 清 き を 知 る ︒
たいたい
苦しみを含む︒但詩人と画客なるものあって︑飽くまで
ただ
う︒所謂 楽 は物に 着 するより起るが故に︑あらゆる
い わ ゆ る た のし み
が甘く醸すと見せて︑針を棄て去る蜜の如きものであろ
かも
富は土である︒握る名と奪える 誉 とは︑小賢かしき蜂
ほま れ
渡らねばならぬ身には︑事実の恋は讎である︒目に見る
164
でいだん
ほうげ
は り つ り
あえ
せい らん
しせい
どう しゅうじ
ぬ︒自在に泥団を放下して︑破笠裏に無限の青嵐を盛る︒
ねんしゅ つ
た
ただ し ゃ り
いたずらにこの境遇を拈 出 するのは︑敢て市井の銅臭児
きかく
しゅじょう
さしまね
ありてい
を鬼嚇して︑好んで高く標置するが為めではない︒只這裏
ふくいん
にん にん ぐ そ く
の福音を述べて︑縁ある衆 生 を 麾 くのみである︒有体
い
つく
はくと う
しんぎん
いえど
に云えば詩境と云い︑画界と云うも皆人々具足の道であ
しゅん じゅう
きた
る︒春 秋 に指を折り尽して︑白頭に呻吟するの徒と 雖
し ゅ う がい
も
われ
も︑一生を回顧して︑閲歴の波動を順次に点検し来ると
かつ
い き が い
き︑甞ては微光の 臭 骸に洩れて︑吾を忘れし︑拍手の
よ
興を喚び起す事が出来よう︒出来ぬと云わば生甲斐のな
い男である︒
165
されど一事に即し︑一物に化するのみが詩人の感興と
うち
めい り ょ う
り ょ う らん
ひょうびょう
すいせん
むげん
に彷徨すると形容するかも知れぬ︒何と云うも皆その人
ほうこう
解しがたきが故に無限の域に儃佪して︑ 縹 緲 のちまた
せん か い
琴を霊台に聴くと云うだろう︒又ある人は知りがたく︑
きん
人は天地の耿気に触るると云うだろう︒ある人は無絃の
こうき
奪えるは那物ぞとも明 瞭 に意識せぬ場合がある︒ある
な にもの
何とも知れぬ四辺の風光にわが心を奪われて︑わが心を
に化して︑心を沢風の裏に 撩 乱せしむる事もあろうが︑
たくふう
蝶 に化し︑あるはウォーズウォースの如く︑一団の水仙
ちょう
は云わぬ︒ある時は一弁の花に化し︑あるときは一双の
166
からき
よ
たし
しんり
の自由である︒わが︑唐木の机に憑りてぽかんとした心裡
の 状態 は 正 に こ れ で あ る ︒
あきら
もっ
余は 明 かに何事をも考えておらぬ︒又は慥かに何物
か
をも見ておらぬ︒わが意識の舞台に著るしき色彩を以て
い
動くものがないから︑われは如何なる事物に同化したと
も云えぬ︒されども吾は動いている︒世の中に動いても
おらぬ︑世の外にも動いておらぬ︒只何となく動いてい
る︒花に動くにもあらず︑鳥に動くにもあらず︑人間に
こうこつ
強いて説明せよと云わるるならば︑余が心は只春と共
し
対して動くにもあらず︑ 只恍惚と動いている︒
167
せん たん
に動いていると云いたい︒あらゆる春の色︑春の風︑春
うわ
けあな
そら
ごう
た のし み
は違う︒目に見えぬ幾尋の底を︑大陸から大陸まで動い
いくひろ
風に揉まれて上の空なる波を起す︑軽薄で騒々しい趣と
も
刺激がないから︑窈然として名 状しがたい 楽 がある︒
よ う ぜん
は︑何と同化したか不分明であるから︑毫も刺激がない︒
ふぶんみょ う
がある︒刺激があればこそ︑愉快であろう︒余の同化に
に 飽 和 さ れ て し ま っ た と 云 い た い ︒普 通 の 同 化 に は 刺 激
が︑知らぬ間に毛孔から染み込んで︑心が知覚せぬうち
ま
れを蓬莱の霊液に溶いて︑桃源の日で蒸発せしめた精気
ほうらい
の物︑春の声を打って︑固めて︑仙丹に練り上げて︑そ
168
こうよう
そう かい
かえ
ている潢洋たる蒼海の有様と形容する事が出来る︒只そ
しか
れ程に活力がないばかりだ︒然しそこに反って幸福があ
こも
る︒偉大なる活力の発現は︑この活力がいつか尽き果て
けねん
はげ
るだろうとの懸念が籠る︒常の姿にはそう云う心配は伴
うれい
わぬ︒常よりは淡きわが心の︑今の状態には︑わが烈し
しょうま
き力の銷磨しはせぬかとの 憂 を離れたるのみならず︑
お それ
常の心の可もなく不可もなき凡境をも脱却している︒淡
とら
たんとう
しとは単に捕え難しと云う意味で︑弱きに過ぎる 虞 を
ち ゅ う ゆう
含んではおらぬ︒ 冲 融とか澹蕩とか云う詩人の語は尤
もこの境を切実に言い了せたものだろう︒
169
き ょ う がい
え
きま
この 境 界を画にして見たらどうだろうと考えた︒然
うち
ぐう
ろっか
おの
たる森羅の裡に寓するのがこの種の技術家の主意である
しんら
に淋漓として生動させる︒ある特別の感興を︑己が捕え
りんり
たる物象を︑わが感じたるままの趣を添えて︑画布の上
えられている︒もしこの上に一頭地を抜けば︑わが感じ
物が人物として活動すれば︑画の能事は終ったものと考
のうじ
移したものに過ぎぬ︒花が花と見え︑水が水と映り︑人
して︑若くはこれをわが審美眼に漉過して︑絵絹の上に
もし
と称するものは︑只眼前の人事風光を有のままなる姿と
あり
し普通の画にはならないに極っている︒われ等が俗に画
170
ほとば
から︑彼等の見たる物象観が明瞭に筆端に 迸 しってお
らねば︑画を製作したとは云わぬ︒己れはしかじかの事
み
り
か
を︑しかじかに観︑しかじかに感じたり︑その観方も感
ぜん じん
じ方も︑前人の籬下に立ちて︑古来の伝説に支配せられ
もっ と
たるにあらず︑しかも 尤 も正しくして︑尤も美くしき
ものなりとの主張を示す作品にあらざれば︑わが作と云
あえ
うを敢てせぬ︒
し ゅ かく
この二種の製作家に主客深浅の区別はあるかも知れぬ
くだ
が︑明瞭なる外界の刺激を待って︑始めて手を下すのは
とも
双方共同一である︒されど今︑わが描かんとする題目は︑
171
ぶんみょう
こうせん
ほう ふつ
すじ
みいだ
い
か
こ う ろく
げんいん
か
普通の画は感じはなくても物さえあれば出来る︒第二
て︑人の合点する様に髣髴せしめ得るかが問題である︒
がてん
になるだろう︱︱否この心持ちを如何なる具体を藉り
いな
は只心持ちである︒この心持ちを︑どうあらわしたら画
だと指を挙げて明らかに人に示す訳に行かぬ︒あるもの
い
が視界に 横 わる︑一定の景物でないから︑これが源因
よこた
感じは外から来たのではない︑たとい来たとしても︑わ
の色は無論︑濃淡の陰︑洪繊の線を見出しかねる︒わが
かげ
舞して︑これを心外に物 色した所で︑方円の形︑紅緑
ぶっしょく
さほどに分 明なものではない︒あらん限りの感覚を鼓
172
の画は物と感じと両立すれば出来る︒第三に至っては存
えら
するものは只心持ちだけであるから︑画にするには是非
かっ こ う
ともこの心持ちに恰好なる対象を択ばなければならん︒
然るにこの対象は容易に出て来ない︒出て来ても容易に
まとま
纏 らない︒纏っても自然界に存するものとはまるで趣
を異にする場合がある︒従って普通の人から見れば画と
えが
こっか
は受け取れない︒描いた当人も自然界の局部が再現した
さ
も の と は 認 め て お ら ん ︑ 只 感興 の上 し た 刻 下 の 心 持 ち を
しょう きょう
幾分でも伝えて︑多少の生命を 惝 怳 しがたきムードに
与うれば大成功と心得ている︒古来からこの難事業に全
173
いさおし
うんこく
ぶそん
は
ら
つと
しん おう
くだ
たいがどう
ぶつがい
の点から云えば到底これ等の大家に及ぶ訳はないが︑今
韻 は ︑ あ ま り に 単 純 で 且 つ あ ま り に 変 化に 乏 し い ︒ 筆 力
か
惜しい事に雪 舟 ︑蕪村等の力めて描出した一種の気
せっ し ゅ う
神韻を伝え得るものは果して幾人あるか知らぬ︒
ぬ者が大多数を占めているから︑この種の筆墨に物外の
ひつぼ く
ては︑多く眼を具象世界に馳せて︑神往の気韻に傾倒せ
め
の景 色 である︒蕪村の人物である︒泰西の画家に至っ
けい しょく
文与可の竹である︒雲谷門下の山水である︒下って大雅堂
ぶ ん よ か
点までこの流派に指を染め得たるものを挙ぐれば︑
然の 績 を収め得たる画工があるかないか知らぬ︒ある
174
わが画にして見ようと思う心持ちはもう少し複雑であ
る︒複雑であるだけにどうも一枚のなかへは感じが収ま
ほお づ え
りかねる︒頬杖をやめて︑両腕を机の上に組んで考えた
こ
たちま
が矢張り出て来ない︒色︑形︑調子が出来て︑自分の心
こ
が︑ああ此所に居たなと︑ 忽 ち自己を認識する様にか
わがこ
ま
かなければならない︒生き別れをした吾子を尋ね当てる
さ
と かいこう
さえ
為め︑六十余州を回国して︑寐ても寤めても︑忘れる間
ふ
がなかったある日︑十字街頭に不図邂逅して︑稲妻の遮
ぎるひまもなきうちに︑あっ︑此所に居た︑と思う様に
かかなければならない︒それがむずかしい︒この調子さ
175
うらみ
いや しく
え出れば︑人が見て何と云っても構わない︒画でないと
ののし
じょう
うとするのが︑ 抑 もの間違である︒人間にそう変りは
そも そ
鉛 筆 を 置 い て 考 え た ︒ こ んな 抽 象 的 な 興 趣 を 画 に し よ
なかへ落ち込むまで︑工夫したが︑とても物にならん︒
うも出来ない︒写生 帖 を机の上へ置いて︑両眼が 帖 の
ちょう
でも︑何でもないものであれ︑厭わない︒厭わないがど
いと
あらわれたものは︑牛であれ馬であれ︑乃至は牛でも馬
ないし
全体の配置がこの風韻のどれ程かを伝えるならば︑形に
一部を代表して︑線の曲直がこの気合の幾分を表現して︑
罵 られても 恨 はない︒ 苟 も色の配合がこの心持ちの
176
きっと
な い か ら ︑ 多 く の 人 の う ち に は 屹 度 自 分 と 同 じ 感興 に 触
れたものがあって︑この感興を何等の手段かで︑永久化
せ ん と 試 み たに 相 違 な い ︒ 試 み た と す れ ば そ の 手 段 は 何
だろう︒
な る ほど
、楽
、の二字がぴかりと眼に映った︒成程音楽はか
忽ち音
せま
かる時︑かかる必要に逼られて生まれた自然の声であろ
がく
う︒楽は聴くべきもの︑習うべきものであると︑始めて
気が付いたが︑ 不幸にして︑その辺の消息はまるで不案
次に詩にはなるまいかと︑第三の領分に踏み込んで見
内である︒
177
ふいつ
る︒レッシングと云う男は︑時間の経過を条件として起
よ う ぜん
はじゅう
しんり
いのである︒既に同所に把住する以上は︑よしこれを普
はない︒ 初 から窈然として同所に把住する趣きで嬉し
はじめ
二が来り︑二が消えて三が生まるるが為めに嬉しいので
きた
て︑逓次に展開すべき出来事の内容がない︒一が去り︑
ていじ
況には︑時間はあるかも知れないが︑時間の流れに沿う
到底物になりそうにない︒余が嬉しいと感ずる心裏の状
うれ
詩を見ると︑今余の発表しようとあせっている 境 界も
き ょ う がい
して両様なりとの根本義を立てた様に記憶するが︑そう
る 出 来 事 を ︑ 詩 の 本 領 で あ る如 く 論 じ て ︑ 詩 画 は 不 一 に
178
あんばい
通 の 言 語 に 翻 訳 し た 所 で ︑ 必 ず し も 時間 的 に 材 料 を 按 排
い
か
する必要はあるまい︒矢張り絵画と同じく空間的に景物
いたく
を 配 置 し た の み で 出 来 る だ ろ う ︒ 只如 何 な る 景 情 を 詩 中
こう ぜん
に 持 ち来 っ て ︑ こ の 曠 然 と し て 倚 托 な き 有 様 を 写 す か が
問 題 で ︑ 既 に こ れ を 捕え 得 た以上 はレ ッ シ ン グ の 説に 従
わ ん で も 詩 と し て 成 功 す る訳 だ ︒ ホ ー マ ー が ど う で も ︑
ヴァージルがどうでも構わない︒もし詩が一種のムード
か
をあらわすに適しているとすれば︑このムードは時間の
しん ち ょ く
制限を受けて︑順次に進 捗 する出来事の助けを藉らず
とも︑単純に空間的なる絵画上の要件を充たしさえすれ
179
ば︑言語を以て描き得るものと思う︒
こっち
議論はどうでもよい︒ラオコーンなどは大概忘れてい
かく
つい
の
ど
ゆ
めると︑出損なった名は︑遂に腹の底へ収まってしまう︒
でそく
っているのに︑出てくれない様な気がする︒そこで 諦
あきら
かな かっ た︒急に 朋友の名 を失念して︑咽 喉まで出かか
ほ う ゆう
ど う に か 運 動 さ せ た い ば か り で︑ 毫 も 運 動 さ せ る訳 に 行
ごう
ゆすぶって見た︒しばらくは︑筆の先の尖がった所を︑
と
よう︑と写生帖の上へ︑鉛筆を押しつけて︑前後に身を
ない︒兎に角︑画にしそくなったから︑一つ詩にして見
と
るのだから︑よく調べたら︑此方が怪しくなるかも知れ
180
くずゆ
ようや
ねばり
はし
葛湯を練 るとき︑最初のうちは︑ さらさらして︑箸に
てごたえ
ま
手応がないものだ︒そこを辛抱すると︑ 漸 く粘着が出
か
しまい
て︑攪き淆ぜる手が少し重くなる︒それでも構わず︑箸
まわ
を休ませずに廻すと︑今度は廻し切れなくなる︒仕舞に
ふちゃく
は鍋の中の葛が︑求めぬに︑先方から︑争って箸に附着
してくる︒詩を作るのは正にこれだ︒
いきおい
手 掛 り の な い 鉛 筆 が 少 し ず つ 動 く 様に な る の に 勢 を
うれい はほうそうにしたが ってながし
そきんき ょうどうに よこたう
閑花落空庭︒素 琴 横 虚 堂︒
かん かく うていにお ち
青春二三月︒愁 随 芳 草 長︒
せいし ゅんにさん が つ
得て︑かれこれ二三十分したら︑
181
しょうしょ うかかりてうごかず
てんえんちくりょうをめぐる
蠨 蛸 掛 不 動︒篆 煙 繞 竹 梁
ほうすん びこうをみとむ
うた
に ん げん い た ず らに た じ
たまたまいちにに のせいをえて
か か い い ず こ に か よ せん
知 百 年 忙︒遐 懐 寄 何 処︒
ひ ゃ く ね ん のぼ う を し る
まさに
此 境 孰 可 忘︒会 得 一 日 静︒ 正
このきょうだれかわするべけん
独坐無隻語︒方 寸 認 微 光︒人 間 徒 多 事︒
どくざせきごなく
あれか︑これかと思い 煩 った末とうとう︑
わずら
うだ︒然し画に出来ない 情 を︑次には咏って見たい︒
じょう
かと思う︒ここまで出たら︑あとは大した苦もなく出そ
ばよかったと思う︒なぜ画よりも詩の方が作り易かった
やす
りそうな句ばかりである︒これなら始めから︑画にすれ
と云う六句だけ出来た︒読み返して見ると︑みな画にな
182
まんばくた りはくうん のきょう
緬 邈 白 雲 郷︒
ぺん
ちょ っとおも しろ
と出来た︒もう一返最初から読み直して見ると︑一寸面白
く読まれるが︑どうも︑自分が今しがた入った神境を写
つい
したものとすると︑索然として物足りない︒序でだから︑
もう一首作って見ようかと︑鉛筆を握ったまま︑何の気
ふすま
もなしに︑入口の方を見ると︑ 襖 を引いて︑開け放っ
た幅三尺の空間をちらりと︑奇麗な影が通った︒はてな︒
余が眼を転じて︑入口を見たときは︑奇麗なものが︑
既に引き開けた襖の影に半分かくれかけていた︒しかも
その姿は余が見ぬ前から︑動いていたものらしく︑はっ
183
ま
じゃくねん
しょう りょう
あるい
わきめ
重き空気のなかに 蕭 寥 と見えつ︑隠れつする︒
もと
女は固より口も聞かぬ︒傍目も触らぬ︒椽に引く裾の
すそ
かに帰る振袖の影は︑余が座敷から六間の中庭を隔てて︑
けん
ると待たれたる夕暮の欄干に︑しとやかに行き︑しとや
ゆ
花曇りの空が︑刻一刻に天から︑ずり落ちて︑今や降
を落して︑鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた︒
二階の椽側を寂 然として歩行て行く︒余は覚えず鉛筆
えん がわ
て来た︒振 袖 姿のすらりとした女が︑音もせず︑向う
ふりそですがた
一分と立たぬ間に︑影は反対の方から︑逆にあらわれ
と思う間に通り越した︒余は詩をすてて入口を見守る︒
184
い
あ
る
音さえおのが耳に入らぬ位静かに歩行いている︒腰から
下にぱっと色づく︑裾模様は何を染め抜いたものか︑遠
わ
もと
くて解からぬ︒只無地と模様のつながる中が︑おのずか
ぼか
ら暈されて︑夜と昼との境の如き心地である︒女は固よ
り夜と昼との境をあるいている︒
ゆ
この長い振袖を着て︑長い廊下を何度往き何度戻る気
よ そお い
か︑余には解からぬ︒いつ頃からこの不思議な 装 をし
あゆみ
て︑この 不思議な 歩行をつづけ つつあるかも︑余に は解
らぬ︒その主意に至っては固より解らぬ︒固より解るべ
はず
き筈ならぬ事を︑かくまでも端正に︑かくまでも静粛に︑
185
き
ら
ど
綺羅を飾れる︒
うらみ
きら
しょさ
さ
ゆえ
そうぜん
り ょ う えん
めいばく
へ一分毎に消えて去る︒燦めき渡る春の星の︑暁近くに︑
ごと
べのなかにつつまれて︑幽闃のあなた︑ 遼 遠のかしこ
ゆうげき
金襴か︒あざやかなる織物は往きつ︑戻りつ蒼然たる夕
き ん らん
の戸口をまぼろしに彩どる中に︑眼も醒むる程の帯地は
いろ
暮れんとする春の色の︑嬋媛として︑しばらくは冥邈
せん え ん
くは無頓着なる︒無頓着なる所作ならば何が故にかくは
むとん じ ゃく
様である︒逝く春の 恨 を訴うる所作ならば何が故にか
ゆ
れては消え︑消えてはあらわるる時の余の感じは一種異
かくまでも度を重ねて繰り返す人の姿の︑入口にあらわ
186
もん
おち
紫深き空の底に陥いる趣である︒
たい げん
はな
ゆう めい
きん び ょ う
太玄の閽おのずから開けて︑この華やかなる姿を︑幽冥
よい
の府に吸い込まんとするとき︑余はこう感じた︒金 屏
ぎん しょく
いと
を背に︑銀 燭 を前に︑春の宵の一刻を千金と︑さざめ
よ そお い
き暮らしてこそ然るべきこの 装 の︑厭う景色もなく︑
しきそう
争う様子も見えず︑色相世界から薄れて行くのは︑ある
おい
う ろたえ
点に於て超自然の情景である︒刻々と逼る黒き影を︑す
せ
かして見ると女は粛然として︑焦きもせず︑狼狽もせず︑
はい かい
きわ み
同じ程の歩調を以て︑同じ所を徘徊しているらしい︒身
わ ざわ い
に落ちかかる 災 を知らぬとすれば無邪気の 極 である︒
187
ひ
するすみ
をほのめ かしている︒
き
ものすご
う
む
まくらもと
うち
あいだ
うつつ
すまい
しょう よう
まも
すじょう
等の心はさぞつらいだろう︒四苦八苦を百苦に重ねて死
この世の呼吸を引き取るときに︑枕 元に病を護るわれ
い
いて︑その眠りから︑さめる暇もなく︑幻覚のままで︑
ひま
またこう感じた︒うつくしき人が︑うつくしき眠りに就
つ
て︑是非もなき磨墨に流れ込むあたりに︑おのが身の素性
ぜ
ているのだろう︒女のつけた振袖に︑紛たる模様の尽き
ふん
ば こ そ ︑ か よ う に 間 靚 の 態 度 で︑ 有 と 無 の 間 に 逍 遥 し
かん せ い
で︑しばらくの幻影を︑元のままなる冥漠の裏に収めれ
まぼ ろし
知 っ て ︑ 災 と 思 わ ぬ な ら ば 物 凄 い ︒ 黒い 所 が本 来 の 住 居
188
い き が い
じ
ひ
あき
はた
ぬならば︑生甲斐のない本人は固より︑傍に見ている親
ね
い
こ
とが
しい人も殺すが慈悲と諦らめられるかも知れない︒然し
み
すやすやと寐入る児に死ぬべき何の科があろう︒眠りな
よ
