囲碁求聞史紀 - livedoor Blog

 囲碁求聞史紀
サークル名:マサカディフィート
著者:真坂野栄(まさかのさか)
発行年月日:2015 年 12 月 30 日
【まえがき】
どうもどうも、今回当サークルの頒布物をお手に取り頂きありがとうござ
います。サークル『マサカディフィート!』の真坂野栄(まさかのさか)でご
ざいます。今回の内容についてですがね、ズバリ『囲碁』の本です。東方
project でお馴染みの霊夢と魔理沙が、時には他のキャラを交えつつ、ゆるー
り、時にはゆりゆり~!な会話をテーマ毎に行い、筆者が補足としてつらつ
ら書いている構成となっております。内容に関しては結構幅広いものを扱っ
ているつもりです。例えばそうですね、囲碁の珍エピソードとか、棋士の超
人伝説とか、囲碁を取り巻く環境とか……まぁ大体そんな感じ。あと事前に
断ってはおきますが、この本はあくまで囲碁界事情に特化して取り扱った本
でありまして、全て読んだからと言って囲碁が強くなるとか、そういう訳で
はありませんので、ご容赦下さい(その手の本については本当は一冊出すつも
りだったのですが、落としてしまいまして。。)
さて、一応キャラ紹介というか、本同人誌における設定みたいなものも書
いておきましょう。
・博麗霊夢
⇒ツンデレ感たっぷりな巫女。空を飛ぶことができたり、妖怪を退治できた
りと、主人公らしくハイスペックではあるのだが、本同人誌においては殆ど
そんな場面はありません。元々ドライなところがあり、あと結構金にうるさ
いところもあります。今回の作品においても神社にまともな人間が参詣しな
いため、新たな御神体として、仙人がやっていた囲碁を担いでやろうと目論
んでいる……なんて設定にしております。また基本ぐーたらした生活を送り、
暇を持て余していたで、すっかり囲碁に嵌ってしまっており、たまたま遊び
に来た魔理沙にその魅力を話す……キャラ同士の会話パートに関しては、大
体そんな感じにしていますね。文中の会話では『れ:』で統一しております。
・霧雨魔理沙
⇒所謂魔法使いであり、盗人。スペルカードと呼ばれるカードで暴れまわっ
たりするが、本同人誌ではそういった場面は無いのでご容赦を。人懐っこい
性格で、特に霊夢大好きっ娘。口は悪いけど努力家でフレンドリー。まぁ端
的に言って筆者の好みのタイプそのものであります(笑)。今回はすっかり囲
碁の虜になってしまった霊夢の囲碁の相手になったり、聞く役になったりす
るという立ち位置。文中の会話では『ま:』で統一しております。
・幻想郷
⇒東方 project の舞台。通常の人間界からは強烈な結界で隔離されており、
霊夢たちはそこで日々を過ごしております。神様や妖怪や吸血鬼といった、
この世で幻想となったものが次々と流れていく場であり、そうした存在が同
居している(そして一同ワイワイやって)ような世界。ちなみに幻想郷は昼間
から酒を飲めるような、そのような世界でもあるので圧倒的優しい世界感あ
るから割と移り住みたいなという、そんな筆者の本音。『外の世界』からは
切り離されているようには書きましたが、例えば香霖堂と呼ばれる書店は、
例外的に外の世界の情報を取り寄せることができており、今回霊夢たちも多
く囲碁の本や情報を仕入れている(というか電子書籍の台頭により、現実世界
で忘れ去られた囲碁書籍が流れ着いている……なんて設定が、一番それっぽ
いかもですね)という設定にしております。なお公式の東方のキャラにも、囲
碁を嗜んでいる様子が見受けられるキャラがしっかりいたりしますよ(例えば
東方鈴奈庵の第一巻で邪仙の霍青娥と道士の物部布都が囲碁を対局している
コマがある)。
まぁ他にも色々なキャラが出演してはおりますが、そこら辺は割愛。あく
まで囲碁の解説本ですからね、野暮としたものです。前置きも長くなるのも
なんなんで、早速本編に入ることにしますかね。それではどうぞ!!
【第一章:寝る一手事件】
桜も咲くかどうかの長閑なある日、私博麗霊夢は久方ぶりに境内の掃除を
していた。最近どうも囲碁ばかりしていたせいか、少し手を抜いてしまった
感があったのよね。これじゃ囲碁でこの神社を興そう!なんて思っても、本
末転倒。このままじゃご利益にあやかれな……
れ:…っといけない!
そういえば遊びに来た魔理沙を居間に待たせたままだったわ。退屈して不貞
ててなければいいのだけど。
れ:まーりさー!……って、あれ?
ま:ぐー……あー、すいかぁ、そんな酒を口に入れられたらぁ、ごぶごぶぅ
れ:本当、一体何の夢を見てるのかしら。 取り敢えずちょっと暖かくしてあ
げた方がいいかしら。
ま:あー、まだまだ飲めるぞぉ~
れ;はいはい、酔っ払いはこれ包んでしっかり寝なさーいっと。
どうしてまた萃香なのかしら?、とは苦笑いしてしまったけど、魔理沙の
寝顔をこうやって見ることができるのも、まぁ悪い気はしない。
今日はのどかな日差し、まだ途中とはいえ目一杯掃除をしていることも
あってか、私も結構眠たくなってきたなぁ。
れ:ふぁ~……って、誰か戸を叩いているのかしら?
戸;(ダンダンッ、ダダンダン!)
れ;もう、仕方ないわね。はいはい、わかりましたわかりました~。
何か小気味よい、如何にも弾んだ感じの音。それだけで、大体誰なのかは
予想がついた。
さ:天気が良いので遊びに来ました~!
れ:こっちは天気が良いから寝ようとしてたんだけど。
やはり戸の音の主は東風谷早苗だった。魔理沙ほどではないにしても、
こっちも随分遊びに来るもんね。
さ;あらあら、それはすいませんでしたー。境内の掃除の途中だったっぽい
ですよね、手伝いましょうか?
れ:ま、お茶は用意してるから取り敢えず上がっても大丈夫よ。
さ:お~、ありがとうございます! あら、今日は魔理沙さんと碁でも打っ
てたんですか? それっぽい靴もありましたし。
れ;あー、これはたまたま並べていただけ。魔理沙ならこっちで……ほら。
ま:ZZZ…ぐぁ~!!
さ:なるほど、これは随分とまた豪快に寝ていますね……あっ、その話で思
い出したんですけど。
れ:ん、どうしたの?
さ:『外の世界』の囲碁の名手の対局で、面白い話があったんですよ。
れ:え、なになに! 教えてくれるかしら?
さ:流石霊夢さん、最近随分と囲碁に凝っているという話を聞いてはいまし
たが、本当にそうなんですね~。
れ:何せ最高の暇潰しだからね、ふふん♪
さ:随分機嫌が良さそうですね、にこにこ。
れ;…はっ。別に、そんなことは、無いわよ?
さ:照れなくてもいいのに……あ、話を戻しますとですね、今魔理沙さんが
あーなってるじゃないですか。実はですね、そういうことをやっている
うちに負けてしまった棋士がいるんですよ。
れ:んーと、なになに?
さ:簡単に言うとですね、対局中に寝て負けたとのことです。
れ:へ??
さ:対局中に寝て負けた、とのことです。
あまりにも吃驚して、何度も聞き返してしまった。確かに囲碁の棋士って、
かなり長いこと集中するだろうから、疲れそうではあると思っていたけど。
にしたって、寝て負けるだなんて、思いも寄らないわよ。
さ:しかも、中々の大一番だったみたいですよ、大金のかかった。
れ:そんな一戦、私だったらお金のことが真っ先に頭に浮かんで、岩に噛み
付いてでも起きてそうだわ。
さ:ははは……霊夢さんなら、本当にやってしまいそうですね。
れ:しかし、どうしてまた、対局中寝ちゃったのかしら?
さ:そのプロの方曰く『(夕食休憩に入っていたが)再開まで時間があったの
で、横になって休んでいたら、つい寝込んでしまった』らしくて。
れ:囲碁の棋士も、案外……というか、随分抜作なのね。
【解説】
最初の章ということで、どういうのが良いかなと考えたのですが、この事
件は中々知られていないですし、簡潔に、且つキャッチーにまとめられると
思ったので(重要!)、載せてみることにしました。
この事件は 1980 年の第 6 期天元戦挑戦者決定戦での出来事。天元といえ
ば、囲碁の七大タイトルの一つ(そこら辺は別章で触れます)。その挑戦者を
決定する対局となると、早苗さんも話していた通り『大一番』だったのです。
この挑戦者決定戦、『変幻』の異名を誇った未冠の帝王山辺九段(当時 54
歳)に、関西の若武者牛ノ浜九段(当時 32 歳)が挑む構図となっておりました。
実績では山部九段が断然であったものの、牛ノ浜九段の勝ち上がりは凄まじ
いものがあり、そう一筋縄で行かない様相を呈していたと言えます(※1)。
対局の方はというと、夕食休憩までで 50 手ほどしか進まないという、超
スローペース。囲碁の総手数でいえば 1/4 にも達しているかも怪しいくらい。
そもそも今の時代は昔より持ち時間も全然少ないので、二日制の対局以外で
はもう二度と無いくらいと言っていいくらいの進み具合といったところでし
た。ただ形勢の方はと言うと、牛ノ浜九段の構想が空回りし、山部九段が早
くも大優勢を築いておりました。
そして夕食休憩が終わった午後 6 時過ぎ、対局室に異変が……一向に牛ノ
浜九段が現れる気配が無いのです。とはいえそのまま中断する訳にもいかな
いので、ルールに則り、そのまま対局を再開することになるのですが、牛ノ
浜九段の持ち時間(残り一時間弱)が減り続ける状態に。
当然周囲の関係者も大慌てで捜索開始、しかしこの時代だと携帯電話をは
じめとし、連絡手段なんて無いようなもので、そう上手く行きません。また、
牛ノ浜九段は関西から東京に出向いての対局だったので、彼のことをよく見
知った人がいなかったのも災いしたのでしょう、無情にも時間は過ぎ去るば
かり。挙句の果てには 119 番や交番に問い合わせた関係者もいたようです。
しかし、周囲の努力の甲斐も虚しく、牛ノ浜九段は時間切れに。その数十
分後、対局上に登場した牛ノ浜九段が現れました。そしてその時発した第一
声こそ、早苗さんが話していた『再開まで時間が…』のくだりとなる訳です。
一同これにはガクッと来たことでしょう。山部先生の胸中が如何ほどのも
のだったかは定かではありませんが、このような勝ち方は前代未聞っだった
だけに、目を白黒させていたかもしれません。まぁ棋士というのは対局中は
中々近寄りがたい雰囲気があり、且つ独り思考に明け暮れることの多い人た
ちでもあるので、それ故の悲劇という見方もできなくもないのですが。
その形勢の悪さから、棋士によっては『(どうもならない時は)寝る一手
だ!』などと揶揄されるオチまでついた当エピソード。しかし、あまりにも
残念エピソードだからか、半ば黒歴史として葬り去られている感すらありま
す。ただまぁ他の分野も含め、こんな話は滅多に耳にすることがない筈。何
かの時の話の種にしてみては如何でしょうか?
(※1):決勝までで牛ノ浜九段が倒した相手は以下の通り。
・王立誠(後に棋界最高峰の棋聖位 3 期保持した)
・武宮正樹(本因坊位通算 6 期で、当時も本因坊)
・石井邦生(関西総本部のドン。井山現六冠の師匠としても有名)
・林海峰(名人位通算 8 期、本因坊位通算 5 期等、棋界の伝説的存在)
【第二章:囲碁と家元(林家・安井家・井上家編)】
ま:れいむれいむ~、囲碁って何か派閥みたいなのってあるのか?
れ:昔だとあったって話は聞くわね。外の世界だと四大家元なんてものが存
在していたそうなのよ、どの家元もお寺の関係者なんだけど。
ま:ほう、そういう感じの文化が日本にもあったんだな。
れ:どれどれ、香霖堂でそういう本を買ったから見てみるね~……え~っと、
17 世紀初頭から 20 世紀初頭、大体江戸幕府があったタイミングね。
ま:成程、やはり将軍の保護を受けてた文化だったのか?
れ;そうなのよ、だから寺の連中が……っと、そういう人たちが囲碁の文化
を創ってきたという訳ね。
ま:具体的に何て家があったんだ?
れ:本因坊家、井上家、安井家、林家ね。
ま:この中だと本因坊家が何やら異様な名前って感じがするなぁ。
れ:お寺の建物が由来らしいわ。そして四大家元それぞれの知名度でいえば
本因坊家が圧倒的みたいね。
ま;ほうほう。本因坊家ってどれくらい凄いんだ?
れ:その四大家元全てが『この棋士は今の時代の中で一番強い』というのが
認められてはじめて就任できる名人位ってものがあってね、その 10 人
の中で何と 7 人が本因坊家の棋士だったそうよ。
ま;これまた極端な偏りようだな。『四大』とは一体何だったのか、ってく
らいに思えてしまうぜ。
れ;まぁ力関係的にはそうよね。ただ将軍の前で囲碁を打つという習わしが
あったそうで、その際はそれらの家元の棋士によって対局していたから、
四大家元って呼ばれてたみたい。
ま:成程、やはりちゃんとした訳があって『四大』なんだな。
れ;そういうこと。
ま;そういえば霊夢、名人就任にあたっていずれかの家元から反対があった
場合だとどうなるんだ?
れ;それが中々面倒なことになるのよ。家元間の棋士で調整するのさえ面倒
なのに、もっと拗れると争碁というものが勃発してしまうようなことも
あったわ。
ま;なんだなんだ、ひょっとして家元単位で丸々勝負するようなことになっ
ちまうのか?
れ;そこまでではないけど……その家の代表の棋士が、例えば十番勝負を
行うことになったりするそうなのよ。昔の碁って三日以上かかることな
んて当たり前だったから、十番まともにやろうとしたら、休養日も含め
て数ヶ月はかかるものだったのよ。
ま;それは如何にもしんどそうだな……この本因坊家以外の家元って、本因
坊家が名人になるのに軒並み反対にまわったようなことはあるのか?
れ:まぁそうならないように色々根回ししたり、全ての家元が賛成しそうな
タイミングを見計らって行うから、極端に派手な反対運動みたいなもの
は見られなかったみたい。ただ林家と井上家の棋士は、本因坊家側の棋
士から密約を反故にされたことに腹を立て、隠居に追いやったりしたな
んてことはあったみたいね。
ま:中々修羅の世界って感じだな。
れ;まぁ文化的に保護されていた界隈ではあるから、そこまで酷いものでも
ないわよ。家元同士で適時養子を出し、それぞれ長きに渡って囲碁界を
支えた歴史があるみたいだから。
ま:ふむ、そういった争碁云々は一面的なものに過ぎないということだな。
れ:そうそう。
ま:しかし名人だけで見ると本因坊が圧倒的だったようだが、他の家元はそ
んな人材不足だったのか?
れ:本因坊が強い時期が多かったけど、他の家元にも時代を代表するレベル
の棋士がいたのよ。名人にまで上り詰めた人は少なかっただけで。
ま:確かに名人になれなかったら弱いだなんて、そんな単純な話でもないだ
ろうしな。
れ:そうね。特に井上幻庵因碩はその中でも悲運の棋士だと言われているわ。
あと安井家にも粒ぞろいだった印象ね。あと面白いところだと天文学で
名を馳せた人物もいたりしたわ。
ま:囲碁棋士の一族とはいえっても、囲碁ばかり打っていた訳ではないんだ
な。それで今まで名前が挙がっていない林家なんかはどうなんだ?
れ:はっきり言って一番力が見劣り気味だったわね。それでも他の家元同様
三百年続いたし、この家元が現代の女流棋士発展に繋がっていたりもす
るのよね。まぁ諸々の詳しい話は解説の方で、かな。
ま;そうか、解説で……って解説っ!?
