サンプル娼婦

平等に受けた貴重な宝
第二ペトロ書の福音 1
平等に受けた貴重な宝
1:1-2
シモン・ペトロの 2 通目の手紙です。主題は、この訳文で言うとちょうど
真ん中のところ、「わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」という一
句から取りました。実はこの「同じ尊い」と訳された形容詞()
の意味は、
見方によって少しずつ変わります。
私は New English Bible(NEB)
からヒントを得て一つの見方をしていることを、初めにお断り申し上げてお
きます。
NEB.は新しい英訳の中でも特徴のある優れた訳文で、もちろん欠点も偏り
もありますけれど、時に福音の神髄を適確につかむと誠に大胆な表現を使っ
て、ズバッと小気味よく訳している箇所がいくつもあります。私の「ローマ
書の福音」をお読みくださった方は、ローマ書 1 章の 17 節で、神の義を頂く
道は、“a way that starts from faith and ends in faith”だという訳し方、
「信頼することに発し、信頼することに尽きる」という読み方を御記憶かも
しれません。あそこは、この新共同訳にも大きな影響を与えているように思
います。
でも、この第2ペトロの 3 行目のところでは、新共同訳は NEB.には影響
されないで、それとは違った角度から見ているようです。NEB.のここの訳し
方はあまり簡潔ではなく、歯切れも良くはないのですが、「わたしたちと同
じ尊い救いを受けた」という所の意味を二つに分けて、こう表現しています。
“who …… share our faith and enjoy equal privilege with ourselves.”
―「私たちと同じ信仰を頂いて、私たちと同じ特権を平等に“enjoy”して
いる人たちへ」です。この“enjoy”が良いですね。「嬉しい!」喜んでいる
のです。以前どんな境遇にいたか……とか、いま信仰の点数は何点か……と
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か、そればかりが気になって、教会の交わりがただただ気が重いのは教会じ
ゃなく、ファリサイ派の裁判所です。“equal privilege”とは「平等の特権」
「等しい恩恵」です。それが自分に与えられているのを見て、嬉しいし、キ
リストのお陰で友にも与えられているのを、心から祝わずにいられないのが
教会の交わりです。“Congratulations!”「良かった。私と同じだ。一緒に
喜ぼう。」これが教会です。
私は、ある意味でキリストの教会は、西部の町みたいな所だと思うのです。
君はどこから来たか。昨日までどの町で何をしていたのか。それは問わない。
今日ここで新しい未来を神から受けて“enjoy”する人として、お互いを見る
のです。キリストから義を頂いた者として、この霊の自由をフルに味わいた
い……この新しい土地でです。そういう“霊の人”としての関係においては、
過去は問わない。肉の履歴を提出してもらう必要はありません。原則として
は、東部で人を殺してきたかさえ問わない。それを問題にする人は西部のル
ールを知らない人です。その人がこの町でピストルを乱射し始めない限り、
彼は私と同じこの西部の町の人として、平等の尊厳をみんなから認められ、
受け入れられます。これはイエスが人を御覧になった目だと思います。ここ
で、先週のプリント(広報 Vol.34,No.1)を連想されるでしょうか。
「自分はイエスの弟子の中に加わるにはあまりにお粗末だとか、こんな立
派な人たちの間で、私は教会の交わりにそぐわないのではないか……という
不安で、教会を重荷に感じる人に言って差し上げるヒントの言葉がある。
『イ
エスと一緒に食卓に着かせていただいて喜んだ娼婦たちの中には、商売をや
められないままの人もいたのではないか。そんな女性たちをも、主は慈しん
で、ペトロやヤコブと同じように大事にされたのだと思う。』」
「なるほど、これこそ福音の神髄だ」と思って下さった方もおられるでし
ょうし、「待てよ、確かにそうだが、ちょっ……と危険な言葉だな。そこま
で言うと誤解を生じはしないか?」と、心配して下さった方もおられるかも
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知れません。これは、パウロのような偉い人が言っても、誤解を生んだので
す。ローマ書の 6 章など見ると、パウロは必死で誤解を解こうとしています
(6:1,15)。「とんでもない。決してそうではない。恵みが増すようにと罪
の中にとどまる……など、私には考えられない。」
きよい喜びで“enjoy”されるはずの福音が、受け止め損なうと自堕落の言
い訳にされる場合もありました。パウロがあれだけ力強い福音を語って、そ
れを聞いてコリントでは、女を作っていた信者がいたというのです。……本
当はそれも、以前そんなことがあったというだけなら、問題じゃないのです。
赦さない仲間の方がむしろおかしい。問題はその人がズルズルと「これでい
いのだ。そうなのだ」式になっていたことでした。「何が悪い!」……コリ