がら冥府に連れて行かれるのは︑死ぬ覚悟をせぬうちに︑
じょうごう
だまし打ちに惜しき一命を果すと同様である︒どうせ殺
のが
すものなら︑とても逃れぬ定 業と得心もさせ︑断念も
そな
して︑念仏を唱えたい︒死ぬべき条件が具わらぬ先に︑
む
あ
み
だ ぶつ
えこう
死ぬる事実のみが︑有り有りと︑確かめらるるときに︑
な
南無阿弥陀仏と回向をする声が出る位なら︑その声でお
ういおういと︑半ばあの世へ足を踏み込んだものを︑無
189
理にも呼び返したくなる︒仮りの眠りから︑いつの間と
むやみ
おだや
定めているうちに︑すうと苦もなく通ってしまう︒なぜ
を見るや否や︑何だか口が聴けなくなる︒今度はと心を
いな
と思った︒然し夢の様に︑三尺の幅を︑すうと抜ける影
れ た な ら︑ 呼 び か け て ︑ う つ つ の 裡 か ら 救っ て や ろ う か
うち
れは呼び返したくなる︒余は今度女の姿が入口にあらわ
かに寐かして呉れ と思うかも知れぬ︒それ でも︑われわ
苦しいかも知れぬ︒慈悲だから︑呼んで呉れるな︑ 穏
く
れ る 方 が ︑ 切 れ か か っ た 煩悩 の 綱 を 無 暗 に 引 か る る 様 で
ぼんのう
も 心 付 か ぬ う ち に ︑ 永 い 眠 り に 移 る本 人に は ︑ 呼 び 返 さ
190
ため
何とも云えぬかと考うる途端に︑女は又通る︒こちらに
うかが
窺 う人があって︑その人が自分の為にどれ程やきもき
みじん
ごと
思うているか︑微塵も気に掛からぬ有様で通る︒面倒に
しょて
も気の毒にも︑初手から︑余の如きものに︑気をかねて
おらぬ有様で通る︒今度は今度はと思うているうちに︑
おわ
こらえかねた︑雲の層が︑持ち切れぬ雨の糸を︑しめや
しょう しょう
かに落し出して︑女の影を︑ 蕭 々 と封じ了る︒
191
七
てぬぐい
ゆつぼ
くだ
寒い︒手拭を下げて︑湯壺へ下る︒
ろ
ば
みかげ
三畳へ着物を脱いで︑段々を︑四つ下りると︑八畳程
ふ
ゆぶね
す
ふね
ほ
でいるのだろうが︑色が純透明だから︑入り心地がよい︒
はい
畳んである︒鉱泉と名のつく以上は︑色々な成分を含ん
豆腐屋程な湯槽を据える︒槽とは云うものの矢張り石で
とうふ
で敷き詰めた︑真中を四尺ばかりの深さに堀り抜いて︑
まんな か
な風呂場へ出る︒石に不自由せぬ国と見えて︑下は御影
192
におい
折々は口にさえふくんで見るが別段の味も 臭 もない︒
き
病気にも利くそうだが︑聞いて見ぬから︑どんな病に利
もと
い
くのか知らぬ︒固より別段の持病もないから︑実用上の
ただ は
おんせんみずなめらかにしてぎょうしをあらう
価 値 は か つ て 頭 の な か に 浮 ん だ 事 が な い ︒ 只這 入 る 度 に
はくらくてん
考え出すのは︑白楽天の温 泉 水 滑 洗 凝 脂と云う
句だけである︒温泉と云う名を聞けば必ずこの句にあら
われた様な愉快な気持になる︒又この気持を出し得ぬ温
泉は︑温泉として全く価値がないと思ってる︒この理想
つい
すぽりと浸かると︑乳のあたりまで這入る︒湯はどこ
つ
以外に温泉に就ての注文はまるでない︒
193
わ
景色である︒
しげ
ふね
てん じ ょ う
いと
ふち
くま
もれ
のどか
よる
い
うず
ゆうげ た
は
か
かす
人の 烟 は青く立って︑大いなる空に︑わが果敢なき姿
けむり
秋 の 霧 は 冷 や か に ︑ た な び く 靄 は長 閑 に ︑ 夕餉 炊 く ︑
もや
隙間さえあれば︑節穴の細きを厭わず洩れ出でんとする
すきま
立て籠められた湯気は︑床から天 井 を隈なく埋めて︑
こ
しずくは︑漸やく繁く︑ぽたり︑ぽたりと耳に聞える︒
よう
て︑ひそかに春を潤おす程のしめやかさであるが︑軒の
うる
む足の︑心は穏やかに嬉しい︒降る雨は︑夜の目を掠め
うれ
ている︒春の石は乾くひまなく濡れて︑あたたかに︑踏
ぬ
から湧いて出るか知らぬが︑常でも槽の縁を奇麗に越し
194
たく
あわ
はだ
よ
で
ゆ
を托す︒様々の憐れはあるが︑春の夜の温泉の曇りばか
ゆあ み
りは︑ 浴 するものの肌を︑柔らかにつつんで︑古き世
め
の男かと︑われを疑わしむる︒眼に写るものの見えぬ程︑
ひとえ
濃 く ま つ わ り は せ ぬ が ︑ 薄 絹 を 一 重 破 れ ば ︑ 何 の 苦 もな
みいだ
く︑下界の人と︑己れを見出す様に︑浅きものではない︒
けむ
にじ
うち
一 重 破 り ︑ 二 重 破 り ︑ 幾 重 を 破 り 尽 す と も こ の烟 り か ら
がお
出す事はならぬ顔に︑四方よりわれ一人を︑温かき虹の中
うず
に埋め去る︒酒に酔うと云う言葉はあるが︑烟りに酔う
もや
しゅん しょう
と云う語句を耳にした事がない︒あるとすれば︑霧には
かすみ
無論使えぬ︑ 霞 には少し強過ぎる︒只この靄に︑ 春 宵
195
あお むけ
とお
の二字を冠したるとき︑始めて妥当なるを覚える︒
からだ
余 は 湯 槽 の ふ ち に 仰 向 の 頭 を 支 え て ︑ 透 き徹 る 湯 のな
かろ
しんば り
ありが た
なるほど
ゆ
考えると︑土左衛門は風流である︒スウィンバーンの何
ど ざ え も ん
ば︑基督の御弟子となったより難有い︒成程この調子で
キリ スト
に苦は入らぬ︒流れるもののなかに︑魂まで流していれ
い
のなかで︑湯泉と同化してしまう︒流れるもの程生きる
ゆ
を開けて︑執 着 の栓張をはずす︒どうともせよと︑湯泉
しゅう じゃく
る︒世の中もこんな気になれば楽なものだ︒分別の錠前
て見た︒ふわり︑ふわりと 魂 がくらげの様に浮いてい
たましい
かの軽き身体を︑出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わし
196
とか云う詩に︑女が水の底で往生して嬉しがっている感
へい ぜい
じを書いてあったと思う︒余が平生から苦にしていた︑
だいぶ
ミレーのオフェリヤも︑こう観察すると大分美しくなる︒
えら
何であんな 不愉快な 所を択んだものかと今まで不審に思
え
っていたが︑あれは矢張り画になるのだ︒水に浮んだま
あるい
ま︑或は水に沈んだまま︑ 或 は沈んだり浮んだりした
まま︑只そのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相
り ょ う がん
違ない︒それで 両 岸に色々な草花をあしらって︑水の
しか
色と流れて行く人の顔の色と︑衣服の色に︑落ちついた
きっと
調和をとったなら︑屹度画になるに相違ない︒然し流れ
197
くもん
もと
ほと
ぜんぷく
ひ
ゆ
湯のなかに浮いたまま︑今度は土左衛門の賛を作って
い︒
い︒然し思う様な顔はそう容易く心に浮んで来そうもな
たやす
余 は 余 の 興 味 を 以 て ︑ 一 つ風 流な 土 左 衛 門 を か い て 見 た
もっ
存するか疑わしい︒ミレーはミレー︑余は余であるから︑
ェリヤは成功かも知れないが︑彼の精神は余と同じ所に
よ
い ︒ ど ん な 顔 を か い た ら 成 功 す るだ ろ う ︒ ミ レ ー の オ フ
ち壊わすが︑全然色気のない平気な顔では人情が写らな
なってしまう︒痙攣的な苦悶は固より︑全幅の精神をう
けい れん
て行く人の表情が︑まるで平和では殆んど神話か比喩に
198
見る︒
雨が降ったら濡れるだろ︒
霜が下りたら冷たかろ︒
土のしたでは暗かろう︒
浮かば波の上︑
沈まば波の底︑
じゅ
春の水なら苦はなかろ︒
しゃみせん
ね
ど
こ
と口のうちで小声に誦しつつ漫然と浮いていると︑何所
ひ
すこぶ
かで弾く三味線の音が聞える︒美術家だのにと云われる
おけ
と恐縮するが︑実の所︑余がこの楽器に於る智識は 頗
199
ため
よ
る怪しいもので二が上がろうが︑三が下がろうが︑耳に
ゆ
ふ と ざお
よろずや
かれそうな太棹かとも思う︒
こども
しゃみ
けん ぎょう
はな は
御倉さんと云う娘が居た︒この御倉さんが︑静かな春の
おくら
小供の時分︑門前に万屋と云う酒屋があって︑そこに
さかや
いる所から察すると︑上方の検 校 さんの地唄にでも聴
かみがた
わからない︒そこに何だか趣がある︒音色の落ち付いて
ねいろ
だ嬉しい︒遠いから何を唄って︑何を弾いているか無論
うた
温泉に浮かしながら︑遠くの三味を無責任に聞くのは 甚
で
に︑雨さえ興を添える︑山里の湯壺の中で︑魂まで春の
は余り影響を受けた試しがない︒しかし︑静かな春の夜
200
おさら
とつぼ
昼過ぎになると︑必ず長唄の御浚いをする︒御浚が始ま
ちゃ ば た け
ると︑余は庭へ出る︒茶 畠 の十坪余りを前に控えて︑
おもしろ
三本の松が︑客間の東側に並んでいる︒この松は周り一
き
尺 も あ る 大 き な 樹 で ︑ 面 白 い 事 に ︑ 三本 寄 っ て ︑ 始 め て
かっこう
かな ど う ろう
趣のある恰好を形つくっていた︒小供心にこの松を見る
い
と好い心持になる︒松の下に黒くさびた鉄燈籠が名の知
かたくな じじい
れぬ赤石の上に︑いつ見ても︑わからず屋の頑固 爺 の
すわ
ぬ
様に か た く坐 っ て い る ︒余 はこ の燈 籠を見 詰め るのが大
こけ
にお
好 き で あ っ た ︒ 燈 籠 の 前 後 に は ︑ 苔 深 き 地 を 抽 い て︑ 名
がお
も知らぬ春の草が︑浮世の風を知らぬ顔に︑独り匂うて
201
か
ら聞くのが︑当時の日課であった︒
てがら
さら
はどうしても想像から切り離せない︒
どろ
わず
むこ
ふく
ひざ
い
おりあい
く ちば し
を︑いそがしげに働かしているか知らん︒燕と酒の香と
か
がいいか知らん︒燕 は年々帰って来て︑泥を啣んだ 嘴
つばくろ
と世帯じみた顔を︑帳場へ曝してるだろう︒聟とは折合
しょたい
御 倉 さ ん は も う 赤 い 手 絡 の 時代 さ え 通 り 越 し て ︑ 大 分
だいぶん
こ の 草 の 香 を 臭 い で ︑ そ う し て 御倉 さ ん の長 唄 を 遠 く か
か
癖であった︒この三本の松の下に︑この燈籠を睨めて︑
にら
る る の 席 を 見 出 し て ︑ じ っ と ︑ し ゃ が む の が こ の 時分 の
みいだ
独り楽しんでいる︒余はこの草のなかに︑纔かに膝を容
202
いま
三本の松は未だに好い恰好で残っているかしらん︒鉄
燈籠はもう壊れたに相違ない︒春の草は︑昔し︑しゃが
んだ人を覚えているだろうか︒その時ですら︑口もきか
はず
ずに過ぎたものを︑今に見知ろう筈がない︒御倉さんの
ひごと
、の
、衣
、は
、鈴
、懸
、の
、と云う︑日毎の声もよも聞き覚えがある
旅
ね
とは云うまい︒
しゃみ
ま
三味の音が思わぬパノラマを余の眼前に展開するにつ
ゆか
け︑余は床しい過去の面のあたりに立って︑二十年の昔
がんぜ
に住む︑頑是なき小僧と︑成り済ましたとき︑突然風呂
あ
場の戸がさらりと開いた︒
203
だれ
ふち
誰か来たなと︑身を浮かしたまま︑視線だけを入口に
ゆぶね
つ
くだ
や
あいだ
あま だれ
ひとみ
こまや
ぶっ し ょ く
ずかしい︒况して立ち上がる湯気の︑ 濃 かなる雨に抑
ま
の隔りでは澄切った空気を控えてさえ︑確と物 色 はむ
しか
すものは︑ 只一つの小さき釣り洋燈のみであるから︑こ
ランプ
やがて階段の上に何物かあらわれた︒広い風呂場を照
味線は何時の間にか已んでいた︒
い
映らぬ︒しばらくは軒を遶る雨垂の音のみが聞える︒三
めぐ
余が眼に入る︒然し見上げたる余の 瞳 にはまだ何物も
い
ているから︑槽に下る段々は︑ 間 二丈を隔てて斜めに
ふね
注ぐ︒湯槽の縁の最も入口から︑隔たりたるに頭を乗せ
204
こよい
もと
えられて︑逃場を失いたる今宵の風呂に︑立つを誰とは固
お
より定めにくい︒一段を下り︑二段を踏んで︑まともに︑
ほかげ
ごと
照らす灯影を浴びたる時でなくては︑男とも女とも声は
掛けられぬ︒
ビ ロ ウ ド
黒いものが一歩を下へ移した︒踏む石は天鵞毧の如く
しょう
りん かく
柔かと見えて︑足音を 証 にこれを律すれば︑動かぬと
さし つ か え
評しても差 支 ない︒が輪廓は少しく浮き上がる︒余は
つい
画工だけあって人体の骨格に就ては︑存外視覚が鋭敏で
ある︒何とも知れぬものの一段動いた時︑余は女と二人︑
さと
この風呂場の中に在る事を覚った︒
205
注意をしたものか︑せぬものかと︑浮きながら考える
あい だ
ゆけむ
を見出し得たとのみ思った︒
ギリ シャ
ただよ
の
ごと
頼む裸体画を見る度に︑あまりに露 骨な肉の美を︑極
あ か らさま
古代希臘の彫刻はいざ知らず︑今世仏国の画家が命と
きん せい
く︑わが脳裏を去って︑只ひたすらに︑うつくしい画題
姿を見た時は︑礼儀の︑作法の︑風紀のと云う感じは 悉
ことご と
と な が し て ︑ あ ら ん 限 り の 脊丈 を ︑ す ら り と 伸 し た 女 の
せたけ
含んで︑薄 紅 の暖かに見える奥に︑ 漾 わす黒髪を雲
うす くれない
た︒漲ぎり渡る湯烟りの︑やわらかな光線を一分子毎に
みな
間 に︑女の影は遺憾なく︑余が前に︑早くもあらわれ
206
こん せき
端まで描がき尽そうとする痕迹が︑ありありと見えるの
きいん
で︑どことなく気韻に乏しい心持が︑今までわれを苦し
ぜ
わか
ゆえ
われし
めてならなかった︒然しその折々はただどことなく下品
な
はんもん
こん にち
だと評するまでで︑何故下品であるかが︑解らぬ故︑吾知
う
いや
らず︑答えを得るに煩悶して今日に至ったのだろう︒肉
おお
を蔽えば︑うつくしきものが隠れる︒かくさねば卑しく
い
こ ろも
なる︒今の世の裸体画と云うは只かくさぬと云う卑しさ
とど
に︑技巧を留めておらぬ︒ 衣 を奪いたる姿を︑そのま
はだか
まに写すだけにては︑物足らぬと見えて︑飽くまでも裸体
を︑衣冠の世に押し出そうとする︒服をつけたるが︑人
207
あ か はだ か
ろう
すべ
あ
た
きんだい
於て︑もしくは文章に於て︑必須の条件である︒今代芸
ひっすう
放心と無邪気とは余裕を示す︒余裕は画に於て︑詩に
おい
も満は損を招くとの 諺 はこれが為めである︒
こ とわ ざ
きものは却ってその度を減ずるが例である︒人事に就て
じんじ
を︑弥が上に︑うつくしくせんと焦せるとき︑うつくし
いや
時︑人はその観者を強うるを陋とする︒うつくしきもの
し
じを強く描出しようとする︒技巧がこの極端に達したる
も︑どこまでも進んで︑只管に︑裸体であるぞと云う感
ひたす ら
と試みる︒十分で事足るべきを︑十二分にも︑十五分に
ぷん
間の常態なるを忘れて︑赤 裸に凡ての権能を附与せん
208
へい とう
く
いわ ゆる
あく そく
いたず
術の一大弊竇は︑所謂文明の潮流が︑ 徒 らに芸術の士
く
げいぎ
を駆って︑拘々として随処に齷齪たらしむるにある︒裸
しょう ばい
かれら
ひょう かく
体画はその好例であろう︒都会に芸妓と云うものがある︒
こ
か
ひとみ
色を売りて︑人に媚びるを 商 買にしている︒彼等は 嫖 客
い
に対する時︑わが容姿の如何に相手の瞳子に映ずるかを
顧慮するの外︑何等の表情をも発揮し得ぬ︒年々に見る
サロンの目録はこの芸妓に似たる裸体美人を以て充満し
あた
ている︒彼等は一秒 時も︑わが裸体なるを忘るる能わざ
るのみならず︑全身の筋肉をむずつかして︑わが裸体な
つと
るを観者に示さんと力め ている︒
209
さえ
ひょう てい
じん
まと
今余が面前に 娉 婷と現われたる姿には︑一塵もこの
ぞく あい
る︒
しつ
じ
ゆけむり
こまや
にんが い
あと
ひろ
だざい
ごと
も う ろう
わ
とも思わるる程の髪を暈して︑真白な姿が雲の底から次
ぼか
の虹霓の世界が 濃 かに揺れるなかに︑朦朧と︑黒きか
に
き上がる︒春の夜の灯を半透明に崩し拡げて︑部屋一面
ひ
室を埋むる湯烟は︑埋めつくしたる後から︑絶えず湧
うず
る神代の姿を雲のなかに呼び起したるが如く自然であ
かみよ
め よ り 着 る べ き 服 も ︑ 振 る べ き袖 も ︑ あ る も の と知 ら ざ
そで
衣装を脱ぎ捨てたる様と云えば既に人界に堕在する︒始
さま
俗埃の眼に遮ぎるものを帯びておらぬ︒常の人の纏える
210
かろ
第に浮き上 がって来 る︒その輪廓を見よ︒
くびすじ
頸筋を軽く内輪に︑双方から責めて︑苦もなく肩の方
へなだれ落ちた線が︑豊かに︑丸く折れて︑流るる末は
した はら
五本の指と分れるのであろう︒ふっくらと浮く二つの乳
なめ
の下には︑しばし引く波が︑又滑らかに盛り返して下腹
いきおい
の 張 り を 安 ら か に 見 せ る ︒ 張 る 勢 を 後ろ へ 抜 い て︑ 勢
の尽くるあたりから︑分れた肉が平衡を保つ為めに少し
ひざ が し ら
すべ
かっと う
く前に傾く︒逆に受くる膝 頭 のこのたびは︑立て直し
かかと
て︑長きうねりの 踵 につく頃︑平たき足が︑凡ての葛藤
あしのう ら
を︑二枚の 蹠 に安々と始末する︒世の中にこれ程錯
211
雑 し た 配 合 は な い ︑ こ れ 程 統 一 の あ る 配 合 もな い ︒ こ れ
ほうふ つ
ちょごう
ほか
はつぼく り ん り
りん
な る 調 子 と を 具 え て い る ︒六 々 三 十六 鱗 を 丁 寧に描 き た
そな
術的に観じて申し分のない︑空気と︑あたたかみと︑冥邈
めいばく
て︑ 虬 竜 の 怪 を ︑ 楮 毫 の 外 に 想 像 せ し む る が 如 く ︑ 芸
きゅうりょう
ほ の め か し て い る に 過 ぎ ぬ ︒ 片 鱗を 溌 墨 淋漓 の間に 点 じ
へんりん
一種の霊氛のなかに髣髴として︑十分の美を奥床しくも
れいふん
に突きつけられてはおらぬ︒凡てのものを幽玄に化する
しかもこの姿は普通の裸体の如く露骨に︑余が眼の前
苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ︒
みいだ
程自然で︑これ程柔らかで︑これ程抵抗の少い︑これ程
212
こっけい
しんおう
る竜の︑滑稽に落つるが事実ならば︑赤裸々の肉を
じょうしゃしゃ
じょうが
に
じ
浄 洒 々に眺めぬうちに神往の余韻はある︒余はこの輪
かつら
廓の眼に落ちた時︑桂 の都を逃れた月界の嫦娥が︑彩虹
ちゅうちょ
の追手に取り囲まれて︑しばらく躊 躇する姿と眺めた︒
輪廓は次第に白く浮きあがる︒今一歩を踏み出せば︑
せつな
ぼう
なび
折角の嫦娥が︑あわれ︑俗界に堕落するよと思う刹那に︑
れいき
つんざ
緑の髪は︑波を切る霊亀の尾の如くに風を起して︑莽と靡
うずま
いた︒渦捲く烟りを 劈 いて︑白い姿は階段を飛び上が
とおの
る︒ホホホホと鋭どく笑う女の声が︑廊下に響いて︑静
むこう
かなる風呂場を次第に 向 へ遠退く︒余はがぶりと湯を
213
ふね
つった
にん
縁を越す湯泉の音がさあさあと鳴る︒
八
ご ち そ う
い
おおき
にん
折れた行き留りにある︒ 大 さは六畳もあろう︒大きな
い
老人の部屋は︑余が室の廊下を右へ突き当って︑左へ
る︒
名は大徹と云うそうだ︒俗一人︑二十四五の若い男であ
だいてつ
御茶の御馳走になる︒相客は僧一人︑観海寺の和尚で
おしょう
呑んだまま槽の中に突立つ︒驚いた波が︑胸へあたる︒
214
したん
まんな か
す
ふ とん
かたん
紫檀の机を真中に据えてあるから︑思ったより狭苦しい︒
ナ
それへと云う席を見ると︑布団の代りに花毯が敷いてあ
シ
まわり
あい