【解説】
……というわけで解説コーナーです(笑)。今回のテーマは家元関係、昔の
囲碁を支えてた土台に関してですね。江戸時代からその流れが本格化した訳
ですが、例えば豊臣秀吉は囲碁の全国大会を行うような指示を出したことが
ありましたし、織田信長は本能寺の変が発生する直前に当時の名手を集めて
囲碁を行わせたり(※1)と、囲碁文化は強く根付いておりました。それを本格
的にまとめ上げたのは江戸幕府ができた時から。将軍家康は 45 歳と、囲碁
を始めるにはかなり遅い年齢ではありましたが、その入れ込みようは相当な
ものだったよう。没した時には棋力が今で云うところのアマチュア四段程度
あったとも言われております。
さて、その中で本章では四大家元の本因坊以外の三家、これらについて見
てみることにしましょう。まずは林家。ここでのキーワードは【家元を取り
巻く碁界事情の複雑さ】です。何ともドロドロしたタイトルですね、はい。
まぁ単刀直入に言いますとこの林家、霊夢たちの話にもあったように四大
家元の中でもかなり見劣る存在であったのは否めません。勿論霊夢たちの会
話にある通り、将軍直々の保護を受け、江戸城で対局を行っているような棋
士も普通にいるのですが、基本的には当時の花形棋士の引き立て役に甘んじ
ていることが多かった印象なのです。
その林家の中で特筆すべき棋士に林元美、更には関連棋士として林秀栄が
挙げられます。元美に関しては、本因坊丈和や井上幻庵因碩といった歴代屈
指の名手がいた 19 世紀前半に活躍した棋士で、林家の中でも数少ない八段
(当時の八段は準名人とも呼ばれていた)まで上り詰めた棋士です。ただその
八段に上がるまでの過程が曰く付きであり、寧ろその際のいざこざの方が人
歴史に名を残す形となってしまっている、そんな何とも言えない立ち位置に
いる棋士であります。
その大きな伏線となったのは丈和の名人就任(=九段昇段)でした。実は名人
というのは、霊夢の話にもあったように、囲碁の実力によるところも言わず
もがな、他の家元からどれだけの支持を集めているのかによっても、そこに
至るまでの道のりが大きく変わっていたのです。例えば或る棋士が名人にな
るかどうかを巡り、多くの家元の棋士や当時の行政のお偉方が反対にまわる
ようであれば、『名人就任=棋界の顔になる』ということなので、その時点
で就任を断念せざるを得なくなります。また、一人でも反対にまわった場合
も、他の家元の棋士が説得することで解決することもありますが、一方で争
碁と呼ばれることが勃発してしまうようなこともありました。『家督決戦』
と表現すると分かりやすいでしょうか、その一門の棋士の長と覇を争うこと
となる訳です。こうした争碁に関しては、多くの場合十番勝負で決着がつく
こととなり、当時は最低でも数日かけて一局の碁を終わらせていたので、全
てが終了するとなると、年単位になることもざらにありました。しかも時は
江戸時代、何らかの拍子で中断に追い込まれる可能性も少なくはありません。
尤も、名人就任以外でも、例えば昇段を巡る争碁といったように、家元間の
小競り合い自体は多々あったのですが、名人を巡るそれは、数多のものに比
べれば負担が段違いであったが故、避けるべきことだったのです。
元美の話に戻りますと、彼は『丈和が名人に就任するのを許可する代わり
に、自らの八段昇段を認めるようにして欲しい』という密約を交わし、率先
して援護射撃に打って出たのでした。元々元美は水戸藩藩主の徳川斉昭(徳川
慶喜の父!)とは見知った関係であり、頭を下げさえすればスムーズに行くと
いう算段だったのです。そしてその目論見通り、丈和は名人就任を果たすこ
ととなります。
しかし問題はその後でした。丈和が一向に元美の昇段を認めようとしない
のです。元美としては腹立たしいことこの上なく、また自分が昇段できない
ことは支援している水戸藩の関係者の面子を潰してしまうということにもな
りかねないので、次の一手に出ることとなります。それは当時の棋界有力者
である井上幻庵因碩と手を組み、丈和に争碁を嘆願するといったものでした。
そうしたことを重ね重ね行われ、高齢ということもあってすっかり気が萎え
てしまった丈和は名人碁所を返上。最終的には隠居に追い込まれてしまうこ
ととなります。
その後も元美を巡っては別のトラブルがあり、その暗躍ぶりが伝えられる
ことから決して評判の良い棋士ではないのですが、棋界の発展に一定以上の
貢献をしているのも確か。その証拠に、一般的なものから後世に向けてのも
のも含め、多数の棋書を著しております。そして八段昇段を果たしたのは晩
年になってのこと、例の事件から 20 年ほど後となる 1852 年のことでした。
そして 1861 年、83 歳と当時としてはかなりの大往生を遂げました。
もう一人紹介するのは林秀栄。この棋士は林性ではありますが、後に本因
坊秀栄として 19 世紀後半に活躍し、名人就任を果たした棋士となります。
元々は本因坊家の生まれだったのですが、当時の後継事情の関係で養子と
なっていたのです。これは本因坊家が度重なる不幸によって経済的に困窮し
ていたのと、林家が跡取りに関して厳しい状況であったことによるもので、
やむを得ない選択でした。
秀栄は青年期を丸々林家の人物として過ごした訳ですが、当時の新勢力で
ある方円社(※2)なる囲碁組織が台頭すると、それに伴って更に衰退気味に
なっていた本因坊家に目をつけます。そして説得を重ねた末、当時の家督で
あった本因坊秀元を隠居させ、自らがその代わりとして就任。その時点で林
家は家元として断絶することになりました。
こうした部分だけ切り取って見ると、秀栄の立ち回りというのは不義理極
まりないものにも思える訳ですが、合理的な部分も大いにありました。第一
に、秀栄は元々がれっきとした本因坊の血筋を引く人間であったため、必要
とされれば比較的戻り易い立ち位置であったこと。そして第二に、これが大
きい理由だったのですが、当時の本因坊秀元は低段だったというのが挙げら
れます。元々秀元は先代の本因坊が精神を患ったことで、若くして家督を継
いだという経緯があるのですが、その時の段位が三段と、幾ら才があるとの
評判を以てしても、他家元と渡り合うにはあまりに厳しい状況だったのです。
また、こうした困難さに関しては、先代の本因坊が体調を崩した大きな原因
でもあり、秀元としても実は有難い話であったのではと推測されます。そし
て一旦地位を追いやられていたとは言っても、極端に邪険に扱われるという
ことは無かったようです。その証拠に、秀元は自由奔放に過ごして近隣諸国
を歴訪し(後述する八百屋の長兵衛との対局はその流れだったのでしょう)、
秀栄の弟子であった田村保寿が本因坊を継ぐに際しては、中継ぎとして本因
坊家督に再就任するなど、棋界と関わりを持ち続けることとなるのでした。
一方秀栄はというと、方円社の村瀬秀甫との対決に臨むことになる等、波
乱万丈の囲碁人生を送ることとなります。しかしその過程で飛躍的に棋力に
磨きがかかることとなり、最終的には時代の第一人者、更には名人に上り詰
めるまでに至りました。こうして見ると林家は些か踏み台になった感は否め
ませんが、要所で興味深い動きを見せていた家元であったのは間違いないこ
とと思います。またこれは別の章でも触れますが、林家には女流棋士がいて、
この流れが現代碁界の女流棋士成立に繋がったりもするんですよね。
次に紹介するのは安井家。この家元のキーワードは【才気煥発】ですかね。
他の家元とは異なった感じの棋士が活躍していた印象です。名人を一名輩出
したところではありますが、ここでは二世安井知哲、安井仙角仙知、安井知
得仙知(知哲は七段、後の二名は八段)の三名を紹介していきたく思います。
知哲に関しては、厳密に言えば安井家の家督を務めていた訳ではないので
すが、恐らく囲碁史上最も世間で名の知れた人物の一人であると断言できる
ほどの存在です。何せ彼は天文学者として名声を博し、日本史の教科書にも
載っているような人物なのです。この時点でお察しの良い方々はお気付きの
ことと思いますが、知哲の別名は渋川春海。そう、2012 年には映画化まで
された冲方丁氏の小説『天地明察』の主人公なのです。
囲碁棋士としての知哲ですが、囲碁界随一の天才として名高い本因坊道策
のライバル……と言うには少々物足りなかったものの、それでも御城碁の常
連という立ち位置にいる程度に、立派な棋士でした。
そもそも御城碁とは何ぞや?と思う方々に、その説明をば。実は『天地明
察』の中でも御城碁の描写自体はちゃっかりあったりします。映画序盤にお
殿様の前で囲碁を打つあの場面ですね(ちなみにその時の相手は道策)。要は
『江戸城に出向き、徳川将軍が目にする中、当時の一流棋士が対局を行う』
というのが御城碁というものだったのです。先にも述べた通り、囲碁は様々
な将軍が愛した趣味であり、幕府としても積極的な保護を図っていたのです
(だからこそ林元美が水戸藩主と関係があったりもした訳)。
尤も、将軍の前で一から対局するということは、囲碁が余程好きな将軍が
在位していない限り、殆どありませんでした。何せ当時の棋士が真剣に囲碁
を打とうものなら数日かかってしまいますからね、将軍もそれを全部見届け
る程は暇ではないのです。その代わり、江戸城に出仕するに先立って『下打
ち』と呼ばれる対局を行い、それを行った時の内容を並べるというものが、
御城碁におけるルーティーンとなっておりました。
こうして書くと、御城碁は真剣勝負というより、形式立った印象が強いと
感じられるかもしれません。事実そうした碁も少なくなく、現代の打ち手の
一部からも『御城碁はそうしたかったるい碁もあるため、決してオススメは
しない』という趣旨のことを仰っている方もいる程です。しかしながら家元
同士の覇権争い、更には昇段がかかっている対局が御城碁として行われるこ
ともあり、こうしたこと盛んであった際のものはかなり白熱した内容になっ
ておりました。また、こうした御城碁はいずれの場合も、下打ちを行うに際
しては外部の接触が大幅に制限された所定の場所に閉じ込められる(※3)等、
半ば軟禁状態で対局が進められていました。勿論それなりに整備された環境
で行われていたには違いありませんが、相当ハードなものであったことが想
像できるかと思います。『将軍の前に参上し、囲碁をご覧頂く』というのは、
それだけ責任を伴うことでもあったのです。
知哲はそうした御城碁を生涯 19 回も行いました。勿論それより多くの回
数をこなした棋士は大勢おりますが、彼の場合、それと同時に天文学の研究
も進めていた訳です。また、それ以外に家元の著名棋士であったことから他
所へ出向く機会が多かったことも考えると、相当忙しい立ち回りを要求され
ていたことが推測されます。研究者にも様々なタイプがいるという話ですが、
知哲の場合ははっきり器用な人だったと言えるでしょうね。
ちなみに知哲の専門分野である天文学と囲碁は、共に陰陽道とも親和性が
高いものでした。そもそも碁盤というのは、陰陽道においては『宇宙を体現
するもの』として見立てられ、儀式・占術において古来より用いられたもの
だったのです。実際知哲は天文学と囲碁の結び付きにも関心を持っており、
例えば『天地明察』において”初手天元”と呼ばれる、一番最初の手を碁盤
中央に置いたというのも、そうしたところを踏まえた上でのことだったと言
われております(※5)。
当時の囲碁棋士は、やはり将軍と直接対面するようなこともある、極めて
手厚い扱いを受けていたからでしょう、例えば先にも触れた井上幻庵因碩も、
兵法の専門家として薩摩藩に書物を収めていたりもします。そうした学びの
中で知哲は自らの才を極め、歴史に名を残すまでに至った訳で、道策とはま
た異なった、傑出した天才であったと表現しても過言ではないと思います。
恐らくこうした棋士は二度と現れないでしょうね。
次は安井仙角仙知と安井知得仙知、二名を一気に紹介してしまいます。こ
の二名、業界の間では『大仙知』・『知得』と呼ばれていることが多く、当
文章でも以降はこのような呼称で記述していきたく思います。この両人に関
して傑出している点……それは『現代碁のスタイルに大いに寄与した人物で
ある』という点です。それでは順番に見てみましょう。
大仙知に関しては、中央を重視した棋風が同時代の棋士と比較しても顕著
であることで知られます。そういったところから、1800 年代前後に活躍し
た棋士でありながら、現代のスピード碁を形成する上での基礎を築いたと言
われている程です。
しかしまぁ、囲碁のルールを御存知無い方にそのまま『スピード碁』など
と表現しても、ピンとこないですよね。野球で例えると、その当時の囲碁の
序盤戦って『ランナーが一塁に出たら必ず送りバントする』・『ヒットエン
ドランは危なっかしいし、姑息っぽい感じがするから、決して行わないこ
と』・『脚の速い選手は一番打者に固定』……てな感じのことをやっていた
のです。良く言えば管理されてはいるけども、一部の突出した棋士を除いて
は、些か爆発力に欠けたものが多かったも否めなかったと言えます。御城碁
ですと、そうした部分が露骨に出てしまうこともあるので、先程書いたよう
な『御城碁はちょっと…』と言うような現代の高手もいたりする訳です。
それに対し、そうした形式を崩しに崩し、仕掛けていく過程で多少のボロ
は出てしまうかもしれないが、それを補う展開力で相手からリードを奪って
いく……そういった組み立て方が大仙知の手法でした。『部分的に正解とさ
れる手を選ぶ』というより、『石が活き活きと展開されるよう、その時々で
マッチした積極策を選ぶ』という方針だとも言えます。某将棋棋士(※4)風に
言えば『いしだっ……石たちが躍動する囲碁を、皆さんにお見せしたいね』
という主張を全面に出したのが大仙知の碁ということですね(笑)。
知得に関しても現代碁を築いた一人ではありますが、どちらかと言えば
『局面を難解にせず押し切る』碁が真骨頂の棋士でした。また相場感覚に秀
でており、だからこそ無理のない打ち回しができていたように思います。こ
こでいう『相場感覚』なる言葉もピンと来ないかもしれませんが、『この形
の時はどれだけ陣地がつきそうか、またその信頼度はどの程度か』を的確に
判断する能力ということになります。囲碁は『如何に先を読むか』という能
力は言わずもがな重要ですが、このような『形によって局面の趨勢を見抜く
力』というのは、案外高段者でも見落としがちな部分なのですよ。
このことを強いて例えるならば、ゴルフが題材として相応しいかもしれま
せん。あの競技における『どのゾーンに飛ばせば、理想の位置まで持ってこ
させられるか』の判断が、囲碁で云うところの『先を読む』部分。そして
『コースを見極め、現在地からあと何打で入れることができそうか』を読み
解く部分が、囲碁で云うところの『相場感覚』に相当するものになる訳です。
まぁ両者が相関関係にあるようなも局面も、少なくはないのですがね。
こうした『相場感覚』に関しては、歴代最強棋士としてしばしば名前を挙
げられる本因坊秀策も傑出していたと言われております。ただ秀策という棋
士は、何だかんだで鮮やかな切り返しを見せて抜き去ることが結構あるんで
すよね……一方知得は『え、これで充分なの?』という態度で、しかもきっ
ちり勝ち切るタイプの強さでした。そうした意味で、大仙知のような『手法
の斬新さ』や、他の名棋士にあるような『鮮やかな勝ちっぷり』といった理
由では無いのですが、囲碁の価値観に大きな影響を与えた棋士と言える訳で
す。『新しさ』というのは、こうした渋いところからも由来している場合が
あるということですね(※6)。
最後は井上家。ここのキーワードは『門外不出』です。井上家は名人を二
名輩出している家元で、ここではそのうちの一人である井上道節因碩と、後
一歩のところで名人に届かなかった井上幻庵因碩(林家のところで触れました
ね)について、それぞれ書いていきたく思います。
井上道節因碩は、安井知哲を遥かに上回る強豪であった本因坊道策の五人
弟子の一人でした。ですので、普通に考えれば本因坊の跡取りになることも
充分有り得る存在だったのですが、道策は五人弟子の中で一番の天才との呼
び声高かった小川道的を跡目にしようと考えていました。これに対し、五人
弟子の中でもはっきり年長者(何と道策と一歳違い!)であった道節は不服を
唱えます。しかし道策はそれには応じず、当時自分の弟であった井上家家督
説得し、道節を養子に招き入れるようにしたのでした。しかし道策の弟と道
節が養子関係とは、中々凄いことですよね。そうした過程から井上家の人間
となった道節は、数年後に井上家の 4 代目家督に就任することになります。
道節にはあまり派手な争碁というものが無く、相当な大器晩成の棋士でも
ありました。特に御城碁の初出仕が 45 歳というのは、道節ほどの打ち手で
あれば異例と言って良い。養子になったことでそれが果たされたので、道策
が下した判断は道節としても悪い話でも無かったという風に考えられます。
そして道節の棋士としての最大の見せ場は何と 60 歳を過ぎた時のこと。
この時に道策の跡を継いだ道知と十番碁を行ったのです。ちなみに道知と道
的は全くの別人物です。どういうことかというと、何と道的は道策が跡目に
指名して間も無く、21 歳で夭逝してしまうのです。しかも道節以外の五人弟
子も相次いで 22 歳、23 歳、25 歳で病魔に侵されてこの世を去るという、大
変なことになっていました。そうした中、道策は 16 歳にして六段と、天才
的なペースで昇段を重ねていた道知に後を託します。そして道節に『道知を
育ててはくれぬだろうか?』との遺言を残し、この世を去るのです。若くし
て棋界の強豪相手に連勝を続ける道知は棋界の宝。本因坊家を去った経緯が
経緯だけに、道節としては複雑に感じた部分が無かったことも無いのでしょ
うが、道策の遺志を尊重し、道知に胸を貸すに至った訳です。この十番碁、
道知優位の手合にして道節の 6 勝 3 敗 1 引分と、先輩棋士の威厳を保ちます。
個人的に棋譜を見た印象ですと、道知の良く言えば型破り、悪く言えば若気
の至りの塊のような構想を、道節が力で押さえ込んでいたような内容でした。
1700 年前半時は序盤研究がてんで進んでいなかったため、手探り状態で
打ち進めていたところははっきり伺えたのですがね、中盤『黙っていてはハ
ンデが縮まらない』と思うような局面で急所を突き、相手を押し込めていく
様は圧巻の一言。翌年再度実施された十番碁こそ、ハンデを減らしたにも拘
らず、道知に負け越してしまう訳ですが、後に道知が当時敵無しと呼ばれる
ほど飛び抜けた存在になるのも、この道節の技術を対局の中で体得していっ
たところが大きかったと言えるでしょう。
道節が名人位になったのは少々特殊な事情(琉球人に免状を出すため、碁の
権威として名人位に就任する必要が出た)があってのことでしたが、実のとこ
ろ、後世において彼を評価する場合、その地位よりも、ある書物を完成され
たことの方が重要視されている傾向にあります。その書物の名は『発陽論』、
長らく井上家秘伝の書として封印されていた存在でした。『”秘伝”や”封
印”だなんて、またまた大袈裟な』と思われるかもしれませんが、井上家が
途絶えるまでの 200 年近くに渡り、門下外の人物から隠し通していた訳です
から、その形容に相応しい代物と言うことができるでしょう。内容は勿論囲
碁の技術に関するもので、その中でも難解極まりない手筋(それこそ現代のプ
ロでもヒーヒー言う類の)を集めたものとなります。また、その書き出しは
『石立ての位は囲碁の陰なり。見分ける手段は陽なり』とあることからも、
知哲のところで触れた囲碁と陰陽道の深い繋がりを改めて伺い知ることがで
きますし、当時の囲碁観もよく現れているなとも思います。つまりこれが意
味するところは『囲碁において、陣地をとるための石運びに対する意識など
は光を当てるまでもないところ、手段を見つけることにこそ力を注ぐべきな
のだ』ということなのです。先程『序盤研究はてんで進んでいなかった』と
書きましたが、少なくとも道節としては『どういう手筋を以てこの局面を動
かしてやろうか?』という意識に集中していたということでしょう。囲碁に
関して御存知無い方だと、そうした『手筋』に関する感覚って掴みにくいと
思うのですが、囲碁は交互に石を置いて陣地の大小を競うゲームなので、
『一つの石毎の価値』を高める必要がある訳ですよ。そうした際に手筋とい
うのは、『周辺の石との連携によって一手の威力を限界まで高める』や『一
手投じることによって周辺の石に活力を与える』に繋がってくるので、囲碁
の肝とも言える訳ですね。勿論後世では序盤研究も並行して掘り下げられて
いくのですが、こうした信念の継承こそ、次に紹介する井上幻庵因碩を育ん
できたものと言うことができるでしょう。
井上幻庵因碩は 6 歳にして井上家の門を叩き、苦行に苦行を重ね(これにつ
いては別章にて紹介させて頂きます)、26 歳で井上家の家督を継ぐに至りま
す。しかしその眼前に常時大きく立ち憚っていた存在がいました。そう、元
美のところでも触れた本因坊丈和です。この両者は因碩が十代の頃から対局
を重ねておりました。その一局一局は、大変内容の濃く、特に幻庵の手筋を
駆使した仕掛けの数々は、熾烈極まりないものでした。これは道節以来受け
継がれた井上家の手筋に対する鋭敏なる意識の現れと、幻庵自身の豪放磊落
とも言える気質によるところが大きいでしょう。しかしその性格が災いして
か、丈和のカウンターを喰らう碁も少なくなく、殺すことのできる石を活か
されて盤上全体を蹂躙された碁等、惨敗を喫することが少なくありませんで
した。そうした負けを芳しとしないからか、それとも 11 歳年長とはいえ丈
和に常に先を越されていたことからか、後年若き日の自らの打碁を振り返り
