キモチが - 大阪警察病院

キモチが
カタチに
たくさんの﹁ありがとう﹂が集ま
りました。一つ一つが心の温まる
ものばかりでしたので、10作品
集めてリーフレットにしました。
コンクール
作文
The collection of heartful memories
第1回 作文コンクール
~医療体験記~
・乳癌からの生還
・素直な心でおかげさま
忘れてはいけないストーリーがある
・乳ガンになって
・2012 年の夏
1日に来られる外来の患者さんは約 1500 人、
・再び歩ける喜びを得て
・助かった2つの命と支え・愛
入院されている患者さんは毎日約 500 人。
愛・熱・和を心に・・・
・本気モードにスイッチが
この度、「作文コンクール~医療体験記~」を開催
・同じ時を過ごした人たちへ
させていただきました。第1回の開催にあたり、作
・ペースメーカー手術の思い出
品の集まり具合や当院の診療に対する患者さんの思
・大阪警察病院の皆さんありがとう
いなど、当初は不安な点もありました。
しかし、いざ蓋を開けてみると、当院の医療スタッ
フへの感謝の思いや、壮絶な闘病記録、感動のエピ
ソードなど、私たちの知ることが出来なかった良作
いろいろな病気を抱える患者さんが訪れる、わたしたちの病院。
痛みと不安を抱え、日夜、病気と向き合う患者さんたち。
それぞれのヒトに、
支えてくれる家族・恋人・友人・同僚・医療スタッフ、
さまざまな人と紡ぐストーリーがあります。
愛・悲しみ・喜び・感動・驚き・成長
数え切れないたくさんの想い。
に溢れていました。
当院の医療スタッフは、「愛・熱・和」をモットー
に、心を一つにして全人医療に取り組んでいます。
その思いが患者さんにまっすぐ伝わったものだと思
われます。今からお送りする作品集は、患者さんと
私たちが一体となることで紡がれた心温まるストー
リーばかりです。ぜひお読みいただき、熱い思いが
伝わればと思います。
最後に、「思い」を「作文」という形で、スタッフ
や患者さんと共有することで、これからもより良い
病院作りを目指したいと思います。
院長
越智 隆弘
わたしたちは、そんなみなさんの想いを形にしたくて、
今回、1冊のリーフレットをつくりました。
ぜひお読みいただき、あたたかい想い、受け取ってください。
大阪警察病院 医療体験記 作文コンクール 作品集
大阪警察病院 医療体験記 作文コンクール 作品集
あきらめかけていた時、 希望の光が
転移は1ヶ所だけだったので、二度
見つかりました。ペット検査の結果、
定期検査で、また右脇に癌の転移が
それから3年、平成21年6月の
感謝の気持ちで一杯になりました。
ど痛がらなかった妻を見て、安堵と
間にも及ぶ長い手術の後も、ほとん
て安心したのを思い出します。6時
て頂き、この先生だったらと二人し
生に、丁寧に、丁寧に優しく説明し
説明を聞きにいきました。担当の先
が見つかり、即手術となり、先生の
で検査をした結果、3センチの乳癌
ことを。紹介状を手に大阪警察病院
に入院、手術と打ち明けられた時の
くのクリニックで診てもらい、直ぐ
妻が右の乳房のしこりに気付き、近
忘れもしません、平成18年6月、
治 療 に、一 縷 の 望 み を か け ま し た。
に適合するので使って頂けるという
う、転移性の乳癌に良く効く薬が妻
リカで開発されたハーセプチンとい
めて治療に入りました。私は、アメ
貴金属、服等を分け、与え覚悟を決
そ の 間 に、持 っ て い た ブ ラ ン ド 品、
ヶ月間、治療開始を遅らせてもらい、
りました。身辺整理がしたいと約一
治療は抗がん剤中心の治療に決ま
い日々になりました。
くれることが、私には暗く重たく辛
と、いたって元気に明るく振舞って
気丈で、人はいつかは死ぬんだから
揃って覚悟しました。妻は日頃から
にあと何年生きられるのかと、二人
があり、ステージ4との事、さすが
ました。今回は、肝臓と肺への転移
けていた頃、三度目の癌がみつかり
今 年 7 月 の 2 度 目 の 検 査 の 結 果
の驚きでした。
の当たりにして、表す言葉がない程
ものが本当にあるのなら、それを目
たようでした。もしも、奇跡という
も、あまりの出来事に我を忘れてい
悟していた妻は、嬉しさや喜びより
ん ね ん て。﹂と 言 い ま し た。死 を 覚
ると、妻が茫然としながら﹁消えて
中の私に連絡がありました。帰宅す
二ヶ所の癌が消滅していると、仕事
1月、造影剤によるCT検査の結果、
の三ヶ月治療をし、翌年平成24年
平成23年10月から12月まで
の日々でした。
だただ良くなって欲しいと祈るだけ
なく、神社、仏閣へのお参りと、た
が多くなりました。私にはなす術も
妻が、しんどい、だるいと寝込む日
抗がん剤との併用のためか、気丈な
で一杯です。本当にありがとうござ
ませんが、ただただ、感謝の気持ち
どのようなお礼を申し上げても足り
延 び た 事 だ け は 間 違 い あ り ま せ ん。
再発する可能性もありますが、生き
妻 は ま だ、治 療 を 続 け て い ま す。
ます。
頂いた多くの方々にお礼を申し上げ
方々、それから妻の看病に携わって
りませんが、担当の先生、看護師の
ん剤との併用が良かったのかは分か
ハーセプチンが効いたのか、抗が
まりませんでした。
何故か次から次へと涙が溢れ出て止
ことを知りました。映画を見ながら、
完全に癌が消滅した人もいるという
が、こ の 薬 で 多 く の 人 々 が 助 か り、
人の人が乳癌で亡くなっていたの
発されるまでは、全米で毎年25万
わかり、妻と見ました。この薬が開
﹁希 望 の 力﹂と い うDVDが あ る と
大阪市阿倍野区 K・Mさん
目の手術を受けました。
幸いこの薬は、髪の毛も抜けず、身
も、癌はありませんでした。その後、
【最優秀賞】
その後、抗がん剤治療などで再発
体への負担も少ないと聞き安心して
