企業の組織の変化とその要因について 枚数 :18 枚 指導教員名:水越康介准教授 学習番号 :06159299 氏名 :楠本繕規 0 目次 1、 はじめに 2、 組織の変化について □ 言葉の定義 □ なぜ組織は変化するのか □ なぜ、組織変更には時間がかかるのか 3、 帝人の歴史的背景 □ 人造絹糸の日本への導入 □ 独立そして、発展 □ 本格的な海外進出 □ 合理化と三原工場の建設 □ 首脳陣の交代 □ 日本の人造絹糸の発展 □ ゼロからの出発 □ 帝人の没落、そして再興 □ 組織の変化 4、 帝人の事例からの考察 5、 最後に 1 1、はじめに どのような小さな集団でも、何か自発的な目的を持って行動する集団は無秩序ではなく、 何かしらの組織形態をもっている事がほとんどであると考えられる。それは、学生のサー クルや部活動、果ては大企業や国家までも何かしらの組織形態を持っていることからも明 確である。そして、その組織形態は、その集団が目的を果たすために最善であると、集団 に属しているものが考える形態がとられていると考えられる。 この組織というものが集団の目的達成のためにどれだけ大きな影響を及ぼし、結果を左 右するものであるかを、私は学生団体に関わる中で実感してきました。組織が集団に与え る影響力の大きさや、目的を達成するためにとても重要なファクターであると感じた経験 から、組織に関する論文に取り組もうと考え、この卒業論文をスタートさせた。 そして、組織について最も興味を持っていたのが組織を形作る要因は何なのかとういう点 である。私にとってその集団に適した組織形態を作ることは、規模が小さい学生のサーク ルや学生団体に比べて、規模が大きく、行うことも多岐にわたる企業のほうが格段に難し く思われ、さらに、組織形態を変えるとなると、なおさらに小規模で利益を上げる必要の ない学生のサークルや学生団体よりも、規模が大きく、常に利益を生み出すことを期待さ れている企業の方が比較にならないほど難しいものになると考えられます。しかし、その 困難さを乗り越え、組織形態を変化させるのは、何か大きな要因があるのだろうと考えた からである。 この組織形態の変化の最終的な目的(理由)が利益を拡大することであり、それを実現 するために組織の効率を上げる方法として組織形態を変化させていると言うことは容易に 想像できたが、具体的に何故、変化前の組織形態では効率的ではなかったのか、あるいは 効率的でなくなってしまったのか、この点についての疑問が残り、この点を明らかにする ことからこの卒業論文を始めた。 上記のことを調べる上で、A.D.チャンドラーの「組織は戦略に従う」 (2004 年ダイヤ モンド社発行)を主たる参考文献として進め、この文献により上記の疑問に関しては、あ る程度の解決を得たが、次に日本の企業に関しても同じことが言えるのか、それともまた 違った要因で組織の変化が決断され、実行されているのかという点に興味を持ち、日本の 企業である「帝人」を自分なりのモデルケースとし、日本的な組織形態の変化について新 たな考察を見つけられるように取り組んだ。 ここで比較する日本企業として「帝人」えらんだ理由は2つあり、1つは歴史が長く、 事例が豊富にあると考える点、もう1つはA.D.チャンドラーJrは「組織は戦略に従 う」の中で企業を「利益追求型の企業のうち、原材料の調達から最終顧客への製品販売へ といたる連続的なプロセスの一部あるいは全てを扱う企業をさすものとする。したがって、 輸送・運輸、公益、金融といった分野の企業は除くが販売、原材料の採掘・採取・収穫、 加工・製造などに携わる企業は全て対象とする。」(アルフレッド.D.チャンドラー.Jr 著、有賀訳、2004年6月10日、p.16。 )と定義しており、帝人の事業がこの定義の 2 中に当てはまるからである。 2、組織の変化について □言葉の定義 この話を始める前に、言葉の定義を明確にておく、チャンドラーは「組織は戦略に従う」 のなかで企業を「利益追求型の企業のうち、原材料の調達から最終顧客への製品販売へと いたる連続的なプロセスの一部あるいは全てを扱う企業をさすもの」と定め、さらにマネ ジメントを、 「社の命運をにぎる経営者は多くの場合、バイヤー、セールス担当、などの実 務担当者の監督すらせず、むしろ管理者層の任務遂行をマネジメントするのだ。灰化のマ ネージャーや職長の仕事を企画、調整する際には、業務の割振りを行うほか、様々な作業 遂行に必要な原料、機会などの物的資源を確保する。部下の仕事を評価するに当たっては、 マネージャーや担当者がそれぞれの役割を十分に果たしているかどうか、見極めなくては いけない。もしそれができていないようなら、機会・備品を追加する、担当者の配置換え を行う、資金投入を増減させるなどの対策をとる。」(アルフレッド.D.チャンドラー.J r著、有賀訳、2004年6月10日、 p.12。)という理由から「業務の調整、評価、 プランニング、経営資源の配分に関わる経営上層部の行動、命令、判断など」(アルフレッ ド.D.チャンドラー.Jr著、有賀訳、2004年6月10日、p.12。)と定義している。 □なぜ組織は変化するのか このマネジメント業務は、近代の事業部制において大きく分けて4つの異なる組織階層 を通じて遂行される。その4つの組織階層とは、総合本社、中央本社(事業部)、部本部、 現業部門であり、「総合本社では経営陣と専門スタッフが、高い自立性を持った多数の事業 部を対象に調整、業績評価、プランニングを行い、経営資源を配分する。各事業部は、特 定の主力商品ラインあるいは地理的エリアを担当し、複数の部門をマネジメントする、中 央本社はその各部門はそれぞれ製造、販売、原材料のち調達・生産、エンジニアリング、 研究、財務などの主要機能のいずれかを担う。事業部には部本部と言う組織もあり、多数 の現業部門の調整、業務計画、プランニング、にあたる。最底辺に位置する現業部門は、 工場、支社、あるいは販売支店、購買担当、エンジニアリング担当、研究所、会計担当財 務担当などで構成される。」(アルフレッド.D.チャンドラー.Jr著、有賀訳、2004 年6月10日、p.13。 ) 最も複雑化している企業は上記のような4つの組織階層を持っているが、もちろんこの うちのいくつかしか持っていない企業も存在している。例えば販売組織を持たない企業や 製造だけを行っており本社と現業部門しかない会社も存在するのである。