『(26 歳までの私の碁は)芥の如し』と、辛辣な態度で振り返っております。
それ以降もこの両名は熱い火花を散らしていたのですが、ほぼ同時期に八
段に昇段する等、その力量は一層肉薄したものになっていました。その頃に
は、先手番であれば幻庵が圧倒することが多かったくらいです。しかしそこ
から幻庵の不運が続いていくこととなります。
その契機となった事件こそ、林元美のところでも触れた丈和の名人就任騒
動でした。本来ならば幻庵ほどの負けん気の強い棋士は争碁の一つや二つ
吹っかけてきそうなものですが、丈和側から『六年後に幻庵に名人を譲る』
との打診があり、どういう訳かそれを承諾してしまうのです。元美の八段昇
段さえも認めなかった丈和が幻庵の約束を守る訳もなく、幻庵は元美と結託
することとなります。そして六年を待たずして幻庵は行動に打って出ます。
自らの弟子である赤星因徹と一番勝負を行うよう、丈和並びにその周辺の関
係者にはたらきかけたのです。
何故幻庵が直接対決ではなく、因徹を丈和に差し向けたのかについては諸
説が挙げられますが、以下のことが考えられると思います。
①当時七段の因徹が丈和を破るようなことがあれば、『名人の資格なし』と
主張し易くなるから。
②因徹は当時急速に力を伸ばしていたから。
③名人就任後は原則対局を行わないとの不文律はあったが、因徹が相手であ
れば丈和も応じるであろうという算段があったから。
④一門秘伝の手を因徹に授け、世に因徹の名を知らしめたかったから。
⑤因徹自身が死期を悟り、丈和と対局することを望み出たから。
まず①に関しては、『七段の棋士もこなせぬ相手に九段など烏滸がまし
い!』と、丈和降ろしの格好の口実を作りたかったということですね。②に
関しては、因徹は先番であれば名人就任前の丈和に勝利していましたし、幻
庵の試験碁も四連勝と上々の成果を収めていたので、この棋士であれば間違
いなく負けまいだろうと、自信を持って送り出すことができたのです。③に
関しては、当時は先手番と後手番で大きく差がある環境下であり、先にも述
べたように、幻庵では先手番での対局を応じないのは間違いないことだった
ので、それより少し見劣る因徹ならば首肯すると見ていたということです。
そして④、これはキーワードに関わる話となります。実は井上家、100 年
少々の間で序盤研究を進めていたのです。当時の流行型で、『大斜』と呼ば
れる変化に富んだ定石があり、この解明に一門総出で取り組んでいたのです。
その中に秘伝の手段というものがあり、これを因徹に託し、丈和の首を狙わ
んとした訳です。⑤は①~④の思惑関連とは全く違う角度になりますね。そ
う、実はこの時因徹は肺結核を患っていたのです。
丈和が申し出を受諾して行われた天下分け目の一戦、結果は因徹の惨敗に
終わります。序盤に放った『秘伝の手』によって因徹は序盤に主導権を握る
のですが、丈和が次々と攻防の妙手を連発。因徹の賢明の粘りも通じず、盤
上は木っ端微塵の状態に、因徹自身も吐血して盤上に崩れ落ちてしまうので
す。そしてこの対局の僅か二か月後、因徹の肺結核は悪化の一途を辿り、26
歳の若さでこの世を去ることとなります。幻庵としては『名人』の就任を果
たすことは、より一層大きな重き使命となっていったのでした。
悲劇から 4 年後となる 1839 年、丈和が引退に追いやられたのを機に、幻
庵は名人就任を願い出ます。それに待ったをかけたのは本因坊家。そしてそ
の相手となったのは、当時 21 歳の土屋秀和でした。先程の因徹-丈和と真逆
の構図になったのです。この時の争碁は四局、しかし打たれたのは三局のみ
でした。そう、全て秀和が勝ってしまったのです。いずれも幻庵の気迫に満
ちた打ち回しが見られたのですが、秀和はそれを冷静に受け切ったのです(特
に第三局目は幻庵が終盤に最善を捨て、捨て身の勝負手を放つも、それを以
てしても牙城は崩せなかった)。こうした棋士の存在は幻庵にとって何という
不運……否、実は丈和は秀和のような棋士が現れることを既に見越していた
のかもしれません。つまり名人就任時に『6 年』という期間を設けたのは、
幻庵に対抗できる棋士を育てきる時間でもあった……かもしれないのです。
秀和の対局で何度も吐血する等、一時は体調がかなり危ぶまれた幻庵です
が、諸国を遊興できるようになるまで回復。そして一人の本因坊家の棋士と
対局することとなります。安田秀策……本章でも既に名前が出ておりますし、
『ヒカルの碁』の佐為のモデルでもお馴染みの、本因坊秀策のことです。幻
庵はこの秀策の力を大いに認め、先手番のハンデのみと、当時としては異例
の設定で対局を行うことになるのですが、そこで囲碁界史上に残る『耳赤の
一手』を打たれ、逆転負けを喫してしまいます。この碁は終盤の追い込みも
含めて幻庵の名局だと思うんですがね、特に序盤に大斜定石が出現した際、
『門外不出の一手』を使うのですよ。そして手筋を連発して……っと、そこ
まで順調に行きながら中盤で大悪手を打ち、それを『耳赤の一手』によって
ひっくり返されてしまうという、ある意味幻庵の囲碁人生の縮図のような対
局になってしまった訳です。ちなみに大斜定石で優勢になった場面について
は、秀策が定石外れの一手を打ってしまったが所以のこと。私の知り合いの
アマ強豪なんかは『ガキンチョ相手に騙し手使った』みたいにケッチョンケ
チョンに扱き下ろす人もいたりするのですがね(笑)。
その後幻庵は海外に出国して囲碁の伝播を試みるも失敗。『我が芸を惜し
んで海外に出さざるか』と、この時ばかりは露骨に、自らの時運を憎みに憎
んだと伝えられております。そしてその数年後、62 歳で生涯を閉じました。
その数奇な運命と、石運びの鮮やかさと、そして負け方の劇的さから、現在
でも多くの愛棋家から指示を集めている幻庵。最近では百田尚樹先生が週刊
文春で連載を行っているくらいです(ちなみに百田先生の息子は学生囲碁界で
も全国大会出場クラスの打ち手だったりもします)。
そして晩年幻庵は『碁は運の芸也』・『勝負のみにて強弱を論ずるは愚の
甚だしき也、諸君子運の芸と知りたまえ』 といった名言を残した人物でもあ
ります。このような発言に対して批判的に捉える人も多いかもしれませんが、
幻庵という棋士は血の滲む努力を積み重ねてきた背景のある棋士であり、そ
うした意味では、寧ろ悲痛の叫びと受け取るべきかもしれません。一方で、
例えば道節のところで触れた道知の後年の記述にある『並ぶ者が無き状態で
体裁を保つことを求められ、御城碁をはじめ、一切本気で対局に臨むことが
できずにいた』といった状況が無かったという点で、幻庵は棋士として多く
のことを残すことができたという見方も、出来なくもありません。こうした
『棋士としての倖せ』というのは一概に言い切れない部分はありますが、そ
うしたものが、各々定まっていたとしても選べぬという意味で『碁は運の芸
也』ということなのかもしれませんね。
(※1):この本能寺での囲碁の描写については、ヒカルの碁でも掲載されてい
ましたね。信長は当時の名手を本能寺に呼び寄せて対局を行わせた訳ですが、
その中で三コウと呼ばれる、『同じ形が無限に繰り返される状態』が発生し、
無勝負になってしまいます。不思議なことがあるものだと周りが訝しげに
思っていると、その少し後になって光秀の軍が本能寺に襲来し、本能寺の変
が起こる……そんな逸話です。ただこの話に関しては何とも言えない部分が
あるのも確か。というのもその時打たれていたとされる形にその三コウがで
きる要素が見当たらないのです。これに関しては、後世の偽作説と別の碁で
発生した説があり、囲碁界のちょっとしたミステリーになっております。
(※2):方円社とは、要約すると『四大家元の固定化した流れに一石を投じる、
囲碁探求会』という立ち位置の元、結成された組織です。ハチワンダイバー
の鬼将会みたいな組織では決してなく、様々な家元の流れを持つ棋士が集い、
囲碁の対局・研究に励んでおりました。そうして意味では同時期に維新に向
けて立ち上げった諸組織と、近しい考え方を持ったものだったと言えるで
しょう。そしてその中の筆頭棋士こそ、後にその強さから本因坊を襲名する
に至る村瀬秀甫(元々秀甫は本因坊門下且つその縁も深い棋士)であり、明治
の棋界に大きな影響を与えた組織でした。
(※3):そのため『碁打ちは親の死に目に会えない』などという話も実しやか
に囁かれていたくらいでした。実際はそうした事態に際しては多少の融通は
利かせていたようですが、地方から各家元に入門した棋士も少なくなく、こ
うした身内の不幸に関する話は悩みの種だったと言えるでしょう。ちなみに
現代ですと、こうしたことによって対局を延期させるのは厳しいよう。今年
の出来事ですと、趙治勲先生が奥様の最期を看取るため、早碁棋戦の決勝戦
を不戦敗することになったという出来事がありました。
(※4):囲碁において初手に中央へ石を置くのは、安定した陣地の確保が見込
めないため、通常敬遠される傾向にあります。あとこれは昔の棋士間で顕著
な傾向ですが、こうした斬新な手法に関し、古き良き手法を好む棋士たちか
ら『無礼だ』と眉をひそめられることもありました。今でこそ『碁は自由』
と言われておりますが、案外折り合いの難しい面もあったのです。尤も、知
哲については囲碁の名手でありながらも天文学の教養がずば抜けていたこと
から、『これは陰陽道の見地からすれば、寧ろ有り難みのあるような、意味
深いことかもしれない』といった受け取られ方も有り得るとことで、こうし
た型外れな手法を選択することも許されていた部分はあるかもしれません。
こうした『初手天元』への試みは、僅かながらも現代碁界で試みられた場
面があり、この経緯については高名な囲碁ライターである相場一宏氏の『天
元への挑戦』(2000 年 河出書房新書)にて詳しくまとめられております。
(※5):某将棋の NHK 杯出場棋士の発言ですね、はい。元ネタを御存知でな
い方がいらしたら、是非『豊島? 強いよね』で検索をかけることをオスス
メします(というか、ここでこう書いちゃうのもなんですが、将棋棋士関連動
画って滅茶苦茶面白いんですよね…)。カツラを被ってる棋士はいるのでしょ
うが、中々ここまで大胆なインタビューを、よりにもよって地上波で行うよ
うな棋士は、今の囲碁界だと趙治勲先生くらい……でしょうね、まぁベクト
ルは違う気もしますが。そういえばそうだ、囲碁も最近は NHK 杯で棋士に
『今日の私の一手』というものを解説させるなど、コミュ力強化作戦みたな
ことを積極的にやってますね。ニコニコ動画との連携も顕著ですし、棋士も
そうしたファンサービス精神が求められているのかもしれません。
(※6):こうした知得の秀でた面を引き出させた理由の一つに、生涯に渡って
ライバル関係だった本因坊元丈の存在が挙げられます。元丈の碁は相手に有
無も言わせず力強くタイプで、知得とは正反対の打ち方であったことからも、
丁度良い塩梅に噛み合うことが多かったようです。また両者は家元が異なっ
ていながらも協調関係にあり、互いに『一方だけが名人になるのは好ましく
なかろう』と名人位を譲り合い、共に八段に在位し続け合うという謙虚な姿
勢を示しあっていたくらいでした。そうした意味では丈和と幻庵とは好対照
な関係にあったとも言えます。
【第三章:囲碁と家元(本因坊家編)】
ま:いやぁ……な、長い話だったな。
れ:そ、そ、そうね……もうくたびれちゃったわ。
ま:しかしだな、最後に一つ残ってるぞ……しかも、一番大きい本因坊家が。
れ:とはいえ結構エピソードも話してはいるのよね、他家元の棋士と一緒に。
本因坊家が地味になるような時代ってどうしても少ないし、養子云々の
話も含めればキリが無いくらいだから、仕方がないのだけど。
ま:じゃあ本因坊の中で歴代最強棋士は誰か、って話なんかはどうだろう?
れ;お~、そうね。その話は結構興味深い話よね。
ま:敢えて三人に絞り込むと誰になるだろうな。
れ;本因坊道策と秀策は手堅いところね。あとは本因坊秀栄と秀和、他にも
色々いるけども、この二人が入ってくる感じになりそうね。
ま;しかし自分で言っておいてなんだが、そもそも『最強棋士』の定義って
どういう風な感じになるんだろうな?
れ;私が挙げたところだと、当時自分に勝ち越すレベルのライバルは不在で、
尚且つ勝ち方が綺麗な棋士というのを選んだつもり。
ま;成程。確かに丈和だと幻庵、元丈だと知得がいるから、霊夢が云うとこ
ろの最強棋士の定義的には怪しいのか。
れ;そうなのよね。あとは前の章だと道知も相当強い棋士だったのは間違い
ないし、『当時の名手相手に調整まがいな碁を打っているので、歴代
最強クラスではないか?』と言っている人もいるけど、そういう想像の
世界を語るとキリがないので除外。
ま:さっきもチラと聞いた気がするが、今霊夢が挙げた棋士の強みってどう
いったところにあるんだ?
れ;そこは解説に聞いてみるといいかもしれないわね。色々と喋ってくれそ
うではあるわ。
ま:またあの解説かよ!、もう長いのは懲り懲りだぜ……
れ;今度は短くしてくれるんじゃないかしら?まぁまたダラダラ長話続ける
ようなら退治するまで!
【解説】
……てな訳で先程はすいませんでした。これ以上やり出すと読者が減るこ
とにも繋がりかねないですし、退治されちゃうそうなので(笑)、今度は長々
と喋り過ぎないようにしましょう。この章では本因坊家、特に歴代最強棋士
についての話を進めていきたいかなと思います。
『歴代最強棋士は誰か?』という論題は、古今東西囲碁界で盛んに話し合
われているところで、棋士によっても見解が分かれているところです。その
点お隣の将棋界は羽生先生か大山先生を挙げれば正解なのでしょうね、恐ら
く。囲碁において最強棋士論争が変化している大きな理由としては、昔の棋
士の読み筋の深さは恐ろしい程のものだったいうのが、現代のプロ棋士によ
る研究で判明したからです。古碁の本を開けば、必ずと言って良いほど『幾
ら時間があったとはいえ、こんな先を見越して打っていたのか…』といった、
感嘆の声が聞こえてきますからね。実際プロ養成機関である院生においては、
今はどういった碁を並べるかは把握していませんが、昭和に活躍した棋士で
すと、四大家元時代の碁を徹底的に、それこそ暗唱できるくらいまで並べさ
せられたという話があったようです。まぁそうしたことが出来るからこそ、
プロの高手は目隠し碁のような人間離れした所業ができるのでしょうね。
さて、この最強棋士論争で常時挙がっているのは本因坊道策と本因坊秀策
ですね。霊夢たちの話にあったように、本因坊秀栄や秀和を挙げている棋士
もいますが、前者は若い時の負け碁が多過ぎる点、後者は晩年秀策や秀甫に
押され気味であった点から、そこまで強く推されている印象はありません。
それでは道策と秀策の囲碁の強みとは何だったのでしょう? 結論から述べ
ると、両者は全くと言っていいほど別のタイプでして、道策は面白いように
手筋が炸裂するタイプ、秀策は序盤・中盤・終盤、全てにおいての完成度で
勝負するタイプでした。道策は本当『何手先まで読んでいたのか?』という
くらい、周りの石がはたらく、手品のような打ち回しであり、あまりにもそ
れが綺麗に決まるものだから『道策の碁は実在のものではなく、弟子たちの
合作なのではないか?』という説まで存在した程です。後世の棋士が解説す
る際も『○○先生は道策のこの手を悪手と言っていたが、この手が無いと A
という手段は成立しないのである』といった具合に、見れば見るほどケチの
つけようのない碁を打っているのですよね。それに対して秀策はというと、
道策のように力でねじ伏せる碁は少ないのですが、少しでも隙を見せようも
のならすかさずポイントを稼いで逃げ切るタイプ。そういう意味では師匠の
秀和の若い頃とも通じるものがあります。道策と秀策、どちらかと言えば道
策に軍配が上がるかなと思うのですが……秀策の場合、30 代前半で早世した
のと、御城碁 19 連勝という前人未到の記録を打ち立てたのと、『耳赤の一
手』や『秀策流』(※1)といった、語り草になるものが残っている分、人気が
高いのは確かですね。また 2000 年代初頭の世界最強棋士であった韓国の
イ・チャンホ九段が『秀策先生が現代にいらしたら、私などとても叶わな
かっただろう』と評していたという話もあります。まぁ『ヒカルの碁』の最
終盤では、韓国の若手棋士が『秀策は時代遅れの棋士』と、ヒカルを煽った
場面もありましたがね、実際は世界的にも尊敬されている訳です。
『どの棋士が歴代最強であるか?』といった論争は、その棋士の価値観に
左右されるところは、やはり否めません。例えば先程例に挙げたイ・チャン
ホ先生は、秀策と比較的棋風が近いからこそ、より深くその美徳を感じるこ
とができたのかもしれませんし、平明な碁を至上とするなら秀栄、堅実且つ
陣地に敏感な碁であれば秀和、S っ気たっぷりな碁が好みならば丈和、威圧
感を重視した碁型を好むならば秀甫……といった塩梅に、それぞれが目指す
形によって評価する棋士というのも大きく変わる訳です。
逆に、そうした信念が色濃く出過ぎるが故、道策や秀策の打ち方を嫌うよ
うな棋士もおりました。例えば道策に関して云えば、その遊び心ある打ち回
しの一部に関し、藤沢秀行先生が『昔道策がこんな手法をしばしば用いてい
たようだが、正しく打たれたら酷い形になるじゃないか。こんなのは碁でな
い!』と痛烈に批判したという逸話があります。それより突っ込んだことを
仰っていたのは趙治勲先生。先生は秀和が好みで、秀策や道策は中々心に響
くものはないと主張しているのですが、その言わんとしているところはとい
うと『道策の碁にしても秀策の碁にしても、綺麗にまとめて勝利したり、技
が面白いように入ったりし過ぎる。私はそれよりも変化の多い碁が好みであ
り、例えば秀和の局面を動かしつつポイントを上げる様は鮮やかさこそ、心
に訴えかけるものがある』とのこと。そしてそれは『厳しく鎬を削る環境下
にいたからこそ、成立するのだ』とのことでした。趙先生の囲碁観は独特の
ものがありましたが(※2)、こうした視点は、『最強』というところに留まら
ず、囲碁の強弱全般を見る際においても、実に興味深いものがあります。
色々と穿った見方を書きはしましたが、『本因坊○○は好まないが、本因
坊△△は好みだ』と述べる棋士もいるように、本因坊家こそ囲碁を様々な視
点から捉えられるようにする、そんな基礎を造り上げた一門であることは間
違いありません。又は『先代本因坊がこのように打っていたが、それを踏ま
え、自分は如何なる碁を打ち進めるべきだろうか?』という意識が各棋士に
根付いていたからこそ、こうした多種多様な打ち手を輩出したと言えるのか
もしれません。実際師弟同士の対局で石の張った真剣勝負が見受けられるの
も、本因坊家くらいのものですし、それが各人の碁の形成に寄与したことは
間違いないと言って良い筈。これこそがプロ野球の野村監督が云うところの
『無形の力』って奴ですかね、他三家も含め四大家元を見てきた訳ですが、
そうした底力に関しては本因坊家は傑出した存在であったと見ることができ
るでしょう。
(※1):秀策流とは、先手番時に秀策が好んで用いていた、隅の陣地を手堅く
確保し、立ち回っていく手法のこと。まぁ秀策が一番最初に打ったという訳
でもないそうですがね、碁の結果を聞かれて『黒盤でした』と暗に勝利を仄
めかすまでに使いこなしていたことから、そのように名付けられたという経
緯があります。ちなみに作家の遠藤周作先生は、飛び抜けて囲碁が強い訳で
はなかったものの愛棋家として名の知れた先生で、自分が閃いた打ち回しに
ついて『周作流だ!』と無邪気に仰られていたといいます。ちなみに周作先
生は愛余って『宇宙棋院』と呼ばれる、物書き同士の囲碁倶楽部を結成して
おり、これについては先生著書の『狐狸庵先生のこう打てば碁が下手にな
るー遠藤周作対局集』という本にまとめられています。現在高騰してはいる
ようですが、囲碁に興味をお持ちの方は、手に取ってみると愉しめるのでは
ないかと思います。
(※2):その後趙治勲先生の持論はヒートアップし、『そもそも一人の碁打ち
が強い世界なんて、時代的に間違っているとしか言えない。特に秀栄や秀哉
といった後期の本因坊は、一人が飛び抜けていたので面白い碁が少なかっ
た』や『(家元制度亡き後の伝説的棋士で、今年逝去された)呉清源先生は、
その強さ故にかなり厳しい条件で打たれていたから、今見ると無理な手が多
く、不幸な碁打ちだったかもしれません』といった趣旨のことを、続けて述
べております。そして極めつけは『昔の歴代名人より、林海峰先生登場以降
の昭和後期からのチャンピォンの方が、明らかに強い』というもの。昔の名
人は孤高の存在でありがちな故に、今のような切磋琢磨する環境は整ってい
なかったのではないか?と主張するのです。これらに関しては異論も当然あ
るでしょうが、私個人としては、これは趙先生の『今これだけ棋士冥利に尽
きるほどの素晴らしい環境があり、だからこそ我々は多くのものを盤上に残
さなければならない』という信念の現れであると受け取っております。何せ
趙治勲先生は『碁打ちをはじめとする表現者は、お金を持つようになっては
いけない。普通に働いている人たちより上になってはいけないんだよ。そう
ではなく、その人たちの憧れ、希望にならねばならない』というようなこと
を仰っている先生ですから。
【第四章:現代囲碁界におけるタイトルと棋士事情】
あ:ふふふ~ん♪
私、射命丸文は文々新聞のネタ探しで毎度毎度忙しい訳だが、今日はいつ
になく上機嫌だった。何と今日は霊夢さんから直々にお話があるようだ。
きっと幻想郷に何か異変が起こっていて、記者である私に色々訪ねようとし
ているのだろう。記者としての私の直感だ、間違いない。いやー、これだけ
発行していると信頼の積み重ねってあるものなんですね。改めて記者やって
て良かったと思いますよ、うんうん。
あ:こんちわーっす、霊夢さん!