いました。
乳癌からの生還
しないように気を付けて生活してい
ハーセプチンを作ったという医師の
ら な い。そ し て ど れ だ け 気 を 失 っ て
た か な、お 風 呂 に 入 ろ う。汗 が 止 ま
に な ろ う、水 分 を 摂 ろ う、お 腹 冷 え
だ っ た。と り あ え ず 痛 い お な か。横
る こ と も あ っ た。こ の 日 も ま た そ う
阻 で 朝 が 辛 い た め、度 々 会 社 に 遅 れ
め て 授 か っ た 子 が い る。な か な か 悪
た 悪 阻 だ。現 在 4 ヶ 月、お 腹 に は 初
出 勤 前 の 朝、身 体 が だ る か っ た。ま
しかし、あの日は突然やってきた。
中で育ってきたからだ。
やりたいことなど自由のある幸せの
日 々 健 康 に 恵 ま れ て、今 ま で 自 分 の
院 と は 無 縁 だ と そ う 思 え る の は、
私 は 今 ま で 元 気 に や っ て き た。病
より、病気解明へすぐに動きだした。
う、これは赤ちゃんの影響ではない
うと連絡があった。やはり何かが違
運ばれて数時間後、急遽検査を行
間が刻々と過ぎていった。
ことはなく、夜は眠れない苦しい時
と運ばれたがなかなか腹痛が収まる
入院を行うことになり、私は病室へ
たくさん汗が出てきた。結局、検査
こんなに苦しんでいるのかと次第に
赤ちゃんは元気なのにどうして私は
確認した。元気だ、大丈夫なようだ。
産科の先生はまず赤ちゃんの様子を
院に向かうと、両親が先に来ていた。
は頭が真っ白になった。救急車で病
腹痛との闘いが夜に続くことで私
大阪市東淀川区 K・Yさん
いましたが、いざ治療が始まると、
いたのだろう 。
…気が付けば夕方だ
っ た。自 分 自 身 で は ど う し よ う も な
私 の 身 体 は ど う し て し ま っ た の か、
【優秀賞】
たので、完治したのではと安心しか
悲しみを乗り越えて授かった新しい命
く な り、母、病 院、そ し て 救 急 車 に
何がいけなかったのか、つい先日ま
素直な心でおかげさま
連 絡。あ あ、私 の 人 生 で か つ て な い
での生活がとても遠く感じ、一瞬で
ざまな薬を使いたいが、やはり赤
のではないかと数名の先生の判断に
医 療 生 活 が 始 ま ろ う と し て い た。考
別世界に運ばれた感じがした。さま
。
…
え た こ と も な い、見 た こ と も な い 生
活が
大阪警察病院 医療体験記 作文コンクール 作品集
大阪警察病院 医療体験記 作文コンクール 作品集
げたら良いのか。
赤ちゃんのほうなのになんと申し上
だ。苦しんでいたのは私ではなくて
に涙が溢れ出てきた。私は母親失格
態も落ち着き心にゆとりがでたとき
んはいなかった。ようやくお腹の状
そして翌日、私のお腹には赤ちゃ
と気を失う自分の姿。
った。視界が薄れ、頭の中はぼーっ
は赤ちゃんのことまで考えられなか
肢が限られている。だが私の頭の中
ちゃんのことになるとなかなか選択
腸閉塞、肺血症、脱水症状、そして
た。私 の 治 療 は 簡 単 で は な か っ た。
こ こ か ら 私 の 闘 病 生 活 は 始 ま っ
締めて治療にあたることにした。
てくれていると感じ、気持ちを引き
て、家族や周りの人々も一緒に闘っ
でないとこの子に申し訳ない。そし
か り と 元 気 に な ら な い と い け な い。
私はこの苦しみを乗り越えてしっ
を流してくれる人がたくさんいる。
守ってくれる両親がいる、一緒に涙
そして離れていてもそばでそっと見
には私を支えてくれる家族がいる、
嬉しかった。よく見れば私の周り
ていたのだろう。
親として私の気持ちをよく感じ取っ
いが嬉しかった。私を産んだ母は母
あげる﹂と母は言った。母親の心遣
っぱい泣いていいよ、一緒に泣いて
涙 が 止 ま ら な い、あ り が と う。﹁い
う と し て く れ て 私 を 助 け て く れ た。
こんな小さな身体で一生懸命生きよ
生 懸 命 生 き た 姿 が 顔 に 表 れ て い た。
れて、私は赤ちゃんと対面した。一
いたほうが絶対いいと走ってきてく
しいが、産科の看護師さんが見てお
ないでおこうと家族は言っていたら
その後、赤ちゃんの姿は私には見せ
った。普段の生活ではなかなか感じ
よ!﹂とよく笑って励ましてくださ
ん は﹁大 丈 夫!女 性 は 強 い 生 き 物
泣くこともあった。でも、看護師さ
が不安定になり、急に一人で夜中に
かったかもしれない。何度も気持ち
私は今ここで通常生活を送れていな
の 応 援 の 声 や 表 情 を 見 な か っ た ら、
多々あった。親族や看護師さんたち
の診断など、心が億劫になることも
にはおそらくだいぶ時間がかかると
後遺症が残るかもしれない、回復
った。
なければと思わせるきっかけにもな
の証であり、自分をもっと大事にし
なったし、幸せに恵まれている唯一
両親。その姿は、私の元気の源にも
るにも関わらず見舞いにきてくれる
人や、毎日仕事終わりに、疲れてい
る私の身体を見ても元気に振舞う主
度近い熱が発生するなど、弱ってい
作発生。人工透析や輸血、また40
われたことはなかったのに喘息の発
そして、28年間、喘息なんて言
まく出来ない状態が何日も続いた。
投薬され、身体はむくみ、呼吸もう
の身体は管で繋がれ、何本もの針で
腎臓が動いていない、腎不全だ。私
てしっかりと歩んでいきたい。
してこれからも大切な未来に向かっ
ごす毎日や人々とのつながりに感謝
ちゃんへの感謝、何気なく健康に過
は新たな命が宿っている。最初の赤
そして数カ月後、現在私のお腹に
誓い、病院をあとにした。
ちゃんの分まで一生懸命生きようと
け な い、病 気 を 知 ら せ て く れ た 赤
りは誰もいない。自分を責めちゃい