る︒無論支那製だろう︒真中を六角に仕切って︑妙な家
か らく さ
と︑妙な柳が織り出してある︒周囲は鉄色に近い藍で︑
よすみ
四隅に唐草の模様を飾った茶の輪を染め抜いてある︒支
おもしろ
インド
サラサ
那ではこれを座敷に用いたものか疑わしいが︑こうやっ
すこぶ
て布団に代用して見ると 頗 る面白い︒印度の更紗とか︑
ちょっと
ペルシャの壁掛とか号するものが︑一寸間が抜けている
ごと
所に価値がある如く︑この花毯もこせつかない所に趣が
すべ
ある︒花毯ばかりではない︑凡て支那の器具は皆抜けて
215
な かば
きんちゃくき
ば
毯の 半 を占領した︒
とら
か
しり
ほお
あご
ちゃたく
しっぽ
ちゃわん
ひざ
ま
い髯をむしゃむしゃと生やして︑茶托へ載せた茶碗を丁
ひげ
人は頭の毛を 悉 く抜いて︑頬と顎へ移植した様に︑白
ことご と
傍を通り越して︑頭は老人の臀の下に敷かれている︒老
そば
和尚は虎の皮の上へ坐った︒虎の皮の尻尾が余の膝の
すわ
ずこう考えながら席に着く︒若い男は余とならんで︑花
よ
くて細かくて︑そうしてどこまでも娑婆気がとれない︒先
しゃばっけ
い︒日本は巾着切りの態度で美術品を作る︒西洋は大き
にほん
ほか取れない︒見ているうちに︑ぼおっとする所が尊と
とう
いる︒どうしても馬鹿で気の長い人種の発明したものと
216
寧に机の上へならべる︒
﹁今日は久し振りで︑うちへ御客が見えたから︑御茶を
だいぶ ご
ぶ
さ
た
上 げようと思って︑⁝⁝﹂と坊さんの方を向くと︑
お つ かい
﹁ い や ︑ 御 使 を あ り が と う ︒ わ し も ︑ 大 分 御無 沙 汰 を し
だるま
そう し ょ
たから︑今日位来て見ようかと思っとった所じゃ﹂と云
ぢか
ふだん
じっこん
う︒この僧は六十近い︑丸顔の︑達磨を草書に崩した様
ようぼう
きゅう す
こはく
な容貌を有している︒老人とは平常からの昵懇と見える︒
しゅ でい
﹁この方が御客さんかな﹂
うな ずき
老人は首肯ながら︑朱泥の急須から︑緑を含む琥珀色
ぎ ょ く えき
の 玉 液を︑二三滴ずつ︑茶碗の底へしたたらす︒清い
217
おさみ
香りがかすかに鼻を襲う気分がした︒
明が入る︒
られたのじゃから︑御忙がしい位じゃ﹂
た
﹁いいえ﹂と今度は答えた︒西洋画だなどと云っても︑
﹁おおさようか︑それは結構だ︒ 矢張り南宗派かな﹂
なんそう
﹁なんの︑和尚さん︒このかたは画を書かれる為めに来
え
いと云えば︑偽りである︒淋しからずと云えば︑長い説
﹁はああ﹂と何とも蚊とも要領を得ぬ返事をする︒淋し
話しかけた︒
﹁こんな田舎に一人では御淋しかろ﹂と和尚はすぐ余に
218
この和尚にはわかるまい︒
﹁ い や ︑ 例 の 西 洋 画 じ ゃ ﹂ と 老 人 は︑ 主 人 役に ︑ 又 半 分
引き受けてくれる︒
き ゅ う いち
﹁ははあ︑洋画か︒すると︑あの 久 一さんのやられる
様なものかな︒あれは︑わしこの間始めて見たが︑随分
奇麗にかけたのう﹂
ようや
﹁いえ︑詰らんものです﹂と若い男がこの時 漸 く口を
開いた︒
おまえ
﹁御前何ぞ和尚さんに見て頂いたか﹂と老人が若い男に
聞く︒言葉から云うても︑様子から云うても︑どうも親
219
類らしい︒
こ
﹁これは面白い﹂と余も簡単に賞めた︒
ほ
﹁杢兵衛です﹂と老人が簡単に説明した︒
も く べ え
かが み
たん
いけ
か︑一寸見当の付かないものが︑べたに描いてある︒
で︑絵だか︑模様だか︑鬼の面の模様になりかかった所
茶碗は頗る大きい︒生壁色の地へ︑焦げた丹と︑薄い黄
なまかべ
人は茶碗を各自の前に置く︒茶の量は三四滴に過ぎぬが︑
めいめい
﹁ ふ ん ︑ そ う か ︱ ︱ さ あ 御茶 が 注 げ た か ら ︑ 一 杯 ﹂ と 老
つ
生している所を和尚さんに見付ったのです﹂
﹁なあに︑見て頂いたんじゃないですが︑ 鏡 が池で写
220
に せも の
いとぞこ
ばち
﹁杢兵衛はどうも偽物が多くて︑︱︱その糸底を見て御
覧なさい︒銘があるから﹂と云う︒
のぞ
取り上げて︑障子の方へ向けて見る︒障子には植木鉢
はらん
の葉蘭の影が暖かそうに写っている︒首を曲げて︑覗き
おい
込むと︑杢の字が小さく見える︒銘は鑑賞の上に於て︑
こうずしゃ
さのみ大切のものとは思わないが︑好事者は余程これが
気にかかるそうだ︒茶碗を下へ置かないで︑そのまま口
へつけた︒濃く甘く︑湯加減に出た︑重い露を︑舌の先
あじわ
へ一しずくずつ落して 味 って見るのは閑人適意の韻事
である︒普通の人は茶を飲むものと心得ているが︑あれ
221
ど
ぜっとう
くだ
ほと
せい ぎ ょ く
ぬも︑茶を用いよと勧めたい︒
てぎわ
ただ ふ く い く
こまや
にお い
いた匠 人の手際は驚ろくべきものと思う︒すかして見
しょうじん
きな塊を︑かくまで薄く︑かくまで規則正しく︑刳りぬ
老人はいつの間にやら︑青 玉 の菓子皿を出した︒大
ざら
結構な飲料である︒眠られぬと訴うるものあらば︑眠ら
事︑淡水の 境 を脱して︑顎を疲らす程の硬さを知らず︒
きょ う
卑しい︒水はあまりに軽い︒玉露に至っては 濃 かなる
ぎょくろ
食道から胃のなかへ沁み渡るのみである︒歯を用いるは
し
れば咽喉へ下るべき液は殆んどない︒只馥郁たる 匂 が
の
は間違だ︒舌頭へぽたりと載せて︑清いものが四方へ散
222
みち
さ
ると春の日影は一面に射し込んで︑射し込んだまま︑逃
い
がれ出ずる路を失った様な感じである︒中には何も盛ら
ぬがいい︒
﹁御客さんが︑青磁を賞められたか ら︑ 今日はちとばか
り見せようと思うて︑出して置きました﹂
ふすま
﹁どの青磁を︱︱うん︑あの菓子鉢かな︒あれは︑わし
すき
も好じゃ︒時にあなた︑西洋画では 襖 などはかけんも
のかな︒かけるなら一つ頼みたいがな﹂
く
かいて呉れなら︑かかぬ事もないが︑この和尚の気に
せっ かく
入るか入らぬかわからない︒折角骨を折って︑西洋画は
223
だ
め
男に念の為め尋ねて置く︒
ちょ っと
お りば え
けん そん
に学校に居る時分︑習ったから︑退屈まぎれに︑やって
﹁一寸観海寺の裏の谷の所で︑幽邃な所です︒︱︱なあ
ゆうす い
﹁その何とか云う池はどこにあるんですか﹂と余は若い
い男はしきりに︑耻かしがって謙遜する︒
はず
﹁ 私 のは駄目です︒あれはまるでいたずらです﹂と若
わたし
ゃ︑少し派手過ぎるかも知れん﹂
﹁ 向 か ん か な ︒ そ う さ な ︑ こ の間 の久 一 さ ん の画 の 様 じ
﹁襖には向かないでしょう﹂
駄目だなどと云われては︑骨の折栄がない︒
224
みただけです﹂
﹁観海寺と云うと⁝⁝﹂
とう りゅう
﹁観海寺と云うと︑わしの居る所じゃ︒いい所じゃ︑海
みおろ
こ
を一目に見下しての︱︱まあ逗 留 中に一寸来て御覧︒
こ
なに︑此所からはつい五六丁よ︒あの廊下から︑そら︑
寺の石段が見えるじゃろうが﹂
つ
﹁いつか御邪魔に上ってもいいですか﹂
い
な
み
﹁ああいいとも︑何時でも居る︒ここの御嬢さんも︑よ
お
う︑来られる︒︱︱御嬢さんと云えば今日は御那美さん
が見えんようだが︱︱どうかされたかな︑隠居さん﹂
225
﹁どこぞへ出ましたかな︒久一︑御前の方へ行きはせん
り
じたい
もど
すが たみ
はしょ
と︑今芹摘みに行った戻りじゃ︑和尚さん少しやろうか
せり つ
御前はそんな形姿で︑地体どこへ︑行ったのぞいと聴く
な
行きなさると︑いきなり︑驚ろかされたて︑ハハハハ︒
って︑草履を穿いて︑和尚さん︑何を愚図々々︑どこへ
は
どうも︑善く似とると思ったら︑御那美さんよ︒尻を端折
しり
い ︒ こ の 間 法 用 で 礪 並 ま で 行 っ た ら ︑ 姿 見 橋 の 所 で︱ ︱
となみ
﹁又独り散歩かな︑ハハハハ︒御那美さんは中々足が強
ひと
﹁いいや︑見えません﹂
かな﹂
226
たもと
どろ
と云うて︑いきなりわしの 袂 へ泥だらけの芹を押し込
んで︑ハハハハハ﹂
﹁どうも︑⁝⁝﹂と老人は苦笑いをしたが︑急に立って
うやうや
もん ど ん す
﹁ 実 は こ れ を 御 覧 に 入 れ る積 り で ﹂ と話 を 又 道 具 の 方 へ
そらした︒
したん
老人が紫檀の書架から︑ 恭 しく取り下した紋緞子の
古い袋は︑何だか重そうなものである︒
﹁和尚さん︑あなたには︑御目に懸けた事があったか
な﹂
﹁な んじゃ︑一体﹂
227
すずり
ぶた
﹁端渓で鴝鵒眼が九つある﹂
く よくがん
﹁いい色合じゃのう︒端渓かい﹂
たんけ い
角な石が︑ ちらりと角を見せる︒
老人は大事そうに緞子の袋の口を解くと︑小豆色の四
﹁そりゃ︑未だのようだ︒どれどれ﹂
﹁ 春 水の替え蓋がついて⁝⁝﹂
しゅん すい
﹁いいえ︑そりゃ未だ見ん﹂
ま
﹁山 陽の愛蔵したと云う⁝⁝﹂
さんよう
﹁へえ︑どんな硯かい﹂
﹁ 硯 よ﹂
228
おおい
﹁九つ?﹂と和尚 大 に感じた様子である︒
りんず
﹁これが春水の替え蓋﹂と老人は綸子で張った薄い蓋
きょう へい
を 見 せ る ︒上 に 春 水 の 字 で 七 言 絶 句 が 書 い て あ る ︒
な る ほど
ぞくき
﹁成程︒春水はようかく︒ようかくが︑書は 杏 坪の方
じょ うず
が上手じゃて﹂
﹁ 矢 張り 杏 坪 の方 がいい かな ﹂
はだ
﹁山陽が一番まずい様だ︒どうも才子肌で俗気があっ
お もし ろ
て︑一向面白うない﹂
きら
﹁ハハハハ︒和尚さんは︑山陽が嫌いだから︑今日は山
ふく
陽の幅を懸け替 えて置い た﹂
229
こ
きんし
び
ぶっそらい
ぞうげ
は
たいふく
で
こどうへい
め
ひ らど こ
もく らん
こきんらん
焦茶の砂壁に︑白い象牙の軸が際立って︑両方に突張っ
こげちゃ
所がせり出して︑あんないい調子になったのだと思う︒
が褪せて︑金糸が沈んで︑華麗な所が滅り込んで︑渋い
あ
も織りたては︑あれ程のゆかしさも無かったろうに︑彩色
さいしき
紙の色が周囲のきれ地とよく調和して見える︒あの錦襴
が︑多少の時代がついているから︑字の巧拙に論なく︑
装幀の工夫を籠めた物徂徠の大幅である︒絹地ではない
そう てい
尺の高さに︑活けてある︒軸は底光りのある古錦襴に︑
い
の様にふき込んで︑鏽気を吹いた古銅瓶には︑木蘭を二
さ
﹁ほんに﹂と和尚さんは後ろを振り向く︒床は平床を鏡
230
ている︒手前に例の木蘭がふわりと浮き出されている外
むし
は︑床全体の趣は落ち付き過ぎて寧ろ陰気である︒
﹁徂徠かな﹂と和尚が︑ 首を向けたまま云う︒
きょう ほごろ
﹁ 徂 徠 も あ ま り ︑ 御 好 き でな い か も 知 れ ん が ︑ 山 陽 よ り
は善かろうと思うて﹂
こ
すなわ
﹁それは徂徠の方が遥かにいい︒享保頃の学者の字はま
ど
ずくても︑何処ぞに品がある﹂
こうたく
﹁広沢をして日本の能書ならしめば︑われは 則 ち漢人
の拙なるものと云うたのは︑徂徠だったかな︑和尚さん﹂
﹁わしは知らん︒そう威張る程の字でもないて︑ワハハ
231
ハハ﹂
する︒
けいこ
とうとう緞子の袋を取り除ける︒一座の視線は悉く硯
の
ワ ハ ハ ハ ハ ︒ 時 に そ の 端 渓 を 一 つ 御 見 せ ﹂ と和 尚 が 催 促
りじゃ︒それでも人に頼まれればいつでも︑書きます︒
﹁若い時に高泉の字を︑少し稽古した事がある︒それぎ
こうせん
﹁しかし︑誰ぞ習われたろう﹂
う﹂
﹁わしか︒禅坊主は本も読まず︑手習もせんから︑の
﹁時に和尚さんは︑誰を習われたのかな﹂
232
の上に落ちる︒厚さは殆んど二寸に近いから︑通例のも
うろこ
みが
の の 倍 は あ ろ う ︒ 四 寸 に 六 寸 の 幅 も長 さ も 先 ず 並 と 云 っ
ふた
てよろしい︒葢には︑ 鱗 のかたに研きをかけた松の皮
しゅ うるし
をそのまま用いて︑上には朱 漆 で︑わからぬ書体が二
字ばかり書いてある︒
い
か
﹁ こ の 葢 が ﹂ と 老 人 が 云 う ︒﹁ こ の 葢 が ︑ 只 の 葢 で は な
しか
いので︑御覧の通り︑松の皮には相違ないが⁝⁝﹂
め
老人の眼は余の方を見ている︒然し松の皮の葢に如何
なる因縁があろうと︑画工として余はあまり感服は出来
んから︑
233
﹁松の葢は少し俗ですな﹂
所を云って退け た︒
の
さなくっても︑よさそうに思われますが﹂と遠慮のない
ものですな︒わざとこの鱗のかたなどをぴかぴか研ぎ出
と
﹁どうせ︑自分で作るなら︑もっと不器用に作れそうな
成 程山 陽 は 俗 な 男 だ と思 っ た か ら ︑
なるほど
の 皮 を 剥 い で山 陽 が 手 ず か ら 製 し た の で す よ ﹂
は
の何ですよ︒山陽が広島に居った時に庭に生えていた松
お
﹁只松の葢と云うばかりでは︑俗でもあるが︑これはそ
と云った︒老人はまあと云わぬばかりに手を挙げて︑
234
﹁ワハハハハ︒そうよ︑この葢はあまり安っぽい様だ
たちま
な ﹂ と 和 尚 は 忽 ち 余 に 賛成 し た ︒
てい
いよいよ
若い男は気の毒そうに︑老人の顔を見る︒老人は少々
ふ き げ ん
そば だ
不機嫌の体に葢を払いのけた︒下から 愈 硯が正体をあ
らわす︒
つい
こく
もしこの硯に付て人の眼を 峙 つべき特異の点がある
ふち
とすれば︑その表面にあらわれたる匠人の刻である︒真
たもとどけい
も
せい
かた
中に 袂 時 計 程 な 丸 い 肉 が︑ 縁 と す れ す れ の 高 さ に 彫 り 残
く
お のお の く
されて︑これを蜘蛛の脊に象どる︒中央から四方に向っ
わん き ょ く
て︑八本の足が彎 曲 して走ると見れば︑先には 各 鴝
235
よく がん
うち
じ
す
ほ
ぎん し ゃ く
﹁この肌 合と︑この眼を見て下さい﹂
老人は 涎 の出そうな口をして云う︒
よだれ
たた
名は硯でも︑その実は純然たる文房用の装飾品に過ぎぬ︒
たるを︑ 貴 き墨に磨り去るのだろう︒それでなければ︑
とうと
水盂の中から︑一滴の水を銀 杓 にて︑蜘蛛の脊に落し
すい う
合の水を注ぐともこの深さを充たすには足らぬ︒思うに
える所は︑よもやこの塹壕の底ではあるまい︒たとい一
ざん ごう
る部分は幾んど一寸余の深さに堀り下げてある︒墨を湛
ほと
たたらした如く煮染んで見える︒脊と足と縁を残して余
に
鵒眼を抱えている︒残る一個は脊の真中に︑黄な汁をし
236
成程見れば見る程いい色だ︒寒く潤沢を帯びたる肌の
だ
上 に ︑ は っ と ︑ 一 息 懸 け た な ら ︑ 直 ち に 凝 っ て ︑ 一朶 の
がん
雲を起すだろうと思われる︒ことに驚くべきは眼の色で
じ
わがめ
ある︒眼の色と云わんより︑眼と地の相交わる所が︑次
みいだ
第に色を取り替えて︑いつ取り替えたか︑殆んど吾眼の
あざむ
いんげんま め
は
欺 かれたるを見出し得ぬ事である︒形容して見ると紫
むしようかん
色の蒸羊羹の奥に︑隠元豆を︑透いて見える程の深さに嵌
め込んだ様なものである︒眼と云えば一個二個でも大変
あたか
に珍重される︒九個と云ったら︑殆んど類はあるまい︒
あん ばい
しかもその九個が整然と同距離に按排されて︑ 恰 も人
237
け
もと
もったい
い と 気 が 付 い た も の か ︑ 又 取 り上 げ て︑ 余 に 返 し た ︒ 余
からん硯を︑自分の前へ置いて︑眺めていては︑勿体な
なが
﹁分りゃしません﹂と打ち遣った様に云い放ったが︑わ
や
聞いて見る︒久一君は︑少々自棄の気味で︑
や
﹁久一に︑そんなものが解るかい﹂と老人が笑いながら
わか
りの若い男に硯を渡した︒
ん︒こうして触っても愉快です﹂と云いながら︑余は隣
﹁成程結構です︒観て心持がいいばかりじゃありませ
み
品を以て許さざるを得ない︒
もっ
造のねりものと見違えらるるに至っては固より天下の逸
238
な
ま
とく
て
うやうや
はもう一遍丁寧に撫で廻わした後︑とうとうこれを 恭
ぜんじ
ねずみもめん
しく禅師に返却した︒禅師は篤と掌の上で見済ました末︑
く
も
つ
や
それでは飽き足らぬと考えたと見えて︑鼠木綿の着物の
そで
しょ うがん
袖を容赦なく蜘蛛の脊へこすりつけて︑光沢の出た所を
しき
頻りに賞 翫している︒
つこ
﹁隠居さん︑どうもこの色が実に善いな︒使うた事があ
るかの﹂
こ
﹁ い い や ︑ 滅 多 に は 使 い と う ︑ な い か ら︑ まだ 買 う たな
りじゃ﹂
こない
﹁そうじゃろ︒此様なのは支那でも珍らしかろうな︑隠
239
居さん﹂
﹁普段なら︑年は取っとるし︑まあ見合す所じゃが︑こ
﹁隠居さん︒吉田まで送って御やり﹂
よしだ
﹁二三日うちに立ちます﹂
に さ ん ち
﹁本当に硯どころではないな︒時にいつ御立ちか﹂
です﹂
﹁へへへへ︒硯を見付けないうちに︑死んでしまいそう
か︒どうかな︑買うて来て御呉れかな﹂
く
﹁わしも一つ欲しいものじゃ︒何なら久一さんに頼もう
﹁さよう﹂
240
あ
とによると︑もう逢えんかも︑知れんから︑送ってやろ
じ
う と思 う て お り ま す ﹂
お
﹁御伯父さんは送って呉れんでもいいです﹂
おい
若い男はこの老人の甥と見える︒成程どこか似ている︒
もら
まわ
みち
﹁なあに︑送って貰うがいい︒川船で行けば訳はない︒
なあ隠居さん﹂
やまごし
﹁はい︑山越では難義だが︑廻り路でも船なら⁝⁝﹂
若い男は今度は別に辞退もしない︒只黙っている︒
﹁支那の方へ御出でですか﹂と余は一寸聞いて見た︒
﹁ええ﹂
241
ええの二字では少し物足らなかったが︑その上堀って
こうえい
や
わ
いでゆ
せま
を越えて︑平家の後裔のみ住み古るしたる孤村にまで逼
へいけ
い 詰 め て い た の は間 違 で あ る ︒ 現 実世 界は山 を越 え︑ 海
春の里に︑啼くは鳥︑落つるは花︑湧くは温泉のみと思
な
きこの青年の運命を余に語げた︒この夢の様な詩の様な
つ
老人は当人に代って︑満 洲の野に日ならず出征すべ
まんしゅう
志願兵をやったものだ から︑それで召集されたので﹂
﹁なあに︑あなた︒矢張り今度の戦争で︱︱これがもと
し位置を変えている︒
聞く必要もないから控えた︒障子を見ると︑蘭の影が少
242
さくほく
こうや
る︒朔北の曠野を染むる血潮の何万分の一かは︑この青
ほとばし
つるぎ
けむ
年の動脈から 迸 る時が来るかも知れない︒この青年の
つる
腰に吊る長き 剣 の先から烟りとなって吹くかも知れな
しか
い︒而してその青年は︑夢みる事より外に︑何等の価置
を︑人生に認め得ざる一画工の隣りに坐っている︒耳を
そばだつれば彼が胸に打つ心臓の鼓動さえ聞き得る程近
ま
くに坐っている︒その鼓動のうちには︑百里の平野を捲
う しお
く高き 潮 が今既に響いているかも知れぬ︒運命は卒然
としてこの二人を一堂のうちに会したるのみにて︑その
た
他には何事をも語らぬ︒
243
は
い
九
かっこう
い
くび
の対照が第一番に眼についた︒
め
ぬ
よ
さん
き 出 て い る ︒ 女 が 余 の 前 に 坐 っ た 時︑ こ の 頸 と こ の 半 襟
すわ
だ半襟の中から︑恰好のいい頸の色が︑あざやかに︑抽
はんえり
女は遠慮する景色もなく︑つかつかと這入る︒くすん
﹁ 御這 入 りな さい ︒ ちっ と も 構い ま せ ん ﹂
お
脚 几に縛り付けた︑書物の一冊を抽いて読んでいた︒
きゃく き
﹁御勉強ですか﹂と女が云う︒部屋に帰った余は︑三
244
﹁西洋の本ですか︑むずかしい事が書いてあるでしょう
ね﹂
﹁なあに﹂
﹁じゃ何が書いてあるんです﹂
あ
﹁そうですね︒実はわたしにも︑よく分らないんです﹂
