復活節第 4 主日 礼拝説教 「わたしを愛している?」 イザヤ書 62 章 1~5 節 ヨハネによる福音書 21 章 15~25 節 1.新しいビジョンをもつ始まり 先主日、わたしたちは教会総会を行 い、ご一緒に昨年度の歩みを顧み、今 年度の計画を仰ぎました。新しい教会 主題は≪神の畑としての教会≫(Ⅰコリ 3:9)です。昨年一年間は、わたしたち にとってどのような一年であったか、一 言で申し上げることはできないことです が、第一には「植えたものを抜く時」(コ ヘ 3:2)、「嘆く時」(コヘ 3:4)であった と言えます。聖書にこのような言葉があ ります。「何事にも時があり 天の下の 出来事にはすべて定められたときがあ る」(コヘ 3:1)と。「植えたものを抜く時」、 そして「植える時」(コヘ 3:2)。わたした ちはこの土地に、新しく蒔き、新しく植 えるという大きなビジョンを与えられてい ます。 これからの復興の道のりは長いと感 じる一方で、先週には幼稚園で通常保 育も始まったことですが、子どもたちが 元気に登園してくる様子を見ていると、 幸せな日常がすでにここにあることを知 らされ、勇気がわいてきます。 今月 16 日に、南相馬市小高区の警 戒区域が解除になり、一般人も自由に 出入りできるようになりました。先週、園 長の吉田姉と小高伝道所の役員の佐 久間姉ご夫妻、教区総会議長の高橋 先生と共に、小高伝道所・小高教会幼 稚園を訪ねました。小高教会幼稚園は、 わたしたちの清風幼稚園と同じ学校法 人相双キリスト教学園の幼稚園です。 いわきでは先々週が桜の見ごろでした が、山間部はずいぶん遅いようで、小 高に向かう道のり、飯館や川俣は、満 開の桜を見ながらのドライブで「きれい ですね」と何度もため息をつきました。 原発から 20 ㎞圏内に入ると、本当に震 災から手つかずの町です。数件置きに 古い家屋は崩れ、屋根だけがかぶさっ ていたり、壁が崩れてお家の中が見え ていたり、お店のシャッターがふらふら と風に揺れていたり…一度伸びきった 雑草が倒れたまま枯れていて荒廃の様 を際立たせていました。まだライフライ ンも通っておらず、日中に数時間立ち 寄れるばかりで泊まることもできません。 いわきからは片道 4 時間で近いとは 言えませんが、小高の現実をつぶさに 見、パシッと頬を打たれたような、目を 覚まされたような思いで帰って来ました。 園舎にそのままに残されていた園児の 物を集めて持ち帰って来ました。園長 が新しい土地で生活している子どもた ちに送ります。子どもたちは、今それぞ れの場所で元気に暮らしているでしょう か。 復活祭から数えて 4 度目の主日を迎 えました。この日は教会の伝統で「良い 羊飼いの日曜日」とも呼ばれる主日。羊 飼いと羊のお話は、子どもたちも大好き なお話の一つです。子どもたちばかり でなく、大人であるわたしたちもこの話 を聞くと、心が平和に満たされるのを感 じます。この話には、しかし、羊飼いと 羊と共に狼も登場します。こわい狼がや って来て、羊たちは追い散らされてしま うのです(ヨハ 10:12)。 2.わたしを愛している? 今日、ご一緒に朗読を聞きました福 音書は、ヨハネ福音書最後の物語。主 イエス・キリストの弟子のペトロが、牧者 としての使命に召される出来事です。ご 復活の後、弟子たちの前に現れた主は、 弟子たちと共にパンと魚の朝食を囲み ました。食事を終えると、主イエスは、ペ トロを見つめて言われます。「ヨハネの 子シモン、この人たち以上にわたしを 愛しているか?」と。「この人たち以上に」 とは、どういう意味でしょうか。小さい子 どもが聞くように「わたしのことがいちば ん好き?」「いちばん大事?」と聞いて いるのでしょうか。あるいは、ペトロと他 の弟子たちの間で主への愛を比べて、 「君の方がより愛しているか?」と言わ れているようにも聞こえます。 主の十字架の前、最後の晩餐の後 で自分の言ったことを、ペトロは覚えて います。「たとえ、みんながあなたにつ まずいても、わたしは決してつまずきま せん!」(マタ 26:33)。しかし主は、ペ トロの勇ましい言葉に対して言われるの です。「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、 三度わたしのことを知らないと言うだろ う」(マタ 26:34)と。