ことで自分は変えられる。私の代わ
い。ちゃんと希望を持って前に進む
苦 し く て も 辛 く て も 一 人 じ ゃ な
と。
っ た。生 き て い て く れ て 良 か っ た﹂
院 時 の メ ー ル。﹁元 気 に な っ て 良 か
そして、たくさんの友達からの退
かもしれない。
は、己を振り返るいい機会になった
ぐっと胸に響くのだ。この闘病生活
ない言葉でも自分自身の心が弱ると
「生きたい。 生かせて欲しい …
」
﹁まさか …
。﹂の出来事で悲しみに包
ま れ ま し た。﹁い つ ど こ で 何 に 巻 き
は 京 都 観 光 中 に 事 故 に 遭 い ま し た。
ました。千葉に住んでいた伯父さん
私の父の実兄が巻き込まれ亡くなり
の方が亡くなられました。その中に
園での暴走車による交通事故で数名
し疲れていたんでしょうか …
。
そんな中、4月12日、京都の祇
く主人の体調など心配事が絶えず少
毎晩遅くまで仕事をし深夜帰宅が続
幼 稚 園 年 長 組 の 長 女 の 習 い 事 送 迎、
長男、反抗期に加え中学受験の勉強、
も …
。﹂と 少 し 悲 観 的 に 物 事 を 考 え
るようになっていました。6年生の
下旬に41歳になる私は﹁まだ半分
ニュースをテレビで観ました。6月
今 年 の 春、日 本 人 の 平 均 寿 命 の
た。早速、近所の総合病院へ行きま
査の紹介状を書いていただきまし
どうしても凹みが気になり、精密検
る も の で は な い と 言 わ れ ま し た が、
検診では、しこりもないし気にす
心をしました。
のではないかと思い、検診へ行く決
のに気付きました。これは何かある
6月に入って左脇辺りに凹みがある
が あ り、イ ラ イ ラ す る と 痛 痒 い し、
かし、今回は春先より左胸に違和感
病院嫌いの私は、毎年﹁また来年 …
。﹂
とずっと引き延ばしていました。し
ん・大 腸 が ん 検 診 に 誘 わ れ ま し た。
6月中旬に友人に乳がん・子宮が
さを感じていただけでした。
何も考えておらず、漠然と命の大切
では、私自身の寿命や死については
と強く思いましたが、まだこの時点
なると涙が溢れました。決まって思
たので気が紛れました。でも、夜に
でしたが、時間に追われる毎日でし
た。日中も忘れることはありません
の前では元気に笑顔で過ごしまし
日々でした。人前や家族、特に両親
まさか乳がんだなんて …
。﹂結 果 が
出 る ま で の 1 週 間 は、辛 い 苦 し い
健 康 で 今 日 ま で 過 ご し て き た 私 が、
﹁幼 い 時 か ら 大 き な 病 気 も せ ず、
せん。
あの恐怖は二度と味わいたくありま
を 思 い 出 す と 今 で も ゾ ッ と し ま す。
れば早く覚めてほしい﹂と強く願い
り 冷 た く な っ て い ま し た。﹁夢 で あ
。﹂心 臓 が
ガ ン 宣 告?ま さ か 私 が …
バクバク、手先から血の気がなくな
さい。﹂と言われました。﹁これって
い。1週間後結果を聞きに来てくだ
いと強く感じ、必死に主人とパソコ
分の納得のいく先生に診てもらいた
現実であればどうするべきか、自
りませんでした。
ず、現実として受け止めなければな
いつもの朝が始まれば …
﹂と。そう
願う1週間でしたが凹みはなくなら
堺市 M・Kさん
込まれ命を亡くすのか、人間の命っ
した。一通りの検査を終え外科の先
うことは﹁夢ならば朝目覚めると凹
ンで病院を探しました。そして、す
【優秀賞】
て尊いものだが、一瞬で終わってし
生 は、﹁若 い か ら 言 い ま す ね、か な
みもなくなり、夢で良かったと又、
乳ガンになって
ま う 儚 さ も あ る。﹂と 感 じ ま し た。
りの確率でそうだと思ってくださ
ながら帰宅しました。その時のこと
だから、悔いのない毎日を過ごそう
大阪警察病院 医療体験記 作文コンクール 作品集
大阪警察病院 医療体験記 作文コンクール 作品集
突然の交通事故 …
つながった命
頃には今よりも元気になって退院し
をつけといてください。﹂﹁退院する
の食べて、よく寝て、しっかり体力
た。最後に﹁手術までは美味しいも
優しくおっしゃってくださいまし
何 で も 聞 い て く だ さ い。﹂と い つ も
が、Y先 生 は﹁何 か あ れ ば い つ で も
聞けばいいのか分からない私でした
は な い で す か。﹂の 問 い か け に 何 を
丁 寧 な 説 明 に 安 堵 し ま し た。﹁質 問
Y先生は、いつも物腰が柔らかく
に来て良かった﹂と確信しました。
て乳腺外来でお会いした瞬間﹁ここ
生なら治してくれる﹂と思い、初め
治療の為の検診の大切さを痛感しま
う で は な い と い う こ と、早 期 発 見・
ていましたが、早期発見の場合はそ
とすぐに死に直結する病気だと思っ
かされました。そして、ガンという
決して当たり前ではなかったと気付
返される毎日、健康に過ごすことが
と強く願いました。当たり前にくり
た時、﹁生きたい、生かせて欲しい﹂
た。自分の死と向かい合わせになっ
今こうして術後も元気になりまし
を 巡 ら せ 不 安 で い っ ぱ い で し た が、
の?﹂言葉で表現できない程の思い
く姿を近くで見守ってやれない
。﹂
﹁私、死ぬの?﹂
﹁まさか自分が …
﹁も う 子 ど も 達 の 笑 顔、成 長 し て い
悪い所は全て摘出できたとお聞き
て も ら え る と 思 い ま す。﹂と い う 言
した。この経験を無駄にすることな
がるような思いで大阪警察病院のY
葉 に 心 底 ホ ッ と し ま し た。そ の 後、
く、全ての人々に検診の大切さ、早
し、ホッとしました。 トントン拍子に検査から入院当日ま
期発見・早期治療の大切さを広めて