﹁ホホホホ︒それで御勉強なの﹂
ただ
﹁勉強じゃありません︒只机の上へ︑こう開けて︑開い
た所をいい加減に読んでるんです﹂
おもしろ
﹁それで面白いんですか﹂
﹁それが面白いんです﹂
245
な
す﹂
ぜ
んか﹂
﹁妙な理窟だ事︒仕舞まで読んだっていいじゃありませ
りくつ
なけりゃならない訳になりましょう﹂
﹁初から読まなけりゃならないとすると︑仕舞まで読ま
しまい
﹁ 初 から読んじゃ︑どうして悪るいでしょう﹂
はじめ
﹁ええ︑些と変ってます﹂
ちっ
﹁余っ程変って入らっしゃるのね﹂
い
﹁何故って︑小説なんか︑そうして読む方が面白いで
﹁何故?﹂
246
﹁無論わるくは︑ありませんよ︒筋を読む気なら︑わた
しだって︑そうします﹂
﹁筋を読まなけりゃ何を読むんです︒筋の外に何か読む
ものがありますか﹂
余は︑矢張り女だなと思った︒多少試験してやる気に
な る︒
﹁あなたは小説が好きですか﹂
わ たくし
﹁ 私 が?﹂と句を切った女は︑あとから﹁そうです
はっ きり
ねえ﹂と判然しない返事をした︒あまり好きでもなさそ
うだ︒
247
き らい
わか
﹁どこが?﹂と余は女の眼の中を見詰めた︒試験をする
うち
﹁だって︑あなたと私とは違いますもの﹂
しょう﹂
ま せ ん か ︒ あ な た の 様 に そ う 不思 議 が ら な い で も い い で
いい加減な所をいい加減に読んだって︑いい訳じゃあり
﹁それじゃ︑初から読んだって︑仕舞から読んだって︑
眼中にはまるで小説の存在を認めていない︒
﹁小説なんか読んだって︑読まなくったって⁝⁝﹂と
か﹂
﹁好きだか︑ 嫌 だか自分にも解らないんじゃないです
248
こ
こ
ひとみ
のは此所だと思ったが︑女の 眸 は少しも動かない︒
﹁ホホホホ解りませんか﹂
しか
ちょっと
まわ
﹁然し若いうちは随分御読みなすったろう﹂余は一本道
や
たか
で押し合うのを已めにして︑一寸裏へ廻った︒
かわいそう
﹁ 今 で も 若 い 積 り で す よ ︒ 可 哀 想に ﹂ 放 し た 鷹 は ま た そ
れ か か る ︒ す こ し も油 断 がな ら ん ︒
﹁そんな事が男の前で云えれば︑もう年寄のうちです
よ﹂と︑やっと引き戻した︒
は
﹁そう云うあなたも随分の御年じゃあ︑ありませんか︒
ほ
そんなに年をとっても︑矢っ張り︑惚れたの︑腫れたの︑
249
にきびが出来たのってえ事が面白いんですか﹂
になる必要があるうちは︑小説を初から仕舞まで読む必
てもあなたと夫婦になる必要はないんです︒惚れて夫婦
れ込んでもいい︒そうなると猶面白い︒然しいくら惚れ
なお
ているうちは毎日話をしたい位です︒何ならあなたに惚
のです︒あなたと話をするのも面白い︒ここへ逗 留 し
とう り ゅ う
む必要はないんです︒けれども︑どこを読んでも面白い
﹁全くです︒画工だから︑小説なんか初から仕舞まで読
えかき
﹁おやそう︒それだから画工なんぞになれるんですね﹂
えかき
﹁ええ︑面白いんです︑死ぬまで面白いんです﹂
250
要があるんです﹂
﹁ す る と 不 人 情 な 惚 れ 方 を す る の が 画 工な ん で す ね ﹂
﹁不人情じゃありません︒非人情な惚れ方をするんで
す︒小説も非人情で読むから︑筋なんかどうでもいいん
みくじ
です︒こうして︑御籤を引くように︑ぱっと開けて︑開
いた所を︑漫然と読んでるのが面白いんです﹂
な る ほど
﹁成程面白そうね︒じゃ︑今あなたが読んで入らっしゃ
ち ょ う だい
え
ねうち
る所を︑少し話して 頂 戴︒どんな面白い事が出てくる
め
か伺いたいから﹂
だ
﹁話しちゃ駄目です︒画だって話にしちゃ一文の価値も
251
なくなるじゃありませんか﹂
く女も固より非人情で聴いている︒
もと
こい
界に非人情な読み方があるとすれば正にこれである︒聴
例の書物をぽつりぽつりと日本語で読み出した︒もし世
これも一興だろうと思ったから︑余は女の乞に応じて︑
﹁いいじゃありませんか︑非人情で﹂
﹁英語を日本語で読むのはつらいな﹂
﹁いいえ日本語で﹂
﹁英語でですか﹂
﹁ホホホそれじゃ読んで下さい﹂
252
とも
はだ え
なが
﹁情けの風が女から吹く︒声から︑眼から︑ 肌 から吹
たす
たす
く︒男に扶けられて舳に行く女は︑夕暮のヴェニスを眺
た
ぬ
むる為めか︑扶くる男はわが脈に稲妻の血を走らす為め
お
た
か︒︱︱非人情だから︑いい加減ですよ︒所々脱けるか
も知れません﹂
よ
﹁よござんすとも︒御都合次第で︑御足しなすっても構
いません﹂
ふなばた
﹁女は男とならんで 舷 に倚る︒二人の隔りは︑風に吹
かるるリボンの幅よりも狭い︒女は男と共にヴェニスに
さらばと云う︒ヴェニスなるドウジの殿楼は今第二の日
253
ごと
その場限りで面白味があるでしょう﹂
あなたとわたしの様に︑こう一所に居るところなんで︑
いっしょ
のですよ︒今までの関係なんかどうでもいいでさあ︒只
﹁誰だか︑わたしにも分らないんだ︒それだから面白い
﹁それでその男と女と云うのは誰の事なんでしょう﹂
だれ
でもヴェニスに残ってるんです﹂
の名ですよ︒何代つづいたものですかね︒その御殿が今
﹁何だって構やしません︒昔しヴェニスを支配した人間
﹁ドージとは何です﹂
没の如く︑薄赤く消えて行く︒⁝⁝﹂
254
﹁そんなものですかね︒何だか船の中の様ですね﹂
おか
﹁船でも岡でも︑かいてある通りでいいんです︒何故と
聞き出す と探 偵になってしまうです ﹂
﹁ホホホホじゃ聴きますまい﹂
﹁普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ︒非人
ちっ
情な所がないから︑些とも趣がない﹂
﹁じゃ非人情の続きを伺いましょう︒それから?﹂
い ちま つ
﹁ ヴ ェ ニ ス は 沈 み つ つ ︑ 沈 み つ つ ︑ 只空 に 引 く 一 抹 の 淡
とんぼだま
き線 となる︒線は切れる︒切れて点となる︒蛋白石の空
のなかに円き柱が︑ここ︑かしこと立つ︒遂には最も高
255
そび
しゅろう
ゆづる
あわ
そそ
鳴りやまぬ 弦 を握った心地である︒⁝⁝﹂
﹁あんまり非人情でもない様ですね﹂
﹁なに私は大丈夫ですよ﹂
少 々略 し ま し ょ う か ﹂
と
﹁なにこれが非人情的に聞けるのですよ︒然し厭なら
いや
増す︒柔らかに揺ぐ海は泡を濺がず︒男は女の手を把る︒
ゆら
みを与う︒男と女は暗き湾の方に眼を注ぐ︒星は次第に
かた
るヴェニスは︑再び帰らねばならぬ女の心に覊絏の苦し
きせつ
去る女の心は空行く風の如く自由である︒されど隠れた
く聳えたる鐘楼が沈む︒沈んだと女が云う︒ヴェニスを
256
﹁わたしは︑あなたより猶大丈夫です︒︱︱それから
と︑ええと︑少しくむずかしくなって来たな︒どうも訳
し︱︱いや読みにくい﹂
﹁ 読 み に く け れ ば ︑ 御略 し な さ い ﹂
ひとよ
と男がきく︒一と限るはつれなし︑幾夜
﹁ええ︑いい加減にやりましょう︒︱︱この一夜と女が
云う︒一夜?
を重ねてこそと云う﹂
﹁女が云うんですか︑ 男が云うんですか﹂
﹁男が云うんですよ︒何でも女がヴェニスへ帰りたくな
ことば
いのでしょう︒それで男が慰める 語 なんです︒︱︱真
257
る︒︱︱﹂
﹁女は?﹂
みち
まくら
よこた
よ
量︱︱あとが一寸読みにくいですよ︒どうも句にならな
ある︒攫われて空行く人の如く︑只不可思議の千万無
さら
﹁女は路に迷いながら︑いずこに迷えるかを知らぬ様で
さま
い出さんと思い定めた︒かく思い定めて男は眼を閉ず
上げながら︑強いられたる結婚の淵より︑是非に女を救
し
と把りたる瞬時が大濤の如くに揺れる︒男は黒き夜を見
おおな み
は︑かの瞬時︑熱き一滴の血に似たる瞬時︑女の手を確
しか
夜中の甲板に帆綱を 枕 にして 横 わりたる︑男の記憶に
258
い︒︱︱ 只不可思議の千万無量︱︱何か動詞はないでし
ょうか﹂
はい
き
ことごと
﹁動詞なんぞ入るものですか︑それで沢山です﹂
﹁え?﹂
ごう
い
つばき
轟と音がして山の樹が 悉 く鳴る︒思わず顔を見合わ
い ち りん ざし
ひざ
す途端に︑机の上の一輪挿に活けた︑ 椿 がふらふらと
お たが い
からだ
揺 れ る ︒﹁ 地 震 ! ﹂ と 小 声 で 叫 ん だ 女 は ︑ 膝 を 崩 し て 余
よ
き
じ
やぶ
の机に靠りかかる︒御互の身躯がすれすれに動く︒キキ
はばたき
ーと鋭どい羽搏をして一羽の雉子が藪の中から飛び出
す︒
259
﹁雉子が﹂と余は窓の外を見て云う︒
い
き
ひげ
たちま
の呼吸が余の髭にさわった︒
云う︒
うご
たた
まんお う
きっ
くのだから︑表面が不規則に曲線を描くのみで︑砕けた
と鈍く揺いている︒地盤の響きに︑満泓の波が底から動
ぬる
岩の凹みに湛えた春の水が︑驚ろいて︑のたりのたり
くぼ
﹁無論﹂と言下に余は答えた︒
ごんか
﹁非人情ですよ﹂と女は 忽 ち坐住居を正しながら屹と
い ず ま い
女の顔が触れぬばかりに近付く︒細い鼻の穴から出る女
﹁どこに﹂と女は崩した︑からだを擦寄せる︒余の顔と
260
ど
こ
部分は何所にもない︒円満に動くと云う語があるとすれ
ひた
ば︑こんな場合に用いられるのだろう︒落ち付いて影を蘸
していた山桜が︑水と共に︑延びたり縮んだり︑曲がっ
たり︑くねったりする︒然しどう変化しても矢張り明ら
かに桜の姿を保っている所が非常に面白い︒
﹁こいつは愉快だ︒奇麗で︑変化があって︒こう云う風
に動かなくっちゃ面白くない﹂
﹁人間もそう云う風にさえ動いていれば︑いくら動いて
も大丈夫ですね﹂
﹁非人情でなくっちゃ︑こうは動けませんよ﹂
261
ほう
﹁ホホホホ大変非人情が御好きだこと﹂
きらい
じゃ ありませんか﹂
﹁わたしがですか﹂
やま ごえ
御頼みになったそうで御座います﹂
きのう
ふり
﹁山越をなさった画の先生が︑茶店の婆さんにわざわざ
ばあ
﹁見たいと 仰 ゃったから︑わざわざ︑見せて上げたん
おっし
﹁何故です﹂
﹁何か御褒美を頂戴﹂と女は急に甘 える様に云った︒
ご ほ う び
袖なんか⁝⁝﹂と言いかけると︑
そで
﹁あなた︑だって 嫌 な方じゃありますまい︒昨日の振
262
あいさつ
余は何と答えてよいやら一寸挨拶が出なかった︒女は
すかさず︑
じつ
まっこう
﹁そんな忘れっぽい人に︑いくら実をつくしても駄目で
あざ
はたいろ
す わ ね え ﹂ と 嘲 け る 如 く ︑ 恨 む が如 く ︑ 又 真 向 か ら 切 り
いったん
つけるが如く二の矢をついだ︒段々旗色がわるくなるが︑
みいだ
どこで盛り返したものか︑一反機先を制せられると︑中々
すき
ふ
ろ
ば
隙を見出しにくい︒
ゆうべ
ようや
﹁ じ ゃ 昨 夕 の 風 呂 場 も ︑ 全 く 御親 切 か らな ん で すね ﹂ と
きわ
女は黙っている︒
際どい所で 漸 く立て直す︒
263
きき め
﹁どうも済みません︒御礼に何を上げましょう﹂と出来
ちくえいかいをはらっ てちりうごかず
おしょう
﹁竹 影 払 階 塵 不 動﹂
がく
水の様に円満な動き方をして見せる︒
﹁ そ の 坊 主 に さ っ き 逢 い ま し たよ ﹂ と 地震に 揺 れ た池 の
あ
と︑わざと大きな声で聞いた︒その手は喰わない︒
﹁何ですって﹂
が︑急に思い出した様に︑
と口のうちで静かに読み了って︑又余の方へ向き直った
おわ
女は何喰わぬ顔で大徹和尚の額を眺めている︒やがて︑
く
るだけ先へ出て置く︒いくら出ても何の利目もなかった︒
264
ふと
﹁観海寺の和尚ですか︒肥ってるでしょう﹂
からかみ
﹁西洋画で唐紙をかいてくれって︑云いましたよ︒禅坊
さんなんてものは随分訳のわからない事を云いますね﹂
﹁それだから︑あんなに肥れるんでしょう﹂
﹁それから︑もう一人若い人に逢いましたよ︒⁝⁝﹂
﹁久一でしょう﹂
﹁ええ久一君です﹂
﹁よく 御存じです事﹂
﹁なに久一君だけ知ってるんです︒その外には何にも知
き らい
りゃしません︒口を聞くのが 嫌 な人ですね﹂
265
ゆ
いとまごい
すき
こども
いとこ
私が居れば中途から帰してやったんですが⁝⁝﹂
い
のに︑呼ぶものですから︒麻痺が切れて困ったでしょう︒
しびれ
﹁ 御 茶 よ り 御白 湯 の 方 が好な ん です よ ︒父 がよ せば い い
お
﹁じゃ︑わざわざ御茶を飲みに来た訳ですね﹂
﹁いいえ︑兄の家に居ります﹂
うち
﹁ここに留って︑いるんですか﹂
度戦地へ行くので︑ 暇 乞に来たのです﹂
い
﹁ホホホホそうですか︒あれは 私 しの従弟ですが︑今
わたく
﹁ 小 供 っ て ︑ あな た と 同 じ 位 じ ゃ あ り ま せ ん か ﹂
﹁なに︑遠慮しているんです︒まだ小供ですから⁝⁝﹂
266
ど
こ
と
﹁あなたは何所へ入らしったんです︒和尚が聞いていま
し た ぜ ︑ 又 一 人散 歩 か っ て ﹂
﹁ え え 鏡 の 池 の 方 を 廻 っ て来 ま し た ﹂
ゆ
﹁その鏡の池へ︑わたしも行きたいんだが⁝⁝﹂
﹁行って御覧なさい﹂
い
﹁画にかくに好い所ですか﹂
﹁身を投げるに好い所です﹂
﹁身はまだ中々投げない積りです﹂
きんきん
ふ
余りに女としては思い切った冗談だから︑余は不図顔
﹁ 私は 近 々投 げ る か も知 れ ま せ ん ﹂
267
たし
た
じ
を出るとき︑顧みてにこりと笑った︒茫然たる事多時︒
ぼ う ぜん
女はすらりと立ち上る︒三歩にして尽くる部屋の入口
﹁驚ろいた︑驚ろいた︑驚ろいたでしょう﹂
﹁え?﹂
を︱︱奇麗な画にかいて下さい﹂
所じゃないんです︱︱やすやすと往生して浮いている所
﹁私が身を投げて浮いている所を︱︱苦しんで浮いてる
を上 げた︒女は存外慥かである︒
268
十
すぎ
ふたまた
わか
鏡が池へ来て見る︒観海寺の裏道の︑杉の間から谷へ
みち
くま ざさ
降りて︑向うの山へ登らぬうちに︑路は二股に岐れて︑
ふち
ほと
おのずから鏡が池の周囲となる︒池の縁には熊笹が多い︒
お
あ る 所 は ︑ 左 右 か ら 生 い 重な っ て︑ 殆 ん ど 音 を 立 て ず に
あいだ
は通れない︒木の 間 から見ると︑池の水は見えるが︑
まわ
ど こ で 始 ま っ て ︑ ど こ で 終 る か 一 応 廻 っ た上 で な い と 見
当がつかぬ︒あるいて見ると存外小さい︒三丁程よりあ
269
ただ
よこた
い
したぐさ
つぼすみれ
がた
に ﹂︑ と 形 容 し た 西 人 の 句 は 到 底 あ て は ま る ま い ︒ こ う
せいじん
日 本 の 菫 は 眠 っ て い る 感 じ で あ る ︒﹁ 天 来 の 奇 想 の 様
ちらりちらりとその 間 に見える︒
あいだ
を受けて︑萌え出でた下草さえある︒壺 菫の淡き影が︑
も
合に枝の繁まない所は︑依然として︑うららかな春の日
こ
れぬ︒中には︑まだ春の芽を吹いておらんのがある︒割
池をめぐりては雑木が多い︒何百本あるか勘定がし切
い様に︑波を打って︑色々な起伏を不規則に連ねている︒
よう
ま水際に 横 わっている︒縁の高さも︑池の形の名状し難
みず ぎわ
るまい︒只非常に不規則な形ちで︑所々に岩が自然のま
270
よ
いや
思う途端に余の足はとまった︒足がとまれば︑厭になる
までそこに居る︒居られるのは︑幸福な人である︒東京
こじき
でそんな事をすれば︑すぐ電車に引き殺される︒電車が
り
げっ ぽう
殺さなければ巡査が追い立てる︒都会は太平の民を乞食
す
しり
おろ
と間違えて︑掏摸の親分たる探偵に高い月俸を払う所で
ある︒
しとね
だれ
余は草を 茵 に太平の尻をそろりと卸した︒ここなら
ありが た
ば︑五六日こうしたなり動かないでも︑誰も苦情を持ち
きづかい
あつかい
出す気遣はない︒自然の難有い所はここにある︒いざと
よ
なると容赦も未練もない代りには︑ 人に 因って取り 扱
271
う
に培養うがよかろう︒
つちか
うち
き
ぐんしょ う
が
まんぽ
さしまね
えん
はる
ま
かれら
いわさき
いたず
けい
し かば ね
らば︑日に千人の小賊を戮して︑満圃の草花を彼等の 屍
りく
ある︒世は公平と云い無私と云う︒さほど大事なものな
い
百畦に樹えて︑独りその裏に起臥する方が遥かに得策で
けい
にタイモンの憤りを招くよりは︑蘭を九畹に滋き︑蕙を
らん
無辺際に樹立している︒天下の羣 小 を 麾 いで︑ 徒 ら
むへんさい
う︒自然の徳は高く塵界を超越して︑絶対の平等観を
じん かい
て古今帝王の権威を風馬牛し得るものは自然のみであろ
ふ うば ぎ ゅ う
三井を眼中に置かぬものは︑いくらでも居る︒冷然とし
みつい
をかえる様な軽薄な態度はすこしも見せない︒岩崎や
272
かんが え
何だか 考 が理に落ちて一向つまらなくなった︒こん
たばこ
マッチ
てごたえ
な 中学程度の観想を練りにわざわざ︑ 鏡が池まで来はせ
たもと
ぬ︒ 袂 から烟草を出して︑寸燐をシュッと擦る︒手応
ようや
はあったが火は見えない︒敷島のさきを付けて吸ってみ
けむり
ると︑鼻から 烟 が出た︒なるほど︑吸ったんだなと 漸
あま りょう
く気がついた︒寸燐は短かい草のなかで︑しばらく雨 竜
の 様 な 細 い 烟 り を 吐 い て ︑ す ぐ 寂滅 し た ︒ 席 を ず ら せ て
し とね
段々水際まで出て見る︒余が 茵 は天然に池のなかに︑
なまぬる
な が れ 込 ん で ︑ 足 を 浸 せ ば 生 温 い 水に つく か も知 れ ぬ と
のそ
云う間際で︑とまる︒水を覗いて見る︒
273
め
眼の届く所はさまで深そうにもない︒底には細長い水
きているらしい︒
すすき
おもい
なび
なぶ
き
こ
余 は 立 ち上 が っ て ︑ 草 の 中 か ら ︑ 手 頃 の 石 を 二 つ 拾 っ
てごろ
ら︑今に至るまで遂に動き得ずに︑又死に切れずに︑生
ち暮らし︑待ち明かし︑幾代の 思 を茎の先に籠めなが
いくよ
き 凡 て の 姿 勢 を 調 え て ︑ 朝 な 夕な に ︑ 弄 ら る る 期 を ︑ 待
すべ
き そ う も な い ︑ 水 の 底に 沈 め ら れ たこ の 水 草 は ︑ 動 く べ
る︒藻の草ならば誘う波の情けを待つ︒百年待っても動
も
容すべき言葉を知らぬ︒岡の 薄 なら靡く事を知ってい
おか
草が︑往生して沈んでいる︒余は往生と云うより外に形
274
くどく
ほう
て来る︒功徳になると思ったから︑眼の先へ︑一つ抛り
あわ
込んでやる︒ぶくぶくと泡が二つ浮いて︑すぐ消えた︒
ものうげ
すぐ消えた︑すぐ消えたと︑余は心のうちで繰り返す︒
み く き ほど
すかして見ると︑三茎程の長い髪が︑ 慵 に揺れかかっ
む
あ
み
だ ぶつ
かす
ている︒見付かってはと云わぬばかりに︑濁った水が底
な
の方から隠しに来る︒南無阿弥陀仏︒
まんな か
今 度 は 思 い 切 っ て ︑ 懸 命 に 真 中 へ な げ る ︒ ぽ か ん と幽
かに音がした︒静かなるものは決して取り合わない︒も
な
う 抛 げ る 気 も 無 くな っ た ︒ 絵 の具 箱 と 帽子を 置い た ま ま
右手へ廻る︒
275
つまさき あ
き
つば き
二間余りを爪先上がりに登る︒頭の上には大きな樹が
からだ
ただ
しか
一日勘定しても無論勘定し切れぬ程多い︒然し眼
すご
よう
で︑思わず︑気を奪られた︑後は何だか凄くなる︒あれ
と
うばかりで︑一向陽気な感じがない︒ぱっと燃え立つ様
いっ こう
が付けば是非勘定したくなる程鮮かである︒唯鮮かと云
が!