れ:来たわね、文。
ま:はぁー、来たか文。…これで漸く、霊夢をなだめずに済む。・
あ:あややっ、やっぱり何か異変でもあったんですか!?
れ:全然無いわね。
あ:(わ、私の直感って一体…)
ま:…なんか、随分とショック受けてそうな顔してるな。
あ:本当ですよ!それで、結局どういった要件でしょうか?
れ;文はさ、新聞を出しているわよね。そんな文にしかお願いできない、す
ご~く大事なことがあってね!
あ;ほうほう、それは一体何なのでしょう?
れ;幻想郷の囲碁大会のスポンサーになって欲しいのよ!
あ;す、すぽんさー……ですか??
ま:あー、これについては私から。囲碁の本でな、こう書いてあったんだよ。
『囲碁の棋戦は新聞社がスポンサーになるものが多い』って。実際囲碁
には七つの大きな棋戦があってな、いずれも新聞社が主催なんだ。
あ:成程合点です。しかし囲碁の欄を載せるくらいならちょちょいのちょい
ですがね。対局中私が張り付いて記事にまとめることもできると思いま
すし。しかしお金まで出すのは……うーん?
れ:どうしようかしらね、今まで散々盗撮されてきた分の慰謝料でもふんだ
くってやろうかな。
あ:そ、そんな殺生な~!!
れ;そうだそうだ、大体からしてあんた高そうなカメラ持ってるじゃない。
それ、質屋とかに入れてみたら?
あ:はわわ……諸用を思い出したので、それではっ!(びゅーん)
ま:あーあ、逃げちまったぜ。
れ:ふふ、そこから追いかけてやってもいいんだけどね。まぁこれで暫くの
間盗撮されずに済みそうだから、良しとしますか。
ま:寧ろそっちの方が狙いだったっていうくらいの詰めようだったぜ。
れ;というかいいこと考えた。魔理沙は魔法使いじゃない。錬金術ができる
ようになればスポンサーなんていらないし、この神社も…
ま;今度は私が標的かよ!
【解説】
今回は囲碁の棋戦について。その中でプロ棋士が覇を競い合う訳ですが、
どういった成り立ちがあり、現在を取り巻く状況がどうなっているのかにつ
いて、見てみたいと思います。
まずは明治時代の話から。幕府と家元制度の廃止と共に、囲碁界には一つ
の危機が起こります。そう、スポンサー不足。それこそ方円社みたいに囲碁
を趣味とする有力財界人(井上馨・岩崎弥太郎・渋沢栄一など。)を募って成
り立っていた組織もあり、後の総本山である日本棋院に関しても、ホテル王
として名高い大倉喜七郎男爵により設立されたのですが、全ての囲碁界人を
支えるとなると、更なる後ろ盾が必要。そうした中その大きな助けになった
のは新聞社の存在でした。例えば最後の本因坊で、秀栄の弟子にあたる本因
坊秀哉が同門の雁金純一と一世一代の大勝負を行った際は、当時の読売新聞
の部数を三倍にまで伸ばしたとも言われておりますし、その後の新時代を切
り開いた呉清源九段に関しても、日本棋士との勝負碁に際しては、新聞社が
協賛する形でその様子を伝えております。少なくともこの当時においては、
囲碁側としては金銭と裾野の拡大、新聞社側としては購読者の増大と、謂わ
ば両者は WIN-WIN の関係にあったと言える訳ですね。
そして戦後に入り、戦中の断絶期間が終わると、日本囲碁界を盛り上げて
いくべく、新聞社は次々と棋戦に関わっていくこととなります。そして以下
のような七大タイトルが成立し、今日までに至るのです。
①本因坊戦:毎日新聞社により 1940 年創設。優勝賞金 3200 万円
②王座戦:日本経済新聞社により 1953 年創設。優勝賞金 1400 万円
③十段戦:産経新聞社により 1961 年創設。優勝賞金 700 万円
*旧名人戦:読売新聞社により 1962 年創設。優勝賞金 2500 万円(当時)
④天元戦:3社連合により 1975 年創設。優勝賞金 1300 万円
⑤碁聖戦:新聞囲碁連盟により 1975 年創設。優勝賞金 800 万円
⑥名人戦:朝日新聞社により 1976 年創設。優勝賞金 3700 万円
⑦棋聖戦:読売新聞社により 1976 年創設。優勝賞金 4500 万円
ここで名人戦が新旧二つ挙げられているのは、主催新聞社が揉めたという
経緯があります(将棋でもその手の騒動ありましたよね…)。ちなみに NHK 杯
は 1953 年と由緒正しきものではあるものの、その優勝賞金は 500 万円と、
格段にグレードダウンしてしまいます。実は囲碁というのは新聞の隅っこに
載っているだけに見えて、かなりの大金が動いているということなんです!
他にも囲碁には様々な棋戦がありまして、一時は富士通やトヨタといった
超一流企業も、七大タイトルとは別の形で協賛を行っておりました。ただそ
うしたものはやはり中々続けるのが難しく、これらの企業をはじめ、撤退し
てしまったものが多いようです。また新聞だと棋士と関係者の距離が近くな
り易いですからね、そうした意味でも新聞系各社は有難い存在なのです。
これらの棋戦の中で棋聖・名人・本因坊は、それぞれ二日制の七番勝負で覇
を競うこととなっており、特に注目の集まる棋戦となります。これらを同時
保持することを『大三冠』と呼び、現在までに成し遂げた棋士は僅か 2 名。
そのうちの一人は他の章でも名前の挙がっております趙治勲先生、そして現
在井山裕太先生が大三冠として君臨しております。というか井山先生、現在
六冠保持という驚異的な状態になっておりまして、あの羽生先生と同じタイ
トル全制圧を成し遂げてしまうのではないかと、大注目されている棋士なん
ですよ。テレビ番組をはじめとし、最近は一般でもよく取り上げられており
ますので、是非見て頂きたいなと思います。
棋戦にまつわるエピソードを挙げるとキリがないですが、その中でも一際
パンチの効いたものをば。その主役は藤沢秀行先生。この先生、並外れた感
性を持つ棋士でありましたが、借金が億を遥かに超えてしまうという、これ
また桁違いなことをやらかしてしまいます。囲碁のことを考え過ぎ、発狂し
た結果なのですが、それにしても酷い。それでもって当然秀行先生のところ
には借金取りがわんさか訪れる訳ですね。しかし十人じゃ聞かないほどの不
倫相手がおりまして、秀行先生、中々帰ってきてはおりません。そして本妻
は本妻で借金取りに同情され、何だか段々世間話をしてしまう程度に仲が良
くなるという、何ともシュールな状態になってしまいます。ただ秀行先生も
自分のタイトル戦の前にはしっかり家に帰り、恐ろしい程の集中力で碁につ
いて士気を高めておりました。特に、重度のアルコール依存性でありながら
酒を抜き、盤を睨む様は、鬼気迫るものがあったとのことです。そうしたタ
イトル戦において、秀行先生が特に活躍されていたのは棋聖戦。元々先生は
初物が得意で、初代棋聖位を獲得するのに成功したのでした。まぁ賞金がず
ば抜けて高い訳ですから、相当気合が入っていたのもあるのでしょうがね。
そしてこれに関しては、当然借金取りの方々も釘付けになります。そうで
すよね……その時幾ら日本が上昇気流にのっかってたって言ったって、これ
だけの借金を残されている訳じゃ、上からも兎や角詰められますもんね。そ
して藤沢邸を訪ね、『ちょっと奥さん、今は旦那さんがいらすと聞いたんだ
よ。だから借金の方を…』と迫る訳です。しかしその切り返しがまた痛快な
のです。奥様がですね、『しっ!静かに。…今藤沢が集中を高めているとこ
ろなんです。その邪魔をしてしまうようなことがあると、返すことのできる
借金も、返せなくなってしまうので』と、逆にやり込めてしまうのです。何
だか落語にでもできてしまいそうな話ですよね。そうした奥様の肝の据わっ
た態度のおかげもあって、秀行先生は何と棋聖を六度も防衛。常人であれば
一族諸共首を吊るであろう借金を、綺麗すっきり完済してしまったのです。
その後の秀行先生、癌や年齢的な影響もあって以前ほどの散財は行わず、若
手棋士の育成に一層励んでいく等、末永く棋界に貢献するに至ったのでした。
話は変わりまして、タイトルと棋士の関係について、これに関して触れて
行きたく思います。先に『現在井山六冠が現代囲碁界に君臨する』という話
ですが、他の棋士の状況はどうなのでしょうか? 結論から書きますと、囲碁
の棋士は中々貧乏だと言えます……それも将棋とは比べ物にならないくらい
に、です。現在日本の囲碁界には棋士が述べ 400 人超と、将棋棋士の倍以上
の棋士がおります。しかしながら囲碁の愛好家は、漫画のブームを以てして
も尚減少傾向にあり、またそれを支える新聞産業自体が斜陽状態にあります。
顕著な例ですと、産経が賞金の半減に踏み切っておりますし、三大棋戦以外
だと対局場が近場になることもしばしば……やはり、真っ先に仕分けられる
のです(その点ナベツネは囲碁を厚く扱うため、棋界での評価は高い w)。
そうした中、棋士の収入はと言いますと、井山先生は今年は 2 億円に迫る
のではないかというくらいの勢いなのですが、その他大勢は厳しい。10 位ま
では 1000 万前後行くようではありますが、30 位になると 500 万代と、もは
や普通のサラリーマンと変わらないものになってしまいます。そして 400 人
もいるとなると、まぁ年収二桁万円になるような棋士も、正直な話珍しくな
い訳です。その点将棋は順位戦という棋士循環ルールがありますし、門戸が
狭い分精鋭揃いでもあるので、それぞれの棋士にそれなりにお金が行き渡る
ようになっており、囲碁のような状況にはならないのです。
それではそうした『囲碁だけでは生活できないプロ』はどうするかと云え
ば、当然レッスンプロを志す訳ですが、これもやはり大変。もう中々『囲碁
は教養だ!』と言ってしまうくらいのお偉方は殆どいらっしゃらないですし、
一般企業だって囲碁に割くことのできるお金はどうしても限られてしまう状
態なのです。更に『男女の待遇差』というのも、重くのしかかってきます。
例えば東大卒の石倉九段やハンサムなアメリカ人棋士として名高いマイケル
=レドモンド九段といった例外を除いて、そうしたレッスンプロというのは、
どうしても女性の方が優先される傾向があるのです。囲碁サロンのホーム
ページでも、かなり女性で推している傾向がありまして、筆者より棋力の劣
るような女の子が、下位の男性棋士に比べ、バイト代だけで手合い料以上の
額を稼げてしまっている……という現象も、その時給を耳にした感じだと、
否めないところのようであります。尤も、囲碁の強さと教える上手さという
のはある程度は切り離して然るべきところであり、また彼女たちの中には講
座構成を念入りに練っていることも少なくないでしょうから、難しいところ
なのですがね。プロ棋士も、タイトルに遠く手の届かないような棋士になっ
てしまうと、相当大変だということ。日々管理されるようなことは殆どない
とはいえ、弱肉強食という名に相応しい、そんな世界だと言えるでしょう・
ここからは筆者の個人的な話。よく職場とかで『囲碁が強い』という風に
紹介されることがあるのですが、『プロになろうと思ったことはないの?』
なんて話を聞かれたりします。しかしまぁ中学生の頃から先述した事情が飲
み込めていたこと、あとは目指すには年齢が遅いこともあって、そうした道
を志すことはありませんでした。ただ同郷の棋士で、しかも直接対決してい
る棋士が活躍しているとなると、色々と感慨深くもなるんですよね……例え
ば S 木五段とか、新人王を獲得した F 士田四段とかを見ていると、特に。無
論彼らにはここまで書いてきたような収入&精神的な苦労といったものが確
かに、間違いなくあって、羨ましいだなんて思い過ぎてはいけないのですが。
そこら辺は『隣の芝生は…』という話にもなるんですがね。以上、ちょっと
した与太話でした。
【第五章:囲碁の珍プレイ(錯覚とその落とし穴について)】
れ;あっ、ちょっと魔理沙。コウではすぐ取り返したら反則負けになるのよ。
ま;あ、すまんすまん。待ったしても……いいか?
れ:まぁ私は清く正しき巫女だから、許してあげないこともないわ。
ま:その割に……というか『清く正しき』ってそういうの許さないんじゃ。。
れ:ん、何か言った?
ま;いや、何でも……そうだそうだ!囲碁の棋士で反則負けとか、そんな感
じの珍しい負け方したようなこと、過去にあったりするのか?
れ;長いこと続いてるものだから、結構あるみたいよ。重要な対局でやった
ようなものも幾つかあって、今日はそのお話でもしようかしら。
ま;面白そうだな、続けてくれ。
れ:まずはこれを見てみましょう。
ま;あ、あれ……この棋譜おかしくないか? 何で二手続けて白が打ってる
ことになってるんだ?
れ:ふっふっふ……何故かと言うとね、本当に二手打ちしたからなのよ!
ま:何だそれ、パスでもしたってことか?
れ:そうじゃないわね、囲碁でパスするような局面自体そうそう無いもの。
正真正銘のうっかりよ。
ま:げげっ……そうなると、この碁は。。
れ:そう、白の反則負け。
ま:なんとまぁ。。
れ:この対局は名人を決める一局だったのよね。面白いことに打った瞬間は
対局者は気付いていなくて、記録係の子が気付いたそうよ。
ま:打った本人が気付かない、それまた不思議な話だな。
れ:まぁこれ、二日制の碁で、それまでの過程が激闘だから……というのは
あるんだけどね。あと、強いて挙げると、休憩を挟んだタイミングでの
着手だったのと、二手打ち前の手は即座に受けてもおかしくないくらい
のところだったのも大きかったって言われているわ。
ま:なるほど、この前囲碁の棋士は随分先を読むみたいな話を聞いたが、先
を考え過ぎて、一番肝心なことがスッポリ抜け落ちてのかもな。
れ:確かに形勢が一気に揺らぎそうな場面ではあったからね。その時の夕食
休憩では、反則負けした棋士は、食べ物にも手をつけず、『ああでもな
い、こうでもない…』といった具合に、部屋をぐるぐる徘徊していた様
子が目撃されていたみたい。相当必死だったことが伺えるわ。
ま;寝食も忘れて……とは言うが、俄に信じがたい光景だな。笑っていいも
のか、駄目なものか、何とも言えなくなっちまうぜ。
れ;真剣故の悲劇と言うべきか、喜劇と言うべきか……一般にこうしたミス
は珍プレーとみなされがちだけど、紐解いてみると複雑な感じよね。
れ:次はこの碁。これも手番に関係するネタになるかしらね。
ま:その霊夢のトーンだと、黒が何かしらのミスをしたということだな。
れ:そうね。実はこの黒さん、手番を勘違いしていたそうなのよ。そして相
手の時間が進んでいるのかと思い、そのまま着手しないでいたら、記録
係から時間切れを宣告されてしまった訳。
ま:今度は『手番を勘違いして打ってしまった』ではなく、『手番を勘違い
して打たないでしまっていた』か。また酷いうっかりだなぁ。
れ;そうね。それをやってしまったのが歴代最強棋士とも言われている人だ
ったものだから、余計話題になってしまったそうよ。
ま:河童の川流れ、って奴か。
れ;しかも白が最後に打った手は、プロ棋士ならずともほぼ間違いなく打つ
ような手。それに気付かないでいたというのは、余程の心労なり、何か
無いと有り得ないくらいのことだったのよね。
ま:そんな追い詰められてたのか。
れ:さっき言った通り、その棋士は歴代最強クラスではあったのだけど、こ
の当時保持していたタイトルが一つだけで、この碁はその防衛戦だった
から、相当なプレッシャーがかかっていたのだと思うわ。
ま;成程な。へっぽこなミスも、こうやって紐解いてみると、割と頷けてし
まうところがあるのだなぁ。
れ:時間関係だとトラブルって色々あるみたい。例えば記録係は秒読みって
言って、所定の持ち時間を使い切った棋士は、一手 1 分以内で着手しな
ければならないルールがあるんだけど、それを巡ってのことね。
ま:例えばどんなのがあるんだ?