かつて「たとえ、み んなが…つまずいても、わたしは決して つまずきません!」と豪語したペトロも 今は、「みんな以上に」とか「だれよりも」 とかという言葉を口にすることができま せん。ただこう答えるしかないのです。 「はい、主よ、わたしがあなたを愛して いることは、あなたがご存じです」。する と主は言われます。「わたしの小羊を飼 いなさい」(15 節)。主は、ペトロに主の 牧者になるようにと任ぜられます。 そしてまた、このように言われます。 「ヨハネの子シモン、わたしを愛してい るか?」ペトロは、再び同じように答えま す。「はい、主よ、わたしがあなたを愛し ていることは、あなたがご存じです」と。 このように問われる主イエスの「愛する」 と、答えるペトロの「愛する」は、聖書の 原典では、それぞれ違う言葉が使われ ています。主イエスの「愛する」が〝ア ガパオー〟(絶対的な神の愛)であるの に対して、ペトロの「愛する」は〝フィレ オー〟(友愛)です。わたしは、教会に 通い始めたばかりの高校生の時、ある カトリックの作家のエッセイを読んで、こ のような言葉の違いがあることを知りま した。それから聖書を原典のギリシャ語 で読んでみたいと思うようになり、大学 でギリシャ語を学び始めた時、真っ先に この箇所を開きました。通説ではしかし、 この「愛する」の言い換えは単なる修辞 法で深い意味はないとあって、少しがっ かりしました。日本語では、たしかにど ちらも「愛する」と訳されているので、深 読みする必要はないのか もしれませ ん。 けれども、しつこいようですが、聖書 に語られているのは文字以上の出来事 です。「一つ一つを書くならば、世界も その書かれた書物を収めきれないであ ろう」(25 節)と、ヨハネは言っています。 わたしたちは、ここに著された短いドラ マから何倍にもあふれ出る言葉に、注 意深く耳を傾けたいのです。主はペトロ に言われます。「わたしの羊の世話をし なさい」(16 節)。 ところが、主はその後もう一度、このよ うに繰り返されます。「ヨハネの子シモン、 わたしを愛しているか?」主が 3 度目に 尋ねられたとき、ペトロは悲しくなりまし た。「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三 度わたしのことを知らないと言うだろう」 と言われた主イエスのお言葉の通り、裁 判の夜、ペトロが主を「知らない」「違う」 と言って 3 度繰り返すと、鶏が鳴きまし た。その夜の記憶が、鮮明によみがえ ってきます。 復活の主に出会った喜びの中でも、 過去の裏切りは消えることがありません。 3 度も同じことを尋ねられる主は、ペトロ に反省を促したのでしょうか。「自分のし たことをわかっているか?」と。もし主が、 ペトロのよい上司であれば、そうされた でしょう。ミスを曖昧にすれば軌道修正 はできません。ペトロは、促されて素直 に始末書を書き、心入れ替えて「もう裏 切らないと約束します」と言ったかもし れません。 しかし主は、そうは言われません。主 は、ペトロに愛の告白を聞くことをただ お望みでいらっしゃるのです。「あなた はわたしを愛しているか?」なぜ主は、 このように問われるのでしょうか。 「わたしを愛している?」これは、最も 大切で根本的な問いであり、主イエス の本気の問いであるのです。 3.わたしたちの本当に必要な問い ヘンリ・ナウエンというオランダ人の司 祭があります。彼は、神学と心理学を学 び、アメリカの有名大学で教鞭をとって いた神学者でしたが、優れた霊的指導 者として世界各地で多くの人々に影響 を与えました。ナウエンの人気の所以 は、その博識といよりは、彼の心の優し さです。自らの心の葛藤や苦悩、あるい は喜びを包み隠さずに述べることがで きる言葉の明晰さにあります。あるとき 彼は、知的ハンデを持つ人々のコミュ ニティに入り、共同生活を過ごしました。 そのコミュニティでは、彼が持っていた 輝かしい経歴を気にする人はありませ んでした。「肩書は何ですか?」とか、 「あなたの業績は何ですか?」とか、「ど れくらい収入があるのですか?」とか、 「何人友だちがいますか?」とか、「どれ くらい忙しいのですか?」