Title 貨幣の資本への転化についての一問題 : 流通形態 - HERMES-IR

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貨幣の資本への転化についての一問題 : 流通形態の転換
をめぐって
宮沢, 俊郎
一橋研究, 14(4): 161-178
1990-01-31
Departmental Bulletin Paper
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http://hdl.handle.net/10086/5994
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Hitotsubashi University Repository
貨幣の資本への転化についての一問題一流通形態の転換をめぐって一 161
貨幣の資本への転化についての一問題
一流通形態の転換をめぐって一
宮 沢 俊 郎
1.問題の所在
r資本論」におけるr貨幣の資本への転化」論は,三段階の論理構造をなし
ている。第一に,W−G−Wとは区別されるG−W−G’という流通形態とし
て資本の一般的定式を定立すること(r資本論』の編別構成に対応させれば第
一巻第四章第一節),第二に,このG−W−G’という流通形態の含むr矛盾」
を析出し,この矛盾を解決すべきものとしてr労働力」商品を導出すること
(同第四章第二∼三節),第三に,この労働力の現実の消費による剰余価値の
(1)
生産を具体的に明らかにすること(同第五章)である。この三段階は,時問的
な順序による三段階ではなく,むしろ構造的(論理的)な順序による三段階,
すなわち産業資本の構造を論理的に叙述するための三段階であ乱
第一段階は,流通に属している。というのも,G−W−G’が資本の一般的
定式として定立されるのは,生産過程とは相対的に区別される流通の場におい
てだからである。そしてこの段階ですでに,貨幣は資本に転化している。実際,
r資本論」でG−W−G’という「流通を描く貨幣は自らを資本に転化する」
(2) ... ..
(KI,162)とか,G−W−G’という流通の「運動が価値を資本に転化する」
(KI,165)と言われているように,貨幣がG_W_G’という流通の形態を描
くことこそが,この段階でのr貨幣の資本への転化」の意味するところである。
そして,G−W−G’が資本の一般的定式と言われるかぎりでは貨幣がG−W−G’
という流通形態を描くというこの第一段階でのr転化」こそが貨幣の資本への
転化の基本規定である。
第二段階も,それ自身としては流通に属しているが,同時に第三段階の生産
過程への移行のための媒介をもなしてい乱すなわち,G−W−G’という流
通形態は,これまでの直接的な商品流通(W−G−W)の法則とは矛盾し,し
162
一橋研究第14巻第4号
だがって貨幣がG_W_G’という流通の形態を描く(すなわち貨幣が資本へ
転化する)ためには,この矛盾を解決する労働力商品の売買が必要であるとさ
れる。第二段階では,第一段階で与えられた貨幣の資本への転化の基本規定を
実現するための条件が流通過程のなかに見い出されている。
そして,第三段階において,この労働力が生産過程で実際に消費され乗1」余価
値が生産されることによって,貨幣はG−W−G’という流通の形態を現実に
描きうることになる。貨幣がG_W_G’という流通の形態を描くという第一
段階で与えられた貨幣の資本への転化の基本規定は,ここに至って実現される。
すなわち,「手品はついに成功した。貨幣は資本に転化している」(KI,209)
と言われるのである。
以上見たことからもわかるように,この三段階は,さらに大きくみれば,次
の二つの問題からなっている。第一に(第一段階),貨幣の資本への転化の基
本規定そのもの(G_W_G’という流通形態としての資本の一般的定式)が定
立される。第二に(第二∼三段階),この基本規定を前提としつつ,この基本
規定が産業資本の貨幣の資本への転化としていかに実現しうるのかというその
条件と過程とが問題にされる。その際,第一の問題においては,G_W_G’
の定立がいかになされるのかということが一つの問題となるであろう。この問
題は,G−W−G’という流通形態がいかにして生じてくるかという問題,言
い換えれば,G_W_G’という流通形態とその前提としてのW_G_Wとの
関連をいかに理解するのかという問題でもある。
以下本稿で取り上げるのは,もっぱら第一の問題である。というのも,従来,
第二の問題については『資本論』に即しつつ多く論じられてきたのに対して,
第一の問題については十分に解明されていないからである。また,第一の問題
が扱われる際にも,W_G_WとG_W_G’との論理的関連としては,前者
から後者へのr移行」の問題としてよりも,むしろ両者が「併存」することの
(3)
根拠や意味を確定する問題として論じられてきた場合が多い。それに対して,
W_G_WからG_W_G’への「移行」の問題は,r資本論』の論理から離れ
(4)
て歴史的論理として多く論じられてきたと言える。もちろん,このことは,r資本
論」のr貨幣の資本への転化」論が,G−W−GがW−G−Wと併存するという事
実の発見から出発しており,このG−W−GあるいはG−W−G’がW−G−W
からいかに生じて来るのかを明示的には問題にしていない,ということにも因っ
貨幣の資本への転化についての一問題一流通形態の転換をめぐって一 163
ている。
本稿の課題は,W_G_WとG_W_G’の関連を,できうるかぎり前者から
後者へのr移行」の問題として,しかもそのことを歴史的論理としてではなく構
造的論理として解明することにある。そして,そのことは,r資本論』で明示的に