れ:記録係って残り 10 秒になると、カウントを開始しなければならないん
だけど、そのカウントをしていなかったってことがあったわ。これにつ
いては棋士としてもどうしようもできないから、例外的に時間切れには
ならなかったわね。あとは残り 10 秒を読むスピードが少し早くて、そ
れで時間切れになってしまった某ベテラン棋士が、女の子を泣かせてし
まったなんて話があったわね。
ま:結構その記録係というのも、緊張する仕事って感じだな。囲碁を打って
いる時の棋士なんて、そら鬼の形相みたいな感じだろうから、怒られた
らちびっちまいそうだぜ。
れ:まぁ泣かされた女の子に関しては、他の記録係はベテラン棋士に気を
遣って最後の 2 秒は遅く読んであげるみたいな習慣があったのを、本当
そのまま、遠慮なく読んでしまった……って感じみたいなんだけどね。
ま:それはまた微妙な話だな。
れ:結局立ち会っていた棋士が上手くなだめて時間切れ負けになったそうよ。
その人まで若かったら手に負えなかったかもしれないわね……
れ:最後はこの碁。こっちは笑い話の部類に入るかな。これも二日制の対局
なんだけど、盤上の石数がそんなに多くないことからも分かるように、
まだ一日目の段階での出来事だったわ。
ま:それでこれがこの局面か。放っておくと白の塊が囲われてしまうから
逃げないといけないな。
れ:ところがね、この白石は取られちゃっているのよ。
ま:え!!、これでか?
れ:そうなのよ。ちょっと初心者には難しいだろうけど、こうなってしまう
ともう逃げられないから。次の図がその証明ね。斜めにジグザグ進んで
14~16 から石を追っていく方向を変えていくのが今回のミソ。
ま:なるほど、確かに本当だ。それで、この碁は結局どうなったんだ?
れ:この時点で白が投了よ。もうここからは、それこそ黒が二手打ちでもし
てくれないと勝ちようがないくらい、酷いミスなのよ。
ま:しかし二日制の対局が一日で終わる……ってそう滅多に無さそうだが、
どうなんだ??
れ:もう、1%は間違いなく切ると断言できるくらい、珍しいことみたいね。
例えば将棋では二日制の対局が今の今まで一度もないみたいだし。
ま:ある意味めでたいな。
れ:実際当時の新聞の一面を飾ってしまったみたいね、新聞社主催だから尚
更大きく取り上げられたとって意味はあるのだろうけど。
ま:ここまでくると、感想の一つや二つでも見てみたいもんだぜ。
れ:ふふ、確かにそうね。あっ、そうだ!この対局を打った棋士の本、香霖
堂に入ったって聞いたから、今度寄って見てみようかなと思ってたのよ。
どれどれ、タイトルは……『我間違える、ゆえに我あり ~悪手打っても
えーじゃないか~』
ま:な、中々斬新なタイトルだな。
れ:他にも色々面白い本があるみたいよ。魔理沙も一緒に行く?
ま;そうだな、ちょっくら行ってくるか!
【解説】
今回はプロの珍しい負け方……と言っても、囲碁のルールが分からない人
にどう説明するか難しいものも多く、正直題材選びは難しかったですね。
囲碁におけるその手の負け方に関しては、先に取り上げた”寝る一手”は
別格として、『石が取られるかどうか?』に関する珍プレーが際立って多い
感じなのです。そういう意味では真っ先に思い浮かぶのは、この章の冒頭で
魔理沙がやらかした『コウ』というルール時における違反。ただそれだと囲
碁のルールに関して御存知無い方には厳しいでしょうから、今回は別のもの
で 3 事例を紹介することにしました。いずれに関しても、第四章で紹介した
ような非常に重要度の高い対局だっただけに、話題になった事例です。
一つ目に関しては、1987 年の名人戦挑戦手合七番勝負第三局における出
来事でした。当時の名人は加藤正夫先生で、年長の林海峰九段が挑む構図。
どちらも棋界の頂点に立つ棋士同士の対局(しかもこの時加藤名人は四冠保
持)で、その出来事は起こってしまいました。何故起こってしまったのかとい
えば、霊夢ちゃんと魔理沙ちゃんの会話の中でもあるように、複合的なもの
には違いないのですが、相当消耗した状態で休憩を挟んでしまったというの
が、大きかったように思います。そういった意味では先に挙げた『寝る一
手』とも同じですが(笑)。この夕食休憩においては加藤名人はご飯自体は注
文するも、喉を通らず横になった状態。林先生はというと、先程書いたよう
な感じでご飯を食べるのすら忘れたかの如く、部屋を徘徊し続けるという、
大勝負とはいえど、何とも異様な光景になっていました。そしてそれが終
わって事件が勃発。普通であれば加藤名人の方が指摘を入れて、その時点で
林先生の反則負けになるとしたものですが、加藤先生は加藤先生で先を読み
続けていたのでしょう、ノータイムで応酬してしまいます。これに吃驚した
のは記録係の方。何せ着手した順番通りに記録をとっているのに、番号がズ
レ出した訳ですからね。そして対局を取り締まる立会人に連絡し、林九段の
反則負けに至った訳です。こうした二手打ち事例、勿論プロではこれ以外滅
多に無いのですが、個人的に一回見たことがありましたね……アマチュアの
ものですが。それをやらかしたのは私の大学の先輩だったのですが、時間が
無い時に慌てて着手したため、盤の端の石が崩れてしまい、それを直してい
る間に相手が一手打ったと勘違いし……というものでした。まぁ切羽詰まっ
た状況になるとロクなことにならないってことですね、はい。ちなみにこの
反則負けで三連敗となった林九段、次の対局でも敗れてしまい、加藤名人の
防衛となりました。
二つ目に関しては 2002 年の王座戦挑戦手合五番勝負第二局目の出来事。
この時の王座は超治勲九段、棋界三大タイトルを同時保持(通称『大三冠』)
経験のある程の棋士でしたが、この時は王座一冠のみ。その首を狙って台湾
出身の実力派棋士王銘琬九段が挑戦するという、そんな構図となっておりま
した。第一局目は王九段完勝かと見られていた矢先、思わぬ錯覚があって超
九段先勝。二局目に勝利すれば防衛に王手がかかるところでした。そしてこ
の二局目。趙王座が巧みに打ち回すも、王九段も必死の応戦。しかし王座が
優勢を保つも、時間をかなり削がれた状態で終盤を迎えておりました。問題
の場面は終盤入り口、陣地の境界線を決める手を打ち始めた時のことでした。
この対局は一日制ではあったのですが、午後 9 時を過ぎてから起こったこと
で、両者共に体を振り絞り尽くしたかどうかというタイミング。そこで王座
は御絞りを目にあて、疲れをとっておりました。そして王九段は着手し、記
録係は既に所定時間を使い切った王座の秒読みを行います。しかしそこで大
きな食い違いがありました。王座は何故か、まだ時間がある王九段の秒読み
が始まったのだと、勘違いしてしまっていたのです。そこから王座の葛藤が
始まります。【相手の王九段はまだ時間がある筈。そんな中、秒を読み始め
る記録係は常識知らずではないか。ちょっと注意してやった方が良いだろう
か?しかし王九段が頼んで秒を読み始めただけかもしれない。次の一手はも
う決まりきっている筈だから、それまで目を休め、それから次の手を考える
としよう】……対局時の状況並びに対局後の発言をまとめると、そうしたこ
とを考えていたのだと思われます。その間にも時間は読まれていきますが、
仮に読み終わったとしても王九段の時間が一分減るだけ……と王座の脳内思
考は流れていただけに、時間切れの宣告を受けたショックは並大抵のもので
はなかったでしょう。現に相当パニックになっていたようで『何で…何で』
といった、狼狽した声が何度も対局場で繰り返されていたと言います。この
対局を落とした趙王座、最終局までもつれた結果、王九段に王座奪還を許し
てしまいます。
この例においては記録係は一切悪くはないのですが、それに関するトラブ
ルというのはたまに起こっているようです。実際霊夢が話していた事例もそ
うですし、ある事態の発生により無勝負になったという出来事もあります。
そしてその主役こそ、またも趙先生という(笑)……あっ、ちなみに『記録係
が秒を読み忘れた』件も趙先生だったりします(爆)。そんで、どういう出来
事だったかと言いますと、ちょっと囲碁のルールに突っ込んだ話になるので
すが、私なりに簡単にまとめると【石の取り方のルールで、すぐ取ってはい
けない箇所がある(コウと呼ばれるもの)⇒趙先生が記録係に『その石を取る
上で然るべき手続きをしていますよね?』という趣旨のことを確認⇒記録係
『はい、大丈夫です』と回答⇒趙先生、石を取る⇒実はまだその手続きを
行っていない段階だったため、一旦趙先生の反則負けで協議が行われる⇒趙
先生『私がわざわざ記録係に確認したのだから、それはおかしいのではない
か』と反論】……以上のような感じです。これが名人戦挑戦手合で起こって
しまったのだから大変。結局形勢不明の局面だったこともあり、無勝負とい
うことでカウントされたのですが、ルールとして『記録係は対局者の質問に
関しての回答は、持ち時間の確認を除いては原則黙秘する』というものが追
加されました。ちなみにその時の記録係は後にタイトルホルダーにもなる H
九段で、その当時も若手ながら相当活躍されていたことから、『碁打ちとし
ての才能と、記録係の才能は、やはり別物』という声も囁かれた、そんな事
件でした。そうした意味では、この事件が無かったら、趙先生も記録係に秒
読みのことに関してどういうことか確認できて、王座も防衛できて……なん
て妄想を駆け巡らせてしまったりもしますね、一ファンとして。まぁそのす
ぐ後に世界タイトルで優勝される等、活躍される訳ですが。
三つ目に関しては主役が切り替わって王銘琬九段、今度はやらかした側に
なってしまいます。先程と時系列が逆になるのですが、『事件』は 2000 年
の本因坊戦挑戦手合七番勝負第一局、王九段が趙善津本因坊(その前年に 10
連覇していた趙治勲先生から本因坊を奪還)に挑んだ時に起こりました。
中央でのつば競り合いが続き、間も無く一日目が終了しようかとの時、と
んでもないポカをやらかすのです。そこら辺の事情については、霊夢が言っ
てた『我間違える、ゆえに我あり ~悪手打ってもえーじゃないか~』に詳し
いのですが、つまるところ【競り合いに有利になる手を打とうとする⇒その
上で相手の対抗手段をしらみ潰しで読み続ける⇒何とかなりそうだ!と王九
段、決断の一手⇒趙本因坊がすかさず応手⇒王九段『しめしめ、こっちの
コースで来やしたか。それ以降は読み通り進んでいくだろうが、どうとっち
めてやろうか』⇒趙本因坊『え、この石取れるじゃん』⇒王九段『なんでこ
う打ったのかな?まさかこの石がそんな簡単に……えっ!?』】みたいな、そ
ういう感じの落とし穴に嵌ってしまっていたようです。まぁ先に挙げた事例
と違い、そこまで悲壮感がある訳ではありませんが(現に王九段の苦笑が一面
記事を飾ってしまっている)、それにしても囲碁の難しさみたいなものを感じ
るシーンでもあります。何回も触れている通り、囲碁も将棋もそうですが、
棋士は時間内に読まなければならない訳で、『局面を深く見極める』という
のは勿論ですが、『現実に成立しないような手は切り捨てる(厳密に言えば、
余程困った時でもない限り、そこに思考のウエイトを割かないようにする)』
訓練も受けている訳です。しかしその中でどうしても『読み抜けはないか』
といったリスクと背中合わせになってしまう。読みの総量は勿論のこと、こ
のプレッシャーも併さっている訳だから、巷で言われる『プロ棋士は一回の
対局で 2~3kg 減ることがある』という話も、決して大袈裟ではない訳です。
そういえば将棋の電王戦でも『コンピューターといえど、現状では全ての手
を読むには演算能力の総量に限界があるため、ある局面での演算機能は切り
捨てる』ということから、そうした『切り捨て』による穴を狙ってプロ側が
勝利した……なんて話もありました。まぁいずれかは囲碁も、将棋同様プロ
がコンピューターに中々勝てなくなる時代が来るでしょうが、こうした『切
り捨て』によるドラマや、逆に『演算能力の高さ』による神業が、時代変わ
らずファンを魅了し続けるのは変わりないのかなと思っております。
最後に、この章の話題からは些か外れてしまいますが、王銘琬九段につい
て少しばかり。この先生は先に挙げた本を含め、かなりの頻度で『どういう
風にして失敗が起こったか』や『どういう考え方をすればプロに近い演算能
力を持つことができるか』について、面白い考察をされている先生です。当
然読み手を選ぶものもある訳ですが、こうした考え方をされることで囲碁の
世界の手広さみたいなものを感じるなと。勿論ここの読者の方が全員囲碁が
出来る訳でも無いのですが、ある程度ルールを覚えたならば
『我間違える、ゆえに我あり ~悪手打ってもえーじゃないか~』
『王銘琬の囲碁ミステリーツアー』
この二冊は、ユーモラスな掛け合い満載の、大変面白い本だと思います。他
の著書だと『ゾーンプレスパーク』という本も面白いですが、これは難易度
が高いかな。。プロ棋士の頭の中を、面白く読める本なので是非\(^o^)/
【第六章:碁盤にまつわる迷信と囲碁にまつわる言葉】
ま:へっへっへ……どえらいものを盗んぢまったぜ。縁のあるところだけに、
流石に高そうな碁盤だ。
この前霊夢から囲碁と言えば寺だとか聞いたから出向いたところ、これが
またビンゴで、しかもこの時の妙蓮寺はやけに手薄ときたものだから、それ
なりに良さそうな碁盤を頂戴できた訳だ。何せ私の本分は泥棒だからな。重
いことこの上ないのが難点だが、これだけ立派な碁盤が来たと知ったら、霊
夢も喜んでくれるに違いない……この前賽銭ちょろまかしたし、多少はな?
神社まであともう少し、その時のことだった。
紫:何だか『ゆかり』とか聞こえたけど……私のことかしらね?
ま:いや、『縁のあるところ』であって、お前ではないぞ。
紫:ふふふっ、残念ね。
神社の前に不気味に笑みを浮かべる人影、その正体は八雲紫だった。
ま:しかし神出鬼没とはまさにこのことだなぁ。
紫:貴方だって泥棒さんだから他人のことは言えないでしょ?しかも今日も
何か盗んできたようだし。
ま;中々立派なものでな、まぁちょっとくらいなら見せても大丈夫だろう。
私はくるんでいた布を外し、碁盤を見せてみた。
紫:なるほど、碁盤ね。しかし貴方、そんな命知らずなことをしていただな
んてね。
ま;そりゃ泥棒は命知らずだろう。
紫;私が言いたいのはそういうことじゃないわ……ちょっとその碁盤、裏を
見せてみて。
ま;えー……よいしょっと!こうか? おっ、何か窪みがあるな。何だかへそ
の形をし ているように見えるぞ?
紫:そう、それのことよ。
ま;それのこと、というと?
紫;ここはね、昔は首を撥ねられた人の頭を置いていたところなのよ。所謂
『血だまり』というものね。
ま:!?
紫:あと碁盤の脚、あるじゃない?これってクチナシの形にしているみたい
よ、口を挟むのがタブーだから『口無し』にちなんでね。
紫は口に人差し指をあて、わざとらしく声を潜めてそう言った。周りが妙
に静まり返っていたこともあって、段々私は得体の知れない気味の悪い感触
に襲われた・
ま:ひょ、ひょっとしてバレたりすると。。。
紫:そうね、まぁ妖怪連中がどこまでそのことを把握しているかにもよるけ
ど、首をバサっと置かれても文句は言えないわね。しかもこの碁盤は既
にそういうことに使われている可能性も……って、逃げちゃったか。こ
の碁盤、一応霊夢に渡しといておこうかしら?暫く顔を見てないから分
からないけど、囲碁は精神鍛えるのに持って来いだしね。
れ:あっ!、やっぱり紫じゃない。どうしたのよ、そんな高そうな碁盤。
紫;『高い』って表現になるのは霊夢らしいわね。というか貴方、囲碁を嗜
むようになったの?
れ:そうなのよ。何か神社に置いてあるのは平べったい碁盤でね、丁度こう
いう碁盤が欲しいなと思ってたところなの。
紫:それなら一層丁度いいわ。ついでにちょっと上がってお話でもしようか
しら。
ふ、ふぅ……こわかった。しかし、そこまで苦労していないとはいえ、碁
盤を紫に取られたのは悔しいな。というか、こっちをあれだけ驚かしておき
ながら呑気に霊夢と話していることが気に喰わない。取り敢えず私は尾行を
続けることにした。
れ:はははっ♪魔理沙の驚いてるところ、見てみたかったな~。しかし血だ
まりねぇ、囲碁も陰陽道がどうとやらと言いながら、そういう禍々しい
話があるのね。
紫:一時は武士の文化になっていたからでしょうね。そういえばあとはこう
いう話もあったわ、八百長の話。
れ:なになに、八百長したら首切られたってところ?
紫:今度の話は全然物騒じゃないわ。『八百長』という言葉の由来について
の話。あれ、囲碁が由来なのよね。
れ:へ~、そうなの!字面だけ見れば囲碁は関係なさそうだけど。
紫:昔八百屋をやっていた長兵衛さんって人がいたのよ。その人がお得意さ
んの相撲の親方が一杯買ってくださるように、ってわざと囲碁を負ける
ように打ってたと。
れ;なるほど。『八百屋の長兵衛』、略して『八百長』ってことなのね。
紫;そういうこと。ただある時長兵衛が囲碁の家元の棋士と対局する機会が
あって、これが中々いい勝負をしてしまったものだから、とうとうバレ
たってオチなのよ。
れ:ふむふむ……とても素晴らしいことを思いついたわ。
紫;あら、どんなことかしら?
れ:簡単よ。私が魔理沙に囲碁や弾幕バトルで負けて、一杯お賽銭入れても
らうようにするのよ!
紫;でも魔理沙は盗人だから、素直に入れるのかしらね。
れ;ふっふっふ、そうなったら最後の手段。紫みたいに血だまりの話で脅し
て、意地でも入れさせる!
何というか、霊夢らしいといえば霊夢らしくはあるな。もはや八百長と何
ら関係ないけども。というかあの碁盤、本当妖怪ついてたりしないよな…
【解説】
今回は碁盤と囲碁が語源の言葉に関する話です。
碁盤については、高価なものは本当に高価でして、100 万円は軽く超える
ようなものもザラにあります(バブル時代の囲碁雑誌なんか見ると、そういう
値段の碁盤の広告がバンバン載ってて、成程これが時代か……なんて思った
り)。その手の碁盤は、本カヤなる木を材料とし、樹齢数百年、木を乾燥させ
るのにも 10 年以上かけてたりするので、その手のかかりようはとてつもな
いものがあります。あと、そうした碁盤に関しては、座った時に打ち易いよ
う、7 寸(脚と合わせると高さ 30cm 弱)ほどの高さにしてあるため、結構贅沢
に木を使っていたりもする訳です。だから高いのも頷けなくない……といっ
ても、平べったい木製並びにプラスチックの碁盤を購入すれば、碁石と合計
しても 3000 円いかないくらい。入門は中古のゲームソフトでも充分行うこ
とができますし、趣味として始める分にはおそろしくコスパが良いですよ!