先生の元へ行きました。ホームペー
で進みました。子ども達が小さいの
いきたいと思いました。
ジでY先生の写真を見た時﹁この先
で夏休み中に退院まで終わらせたい
希望も叶えてくださいました。
いよいよ手術当日、なかなか血管
確 保 が 出 来 な い 時、Y先 生 が 私 の 左
足の甲をさすって下さった時、すご
く温かくパワーを頂いた気がしまし
に な り ま し た が、最 初 の 7 日 間 は、
す ぐ に 救 命 救 急 科、ICUへ お 世 話
れたのが、ここ大阪警察病院でした。
交通事故に遭い、救急車で運び込ま
2 0 1 2 年 7 月 2 日 午 後 2 時 前、
ベッド上の生活から車椅子に乗れる
え、40日程が過ぎた頃、今までの
日 中 起 き て い る 時 間 も 徐 々 に 増
ありませんでした。
が、ベッド上安静の状態には変わり
救命救急科の女性部屋に移りました
状 態 が 少 し 落 ち 着 き、ICUか ら
た。
が、名前も顔も …
誰がお世話してく
ださったのかもわかりませんでし
さん達のお世話になったと思います
の時間帯に分けてたくさんの看護師
たぶん、その間には、日中と夜間
後に家族から聞かされました。
走り回って処置をして下さった事を
私の命を助ける為に色々な先生方が
事が沢山ありましたが、いろいろな
2ヶ月半、ここでは書ききれない
ている私に安心を下さいました。
に来て下さり、心細い思いで過ごし
間を作っては昼夜を問わず状態を見
他の仕事で多忙中にも関わらず、時
私 を 担 当 し て 下 さ っ た 先 生 方 も、
声をかけて下さいました。
本当に色んな人が、私を見つけて
然と明るくなったと思います。
看護師さんとお話する事で表情も自
気分が沈みがちだった私も元気な
当に元気をいっぱいもらいました。
けて下さり、とっても嬉しくて、本
﹂とか、今まで話をしたこと
ねぇ …
のない看護師さん達が笑顔で声をか
﹁わ あ!す ご く 元 気 に な り ま し た
す。
いた事、深くお礼を言わせて頂きま
急科の中に長期に渡り入院させて頂
それと、入れ替わりの早い救命救
本当に有難うございました。
師の方々にまた会いたいです。
って元気な私になり、先生方や看護
礼を伝えたいです。リハビリを頑張
生を初め、看護師さん達に心よりお
な …
?︶
救命救急科・整形外科・内科の先
る一人リハビリも少しは役に立つか
す。︵秘 か に ベ ッ ド 周 り で 続 け て い
転院が必要で、私の入院生活は続き
た。お陰様で無事に手術も終わり、
ずっと眠った状態で、その頃の記憶
ようになり、自分で洗面所やお手洗
方にお世話になったおかげで助かっ
大阪市天王寺区 B・Kさん
はあまりありません。
いへの移動が可能になりました。
た命だと思います。ここで過ごした
2012年の夏
入院当初、いくつかの臓器損傷に
そんな時、ぼんやり歯磨きをして
今年の夏は一生忘れる事の出来ない
ますが、必ず元気に歩いて帰宅しま
よる、出血多量と10カ所以上の骨
いる私に﹁あっ!Bさん車椅子に乗
貴重な体験でした。
…
っ て る!!﹂と か、﹁あ っ!Bさ ん
まだ今後もリハビリ専門の病院へ
折
洗面所で歯磨いてる∼!﹂
大阪警察病院 医療体験記 作文コンクール 作品集
大阪警察病院 医療体験記 作文コンクール 作品集
しっかりと大地を踏みしめて
折に触れ先生が掛けて下さった一
良かった、と思った。
く、H先 生 に 手 術 し て 頂 い て 本 当 に
が出てきた。術後の痛みもあまりな
まるリハビリを頑張らねば、と元気
も嬉しかった。そして、今日から始
て来て下さい﹂と仰って下さりとて
小 声 で 呟 く 私 に、﹁秋 の 京 都 を 歩 い
さ っ た。﹁ま た 京 都 に 行 け る!﹂と
大 丈 夫 で す よ。﹂とH先 生 が 来 て 下
翌朝﹁Nさーん、上手くしたから
みたところ、﹁H先生に診てもらわ
と早速電話で症状を話し、問合せて
。
か …
大 阪 警 察 病 院 は ど ん な 病 院 か な、
さて、どこの病院に行けばよいの
ました﹂と診察室を出た。
て 頂 き た く な い﹂と 思 い、﹁わ か り
の言葉を聞き﹁この先生には手術し
術を受けたいと思っていたので、そ
前に診察・診断を受け、納得して手
な、と自分でも思っていたが、その
人 工 関 節 に 換 え た 方 が い い の か
診ない!﹂と言われびっくりした。
た 時、﹁手 術 す る か!し な い の な ら
た。診察室に入り症状を話そうとし
落ち着いたので近くの病院に行っ
ことも出来なかった。三日後、少し
もなかった。しかし、その時は立つ
その後は特に強い痛みを感じること
。数年
うとした時、右膝に激痛が …
前、変形性膝関節症と診断されたが、
﹁痛 っ!﹂ソ フ ァ ー か ら 立 ち 上 ろ
た。時には冗談を言って笑わせて下
えする方法として非常に面白かっ
ねて下さるのはその日の状態をお伝
日の痛みは?今日の気分は?﹂と尋
た。特製の定規︵?︶を取り出し、﹁今
やすく答えて下さったのは嬉しかっ
て下さり、私の質問にも丁寧に分り
て下さり、常に細やかな気配りで診
生だった。朝に夕に、度々病室に来
O先生もとても優しく、楽しい先
幸せを心より感謝した。
感じると共に、
H先生に巡り会えた
ます﹂とご挨拶した。お会いしてま
ちらこそどうぞよろしくお願い致し
な の に、と 慌 て て 立 ち 上 が り、﹁こ
ぞよろしく﹂は私が申し上げる言葉
どうぞよろしく。﹂と仰った。﹁どう
聞 き す る と、﹁は い、私 が し ま す。
が手術して下さるのですね?﹂とお
手 術 を し て 頂 こ う と 思 っ た。﹁先 生
お会い出来て良かった、この先生に
その穏やかな話し方に、良い先生に
ら わ か り や す く 説 明 し て 下 さ っ た。