は論じられていないとはいえ,r資本論』の処々の叙述に着目し,それの中に論理
的脈絡を見い出すことによって可能であると考える。もちろん,すべてのW_G_
WがG−W−G’へと論理必然的に移行するわけではない。しかしながら,G−
W_G’に論理的に先行するものとしてのW_G_WはG_W_G’の前提をな
し,またG−W−G’へと継承される諸契機をその中にすでに含んでいるのである。
その際,r資本の一般的定式」たるG−W−G’とはG−W−Gのr完成された
形態」(KI,165)である。すなわち,本来的にG−W−GはG−W−G’でなけれ
ばならず,このかぎりで両者は形式的にも内容的にも区別されない。それに対し
て,W_G_WとG_W_Gとは形式的にも内容的にも区別される。したがって,
W−G−WからG−W−G’への移行の問題は,W−G−WからG−W−Gへの
移行の問題に帰着するのである。
以下,第二節ではr資本論」に即しつつW−G−WとG−W−Gのr区別」を見
ることによって,前者から後者への論理的移行がどのような性格のものである
かを確定する。第三節では,この移行のための契機をW−G−Wの内部に見い
出す。そして第四節では,この移行の論理そのものを解明す乱
(1) この三段階のうち,r資本論』の「貨幣の資本への転化」という表題の章(以
下r転化」章と略記)に含まれているのは第一∼二段階のみであ孔それに対
して,一ユ859年や186王年の草案プランでは,第三の段階(いわゆる価値増殖過程)
までもが「貨幣の資本への転化」の中に含まれている。このプラン変更につい
ては,頭川博r貨幣の資本への転化とは何か」(r高知大学学術研究報告』第31
巻,1982年),坂口明義「貨幣の資本への転化」(種瀬茂編著rr資本論』の研
究』青木書店,1986年所収)参照。なお,頭川氏は,本稿で整理した第二段階
(労働力の売買による矛盾の解決)を貨幣の資本への「即自的転化」,第三段
階(剰余価値の実際の生産)を「現実的転化」としてい孔(3頁)。
(2)以下,本稿でのマルクスからの引用の際に用いた版と略号は以下のとおり。
①r経済批判要網』……新メガ版(1ユと略記),②r1861∼63年草稿』……
新メガ版(1I3と略記),③r資本論』第一巻現行版・…・・全集版(KIと略記),
④r直接的生産過程の諸結果』・・・…NeueKritik版(Rと略記入それぞれの
略号の後に頁(④のみノート頁)を数字で示した。引用文中の[コは引用者
による補足,傍点による強調も引用者によるものである。
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(3)例えば,頭」l1前掲論文の問題関心はW_G_WからG_W_G’への移行の
論理の究明にあるのではなく,むしろ両者の同時併存の根拠を示すことにある
(5∼12頁)。また両者の同時併存の意味を指摘しているものとしては,例えば,
r資本主義的生産」は「同時的にW−G−Wという素材転換をもあわせて貫徹
する」ことなしには「G−W−G’を遂行」しえない(松石勝彦r資本論研究』三
韻書房,1983年,37∼38頁)。
(4) ここで「歴史的論理」とは,産業資本が生成してきた歴史的事実を表象しつ
つ,それをモデルに論理を組むということである。その際,どのような歴史的
事実に着目するかによって,二つのr視角」に分かれる。すなわち,世界商業
による封建的生産様式の外部分解過程(商人資本→産業資本コース)に着目す
るのは「流通浸透視角」であり,生産力の発展にもとづく小生産様式の内部分
解過程(直接的生産者→産業資本コース)に着目するのが「社会的再生産の視
角」である(佐藤金三郎r「資本論」と宇野経済学』新評論,1968年,172頁参
照)。
2.W−G_WとG_W_Gの「区別」
r資本論」においては,W−G−WからG−W−Gへの「移行」が明示的に
は問題とされていない。むしろ,r転化」章の第一節r資本の一般的定式」は,
W−G−WとG−W−Gが併存するという事実の発見から出発してい乱すな
わち,W−G−Wというr商品流通の直接的形態」rと並んで(neben)」,G−
W−Gという「第二の特殊に区別される形態を我々は見い出す」(KI,162)と
言うのである。その際,「我々は見い出す」ということは,この併存という事
実を直接的(非媒介的)に与えられたものとして受け入れ,その被媒介性(い
かにして生じてきたかということ)はさしあたり問題にしないということであ
る。また,W−G−Wと「並んで」G−W−Gがあるということは,二つの流
通形態の関連は相互併存的(nebeneinander)=相互外在的なものにすぎず,
両者の内的関連(したがって一方から他方への移行ということも)さしあたり
は問題にされないということであ・る。実際,その当該節のそれ以降の叙述でも,
W−G−WとG−W−Gとがそのr形式的区別」と「内容的区別」に即して比べ
られる(外的関連に立たされる)だけであり,両者の内的関連は明示的には述
べられていない。
たしかに,我々が眼前にする出来あがったブルジョア社会においては,W−
G−WとG−W−G’という二つの流通形態が併存してい乱 しかしながら,
所与としての事実(直接的な)を叙述するのみならず,その直接性を媒介され
貨幣の資本への転化についての一問題一流通形態の転換をめぐって一 165
たものとして(出来上がっている結果をその生成の過程へ再び流動化して)示
すことこそが,経済学批判の意義であることもまた言うまでもないことである。
したがって,一般に併存するものとして見い出される二つの事柄の関連の論理
構造の解明の際にも,論理的により後のものを論理的により先のものによって
媒介されたものとして示すこと(そのことは同時に,論理的に先のものが論理