しかし、全てを 持たない企業があるとしても、大企業でマネジメント業務に携わる人の全てが4つの階層 のどれかに属してマネジメント業務を遂行しているのである。 この4つの組織階層は規模が異なるほか、働く人々の職務内容にも違いがある。チャン ドラーは「現業部門のマネージャーは、管轄地域に閉じて、販売、製造、エンジニアリン 3 グなどいずれかの職能活動を担う。部本部の上層部は、広域あるいは全国規模で特定の職 能活動を担い、社外の情報源も、同じ職能分野に携わる人材や組織に限られている。これ に対して、事業の部の上層部は職能ではなく、事業単位で責任を受け持つ。つまり、担当 の製品あるいはサ―ビスに関する限りはあらゆる職能をカバーするため、常務範囲、石膏 や取引相手などは、職能ではなく事業の利害に応じて決まる。最後に、総合本社の幹部は、 複数の事業を扱うか、性質の異なる複数の広大に地域で単一事業を扱うか、どちらかであ る。彼らは、あらゆる職能をカバ-する製品別あるいは地理別の事業部について、方針や 手順を策定すると共に、経営資源を配分するのだ。」(アルフレッド.D.チャンドラー.J r著、有賀訳、2004年6月10日、p.16。)とその違いについて述べている。 このように、各階層は、マネジメント活動の範囲に差があるために、異なる事業成長に よってその必要性が生まれ、設置されたものであるはずである。例えば、企業が比較的小 さく、技術的にも簡素なものであれば社内での分業はさほど求められず、マネジメント業 務は少なくなる。しかし、分業が進むとマネジメント業務を専門的に行う人物が必要にな る。さらに地方などに工場などを建設し、人材を配置するならば、それをマネジメントす るための組織が必要になる。新たな職能分野に進出すればそれを統括する組織が必要とな る。多角化を行い、生産ラインを拡充していった場合、その多数の事業部を設け、事業部 を総合本社のマネジメント下に置くことになる、といった具合に必要性が見出されるタイ ミングがそれぞれ違うのである。ここで、事業成長のプランニングと実行を「戦略」、新た に加わった活動や経営資源をマネジメントするための部門を「組織」と定義すれば、活動 の量的拡大や、新たな職能を担い垂直統合戦略の導入や、多角化を行うと言う行為が、新 たにマネジメント部門の必要性を生み、それが導入されるという点で戦略は少なからず、 組織に影響を与えることになる。 以上の事柄から、組織は戦略に応じて決まると言える。 つまり、「事業活動が量的に拡大すると、単一地域で単一職能に携わるマネジメント組織 が誕生し、地理的に拡大すると、複数地域の現業部門を統括するために、諸部門と部本部 が設けられ、新たな職能分野に進出すると、中央本社が創設され、部門の数が増加する。 さらに、新製品ラインに進出したり、全国規模あるいは国際規模で事業が成長したりする と、事業部制が生まれ、総合本社が複数の事業部をマネジメントするようになる。」(アル フレッド.D.チャンドラー.Jr著、有賀訳、2004年6月10日、p.18。)のである。 □なぜ、組織変更には時間がかかるのか しかし、組織が戦略に従って決まるとするならば、「なぜ、新戦略の遂行に必要な組織が 設けられるまでに、なぜ時間がかかるのか」、「そもそも組織変更が必要な戦略がなぜ生ま れるのか」という問題がでてくる。 「新戦略の遂行に必要な組織が設けられるまでに、なぜ 時間がかかる」とう点では、事実、デュポン社では多角化を開始してから、完全な事業部 制に移行するまでに4年の歳月がかかっている、この変化はデュポン社が多額の赤字を計 上し、危機的な状況にまで陥ってしまって起こったものであり、これを契機として完全な 4 事業部制へと移行しているのである。 「なぜ、新戦略の遂行に必要な組織が設けられるまでに、なぜ時間がかかるのか」に関 して、チャンドラーは少なくとも妥当と思われる答えが2つあると記しており、 「新戦略に 伴って生じたマネジメントニーズが、組織改変の決め手になるほどの意味合いを持たない、 あるいは、経営陣が新たなニーズに気づかないのだろう」 (アルフレッド.D.チャンドラー. Jr著、有賀訳、2004年6月10日、p.18。)と述べている。しかし、多角化戦略や 地理的拡大、垂直統合型など戦略が変化すれば新たなマーケティングニーズが生まれるの は確かである。なぜなら、これらの戦略は経営陣の判断の量を増やすのである。そのよう な状況で、従来の組織のまま業務を行っていけば効率が落ちていくことは目に見えている。 このように重要なマーケティングニーズが生まれているのだから、この戦略が変わること に伴って生じたマネジメントニーズが組織改変の決め手にならないほど些細なものでない のは確かである。つまり、この新たなマーケティングニーズに対応できずに失敗すると言 うことは全社的なマネジメントの責任を負う経営者の資質の問題となってくる。次に「そ もそも組織変更が必要な戦略がなぜ生まれるのか」という問題に関しては「組織改編が戦 略変更をきっかけに行われ、戦略が何故変わったのかと言えば、人口移動や国民の所得水 準の変化、技術イノベーションなどによって、新しい事業機会やニーズが生まれたからだ ろう。人口増加、農村部から都市部、さらに公害への人口移動、景気循環、技術開発のス ピードアップなどは全て、新たな製品やサービスの需要を創出したり、既存の製品、サー ビスの需要を低減させたりした。新市場が生まれるとの期待、あるいは既存市場が失われ るのではないかとの懸念は、事業の地理的拡大、垂直統合、製品の多角化を促した。」(ア ルフレッド.D.チャンドラー.Jr著、有賀訳、2004年6月10日、p.19。 )ことが 原因であると述べている。 この二つの疑問の答えからわかることは、いくら事業を成長させたとしても、その成長 によって生まれるマネジメントニーズに対応ができなければ、非効率が生じ、うまくいか なくなるだけである。さらに、経営者が鋭い感性で新たな市場、ニーズなどを掴み地理的 拡大や新製品ラインの投入なで積極的な拡大戦略をとろうとも、それによって生じるマー ケティングニーズに対応できなければ、戦略変化は自分自身の首を絞めることになると言 うことである。 ここまでをまとめると、組織形態は確かに戦略から大きな影響を受けて決められる、また は、改編されていく。しかし、それは「組織は戦略に従う」というよりも成功するために は戦略に組織形態を適応させていかなければいけないということである。ここまで組織が どのように決められ、変化していくのかを、A.DチャンドラーJr著「組織は戦略に従う」 の内容を中心にまとめてきた。