かない所に森閑として︑かたまっている︒その花
奥へ二三間遠退いて︑花がなければ︑何があるか気のつ
とおの
で見ても︑軽快な感じはない︒ことにこの椿は岩角を︑
が咲いている︒椿の葉は緑が深すぎて︑昼見ても︑日向
ひなた
かぶさって︑身体が急に寒くなる︒向う岸の暗い所に 椿
276
だま
みやま
つ
ま
程人を欺す花はない︒余は深山椿を見る度にいつでも
よう じょ
あざむ
ころ
妖女の姿を連想する︒黒い眼で人を釣り寄せて︑しらぬ間
え ん ぜん
に︑嫣然たる毒を血管に吹く︒ 欺 かれたと悟った頃は
い
既に遅い︒向う側の椿が眼に入った時︑余は︑ええ︑見
は
で
なければよかったと思った︒あの花の色は唯の赤ではな
さま
しお
り
か
い︒眼を醒す程の派出やかさの奥に︑言うに言われぬ沈
しょうぜん
えん
かいどう
んだ調子を持っている︒悄 然として萎れる雨中の梨花
あわ
には︑ 只憐れな 感じがする︒冷やかに艶な る月下の海棠
には︑只愛らしい気持ちがする︒椿の沈んでいるのは全
どくき
く違う︒黒ずんだ︑毒気のある︑恐ろし味を帯びた調子
277
さま
うわべ
こん りん ざい
ほふ
のが
見た人は彼女の魔力から金輪際︑免るる事
ひ
お のず
見ていると︑ぽたり赤い奴が水の上に落ちた︒静かな
やつ
快にする如く一種異様な赤である︒
ごと
の血が︑自ずから人の眼を惹いて︑ 自 から人の心を不
おの
は出来ない︒あの色は只の赤ではない︒屠られたる囚人
たが最後!
かからぬ山陰に落ち付き払って暮らしている︒只一眼見
や ま かげ
ぽたりと落ち︑ぱっと咲いて︑幾百年の星霜を︑人目に
せい そう
に人を招く様子も見えぬ︒ぱっと咲き︑ぽたりと落ち︑
に 装 っ て い る ︒ 然 も 人に 媚 ぶ る 態 もな け れ ば ︑ こ と さ ら
こ
である︒この調子を底に持って︑上部はどこまでも派出
278
春に動いたものは只この一輪である︒しばらくすると又
ぽたり落ちた︒あの花は決して散らない︒崩れるよりも︑
かたまったまま枝を離れる︒枝を離れるときは一度に離
れるから︑未練のない様に見えるが︑落ちてもかたまっ
ている所は︑何となく毒々しい︒又ぽたり落ちる︒ああ
やって落ちているうちに︑池の水が赤くなるだろうと考
あたり
えた︒花が静かに浮いている 辺 は今でも少々赤い様な
気 が す る ︒ ま た 落 ち た ︒ 地 の上 へ落 ち たの か︑ 水 の 上 へ
落ちたのか︑区別がつかぬ位静かに浮く︒また落ちる︒
あれが沈む事があるだろうかと思う︒年々落ち尽す幾万
279
ば
お
な
み
た
うず
きのう
の
どろ
った言葉が︑うねりを打って︑記憶のうちに寄せてくる︒
ぼんやり考え込む︒温泉場の御那美さんが昨日冗談に云
ゆ
だろうと思いながら︑元の所へ帰って︑又烟草を呑んで︑
たばこ
こんな所へ美しい女の浮いている所をかいたら︑どう
る︒際限なく落ちる︒
た︑人魂の様に落ちる︒又落ちる︒ぽたりぽたりと落ち
ひ とだま
元の平地に戻るかも知れぬ︒又一つ大きいのが血を塗っ
ひらち
古池が︑人の知らぬ間に︑落ちた椿の為めに︑埋もれて︑
ま
なって︑漸く底に沈むのかしらん︒幾千年の後にはこの
輪の椿は︑水につかって︑色が溶け出して︑腐って泥に
280
おおな み
いたご
心は大浪にのる一枚の板子の様に揺れる︒あの顔を種に
して︑あの椿の下に浮かせて︑上から椿を幾輪も落とす︒
とこしな
椿が 長 えに落ちて︑女が長えに水に浮いている感じを
え
あらわしたいが︑それが画でかけるだろうか︒かのラオ
コーンには︱︱ラオコーンなどはどうでも構わない︒原
理に背いても︑背かなくっても︑そう云う心持ちさえ出
ればいい︒然し人間を離れないで人間以上の永久と云う
め
感じを出すのは容易な事ではない︒第一顔に困る︒あの
だ
むやみ
顔を借りるにしても︑あの表情では駄目だ︒苦痛が勝っ
すべ
ては凡てを打ち壊わしてしまう︒と云って無暗に気楽で
281
なお
いっそ
うらみ
は
い
しゅん こん
しっと
い かり
やはり
怒 では全然調和
恨でも 春 恨とか云う︑詩的のものなら
ば格別︑只の恨では余り俗である︒色々に考えた末︑仕
を破る︒ 恨 ?
だろう︒憎悪は烈げし過ぎる︒怒?
どうだろう︒嫉妬では不安の感が多過ぎる︒憎悪はどう
減に作り易える訳に行かない︒あれに嫉妬を加えたら︑
か
かが︑吾ながら不明である︒従って自己の想像でいい加
われ
い︒物足らないとまでは気が付くが︑どこが物足らない
御 那 美 さ ん の 顔 が 一 番 似 合う 様だ ︒ 然 し 何だ か 物 足 ら な
これかと指を折って見るが︑どうも 思 しくない︒矢張
おもわ
は猶困る︒一層ほかの顔にしては︑どうだろう︒あれか︑
282
あわ
舞に漸くこれだと気が付いた︒多くある情緒のうちで︑憐
れと云う字のあるのを忘れていた︒憐れは神の知らぬ情
もっと
で︑しかも神に 尤 も近き人間の情である︒御那美さん
とっさ
の表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておら
う
じょう じゅ
ぬ︒そこが物足らぬのである︒ある咄嗟の衝動で︑この
び
つ
わか
情があの女の眉宇にひらめいた瞬時に︑わが画は 成 就
い
ば
か
するであろう︒然し︱︱何時それが見られるか解らない︒
あせ
あ の 女 の 顔 に 普 段 充 満 し て い る も の は ︑ 人 を 馬 鹿に す る
うすわらい
微 笑と︑勝とう︑勝とうと焦る八の字のみである︒あ
れだけでは︑とても物にならない︒
283
せ
まき
ぶ
が さ り が さ り と 足 音 が す る ︒ 胸 裏 の 図 案 は 三分 二 で 崩
つつ そで
て来 たのだ ろう ︒
たく
な れな れ
お
様に馴々しい︒
だんな
った︒
あい さつ
かが
﹁ 旦 那 も 画 を 御 描 き な さ る か ﹂ 余 の 絵 の 具 箱 は開 け て あ
か
恰好の逞しい男である︒どこかで見た様だ︒男は旧知の
がっこう
途端に︑三尺帯に落した鉈の刃がぴかりと光った︒四十
なた
﹁よい御天気で﹂と手拭をとって挨拶する︒腰を屈める
て ぬぐ い
のなかを観海寺の方へわたってくる︒隣りの山からおり
れ た ︒ 見 る と ︑ 筒 袖 を 着 た 男 が ︑ 脊へ 薪 を 載 せ て︑ 熊 笹
284
か
ふ
さみ
﹁ああ︒この池でも画こうと思って来て見たが︑淋し
だれ
い 所だ ね ︒ 誰 も 通 らな い ﹂
お
﹁はあい︒まことに山の中で⁝⁝旦那あ︑峠で御降られ
たきぎ
ご
うん御前 はあの時の馬子さんだね﹂
ま
なさって︑さぞ御困りで御座んしたろ﹂
﹁え?
おろ
﹁はあい︒こうやって 薪 を切っては城下へ持って出ま
げ ん べ え
す ﹂ と 源 兵 衛 は 荷 を 卸 し て ︑ そ の上 へ 腰 を か け る ︒ 烟 草
マッチ
入を出す︒古いものだ︒紙だか革だか分らない︒余は寸燐
を借してやる︒
﹁あんな所を毎日越すなあ大変だね﹂
285
ぺん
ぐらい
﹁なあに︑馴れていますから︱︱それに毎日は越しませ
ハハハハ﹂
﹁それ程でもないんで⁝⁝﹂
んだい﹂
つ ごろ
﹁ 時 に こ の 池 は 余 程 古 い も んだね ︒ 全 体 何 時 頃 か ら あ る
い
﹁そりゃあ︑どうも︒自分より馬の方が大事なんだね︒
す﹂
﹁アハハハハ︒馬が不憫ですから四日目位にして置きま
ふびん
﹁ 四 日 に 一 返 で も 御免 だ ﹂
ん︒三日に一返︑ことによると四日目 位 になります﹂
286
どの位昔から?﹂
﹁昔からありますよ﹂
﹁昔から?
﹁なんでも余っ程古い昔から﹂
な る ほど
﹁余っ程古い昔しからか︒成程﹂
ば
﹁なんでも昔し︑志保田の嬢様が︑身を投げた時分から
ありますよ﹂
ゆ
﹁志 保田って︑ あの温泉 場のかい﹂
﹁はあい﹂
﹁ 御 嬢 さ ん が 身 を 投 げ た っ て︑現 に 達 者 で 居 る じ ゃな い
か﹂
287
﹁いんにぇ︒あの嬢さまじゃない︒ずっと昔の嬢様が﹂
たそうながな︑旦那様﹂
﹁うん﹂
﹁はあい︒あの尺八を吹く梵論字の事で御座んす︒その
﹁梵論字と云うと虚無僧の事かい﹂
こ も そ う
﹁すると︑ある日︑一人の梵論字が来て⁝⁝﹂
ぼ ろ ん じ
﹁その嬢様は︑矢張り今の嬢様の様に美しい嬢様であっ
﹁その昔の嬢様が︑どうして又身を投げたんだい﹂
﹁なんでも︑余程昔しの嬢様で⁝⁝﹂
﹁ずっと昔の嬢様︒いつ頃かね︑それは﹂
288
しょ うや
とうりゅう
梵論字が志保田の庄屋へ逗 留しているうちに︑その美
いんが
くしい嬢様が︑その梵論字を見染めて︱︱因果と申しま
いっしょ
すか︑どうしても一所になりたいと云うて︑泣きました﹂
﹁泣きました︒ふうん﹂
むこ
﹁ところが庄屋どのが︑聞き入れません︒梵論字は聟に
はならんと云うて︒とうとう追い出しました﹂
こ も そ う
﹁その虚無僧をかい﹂
﹁はあい︒そこで嬢様が︑梵論字のあとを追うてここま
で来て︑︱︱あの向うに見える松の所から︑身を投げて
︱︱とうとう︑えらい騒ぎになりました︒その時何でも
289
一枚の鏡を持っていたとか申し伝えておりますよ︒それ
﹁何だい﹂
﹁へええ﹂
﹁ あ の志 保 田 の 家 に は ︑ 代 々 気 狂 が 出来 ま す ﹂
きちが い
ら︱︱これはここ限りの話だが︑旦那さん﹂
﹁なんでも余っ程昔の事で御座んすそうな︒それか
﹁何代 位 前の事かい︒それは﹂
ぐらい
﹁まことに怪しからん事で御座んす﹂
け
﹁へええ︒じゃ︑もう身を投げたものがあるんだね﹂
でこの池を今でも鏡が池と申しまする﹂
290
たた
﹁全く祟りで御座んす︒今の嬢様も︑近頃は少し変だ云
はや
う て︑ 皆 が 囃 し ま す ﹂
﹁ハハハハそんな事はなかろう﹂
けむり
﹁御座んせんかな︒然しあの御袋様が矢張り少し変で
な﹂
﹁うちにいるのかい﹂
な
﹁いいえ︑去年亡くなりました﹂
すいがら
﹁ふん﹂と余は烟草の吸殻から細い 烟 の立つのを見
まき
画 を か きに 来 て ︑ こ ん な 事 を考 え たり ︑ こ んな 話 し を
て︑口を閉じた︒源兵衛は薪を脊にして去る︒
291
いくにち
さいわい
むこうがわ
まっすぐ
さ
すん
すきま
わ かづた
おもて
そう せい
ほぼま と
を 懐 にした女は︑あの岩の上からでも飛んだものだろ
ふところ
斜めに捩って︑半分以上水の 面 へ乗り出している︒鏡
ねじ
る︒上には三抱程の大きな松が︑若蔦にからまれた幹を︑
み かかえ
笹が断崖の上から水際まで︑一寸の隙間なく叢生してい
だんがい
濃き水の折れ曲る角に︑嵯々と構える右側には︑例の熊
さ
一丈余りの蒼黒い岩が︑真直に池の底から突き出して︑
あお ぐ ろ
まっている︒あすこでも申し訳に一寸描こう︒
ちょっと
をとって行こう︒ 幸 ︑ 向 側の景色は︑あれなりで略纏
い
折角絵の具箱まで持ち出した以上︑今日は義理にも下絵
聴くばかりでは︑何日かかっても一枚も出来っこない︒
292
う︒
さんきゃくき
す
い
三脚几に尻を据えて︑画面に入るべき材料を見渡す︒
松と︑笹と︑岩と水であるが︑さて水はどこでとめてよ
いか分らぬ︒岩の高さが一丈あれば︑影も一丈ある︒熊
みずぞこ
笹は︑水際でとまらずに︑水の中まで茂り込んでいるか
あやし
ま た す こぶ
と 怪 まるる位︑鮮やかに水底まで写っている︒松に至
そび
っては空に聳ゆる高さが︑見上げらるるだけ︑影も亦 頗
か
る細長い︒眼に写っただけの寸法では到底収りがつかな
いっそ
い︒一層の事︑実物をやめて影だけ描くのも一興だろう︒
え
水をかいて︑水の中の影をかいて︑そうして︑これが画
293
だと人に見せたら驚ろくだろう︒然し只驚ろかせるだけ
見詰める︒
いっ こう
けあい
しゅん しゅ
模様を逐一吟味して漸々と登って行く︒ようやく登り詰
だんだん
目から次第に水の上に出る︒ 潤 沢の気合から︑皴 皺の
じゅん たく
一丈の 巌 を︑影の先から︑水際の継目まで眺めて︑継
いわお
を転じて︑そろりそろりと上の方へ視線を移して行く︒
実物と見比べて工夫がして見たくなる︒余は水面から 眸
ひとみ
奇体なもので︑影だけ眺めていては一向画にならん︒
なが
らない︒どう工夫をしたものだろうと︑一心に池の面を
おも
では詰らない︒成程画になっていると驚かせなければ詰
294
ひき
きがん
えふで
へび
あおぐ ろ
めて︑余の双眼が今危巌の頂きに達したるとき︑余は蛇
にら
に睨まれた蟇の如く︑はたりと画筆を取り落した︒
そぜん
緑りの枝を通す夕日を脊に︑暮れんとする晩春の蒼黒
いろ
か
く巌頭を彩どる中に︑楚然として織り出されたる女の顔
か
ふ
ろ
ば
は︑︱︱花下に余を驚かし︑まぼろしに余を驚ろかし︑
ふりそで
くぎづ
振 袖 に 余 を 驚 か し ︑ 風 呂 場に 余 を 驚 か し た る 女 の 顔 で あ
る︒
ま んな か
たいく
の
余が視線は︑蒼白き女の顔の真中にぐさと釘付けにさ
いわお
れたぎり動かない︒女もしなやかなる体躯を伸せるだけ
の
伸して︑高い 巌 の上に一指も動かさずに立っている︒
295
いちせつな
かす
かす
山里の 朧 に乗じてそぞろ歩く︒観海寺の石段を登り
おぼろ
十一
又驚かされた︒
松の幹を染むる︒熊笹は 愈 青い︒
いよいよ
既に向うへ飛び下りた︒夕日は樹 梢 を掠めて︑幽かに
じゅ しょう
の間に椿の花の如く赤いものが︑ちらついたと思ったら︑
余は覚えず飛び上った︒女はひらりと身をひねる︒帯
この一刹那!