的に後のものによって逆に根拠づけられることでもある)が必要であ乱
ところで,併存するものとして見い出される二つの流通形態のうち,W_G_
WがG_W_Gに論理的に先行すると言える。このことは,二つの流通形態
における貨幣の性格に着目することによっても明らかなものとなる。W−G−W
においては,貨幣は商品流通を媒介するための手段(流通手段)である。それ
に対して,G_W_Gでは貨幣そのものが流通の目的をなしている(正確に言
えば,価値しかもより多くの価値が目的であり,貨幣はこの価値がr自己同一
性」を確証するための「自立的形態」(KI,169)である)。後にも詳しく見る
ように,貨幣は第一次的には手段(商品の価値を尺度し,また商品を流通させ
るための手段)であり,この手段の自己目的化の結果として第二次的にのみ目
的となる。このかぎりで,W−G−Wという流通形態がG−W−Gという流通
形態に論理的に先行すると言えるのであ乱
実際,r資本論』でも,すでに見たように,W−G−Wの方はr商品流通」
のr直接的形態」(=第一次的形態)であると言われている。それに対して,
r第二の特殊に区別される形態」たるG−W−Gは媒介された形態(第二次的
な,派生的な形態)と考えるべきであろう。もちろん,ここで「媒介された」と
は,W_G_Wという第一の流通形態,あるいはそれが含む諸契機によって媒介
されているという意味である。
それでは,G−W−GはW−G−Wによっていかに媒介されているのだろう
か。W_G_WからG_W_Gへの移行の論理とはいかなるものなのだろうか。
すでに見たように,r資本論」ではこのことが明示的に述べられていない。し
かし,『資本論」の種々の叙述の問に,ある論理的脈絡を見い出すことは可能
である。まずは,『資本論』で明示的に述べられている両形態のr区別」を見
ておこう。というのも,一方から他方への移行を考える際にも,その前提とし
て,両者の性格を対比的に確定しておくことが必要だからである。
r資本論』のr転化」章は,W−G−WとG−W−Gのr形式的区別」をrさ
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一橋研究第14巻第4号
しあたり」問題とする。そして,そのことによって「この形式的区別の背後に
ひそんでいる内容的区別も同時に明らかになる」(KI,/62)と言㌔その際,
ここで注意するべきことは,形式的区別が内容的区別に先行するのは,あくま
でも叙述の順序としてであることである。対象そのものの論理としては,内容
的区別が形式的区別に先行すると考えられるべきであろう。このことを見るた
めにも,r資本論』でr形式的区別」と「内容的区別」と言われていることの
意味内容を確認しておかなければならない。
W_G_WとG_W_Gの「形式的区別」とは,基本的には「売り」W_G
とr買い」G_Wの順序が逆になっていることである。W_G_Wは「売り
で始まり買いで終わる」。G−W−Gはr買いで始まり売りで終わる」。その結
果,W_G_WではWが「出発点と終点をなし」Gがr媒介する」。G_W_G
ではGが「出発点と終点をなし」Wが「媒介する」。このことを貨幣の支出の
されかた(支出される貨幣の行方)という面から見ると,W−G−Wでは貨幣
はr最終的に支出されており」,ここでは貨幣の還流ということは問題になら
ない。それに対して,G_W_Gでは,貨幣の支出とはr貨幣が前貸しされる」
ことにすぎず,この出発点での貨幣のr支出のありかた」がr貨幣の還流」と
いう結果を「条件づけ」ているのである(以上KI,163∼4)。
かくして,売りと買いの順序が逆になるという「形式的区別」は,貨幣の還
流が生じるか否かというこのr感覚的に知覚可能な区別」(KI,164)として総
括され,次の「内容的区別」へと連なっていくことになる。
「内容的区別」とは,W−G−WとG−W−Gのr内容」あるいは「目的」
(5)
にかかわる区別である。W_G_Wでは,貨幣はr最終的に支出されて」しま
うが故に,貨幣はこの流通形態にとってはたんなる手段であり,r最終目的」
はむしろ商品(あるいはr使用価値」)であ乱そして,この流通形態の「内容」
は社会的素材転換,すなわち「社会的労働を表している種々の素材の転換」r生
産物交換」である。それに対して,G−W−Gにおいては,貨幣の還流という
その形式の故にr交換価値そのもの」がr起動的動機であり規定的目的」であ
る。また,そのr内容」はr両極の質的区別ではなく」,交換価値という質的
同一性を前提したうえでのその「量的差異」である(以上KI,164∼5)。
このように,W_G_WとG_W_Gの「形式的区別」とは基本的にはW_G
とG_Wの順序が逆であること,「内容的区別」とはW_G_Wが社会的素材
貨幣の資本への転化についての一問題一流通形態の転換をめぐって一 167
転換(使用価値)を目的とするのに対して,G_W_Gでは交換価値そのもの
が目白勺をなしていることである。したがって,r資本論」の叙述の順序として
は形式的区別が内容的区別に先行するが,対象そのものの論理としては内容的
区別が形式的区別に先行するということは,次のことを意味する。すなわち,
対象そのものの論理としては,W_GとG_Wの順序の逆転(W_G_Wから
G−W−Gへの逆転)が生じるが故に,使用価値を目的とする流通の形態が交
換価値を目的とする流通の形態へと逆転するのではない。むしろ,使用価値を
目的とする流通の形態(W−G−W)の中から,この流通では手段にすぎない
交換価値が自己目的へと転ずるという内容上の変化がすでに生じているからこ
そ,この変化した内容を実現すべき形態として「第二の特殊に区別される形態」
(6)
(G_W_G)が生じるのである。
言い換えれば,W_G_Wとは本来は使用価値を目的とする流通であるにも