のレントゲンを撮り、それを見なが
静かに聞いて下さった後、膝と腰
ることもお話しした。
症、腰部脊椎管狭窄症、脳梗塞のあ
をお話しした。そして、腰椎すべり
生に緊張もほぐれ、これまでの経緯
たか?﹂と笑顔で迎えて下さった先
て 診 察 室 に 入 る と、﹁ど う さ れ ま し
当日、どんな先生かな、と緊張し
た。
れたら?﹂と診察日を教えて下さっ
ます。
た。ここに心より厚く御礼申し上げ
フの皆様、本当に有難うございまし
て日々お世話をして下さったスタッ
リ指導をして下さったI先生、そし
ケアをして下さったO先生、リハビ
執刀して下さったH先生、術後の
いる。
て頂き、本当に良かったと感謝して
ることだった。
ると﹁おはよう﹂と病室に来て下さ
生は部長先生なのに毎朝七時半にな
入 院 し て び っ く り し た の は、H先
術をして頂こうと決めた。
接し、この先生に右膝人工関節置換
厚で謙虚で暖かいお人柄のH先生に
だ数分しかお話していないのに、温
ない。
はしていたそうだが、よく覚えてい
り戻っておらず、先生のお話に返事
さったそうだが、まだ意識がはっき
トゲン写真を持って説明に来て下
そ の 後、O先 生 が 手 術 直 後 の レ ン
た。
ら醒めておらず、よくわからなかっ
さったように思ったが、まだ麻酔か
り と 見 え た。何 か 言 葉 を か け て 下
に 戻 っ た 時、H先 生 の お 顔 が ぼ ん や
それから四時間、手術が終り病室
い …
﹂と言いかけて後は何も分から
なくなってしまった。
をかけて下さり私も﹁よろしくお願
前 に も、﹁頑 張 り ま し ょ う ね﹂と 声
手術台に横たわり麻酔がかかる直
から …
﹂と笑顔で仰って下さり、手
術に対する不安は全くなかった。
る私に﹁ハーイ、上手いことします
ろしくお願い致します﹂とご挨拶す
手 術 の 日 の 朝 も 来 て 下 さ り、﹁よ
大阪市天王寺区 N・K さん
言にどれほど元気付けられ、安らぎ
活も楽しく過ごすことが出来た。
再び歩ける喜びを得て
。日記帳に残る数々
を得たことか …
のお言葉を読み返すにつけ、患者に
手術翌日から始まったリハビリは
さったりと、お陰で四週間の入院生
与える先生の言葉の重みをつくづく
辛かったが、I先生が﹁いいよ。上
手だよ。﹂と褒めおだてて下さる言
葉に励まされ、膝もよく伸び曲がる
ようになった。自転車漕ぎで負荷を
かけ重くされると膝が痛く傷口が裂
けるのではと思うこともあった。し
かし、そうした先生方のお陰で痛く
力の入らなかった右足も、今はしっ
かりと大地を踏みしめて歩けるよう
になり﹁又歩きに行こう!﹂という
勇気が湧いてきた。
手術をすることに迷った時もあっ
たが、今回大阪警察病院で手術をし
大阪警察病院 医療体験記 作文コンクール 作品集
大阪警察病院 医療体験記 作文コンクール 作品集
1日1日を大切に …
後悔しない人生を
って話をしていました。暫くして突
その後、友人が遊びに来たので座
寝をして休み、様子を見ていました。
などはなく、上の子である娘とお昼
ような感覚があったのですが、出血
ぎから何となく下腹部が少し張った
事や育児をこなしていました。昼過
経過を辿り、その日もいつも通り家
定期検診では異常もなく、順調な
です。
息子を妊娠し、妊娠8ヶ月頃の事
引き取り、部屋にできた大きな血だ
て救急車に乗り、父は娘を友人から
途中に両親が到着し、母が付き添っ
に。そして、救急車へ運ばれている
か履き替えたズボンもすぐ真っ赤
てしまい、タオルを当てながら何と
くれましたが、動く度に血が流れ出
替えるよう言われ、友人も手伝って
着。救急隊員に下着やズボンを履き
の夫に電話し、その後、救急車が到
ました。そして、その合間に勤務中
いた鞄なども友人に準備してもらい
も あ り 眠 っ た 状 態 だ っ た の で す が、
す。お腹の息子は、暫く麻酔のせい
胎盤が8∼9割剥がれていたそうで
のまま全身麻酔にて帝王切開。既に
らず丁寧な気遣いや説明があり、そ
護師や麻酔科医から、緊急にも関わ
悪くなってきたのですが、医師や看
入る直前に、大量出血により気分が
行われる事になりました。手術室に
ため、医師の説明の後、緊急手術が
があり、母子共に危険な状態である
したが、常位胎盤早期剥離の可能性
いまだお腹の息子の心拍数は正常で
輸血が始まってからでした。
したが、意識がちゃんと戻ったのは
輸血の説明をされたのは覚えていま
っていました。大量の輸血が行われ、
サラになり血が止まらない状態に陥
にダメージを与える上、血液がサラ
︵播種性血管内凝固症候群︶
た。 DIC
を起こして全身に血栓ができ、臓器
り、気付いたら集中治療室にいまし
が悪くなり、そこから記憶がなくな
八尾市 I・A さん
然 股 に ジ ュ ワ っ と し た 感 覚 が あ り、
まりを拭き取ってくれました。
助かった2つの命と支え ・愛
破水かな、でも産まれるにはまだ早
今回このような事があり、改めて
小児科医と助産師さんの蘇生により
医師から私には、このまま出血が
自分は多くの人に支えられているこ
救急車到着時には5時をとっくに
止まらなければ子宮を取らないとい
とを実感し、様々な人の愛を感じま
いと思いながら手で触ると、ズボン
けないかもしれず、今晩が山場なの
した。そして、多くの医療スタッフ
回復し、2140gと小さめですが
で頑張りましょうと伝えられたので
や家族や友人などのおかげで今生き
過ぎていたにも関わらず、遅番の看
すが、私への説明の前に夫や母には
て い る か ら こ そ 息 子 の 誕 生 を 喜 び、
が濡れており、手には血が付いてい
今晩が山場であり、亡くなる事もあ
夫や自分や娘の誕生日を迎え祝うこ
小さな産声をあげてくれました。そ
るので覚悟しておくようにと説明が
とができ、家事や育児、子ども達の