ント書を読んで心が痛むのは、そんなのまでパウロは、もう一度福音の何た
るかを教え直さねばならないのです(1コリ 5:1,6:15)。エフェソでは盗
癖が治らない人もいたらしい(4:28)。先程は私は「西部の町でまたぞろピ
ストルを使わないかぎり」と言いましたが、どうも、第1ペトロ書の教会な
どではドンパチ(いやそんな物騒な道具はまだなかったでしょうが)殺人容
疑で起訴される人もいたと考えられるふしがあります(1ペトロ 4:15)。
ところでいま何をやってるとお思いですか? 第2ペトロ書の前置きをし
ているつもりです。実にこの第2ペトロ書というのは、そういう問題を―
もし福音を受け止めそこなってキリストを見失なったら今でもそこへ行くよ
うな、実に今日的問題を扱っているのです。福音の与える自由と人間の尊厳。
まだ商売から足を洗えない娼婦だとか徴税人をそのまま慈しんで、同じ食卓
で食事なさるイエス。でも、イエスの十字架を仰いだ人はもう、それを、汚
れにアグラをかく言い訳にはできないのです。パウロの言葉で言うなら、
「キ
リストの死を自分の死として受け止めて、罪とは切れて死人になった今、ど
うして罪の中にまたズルズル留どまれるか」(ローマ 6:2)です。
ヤコブ書も第1ヨハネ書も、やはり同じテーマを扱っています。もっとも、
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ヤコブはヤコブの視点からこの問題を扱いますし、ヨハネはヨハネの角度か
ら、そしてペトロはペトロ独特の流儀で、キリストで生きる道―清く生き
る道を教えます。みんな取り上げ方が違うのです。サンプルとして、ローマ
書の 6 章と、ヤコブ書の 2 章と、第1ヨハネ書の 1 章や 3 章を比べてくださ
い。第1ペトロ書の 1,2 章もそうです。もしキリストに真っ正面から触れた
ら、本気で聖霊の新生力を頂いたら、人はルーズな居直りだけはできない。
どんなにゆっくりでも人は変わる。主キリストの義が人を変えずにおかない
のです。
ただ、使徒たちは決して、人が誤解するからという理由で、福音を薄めて
安全なものに……「人畜無害な」ものにはしませんでした。「あなたの清さ
の点数も幾分考慮される」というような脅迫は、口が裂けても言わなかった。
「立派に聖女のように変身した娼婦と、殆ど生き方の変わっていない女とで
は、イエスも食卓で扱いを異にされる」というようなウソは言わなかったの
です。パウロもそうでしたが、誤解する人には誤解させておいて、あの危険
な福音をズバッと言い切ったのです。だからこそ私たちは、どんな人でもキ
リストの前では、自分が主から愛されてフルに受け入れて頂いていることを、
無条件に喜んで、enjoy してよいのです。教会が楽しい所だということは、
この福音があるから、キリストの十字架の血が今も有効だからてす。
1.主の下僕で使徒でもある人からの手紙。 :1a.
1.イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、
ここは手紙をこれから書き始める人が、自ら何者であるかを名乗る部分で
す。「私はシメオン・ペトロである」と。シメオンはシモンの本来のヘブラ
イ名、ユダヤ人として親からつけてもらった名です。本当は、福音書も使徒
言行録も「シメオン」とは書かずに「シモン」ペトロと言うのですが、2ヶ
所だけ……ここと使徒言行録の 15 章にだけこの「シメオン」という、重々し
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いヘブライ名が使われています。使徒言行録 15 章と言いますのは、普通「エ
ルサレム会議」と呼ばれる使徒たちと長老たちの緊急会議のところですが、
その中で議長のヤコブが「いまシメオンが話してくれたが」と発言していま
す。ペトロ書の古写本の中でも、外の箇所に併せて「使徒であるシモン・ペ
トロ」と書き直したものもありますけれど、大英博物館にあるシナイ写本と
アレクサンドリア写本のような古い写本には「シメオン」となっているので、
原作は「シメオン」と書いてあったと推定されるのです。
その理由はよくは分かりません。いろいろな人が説明しようとしています
が、いずれも想像の域を出ません。Michael Green という英国の学者は、
「“シ
メオン”の方はユダヤ人としてガリラヤの漁師であった古い人を、イエスか
ら付けて頂いた“ペトロ”の方は新しい人として、キリストの使徒としての
この人を示すのではないか」という見方を、“with more probability”と断
って紹介します。現代式に言うと「それは言える」ということですか。
いずれにせよ、長老ヤコブも最大の権威をこめて呼んだ正式の戸籍名と、
主から頂いた新しい名を重ねた「シメオン・ペトロ」は、この手紙の権威と
動かぬ確かさを、読者に印象づけます。
同じことは「イエス・キリストの下僕でも使徒でもある」という一句につ
いても言えます。多分「使徒」の方は主の意志と一体である権威と言うか、
主キリストとの連帯を、「僕」slave の方は読者との連帯を示すのでしょう。
2.貴重な宝を同じように受けた人へ。
:1b.