296
お
い
よ
おしょう
数春 星一二三と云う句を得た︒余は別に和尚
あお ぎかぞ う しゅん せい
ながら仰
あ
に逢う用事もない︒逢うて雑話をする気もない︒偶然と
い
くんしゅさ んもんにい るをゆるさず
宿を出でて足の向く所に任せてぶらぶらするうち︑つい
せきとう
この石磴の下に出た︒しばらく不 許 葷 酒 入 山 門と云う
な
石を撫でて立っていたが︑急にうれしくなって︑登り出
したのである︒
かの
ト リ ス ト ラ ム ︑ シ ャ ン デ ー と 云 う 書 物 のな か に ︑ こ の
おぼしめし
つづ
ひたす ら
書物ほど神の御覚召に叶うた書き方はないとある︒最初
じりき
の一句はともかくも自力で綴る︒あとは只管に神を念じ
て︑筆の動くに任せる︒何をかくか自分には無論見当が
297
また
付かぬ︒かく者は自己であるが︑かく事は神の事である︒
わが かげ
ど
ぶ
かくいし
す
ただ
さえぎ
く
黙然として︑吾影を見る︒角石に 遮 られて三段に切れ
もくねん
快だ︒それだから二段登る︒二段目に詩が作りたくなる︒
なら︑すぐ引き返す︒一段登って 佇 むとき何となく愉
た たず
石段を登るにも骨を折っては登らない︒骨が折れる位
持たぬ余は遂にこれを泥溝の中に棄てた︒
つい
同時にこれを在天の神に嫁した︒引き受けて呉れる神を
か
一層の無責任である︒スターンは自分の責任を免れると
のが
儀を汲んだ︑無責任の散歩である︒只神を頼まぬだけが
く
従って責任は著者にはないそうだ︒余が散歩も亦この流
298
ね
ているのは妙だ︒妙だから又登る︒仰いで天を望む︒寐
まば た
ぼけた奥から︑小さい星がしきりに 瞬 きをする︒句に
いわ ゆる
なると思って︑又登る︒かくして︑余はとうとう︑上ま
で登り詰め た︒
かま く ら
まわ
えんがくじ
石段の上で思い出す︒昔し鎌倉へ遊びに行って︑所謂
ごさん
五山なるものを︑ぐるぐる尋ねて廻った時︑たしか円覚寺
たっ ちゅう
ころも
の塔 中 であったろう︑矢張りこんな風に石段をのそり
ぼうず
のぼ
くだ
のそりと登って行くと︑門内から︑黄な法衣を着た︑頭
はち
こ
の 鉢 の 開 い た 坊 主 が 出 て 来 た ︒ 余 は上 る︑ 坊 主 は 下 る ︒
ど
す れ 違 っ た 時 ︑ 坊 主 が 鋭 ど い 声 で 何 処 へ 御 出 な さ る と問
299
こ
ま
けいだい
い
あいだ
く
り
と
せん
うれしく感じた︒世の中にこんな洒落な人があって︑こ
が ら ん と し て ︑ 人 影 は ま る で な い ︒ 余 は そ の 時に 心 か ら
のっそり山 門を這入って︑見ると︑広い庫裏も本堂も︑
は
た事はない︒成程禅僧は面白い︒きびきびしているなと︑
な る ほど
を杉の木の間に隠した︒その 間 かつて一度も振り返っ
すぎ
主は︑かの鉢の開いた頭を︑振り立て振り立て︑遂に姿
を越された気味で︑段上に立って︑坊主を見送ると︑坊
たすた下りて行った︒あまり洒落だから︑余は少しく先
しゃらく
ら︑坊主は直ちに︑何もありませんぞと言い捨てて︑す
う た ︒ 余 は 只 境 内 を 拝 見 に と答 え て ︑ 同 時に 足 を 停 め た
300
んな洒落に︑人を取り扱ってくれたかと思うと︑何とな
せい せい
く気分が晴々した︒禅を心得ていたからと云う訳ではな
いま
い︒禅のぜの字も未だに知らぬ︒只あの鉢の開いた坊主
しょさ
の所作が気に入ったのである︒
やつ
うずま
世の中はしつこい︑毒々しい︑こせこせした︑その上
さら
げ
ずうずうしい︑いやな奴で 埋 っている︒元来何しに世
つら
の 中 へ 面 を 曝 し て い る ん だ か ︑ 解 し かね る奴 さ えい る ︒
しかもそんな面に限って大きいものだ︒浮世の風にあた
もっ
へ
る面積の多いのを以て︑さも名誉の如く心得ている︒五
しり
年も十年も人の臀に探偵をつけて︑人のひる屁の勘定を
301
して︑それが人世だと思ってる︒そうして人の前へ出て
おまえ
ますます
なる方針は差し控えるのが礼義だ︒邪魔にならなければ
ったと云わずに黙って方針を立てるがいい︒人の邪魔に
世の方針だと云う︒方針は人々勝手である︒只ひったひ
にんにん
屁をいくつ︑ひった︑ひったと云う︒そうしてそれが処
ば猶々云う︒よせと云えば 益 云う︒分ったと云っても︑
なおなお
くつ︑ひった︑いくつ︑ひったと云う︒うるさいと云え
して︑やらんでもないが︑後ろの方から︑御前は屁をい
み も せ ぬ 事 を 教 え る ︒ 前 へ 出 て 云 う な ら ︑ そ れ も 参考 に
来て︑御前は屁をいくつ︑ひった︑いくつ︑ひったと頼
302
方針が立たぬと云うなら︑こっちも屁をひるのを以て︑
なんら
こっちの方針とするばかりだ︒そうなったら日本も運の
尽きだろう︒
よ
きた
こうやって︑美しい春の夜に︑何等の方針も立てずに︑
こう し ょ う
あるいてるのは実際高 尚 だ︒興来れば興来るを以て方
う
針とする︒興去れば興去るを以て方針とする︒句を得れ
ば︑得た所に方針が立つ︒得なければ︑得ない所に方針
だれ
が立つ︒しかも誰の迷惑にもならない︒これが真正の方
針 で あ る ︒ 屁 を 勘 定 す る の は 人身 攻 撃 の方 針 で︑ 屁を ひ
ぼうぎょ
るのは正当防禦の方針で︑こうやって観海寺の石段を登
303
ずいえん ほうこう
い
数春 星一二三の句を得て︑石磴を登りつくした
おぼろ
く
り
る方針を立てる︒
たた
むこう
ど
こ
はと
い らか
い
や
ひさし
やねがわら
むね
の下にでも住んでいるらしい︒気の所為か︑ 廂 のあた
せ
ちた様だと見上る︒何所やらで鳩の声がしきりにする︒棟
みあげ
が高い所で︑幽かに光る︒数万の 甍 に︑数万の月が落
かす
生垣で︑垣の 向 は墓場であろう︒左は本堂だ︒屋根瓦
いけがき
石を甃んで庫裡に通ずる一筋道の右側は︑岡つつじの
おか
る︒絶句は纏める気にならなくなった︒即座に已めにす
まと
る時︑朧 にひかる春の海が帯の如くに見えた︒山門を入
仰
あお ぎ か ぞう し ゅん せい
るのは随縁放曠の方針である︒
304
ふん
りに白いものが︑点々見える︒糞かも知れぬ︒
え
雨垂れ落ちの所に︑妙な影が一列に並んでいる︒木と
い わ さ また べ
も見えぬ︑草では無論ない︒感じから云うと岩佐又兵衛
のかいた︑鬼の念仏が︑念仏をやめて︑踊りを踊ってい
はじ
る姿である︒本堂の端から端まで︑一列に行儀よく並ん
かね
で 躍 っ て い る ︒ そ の 影 が 又 本 堂 の 端 か ら 端 ま で 一 列に 行
ほうがちょう
いな
儀よく並んで躍っている︒朧夜にそそのかされて︑鉦も
し ゅ もく
撞木も︑奉加帳も打ちすてて︑誘い合せるや否や︑この
近寄って見ると大きな覇王樹である︒高さは七八尺も
サ ボ テ ン
山 寺へ踊 りに 来 た のだろ う ︒
305
へちま
か
きゅうり
しゃもじ
こっけ い
お
き
るまい︒しかも澄ましたものだ︒如何なる是仏と問われ
これぶつ
連続が如何にも突飛である︒こんな滑稽な樹はたんとあ
い
うちに段々大きくなる様には思われない︒杓子と杓子の
杓子が新しい小杓子を生んで︑その小杓子が長い年月の
としつき
からか出て来て︑ぴしゃりと飛び付くに違いない︒古い
そ う だ ︒ あ の 杓 子 が 出 来 る 時に は ︑ 何 で も 不意 に ︑ ど こ
い︒今夜のうちにも廂を突き破って︑屋根瓦の上まで出
あの杓子がいくつ継がったら︑御仕舞になるのか分らな
つな
て︑柄の方を下に︑上へ上へと継ぎ合せた様に見える︒
え
あろう︑糸瓜程な青い黄瓜を︑杓子の様に圧しひしゃげ
306
はくじゅし
はおうじゅ
て︑庭前の柏樹子と答えた僧があるよしだが︑もし同様
いま
あんしょう
の問に接した場合には︑余は一も二もなく︑月下の覇王樹
こた
ちょうほし
と応えるであろう︒
しょうじ
むな
少時︑晁補之と云う人の記行文を読んで︑未だに暗 誦
ひかりだ い
している句がある︒
﹁時に九月天高く露清く︑山空しく︑
み
たけすう
かん
あい ま か つ
せつせつ や
月明かに︑仰いで星斗を視れば皆光 大︑たまたま人の
そう かん
ば い そう
き
び
し ょ う ひん
上にあるが如し︒窓間の竹数十竿︑相摩戞して声切々已
ち く かん
はく
いぬ
まず︒竹間の梅棕森然として鬼魅の離立 笑 髩の状の如
し
し︒二三子相顧み︑魄動いて寐るを得ず︒遅明皆去る﹂
サ ボテン
と又口の内で繰り返して見て︑思わず笑った︒この覇王樹
307
も時と場合によれば︑余の魄を動かして︑見るや否や山
とげ
ほと
ひ
かかえ
ても︑枝と枝の間はほがらかに隙いている︒木蓮は樹下
す
見えぬ︒花があれば猶見えぬ︒木蓮の枝はいくら重なっ
た上が月である︒普通︑枝がああ重なると︑下から空は
あ る ︒ 枝 の 上 も ︑ 亦 枝 で あ る ︒ そ う し て 枝 の 重な り 合 っ
また
さは庫裏の屋根を抜いている︒見上げると頭の上は枝で
の前に大きな木蓮がある︒殆んど一と 抱 もあろう︒高
もくれん
石 甃を行き尽くして左へ折れると庫裏へ出る︒庫裏
いしだたみ
らと指をさす︒
を追い下げたであろう︒刺に手を触れて見ると︑いらい
308
め
いたず
に立つ人の眼を乱す程の細い枝を 徒 らには張らぬ︒花
はる
さえ明かである︒この遥かなる下から見上げても一輪の
むら
花は︑はっきりと一輪に見える︒その一輪がどこまで簇
かか
がって︑どこまで咲いているか分らぬ︒それにも関らず
一輪は遂に一輪で︑一輪と一輪の間から︑薄青い空が判
然と望まれる︒花の色は無論純白ではない︒徒らに白い
もっぱ
のは寒過ぎる︒ 専 らに白いのは︑ことさらに人の眼を
奪う巧みが見える︒木蓮の色はそれではない︒極度の白
たん こ う
きをわざと避けて︑あたたかみのある淡黄に︑奥床しく
も自らを卑下している︒余は石甃の上に立って︑このお
309
み
くうり
木蓮 の花許りな る空 を瞻る
ばか
である︒葉は一枚もない︒
いる︒
﹁ 御免 ﹂
おとず
もと
ほ
と訪問れる︒森として返事がない︒
しん
と見える︒狗は固より吠えぬ︒
いぬ
はびこ
ぬすびと
庫裏に入る︒庫裏は明け放してある︒盗人は居らぬ国
い
と云う句を得た︒どこやらで︑鳩がやさしく鳴き合うて
お
て︑しばらく茫然としていた︒眼に落つるのは花ばかり
となしい花が累々とどこまでも空裏に 蔓 る様を見上げ
310
﹁頼む﹂
こ
と案内を乞う︒鳩の声がくううくううと聞える︒
﹁頼みまああす﹂と大きな声を出す︒
むこう
﹁おおおおおおお﹂と遥かの 向 で答えたものがある︒
と
ついたて
人の家を訪うて︑こんな返事を聞かされた事は決してな
し そく
い ︒ や が て 足 音 が 廊 下 へ 響 く と︑ 紙 燭 の 影 が ︑ 衝 立 の 向
側にさした︒小坊主がひょこりとあらわれる︒了念であ
った︒
おいで
﹁和尚さんは御出かい﹂
お
﹁居られる︒何しに御座った﹂
311
﹁な ぜ﹂
た
えかき
とりつい
ど
ま
高さを見計って︑半紙を四つ切りにした上へ︑何か 認
したた
を 差 し つ け る ︒ 黒い 柱 の 真 中に︑ 土 間 か ら五 尺 ば か り の
まんな か
﹁下駄を︑よう御揃えなさい︒そらここを御覧﹂と紙燭
おそろ
﹁行儀がわるい画工さんじゃな﹂
余は下駄を脱いで上がる︒
げ
﹁よろしかろ﹂
﹁断わらないでもいいのかい﹂
﹁画工さんか︒それじゃ御上り﹂
﹁温泉に居る画 工が来たと︑取次で御呉れ﹂
312
めてある︒
﹁そおら︒読めたろ︒脚下を見よ︑と書いてあるが﹂
﹁成程﹂と余は自分の下駄を丁寧に揃える︒
かぎ
和尚の室は廊下を鍵の手に曲って︑本堂の横手にある︒
うや うや
えかき
障子を 恭 しくあけて︑恭しく敷居越しにつくばった了
念が︑
てい
ちょっと お
か
﹁あのう︑志保田から︑画工さんが来られました﹂と云
はなな
すこぶ
い
ろ
り
う︒ 甚 だ恐縮の体である︒余は一寸可笑しくなった︒
しつ
余は了念と入れ代る︒室は 頗 る狭い︒中に囲炉裏を
﹁さようか︑これへ﹂
313
てつびん
﹁いい月じゃな﹂と障子をあける︒飛び石が二つ︑松一
﹁あまり月がいいから︑ぶらぶら来ました﹂
﹁よう︑来られた︒さぞ退屈だろ﹂
﹁はははははい﹂と了念は遠くで︑長い返事をする︒
﹁座布団を上げんか﹂
ざ ぶ と ん
﹁ははははい﹂
﹁了念︒りょううねええん﹂
る︒
﹁さあこれへ﹂と眼鏡をはずして︑書物を 傍 へおしや
かたわら
切って︑鉄瓶が鳴る︒和尚は向側に書見をしていた︒
314
ひ らに わ
けんがい
本の外には何もない︑平庭の向うは︑すぐ懸崖と見えて︑
たちま
眼の下に朧夜の海が 忽 ちに開ける︒急に気が大きくな
いさり び
つもり
もっ
った様な心持である︒漁火がここ︑かしこに︑ちらつい
い
て︑遥かの末は空に入って︑星に化ける 積 だろう︒
わ たくし
ね
﹁ こ れ は い い 景 色 ︒ 和 尚 さ ん︑ 障 子 を しめ て い る の は 勿
たい
体ないじゃありませんか﹂
﹁そうよ︒しかし毎晩見ているからな﹂
い くばん
えかき
﹁何晩見てもいいですよ︑この景色は︒ 私 なら寐ずに
見ています﹂
もっと
﹁ハハハハ︒ 尤 もあなたは画工だから︑わしとは少し
315
違うて﹂
さあ﹂
ぞくき
おお
はりこの画の様な構わない人であったんだろう︒
つと
めている所が一つもない︒無邪気な画だ︒こ の先 代もや
は 頗 るまずいものだ︒只俗気がない︒拙を蔽おうと力
す こぶ
成程達磨の画が小さい床に掛っている︒然し画として
がかかれたのじゃが︑中々ようかいとる﹂
で︑かくがの︒そら︑ここに掛けてある︑この軸は先代
﹁なる程それもそうじゃろ︒わしも達磨の画位はこれ
だるま
﹁和尚さんだって︑うつくしいと思ってるうちは画工で
316
﹁無邪気な画ですね﹂
﹁わし等のかく画はそれで沢山じゃ︒気象さえあらわれ
ておれば⁝⁝﹂
ほ
﹁上手で俗気があるのより︑いいです﹂
えかき
﹁ははははまあ︑そうでも︑賞めて置いてもらおう︒時
ちかごろ
に近頃は画工にも博士があるかの﹂
﹁画 工の博士はありませんよ﹂
お
﹁ あ︑ そ う か ︒ こ の 間 ︑ 何 で も 博 士 に 一 人 逢 う た ﹂
﹁へええ﹂
﹁博士と云うとえらいものじゃろな﹂
317
﹁ええ︒えらいんでしょう﹂
﹁いやここで︑東京へは︑も二十年も出ん︒近頃は電車
﹁どこで御逢いです︑東京ですか﹂
だが⁝⁝﹂
ゃったて︑この間逢うた人は︱︱どこぞに名刺がある筈
はず
﹁ハハハハまあ︑そんなものかな︒︱︱何とか云う人じ
いでしょう﹂
﹁そういえば︑和尚さんの方にも博士がなけりゃならな
ろう﹂
﹁画工にも博士がありそうなものじゃがな︒なぜ無いだ
318
ごぎゅう
あえ
とか云うものが出来たそうじゃが︑一寸乗って見たい様
な気がする﹂
ほ
﹁つまらんものですよ︒やかましくって﹂
しょく けん
﹁そうかな︒ 蜀 犬日に吠え︑呉牛月に喘ぐと云うか
かえ
ら︑わしの様な田舎者は︑却って困るかも知れんてのう﹂
さ かん
ちゃだんす
﹁困りゃしませんがね︒つまらんですよ﹂
﹁そうかな﹂
けむり
鉄 瓶 の 口 か ら 烟 が 盛 に 出 る ︒和 尚 は 茶 箪笥 か ら 茶 器
つ
を取り出して︑茶を注いでくれる︒
うま
﹁番茶を一つ御上り︒志保田の隠居さんの様な甘い茶じ
319
ゃない﹂
されるのが︑いやですからね﹂
さすが
流石の禅僧も︑この語だけは解しかねたと見える︒
げ
﹁そうですね︒そう云っても善いでしょう︒屁の勘定を
い
﹁はあ︑それじゃ遊び半分かの﹂
でも構わないんです﹂
﹁ええ︒道具だけは持ってあるきますが︑画はかかない
張り画をかく為めかの﹂
た
﹁あなたは︑そうやって︑方々あるく様に見受けるが矢
﹁いえ結構です﹂
320
﹁屁の勘定た何かな﹂
﹁東京に永く居ると屁の勘定をされますよ﹂
﹁どうして﹂
﹁ハハハハハ勘定だけならいいですが︒人の屁を分析し
しり
て︑臀の穴が三角だの︑四角だのって余計な事をやりま
すよ﹂
ほう
﹁はあ︑ 矢張り衛生の方かな﹂
成 程 ︑ そ れ じ ゃ 警 察 じ ゃ の ︒ 一体 警 察 の ︑ 巡
﹁衛生じゃありません︒探偵の方です﹂
﹁探偵?
査のて︑何の役に立つかの︒なけりゃならんかいの﹂
321
えかき
ぞうふ
い
たま
は
やっ かい
日本橋の真中に臓腑をさらけ出して︑耻ずかしくない様
にほんばし
﹁わしが小坊主のとき︑先代がよう云われた︒人間は
﹁屁 位 で︑どうかされちゃ堪りません﹂
ぐ らい
ぼ警察じゃて︑どうもな るまいがな ﹂
な︒澄ましていたら︒自分にわるい事がなけりゃ︑なん
﹁しかし︑いくら警察が屁の勘定をしたてて︑構わんが
﹁そうでしょう﹂
事がない﹂
﹁わしにも入らんがな︒わしはまだ巡査の厄介になった
﹁そうですね︑画工には入りませんね﹂
322
に し な け れ ば 修 業 を 積 ん だ と は 云 わ れ ん てな ︒ あな た も
それまで修業をしたらよかろ︒旅などはせんでも済む様
になる﹂
﹁画 工になり澄ませば︑いつでもそうなれます﹂
﹁それじゃ画工になり澄したらよかろ﹂
﹁屁の勘 定をされちゃ︑なり切れませんよ﹂
﹁ハハハハ︒それ御覧︒あの︑あなたの泊っておる︑志
い
保田の御那美さんも︑嫁に入って帰ってきてから︑どう
も色々な事が気になってならん︑ならんと云うて仕舞に
とうとう︑わしの所へ法を問いに来たじゃて︒ところが
323
近頃は大分出来てきて︑そら︑御覧︒あの様な訳のわか
いさりび
かな る︑ 耀 き を 放 つ ︒ 漁 火 は 明 滅 す ︒
かがや
や
む
や
かす
に応うるが如く︑応えざるが如く︑有耶無耶のうちに微
う
静かな庭に︑松の影が落ちる︒遠くの海は︑空の光り
い智識になるようじゃ﹂
ちしき
から大事を窮明せんならん因縁に逢 着 して︱︱今によ
ほう ち ゃ く
いた泰安と云う若 僧も︑あの女の為めに︑ふとした事
に ゃ く そう
﹁いや中々機鋒の鋭どい女で︱︱わしの所へ修業に来て
きほう
﹁へええ︑どうも只の女じゃないと思いました﹂
った女になったじゃて﹂
324
﹁ あ の 松 の 影 を 御覧 ﹂
﹁奇麗ですな﹂
﹁ 只奇麗 かな ﹂
﹁ええ﹂
いとぞこ
﹁奇麗な上に︑風が吹いても苦にしない﹂
ちゃわん
ちゃたく
茶碗に余った渋茶を飲み干して︑糸底を上に︑茶托へ
伏せて︑立ち上 る︒
﹁門まで送ってあげよう︒りょううねええん︒御客が
お かえ り
送られて︑庫裏を出ると︑鳩がくううくううと鳴く︒
御帰だぞよ﹂
325
かあい
飛 ん で く る ︒呼 ん で 見 よ か ﹂
いよいよ
ささ
う
けつ り ょ う
ふ う ちゅう
しゅんや
まなか
うんげ
山 門 の 所で ︑ 余 は 二 人 に 別 れ る ︒ 見 返 え る と︑ 大 きな
でも見えると思うているらしい︒気楽なものだ︒
了念は余の顔を見て︑一寸笑った︒和尚は鳩の眼が夜
﹁下りんかいな︒下りそうなものじゃが﹂
ぬ︒
はたと 掌 を拍つ︒声は風 中に死して一羽の鳩も下り
たな ご こ ろ
を空裏に擎げている︒泬 寥 たる春夜の真中に︑和尚は
くうり
月は 愈 明るい︒しんしんとして︑木蓮は幾朶の雲華
いくだ
﹁鳩程可愛いものはない︑わしが︑手をたたくと︑みな
326
いし だ た み
丸い影と︑小さな丸い影が︑石 甃 の上に落ちて︑前後
十二
して庫裏の方に消えて行く︒
キリスト
基督は最高度に芸術家の態度を具足 したるものなりと
ごと
まさ
は︑オスカー︑ワイルドの説と記憶している︒基督は知
お しょう
らず︑観海寺の和尚の如きは︑正しくこの資格を有して
ほと
くだ
いると思う︒趣味があると云う意味ではない︒時勢に通
え
じてい ると云う訳 でもない︒彼は画 と云う名 の殆んど下
327
だるま
ふく
なん
さ
じんし
こ う し そう に ょ う
ごと
かか
ちんでん
はと
へ
の数を勘定 される間は︑到底画家にはなれない︒画架に
る芸術家として存在し得るだろう︒余の如きは︑探偵に屁
よ
ば︑彼は之く所に同化して︑行屎走尿の際にも︑完全た
ゆ
色がない︒もし彼の脳裏に一点の趣味を 貼 し得たなら
ちょう
去り︑任意に作し去って︑些の塵滓の腹部に沈澱する景
な
に行き抜けである︒何にも停滞しておらん︒随処に動き
ゆ
芸術家の資格があると云う︒彼の心は底のない 嚢 の様
ふくろ
の眼を夜でも利くものと思っている︒それにも関わらず︑
き
である︒彼は画工に博士があるものと心得ている︒彼は鳩
がこう
すべからざる達磨の幅を掛けて︑よう出来たなどと得意
328
こ て い た
しか
えかき
向う事は出来る︒小手板を握る事は出来る︒然し画工に
うず
はなれない︒こうやって︑名も知らぬ山里へ来て︑暮れ
そう く
わがみ
んとする春色のなかに五尺の痩躯を埋めつくして︑始め
い
て︑真の芸術家たるべき態度に吾身を置き得るのである︒
き ょ う がい
すんけ ん
一たびこの 境 界に入れば美の天下はわが有に帰する︒
せきそ
おい
尺素を染めず︑寸縑を塗らざるも︑われは第一流の大画
ぎ
工である︒技に於て︑ミケルアンゼロに及ばず︑巧みな
ぶ
ひとし
ごう
ゆず
る事ラフハエルに譲る事ありとも︑芸術家たるの人格に
ほ
ま
於て︑古今の大家と歩武を 斉 ゅうして︑毫も遜る所を
みいだ
見出し得ない︒余はこの温泉場へ来てから︑未だ一枚の
329
さいしき
かつ
よ のな か
もっと
あお
余は常に空気と︑物 象 と︑彩色の関係を宇宙で 尤 も
ぶっ し ょ う
い樹が非常にすき通って︑例になく鮮やかに見えた︒
き