護師さんだけでなく、まだ残ってい
あったらしいです。 通院に追われ目まぐるしい毎日を過
ました。
その後、医師や看護師・助産師さ
ごすことが出来ています。 私の住
して、私はまだ意識が朦朧としてい
んのおかげで死ぬことなく徐々に回
む市には産科のある総合病院が1軒
た産科の医師や助産師、救急外来の
復 し ま し た。産 ま れ て き た 息 子 は、
しかなく、もしあの時に大阪警察病
急いで救急車を呼び、実家に電話
早産とは別に病気があり、呼吸や哺
院に受け入れて貰えなければ5L程
ましたが、助産師さんが息子を私の
乳が不安定だったので、小児科の先
の出血では収まらずに、命を落とし
看護師さんや外来師長など沢山の医
生方の判断で生後2日目に新生児集
ていたかもしれず、息子の命もなか
して娘を預かりに来てもらうよう伝
中治療室のある病院へ転院して1ヶ
ったかもしれません。そうなってい
胸に抱かせてくれました。
月入院し、その間も双方の小児科医
療スタッフが駆けつけてくださいま
でやりとりをしてくださいました。
と
たら残された夫やまだ幼い娘は …
思うと大阪警察病院の医療スタッフ
え、その後、母子手帳や診察券など
息子は現在も頻繁に通院しながら
の方々に感謝の気持ちでいっぱいで
その後、私は病室へ戻ったのです
治療の時期を見計らっている状態で
す。
した。
すが、今でも私が外来通院すると医
そして、死を目の前にして今思う
を 取 ろ う と 少 し お 尻 を 上 げ る と、
師や助産師や看護師さんが息子の状
事は、やはり1日1日を大切にして、
が、手術室から出て夫や母と少し会
態を気にかけてくれます。私が入院
失敗することはあっても後悔しない
救急車の中でも病院に到着してか
中も、夫は毎日娘を実家に預けに行
人生を歩んで行きたいということで
ジョロジョロと血が流れ出てくるた
き、私の見舞いと息子の見舞いに病
す。助けられ生きているからこそ出
話をし、病室に着いて間もなく気分
院 を 行 き 来 し、友 人 や 職 場 の 上 司、
来る事を悔いなく行い、充実した毎
らもジョロジョロ出血しており、幸
知人、家族や親戚、沢山の方々がお
日にしていきたいと思います。
め動く事が出来ず、入院準備をして
見舞いや心配の電話・メールをくれ
ました。 大阪警察病院 医療体験記 作文コンクール 作品集
大阪警察病院 医療体験記 作文コンクール 作品集
闘う相手は自分
ました。
験も豊富で一番と紹介していただき
の疾患については大阪警察病院が経
にも浸潤していることがわかり、こ
は乳頭がんで、しかも食道や気管支
訪れました。検査の結果、私の病気
来ている事がわかり、神戸の病院を
一昨年の7月、甲状腺に腫瘍が出
ちでいっぱいでした。
いたのにと、申し訳なく悔しい気持
た。本当にあんなに良くしていただ
お聞きした時に思わず出た言葉でし
し た の に す み ま せ ん。﹂再 発 し た と
﹁先 生 せ っ か く 助 け て い た だ き ま
﹁死ぬ。﹂という言葉は心から消え去
よ。﹂という子供たちの声を聞いて、
覚 め れ ば 終 わ っ て お り、﹁成 功 し た
ると、9時間にも及ぶ手術が、目が
ました。が、やっとその日が来てみ
り、本当に死ぬのではないかと思い
たすら待ちわびて息も絶え絶えにな
手術には準備の期間が必要で、ひ
た。
ホッと胸を撫で下ろしておりまし
よ。﹂と看護師さんが言って下さり、
一度もそんな人見た事がないです
れてら誰でも泣くよね。でも、私は
泣 し て い た 娘 に、﹁あ ん な こ と 言 わ
直面し、我を忘れておりました。号
んの泣き声を聞いたり、色んな年齢
に病棟をウロウロするうち、子供さ
きました。リハビリで歩く練習の為
からたくさんの元気と勇気をいただ
き、入院が長かった私は、色んな方
最終的には大部屋に入れていただ
ておりました。
られるのかと子供達とお体を心配し
帰っておられるのか、いつ眠ってお
見せてくださり、嬉しい反面、いつ
T先生もお忙しい中、何度もお顔を
もなった気分でおりました。
をさすってくれ、まるでスターにで
け、子供たちも来てくれる度に身体
らのハートフルな手厚い看病を受
痛もなく息のできる嬉しさと皆様か
は肩も痛くなり、息苦しさも出てき
病院の免疫治療も不適合、7月頃に
を 受 け ま し た が、効 き 目 が な く、H
病院を紹介していただき、内部照射
その後、肺への転移の為、岡山の
葉はまさに本当だと思います。
た、大阪警察病院は一番だという言
切にしまっております。以前言われ
様、一人一人私の心の引き出しに大
ことか、美人で心優しい看護師の皆
フの皆様が私に関わっていただいた
までどれだけ多くの先生方やスタッ
いよいよ退院できる事になり、今
合わせておりました。
いでおこうと、声が出ない間は手を
ただ笑顔とありがとうだけは忘れな
もご恩返しすることが出来ず、ただ
奈良県 K・Hさん
T先生に初めてお目にかかった時
りました。私は後日、先生方や家族
の 方 々 が 入 院 さ れ て い る の を 見 て、
本気モードにスイッチが
は、驚く程威厳のあるお姿に身の引
はさぞかし大変な1日だっただろう
ない病人なんだと自覚いたしまし
き締まる思いがしながら、頼もしく
に看取っていただけるだけで幸福で
た。口では偉そうな事を言っていて
ま し た。そ う で す。再 発 し た の で
す。その時が来ましたら、できるだ
も、皆に甘えて泣いて好き放題して
病気になったのが大切な家族ではな
け苦しみのないようお願い致しま
最低だと思いました。こんなに良く
と気付き、申し訳なく思いました。
す。﹂と申しました。すると、
﹁まあ、
していただいて、何もせず負けるの
お話をお聞きしておりました。しか
そうおっしゃらずにがんばりましょ
は悔しいと、やっと私の本気モード
く私で良かったとつくづく思ったも