1b.わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたち
と同じ尊い信仰を受けた人たちへ。
共通の体験に訴える、ペトロ独特の書き方です。パウロですと、「コリン
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トにいる聖徒たちへ」とか、手紙を受け取った教会の所在を書き添えるのが
普通ですが、ここには地名の指定がありません。恐らくは、どこということ
なしに、クリスチャン全体に対する緊急の教えと警告として書かれたもので
しょう。先程申し上げたような“落とし穴”についてです。
でも、この 2 行で印象的なのは、著者が自分と読者との共通の貴重な経験
に訴えるところです。「わたしたちと同じ貴い信仰を受けた人たちへ」この
手紙を送る……と。この「受けた」は普通の“received”とは違っ
て、「神から与えていただいた」もの、「あなたの確実な所有になって、も
う誰も奪えない」という響きを持つ言葉です。動かぬ“嗣業”です。ここで、
前置きのところで触れたあの形容詞の意味ですが……。
「同じ尊い」は正に文字どおりの直訳でをズバリ訳出していま
す。「イソ」は化学関係の方はご存じでしょう、「同じ」とか「等しい」意
味で、「イソトープ」が同位元素、「イソプロピレン」とか「イソニコチン
酸」とか言う……あの「イソ」です。の(ティム)の方は「価
値」「値打ち」ですが、この「私たちのものになっている等価値の信仰」と
いうのは、どんな意味で「等価値」なのか……? いろいろな見方があるので
すが、私自身の理解では「私たちが同じように平等に頂いた貴重な福音信仰」
を言うのだと思います。なかなか足を抜けない徴税人も、カッコ良く変身を
遂げられない娼婦も含めて、点数の 80 点の人も 30 点くらいの者もお構いな
しに、同じ食卓に着かせてくださるイエスの憐れみです。そしてそれは(3
行目)「神なる救い主イエス・キリストの義で実現した」(3項後半を参照)
のです。“through the righteousness of our God and Savior”の“through”
()は「それが無ければ実現しなかった」つまり、「イエス・キリスト
の血による無差別の大赦によって初めて、徴税人にも罪人にも同じように福
音が与えられて、弱い者も悲しい者も等しく enjoy できるようになった」意
味です。このことの重みを、もし本気で受け止めたら、福音に甘えて罪と汚
れにのめり込むことはできない。ペトロのテーマがもう冒頭の 1 章 1 節から
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前面に出ているのです。
3.清い生き方の源─恵みと平和。
:2.
2.神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなた
がたにますます豊かに与えられるように。
これは祝福の部分です。第1ペトロ書とは同文ですし、パウロの書簡でも
こ「恵みと平和」が出ることは、すでに御承知のことでしょう。ここは、手
紙文の型を踏んでいるのですが、ギリシャ式の挨拶とヘブライ式の祝福とを
うまく組み合わせてあると言われます。プラトンやアリストテレスの書簡で
すと《》「ごきげんよう」「喜んでくれ」と書いたものです。その
「喜べ」という動詞の語幹 √からの洒落で「(恵み)があるよ
うに」、つまりキリストの無差別の大赦を大事にして見失うな。自分を見る
んじゃない。悲しむのじゃない。キリストを仰いで喜ぶんだ。教会が喜ばし
い所でなくなったら、墓場の穴と同じだ。
「平和」というところは、多分ヘブライ語の手紙の「シャローム!」~Alv' を
ギリシャ語にして「イリーニ」eivrh,nhと言ったものです。これは心の「平安」
などではなく(新共同訳が“平和”としたのは正しい)て、神が下さる究極
の幸いと祝福です。どんな幸福もどんな救いも色褪せるような、本当の救い。
自分の周りの状況が好転したり暗転したりする度に、嬉しくなったり落ち込
んだりするような浅いものではなくて、もっと根の深い、不動の、神が下さ
る平和をしっかり持っていなさい。それはキリストから目を離さない限り、
あなたのものなのです。ここでも「主イエス・キリストを知ることによって」
“through the knowledge of God and Jesus our Lord”の“through”()
は「キリストを深く知る経験だけがこの無差別の恩恵と不動の平和を得る道
だ」ということを表します。「キリストを知ることから離れたら、平和は消
えて無くなる。しっかり間違いなく受け止めていてくれよ!」という著者の
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悲願が、この祝福に現れています。
最後にここの 2 行目に出る「わたしたちの神と救い主イエス・キリストの
義によって」(新共同訳)という所は、新改訳やフランシスコ会訳の読み方
が正しいと私は思います。新改訳はこうです。「私たちの神であり救い主で