く 上 っ て い る ︒ 障 子 を あ け て ︑ 後 ろ の山 を 眺め た ら ︑ 蒼
のぼ
きの余の観想は以上の如くである︒日は 霞 を離れて高
かすみ
朝 飯 を す ま し て︑ 一 本 の 敷 島 を ゆ た か に 吹 か し た る と
あさめ し
然し名画をかき得る人は必ずこの境を知らねばならん︒
る︒こう云う 境 を得たものが︑名画をかくとは限らん︒
きょう
嗤われても︑今の余は真の画家である︒立派な画家であ
えある︒人はあれでも画家かと嗤うかもしれぬ︒いくら
わら
画もかかない︒絵の具箱は酔興に︑担いできたかの感さ
330
興味ある研究の一と考えている︒色を主にして空気を出
すか︑物を主にして︑空気をかくか︒又は空気を主にし
てそのうちに色と物とを織り出すか︒画は少しの気合一
しこう
つで色々な調子が出る︒この調子は画家自身の嗜好で異
おの
なってくる︒それは無論であるが︑時と場所とで︑自ず
また とうぜん
か ら 制 限 さ れ る の も 亦 当 前 で あ る ︒ 英 国 人 の か い た山 水
き らい
に明るいものは一つもない︒明るい画が 嫌 なのかも知
れぬが︑よし好きであっても︑あの空気では︑どうする
事も出来ない︒同じ英人でもグーダルなどは色の調子が
はず
まるで違う︒違う筈である︒彼は英人でありながら︑か
331
けいしょく
エジプ ト
ペルシ ャへん
わ れわ れ
えら
云って︑その色をそのままに写して︑これが日本の景 色
けいしょ く
色を出さなければならん︒いくら仏蘭西の絵がうまいと
フ ラ ン ス
描くのが主意であるならば︑吾々も亦日本固有の空気と
えが
個 人 の 嗜好 は ど う す る 事 も 出来 ん ︒ 然 し日 本 の山 水 を
判 然出来 上 っ てい る ︒
はっき り
英人にもこんな明かな色を出すものがあるかと疑う位
る︒従って彼のかいた画を︑始めて見ると誰も驚ろく︒
だれ
常に勝っている︑埃及又は波斯辺の光景のみを択んでい
まさ
土 に は な い ︒ 彼 の 本 国に 比 す る と︑空 気 の 透明 の 度 の 非
つて英国の景 色をかいた事がない︒彼の画題は彼の郷
332
ま
だとは云われない︒矢張り面のあたり自然に接して︑朝
えん たい
な 夕 な に 雲 容 烟 態 を 研 究 し た 揚 句︑ あ の 色 こ そ と 思 っ た
さんきゃくき
とき︑すぐ三脚几を担いで飛び出さなければならん︒色
せつな
は刹那に移る︒一たび機を失すれば︑同じ色は容易に眼
は
み
に は 落 ち ぬ ︒ 余 が 今 見上 げ た山 の 端 に は ︑ 滅 多 に こ の 辺
い
ちょっと
も
で見る事の出来ない程な好い色が充ちている︒折角来て︑
えんがわ
あれを逃すのは惜しいものだ︒一寸写してきよう︒
ふ すま
み
あご
えり
うず
襖 をあけて︑椽側へ出ると︑向う二階の障子に身を倚
な
たして︑那美さんが立っている︒顋を襟のなかへ埋めて︑
あいさつ
横顔だけしか見えぬ︒余が挨拶を仕様と思う途端に︑女
333
は︑左の手を落としたまま︑右の手を風の如く動かした︒
ひらめ
宿を出る︒
と こ ろど こ ろ
こ
ぶ
き
ざ
たちま
のぞ
つまあが
おか
二つ程並んで︑此所にもあるは蜜柑のみと思われる︒何
こ
落ちて︑蜜柑が一面に植えてある︒右には高からぬ岡が
みかん
にな る︒ 鶯 が 所 々 で鳴く︒左り手がなだらかな谷へ
うぐいす
門を出て︑左へ切れると︑すぐ岨道つづきの︑爪上り
そば みち
の影に隠れた︒余は朝っぱらから歌舞伎座を覗いた気で
か
女の左り手には九寸五分の白鞘がある︒姿は 忽 ち障子
しらさや
走るや否や︑かちりと音がして︑閃めきはすぐ消えた︒
いな
閃 くは稲妻か︑二折れ三折れ胸のあたりを︑するりと
334
ころ
な
年前か一度この地に来た︒指を折るのも面倒だ︒何でも
しわす
寒 い 師 走 の 頃 で あ っ た ︒ そ の 時 蜜 柑山 に 蜜 柑 が べ た 生 り
い
に 生 る 景 色 を 始 め て 見 た ︒ 蜜 柑 取 り に 一 枝売 っ て く れ と
いくつ
うた
云ったら︑幾顆でも上げましょ︑持って入らっしゃいと
ふし
答えて︑樹の上で妙な節の唄をうたい出した︒東京では
やくしゅ
蜜柑の皮でさえ薬種屋へ買いに行かねばならぬのにと思
つつ
っ た ︒ 夜に な る と ︑ し き り に 銃 の 音 が す る ︒ 何だ と 聞 い
かも
たら︑猟師が鴨をとるんだと教えてくれた︒その時は那
あの女を役者にしたら︑立派な女 形が出来る︒普通
おんながた
美さんの︑なの字も知らずに済んだ︒
335
の役者は︑舞台へ出ると︑よそ行きの芸をする︒あの女
え
実世界に在って︑余とあの女の間に纏綿した一種の関係
てんめん
女を研究したら︑刺激が強過ぎて︑すぐいやになる︒現
具立を背景にして︑普通の小説家の様な観察点からあの
一日も居たたまれん︒義理とか人情とか云う︑尋常の道
あの女の所作を芝居と見なければ︑薄気味がわるくて
しょさ
の修業が大分出来た︒
な の を 美 的 生 活 と で も 云 う の だ ろ う ︒ あ の 女 の 御蔭 で画
おかげ
いるとは気がつかん︒自然天然に芝居をしている︒あん
は家のなかで︑常住芝居をしている︒しかも芝居をして
336
ごんご
が成り立ったとするならば︑余の苦痛は恐らく言語に絶
い
するだろう︒余のこの度の旅行は俗情を離れて︑あくま
がこう
もし
で画工になり切るのが主意であるから︑眼に入るものは
ことごと
悉 く画として見なければならん︒能︑芝居︑若くは詩
中の人物としてのみ観察しなければならん︒この覚悟の
眼鏡から︑あの女を覗いて見ると︑あの女は︑今まで見
もっと
た女のうちで 尤 もうつくしい所作をする︒自分でうつ
くしい芸をして見せると云う気がないだけに役者の所作
なお
こんな 考 をもつ余を︑誤解してはならん︒社会の公
かんが え
よりも猶うつくしい︒
337
民として不適当だなどと評しては尤も不届きである︒善
がた
こも
ら
あえ
満足せしめたくなる︒肉体の苦しみを度外に置いて︑物
な る ︑ 凡 て の 困 苦 に 打 ち 勝 っ て︑ 胸 中 一 点 の 無 上 趣 味 を
すべ
解し得て︑始めて吾人の所作は壮烈にもなる︑閑雅にも
ごじん
こ の 悲 酸 の う ち に 籠 る 快 感 の 別 号に 過ぎ ん ︒ こ の 趣 き を
ひさん
らん︒画と云うも︑詩と云うも︑あるは芝居と云うも︑
苦痛に打ち勝つだけの愉快がどこかに潜んでおらねばな
は何人に取っても苦痛である︒その苦痛を冒す為めには︑
なんびと
義の為めに命を捨てるのは惜しい︒これ等を敢てするの
た
は行い難い︑徳は施こしにくい︑節操は守り安からぬ︑
338
に
おもしろ
質上の不便を物とも思わず︑勇猛精進の心を駆って︑人
てい かく
道の為めに︑鼎鑊に烹らるるを面白く思う︒若し人情な
る狭き立脚地に立って︑芸術の定義を下し得るとすれば︑
ちょ く
たす
くじ
芸術は︑われ等教育ある士人の胸裏に潜んで︑邪を避け
しりぞ
さん
正に就き︑曲を 斥 け 直 にくみし︑弱を扶け強を挫かね
た
ば ︑ ど う し て も 堪 え ら れ ぬ と 云 う 一 念 の 結晶 し て ︑ 燦 と
はくじつ
して白日を射返すものである︒
ぎ
芝居気があると人の行為を笑う事がある︒うつくしき
趣味を貫かんが為めに︑不必要なる犠牲を敢てするの人
わら
情に遠きを嗤うのである︒自然にうつくしき性格を発揮
339
す げろう
いや
のこ
か
み
いや
てら
ひばく
ただ
ふじむら
その物の壮烈をだに体し得ざるものが︑如何にして藤村
い
そ の 死 を 促 が す の 動 機 に 至 っ て は 解 し 難い ︒ さ れ ど も 死
かい
捨てたるものと思う︒死その物は 洵 に壮烈である︑只
ま こと
は︑彼の青年は美の一字の為めに︑捨つべからざる命を
か
を直下して急 湍に赴いた青年がある︒余の視る所にて
きゅうたん
至っては許し難い︒昔し巌頭の吟を遺して︑五十丈の飛瀑
がん とう
ぬ下司下郎の︑わが卑しき心根に比較して他を賤しむに
げ
のの嗤うはその意を得ている︒趣味の何物たるをも心得
うの愚を笑うのである︒真に個中の消息を解し得たるも
するの機会を待たずして︑無理矢理に自己の趣味観を衒
340
し
う
ゆえ
子の所作を嗤い得べき︒彼等は壮烈の最後を遂ぐるの情
あじわ
趣を 味 い得ざるが故に︑たとい正当の事情のもとにも︑
おい
到 底 壮 烈 の 最 後 を 遂 げ 得 べ か ら ざ る制 限 あ る 点に 於 て ︑
藤村子よりは人格として劣等であるから︑嗤う権利がな
い も の と余 は 主 張 す る ︒
がこう
余 は 画 工 で あ る︒画 工 で あれば こ そ 趣味 専 門 の 男 と し
て︑たとい人情世界に堕在するも︑東西両隣りの没風流
漢よりも高尚である︒社会の一員として優に他を教育す
べき地位に立っている︒詩なきもの︑画なきもの︑芸術
のたしなみなきものよりは︑美くしき所作が出来る︒人
341
情世界にあって︑美くしき所作は正である︑義である︑
ちょ く
いわ
だ
るい さく
絶って︑優に画布裏に往来している︒况んや山をや水を
り
なる専門画家として︑己れさえ︑纏綿たる利害の累索を
てんめ ん
らぬ︒余自らも社会の一員を以て任じてはおらぬ︒純粋
もっ
底にあまる︑うつくしい金のみを眺めて暮さなければな
なが
なる︒人情世界から︑じゃりじゃりする砂をふるって︑
に人情界に帰る必要はない︒あっては折角の旅が無駄に
む
しばらく人情界を離れたる余は︑少なくともこの旅中
下の公民の模範である︒
直 である︒正と義と直を行為の上に於て示すものは天
342
いえ
や他人をや︒那美さんの行為動作と雖ども只そのままの
ひと かま え
姿と見るより外に致し方がない︒
のぼ
三丁程上ると︑向うに白壁の一 構 が見える︒蜜柑の
すまい
なかの住 居だな と思う︒道は間もなく二筋に切れる︒白
壁を横に見て左りへ折れる時︑振り返ったら︑下から赤
あが
い腰巻をした娘が上ってくる︒腰巻が次第に尽きて︑下
はぎ
から茶色の脛が出る︒脛が出切ったら︑藁草履になって︑
わら ぞ う り
しょっ
その藁草履が段々動いて来る︒頭の上に山 桜が落ちかか
せなか
たい ら
岨道を登り切ると︑山の出鼻の 平 な所へ出た︒北側
そば みち
る︒脊中には光る海を 負 ている︒
343
みど
むこう
あって面白い︒
みね
えん
い
たりして︑どの筋につながるか見分のつかぬ所に変化が
みわけ
れ も 路 で な い ︒ 草 の な か に ︑ 黒 赤 い 地 が︑ 見 え たり 隠れ
どれが本筋とも認められぬ︒どれも路である代りに︑ど
路は幾筋もあるが︑合うては別れ︑別れては合うから︑
みち
た青海である︒
あお う み
村を跨いで 向 を見れば︑眼に入るものは言わずも知れ
また
って︑末は崩れた崖となる︒崖の下は今過ぎた蜜柑山で︑
がけ
れない︒南側には焼野とも云うべき地勢が幅半丁程広が
やけの
は翠りを畳む春の峯で︑今朝椽から仰いだあたりかも知
344
す
おちこち
はい かい
どこへ腰を据えたものかと︑草のなかを遠近と徘徊す
くさはら
る︒椽から見たときは画になると思った景色も︑いざと
まと
つ
か
なると存外纏まらない︒色も次第に変ってくる︒草原を
い
すまい
のそつくうちに︑何時しか描く気がなくなった︒描かぬ
すわ
とすれば︑地位は構わん︑どこへでも坐った所がわが住居
し
い
かげろう
つぶ
である︒染み込んだ春の日が︑深く草の根に籠って︑ど
しり
ひとひ ら
っかと尻を卸すと︑眼に入らぬ陽炎を踏み潰した様な心
持ちがする︒
さえ
海は足の下に光る︒遮ぎる雲の一片さえ持たぬ春の日
あま
影は︑普ねく水の上を照らして︑何時の間にかほとぼり
345
る︒
け
し
こん じ ょ う
こま
こ
ま ぶね
あ
み
だ
あめ
ごろりと寐る︒帽子が額をすべって︑やけに阿弥陀と
ね
界を極めて︑照らす日の世︑照らさるる海の世のみであ
るときには︑あんなに見えたであろう︒その外は大千世
全く動かない︒往昔入 貢の高麗船が遠くから渡ってく
そのかみ にゅうこう
白 き 帆 が 小 指 の 爪 程 に 見 え る の み で あ る ︒ 然も そ の 帆 は
つめ
が下を照らして︑天が下は限りなき水を湛えたる間には︑
たた
細鱗を畳んで濃やかに動いている︒春の日は限り無き天
さいりん
は一刷毛の紺 青 を平らに流したる所々に︑しろかねの
ひと は
は波の底まで浸み渡ったと思わるる程暖かに見える︒色
346
ぬ
ぼ
け
なる︒所々の草を一二尺抽いて︑木瓜の小株が茂ってい
る︒余が顔は丁度その一つの前に落ちた︒木瓜は面白い
がんこ
花である︒枝は頑固で︑かつて曲った事がない︒そんな
まっすぐ
ら真直かと云うと︑決して真直でもない︒只真直な短か
しゃ
い枝に︑真直な短かい枝が︑ある角度で衝突して︑斜に
べに
構えつつ全体が出来上っている︒そこへ︑紅だか白だか
要領を得ぬ花が安閑と咲く︒柔かい葉さえちらちら着け
る︒評して見ると木瓜は花のうちで︑愚かにして悟った
ものであろう︒世間には拙を守ると云う人がある︒この
きっと
人が来世に生れ変ると屹度木瓜になる︒余も木瓜になり
347
たい ︒
こども
ひっか
小 供 の う ち 花 の 咲 い た︑ 葉 の つい た 木瓜 を 切 っ て ︑ 面
えだぶ り
の 時 は 不審 の 念 に 堪 え な か っ た ︒ 今 思 う とそ の 時分 の方
が︑どうして︑こう一晩のうちに︑枯れるだろうと︑そ
白い穂だけが元の如く光っている︒あんなに奇麗なもの
起 き て ︑ 机 の 前 へ 行 っ て 見 る と︑ 花 は萎 え 葉 は 枯れ て︑
な
かり気にして寐た︒あくる日︑眼が覚めるや否や︑飛び
隠見するのを机へ載せて楽んだ︒その日は木瓜の筆架ば
二銭五厘の水筆を立てかけて︑白い穂が花と葉の間から︑
すいひつ
白く枝振を作って︑筆架をこしらえた事がある︒それへ
348
が余程出世間的である︒
寐るや否や眼についた木瓜は二十年来の旧知己であ
ちょ う
しる
ゆ
る︒見詰めていると次第に気が遠くなって︑いい心持ち
にな る︒又詩興が浮ぶ︒
え
寐ながら考える︒一句を得る毎に写生 帖 に記して行
しゅんぷうわ がころもをふく
く︒しばらくして出来上った様だ︒始めから読み直して
ほう そうしゃてつにしょう じ
は い ど う か す み に い り て か す かな り
廃 道 入 霞 微︒
ばんしょうせいきをおふ
停 笻 而 矚 目︒万 象 帯 晴 暉︒
つえをとどめてしょ くもくすれ ば
芳 草 生 車 轍︒
出 門 多 所 思︒春 風 吹 吾 衣︒
も ん をい で て お も う と こ ろお お し
見る︒
349
こうちょう のえんてん たるをきき
ら く え い の ふ ん びん た る を み る
聴 黄 鳥 宛 転︒観 落 英 紛 霏︒
しをだいすこじのとびら
題 詩 古 寺 扉︒
ゆき つくしてへ いぶとお く
行 尽 平 蕪 遠︒
ひょうびょ うとしてぜひをわす る
たいく うだんこう かえる
大 空 断 鴻 帰︒
こしゅ ううんさい にたかく
孤 愁 高 雲 際︒
すんしんな んぞようちょうたる
し ょ う こ うな お い い た り
寸 心 何 窈 窕︒ 縹 緲 忘 是 非︒
さん じゅうに してわれお いんとし
ゆ う ぜ ん と し て ふ ん びに た い す
三 十 我 欲 老︒韶 光 猶 依 々︒
しょう ようしてぶ っかにしたがい
逍 遥 随 物 化︒悠 然 対 芬 菲︒
ああ出来た︑出来た︒これで出来た︒寐ながら木瓜を
構 で あ る︑ と 唸 り な が ら ︑ 喜 ん でい る と ︑ エ ヘ ン と 云 う
うな
くっても︑海が出なくっても︑感じさえ出ればそれで結
観て︑世の中を忘れている感じがよく出た︒木瓜が出な
350
せきば らい
人間 の咳 払 が聞えた︒こいつは驚いた︒
へり
寐返りをして︑声の響いた方を見ると︑山の出鼻を回
って︑雑木の間から︑一人の男があらわれた︒
かぶ
たし
茶の中折れを被っている︒中折れの形は崩れて︑傾く縁
かっ こう
あい
しまも の
はしょ
の下から眼が見える︒眼の恰好はわからんが︑慥かにき
た
い
た
ょろきょろときょろつく様だ︒藍の縞物の尻を端折って︑
げ
素足に下駄がけの出で立ちは︑何だか鑑定がつかない︒
ひげ
野生の髯だけで判断すると正に野武士の価値はある︒
男は岨道を下りるかと思いの外︑曲り角から又引き返
した︒もと来た路へ姿をかくすかと思うと︑そうでもな
351
い︒又あるき直してくる︒この草原を︑散歩する人の外
ま
おお い
わがめ
左りから右と︑男に添うて︑眼を働かせているうちに︑
も出ない︒只眼をはなす事が出来なかった︒右から左︑
なかった︒別に恐しいでもない︑又画にしようと云う気
余 は こ の 物 騒 な 男 か ら ︑ つ い に 吾 眼 を はな す 事 が 出来
ぶ っ そう
人を待ち合せる風にも取られる︒何だかわからない︒
る︒又は四方を見廻わす︒ 大 に考え込む様にもある︒
み
でいるとも考えられない︒男は時々立ち留る︒首を傾け
れが散歩の姿であろうか︒又あんな男がこの近辺に住ん
に ︑ こ ん な に 行 き つ 戻り つ す る も の は な い 筈 だ ︒ 然し あ
352
男ははたと留った︒留ると共に︑又ひとりの人物が︑余
が視界に点出された︒
まんな か
二人は双方で互に 認識した様に︑次第に双方から近付
だんだん
いて来る︒余が視界は漸々縮まって︑原の真中で一点の
あい だ
相手は女であ
狭き 間 に畳まれてしまう︒二人は春の山を脊に︑春の
海を前に︑ぴたりと向き合った︒
男は無論例の野武士である︒相手は?
る︒那美さんである︒
余 は 那 美 さ ん の 姿 を 見 た 時︑ す ぐ 今 朝 の 短 刀 を 連 想 し
の
た︒もしや懐に呑んでおりはせぬかと思ったら︑さすが
353
非人情の余もただ︑ひやりとした︒
男 女 は 向 き 合 う た ま ま ︑ し ば ら く は ︑ 同 じ態 度 で 立 っ
めぐ
な
さま
さっ
たい
るのは懐剣らしい︒男は昂然として︑行きかかる︒女は
こうぜん
を開いて︑海の方へ向き直る︒帯の間から頭を出してい
半ば 踵 を回らしかける︒尋常の様ではない︒女は颯と体
く びす
える︒しばらくすると︑男が屹と︑垂れた首を挙げて︑
きっ
山では 鶯 が啼く︒女は鶯に耳を借して︑いるとも見
うぐい す
は山の方を向く︒顔は余の眼に入らぬ︒
い
んが︑言葉はまるで聞えぬ︒男はやがて首を垂れた︒女
ている︒動く景色は見えぬ︒口は動かしているかも知れ
354
ふたあし
二歩ばかり︑男の踵を縫うて進む︒女は草履ばきである︒
て
男の留ったのは︑呼び留められたのか︒振り向く瞬間に
め
女の右手は帯の間へ落ちた︒あぶない!
するりと抜け出たのは︑九寸五分かと思いの外︑財布
ひも
の様な包み物である︒差し出した白い手の下から︑長い紐
しゅん ぷう
がふらふらと 春 風に揺れる︒
つつみ
え
片 足 を 前 に ︑ 腰 か ら 上 を 少 し そ ら し て ︑ 差 し 出 し た︑
てくび
白い手頸に︑紫の 包 ︒これだけの姿勢で充分画にはな
ちょっと
紫で一寸切れた図面が︑二三寸の間隔をとって︑振り
ろう︒
355
たい
えり
な でが た
あんばい
きゃしゃすがた
た細 面 に︑襟の長い︑撫肩の︑華 奢 姿︒ぶっきら棒に
ほそ お も て
脊のずんぐりした︑色黒の︑髯づらと︑くっきり締っ
から︑画として見ると一層の興味が深い︒
時 に ︑ 両 者 の 顔 と ︑ 衣 服 に は 飽 ま で ︑ 対 照 が 認め ら れ る
あく
二人の姿勢がかくの如く美妙な調和を保っていると同
びみょ う
縁は紫の財布の尽くる所で︑ふつりと切れている︒
しかもそれが実際に引いてもひかれてもおらん︒両者の
う︒女は前を引く態度で︑男は後えに引かれた様子だ︒
しり
る︒不即不離とはこの刹那の有様を形容すべき言葉と思
せつな
返る男の体のこなし具合で︑うまい按排につながれてい
356
めいせん
そ
み
身をひねった下駄がけの野武士と︑ 不断着の銘仙さえし
あいじま
しりき
で
た
なやかに着こなした上︑腰から上を︑おとなしく反り身
やさすがた
くしめ
びん
くろじゅす
に控えたる痩 形︒はげた茶の帽子に︑藍縞の尻切り出立
かげろう
ちと︑陽炎さえ燃やすべき櫛目の通った鬢の色に︑黒繻子
おびあげ
のひかる奥から︑ちらりと見せた帯上の︑なまめかしさ︑
すべ
凡てが好画題である︒
男は手を出して財布を受け取る︒引きつ引かれつ巧み
に平均を保ちつつあった二人の位置は忽ち崩れる︒女は
も う 引 か ぬ ︑ 男 は 引 か り ょ う と も せ ぬ ︒ 心 的 状態 が 絵 を
構成する上に︑かほどの影響を与えようとは︑画家なが
357
ら︑今まで気がつかなかった︒
二人は左右へ分かれる︒双方に気合がないから︑もう
め
てくる︒やがて余の真正面まで来て︑
﹁先生︑先生﹂
け
﹁何をそんな所でして入らっしゃる﹂
い
と余は木瓜の上へ顔を出す︒帽子は草原へ落ちた︒
ぼ
﹁何です﹂
あるい
と二声掛けた︒これはしたり︑何時目付かったろう︒
つ
振り返った︒女は後をも見ぬ︒すらすらと︑こちらへ歩行
あと
画としては︑支離滅裂である︒雑木林の入口で男は一度
358
﹁詩を作って寐ていました﹂
おっ
今の︑あれですか︒ええ︒少々拝見しまし
﹁ う そ を 仰 し ゃ い ︒ 今 の を 御覧 で し ょ う ﹂
﹁今の?