ここからは実際のケースを比較することによって日本企業 における、組織決定、組織改編について論じていく。 3、帝人の事例 5 帝人株式会社を通じて日本企業における、組織決定、組織改編について論じていく前に 帝人の歴史について述べておきたい。歴史を知っておくことは比較していく上で、より深 い理解に繋がるであろう。そこで、資料のある昭和43年までの歴史について述べる。 この歴史の中で特に注目していただきたい点は、帝人が東工業から独立した時と、岩国 工場の建設に取り掛かりその際に新たにマネジメントを担う人材が帝人に入ってきた時、 そして、大家晋三が取締役を「働く重役」と「考える重役」に分けたことから始まる組織 の変化があったときである。この3つに注目しつつ、帝人の歴史について知っていただけ ると幸いである。 □人造絹糸の日本への導入 最初に人造絹糸を企業化しようと日本に持ち込んだのはロンドンのブリティッシュ・ザ イロナイト社である。日露戦争が終わった頃、台湾の樟脳に目をつけ、これでセルロイド と人絹の製造を始めれば大きな利益を上げる事ができると考え、日本・イギリス・フラン ス・ドイツの合弁会社の計画を持ってきた。台湾は日清戦争で日本の領土になり、樟脳が 大量に生産されていた。その後、外国では樟脳が不足してきたので、日本でならセルロイ ドや人絹製造のためと言えば、簡単に払い下げてもらえると考えたと言われている。(福島 著、昭和43年6月17日、p.3、昭和 43 年6月17日、福島克之著、帝人株式会社発行。) この話を最初に持ち込まれたのは大阪の貿易商岩井勝次郎であった。この時、岩井が台 湾総督府に、樟脳の払い下げを願い出たところ、すでに鈴木商店が樟脳の払い下げを取り 付けてあったのである。そこで岩井が鈴木商店の金子直吉に話がいき、この合弁会社に参 加し、セルロイドの製造に乗り出すことになったのである。 そして、工場敷地を兵庫県網干に選び、ここでセルロイドの製造を始めることになった。 しかし当初の頃あった外国の資本は、次々に逃げて、ついには日本だけの事業となり、三 菱・鈴木・岩井でほとんどの株式を引き受けることになった。 工場建設の第一期計画は日産2トンであった。その基礎工事が終わった頃に、三井物産 が同じく2トンのセルロイド工場を計画した。この頃の日本の全需要は、せいぜい1.5 トンであったので両工場が完成すれば、供給が過剰になる事が明らかになった。そこで、 鈴木商店の金子直吉は人造絹糸の製造を先に行うことを提案し、その一部が受け入れられ、 セルロイドと人造絹糸の両方を行うこととなった。 だが、工場のほうはセルロイドの製造にさえ成功せず、資本金が120万円のところ 250 万円もの損失を計上し、とても人絹の企業化どころではなかった。(福島著、昭和43年6 月17日、p.9、昭和 43 年6月17日、福島克之著、帝人株式会社発行。) しかし、鈴木商店の人造絹糸への挑戦はこれでは終わらなかった。鈴木商店参加の東レ ザー株式会社の事業として、大正4年の 10 月に米沢市に人造絹糸の工場の設置に取り掛か った。同年の11月17日に「東レザー株式会社分工場人造絹糸製作所」が正式に発足し たのである。 (福島著、昭和43年6月17日、p.28。) この事業の中心人物となったのが久村清太と秦逸三である。秦は米沢高校で鈴木商店の 6 援助を受けながら、人造絹糸について研究していた人物であり、工場設置に着手した頃に は「老婆の白髪のような」糸ではあるが、人造絹糸の製造に成功していた。(福島著、昭和 43年6月17日、p.18。)しかし、これはまだ不完全なものであり、歩留まりは原料か ら糸になるまで、僅か60%であった。(福島著、昭和43年6月17日、p.25。) 米沢に建設された工場は、木製紡糸機10台40錘が据え付けられ、紡糸タンク様のポ ンプには自転車の空気入れが使われており、操業開始の日の職工は、男工4名、女工10 名であった。秦の技術上の助手は、前年に米沢高工を卒業した大橋亘がその年の8月から 入社していた。また、事務部長には本庄利平が、鈴木商店から派遣された。(福島著、昭和 43年6月17日、p.29。) だが、操業を始めた米沢工場の人絹は品質が悪く、とても人絹糸とは言えないものであ った。それでも、糸になる場合はまだよく、多くの場合には糸にならなかったのである。 ここに工場は完全に行き詰まり、秦は久村に応援を頼み、はじめは難色を示していた久 村も最終的には要請に応え米沢に赴いたのである。(福島著、昭和43年6月17日、p.3 0-p.31。 ) しかし、久村が赴いたからといっても事態が急に好転するわけではなかった。そこで鈴 木商店の金子直吉は秦と久村を調査のために海外に派遣した。だが、当時、世界のヴィス コース人絹各社は、技術と販売について、相互に協定を結び、製造のひみつを厳しく守っ ていたため、外遊したところで何もできないであろうと秦は考えていた。それでも金子直 吉の強い勧めもあり、海外外遊に出発したのである。外遊は秦が考えていた通り何も得る ものがないまま終わってしまった。 秦の洋行中、工場は久村が預かった。久村は月に1回は、大阪と米沢の間を往来した。 久村が不在のときの製造の責任者は、大橋亘であった。 当時、困ったことの一つは、糸のデニールを揃えることであった。パルプに目盛りをつ けたり、圧力を加減する装置をつけたり、いろいろ考案したが、全て失敗した。仕方がな く徐行に肉眼で判断させていたのである。(福島著、昭和43年6月17日、p.41。) このような品質の悪い状態ではあったが、その間に世界大戦が深刻になった。そのため に人絹糸の輸入が減って、国内の人絹糸が非常に不足し、糸であればなんでも売れた。こ の頃の米沢工場の糸は、もちろんまだ織物に使えないので、殆どが組紐、なかでも羽織の 紐に使われていた。それに組紐は本絹の場合でも、紐にしてから羽毛を毛焼きする。だか ら粗末な糸であってもの人絹糸でさえあれば通用したのであった。(福島著、昭和43年6 月17日、p.42。) 値段も、暴騰した。米沢の粗末な糸にも外国品並みの値段がついた。大正6年にはガス マントル用の糸などは、11円50銭で売れるものもあった。これで米沢工場もやっと一 息つけたのである。しかし、その頃は原価も10円程度であったので、採算に乗るにはま だまだであった。この当時、久村がヴィスコースの精製によって確実に糸にする事ができ るようになった。