う。﹂と 言 っ て い た だ き、ま た ま た
にスイッチが入りました。
手術後は絶飲食で、声も出ず、点
ホッと胸を撫で下ろしました。
T先生にお会いでき、大阪警察病
し、最後に、血管が切れて出血した
治療は、入院して行うものでした。
院の最高の先生方や看護師の皆様と
す …
。
放 射 線 治 療 を 受 け る こ と に な り、
不思議で仕方ないのですが、主治医
めぐり会えたのは、神様が私に下さ
のです。私は大部屋が大好きになり
のN先生のお顔を見るたび、今まで
ったご褒美だと感謝いたしておりま
滴や管が繋がれ、時々痰を取ってい
誰にも見せた事のない涙が出て何度
す。皆様方の応援を受け、大切な家
場合は助けようがないと言われ、今
も泣かせていただきました。おかげ
族をできるだけ悲しませないよう闘
延命治療の有無を尋ねられ﹁延命治
様で心が救われました。放射線治療
います。それが皆様への私の最高の
ました。何度かの入院で一人また一
をしたところ、すぐに肩の痛みも取
お礼だと気付きました。もう決して
ただく際の音等、人様から見れば最
れ、息もずいぶん楽になり、喜んで
甘えたりしません。大好きな戦国武
まで病気とは縁のなかった私は、初
おりましたが、腫瘍が思った程小さ
将のように、笑顔とありがとうを武
療は致しません。私は最後をT先生
くなっておらず、退院して後日、抗
器にして闘う事を決めました。私の
人とメル友が増えました。皆様へ何
がん剤治療を受ける事になりまし
大好きな言葉﹁闘う相手は自分﹂で
悪の状態でした。しかし、大した苦
た。﹁さ す が 私 の ガ ン、私 の 性 格 通
す。
めて死ぬかもしれないという現実に
り頑固だ﹂と先生のご苦労をさてお
き、のんきな事を思っておりました。
そして先日、息苦しくなり足もむ
くみ、どうしようもなく救急病棟を
訪 れ た と こ ろ、﹁も っ と 早 く 来 て 下
さいね。﹂と言われ、そのまま入院。
私の優柔不断で皆様にご迷惑をおか
け し ま し た。恥 ず か し い 話 で す が、
やっとここに来て私は死ぬかもしれ
大阪警察病院 医療体験記 作文コンクール 作品集
大阪警察病院 医療体験記 作文コンクール 作品集
今まで言えなかった感謝の言葉を今
…
に検診を受けた際、10月24日の
したいと思い、4カ月後の9月中旬
体を健康にして心配事を1つでも消
た。初 め は 少 し シ ョ ッ ク だ っ た が、
ができているという検査結果だっ
いると、予想と違い、右卵巣に嚢腫
た。おそらく大丈夫だろうと思って
大阪警察病院で診てもらうことにし
多くできたので、自分で病院を探し、
今年に入り、仕事を辞めて時間が
を確認していた。
で内診と超音波検査を受けて、無事
に一度近所の病院や会社の定期検診
術を他病院で受けてから、1∼2年
時学生だった時、左卵巣嚢腫摘出手
産婦人科に入院した。12年前、当
ら10月31日まで大阪警察病院の
私は、2012年10月23日か
ていた。しばらくすると、傷の痛み
がいた病室で、横には父と母が座っ
そして、次に目覚めたのは、自分
すぐに眠った。
に 看 護 師 さ ん が 麻 酔 の 針 を 刺 す と、
ベッドに横になった。そして、左腕
が 呼 ば れ た の で 中 の 手 術 室 に 入 り、
た。私も並んで待っていると、名前
を受けるであろう人たちが並んでい
で来てくれ、そこでは、今から手術
まで行った。父と母も手術室入口ま
に手術の用意を備え、歩いて手術室
かったが、朝が来たので何も食べず
を飲み、朝を迎えた。あまり眠れな
そして、夕食を済ませてから下剤
た。
手術の為、へその掃除をしてもらっ
っそくお風呂に入り、翌日の腹腔鏡
さんから入院生活の説明を受け、さ
そうになった。
か ら 救 わ れ た 気 持 ち に な り、涙 が 出
で い た も の が 取 れ た よ う な、心 の 底
さった時、今まで心の中で沈み込ん
も 取 れ ま し た よ。﹂と 声 を か け て 下
そ の 夕 方、先 生 が 私 の 顔 を 見 て、
話をしに私の所に来てくれた。
師さんと、様子を見に来たり、お世
思う。
これからの人生を歩んでいきたいと
過 ご し た 皆 さ ん に 恥 じ な い よ う に、
ました。あの時、あの場所で、共に
言いたい。本当にありがとうござい
ただいた先生や看護師さんにお礼を
さん、そしてたくさんお世話してい
した、今でも病気と闘っている患者
らうことにした。あの時部屋を共に
に言えなかった気持ちを書かせても
目 に 退 院 す る こ と が で き た。私 は
ことをお世話してもらい、術後1週
それからも、看護師さんに多くの
寝屋川市 T・C さん
手術を予約して帰った。
と吐き気に襲われ、すぐに看護師さ
同じ時を過ごした人たちへ
入院日の朝は、父と母に車で病院
んに洗面器をもらい、何度か嘔吐し
元々口下手なので、このような機会
に送ってもらった。到着し、入院の
た。先生を初め、研修医さん、看護
﹁手術は無事終わって、 できもの
手続きを済ませると、病室で看護師
初来院から今までを振り返って …
った時代だと思います 。
…迷う私の
隣で妻が﹁心配やから機械を入れて
も機械を体内に埋め込むか 。
…セカ
ンドオピニオンなんて言葉さえなか
先一生、薬を飲み続けるか、それと
メーカーの説明を受けました。この
検査の結果、先生から心臓ペース
ったことを覚えています。
験のことだったので、不安で一杯だ
ろいろ検査をするとか 。
…それまで
健康優良児だった私にとっては初体
管を入れて心臓までもっていき、い
け、ひとまず検査入院することに 。
…
まず初めは、足の付け根から細い
病 院 へ 転 院 し てK先 生 の 診 察 を 受
車で運ばれました。翌日、大阪警察
を 起 こ し て 倒 れ、