た﹂
﹁ホホホホ少々でなくても︑沢山御覧なさればいいの
に﹂
﹁実の所は沢山拝見しました﹂
﹁それ御覧なさい︒まあ一寸︑こっちへ出て入らっしゃ
い
余は唯々として木瓜の中から出て行く︒
い
い︒木瓜の中から出ていらっしゃい﹂
359
﹁まだ木瓜の中に御用があるんですか﹂
﹁ええ﹂
ありませんか﹂
かぶ
﹁ここへ入らしって︑まだ一枚も御描きなさらないじゃ
﹁やめました﹂
﹁画を御描きになったの﹂
り︑絵の道具を纏めて︑那美さんと一所にあるき出す︒
余は再び唯々として︑木瓜の中に 退 いて︑帽子を被
しりぞ
﹁それじゃ御一所に参りましょうか﹂
ごいっしょ
﹁もう無いんです︒帰ろうかとも思うんです﹂
360
﹁ええ﹂
ちっ
﹁でも折角画をかきに入らしって︑些とも御かきなさら
なくっちゃ︑詰りませんわね﹂
﹁なに詰ってるんです﹂
ぜ
﹁おやそう︒なぜ?﹂
な
﹁何故でも︑ちゃんと詰まるんです︒画なんぞ描いたっ
おんな
のんき
て︑描かなくったって︑ 詰る所は 同 じ事でさあ﹂
しゃれ
﹁そりゃ洒落なの︑ホホホホ随分呑気ですねえ﹂
い
﹁こんな所へくるからには︑呑気にでもしなくっちゃ︑
か
来 た 甲斐 が な い じ ゃ あ り ま せ ん か ﹂
361
ど
こ
御金を貰いに来 たのです﹂
もら
あの男は︑貧乏して︑日本に居られないからって︑私に
にっ ぽん
﹁ホホホ善く中りました︒あなたは占いの名人ですよ︒
あた
﹁そうさな︒どうもあまり︑金持ちじゃありませんね﹂
す﹂
﹁ そ う で す か ね ︒ あ な た は 今 の 男 を 一 体 何 だ と 御思 い で
﹁思わんでもいいでしょう﹂
見られても耻かしくも何とも思いません﹂
はず
る甲斐はありませんよ︒私なんぞは︑今の様な所を人に
﹁なあに何処に居ても︑呑気にしなくっちゃ︑生きてい
362
﹁へえ︑どこから来 たのです﹂
﹁城下から来ました﹂
ど
こ
ゆ
﹁ 随 分 遠 方 か ら 来 た も ん で す ね ︒ そ れ で︑ 何 所へ 行 く ん
ですか﹂
まんしゅう
﹁何でも満 洲 へ行くそうです﹂
ゆ
﹁何しに行くんですか﹂
い
﹁何しに行くんですか︒御金を拾いに行くんだか︑死に
に行くんだか︑分りません﹂
この時余は眼をあげて︑ちょと女の顔を見た︒今結ん
わ らい
だ口元には︑微かなる 笑 の影が消えかかりつつある︒
363
げ
おお
いとま
﹁な る程︑それ で⁝⁝﹂
く
こ
さら
ひと た
﹁今の亭主じゃありません︑離縁された亭主です﹂
﹁ええ︑少々驚ろいた﹂
﹁どうです︑驚ろいたでしょう﹂と女が云う︒
考 え ていな か っ た ︒
ち
聞く気はなし︑女も︑よもや︑此所まで曝け出そうとは
こ
びせかけた︒余は全く不意撃を喰った︒無論そんな事を
ふ い う ち
迅雷耳を掩うに 遑 あらず︑女は突然として一太刀浴
じ ん らい
﹁あれは︑わたくしの亭主です﹂
意味は解せぬ︒
364
﹁それぎりです﹂
みかんやま
うち
﹁ そ う で す か ︒ ︱ ︱ あ の 蜜 柑山 に 立 派 な 白 壁 の 家 が あ り
うち
ゆ
ますね︒ありゃ︑いい地位にあるが︑誰の家なんですか﹂
いえ
﹁あれが兄の家です︒帰り路に一寸寄って︑行きましょ
う﹂
﹁用でもあるんですか﹂
﹁ええ一寸頼まれものがあります﹂
﹁一所に行きましょう﹂
そば みち
岨道の登り口へ出て︑村へ下りずに︑すぐ︑右に折れ
て︑又一丁程を登ると︑門がある︒門から玄関へかから
365
まわ
﹁いい景色だ︒御覧なさい﹂
なるほど
﹁成程︑いいですな﹂
ばたけ
仕 舞 に は 話 も な い か ら ︑ 両 方 共 無 言 の ま ま で 蜜 柑畠 を
しまい
余 は 不思 議 に 思 っ た ︒ 元 来 何 の 用 が あ る の か し ら ︒
色もない︒只腰をかけて︑蜜柑畠を見下して平気でいる︒
みおろ
障子のうちは︑静かに人の気合もせぬ︒女は音なう景
けはい
女はすぐ︑椽鼻へ腰をかけて︑云う︒
えんばな
本 あって︑土塀の下はすぐ蜜柑 畠 である︒
どべい
余も無遠慮につかつか行く︒南向きの庭に︑棕梠が三四
しゅろ
ずに︑すぐ庭口へ廻る︒女が無遠慮につかつか行くから︑
366
ご
せま
見下している︒午に逼る太陽は︑まともに暖かい光線を︑
な
や
山 一 面 に あ び せ て ︑ 眼に 余 る蜜 柑の葉 は︑ 葉裏 ま で︑ 蒸
かが
し返されて耀やいている︒やがて︑裏の納屋の方で︑鶏
が大きな声を出して︑こけこっこううと鳴く︒
おひる
﹁おやもう︒御午ですね︒用事を忘れていた︒︱︱久一
さん︑久一さん﹂
とこ
女 は 及 び 腰 に な っ て ︑ 立 て 切 っ た 障 子 を ︑ か ら り と開
かのう
ける︒内は空しき十畳敷に︑狩野派の双幅が空しく春の床
を飾っている︒
﹁久 一さん﹂
367
ようや
あ
しろさや
ふすま
むこう
納屋の方で 漸 く返事がする︒足音が 襖 の 向 でとま
じ
転がり出す︒
お
い
ぴ か り と︑ 寒 い も の が 一 寸 ば か り 光 っ た ︒
すん
を︑久一さんの足下へ走る︒作りがゆる過ぎたと見えて︑
あしもと
った︒短刀は二三度とんぼ返りを打って︑静かな畳の上
帯の間に︑いつ手が這入ったか︑余は少しも知らなか
は
﹁そら御伯父さんの餞別だよ﹂
せん べつ
って︑からりと︑開くが早いか︑白鞘の短刀が畳の上へ
368
十三
よしだ
ステーショ ン
な
み
川舟で久一さんを吉田の停車場まで見送る︒舟のなか
すわ
げ ん べ え
に坐ったものは︑送られる久一さんと︑送る老人と︑那美
おしょうばん
さんと︑那美さんの兄さんと︑荷物の世話をする源兵衛
よ
と︑それから余である︒余は無論御招伴に過ぎん︒
い かだ
ふち
御招伴でも呼ばれれば行く︒何の意味だ か分らなくて
い
も行く︒非人情の旅に思慮は入らぬ︒舟は 筏 に縁をつ
とも
けた様に︑底が平たい︒老人を中に︑余と那美さんが艫︑
369
いく
みよし
物と共に独り離れている︒
い
が云う︒
う︒
ちょっと
﹁短刀なんぞ貰うと︑一寸戦争に出て見たくなりゃしな
もら
﹁いくら苦しくっても︑国家の為めだから﹂と老人が云
た
愉快な事も出て来るんだろう﹂と戦争を知らぬ久一さん
﹁出て見なければ分らんさ︒苦しい事もあるだろうが︑
く︒
﹁久一さん︑軍さは好きか嫌いかい﹂と那美さんが聞
きら
久一さんと︑兄さんが︑ 舳 に座をとった︒源兵衛は荷
370
ひげ
かか
いか﹂と女が又妙な事を聞く︒久一さんは︑
うけが
﹁そうさね﹂
かろ
と軽く首肯う︒老人は髯を掀げて笑う︒兄さんは知らぬ
顔をしている︒
いく
﹁そんな平気な事で︑軍さが出来るかい﹂と女は︑委細
構わず︑白い顔を久一さんの前へ突き出す︒久一さんと︑
め
兄さんが一寸眼を見合せた︒
﹁那美さんが軍 人になったらさぞ強かろう﹂兄 さんが妹
に話しかけた第一の言葉はこれである︒語調から察する
と︑ ただ の冗談 とも見えない︒
371
﹁わたしが?
わたしが軍人?
いま ごろ
わたしが軍人になれり
しり
岸には大きな柳がある︒下に小さな舟を繋いで︑一人
つな
久一さんは何も云わずに︑横を向いて︑岸の方を見た︒
、ま
、を出さない︒
涙の糸になる︒只男だけにそこまではだ
ただ
老人の言葉の尾を長く手繰と︑尻が細くなって︑末は
たぐる
もまだ二三年は生きる積りじゃ︒まだ逢える﹂
あ
って来てくれ︒死ぬばかりが国家の為めではない︒わし
﹁そんな乱暴な事を︱︱まあまあ︑目出度凱旋をして帰
め で た く がいせん
御前も死ぬがいい︒生きて帰っちゃ外聞がわるい﹂
がいぶん
ゃとうになっています︒今頃は死んでいます︒久一さん︒
372
い
と
いっこう
と
の 男 が し き り に 垂 綸 を 見 詰め て い る ︒ 一 行 の 舟 が ︑ ゆ る
ふ
く 波 足 を 引 い て ︑ そ の 前 を 通 っ た 時︑ こ の 男 は 不 図 顔 を
ふたり
あげて︑久一さんと眼を見合せた︒眼を見合せた両人の
なんら
ふな
間には何等の電気も通わぬ︒男は魚の事ばかり考えてい
び
る︒久一さんの頭の中には一尾の鮒も宿る余地がない︒
たいこうぼう
一行の舟は静かに太公望の前を通り越す︒
わだか
かっとう
日本橋を通る人の数は︑一分に何百か知らぬ︒もし
き ょ う はん
橋 畔 に 立 っ て ︑ 行 く 人 の 心 に 蟠 ま る 葛藤 を 一 々 に 聞 き
めま ぐる
得 た な ら ば ︑ 浮 世 は 目 眩 し く て 生 き づ ら か ろ う ︒ 只知 ら
あ
ぬ 人 で 逢 い ︑ 知 ら ぬ 人 で わ か れ る か ら 結 句日 本 橋 に 立 っ
373
て︑電車の旗を振る志願者も出て来る︒太公望が︑久一
よ
かえ
な まぐさ
みけん
う
き
いん
ゆえ
青年を遠き︑暗き︑物凄き北の国まで引くが故に︑ある
ものすご
年は︑余等一行を容赦なく引いて行く︒運命の縄はこの
なわ
かねば已まぬ︒ 腥 き一点の血を眉間に印したるこの青
や
春が尽きて︑人が騒いで︑鉢ち合せをしたがる所まで行
は
ある︒ 舷 に倚って︑水の上を滑って︑どこまで行くか︑
ふな ば た
川 幅 は あ ま り 広 く な い ︒ 底 は 浅 い ︒ 流れ は ゆ る や か で
る︒大方日露戦争が済むまで見詰め る気だろう︒
おおかた
は 幸 である︒顧り見ると︑安心して浮標を見詰めてい
さいわい
さんの泣きそうな顔に︑何等の説明をも求めなかったの
374
から
日︑ある月︑ある年の因果に︑この青年と絡み付けられ
われら
たる吾等は︑その因果の尽くる所までこの青年に引かれ
て行かねばならぬ︒因果 の尽くるとき︑彼と吾等の間に
いやおう
ふっと音がして︑彼一人は否応なしに運命の手元まで
たぐり
手繰り寄せらるる︒残る吾等も否応なしに残らねばなら
つくし
ぬ ︒ 頼 ん で も ︑ も が い て も︑ 引 い て い て 貰う訳 に は 行 か
ぬ︒
お もし ろ
て
舟は面白い程やすらかに流れる︒左右の岸には土筆で
ど
ね
すす
も生えておりそうな︒土堤の上には柳が多く見える︒ま
わら や
ばらに︑低い家がその間から藁屋根を出し︒煤けた窓を
375
てきれ き
あひる
い て 川 の 中 ま で 出 て来 る ︒
いっこう
やら一向分らぬ︒
たえま
﹁書いてあげましょう﹂と写生 帖 を取り出して︑
ちょう
ている︒老人はいつか居眠りをはじめた︒
うた
注文する︒久一さんは兄さんと︑しきりに軍隊の話をし
﹁先生︑わたくしの画をかいて下さいな﹂と那美さんが
え
はああい︑いようう︱︱と水の上まで響く︒何を唄うの
と機を織る音が聞える︒とんかたんの絶間から女の唄が︑
はた
柳と柳の間に的皪と光るのは白桃らしい︒とんかたん
しろもも
出し︒時によると白い家鴨を出す︒家鴨はがあがあと鳴
376
ど
しゅす
春風にそら解け繻子の銘は何
と書いて見せる︒女は笑いながら︑
ひとふ で
わたくし
﹁こんな一筆がきでは︑いけません︒もっと 私 の気象
の出る様に︑丁寧にかいて下さい﹂
﹁ わ た し も か き た い の だ が ︒ ど う も ︑ あな た の 顔 は そ れ
だけじゃ画にならない﹂
ごあいさつ
﹁御挨拶です事︒それじゃ︑どうすれば画になるんで
す﹂
﹁なに今でも画に出来ますがね︒只少し足りない所があ
る︒それが出ない所をかくと︑惜しいですよ﹂
377
﹁ 足 り な い た っ て ︑ 持 っ て 生 れ た 顔 だ か ら 仕方 が あ り ま
﹁自分の勝手にですか﹂
﹁ええ﹂
かわ べり
か
女は黙って 向 をむく︒川縁はいつか︑水とすれすれ
むこう
﹁これ程毎日色々になってれば沢山だ﹂
﹁それじゃ︑あなたの顔を色々にして見せて頂 戴﹂
ちょうだい
﹁あなたが女だから︑そんな馬鹿を云うのですよ﹂
﹁女だと思って︑人をたんと馬鹿になさい﹂
ば
﹁持って生れた顔は色々にな るものです﹂
せんわ﹂
378
てきてき
うず
に低く着いて︑見渡す田のもは︑一面のげんげんで埋っ
べに
かすみ
ている︒鮮やかな紅の滴々が︑いつの雨に流されてか︑
そう こう
ぼう
はんぷく
ほの
半分溶けた花の海は 霞 のなかに果しなく広がって︑見
はん くう
上げる半空には崢嶸たる一峯が半腹から微かに春の雲を
吐いている︒
い
﹁あの山 の向うを︑ あな たは越して入らしった﹂と女が
ふなばた
白い手を 舷 から外へ出して︑夢の様な春の山を指す︒
て ん ぐ いわ
﹁天狗岩はあの辺ですか﹂
みど り
﹁あの 翠 の濃い下の︑紫に見える所がありましょう﹂
﹁あの日影の所ですか﹂
379
す﹂
先きの山ですよ﹂
な る ほど
は
が懸ってるあたりでしょう﹂
かか
﹁成程そうだった︒然し見当から云うと︑あのうすい雲
しか
﹁七曲りは︑向うへ︑ずっと外れます︒あの山の又一つ
そ
﹁そうすると︑七曲りはもう少し左りになりますね﹂
ななまが
﹁そうでしょうか︒とも角︑あの裏あたりになるそうで
見えます﹂
﹁なあに凹んでるんですよ︒禿げていりゃ︑もっと茶に
くぼ
﹁日 影ですかしら︒禿げてるんでしょう﹂
380
こべり
﹁ええ︑方角はあの辺です﹂
いねむり
ひじ
居眠をしていた老人は︑ 舷 から︑肘を落して︑ほい
め
と眼をさます︒
﹁まだ着かんかな﹂
きょ うかく
の
の
び
ついで
ひ
胸 膈を前へ出して︑右の肘を後ろへ張って︑左り手
まっすぐ
ね
を真直に伸して︑ううんと欠伸をする 序 に︑弓を攣く
ま
真似をして見せる︒女はホホホと笑う︒
﹁どうもこれが癖で︑ ⁝⁝﹂
おすき
﹁弓が御好と見えますね﹂と余も笑いながら尋ねる︒
﹁若いうちは七分五厘まで引きました︒押しは存外今で
381
たし
たけなわ
が 酣 である︒
ようや
たた
い
へさき
お ん さ かな
つば くろ
はあるまい︒何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る︒
ごう
現実世界と云う︒汽車程二十世紀の文明を代表するもの
愈 現実世界へ引きずり出された︒汽車の見える所を
いよいよ
て停 車場に向う︒
ステーショ ン
腹を返して飛ぶ︒家鴨ががあがあ鳴く︒一行は舟を捨て
場が見える︒人力車の音さえ時々聞える︒乙鳥がちちと
じん りきしゃ
いた居酒屋が見える︒古風な縄暖簾が見える︒材木の置
なわのれん
舟は 漸 く町らしいなかへ這入る︒腰障子に御 肴と書
は
も慥かです﹂と左の肩を叩いて見せる︒ 舳 では戦争談
382
じょ うき
情け容赦はない︒詰め込まれた人間は皆同程度の速力で︑
ステーション
同一の停車場へとまってそうして︑同様に蒸滊の恩沢に
浴さねばならぬ︒人は汽車へ乗ると云う︒余は積み込ま
れると云う︒人は汽車で行くと云う︒余は運搬されると
け い べつ
云う︒汽車程個性を軽蔑したものはない︒文明はあらゆ
る 限 り の 手 段 を つ く し て ︑ 個 性 を 発 達 せ し め た る 後︑ あ
らゆる限りの方法によってこの個性を踏み付け様とす
ひとりまえ
る︒一人前何坪何合かの地面を与えて︑この地面のうち
ね
では寐るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文
てっさく
明 で あ る ︒ 同 時 に こ の 何 坪 何 合の 周 囲に 鉄 柵 を 設け て︑
383
ごと
たけ
あわれ
ほ う こう
かん せ い
フ ラ ン ス
お
ど
ねころ
ら︱︱世は滅茶滅茶になる︒第二の仏蘭西革命はこの時
めちゃめちゃ
ると同様な平和である︒檻の鉄棒が一本でも抜けた
おり
和ではない︒動物園の虎が見物人を睨めて︑寐転んでい
にら
んで︑天下の平和を維持しつつある︒この平和は真の平
て虎の如く猛からしめたる後︑これを檻穽の内に投げ込
とら
柵に噛み付いて咆哮している︒文明は個人に自由を与え
か
然の 勢 である︒ 憐 むべき文明の国民は日夜にこの鉄
いきおい
たものが︑この鉄柵外にも自由を擅にしたくなるのは自
現今の文明である︒何坪何合のうちで自由を 擅 にし
ほしいまま
これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが
384
に起るのであろう︒個人の革命は今既に日夜に起りつつ
つぶ
ごじん
ある︒北欧の偉人イブセンはこの革命の起るべき状態に
つい
すべ
就て具さにその例証を吾人に与えた︒余は汽車の猛烈に︑
みさ かい
見界なく︑凡ての人を貨物同様に心得て走る様を見る度
に ︑ 客 車 の う ち に 閉 じ 籠 め られ た る個 人 と ︑ 個 人の個 性
すんごう
に寸毫の注意をだに払わざるこの鉄車とを比較し
て ︑ ︱ ︱ あ ぶ な い ︑ あ ぶ な い ︒ 気 を 付 け ね ば あ ぶな い と
つ
思う︒現代の文明はこのあぶないで鼻を衝かれる位充満
まっくら
している︒おさき真闇に盲動する汽車はあぶない標本の
一つである︒
385
ステーション
よもぎもち
なが
停車場前の茶店に腰を下ろして︑蓬 餅を眺めながら
飲む︒
め
ちくさ
ももひき
わ ら じ ば
ひ ざが し ら
﹁牛の様に胃袋が二つあると︑いいなあ﹂
﹁駄目さあ﹂
﹁矢っ張り駄目かね﹂
だ
てて︑継布のあたった所を手で抑えている︒
つ
ぎ
一人は赤毛布︑一人は千草色の股引の膝 頭に継布をあ
あかゲット
向うの床几には二人かけている︒等しく草鞋穿きで︑
しょうぎ
に話す必要もないから︑だまって︑餅を食いながら茶を
汽車論を考えた︒これは写生帖へかく訳にも行かず︑人
386
﹁二つあれば申し分はなえさ︑一つが悪るくなりゃ︑切
ってしまえば済むから﹂
み
と
この田舎者は胃病と見える︒彼等は満洲の野に吹く風
にお
か
もんじ
あるい
の臭いも知らぬ︒現代文明の弊をも見認めぬ︒革命とは
い
如何なるものか︑文字さえ聞いた事もあるまい︒ 或 は
か
自己の胃袋が一つあるか二つあるかそれすら弁じ得んだ
ル
こ
ろう︒余は写生帖を出して︑二人の姿を描き取った︒
ベ
じ ゃ ら ん じ ゃ ら ん と 号 鈴 が 鳴 る ︒ 切 符 は 既に 買 う て あ
る︒
﹁さあ︑行きましょ﹂と那美さんが立つ︒
387
い
い
そろ
かいさつば
ちょう だ
のたく っ
が出たり︑這入ったりする︒久一さんは乗った︒老人も
は
蛇は吾々の前でとまる︒横腹の戸がいくつもあく︒人
へび
﹁荷物は来 たかい﹂と兄さんが聞 く︒
﹁死んで御出で﹂と那美さんが再び云う︒
お
﹁ そ れ で は 御 機嫌 よ う ﹂ と 久 一 さ ん が 頭 を 下 げ る ︒
ご き げ ん
﹁ 愈 御別かれか﹂と老人が云う︒
いよいよ
て来 る︒文明の長蛇は口から黒い 烟 を吐く︒
けむり
轟と音がして︑白く光る鉄路の上を︑文明の長蛇が蜿蜒
ごう
けて︑プラットフォームへ出る︒号鈴がしきりに鳴る︒
﹁どうれ﹂と老人も立つ︒一行は揃って改札場を通り抜
388
兄さんも︑那美さんも︑余もそとに立っている︒
まわ
車輪が一つ廻れば久一さんは既に吾等が世の人ではな
えんしょう
い︒遠い︑遠い世界へ行ってしまう︒その世界では烟 硝
の臭いの中で︑人が働いている︒そうして赤いものに滑
むやみ
って︑無暗に転ぶ︒空では大きな音がどどんどどんと云
う︒これからそう云う所へ行く久一さんは車のなかに立
っ て 無 言 の ま ま ︑ 吾 々 を 眺め て い る ︒ 吾 々 を 山 の 中 か ら
引き出した久一さんと︑引き出された吾々の因果はここ
で切れる︒もう既に切れかかっている︒車の戸と窓があ
とど
いているだけで︑御互の顔が見えるだけで︑行く人と留
389
う切れかかっている︒
へだた
こちら
まどぎわ
窓は一つ一つ︑余等の前を通る︒久一さんの顔が小さく
われわれ
鉄車の音がごっとりごっとりと調子を取って動き出す︒
﹁あぶない︒出ますよ﹂と云う声の下から︑未練のない
へ寄る︒青年は窓から首を出す︒
としまった︒世界はもう二つに為った︒老人は思わず窓側
な
は 益 遠くなる︒やがて久一さんの車室の戸もぴしゃり
ますます
走って来る︒一つ閉てる毎に︑行く人と︑送る人の距離
ごと
車掌が︑ぴしゃりぴしゃりと戸を閉てながら︑此方へ
た
まる人の間が六尺ばかり 隔 っているだけで︑因果はも
390
なって︑最後の三等列車が︑余の前を通るとき︑窓の中
から︑又一つ顔が出た︒
ご
おしげ
茶色のはげた中折帽の下から︑髯だらけな野武士が
な
名残り惜気に首を出した︒そのとき︑那美さんと野武士
は思わず顔を見合せた︒鉄車はごとりごとりと運転する︒
ぼうぜん
野武士の顔はすぐ消えた︒那美さんは茫然として︑行く
汽 車 を 見 送 る ︒ そ の 茫 然 のう ちに は 不思 議に も今 ま で か
あわ
それだ!
それが出れば画になりますよ﹂
え
つて見た事のない﹁憐れ﹂が一面に浮いている︒
﹁それだ!
と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った︒余が胸
391
とっさ
じょう じゅ
中の画面はこの咄嗟の際に 成 就したのである︒
392
底本
作成
夏目漱石﹁草枕﹂新潮文庫版
宮澤一郎