碁盤における血だまりの話、確かに対局中に口出しするのは今でも御法度
ではあるので、況や昔は厳しかったのでしょう。まぁそれこそ『死人に口無
し』なので、分かったものじゃありませんか。特に鎌倉~江戸時代まで囲碁
は武家文化のものでしたしね。そうしたエピソードはミステリー界隈でもウ
ケが良いらしく、例えば金田一少年の事件簿で『血溜之間殺人事件』なんて
ものもありましたね(登場人物が囲碁棋士の名前が由来だったのも印象的w)。
尤も、碁盤のへそにしろ、あのクチナシ型の脚にしろ、石音高く打った時
の響き方等、諸々を計算した造りであることははっきり書かねばなりません。
昔であれば陰陽道の儀式にも使われていたとのことですし、色々と拘り抜か
れた上で、碁盤というものは作られていたに違いないのです。
囲碁は安価な碁盤でも始められる云々書きましたが、例えば主な勉強方法
が先人棋士たちの棋譜並べになるようであれば、ある程度立派な碁盤を買う
というのも、中々乙なものかもしれません。先程は脚付碁盤は高い!みたい
に書きはしたものの、木の品種によっては、カヤに近いものもあり、そうし
たものであれば、5 寸の高さでも 6 万円程度で手に入ったりもします。
ちなみに碁石も蛤なんかだとかなりの値段になりまして、厚さによっては
10 万円超のものもあるみたいです。ただまぁ、高価な碁石だと厚いが故に石
が持ちにくいものも多く、そこまで厚さのない碁石を使用するのがはっきり
主流ですかね。個人的には碁盤より品質差はそこまで感じませんね。
また碁石関係ですと、囲碁界で後世にも語り継がれる、ちょっとした名言
があります。これは序盤研究の大家である梶原武雄九段のもので、また『囲
碁で一手一手考えるのは、産みの苦しみにも近い』との旨のことを仰る先生
らしい逸話でもあります。要約すると『二日制の碁にも拘らず、9 手しか進
まず、その日の終わりに心底疲れ果てている梶原先生。それを見た隣の棋士
が”まだほんのちょっとしか石を置いていないじゃないですか”と、冗談め
かして言ったところ”今日の蛤は重い”と切り返した』という話。この『今
日の蛤は重い』というのは、個人的には『頭を振り絞りに振り絞ってもそう
納得できず、全く先も見えぬから、石を打とうにもどことなく異様な感覚に
支配され、只々苦しいばかりだ』という、一流棋士特有の重圧感を一言でま
とめたのかな……という風に解釈しております。そういった意味ではプロが
口に出したからこそ重く感じる、そんな言葉であるように思います。棋士と
いうのはある意味では哲学者でもあったのです。
次は全く話が切り替わって、囲碁にまつわる言葉の話。八百長の話は私も
囲碁を始めて暫く後になって知りました。ちなみにこの八百屋の長兵衛さん
と打った、紫さんが云うところの『囲碁の家元の棋士』、これは 20 世本因
坊秀元のこと。林秀栄のところで登場した人物ですね。歴代本因坊の中では
少々小粒なのは否めませんが、後の名人となる田村保寿(本因坊秀哉)とも対
峙できる、才能確かな棋士でした。そういう棋士と互角に渡り合える長兵衛
がそうそう相撲の親方に負ける筈も無いですからね。ヒカルの碁の場面にあ
りましたが、強い棋士は、自分より劣る相手が最後までどんな手を打つのか
を見越し、限りなく互角に近い状態で終局することもできる訳です。勿論プ
ロ棋士によっては計算が苦手な棋士もいますし(例えば趙治勲先生は計算が苦
手)、相手が間違える場合もありますが、大体は上手くいくようです。こうし
た演算能力の高さこそ、棋士の美徳なのです。超人的なものとなると、終局
100 手以上前から『この碁は一目勝ちになる』と読み切っていたという、高
川秀格九段(本因坊戦 9 連覇を果たした名棋士)のエピソードなどもあります。
他の囲碁にまつわる言葉だと『一目置く』・『岡目八目』・『駄目』・
『後手後手』辺りが有名ですね。
『一目置く』は『自分より優れている相手と認め、一歩譲る』という意味
で、囲碁において、自分が先手を持たねば叶わないくらい、立派な打ち手だ
とみなす態度に由来しています。今でこそ囲碁はコミと呼ばれる先手後手の
優位差を無くすルールがありますが、20 世紀初頭まではそうしたものが無く、
それ故にこうした言葉が成り立つに至ったのだと思われます。その時は家元
間による十番碁等、多数の争碁が行われていたのですが、先手番というもの
はそう落としてはならないくらい、優位な条件だった訳です。
『岡目八目』は『第三者の方が、冷静である分、当事者より的確に判断す
ることができる』というものですが、ここでいう当事者は囲碁の対局者、第
三者はその観戦者だと言われています。対局中に下手に口出ししたらそれこ
そ切捨御免!にもなりかねないですが、思うだけなら自由ですからね。
『駄目』は囲碁において陣地に何ら寄与しない着手点があり、それを『役
立たず』という意味に置き換えたのが由来。ちなみに洗練された碁だと、こ
の『駄目』なる着手点は出来易く(というより、そうした着点を無闇に打たな
いため)、『駄目の多い碁は名局』などとも言われます。
『後手後手』については、対応が悪いため、手番がまわらなくなってし
まったことと、”ゴテゴテ”にかけたのが由来。同様に『先手をうつ』辺り
の表現に関しても、囲碁がその由来だと言われております。
実はまだまだ他にも囲碁が由来の言葉ってあるのですが、流石にスペース
の関係でここまでにします。やはり昔の方が囲碁は文化圏並びに生活圏に密
着していた分、そうした言葉も出来やすかったのでしょうね。まぁ比較的新
しいところだと『日常』にて『囲碁サッカー部』なる、素敵な言葉も出たの
で、まだまだ捨てたものじゃない(?)かもしれませんが…
【第七章 囲碁と神社】
ま:れ、霊夢……何やってんだ、碁盤の上なんか乗って!
れ:わわっ、魔理紗じゃない。
問い詰めてみたところ、どうも荷棚に置いてあるものを取ろうとしていた
らしい。やれやれ、これから囲碁で神社興しする巫女とは思えないな‥…
ま:大体からして道具を粗末にするのも気に喰わない。
れ;(流石は仮にも魔法使い、道具に対する扱いにはうるさいのね)
ま;そもそも霊夢なら飛べば良かっただろうに。
れ:ちょっとで届くくらいだったのよね、本当、あとちょっとで。
ま:さいですか、分かりましたよ。しかし何を取ろうとしてたんだ?
れ:ふっふー。結構前に妖怪退治の礼に中々良さそうなお酒を貰ってて、ず
っと放ったらかしにしてたから、そろそろ呑まないとなぁって。
ま:ほーう、酒か。
れ;一気に顔色変わったわね。折角だし魔理沙も呑んでみる?、宴会で飲ま
せるにも、あっという間に無くなってしまいそうな量だし。
ま:よしっ、それじゃあ一緒に呑もうじゃないか! 例の如く……と言ったらなんだが、霊夢と酒を飲みながら賑やかに過ごす
展開になった。しかし霊夢よ、『今日は参拝客も来ないだろうから』って理
由で小宴会を開いてしまって大丈夫なのだろうか。まぁ私としては飛び切り
良さそうなものが飲めると聞いている以上、そんな野暮なことを言って酒を
不味くさせるつもりもないのだが。御猪口をグイっと口に入れる。ほう、こ
れは中々の名酒じゃないか。
ま:か~、うめぇ!!この貧乏神社も少しはいいところがあるじゃないか。
れ:むぅー、失礼ね。こんなに可愛い巫女がいる神社なんて、御利益あるに
決まってるんだから!
ま:まぁ、確かに霊夢は可愛いわな。
れ:ななな、そそんな、こと言っても……お賽銭あげないんだからね!
ま:(ちょろいな。というか、お賽銭私にあげちゃダメだろ。。)
れ:とにかーく、この可愛い巫女と、囲碁で、この神社を立派にしてやらな
きゃいけないわけよ!!
ま:碁盤に乗って物取ろうとしている巫女が、か?
れ;そうそう、さっき私碁盤の上に乗ってたじゃない。実はね、碁盤の上に
乗る儀式自体はあるのよ、ふふん♪
ま;そりゃまた罰当たりな感じがするが……まぁ、興味深い話ではあるな。
れ:どういう儀式かと言うとね、ちょっと実演してみるかな~。
そう言って霊夢がまた碁盤の上にちょんと立ってみせた。
れ:こうやってまず神社に向かって礼をして、吉方に向かって……えいっ。
ま:ふむ、一旦碁盤から飛び降りたと。それでその次は?
れ;儀式自体はこれで終わりよ。七五三向けのものだからね。
ま;七五三、か。
れ;そうそう、この儀式は『碁盤の儀』と呼ばれる、そのまんまの名前なん
だけど、『外の世界』の古くから皇室で行われているような、由緒正し
いものなのよ。
ま;へ~、やっぱり何か由来があるのか?
れ:まず一つに『碁盤の筋目のように、まっすぐ育つこと』。あとは『立
派に成長し、一人立ちすること』。そして最後に『勝負の運を切り開け
るようにすること』って意味があるのよ。
ま;なるほど、ふむふむ……じー。
れ;な、何よ。そんなこっちの方見て。
ま:『碁盤の筋目のように、まっすぐ育つ』
こんな金金言ってる巫女さんが、ねぇ……いや、ある意味物凄くまっすぐ
だと言えるんだけどな。
ま:『立派に成長し、一人立ちする』
私が言わないといっつも掃除とかサボるからな、霊夢は。
ま:『勝負の運を切り開けるようにする』
この三つの中なら断然これがマシだろうな、うんうん。
れ:そんな一人でにやにやして……ちょっと、気色悪いわねぇ。
ま:すまんな、考え事してただけだ。
れ:ロクでもないことを考えたことだけは、何となく分かるわ。
ま:へへへっ♪
れ:笑って誤魔化さないの!
暫くバツの悪そうな顔をしていた霊夢だったが、ふとあることを思い出し
たらしく、話を続けた。
れ:まぁぶっちゃけた話、私は囲碁で御利益とってこの神社をじゃんじゃん
儲けてみせようと思ってる訳だけど。
ま:いつになく欲望ダダ漏れだな。
れ:『外の世界』の方だと、囲碁にまつわる神社って何か無いのかなと思っ
たら、実際あるみたいなのよね。
ま;なるほど、確かにそういう神様はいそうだもんな。
れ;それでね、その名前が『囲碁神社』みたいなの。
ま:そのまんまじゃねーか!
れ:本当、笑っちゃうくらいそのまんまよね。かなり小さな神社みたい、掃
除は楽そうだけど。
ま;そんで、どういう感じの神社なんだ?
れ:御神体は白い石みたい、あとは巫女さんがいないみたいね。由来が書い
てある看板があるらしくて、如何にもそれっぽい話だったわ。
ま:どれどれ、聞かせてくれよ。
れ:えっとね、昔木こりが山に迷ったらしいんだけど、仙人二人が囲碁を
打ってるところを見かけたらしいのよ。そして試しに道を尋ねた訳。
ま;ほう、それで仙人は何て答えたんだ。
れ:『ここはお前が来るような場所じゃない、さっさと立ち去れ!』だって。
あ、でも道は教えてくれたそうよ。それも、わざわざ米の研ぎ汁まで流
してあげて。
ま:そいつはまた、ツンデレというか何というか。
れ:ツンデレ?
ま:あっ、霊夢みたいに優しい奴のことだよ!
れ:そ、そう…(照)
酔ってる時の霊夢は本当ちょろ過ぎである。しかし照れている霊夢は可愛
いから飽きないな、うん。ツンデレなんて無闇に言って、それが何なのかを
知られた日には、ぶっ飛ばされそうではあるが。
ま:それでだ、結局木こりは無事に人里に戻ることができたのか?
れ:勿論。仙人が流した水を元に白水鉱泉というところを辿っていったら、
大丈夫だったみたい。そしてその木こりがそれにあやかって白石を奉っ
たのがこの『囲碁神社』になるってこと。
ま:仙人が囲碁打てるっていう辺りが如何にもだな、まぁこっちの仙人にも
囲碁打てる奴はいるようだけど。
れ;そうね、今度話したら喜ぶかもしれないわね。
ま;それで、その神社の御利益というのは、どういう感じのものなんだ?
れ:あまりはっきりしたことは書いてはいないみたいだけど、この手の神社
らしく、勝負ごとの心構えについては書いているみたい。
ま:そう考えると良くも悪くも俗世に馴染んだ神社という感じだな。
れ;そうね。私も何かそれっぽいエピソードはでっちあげたいところね。囲
碁で妖怪を退治したとか、そういう感じにしようかしら?
ま:ははは……霊夢らしいと言えばらしいが、その前に今のぐうたらな状況
をどうにかしないと思うんだぜ。
れ:いや、金目になるようなことならすぐにでも動くわ!
ま;本当ゲンキンな奴だなぁ、霊夢は…
【解説】
今度は囲碁と神社にまつわるネタについて。何と言っても東方は神社が主
役ですからね、これに触れない手は無いということで、第六章の題材とする
ことにしました。
霊夢たちの会話では二つ書いてみました。即ち『碁盤を使用した儀式』と
『囲碁神社』の存在についてです。
前者に関しては、陰陽道で碁盤が使われていたこと&碁盤の裏にある『血
だまり』の話の方が、知名度としては断然ではあるのですが、碁盤はこう
いった形でも文化に根付いていたのだという、そうした奥の深さみたいなも
のを感じるエピソードですね。『皇室で行われている』との記述があります
が、実際現在の皇太子様、更には秋篠宮悠仁様もされてらしたそうです。儀
式の正式名称は『深曽木の儀(ふかそぎのぎ)』と呼ぶらしく、 これは三歳か
ら伸ばし続けた髪を切り揃える皇室の習わし『髪削』にかけたものだと言わ
れております。霊夢たちの会話では『筋目正しく…』等、如何にもな内容が
書かれておりますが、皇室のものだとより壮大な意味合いを有しているらし
いとのこと。つまりは『高天原』、天照大御神を代表とする神々が暮らす天
界を碁盤に見立てていたようなのです。そしてそこから飛び降りるのは皇族
が天地に舞い降りるという、ザ・日本的なものを表現していた訳です。この
ような皇室の風習がどういった形で神社に流れたかは定かではありませんが、
『皇室で行っている有り難きことを、民にも伝播し、この国が富むように』
との願いがあったのかもしれませんね。
次は囲碁神社について。これは大分県由布市に存在する神社のようですね。
そこまで由緒正しき神社という訳ではなく、故に賭け事に関する占いが貼ら
れている等、遊び心も兼ね備えているみたいです。尤も、こうした囲碁その
もの関して祀った神社は他ではお目にかかれないからか、訪れる人も結構い
るらしく、プロ棋士の万波姉妹(姉:佳奈四段、妹:奈穂三段)も参詣したとブロ
グに書いてありました。あと、ちゃっかり市の公式ホームページにも観光名
所として記載があります。
囲碁に関する神社ですと、広島の因島にも囲碁に縁のある神社があります。
その名は石切風切宮。何とここは本因坊秀策の生家跡にある神社で、秀策の
兄の子孫が宮司を行っていたという、囲碁神社とは違った意味で『囲碁』感
の強い神社なのです。此方は境内もそれなりにしっかりした、立派な建物だ
そうです。この神社は本因坊秀策記念館が隣接していることもあって、囲碁
の関係者が多く参詣するとのこと。特に碁盤をモチーフにした台座に秀策の
石碑が立てられている様は、如何に秀策がこの神社において尊い扱いを受け
た存在であるかを如実に示していると言えるでしょう。
もう一つ、兵庫県にある石見神社も紹介しましょう。この神社の特徴は巨
大碁盤(横の長さが 2 メートル)が奉納されてること。何でも祭神(谷垣石見守
という、実在の人物らしいです)が近隣の村と領地争いをした際、囲碁で解決
を図り、勝利して平和をもたらしたことに由来しているそうです。碁盤が奉
納されたのは 1993 年と割と最近の出来事であり、この神社が忘れされぬよ
うにという愛棋家の心意気とか、そういったものを想像しますね。
やはり囲碁はお寺の文化ということにはなるのですが、探せば神社も小さ
いながら色々なものが存在するようですね。他にも囲碁が由来であるもの(例
えば浜辺関係だと『碁石が浜(静岡)』『碁石海岸(岩手)』、山であれば『碁盤
ケ岳』、お茶であれば『碁石茶(高知)』などがある)は多数存在するらしく、
そうしたものから日常と囲碁の結び付きが見受けられることも、ひょっとし
たらあるかもしれません。というかですね、もし身近に囲碁に関する珍しい
話があれば、是非とも私に連絡をとってほしいくらいです w
【第八章:限界まで臨むプロ棋士の苦悩】
ま:霊夢~!、ちょっと面白い本を持ってきたんだ。
れ;ん、これどうしたの?パッと見た感じ。囲碁の本のようだけど。
ま;そうだな。ただこれは、棋譜が書いてあるような技術書ではなく、『外
の世界』の棋士に関する逸話を集めたものなんだ。
れ;へ~、魔理沙もそんなもの買ってくるのね。
ま:ちょっと魔導書のついでに、な。(本当はコソ泥してきたんだが)。
れ:成程ね。何か面白そうな話はあった?
ま:目についた話でこういうものがあった。『伸爪の嘆』という話。
れ:伸爪の嘆、ねぇ。どういう話なの?
ま:ある一流棋士の若い頃の話なんだが、その棋士がふと自分の指を見て、
こう呟いたそうだ……『この頃、よく爪が伸びてきて、爪切りで切らな
ければならないくらいだ。以前はそうする必要は一切無かったから、ど
うも、今の自分は勉強不足らしい』と。
れ:爪、となると当然石を持つところになるわよね?それなら手入れが必要
そうなものだけど。
ま:そういうことじゃなくてだな、この棋士が言わんとしていることは『ず
っと前から棋譜並べ等の勉強をし、石を持ち続けていたから、着手す
る際の摩擦で、爪が減っていた。しかし今はそうなるまでの勉強がで
きていない』ということなんだ。
れ:げげっ、爪がすり減るまでの勉強は凄いわ。
ま:その棋士はなんでも頂点に上り詰めた人物のようだし、ある意味では納
得いくところではあるんだがな。
れ;それにしたって、私たちみたいな戦闘をする訳でもないのだから、爪が
そうなるまでのことって、普通はあり得ないと思うのよね。
ま;ふっふっふ……しかしな、霊夢。
れ:な、何よ?