I市 民 病 院 へ 救 急
24年前の春、勤務中に失神発作
。
左胸から右胸へ移すことに …
ちょうど中学の野球部に入ったば
るということで、機械をそれまでの
いるリード線が切れそうになってい
が、機械から心臓の中へつながって
今も忘れられません …
。
機 械 そ の も の は 異 常 な い の で す
初めての電池交換手術の時のことは
生 も 変 わ っ て し ま っ た わ け で す が、
生きてきて、それなりに私自身の人
以来24年間、この機械と一緒に
んてとんでもない …
と、後の祭りな
がら悔しい思いもしました。
ると、な、なんと、10円玉3枚な
へ …
。無事に手術が終わってしばら
くしてから恐る恐る左胸を触ってみ
い。﹂と 励 ま さ れ、い よ い よ 手 術 台
た程度の大きさやから大したことな
ら﹁大丈夫や、10円玉を3枚重ね
手術を待つ間、相部屋の老先輩か
階上へ行くのにもわざわざ靴を脱が
時の大阪警察病院は、古くて暗くて、
あれから四半世紀、初めて行った
思い感謝しています。
真っ直ぐに育ってくれたのかも?と
したが、この機械のお陰でスクスク
かり大人になって巣立ってしまいま
くれた子供たちも、今は、もうすっ
。
…
当時、みんな揃って見舞いに来て
ボロボロ流れて止まらなかったなぁ
恥ずかしながらあの時は本当に涙が
かぁ?﹂と声を掛けてくれましたが、
ん が カ バ ー を 捲 っ て﹁大 丈 夫 で す
を流していました。時折、看護師さ
哀しくて …
手術を受けながら顔を覆
われたカバーの中で一人ボロボロ涙
く な る ん や な ぁ と 思 う と、哀 し く て
子とのキャッチボールももう出来な
腕を思い切り振れなくなるため、息
メーカーを右胸に入れてしまうと右
いしま∼す!
看護師さん、今後ともよろしくお願
い よ う に 気 を つ け ま す の で、先 生・
いです。他の病気でお世話にならな
世話になるのはこの機械だけにした
笑 。)
幸を喜んでくれてました …(
死 ぬ ま で お 世 話 に な り ま す け ど、
うに﹁そうでしょう∼﹂って人の不
ら、そのときの看護師さんは嬉しそ
﹁ホ ン マ に 痛 か っ た よ﹂っ て 言 っ た
すよ∼﹂などと言いながら、胸への
ように﹁ちょっとだけチクッとしま
を胸に刺すときにも、いつもと同じ
けど、手術のときに局部麻酔の注射
クッとしますよ∼﹂と言ってくれる
も採血のときには﹁ちょっとだけチ
ものです。あの頃から看護師さんに
リームを食べたなぁ …
。今の建物に
建て替わったときにはビックリした
入院中はよく屋上に出てアイスク
堺市 H・S さん
も ら い や、そ の 方 が 安 心 や か ら …
﹂
と囁くもんですから、仕方なく私も
かりの息子とのキャッチボールを楽
なくてはなりませんでした。でも、
ペースメーカー手術の思い出
ペースメーカーを体内に埋め込む手
しみにしていた私にとって、ペース
注 射 は ち ょ っ と ど こ ろ で は な い!
は本当にお世話になりました。いつ
術を受けることに決めました。
大阪警察病院 医療体験記 作文コンクール 作品集
全員が全力で僕を救おうとしてくれている
ラ検査の結果、腹腔鏡の手術が可能
てもらい直ぐに診察を予約。胃カメ
感じました。そして、紹介状を書い
が、この方に診てもらいたいと強く
決まり、覚悟を決めてはいたのです
説してありました。手術の日取りも
とい
院 の 医 師 の 記 事 が あ り、 GIST
う稀な病気についてわかりやすく解
検索しました。その中に大阪警察病
り、病気のことをインターネットで
始めての大きな手術。私は不安にな
なくてはならないとのこと。人生で
め、食道の一部と胃の上部を切除し
果、腫瘍は食道のすぐ近くにあるた
ることになっていました。検査の結
診断され、某総合病院で手術を受け
ほどのGISTという腫瘍があると
医の診察を受けたところ、胃に4㎝
今年六月に血便が出て、近くの内科
いかと思うぐらいです。また、胃の
も手術したとはわからないのではな
た感じです。たぶん、この傷を見て
です。おへそがちょっと大きくなっ
ことが。手術の傷が非常に小さいの
ていませんでしたが、さらに嬉しい
の腫瘍を摘出しました。幸い転移し
感でした。手術は成功し、5㎝ほど
術台の上で感じていました。それは、
僕を救おうとしてくれている﹂と手
ます。私は﹁この方々全員が全力で
か?﹂と看護師さんが気遣ってくれ
す か?変 わ っ た こ と は な い で す
ど ん 取 り 付 け て 行 き、﹁痛 く な い で
で様々な器具や管を僕の身体にどん
6・7名のスタッフの方々がみんな
と を よ く 覚 え て い ま す。手 術 前 に、
た時、非常に幸せな気分になったこ
っぱいでしたが、手術台に横になっ
書いておきたいです。
献身的な仕事ぶりに感動したことを
最後に、入院病棟の看護師さんの
皆さんには本当に感謝しています。
当して頂いた先生を初め、看護師の
は本当にラッキーでした。手術を担
病気になり色々ありましたが、僕
思います。
うものになっていたのではないかと
ければ、これからの生活が大きく違
をお祈りしております。
院スタッフの皆様のご健康とご多幸
りがとうございました。大阪警察病
大変な仕事だと思います。本当にあ
長崎県 Y・Rさん
とのこと。私は迷わず大阪警察病院
形にもさほど変化がないとのことで
大阪警察病院の皆さんありがとう
での手術をお願いしました。
した。大阪警察病院を選択していな
何だか今まで感じたことのない幸福
手術当日、やはり不安と緊張でい
心温まる作品…
ありがとうございました。
このリーフレットに掲載されている作品は
当院ホームページでもご覧いただけます。
http://www.oph.gr.jp/blog/kouhou
発行: 大阪警察病院 企画調整課