(福島著、昭和43年6月17日、p.43。) 7 □独立そして、発展 秦が帰ってくると、これと入れ違いに久村が洋行することになった。これにあたって米 沢工場を独立させようという機運が生じた。そして、大正7年6月17日に米沢工場は「帝 國人造絹糸株式会社」として独立した。ここに帝人株式会社が一つの企業として誕生した のである。この時、社長には鈴木商店の当 主岩次郎の弟、鈴木岩蔵がなった。専務に は東工業の社長佐藤法潤と、同じく常務の 松島誠が就任した。久村と秦は取締役とな り、久村は技師長、秦は米沢工場の技術を 担当した。(図1)(福島著、昭和43年6 月17日、p.45。) 久村は渡米中に倒産した人絹会社の、機 械設備の買取を申し入れ、機械を選定する ために工場を視察することとなった。この 工場視察の中で、久村はパルプのアルカリ 浸潰と搾りの秘密を得て、さらに糸の太さ を調節する秘密も得た。しかし、工場では糸の太さを調節するための技術がなくこの時は 実現されなかった。(福島著、昭和43年6月17日、p.49。) 久村が帰国してまもなく、工場ではヴィスコースの精製を廃止した。この頃になると工 場の設備も整ってきた。生産も大正8年6,7月には4、5月に足し殆ど倍増し、人絹の 質も向上した。そして、対象8年8月、広島市に工場を新設することに決定した。対一期 の計画は日産千ポンドで、紡糸室以下を増築すれば、2 千ポンドになるように設計し、3 千 ポンドまでの増設も予想していた。設計を大正8年いっぱいで終わり、大正9年 1 月末に 着工した。しかし、まもなく、第一次世界大戦の反動恐慌によって、鈴木商店からの融資 が途絶えがちになり、工事が停滞した。最初は1年の予定が2年かかったのである。(福島 著、昭和43年6月17日、p.54。) しかし、広島工場でも当初は採用したトッパム法が上手くいかなかったが、久村が再び の洋行中に買い付けたラティンガー社の機械に習って改良を施すことによって、応急的な 措置ながら、広島工場の危機を救うことができた。(福島著、昭和43年6月17日、p.6 4。) 広島工場の成功で、帝人の経営基盤もようやく確立し、大正12年からは、本格的に利 益が上がるようになった。景気が立ち直るとともに、人絹糸に対する需要は急増し、帝人 は独占的な地位であったので、その糸の需要は大変なものであった。特に大正13年8月 頃から、大正14年4、5月にかけてはそれが特に激しかった。そのためその期間の帝人 の利益は非常に高かった。150デニール1ポンドあたり原価2円以下のものが、5円2 0銭で売れたこともあったほどである。帝人は鈴木商店切っての花形となったのである。 8 (福島著、昭和43年6月17日、p.65。) 広島工場が軌道に乗るとすぐに対象13年には第三工場として、近代式大工場の建設が 計画された。その規模は当初計画では1万5錘、これを三期に分けて岩国に建設すること となり、第一期計画は4800錘であった。(福島著、昭和43年6月17日、p.66。) 岩国工場の建設が始まると、鈴木商店では次々と帝人に人材を送り込んだ。これまでの 帝人は、極端にいえば久村・秦の技術があるだけで、その経営は前時代的な、大福帳式の ものにすぎなかった。そこへ大正 14年9月に、吉田豊が米沢工場 に事務部長として入った。続いて 11月には岩国工場の建設を管理 するために大屋晋三、広島工場で 支配人を補佐するために大幡久一 が入社した。続いて間室が本社の 会計を担当した。 (図2) (福島著、 昭和43年6月17日、p.67。) 岩国工場は、昭和2年1月11 日には一部の操業を開始し、3月20日には早くも最初の製品を出荷するまでになり、4 月1日には、ついにフル操業を開始した。しかし、親会社である鈴木商店が、昭和の金融 危機のあおりをうけ、手形を決済し得ず、閉店するという非常事態が発生した。 (福島著、 昭和43年6月17日、p.71。) これまで帝人は、独立会社とはいうものの、実際には鈴木商店の人絹部といってもよい ものであった。資金面はすべて親会社である鈴木商店に依存していた。それが一朝にして、 金融恐慌の中に掘り出されてしまったのである。さらに、鈴木商店の1700万円を超え る負債を背負い込むことになった。また、岩国工場の建設のために振出していた、多数の 支払手形があり、これも合わせると負債の総額は2600万円に達した。これは帝人の払 込資本金の約3倍であった。(福島著、昭和43年6月17日、p.80。) 帝人の再建計画の最大の前提は新鋭の岩国工場を中心として、各工場の生産体制を、整 備発展させることであった。この岩国の整備に関しては久村の努力により、整備は急速に 進み、運転も次第に順調になった。糸質は向上し、生産原価は低下した。再建計画では独 力で、帝人だけを整理再建することとなり、原則として債権者に株式および者席を引き受 けさせて、手形債務を整理するものであった。再建案は債権者会議をすらすら通った。こ うして整理案も落ち着き、昭和2年11月には配当を復活させることができ、ようやく危 機を脱した感があった。これで帝人の再建は達成されたが、鈴木商店はその所有する全株 式を失い、代わって鈴木商店の大口の取引銀行であった台湾銀行が全株式の過半数を取得 することとなり、帝人は、親会社の鈴木商店から名実ともに独立したのであったが同時に 台湾銀行のいまでいう銀行管理に近いものであった。しかも、台湾銀行は性リン銀行であ 9 るだけに、その後の帝人の積極的運営方針には、なにかと制約を加えられたのであった。 (福 島著、昭和43年6月17日、p.84-p.85。) 帝人が岩国工場の建設に着手していた対象15年は、日本の大資本がようやく人絹工業 に進出を開始した年であった。大正11年には人絹糸の総生産量は、初めて生糸の生産量 を上回り、それ以来、差は開く一方であった。このような情勢を反映して日本でも三井物 産のような大財閥、綿紡・羊毛資本などが、その蓄積した資本を投じて、次々と人絹工業 に進出した。三井は東洋レーヨン、倉敷紡は倉敷絹織(現倉敷レーヨン)を設立した。ま た、既存の旭絹織(現旭化成)なども併せて、人絹工業界は、第一次膨張期を経験するの である。(福島著、昭和43年6月17日、p.86。) しかし、この期間も人絹工業界における帝人の地位は、あたかも半独占的なものであっ た。昭和6年までは帝人の実質利益は、他の人絹会社のすべてを合わせたものよりも多か ったほどである。また、技術開発の面においても他の人絹会社に先駆けてマルチ糸・艶消 し糸のような高級糸を開発生産した。