ま:その手の話に関しては、他にもこんなものがあったぞ。昔の名人クラス
の棋士の話でな。
れ;……ごくり。
珍しく霊夢が真剣な表情を見せている。そうは言っても、このぐうたら性
自体は、恐らく治ることはないんだがな。長い付き合いだから、それだけは
断言できる。ただ、見ていて面白いというのは、間違いないことだった。
ま:こういう話だった。『私は 6 歳で囲碁を覚えた訳だが、それこそ飲食
も忘れるくらい頑張り、12 歳で初段になった』
れ;酒飲んでぺちゃくちゃし喋りながら打ってる私たちとは、えらい違いね。
しかも本当に子供の頃の話だというのに。
ま;こらこら、まだ続きがあるぞ。『初段になってから 18 歳まで、枕を頭
にして眠るようなことは無かったし、家督を継ぐ 27 歳の間に数夜にわ
たって席を立たないような修行をこなすことも幾度もあった。そして、
そうした日々を過ごしたからか、21 歳の頃には奥歯 4 本が欠けていた』
とのことなんだ。
れ;さっきの爪の話は努力家の美談という感じだけど、今度の話は、もはや
『残酷物語』と表現するに値するわね。
ま:あとは『一万局の布石』という逸話もあるな。
れ:一万局とは、また桁違いな数値ね。どんな話かしら。
ま:ある名人はしばしば島に篭っていたことがあったそうだ。一般的な話だ
と島に流されたとある人物を訪ねてということになっているが、この頃
から囲碁が飛躍的に強くなったらしく、何でも一万局分の布石を並べた
のではないかという話に由来しているようだ。
れ:此方は真偽の程はよくは分からないけど、今までの囲碁の強豪の話を考
えると、あながち嘘とも思えないわね。そうね、この神社を囲碁で盛り
上げる前に、部屋に篭って囲碁修行をしなければならないかもね。
ま:成程……って、霊夢さんは大抵引き篭って、しかもぐーたらしているよ
うにしか見えないんだが。
れ:…ちょっと魔理沙、そこでそういうのを突っ込むのは野暮よ。しかし囲
碁の棋士というのも大変なものね。こうやってお酒呑みながら打つとい
うのが、私には丁度良いくらいだわ。
ま;何だ、人がお参りに来ないからヤケ酒して過ごしてる訳じゃないのか。
れ;まぁ、そういう飲み方になっちゃうこともあるんだけどね。
ま;??
れ;どっかの誰かさんが、まーたお賽銭盗むせいで。
ま:おいおい、霊夢……あ、いや、悪気はなかったんだ。
れ;取り敢えずその本、私がもらっちゃってもいいわよね?
ま:(く、くそ~……いつか、また取り返してやるぅ。。)
【解説】
今回の話は囲碁の棋士がどれほどの努力を重ねてきているか、その逸話に
関してです。ここまでの章でもそれが伺えるような記述は幾つかあったと思
いますが、別途まとめることとしました。
まず最初は『伸爪の嘆』。まぁ筆者も昔はよく石を血染にしていたもので
すが、それは肌が弱いからであって、この話の主役である小林光一先生とは
全く以て次元が異なります(笑)。この小林先生、趙治勲先生と同門で、長き
に渡ってライバル関係にありました。他の棋士とは一線を画した、極めてド
ライな碁が持ち味で、ある口の悪いプロからは『小林さんの碁は情緒もなく
ただ勝利に進む意識しかない、まるで地下鉄みたいな碁だ』と評されたとい
う話もあります(尤も、小林先生は『勝利を目指す地下鉄のような碁、悪くな
いではないか』と反論するのですが w)。しかし一歩離れて考えると、小林先
生は自分の碁を創り上げ、棋聖・名人それぞれ八期を務めた強豪にまで至っ
た訳で、これにはやはり爪を削り取ってしまうような、そうした強い信念で
囲碁のスタイルを模索した上での賜物なのです。
次は家元のところでも触れた井上幻庵因碩の話です。これも中々強烈なエ
ピソードですよね。囲碁のためにまともに眠れはしなかったし、若くして奥
歯が四本も抜け落ちてしまったというのです。実のところ現代の韓国や中国
だと、プロ修行者に関して軍隊レベルの厳しい修行を課す所もあるようです
が、それでも幻庵のものまでには至らないでしょう。幻庵はそうした体を痛
めつけた記憶や前述した不運の連続を嘆いてのことか、碁を覚えたことに関
し『不幸にも』という形容詞をつけ、回想したこともあったそうです。
そして『一万局の布石』について。この話の主役は本因坊秀栄です。実は
本因坊秀栄、歴史上の著名人物とはよく見知った仲でした。その人物の名は
金玉均、韓国の政治運動家ですね。彼は小笠原諸島で逃亡生活を過ごしてお
り、そこへしばしば本因坊秀栄が訪れていたのでした。実は金も日本囲碁界
そのものに交流のあった人物で、例えば秀栄と弟子の田村の十番碁企画に賛
同したり、秀甫の本因坊就任時に手を貸したりと、中々濃い結び付きであっ
たようです。その秀栄、ここで単純に『小笠原諸島に向かう機会が頻繁に
あった』と書いてありますが、当時の本土から小笠原諸島への船便は数ヶ月
スパンに 1 本と、ごくごく限られたもの。そうなるとただ単に金に会いに
行ったというのは怪しく、外部との連絡を絶って囲碁に励んだのではないか
という仮説が浮上してくるのです。実際囲碁というのは相手がいなくても割
と勉強が捗る面があります。例えば『発陽論』のような書物をまともに読み
解けばそれだけで数日は確実に潰れますし、古今東西の名人の碁や、自分の
打碁に関する研究は、一旦それを始めれば無限に時間を費やすこともできる
訳です。結局は記録に残っているものが無いため、本因坊秀栄が何故力をつ
けたのかは謎のまま。もしかしたら本因坊道知と同様に、時の第一人者と番
碁を重ねたことによる飛躍的成長(秀栄の場合は、秀甫と比較的本気度の高い
十番碁を経験している)が大きいのかもしれません。けれども古今東西の名棋
士の努力の量は特筆に値するものばかり。やはり島にて囲碁漬けに日々を送
り続けていたんじゃないかなと、私はそう思いますね。
【第九章:囲碁の老若事情】
ま:霊夢霊夢~。
れ:あら、魔理沙。どうしたの?
ま;囲碁ってそんな年行った感じの趣味なのか?
れ;んー、まぁそう言われるとそういうイメージはなくもないわね。誰かに
何か言われたの?
ま;咲夜が言ってたんだよ。『人間の世界だと、囲碁はどちらかといえば高
齢者が多く嗜んでいるものになりますね』って。
れ:なるほど、そういう話なら確かにそうなるわね。プロ棋士ではない人た
ちだと、やはり高齢者が多いみたいよ。ただプロだとちょっと事情が異
なる部分もあるわ。
ま;ほうほう。
れ;まぁ囲碁のプロも所謂『引退勧告』みたいなものは無いから、トータル
でいえば年齢層は高めなのだけどね。現状において活躍している棋士の
多くは 10~30 代の間になるのよね。特に世界だとそれが顕著。
ま;なるほど。活躍している人たち自体は、比較的若い層に集中しているこ
とになる訳か。
れ;そうなるわね。
ま:ちなみに囲碁のプロ棋士ってのは何歳からなることができるんだ?
れ;実力があれば何歳からでも大丈夫よ。最年少記録になると 11 歳、いず
れもかなり出世しているらしいわよ。
ま:そりゃそんな歳でプロになることができるなら、それ相応の才能がある
って話だよな。
れ:確かにそうね。ただ特例だけど 28 歳でプロ入りして活躍したような棋
士もいるのだから、こればかりは蓋を開けてみないと何とも言えないと
ころはあるわ。
ま:逆に歳いった棋士だとどれくらいの人たちがいるんだ。
れ;それがね、95 歳で現役を続けていらっしゃる棋士がいるのよ。
ま:きゅきゅきゅ……きゅうじゅうごさい!?!?
れ;そう、95 歳。しかも今でも安定して勝ち星を上げてらっしゃるみたい。
その人が飛び抜けた最年長になるわね。ちなみに女性の棋士に限定する
と 88 歳で、今言った方の奥様になるわ。
ま:す、すげぇな。そんな歳なら対局するのも大変だろう。
れ:ある若手棋士の話だと、自分が追い付かないくらいの速いペースで歩き、
背筋はピンと正しく、あとは最新の碁についてもしっかり研究を深めて
いるそうよ。
ま:酔っ払ってぐーたら寝てる霊夢よりしっかりしてそうだな。
れ;酒は百薬の長、寝る子は育つ……魔理沙、こう見えても私は常に何手先
も読んでいるのよ!
ま;(そんな無い胸を逸らされて見栄張ったこと言われてもなぁ)
れ;ちなみにタイトルを獲った棋士の最年長は 67 歳、まだまだ先は長いの
よ。最年少も 20 歳だから、ひょっとしたら狙えなくも……ないかもね。
ま;おーい、霊夢さん。まさか本気でそういう路線を狙ってるんじゃ。。
れ;い、いや……流石に冗談よ、冗談!
ま;(こうやってバツの悪そうな霊夢を見ているのも、楽しくはあるがな)
れ;ちなみに囲碁の活躍年齢に関する話、最近だと世界全体で見ても若手が
はっきり主導権を握っている傾向があるみたいだけど、以前に比べると
『一手の価値』に対する価値の研究が進んだことが大きいみたいね。あ
とは情報収集手段も昔より増えたから、頭に色々詰め込みが効く、若い
世代の方が有利になったという話もあるわ。
ま:つまりは右脳志向から左脳志向へと強まっているのか。今までイメージ
で掴んでいたようなものが、計算立てて取り入れられるようになったと。
れ;そういうこと。だから『先を読み通す力』と『そのための情報を如何
に詰め込めるか』という時代になったわ。まぁ厳密に云えばこの二つは
昔から重要視されていた部分だけど、それがより顕著になったってとこ
ろかしら。
ま:たださっきの話にもあった通り、凄い歳になっても頑張っている棋士も
いるよな?
れ:あの 95 歳のプロ棋士は例外だけど、50 歳過ぎても活躍するような棋士
の場合であれば、他の棋士より右脳が秀でているような碁を打つ印象が
あるわ。幾らプロでも前例もなく、打つアテにも困る局面ってあるのだ
けど、そういうところを乗り切る力があれば、長く生き残ることができ
るみたい。
ま;イメージで乗り切る訳か、更に言えば『勘が良くて、鼻が利く』感じだ
ろうか。
れ;そうね。勿論その勘なり嗅覚なりを支える、左脳的な力が落ちている分、
中々安定した成績を残すまでは至らないことも多いけど、凄く綺麗に勝
ちきるようなこともあって、そういう碁を見るのは楽しいわ。
ま:それにしたってやはり若い頃の積み重ねが無いとそんな風にはならない
よな。そうだよな、霊夢?
れ:…な、何よ。
ま:こうやって今までの積み重ねがあって、ここにもまともに人が来ないん
じゃないかなって。
れ:わ、わかったわよ!私も頑張るわ……明日から。
ま:(明日から本気出すって一番駄目なパターンじゃないか。この神社が貧
乏な理由が改めて解った気がするぜ。。)
【解説】
今回の話は囲碁を取り巻く世代環境の話……ではありますが、これを載せ
た理由の半分以上が杉内夫妻のことがあるからだったりしますw
霊夢の話にあった『95 歳の棋士』というのは杉内雅男九段、そしてその奥
様が杉内寿子八段のことです。夫婦年齢合わせて何と 183 歳!!こんなこと
は囲碁界以外有り得ないと言って良いでしょう。両先生は元よりかなりの高
名な棋士で、雅男先生は本因坊挑戦経験が二度あり(※1)、寿子先生は女流タ
イトルを合計 10 期保持した女流第一人者であります。また雅男先生はプロ
養成機関である院生の師範を、寿子先生は女流棋士界会長を務めるといった
具合に、棋界全般から見ても大変な貢献者なのです。
何故現在も現役で……しかも毎年勝ち星をしっかり積み重ね続けられるか
の話になりますが、徹底的な体調管理が一番に挙げられるでしょう。霊夢の
言っていた話を見てみても、そうじゃなきゃあれだけの体の元気ぶりなんて
説明しようがありません。その秘訣に関しては、両先生はメディアで多くを
語らないので、あくまで想像の話になってしまうのですが……これ、瀬越先
生の影響が大きいのかなと、私は見ております。
この瀬越先生、囲碁の家元が無くなって以降の囲碁界の基礎を造り上げた
人物なのですが、80 歳過ぎに体力の衰えを苦に自殺されてしまうのです。雅
男九段は瀬越先生と直接の師弟関係を結んでいた訳ではないのですが、元々
は入門する話で進んでいた程度には縁もあったのです。そうしたことがあっ
たが故、健康に対し人一倍気を遣っているのではないかなと、想像してしま
う訳です。ただ囲碁界全般が昔は無頼派と呼ばれる、中々に破滅的な生活を
送っていた棋士も多かったため(その最たる例は何度も触れている藤沢秀行先
生)、単にそれを反面教師にしていただけなのかもしれません。
それにしたってこの活躍は本当に御立派の一言。今年は雅男先生が 20 歳
で比較的成績の良い新鋭棋士相手に勝ち切り、『74 歳差対決、長老に一日の
長』といった具合に、中国・韓国の囲碁ニュースにも取り上げられるくらい
です。後述するように、今の日本棋士は他国にはっきり先行され、半ば取り
残されているくらいの状態ではありますが、せめてこうした長いスパンで活
躍されるような高齢棋士が、より一層増えてくるようになってくれば、また
違った楽しみを見い出せるのかなと感じる次第です……世代交代も重要なの
で、そこら辺ジレンマではあるのですが。
続けて最年長タイトルの話ですが、これはお馴染み藤沢秀行九段のこと。
タイトル保持数も秀でた棋士なのですが、特筆すべきはその独創的な世界観
(※2)並びに育成観を以てし、文字通り現代囲碁界の礎を築いた先生の一人だ
ということ。ただ藤沢先生の場合は杉内夫妻とは真逆の破滅型の生活を送っ
ておりました。これについては別の章でも触れた通りですね。しかし三度の
癌を、それこそいつ息絶えてもおかしくなかったくらいでありながら克服し
(※3)、王座を二期、68 歳まで保持するという偉業を成し遂げたのです。若
手から色々吸収してきたからこそなんでしょうね。単なる効率のみならず、
そういったところも重要視される時代も、いつしか来るのかもしれません。
引き続き、今度は若手の方のネタでも。最年少入段は 11 歳としましたが、
囲碁の場合は一般枠と女流枠共にそうで、敢えてぼかして書いた次第です。
まず一般枠の方は趙治勲先生の 11 歳 9 ヶ月。プロ養成機関の院生の制限年
齢 18 歳から見ると、かなりイージーに通った印象を持たれる方もいるで
しょうが、実際は『背水の陣だった』とのこと。というのも、治勲先生は何
と 6 歳にして来日されており、その過程で種々のプレッシャーも背負ってい
たので『これで駄目なら、才能が無いということだから、帰っていたかもし
れない』という、そうした状況になっていたのです。しかしながらこの時の
採用枠が多めに設定されていたこともあり、無事に入段。そこからは破竹の
勢いで頂点に上り詰め、別章でも触れた通り、三大タイトルを同時に保持す
る『大三冠』を果たす等、歴代最強棋士とも言えるまでになりました。
女流枠の最年少は藤沢里菜さんの 11 歳 6 ヶ月。”藤沢”という苗字から
も分かる通り、藤沢秀行先生のお孫さんであり、父もプロ棋士の藤沢一就八
段(ニコニコ動画の囲碁解説をやっていたりします)という、まさにサラブ
レッドと言うべき存在。世界戦で安定してくるようになると、今後面白い存
在になると言えます。
ちなみに高齢入段でいえば坂井秀至先生がそうで、京大卒のドクターであ
りながらトップアマとして君臨し、関西棋院特例の試験碁で、28 歳でありな
がら入段を果たします。坂井先生の凄いところは、そこから棋界の頂点に近
い舞台で戦ったところ。2010 年には七大タイトルの碁聖位を獲得される快
挙を成し遂げ、中年棋士全体の大いなる希望となりました。
改めて冷静に見てみると囲碁棋士の世代幅の広さ、特に高齢棋士の存在と
いうのは、多分世界のどの競技を見ても稀なのではないでしょうか? 勿論 95
歳の杉内先生に関しては別格というよりありませんが、丁度 4 年前に引退さ
れた岩田達明九段も 2007 年に御年 81 歳にして 18 勝 11 敗と勝ち星ランキ
ング 55 位に入ったことで話題になり、更にはアマチュアでも岩田九段と同
い年の生まれである平田博則氏は 2010 年 84 歳にして全国大会優勝を果たす
等、他にも立派に活躍された高齢棋士がいるのです。勿論詰め込みに詰め込
んで世界の頂点を掴むような棋士は間違いなく凄いのですが、一方で勉強の
積み重ねによって自然と良い方向に石を持ってくることができる棋士もそれ
相応の評価が為されて然るべき存在であり、個人的にはよりスポットライト
を当てて欲しい感じる部分ですね。そしてこういった世界トップの若手棋士
と高齢棋士の脳を照らし合わせる中で、囲碁そのものに対する大きな一つの
答え――それが何かは私にも読めませんが――が見えてくるような、そんな
気がする今日この頃です。
あと個人的に不思議なのは、何故老棋士はこんなにもスタミナが持ってし
まうのかという点。鍛えているからかもしれませんが、それでも凄いことな
んですよ。例えば個人的な経験ですと、囲碁の大学団体全国大会に出場した
ことがあり、チームの全国優勝に貢献したことがありましたが、この時は
ずっと夜九時前に寝たにも拘らず、物凄い疲れが残ったんですよ。四日間続
いたとはいえ、最後終わった時は立つことも難しかったくらいでしたから。
ひょっとすれば、囲碁の老棋士というのは、そうした身体に負担のかからな
い、例えばドーパミンみたいなものがドバドバ出ているのかもしれませんね。
こうした部分も含め、囲碁における疲労並びに老化が起こりにくくなる仕組
み、より明らかになることを願って止みません。
(※1);当時の本因坊は高川格先生(通算 9 連覇)で、雅男九段はその三期目と
七期目の挑戦者でした。いずれも 2-4 で破れはしたものの、特に三期目の挑
戦については『私が最も苦戦したシリーズ』と高川先生御自身に言わしめた
くらいの、濃い内容のものでした。
(※2):第一章でも触れた通り、その独創的な碁を評した山部九段は、他の棋
士評においても中々に珍妙な言い回しをし、人々の目を引いておりました。
例えば秀行先生の碁について語った際は『異常感覚のようで、バランスの取
れた碁』と評したことから、後に秀行先生のキャッチコピーが”異常感覚”
になってしまったというエピソードがあります。また山部九段は、雅男先生
と高川先生の挑戦手合に関する分析においても『高川さんのパンチじゃハエ
も殺せぬみたいに言われるけど、非力なんかじゃない』という旨の内容が、
『高川のパンチじゃハエも殺せない』だけが一人歩きする、全く同じような
苦笑案件もあります。
(※3):秀行先生の武勇伝に関しては、第三章でも触れたと思いますが。借金
を完済してからも波乱万丈の人生を送っておりました。それは趙治勲先生を
迎えての七度目の防衛の時のこと。七番勝負の三局目までを全て勝利し、必
勝と言われていた秀行先生は、その後まさかの失速。四連敗で棋聖位を失冠
してしまうのです。実はこの時既に胃癌を患っており、挑戦手合の最中にも
吐血を幾度となくしていたのでした。しかしここで大きな助けになったのは、
借金の時に続きまたしても正妻のモトさん。彼女の助けを借り、3度の癌を
克服してから 2009 年に没すまで、穏やかな老後を過ごすことができるに至
りました。そこまでに至る話については『勝負師の妻 囲碁棋士藤沢秀行と
の 50 年』という本に詳しく載っております。ちなみにこのモトさん、その
生き様に関して今年『華と石と』というタイトルで舞台化されたりもしまし
た。そうなる程度に波乱万丈だったのです。
【第十章:プロ棋士と長考】
ま:あ”~、また霊夢に騙された。ここをこう打っていたら、私の大差勝ち
だったんだがなぁ。
れ:ちょっと魔理沙!、騙しただなんて人聞き悪いわね。あなたが考えずに
ポンポン打つのが悪いのよ。
ま:打ってるとついつい楽しくなって、自然と手が出ちまうんだよ。
れ:楽しく打てていること自体は良いことなんだけど、もっと腰を据えて考
えられるようになったら、もっと楽しくなるかもしれないわね。
ま;そうだ、その話で気になっていたんだが、棋士というのはどれくらい考
えられるものなんだ。
れ;どれくらい考えられるか……となると、主に二種類回答が用意できると
思うのよね。『どれくらい長考できるか?』と『どれくらい先を読める
か』という話で。
ま:成程、確かにそうだな。それぞれ順番に教えてもらうかな。
れ:棋士同士の世界になるけど、長考云々に関しては、時代によってかなり
差異があるようね。昔は数日かけて打たれたようなものが多かったし、
『打ち掛け』と呼ばれるようなものも、あったのよ。
ま:数日かけて、っていうのは中々しんどいなぁ。あと、『打ち掛け』って
いうのは一体何なんだ?