かかわらず,この流通の形態そのものの内部に,交換価値を目的とする流通へ
の移行の契機が含まれている。実際,W−G−Wとは一つの社会的素材転換で
あるとしても,たんなる素材転換ではなく,形態転換によって媒介された素材
転換である。形態転換の側から言えばr社会的素材転換を媒介する形態転換」
(KI,119)であ孔そして,r社会的素材転換を媒介する」この「形態転換」
がW_G_Wの内部においてすでに自己目的化し始めること,すなわち商品
(使用価値)を媒介する貨幣(交換価値)がW−G−Wの内部ですでに自己目
的化し始めることこそが,「内容」上の変化として,G_W_Gへの移行の出
発点となる。次節でこのことを詳しく見てみよう。
(5) r内容」とは対象を客観的な面から見たもの,r目的」とはこの内容を主観
的な面から(行為する人間の意識に即して)見たものである。例えば,「かの
流通[G−W−G’]の客観的内容一価値増殖一が,資本家の主観的目的であ
る」(KI,167)。「運動の内容として現われるものが,彼〔資本家]のもとでは
意識された目的として現われる」(皿3,16)などと言われてい孔
(6)内容的区別を欠いた形式的区別,W−GとG−Wのたんなる順序の逆転は
認識者による外的操作でしかない。このことは,価値形態の第二形態から第三
形態への移行における形態的区別(両極の逆転)と内容的区別(「価値形態の
変化した性格」)についても言える。
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一橋研究 第14巻第4号
3.W_G_Wにおける手段と目的の転倒
W−G−Wとはr商品流通の直接的形態」であ孔それは,r資本論』の第
一巻第三章ではたんにr商品流通」と言われていた。もちろん,r商品流通」
とは個々の商品のW_G_Wという循環ではなく,多くのW_G_Wの社会
的総体にわたる連鎖である。すなわち「どの商品の変態列が描く循環も他の諸
商品の循環ともつれ合い絡みあっている」(KI,126)。『資本論』第一巻第三章
r貨幣あるいは商品流通」で述べられているr貨幣」の三規定はこのr商品流
通」とそれぞれ次のような関連にある。第一に,r価値尺度」としての規定は
(7)
この商品流通のための前提である。第二に,r流通手段」としての貨幣はこの
.. .. (8)
商品流通そのものを実現(媒介)するものである。第三に,「貨幣」としての
.. .. (9)
貨幣の規定はこの商品流通の運動の産物(結果)である。
さて,前節で見たように,W_G_WからG_W_Gへの移行とは,内容的
区別に即してみたとき,貨幣(交換価値)が手段から自己目的へと転化するこ
とであった。それに対して,「商品流通の直接的形態」たるW_G_Wの内部に
おいては,貨幣の流通手段としての規定から貨幣としての貨幣(とりわけ蓄蔵
貨幣)への移行によって,やはり貨幣(交換価値)が手段から自己目的へと転
化すると言える。実際,貨幣は流通手段としては商品流通のための手段
(Mitte1),r商品流通の媒介者(Vermit七1er)」(KI,128)である。それに対
して,貨幣の蓄蔵貨幣としての規定においては,W_Gという「形態転換が素
材転換のたんなる媒介(Vermit七1ung)から自己目的(Se1bstzweck)になる」
(KI,144)。すなわち,ここでは貨幣を得ること,貨幣そのものが自己目的と
(1O)
なっているのである。
また流通手段から蓄蔵貨幣へのこの移行による貨幣の自己目的化は,商品流
通におけるr素材転換」と「形態転換」との目的一手段の関係の転倒でもある。
実際,r社会的素材転換を媒介する形態転換」と言われていたごとく,本来W_
q−Wでは社会的素材転換が目的であり,形態転換はその目的を実現するた
めの手段(媒介)をなすにすぎない。言い換えれば,W_G_Wはこの形態転
(11)
襖の外に目的をもち,この形態転換そのものはそのための手段である。しかし
ながら,蓄蔵貨幣の出現によって商品流通における素材転換と形態転換のこの
関係に変化が生じる。すなわち,蓄蔵貨幣においては「形態転換が素材転換の
たんなる媒介から自己目的になる」と言われるように,素材転換と形態転換の
貨幣の資本への転化についての一問題一流通形態の転換をめぐって一 169
本来自勺な目的一手段関係が単調し始める。W_Gという形態転換は他のもの(素
材転換)のための手段というよりは,自己自身を目的としているのである。
ところで,「商品流通の直接的形態」たるW_G_Wにおける流通手段から
蓄蔵貨幣へのこの移行は,この流通形態の構造そのものによる必然的帰結であ
る。次にこのことを見てみよう。
本節の最初で述べたように,流通手段としての貨幣は商品流通そのものを媒
介するものであり,蓄蔵貨幣としての貨幣はこの商品流通の産物(結果)であ
る。したがって,蓄蔵貨幣はW_G_Wという流通の形態,あるいは流通手
段としての貨幣の規定を前提にしている。というのも,W_G_Wがその前半
のW_Gで中断され,後半のG_Wによって補われることがないということ
こそが,貨幣を流通手段から蓄蔵貨幣へと転化させるからである。すなわち,
r売りがそれに続く買いによって補われず, 日W−G−Wというコ変態列が中
断されると,たちどころに貨幣は鋳貨[流通手段]から貨幣[蓄蔵貨幣]にな
る」(KI,144)。このように,流通手段と蓄蔵貨幣とは,論理的には,前者か
ら後者へと移行する関連にある。もっとも,この移行はカテゴリー上の移行で
あり,現実にはすべての流通手段が同時に蓄蔵貨幣へと移行するのではなく,
両者が併存している。
また,流通手段から蓄蔵貨幣へのこの移行(転化)は,W_G_Wという運
動にとっては必然的であ乱実際,r資本論』でも次のように言われてい乱