また、生蒸気を大量に使用する、人絹工業の特性を 活用した、自家発電設備も他社に先駆けて導入したのである。(福島著、昭和43年6月1 7日、p.87。) □本格的な海外進出 不況期を克服するための最大の手段は、販売を拡大することである。この昭和金融恐慌 に行った販売政策で最大の意義を持つものは海外市場への開発に特に力を注いだところで ある。鈴木商店がまだ存続していた大正13年ごろ、いずれ国内での人絹の生産が過剰に なることを見越して、帝人は人絹糸輸出の必要性を感じていた。そこで、鈴木商店の海外 支店、出張所を通じて織物やメリヤスなど、各方面の用途について引き合いを行っていた。 また、昭和3年にはロンドンに駐在員制度を設け、小野三郎を赴任させ、欧米の人絹市場 を調査させた。さらに、昭和4年 1 月には、椎名袈裟太・古川清行を中国に派遣して、そ の市況を調査させた。これによって、広東・上海・天津などの市場に、欧州の人絹糸が大 量に輸入され、さらに中国では、人絹が絹と同じく、尊重されている事がわかり、中国市 場への輸出を積極的に行おうと、これに力を注いだ。(福島著、昭和43年6月17日、p. 98。) その後、繰短に入り、義務輸出の制度が採用された際、特に輸出に力を注いだ。国内よ りも安価でも、犠牲を惜しまず輸出を観光したのである。この時の帝人の輸出は鈴木商店 が倒産した後にその貿易部門を継承した日商岩井が行っていた。さらに昭和7年 1 月には インド東南アジアの調査に基づいて、インドのボンベイに駐在員を置くなど、積極的な海 外進出を進めていったのである。 □合理化と三原工場の建設 上記のような積極的な経営戦略や、先駆者の利点を生かし、帝人は人絹界で長く王者の地 位を占めていた。しかし、この地位は常に安泰であったわけではない。新興の人絹会社は いずれも海外の技術を導入して、その指導を仰いでいたため、最初から近代式工場を建設 10 していた。ところが帝人は能率の高い近代工場が岩国にある一方で、能率が低い米沢工場 の様な工場もあった。これは原価や利益率のような点で不利になり、この点では帝人を越 える人絹会社も出てきたのである。 (福島著、昭和43年6月17日、p.111。 ) このような事態を考え、大屋晋三が総合的整理・総合的補充計画の必要性を説いた。そ して、米沢工場の即時廃棄、広島工場を逐次廃棄しつつ、あわせて第四工場を建設するこ とを提唱した。それが認められ、米沢工場は昭和6年11月をもって廃止された。第四工 場の三原の建設は昭和7年末に決定し、昭和8年2月に開始した。昭和9年10月をもっ て、一部の操業を開始し、その整備を待って、昭和10年9月に広島工場を休止した。(福 島著、昭和43年6月17日、p.112。) □帝人首脳陣の交代 帝人が三原工場の建設に着手した頃に、台湾銀行保有する株式の移動で、社の経営陣が一 変した。昭和8年5月、台湾銀行は所有する帝人の株式、22 万余株の約半数の10万株を、 生命保険会社団および綿糸商連からなる買受団に譲渡した。それに伴い、買受団から取締 役に永野護、監査役に河合良平が就任した。さらに社長の佐藤法潤の健康がすぐれず、社 長の任から外れた後、社長には台湾銀行の高木復享がなり、常務にも台湾銀行から来てい た永田が昇格した。(福島著、昭和43年6月17日、p.114。)しかし、昭和9年に起 こった帝人事件によってすぐに高木が社長の任を辞任することとなる。その後、社長の任 は久村がつくことになったのである。(福島著、昭和43年6月17日、p.128。) □日本の人造絹糸の発展 三原工場は最新鋭だけに、在来の岩国工場と比べて、設備はより一層斬新であった。こ の三原工場が動き始めた頃、日本の化繊工業の第二次膨張期であった。長らく吹き荒れた 不況の嵐もようやく静まり、綿紡績を中心とする神資本が、人絹糸およびスフ工業に、告 ぐ次著と浮かされた。既存の企業も、続々と施設を拡大した。この間に新しく投下された 資金は、総計3億円にもおよび、ここにも日本産業界の、過剰投資の兆候が窺われる。こ のような状況でも、合理化を達成した帝人は圧倒的な地位にあった。量においても質にお いても、他の追随を許さなかったのである。 国をあげての旺盛な企業意欲で、日本の化 繊工業は、驚くべき速さで発展した。昭和11年には人絹糸の生産は2億7900万ポン ドに達して、アメリカについで世界第2位になった。昭和12年にはアメリカを抜いて世 界第1位になった。帝人一社の人絹糸生産量は、実に6000万ポンドに及んだ。これは、 世界第6位のフランスの生産量と同等であった。(福島著、昭和43年6月17日、p.13 1・p.132。) 昭和13年には交際情勢の悪化で、輸出が不振に陥り、人絹糸の生産は激減したが、そ れに変わってスフ工業が急速に発展き、同年にはこれもまた世界の首位に立った。 □ゼロからの再興 しかし、第二次世界大戦が起こるのである、この敗戦によって帝人が築き上げてきた地 位は廃人に帰すのである。第二次世界大戦終戦直後、帝人では三原工場も岩国工場も、人 11 絹・スフ津も二、1台の紡績機も動いていなかった。それだけではなく、稼動可能な紡糸 機さえ、ただの 1 台もない状況であった。鉄材供出や航空燃料製造による、解体は免れた ものも、整備や補修の不足から、機械や部品が甚だしく損傷し、磨耗していた。こうして 終戦時の日本の化繊工業は、壊滅の状態であった。(福島著、昭和43年6月17日、p.1 48。) 連合軍は日本が戦後に最も必要としていた巨額の食料輸入を繊維産業で賄おうとした。 しかし、その期待を寄せられていたのは、人絹糸ではなく生糸および綿紡績であった。(福 島著、昭和43年6月17日、p.149。)このような状況の中、昭和20年11月の株式 総会で、社長の久村清太が辞任して、取締役会長になった。後任の社長には、常務取締役 の大屋晋三が就任した。 (福島著、昭和43年6月17日、p.152。 ) その後、総司令部が人絹に外貨獲得の期待をかけるようになる。昭和22年に4月には、 連合司令部は、人絹糸およびスフの生産可能量を、年産15万トンまで許可した。次いで 第一次・第二次・第三次の人絹復元計画が逐次許可されて、資金・資材も供給され、ここ に化繊工業の再建は、ようやく軌道に乗るにいたった。(福島著、昭和43年6月17日、 p.158。)しかし、上記した通り化繊各社は、戦争で企業が壊滅したために、ここに同時 に一斉にスタートラインにつくこととなり、帝人は先制の利を失ったのである。 (福島著、 昭和43年6月17日、p.159。 ) 日本経済再建の目途がようやくついてきた、昭和25年6月に朝鮮戦争が勃発した。こ れによって殺到する特需により、まず特需景気が生じた。次いでこの戦争によって引き起 こった世界的な軍備拡張および戦時備蓄で、世界市場は買い手市場から、売り手市場に一 変し、日本の輸出も再び好調を取り戻した。しかも、この 頃、帝人などの化繊工業でも、人絹設備は第二次復元も終 図3.法人所得ベストテン わり、第三次復元に入ろうとして、市況が不況であるので (昭和 25 年下期、単位万円) 見送っていた時期であり、この特需は大きな追い風になっ 1、東洋紡 たのである。 (福島著、昭和43年6月17日、p.168。) 2、東洋レーヨン この朝鮮戦争は特需や輸出だけでなく、国内の消費景気 3、鐘紡 614,800 415,900 406,400 も煽りたてたので、内需もまた拡大した。そのために主要 4、帝人 371,400 製品の輸出および国内価格が暴騰した。半年間の間に人絹 5、富士紡 334,000 糸およびスフが3倍になった。これは化繊業界には大きな 6、倉敷レイヨン 260,000 追い風となった。実際に昭和25年度下期の法人所得のベ 7、新光レイヨン 251,600 ストテンは、全てを繊維メーカーが独占しており、そのう 8、旭化成 225,000 ちの5社は数の少ない化繊会社であった。 (図3) (福島著、 9、呉羽紡 10、大和紡 昭和43年6月17日、p.169。 ) 213,000 200,000 福島著、昭和43年6月17日、p.169 □帝人の没落から再興 このように戦後の化繊工業界は、帝人と東洋レーヨンが並んでその先頭を切っていた。 しかし、帝人はその地位に胡坐をかいていた、その間に東洋レーヨンや倉敷レイヨンは合 12 成繊維の開発に取り組んでいた。これは欧米の諸国では合成繊維を開発して、大きな成果 を収めていたことを受けたものであり、当たり前の流れであった。(福島著、昭和43年6 月17日、p.177。) そして、東洋レーヨンがナイロンの開発に成功するとともに、帝人は長年占めてきた王 者の地位を、ついに失うのである。これを受けて、政界に進出し、社長の任から離れ、久 村が逝去してから取締約会長になっていた大屋晋三を、政界から引退させて帝人の社長業 に専念させようと言う声が内外に高まった。それによって昭和31年6月大屋は帝人に再 建に専念することとなった。(福島著、昭和43年6月17日、p.180-p.181。) 大屋が帝人の社業を再建するに当たって、最初に打った手は、ポリエステル繊維製造の 技術を、イギリスのICI社から導入することであった。このポリエステル繊維の技術は、 帝人と東洋レーヨンが協働で導入した。二つの会社が同一技術を、等しい条件で導入し、 活同時に企業化することになった。しかし、帝人と東洋レーヨンは、生産では競争するが、 販売では提携することを申し合わせた。(福島著、昭和43年6月17日、p.183。)し かし、企業体質の改善、新繊維の開発は、決して短時日に達成できるものではない。さら に神武景気の過熱に対する金融引き締めに端を発した、深刻な不況の嵐が、強く吹きつの った。実際にしょうわ33年3月期、同9月期と期を追って、業績は急速に悪化した。社 内の空気は沈鬱となり、社員の士気は下がっていた。(福島著、昭和43年6月17日、p. 197。) 大屋は、下がった士気を更新するために、停滞した人事を打開し、新しい風を吹き入れ ることを考えた。在来の取締役の半数を退陣または翼下会社に派遣して、新進気鋭の士を 抜擢東洋した。(福島著、昭和43年6月17日、p.197。)社の事業そのものについて は、テトロンを中心とする合成繊維への、体質改善を急ぐとともに、単なる化繊工業から、 総合化学工業へ脱皮発展することを目指した。 (福島著、昭和43年6月17日、p.199。) そして、帝人の業績も、33年9月期を底にして、次第に好転の兆しを見せてきた。こ れは、経済界の立ち直りで、レーヨン部門が好転し始めたことにもよる。同時に待望の新 商品のテトロンをはじめ、アセテート・テビロンなどが、ようやく身を結び始めたためで ある。同じく工業用繊維として強力レーヨンが、いよいよ順調に伸びて、業績に大きく寄 与したことにもよる。こうして、売上も34年3月期には26%増、同9月期には17% 増と着実に増加した。この期を逃さず、昂揚してきた士気をさらに鼓舞して、業績を工場 させるために、帝人では「向後三カ年間に売上を倍増して、300億円にする。 」ことを方 針として、その実現に邁進することとなった。 (福島著、昭和43年6月17日、p.200。) この昭和34年は、いろいろな意味で、帝人の大きな転換期であった。ヴィスコース専 業から合成繊維への、体質改善も緒につき、斜陽化した企業の再建も、ようやく軌道に乗 った。新合成樹脂ポリカーボネートも、企業化の段階に入って、「帝人化成株式会社」が発 足した。アセテートなども帝人独自の製造技術を開発し、自家生産のために、松山に工場 建設を開始した。このように総合化学への第一歩が踏み出されたのである。(福島著、昭和 13 43年6月17日、p.180-p.181。) この売上倍増3ヵ年計画は、予想以上の速度で進行した。昭和35年9月期には売上は 250億円に達し、売上倍増計画は、予定期間を半分に短縮して、悠々実現しえることが 早くも明らかになった。この素晴らしい躍進の中心となったのは、テトロンやアセテート、 テビロンなどの半合成・合成繊維であった。こうして帝人のレーヨン中心の生産機構は、 ここに完全に一変した。35年3月期には、レーヨン41.75%に対して、合成・半合 成繊維は58.25%となって、社の体質が大きく転換した。同9月期にはレーヨンの比 率は36.27%となって、テトロン一部門の43.10%をもはるかに下回ることとな った。ここに帝人のレーヨンから合成繊維への体質改善は、達成された。(福島著、昭和4 3年6月17日、p.203。) □組織の変化 ここに帝人の再建は、ひとまず成ったが、大家はこの時、社を一層飛躍的に発展させる には、何か思い切った手を、打たなければならないと考えた。そこで昭和35年11月末、 重役陣を真二つに割って、『考える重役』と『働く重役』に分けた。『考える重役』は、内 外の政治・経済・産業などの動きを調査観察して、帝人の今後如何に進むべきかを考える。 