とか、「あなた の子どもは何をしていますか?」とかと いった問いが一切ないのです。 す。しかし、その隠しきれない弱さのゆ えに、彼らは、最も大切で根本的な問 いを持っているのです。「あなたはわた しを愛している?」という問いです。ナウ エンはこのように言っています。「人生と は、『わたしもあなたを愛しています』と 言うことのできるつかの間の機会にすぎ ません」。 そこにいる人たちは、むしろこのよう に問うのです。「わたしのこと好き?」 「わたしのこと大事に思う?」「わたしと 一緒にいてくれる?」と。 4.あなたが選ばれた理由は? おそらく、わたしたちの間にあふれて いる問いは、前者でしょう。わたしたち の間では無意識にも強さを誇ることが 常です。先週月曜日に、わたしたちの 教会を訪ねてくださった東京・青梅の教 会の先生が、今日の礼拝看板にある説 教題をまじまじとご覧になって「男性に はないタイトルですね」と言われました。 時代や民族性もあるかもしれませんが、 「わたしを愛している?」は、わたしたち の社会では滅多に出ない言葉かもしれ ません。安易に口にすればセクハラとも 言われかねない、そのようなニュアンス が先ほどの先生の言葉には含まれてい るように感じました。 しかし障害を持つ人たちの間では、 違うのです。彼らは非常に素朴で、自 分たちの弱さを隠すことができません。 時にそれは虐待や嘲りの原因になりま 復活の主イエスは、ペトロの前に、上 司として問われるのではありません。本 当に大切ないのちの使い方を、ペトロ にお示しになるのです。「いのちの使い 方」とは、ペトロの本当の使命です。 そもそも主が、漁師としてすでに暮ら しを立てていたペトロを召し出された理 由は、どこにあったでしょうか。彼が、魚 を獲るのが上手だったからでしょうか? 性格が気に入られたのでしょうか? 情 熱的で行動力があるとか、社交的で人 気者であるとか…? そうではないと思 います。主がペトロを選ばれた条件や 資格は、わかりません。むしろペトロは、 主の弟子として失敗や挫折を経験しな ければなりませんでした。外観の条件 や資格がないのですが、人間存在の最 も根本的なところで、主は自由に召され るのです。 復活の主は、過ちを犯したペトロの 前に再び立たれます。そしてこの主との 出会いが、ペトロのけがれを清めました。 ペトロの複雑になっていた心を解き放 ちました。主は、ペトロがいのちをかけ て愛する場所を明確にお示しになりま す。「わたしの羊を飼いなさい」(17 節) と。主を愛することは、教会を愛すること です。他の人を愛する愛によって、わた したちは本当に主への愛を証すること ができるのです。ペトロは、「わたしに従 いなさい」(19 節)と新しく召される主の お言葉に従いました。新しく牧者として 召され、最初の教会指導者として立て られていきます。 主は、ペトロにこのようにも言われまし た。「あなたは、若いときは、自分で帯 を締めて、行きたいところへ行っていた。 しかし、年をとると、両手を伸ばして、他 の人に帯を締められ、行きたくないとこ ろへ連れて行かれる」(18 節)と。 ペトロは、そのようになりました。その 後ローマで宣教し、ネロ帝の迫害下で 殉教したと伝えられています。迫害が激 化するローマを去るようにと説得された ペトロは、変装してローマの町を出て行 こうとするのですが、その時向こうから主 イエスが来られます。ペトロは、主を見 るなり「主よ、ここからどこへ(行かれるの ですか)?」と尋ねます。主は「わたしは 十字架にかけられるためにローマに入 っていく」と答えられます。ペトロが「主よ、 ふたたび十字架につけられるおつもり なのですか?」と聞くと、主は言われま す。「そうだ、ペトロ、わたしはふたたび 十字架につけられるのだ」。ペトロはそ の幻を見、大喜びで主を讃美しながら ローマに舞い戻って殉教したという言い 伝えがあります(ペトロ行伝 35 章)。ペト ロは、地上で、主への愛を貫きました。 「わたしを愛しているか?」主は問い続 けられます。わたしたちは、この最も大 切な問いに応えつつ歩みましょう。 祈り
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