r商品流通そのものの発展の最初のうちから,第一の変態[W−G]の産物,
すなわち商品が転化された姿だる金嫡を固持する必然性と情熱が発展する」
(KI,144)。あるいは,rより発展した商品生産」においても,「どの商品生産
者もが」r社会的抵当物件[蓄蔵貨幣]を確保しなければならなくなる」(KI,
145)。
その際,流通手段から蓄蔵貨幣へのこの移行の必然性は,根本的には,「彼
[商品生産者]じしんの商品の生産と売りが偶然的である」(同上)という商
品生産および商品流通の基本構造そのものによっている。実際,商品流通とは
私的生産者の個別的交換諸行為の社会的総体にわたる連鎖であり,ここでは個々
の交換者の主観的意図と社会的総体の客観的結果との対立が端的に現われても
いる。すなわち,r分業」は「商品所持者たちを独立な私的生産者とする」が,
同時にr社会的生産過程とこの過程における彼らの関係を彼らじしんから独立
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一橋研究 第14巻第4号
したものにもする」(KI,122)のである。
しかも,このことはW_G_Wの前半のW_Gにおいてより顕著に現われ
る。r商品は貨幣を恋い慕うが,rまことの恋が平穏無事に進行したためしはな
い」」(同上)と言われているように,どの商品所持者の商品もが貨幣と交換さ
れるべきであるにもかかわらず,人々の社会的関係がどの個人からも「独立し
ている」が故に,この売り(W−G)は「偶然的」である。そして,W−Gが
このように「命懸けの飛躍」(K正,120)であるからこそ,W_G_Wが前半の
W−Gで中断し,そのW−Gのみによって貨幣を流通から弓1きあげるという
ことが自己目的化することにもなるのである。
以上見たように,貨幣の蓄蔵貨幣として規定はW_G_Wという流通形態
を前提とする。また,流通手段から蓄蔵貨幣への移行は,W_G_Wの構造に
よる必然産物(帰結)である。流通手段から蓄蔵貨幣へのこの移行によって,
W_G_Wの内部においてすでに貨幣が自己目的化し始め,また素材変換と形
態変換をめぐる手段一目的の関係に逆転が生じ始めている。そして,そのかぎ
りで,貨幣あるいは商品流通(W_G_W)は資本としての貨幣の流通(G_
W_G)に一歩近づいていることになる。実際,蓄蔵貨幣が獲得した自己目的
化された貨幣という規定は,資本としての貨幣の流通(G_W_G)に受け継
がれることになるであろう。また,形態転換そのものが自己目的であるという
ことも,G_W_Gに受け継がれ,r資本としての貨幣の流通[G_W_Gコは自
己目的である」(KI,167)と言われることになるであろう。逆から言えば,交
換価値(貨幣)を自己目的とする流通形態たるG_W_Gは,W_G_Wの内
部での流通手段から蓄蔵貨幣への移行という形で成就している貨幣の自己目的
化を前提とし,またそれを継承しているのである。
とはいえ,蓄蔵貨幣は蓄蔵貨幣であってまだ資本ではない。あるいは,蓄蔵
貨幣において自己目的となった形態転換はまだW_GであってG_W_Gで
はない。さらにはそもそもあらゆる蓄蔵貨幣が資本(G_W_G)へと転化す
るわけではなく,流通手段から蓄蔵貨幣への移行は,W_G_WからG_W_G
への移行を媒介するものではあっても,この媒介そのものではない。節をあら
ためて,この移行そのものを問題にしよう。
貨幣の資本への転化についての一問題一流通形態の転換をめぐって一 171
(7) 「流通に対しては」「諸商品の諸価格としての前提」が「必要」である。した
がって「本来,価格の概念が流通の概念の前に展開されなければならない」
(皿1,118)。商品の価格としての規定に対応する貨幣の規定は「価値尺度」で
ある。このかぎりで,「価値尺度」が商品流通の前提である。r資本論』に即して
言えば,「商品は実在的には使用価値であり,商品の価値存在はただ価格のなか
に観念的にのみ現われる」(KI,119)というのが「価値尺度」の段階である。そ
して,この「観念的」な「価値存在」を実現する(実在的なものとする)のが流
通手段の段階である。
(8) したがって,r資本論』でも,「商品流通」の概念は第三章のうちの第二節「流
通手段」で展開されることになる。
(9)第三規定の貨幣は,それが「流通から生じる」かぎりにおいて,「流通の結果
として現われる」あるいは「流通の産物である」(I1,I43)。
(1O)同じく貨幣の第三規定の一つである「支払い手段」についても,「商品の価
値姿態すなわち貨幣は,いまや流通過程の関係そのものから生じる社会的必然
性によって売りの自己目的となる」(KI,150)と言われている。
(川 「単純な商品流通[W G−Wコは,その流通の外にある最終目的,すなわ
ち使用価値の取得,欲求の充足のための手段として役立つ」(KI,167)。
4.W_G_WからG−W_Gへの移行
すでに見たように,r資本論」においては,W一一G−WがいかにしてG−W−G
へ移行するかということ.が明示的には論じられていない。もちろんこの移行に
ついて何も言われていないわけではない。例えば,W−G−WがG−W−Gの
論理的前提をなすことまでは,「転化」章の冒頭で次のように言われている。
r商品流通は資本の出発点である」。あるいは,r商品流通の最後の産物」たる
r貨幣」がr資本の最初の現象形態」である(KI,16ユ)。
すなわち,ここでr商品流通」とは,資本に対する前提としては,W−G−W
のことである。また,「貨幣」を「最後の産物」としてもたらす「商品流通」
も,前節で見たごとくW−G−Wである。他方,資本は最初はr資本.として
の貨幣の流通」たるG_W_Gとして定立されるのである。したがって,r商
品流通が資本の出発点である」とかr商品流通の最後の産物が資本の最初の現