また斬新なアイデアによって、事業を企画開発する。従って会社の日常業務には、携わら ないこととなった。しかし、それぞれの地位に応じて、一定の大局的行動基準が示された。 俗に言うノルマである。 (福島著、昭和43年6月17日、p.204。 ) 『働く重役』は、会社の行 っている日常業務に携わる もので、社の機能に応じて、 管理・営業・生産・開発の4 部門に分けた。この『働く重 役』には社長の持つ権限の大 部分を委譲して、永年の観光 の稟議書なども廃止したの で、その権能はあたかも、一 独立会社の社長に近いもの になった。(図4)(福島著、 昭和43年6月17日、p.206。 ) この頃、大屋が、社業推進のために力を入れていた方策が、2つある。1つは、人材を 社外に広く求める『混血政策』、他の一つが従業員の頭脳・思考を、精神発刺するための『海 外派遣政策』であった。 (福島著、昭和43年6月17日、p.210。 ) 戦後の帝人は、その技術の多くを、海外からの導入に頼っていた。もちろん当時、日本 よりも進んでいた欧米の先進国の優れた技術は、進んで導入すべきであるが、海外からの 技術導入のみに頼っていたのでは、国内では先制できても、国大的競争で優位に立つこと 14 はできない。まして自由貿易の時代に入っていただけに、これは切実な問題であった。そ のため東京に中央研究所を建設し、ここでベーシックな研究を行い、これまでの岩国の生 産に触接した研究所と相まって、新製品の開発・在来の製品の改良に取り組み始めた。ま た、大阪に、繊維加工研究所を建設し、製繊・染色などの加工技術の向上に取組み、これ も岩国の生産技術研究所と相まって、研究体制を整備した(福島著、昭和43年6月17 日、p.213。) また、昭和36年10月には、従来の 4 本部の他に、新しく「化成品本 部」を設置し、プラスチックの分野を広く開拓して、将来は繊維部門を並列させることを 期待したものであり、そのために神奈川県にプラスチック研究所を建設した。さらにポリ ウレタン・セロファン・不繊布などの分野も、次々に開発を始めた。また、帝人殖産会社 を設立して、不動産や畜産の分野にまで進出した。(福島著、昭和43年6月17日、p.2 17。)さらに、会社を発展させるために帝人は積極的に他社との提携を進めたのである。 昭和37年には化学業界の老舗である大阪ソーダと、昭和亜40年には十合百貨店と提携 を結んでいる。また、写真業界の小西六と提携し、テトロン・フィルムの製造を企業化す ることになり、昭和41年「帝人小西六株式会社」が設立された。(福島著、昭和43年6 月17日、p.229。) さらには昭和41年には日本曹達と技術提携し、次いで、同年に日本レイヨンおよび鐘 紡と、販売・技術・製造の全般にわたって、緊密な三社提携を結んだ。(福島著、昭和43 年6月17日、p.230。) また、出光興産とも提携し、石油化学に展開することになり、芳香族系合成繊維原料製 造のために昭和41年に「帝人油化株式会社」が、資本の全額を帝人出資で設立された。 (福 島著、昭和43年6月17日、p.239。)この他にもアメリカのハーキュレス・パウダ社 と合弁で「帝人ハーキュレス」を設立(福島著、昭和43年6月17日、p.232。)など 積極的な提携と技術導入を行っていったのである。 このような動きの中、社内体制にも大きな変化があった。先ず、昭和38年12月、総 本部内に社長室を設立し、ここに計画部と管理部を配属して、経営の最高方針確立に資さ しめた。さらに、昭和39年 2 月には、研究本部を設立して、研究体制の確立を期した。 また、化成品本部を廃止して、これを開発本部に吸収合併した。 続いて昭和41年1月 には、専務取締役以上を委員会として、「経営会議」を設立し、最高の経営方針は、取締役 会に付議する前に、ここで詳細に審議検討することとなった。(福島著、昭和43年6月1 7日、p.246。)その他に、昭和42年5月には副社長制の採用が決まり、創立以来、初 めて副社長を置くこととなった。(福島著、昭和43年6月17日、p.248。) さらに 大きな制度改革として、昭和43年5月付けで、約八年間続けてきた機能別による本部制 を廃止して、これを15部門に細分化した。同時に、事業運営の効率を向上させるために、 専門スタッフと執行部門(生産・販売部門)とを分離して、それぞれの機能の確立を図っ た。即ち、専門スタッフはそれぞれ専門の機能を担当して、生産および販売活動の向上に 寄与し、執行部である生産および販売部門は、専門スタッフの協力と調整のもとに、あく 15 までも現業に徹することとなった。 (福島著、昭和43年6月17日、p.248。 ) さらに経営機能を総合的に強化するために、社長・副社長は、長期的な経営戦略の設定 に特に力を注ぐこととなった。そのため3人の副社長は、在来は本部長をそれぞれ兼ねて いたが、今後は部門の長は担当しないこととなった。また、長期的戦略を、設定し実施す るに当たって、最高経営層を補佐するために、新分野の事業開発に専念するスタッフとし て、未来事業部が設置された。さらには世界的企業に発展するために、海外事業・輸出な らびに海外事務所を統括して、海外部門が設立された。その部長には日商岩井の常務渡邉 清一郎を常務取締役に選任し、これを委嘱した。(福島著、昭和43年6月17日、p.24 9。) □不況からの復興 高度経済成長に対する引締政策によって、発生した、深刻を極めた不況も、公債政策・金 利引き下げその他、一連の政府の積極的な景気刺激施策、さらに業界の懸命な合理化努力 などが、功を奏し昭和41年後半からは、景気回復の兆しが見られるに至った。 (福島著、 昭和43年6月17日、p.249。 ) 合成繊維業界でも、輸出が急激に伸張したので、需給関係もほぼ調整されて、業績は上 昇の傾向を示してきた。帝人の業績も41年3月期から徐々に上昇し始め、42年9月期 には創立以来の最高業績を示した。 (福島著、昭和43年6月17日、p.250。)しかし、 その間に、政府は貿易収支の改善を目的として、公定歩合の引上げ、財政支出の繰延べな ど、経企庁政策を講じてこれに対処した。しかるに国際的な経済情勢も急速に変化し、さ らに自由陣営に於いてそれが激化した。さらに資本の自由化は急速になり、国際競争はさ らに激化してきていたのである。(福島著、昭和43年6月17日、p.252。) ここまで、帝人の歴史を操業から50年分にわたって記述してきた。この中に、大変興 味深い点が多々含まれている。