あるイエス・キリストの義によって」つまり、ペトロはイエス・キリストを
「私たちの神」と告白しているのです。「神の義と、主キリストの義によっ
て」ではなく、「神なる救い主キリストの公平平等の救いにより」なんです。
フランシスコ会訳の方はこうです。「わたしたちの神、救い主、イエズス・
キリストの正しさによって」これも「神」「救い主」「キリスト」を同格に
ならべて、キリストが著者にとっては神であることを告白する意味に訳して
います。
もともとギリシャ語の文法のルールから言うと、二つ以上の名詞が同格で
並んでいて、一個の冠詞が共通にかぶっている時は、その二つないし三つの
名詞は同一者を指すというのが原則です。新共同訳は、テトス書 2:13 では、
「偉大なる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリスト」と訳してい
るのに、ここだけどうして違う訳し方をしたのか分かりません。翻訳委員の
方に聞く機会があれば、聞いてみたいと思っています。マタイの最終講でも
申し上げた通り、イエスを「わが神」としてトマスと一緒に告白するのは、
わが罪を取り去るのは神御自身の御業以外にあり得るのか、この死んだ者に
命を吹き込むのは神御自身の御業以外に考えられ得るのか……そこのところ
を体で体験した人だけが、心の底から、感謝を込めて告白できるのです。
現にここに集まっている 20 人あまりの私たちでも、
「わが神なるキリスト」
と告白する時の内容は、各人少しずつ違うかもしれません。ただ私たちが「平
等に受けた貴重な宝」をしっかり離さぬかぎり、共通の部分が厳然としてあ
るのです。
(1992/01/05)
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《研究者のための注》
1.ヘブライ名のシメオンが使われていることを、この書簡が使徒による真作である「認
証極印」(hallmark)と見るのは Bigg,Mayor,Zahn,James,逆に偽作の小細工と見る
のは Barnett です。Green はこの偽作証拠説に対して、シメオンというヘブライ名が
2 世紀の偽ペトロ文書には一度も現れないことを指摘します。
2.この書の正典性について、はこれが(異議を差し挟まれてい
る文書)に属していたと指摘しています。アレキサンドリアの教会がこれを正典に含
めたのは A.D.200 年頃、西方教会がこれを真正なものとして受け入れたのは、それよ
り 200 年近く遅れる 380 年頃であったとされます。この書の確かさについては、
Michael Green の注解(Tyndale N.T.C.)の 42 頁に亙る詳しい Introduction が参考
になります。
3.形容詞の訳語はたいてい語源から直訳して「同じ尊い」として、解釈は読
者に委ねています。英語でも、
“like prcious faith with us”と直訳できますが、Barnett
と Green は「平等に与えられた貴重な信仰」の意味に解し、特に Green はこの形容
詞が人に適用される場合、“equal standing”(平等の身分)を指す政治用語であっ
たことを指摘しています。これに対し、Louw &Nida の辞典は事物(この場合は信仰
)に冠される場合を、私たちの「に匹敵する、同等の」信仰の意味に解して
いるようです。私自身はがpi,stinを修飾することは勿論ですが、語順
から考えて「等」の意味合いは後続する与格に色付けすると理解しました
ので、Nida のようには二つの意味要素を溶け合わせてしまわず、「等」は「私たち」
に、「貴」は「信仰」に結びつけて解釈しました。
4.この 1 節の文脈でのpi,stinの意味については、① 信仰の内容を伝える福音、② 信
仰という霊的知的行為─信仰を与えられている事実、③ 信じることができる神与の
能力、可能性、等いくつかの角度から理解できます。
5.テトス 2:13 とこの2ペトロ 1:1 おける“God and Savior J.C.”の用例を並べてみ
ると、次のように平行しています。
テトス.ペトロ.神とキリ
ストをでつないで 1 個の冠詞をつけたフレーズはこの 2 例ですが、他にイエスを
と告白している箇所としては、ローマ 9:5,ヘブライ 1:8,ヨハネ 1:18,同
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20:28 があります。
6. の「義」の意味は、パウロ書簡での「義認」という法廷的な意味合い
よりも“the fairness”,“justice”of(God and …… Jesus)と Green は説明し、
Barnett もはキリストが「人を全く公平に扱われたことを表す」のだと
言います。この外にもはキリスト御自身が成し遂げられた義、すなわち贖罪の業
を含む父の意志への服従と解することも可能だと思います。
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