象形態である」ということは,W−G−WがG−W−Gの前提であるというこ
とにほかならない。
しかしながら,「商品流通が資本の出発点である」,あるいは「商品流通の最
後の産物」たるr貨幣」がr資本の最初の現象形態である」とは,具体的には
どのような意味であろうか。W−G−WがG−W−Gの論理的前提であるとい
172
一橋研究第14巻第4号
うことの具体的意味内容は何であろうか。ここでは,「商品流通の最後の産物」
がr資本の最初の現象形態」であるという一文の意味内容をやや詳しく考察し
てみよう。r商品流通の最後の産物」とは何なのか。「資本の最初の現象形態」
とは何か。そして,この両者の論理的関係はいかなるものなのか。
まずは,r商品流通の最後の産物」について見てみよう。r資本論」によれば,
「商品流通の最後の産物」とはr貨幣」である。しかも,商品流通というr過
程が生み出す経済的諸形態」のうちのr最後の産物」としての「貨幣」である
(KI,161)。その際,このr貨幣」の意味内容は何であろうか。r資本論」第
一巻第三章の表題「貨幣あるいは商品流通」に言うところの貨幣であろうか。
すなわち,価値尺度,流通手段,貨幣という三機能をすべて含む包括的な意味
での貨幣であろうか。それとも,第三章のなかの第三節の表題のr貨幣」であ
ろうか。すなわち,第三機能の貨幣のみを含む限定された意味での貨幣だろう
か。本稿の見通しによれば,貨幣が商品流通の最後の産物であると言われる際
に表象されていたのは,他の二規定(価値尺度と流通手段)を前提しつつも,
主要には第三規定の貨幣(貨幣としての貨幣,特には蓄蔵貨幣)である。この
ことは次の理由による。第一に,貨幣の第三規定こそが貨幣あるいは商品流通
のr最後の」規定である。第二に,貨幣の第三規定こそが商品流通の最後の
r産物」である。これに対して,価値尺度としての貨幣は商品流通の前提であ
り,また流通手段としての貨幣も商品流通の前提あるいは商品流通そのものを
媒介するものである。どちらも,商品流通のr産物」ではない。W_G_Wと
いう商品流通の運動の中で,この運動が前半で中断することによって生じてき
た蓄蔵貨幣こそが商品流通のr産物」と言うにふさわしい。
そして第三に,「商品流通の最後の産物」としての「貨幣」はr資本の最初
の現象形態」となるべきものでなければならない。すなわち,W_G_Wから
G_W_Gへの移行の媒介となるものでなければならない。本稿の第二節で見
たように,W−G−WとG−W−Gの内容上の区別は次のことにあった。前者
においては,使用価値,商品,素材転換が目的をなし,交換価値,貨幣,形態
転換はそのための手段をなすにすぎない。それに対して,後者においては,こ
の交換価値,貨幣,形態転換がむしろ自己目的となっている。したがって商品
流通の最後の産物でありかつ資本の最初の現象形態であるもの,すなわちW_
G_WからG二W_Gへの移行の媒介をなすものは次のようなものでなければ
貨幣の資本への転化についての一問題一流通形態の転換をめぐって 173
ならない。すなわち,使用価値,商品,素材転換という目的を媒介する流通形
態(W_G_W)から生じてきたものでありながら,交換価値,貨幣,形態転
換が自己目的化しているという規定を含むものでなければならない。このかぎ
りでは,r商品流通の最後の産物」たるr貨幣」とは蓄蔵貨幣である。あるい
は,少なくとも蓄蔵貨幣が獲得した自己目的化した貨幣という性格を内に含ん
セいるものである。
次に,「資本の最初の現象形態」について見ておこ㌔r資本論』によれば,
「資本の最初の現象形態」も「貨幣」である。このr貨幣」とはどのような貨
幣であろうか。『資本論」はこのことにっいて,’ 走{がr最初に舞台にあがる
のは」r資本へと転化すべき貨幣としてである」(KI,161)と言っている。す
なわち,r資本の最初の現象形態」としてのr貨幣」とはr資本へと転化すべ
き貨幣」である。
その際,本稿の第一節でも見たように,貨幣がG W−Gという循環を描く
ことこそが貨幣の資本への転化であるのだから,r資本の最初の現象形態」と
してのr貨幣」=r資本へと転化すべき貨幣」とは,G_W_Gという循環を
描くべき貨幣,言い換えればG_W_Gの出発点にある貨幣である。そして,
このr資本の最初の現象形態」としてのr貨幣」がG_W_Gという循環の出
発点に立って,この循環(貨幣を自己目的とする流通形)を描くべきであるの
は,この貨幣がr商品流通の最後の産物」として,r商品流通」の運動を通じ
. ・ . . . . . . . . (12)
て生じてきた蓄蔵貨幣がもつ自己目的化された貨幣というr規定」をすでに有
しているからにほかならない。
以」二見たように,r商品流通の最後の産物」たるr貨幣」がr資本の最初の
現象形態」であるとは,W_G_Wという商品流通の運動の中から生じてきた
蓄蔵貨幣が,その自己目的化された貨幣という規定をG_W_Gという流通形
態によって展開すべく,このG_W_Gという流通形態の出発点に立っている
(13)
という事態である。
しかしながら,.このように言っただけでは,W−G−WとG−W−Gの論理
的関連の解明としてはなお不十分である。たしかに,W_G_Wから生じてき
た蓄蔵貨幣における自己目的化された貨幣という規定が前提になっているから
こそ,自己目的化された貨幣の流通たるG−W Gが可能になる。しかし,あ
らゆる蓄蔵貨幣が資本へ転化するわけではない。また貨幣は蓄蔵貨幣という規
174
一橋研究 第14巻第4号
定のままではG_W_Gという流通を始めることはできない。なぜならば,蓄
蔵貨幣とは,それが流通から外に引き上げられているかぎりで蓄蔵貨幣であり,
流通の中で運動し自己を維持,増大する貨幣としての資本とは正反対のものだ
(14)