それについて次の章でチャンドラーの事例と共に述べてい く。 4、帝人の事例とチャンドラーの理論 第三章で帝人の歴史の中で、組織が変化したタイミングが三度ある。一度目は帝人が東 工業から独立した時、二度目は、岩国工場の建設に着手していた大正14年に田豊が米沢 工場に事務部長として入り、続いて11月には岩国工場の建設を管理するために大屋晋三、 広島工場で支配人を補佐するために大幡久一が入社した時、三度目は昭和35年の考える 重役と働く重役への移行に伴う組織変革から始まった大きな組織改革である。 まず、一度目の変化については、事業が軌道に乗り出し生産が増加したことを受けて、 独立したためすでに個人で行える規模を超えていたこともあり、独立と同時にマネジメン トを専門に行う人物を配置することになる。チャンドラーでいうところの量的な拡大によ り、マネジメントが増えることにより、専従的にマネジメントを行う人物が必要になった ということである。 16 二度目の変化については、生産量の増加と工場の地理的拡大が大きな要因であろう。米 沢、広島、岩国と工場が各地に散らばるにつれ、その工場を統括する人物、つまり現業を マネジメントする人物が必要になってきたことを受けてのものであると考えられる。さら に、会計係が設置されたことに関しては、さらなる量的拡大の中でマネジメント業務がよ り一層、煩雑化したことうけてのことだと考えられる。これに関してもチャンドラーの述 べていた、複数の地域で活動を始めると、その地域で現業部門を統括するためのマネジメ ントを行う人物がでてくる。という部分に合致するのである。 三度目の変化に関しては、重役陣を考える重役と働く重役に分け、考える重役にはトッ プマネジメントを任せ、働く重役には、部門を営業部門・管理部門・生産部門・開発部門 の4部門に分けて、それぞれの部門長を任せるというものであった。これは、本格的な垂 直統合型の組織への変化であった。そして、8年後には、機能別による本部制を廃止して、 これを15部門に細分化した。同時に、事業運営の効率を向上させるために、専門スタッ フと執行部門(生産・販売部門)とを分離して、それぞれの機能の確立を図った。また、 新分野の事業開発に専念するスタッフとして、未来事業部が設置された。そして、世界的 企業に発展するために、海外事業・輸出ならびに海外事務所を統括して、海外部門が設立 された。 このように見れば、帝人も他社の発展と同じように、垂直統合型の組織を経て、事業部 制の組織へ移行してきたように見える。しかし、そのような単純なものではない、第三章 でも記載したように、帝人が垂直統合型の組織へと変化する前に、帝人は自社の技術を用 いて開発した事業を子会社化しているのである。つまり、垂直統合型の組織が成る前に、 事業部制への移行を開始しているのである。この点は、チャンドラーが取り上げた事例と の大きな相違点である。 しかし、帝人が昔から海外に製品を多く輸出していたにも関わらず、海外部門を設けよ うとせずに、垂直統合型の組織形態に移行してから、海外事業部を設置していることから、 本格的な事業部への移行は、やはり垂直統合へ組織が成ってからではないのかと考える方 もあるであろうが、当時の帝人は鈴木商店から始まったこともあり、輸出に関しては鈴木 商店を通して行っていた、また、鈴木商店が倒産してからは日商岩井がそれを引き継いで 行っていたこともあり、海外部門の必要性が少なかったからだと考えられる。 では、このチャンドラー事例との違いはどのような原因によって起こっているのであろ うか。その答えとして、私は企業の始まり方が大きく影響を与えているのではないかと考 えている。チャンドラーの事例では、個人事業から始まり発展していった企業を用いてい るが、帝人の場合は親会社があり、そこから独立して始まった企業である。さらに、その 独立の仕方も、成熟してきてからの独立ではなく、製造・販売の目途が立ったので、独立 させるというものであった。そして、親会社の鈴木商店は商社という性質上、資金を出資 し、採算が見込めればそれを子会社として独立させる、つまり、製造業ではないが、製品 によって事業部制を敷いているに近いものがあったと考えられる。したがって、帝人が成 17 長していくにつれ、マネジメントに携わる者が、事業部制に早くから取り組んだのではな いかと私は考えている。 また、先ほども述べたように、帝人は成熟してから独立したのではないという誕生の背 景をもっているため、自身が、ある技術を用いて製品を作りそれを企業化する際には、成 熟するよりも採算をとれる目処がつくと早くに子会社化してしまう傾向があったのではな いかと考える。つまり、先の歴史で述べた帝人の様に、独立してから改良を施し、技術力 の向上に努め成熟させるというものが、良い方針であると考える雰囲気が全社的にあった のではないかと考える。よって、その事業の中での成熟や垂直統合が完成するよりも前に 事業部制への移行が帝人内で行われ始めたのではないかと考える。 6、最後に 今回の事例でわかるように、会社の歩んできた歴史によって、その企業が組織形態の変 化を起こすタイミングというのは簡単に変わってしまうのである。確かに、目的は利益の 追求とさらなる効率化であるのは言うまでものないが、それの他にその会社の持つ文化や 環境がその組織変化の仕方に大きな影響を与えるのではないか。ただ、帝人に関してもチ ャンドラーの事例とは少し違う、順番になっているが、最終的には事業部制で落ち着いて おり、それぞれの事業部の中で垂直統合の組織ができあがっているという点においてはな んら違うところはないと私は考えている。 ただ、この変化のタイミングというのはその企業をみる上で、どのような性質を持って いるのかをみる、大きな材料になるのではないかと感じた。 参考文献 アルフレッドD.チャンドラー.Jr著、有賀裕子訳、『組織は戦略に従う』、2004年 6月10日、ダイヤモンド社出版。 福島克之著、福島著、昭和43年6月17日、昭和 43 年6月17日、帝人株式会社発行。 評価 企業がいかに発展していくのかについては、チャンドラーをはじめとして多くの議論が あります。今回の事例がはたしてどういうモデルとして理解することが出来るのか、いろ いろ新しい展開もありそうだと思いました。経路依存的といいますか、歴史の重要さを感 じました。 18
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