からである。したがって,蓄蔵貨幣という形で自己目的化した貨幣が再び流通
に入ってG_W_Gという運動を始めるためには,さらに何らかの媒介の契機
が必要である。
問題は次のことである。いったん流通から引き上げられた貨幣(蓄蔵貨幣)
がなぜ再び流通に人ってG_W_Gという運動を始めなければならないのか。
また,そのことがいかにして可能であるのか。このことを見るためにも,まず
は『資本論」によって,蓄蔵貨幣と資本としての貨幣(G_W_G)との関連
を見てみよう。
『資本論」の中で蓄蔵貨幣と資本としての貨幣(G_W_G)の関連について
述べている箇所は多くはない。数少ない例として,例えば次のような一文があ
乱r絶対的な致富衝動,熱情的な価値追求は資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通
である。しかしながら,貨幣蓄蔵者が気の狂った資本家でしかないのに対し,
(帖)
資本家は合理的な貨幣蓄蔵者である」。なぜならば,「価値の無休の増大を,貨
幣蓄蔵者が貨幣を流通から救い出そうとすることによって得ようと努めるのに
対して,より賢い資本家は貨幣をつねに新たに流通にゆだねることによって成
しとげる」(KI,168)からである。
ここでは,r貨幣蓄蔵者」と「資本家」という人間に即して語られていると
はいえ,内容的には蓄蔵貨幣と資本としての貨幣の関連(同一性と区別)が述
べられている。まず,一r絶対的な致富欲」r熱情的な価値追求」,すなわち貨幣
(価値)そのものが自己目的であることは,蓄蔵貨幣にも資本としての貨幣に
も共通である。しかし,この自己目的のための手段が両者では異なる。貨幣を
絶えず新たに流通に投じることによってこの目的を達する資本のそれは「合理
的」な手段である。それに対して,貨幣を流通から引き上げることによっての
みこの目的を達しようとする蓄蔵貨幣のそれはr気の狂った」(不合理な)手
段である。
すなわち,蓄蔵貨幣は資本としての貨幣に対しては非合理的な存在なのであ
る。なぜならば,蓄蔵貨幣は交換価値,貨幣,形態転換を自己目的としつつも,
この目的のための手段を他に依存しているからである。貨幣が流通から引き上
貨幣の資本への転化についての一問題一流通形態の転換をめぐって一 175
げられることによって,この貨幣は蓄蔵貨幣となるのだが,それは常にr制限
された」r貨幣額」(KI,147)でしかない。したがって,r絶対的な致富欲」r熱
情的な価値追求」という目的を達するためには,貨幣が流通から引き上げられ
るという行為(W−G)が絶えず繰り返されなければならない。しかしながら,
このW_Gという流通の形式は繰り返しの構造をそれ自身のうちに.もってい
ない。貨幣が蓄蔵貨幣として引き上げられるためには,何らかの商品がそのつ
ど新たに流通に投じられなければならない。しかしながら,貨幣にとってはこ
の商品とは他者でしかない。このように,蓄蔵貨幣はr絶対的な致富欲」とい
う自己目的のための手段を他に依存している。「価値追求」を自己目的としつ
つも,これを自ら実現するための形式を持っていないのである。このかぎりで,
蓄蔵貨幣は非合理である。
それに対して,資本としての貨幣はr絶対的な致富欲」という自己目的を実
現するための構造を自らのうちに持っている。実際,G_W_Gのr完成され
た形態」たるG−W−G’の結果であるG’は,出発点とr同じく貨幣」であ
り,「制限された価値額」であり,「価値増殖を始めるのにふさわしい形態にあ
る」。すなわち,rどの個別的循環の終わりも,おのずから一つの新しい循環の
始まりをなす」。G_W_G’のG’はたしかにGプラス」Gに「区別されはす
るが」「この区別はたちまち消失し」,G’全体が「一つの」Gとして再びG_
W−G’の運動が始まる。そもそも,始めも終わりも同じく貨幣であるという
G−W−Gの形からして「すでに運動は終わりのないものである」(以上KI,
166∼7)。すなわち,資本としての貨幣の流通の形態は,自己目的のための手
(工6)
段を他に依存することがない。むしろ,G_W_G’の結果たるG’が再び新た
なGとして流通に入ることによって,自らを手段としつつ自己目的を実現する
(17)
という構造を持っている。そしてこのかぎりで資本は「合理的」である。
以上見たように,いったん流通から引き上げられた貨幣(蓄蔵貨幣)が再び
流通の中に入りG_W_Gという循環を描く貨幣(資本としての貨幣)へと移
行するのは,蓄蔵貨幣のままでは,自己目的化された貨幣というその規定にとっ
ては「非合理的な」形態であるからにほかならない。
そして,いったん流通から弓1き上げられた貨幣(蓄蔵貨幣)が,G−W−G
という循環を描くべく再び流通に入ることが出来るのは,この貨幣がもともと
商品流通から生じてきたものであるからである。すなわち,この貨幣は流通手
176
一橋研究 第14巻第4号
段としての貨幣の規定を前提し,それを止揚された形ではあれ含んでいるので
ある。しかし,その際,蓄蔵貨幣がもつ自己目的化された貨幣という規定を失っ
て流通の中に入るのでは,この貨幣は流通手段に逆戻りしてしまう。G_W_G
という循環を描くためには,貨幣は自己目的化された貨幣という性格を維持し
つつ流通の中に入らなければならない。
したがって,カテゴリーとしては,G_W_G(資本としての貨幣)とは,
流通手段としての貨幣と蓄蔵貨幣としての貨幣との統一である。ただし,この
貨幣の両規定がそれぞれ含む諸契機のうち,資本としての貨幣にとって積極的
(肯定的)な契機のみを受け継ぎ,消極的(否定的)な契機を捨て去ることに
(18)
よる統一である。す.なわち,流通の中で絶えざる運動をするという契機(流通
手段)および自己目的化された貨幣(価値)という契機(蓄蔵貨幣)を受け継.
ぎ,この両者を統一しているのが,G−W−G(自己目的化された貨幣の流通)
にほかならないのである。かくして,W_G_WはG_W_Gへと移行するの
である。
(12)「規定Bestimmung=さだめ」とは可能性であり,また即自性であ㌫「貨
幣額が即自的に,すなわちその規定として資本であるのは……それがその増大
のために支出されるからである」(R,459)。「現実の生産過程のなかではじ
めて・・…・前貸しされた価値額が可能的資本,すなわち規定からみた資本から・・∵・
現実的資本へと転化する(R,492)。
(13)蓄蔵貨幣を貨幣の資本への転化の媒介とする見解は,すでにr資本論研究』
における岡崎次郎氏の発言に見られる(宇野弘蔵・向坂逸郎編r資本論研究一
流通過程一』河出書房,1949年,159頁)。また,新しいところでは,尾崎芳治
「貨幣の資本への転化」(r講座現代経済学』皿,青木書店,1978年所収)が,
r経済学批判要綱』をも援用しつつ,「貨幣としての貨幣」をW−G−WとG
W−G’との媒介環としている。すなわち,一方で「貨幣としての貨幣の矛盾」
は「W−G−Wの限界」を示している。他方でこの矛盾の「運動を可能にする」
ことによってこの「矛盾を解決」する「形態」が「G−W G’」にほかなら
ないとされる(81∼88頁)。
(14)「貨幣を流通からしめ出すことは,貨幣を資本として価値増殖することとは
正反対であろう」(KI,615)。
(15)「資本の自己増殖一剰余価値の創出一は,資本家の規定的,支配的,包括的
な目的であり,彼の行為の絶対的な動因であり内容である。実際,それは貨幣
蓄蔵者の動因と目的の合理化されたものにほかならない」(R,467)。
(16) もっとも,このことは蓄蔵貨幣との区別において(相対的に)言えることで
ある。G−W−GもWによって媒介されているという点では,自己目的のため
貨幣の資本への転化についての一問題一流通形態の転換をめぐって一 177
の手段をまだ他者に依存してい乱このWそのものを資本の運動が自らつくり
だす構造ができあがることによってはじめて,資本は真に自立的なものとなる。
(17)貨幣自らが自己目的のための手段となることによって,ここでは貨幣(価値)
がなす関係は自己に対する関係(私的関係)である。すなわち,W−G−Wで
は価値は「商品関係を表し」ていたのに対して,G−W−G’では価値(貨幣)
は「自分自身に対する私的関係に入る」(KI,169)。
(18) このことをr経済学批判要綱』は次のように言っている。「貨幣は,単に流
通の中で消え去るもの[=流通手段コとしての自らを否定した。しかし同じく,
自立的に流通に対立するもの[=蓄蔵貨幣]としての自らも否定した」。そし
て,この「否定」を「それら[=流通手段と蓄蔵貨幣コの肯定的諸契機におい
て総括」すると,r資本」の第」規定(流通の中で自らを失わなわず維持する
交換価値,r資本論』で言えばG_W G)が得られる(I1,175)。このご
とをより詳しく言うと次のようになる。流通手段とは,一方で諸商品の交換を
媒介するものにすぎず,貨幣としての自立的形態を消失的(瞬間的)にしかも
ちえない。これは資本としての貨幣にとっては否定的な契機であり,資本とし
ての貨幣には継承されない(否定される)。他方で,流通手段は流通の中で絶
えず運動するものである。これは資本としての貨幣にとっては肯定的契機(蓄
蔵貨幣の否定的契機を否定する)であり,資本としての貨幣に継承される。そ
れに対して蓄蔵貨幣とは,一方で流通から出て流通とは対立的関係にあ孔こ
れは資本としての貨幣にとっては否定的契機であり,資本としての貨幣には継
示されない(否定される)。他方で,蓄蔵貨幣は自己目的化された貨幣という
規定を持っている。これは資本としての貨幣にとっては肯定的契機(流通手段
の否定的契機を否定する)であり,資本としての貨幣に継承される。そして,
流通手段と蓄蔵貨幣の両規定のそれぞれの肯定的契機(流通の中で絶えず運動
するという契機と自己目的化された貨幣という契機)を総括(統一)すると,
自己目的化された貨幣の流通(すなわちG−W−G)が得られ乱なお,『経
済学批判要綱』におけるこの問題についての詳細は,拙稿「資本概念形成にお
ける流通と生産」(r一橋論叢』第97巻第1号,1987年)参照。
5一むすび
W−G−WからG−W−Gへの移行とは,使用価値を目的とする流通形態か
ら交換価値を自己目的とする流通形態への移行である。この移行の出発点は
W_G_Wそのものの中にある。すなわち,商品流通を媒介する貨幣としての
流通手段から貨幣そのものが自己目的化している蓄蔵貨幣への移行,およびこ
の移行をもたらすW_G_Wの構造そのものにある。貨幣は,蓄蔵貨幣がW_
G_Wのr最後の産物」として獲得した自己目的化された貨幣という規定を維
持しつつ,流通手段の規定と統一されることによって,資本の「最初の現象形態」
すなわちG_W_G(自己目的化された貨幣の流通)を描くべき貨幣となる。
178
一橋研究 第14巻第4号
W_G_Wの産物としての蓄蔵貨幣がすべて論理必然的に資本へと移行するの
ではないとしても,交換価値(貨幣)を自己目的とする流通形態たるG_W_G
は,W_G_Wの内部での流通手段から蓄蔵貨幣への移行という形で成就して
いる貨幣(交換価値)の自己目的化を前提とし,またそれを継承してもいるの
である。貨幣の資本への転化の問題とは,第一次的には,このように流通形態
の転化の問題,すなわち生産の領域とは相対的に独立した問題である。
(筆者の住所 〒206多摩市一の宮152)