れ:囲碁の上手側の特権みたいなもので、悩ましい展開になった時『ちょっ
とタンマ!』って言って、進行を先延ばしすることね。ものによっては
そのまんま終わってしまうようなものもあるけど。
ま:それはまた難儀だな。今はそういうものはないのか?
れ:二日制のものが残っているくらいで、打ち掛けというのはほぼ無いと
言って良いわね。封じ手といって、所定の時間に『明日の朝はこの手か
ら始めますよ』というのを連絡するくらいで。
ま:なるほど、そういう意味では今の方が全然気楽だな。
れ;そうね、最近は持ち時間を少なくしている傾向もあるみたい。ただ
ちょっと前までは持ち時間に余裕があったから、一手に一時間かける場
面があることも少なくなかったようね。あとは二日制の碁で、五時間以
上費やしたものなんかもあったわ。
ま;ご、ご、五時間!?
れ:まぁ色々伏線はあったのだけど、もう今じゃお目にかかることはできな
いくらいの記録だったわね。
ま:しかしそうなるともっと持ち時間のあった時代だったら、その比じゃな
いくらいのものもありそうではあるな。
れ:実際そうなのよね。厳密に云えばプロの対局ではないのだけど、記録上
では一六時間長考したという話もあったみたい。まぁこれについては半
分ジョークみたいな試みだったみたいだけど。
ま;そこまで来ると修行そのものだな、うん。
れ;魔理沙もその爪の垢を煎じたら?……って言いたいところだけど、普段
の対局であまりに考えられ過ぎても悩ましいし、負かされてしまうかも
しれないから、悩ましいところね。
ま;最後のはまた違った話の気もするが……しかしどうしてまたそんなにも
時間がかかってしまう時があるんだろうな?
れ;細かく分けると色々あるのだろうけど、間違いなく言えるのは『迷って
いる』ことが多いってことね。考えられる分充実した状態であるという
解釈もできるし、手が浮かばないから長考せざるを得ないという解釈も
できるし、功罪については判断し難いところもあるけど。
ま:実は第一感で打った手の方が良かった、みたいなオチもあったりしてな。
れ;結果論みたいにはなるけど、そういう場合も普通にあるわね。ただまぁ
綱渡りみたいな局面ではそう言ってはいられない場面もあるからね。
ま:そこで『どれくらい先を読めるか?』という話になる訳か。
れ;そうね、これにも諸説があるから何とも言えないけども……最大 1000
分岐分の可能性を読んでいる場合もある、なんて話もあるわね。
ま:またも桁違いな数字が出たなぁ。
れ;一手打つ度に、相手の応手次第で次に打つ手段も全く変わってきたりす
るから、それをまともに全部考えると、1000 分岐分届くこともあるっ
て話ね。ただある程度の形であれば、プロであれば大凡の価値について
目星がつくから、何択かに絞込むこと自体は難しくないみたい。
ま:成程な。ただその絞り込んだ中でもどういう手順で打つかとか、そうい
ったことで頭を悩ませ続けている訳だな。
れ;大体そんなことね。ただ棋士によっては割とどうでも良いところ……だ
なんて言ったら対局者に怒られるけど、素人目にはよく分からないとこ
ろで長考することもあるのよね。実際 5 時間長考した手に関してもそう
いう類のものだったし、極端な話初手に 1 時間以上考えたような棋士が
いたりもしたからね。
ま:その場合は何をそこまで『迷わせて』しまうんだろうな?
れ;雰囲気的なものなんでしょうね。例えば『相手の○○先生がいつにな
く厳しい石音だから、これは険しい戦いになるに違いない』とか、そう
いう動物的直感も含め、思考が目まぐるしく動く場合もあるだろうから。
ま:しかしそんなことが頭を巡り続けていたら、打つ方は幾ら命があっても
足りなそうだな。
れ:あーでもね、その話だと『相手を削ることを主眼においた長考』も存在
したそうよ。
ま:これまた如何にもエグそうな話だな。
れ:ターゲットになるのはベテラン棋士。若手で、芸勝負では中々勝負にな
らなそうな棋士が、序盤からスローペースの進行を選び、終盤勝負に
持ってこようとするのよ。
ま;そうなると体力が勝る若手が、終盤でちょいと利益を上げ、最後差し切
って一丁上がり!ってなる訳か。
れ:早い話がそうね。それをやられた棋士も『マチマチ派には叶わん』と、
思わず愚痴が溢れ出たそうよ。純粋不純問わず、長考にも色々な形のも
のがあるということね、
ま;そういう意味じゃ、棋譜をただ単に並べただけじゃ伝わらないものもあ
るんだな。勿論並べないと始まらないだろうけど。
れ;そうそう。だからこそ優秀な書き手というのが必要になる訳よ。その人
でさえも掴みきれないものがあるとはいえ、ね。そうしたことが分かっ
てくるよになれば、囲碁がまた違った感じで楽しく思えるでしょうね。
【解説】
今度はプロ棋士と長考に関する話です。家元のあった大昔のことなんて挙
げたらキリがないので現代碁に重きをおいてお話しようかなと。
実はこの手の話、大分減ってきてはいます。と言いますのも、世界標準の
関係で持ち時間を減らす傾向が顕著だからです。例を挙げると、七大タイト
ルの一つである天元戦においては、15 年ほど前までは持ち時間 5 時間、10
年ほど前までは持ち時間 4 時間であったのが、今となっては持ち時間 3 時間。
もう全く別の棋戦なのかと思ってしまう程度に減っていった訳ですね。実際
当時の富士通杯等の世界棋戦がそうであり、そのような棋戦に日本棋士が勝
てなくなったことで、合わせていこうという話になった訳です。まぁそこら
辺は今更言っても仕方がないというのはありますが、正直如何なものかなと、
個人的には思います。この章も含めて、囲碁におけるある種のドラマチック
さというのは、そうした持ち時間の長さによっても支えられてきた面がある
ので。尤も、日本囲碁界の場合は三大タイトルにおいて二日制(各持ち時間 8
時間)の対局を残してきてはいるので、他国の囲碁状況に比べると特殊な面も
残ってはおりますが。個人的には将棋のように、もっとバラバラでも良いよ
うに思うんですよね。その方が棋士としての対応力が上がってくると思って
いるのと、あと世界戦に勝ち上がれない理由はどうもそこでは無いと分かっ
てきているので(将棋だと七大タイトルであっても、棋戦によって 4~6 時間
と持ち時間に幅があります。将棋の森内俊之九段の著書でも『全く別ルール
故の難しさがある』と触れられており、そうした部分は中々興味深いところ)。
閑話休題。持ち時間制に関しては、昔だと三大タイトル以外でも二日制で
あったり(『今日の蛤は重い』の時もそうです)と、中々過酷な状況であった
が故、非常に濃い話が満載だったりします。最初はその中でも 1988 年の本
因坊戦挑戦手合七番勝負第五局の事例について触れて行きたく思います。こ
の対局の主役は武宮正樹本因坊、同門の実力者大竹英雄九段を挑戦者に迎え、
2-2 のタイで迎えた天王山の一局でした。序盤堅実に陣地を固めようとする
大竹九段相手に武宮本因坊が『ナダレ』と呼ばれる、難解且つ険しい変化を
選択。そして 45 手目、ほぼ二択の選択であろうと推定された局面で大長考
が開始されたのです。当時はネットが発達しておらず、東京で集まっていた
棋士たちは次の手がまだ打たれないのを『何か連絡に行き違いがあるのでは
ないか?』とやきもきしていたそうですが、中々打たれることはありません。
そして数時間が経過した頃にはすっかり周りが呆れ返っていたくらいだった
のですが、5 時間 7 分の考慮時間を使って漸く着手……それも、事前に第一
候補に挙がっていたような手でした。これについて憶測も色々あり、中には
『その前の碁で武宮さんは大竹さんの大長考に業を煮やしていたから、その
仕返しにやってやったんじゃないか』という声も出たそうです。しかし武宮
本因坊はこれを批判した上で、曰く『私は定石を知らないものだから読むの
に苦労していた訳だけど、ついつい面白くなってしまってね。私の碁は本来
考えてはいけない碁なんだけど、なまじ時間があると変にそうなってしまう
ところがあるから、ここでしっかり時間を使い切って、それで打ってみよう
かなと』という風な回答でした。これについては幾つか注釈が必要になるで
しょう。実はこの武宮先生、本来ならば『局面を見て何か閃かないようなら、
もう考えたってしょうがない』という感じの、相当に右脳派の棋士なのです。
その傾向は特に序盤から中盤の入口にかけて顕著なのですが、この碁はまさ
にそのフェイズで考えていた訳だから、一見すると奇妙にも思えます。しか
し一方で武宮本因坊は手筋が絡む複雑な要素を読むのが大好きな棋士でもあ
ります。『宇宙流』とも形容される自由な碁をしっかりまとめ上げているの
は、そうしたミクロの部分の強さがあるからこそなのです。ですのでこの局
面の場合も、ナダレの形から様々な打ち方を『閃いて』しまったからこそ、
深い思考の海に沈み込んでしまったと言えるかもしれません。そういう意味
では一般によくある『迷いに迷い、局面を煮詰めた上での一手』というより
は、『この舞台を味わえる棋士だからこそ堪能できる、贅沢で半ば仙人的で
もある道草』をしていたとも言える訳です。今の今まで『囲碁で長い時間を
費やすことが苦痛』みたいなトーンの書き方に終始していたところがありま
すが、それでも尚彼らがすすんで石を打ち続けるのは、思索の愉しみがあっ
てというのは間違いないのです。殊に武宮本因坊は囲碁において『直感で打
つことの快感』と『綿密に読みを深めていく充実感』を体現していた棋士で
あり、先生の碁がプロアマ問わず惹きつけてやまないのは、そういったとこ
ろにあったのだと思います。そしてこの碁はというと、『しっかり時間を使
い切った』武宮本因坊は、閃くがままに奔放に石を展開し、大竹九段に完勝。
そして最終的には 4-3 で防衛を果たしたのでした。
次の話は 16 時間長考の話。公式戦ではなく、プロ修行の時の話になるの
ですが、中々面白い話だと思ったので載せた次第です。あと 5 時間長考の話
だとお隣の将棋界では堀口七段が 5 時間 24 分使っちゃってたりしますから
ね、まぁ半分対抗意識?みたいなものです(笑)。この話は院生時代の星野紀九
段(引退棋士戦で優勝経験あり)が残したもので、まだ戦前の、持ち時間が無
制限の頃の話です。発端は星野少年の対戦相手が大長考を行ったこと。時間
にして 8 時間は行っていたようです。そしての時星野少年が思い浮かべてい
たのは師匠の言葉『相手の倍使うようにしなさい』だったのです。これを糞
真面目にやり通してしまう訳だから、周りの人々も開いた口が塞がらなかっ
たくらいだったでしょう、だからこそ後世に広まるにまで至った、と言えま
す。しかし師匠の言葉とはいえ、そこまでやり通すのは恐ろしいものですよ
ね。師匠が余程厳格な人だったか、対戦相手が嫌な奴だからこそやり返した
のか、それとも純粋に『本当に 16 時間考えられそうか?』というのを試すと
いう若気の至りだったか……想像するより無いですが、まずそんなことした
ら寝てしまいそうですからね、余程の突き動かす何かがあったと言わざるを
得ません。この星野九段、他にも恐ろしい記録を残しております。それは最
長手数記録。手数にして 411 手、碁盤は 19×19=361 路分ですから、そう滅
多なことが無い限りは 361 手を超えることはありません。ちなみに何故そう
なったかというと、『コウ』というルールに由来します。コウについては別
の章でも少し触れましたが、ルールさえ守れば何度も同じ箇所での石の取り
合いができるので、それを利用すれば盤上全てに石を配置すること無しに、
その手数の到達することは可能なのです。しかしそれにしたって 361 手を超
過する対局は、プロ公式戦で年に一局あるかどうかというレベルのもので、
況や 400 手に届くものは前人未到レベルでしょう。ちなみにこの碁の対戦相
手は『寝る一手』の章でも登場した山部九段だったのですが、それを(ハンデ
ありとはいえ)粘り通して制した星野九段はあっぱれと言うよりありません。
この二つの記録といい、軍に従事してからも安定した成績を残して九段まで
昇段した実績といい、引退棋士同士の棋戦で優勝したことといい、人並外れ
た体力があるからこそ成し遂げられたことだと言えるでしょう。長考という
ワードに関しては『どれだけ深く読めるか』という点が深く纏わり続ける訳
ですが、『どれだけ読みに体力を注ぎ込めるか』という点も大きな指標にも
なる訳です。そうした体力関係のエピソードだと巌崎健造という明治時代の
棋士も相当のものがあります。その真骨頂が出たのは 50 代を過ぎてから。
弟子のものも含めると、以下のような話があります。
①巌崎 55 歳の時、33 歳も年齢が下で、後の名人となる田村保寿を三晩跨い
だ対局で叩き潰し、田村はその場で倒れ、文字通り失神 KO する。
②巌崎 65 歳の時、田村の師匠である本因坊秀栄も名人位取ると、巌崎が不
服を申し立てる。秀栄はそれに逃げ回り、どうにか争碁を避けることに成功
したが、巌崎は『確かに秀栄の体程度じゃ私に到底叶う筈もないからな、殺
めてしまうことにもなりかねない』と渋々引き上げる。
③上記のような体力を活かし、囲碁界の新星組織である方円社の社長に就任
すると、傾きがちだった経営立て直し、棋界を盛り上げる企画の推進、時に
は棋士として多くの相手と対局、更には鈴木為二郎や瀬越憲作といった有名
棋士を育て上げるという、文字通り大車輪の立ち回りを見せる。
特に①は中々壮絶、それこそハチワンダイバーとか月下の棋士(どちらも将
棋漫画ですがw)出てきそうな血腥さすらあります。ちなみにこの対局につい
ては田村も勝ち目有りと見て相当乗り気で、尚且つ有識者も『幾ら巌崎が頑
丈と言っても、伸び盛りの田村を揺るがす程は…』と言われながら勝ってし
まう訳ですね。ひょっとしたら純粋な体力は勿論のこと、巌崎の碁には相手
の体力をやするような威圧感があったのではないかなと思ったりもします。
囲碁の棋士って『重苦しい雰囲気』若しくは『暗雲立ち込める流れ』だから
こそ、深く考え込まされるような場面って、大いにある訳ですよ。考えてみ
ると、そうした『その場に居合わせないと分からない空気感』ってあるなっ
てのは、身に染みて感じます。そしてそれと囲碁の才を兼ね備えた棋士は、
囲碁の才が飛び抜けて明るいだけの棋士に比べると、タイトルの数に差が出
てしまう部分は否めないなと、そういったことは今まで見てきて思います。
勿論それを作るのは、長考しているからだけとも限らないのですがね。
このような超人的な人物がいる一方、長考派は棋界を悩ませる種になって
いた部分もありました。それこそが『マチマチ派』なる存在です。これにつ
いては年長棋士側の脚色も若干はあるかもしれませんが、昭和前半までの囲
碁ですと勝敗をも超えた『芸事』としての側面がかなり色濃い分、相当な軋
轢があったことは伺えます。しかしこれに関しては、私もプレイヤー心理と
して複雑なところではあるんですよね。強い相手であれば、淡々とした局面
に持ち込み、ほぼ差の出ない局面にしてから一瞬の抜け出しを図る……とし
た方が、楽というか、一発入れ易い訳ですよ。まぁ『マチマチ派』を批判す
る棋士の場合、『そこに持ち込むまでの過程で、何故無機質な碁を打ってお
きながら長考などするのか』・『粘りとは言っているが、最善の打ち方から
見ると無駄の多い、あがきをしているようにしか見えない』と言った部分を
批判しているのでしょうが。長考に関してはそうした陰の部分もあり、単に
『長考 = 局面を読み切る』という図式では読み取れないものもあるという
のは、触れておきたいところであります。
……と言って終わりにするのもどうも締まりの悪いので、長考の大家であ
る趙治勲先生の言でこの章を終わりにしようと思います。先生曰く、囲碁の
長考について『ある一手 A に関し、10 分かけて着手した場合と、1 時間かけ
て着手した場合があるとする。A は全く異なった意味……例えば 10 分かけ
た A は凡手であるが、1 時間かけた A は好手であると言える可能性があるの
だ』というものです。一見すると奇異な発言に思えるかもしれないですが、
趙先生は続けて『10 分かけた A は常識的な判断に基づいたものではあるが、
そこから先の分岐に関して突っ込んで考えていないため、相手任せになって
しまうきらいがある。それに対し、1 時間かけた A は迷いに迷った末のもの
もあるのだが、中には盤上盤外双方の雰囲気を嗅ぎ取るだけではなく、A を
打った時と、それ以外の候補を選択した場合とで、盤を取り巻く状況が如何
様に変わっていくかを克明にイメージできるものもある。こうした場合、時
間をかけた方の A が、勝利への見取り図を描くのに貢献している分、価値が
高いと考えることができる』という趣旨のことを仰っております。長考の善
悪たるや対局者のみぞ知る世界……という風にはなりますが、今まで傍見で
は退屈極まりなく思えていたかもしれない囲碁の対局風景も、こうしたこと
を念頭におくと面白く見ることができるかもしれません。
【最終章:囲碁と女流棋士】
ま:れいむ~、今まで聞いて思ったんだが、囲碁ってやっぱり男の方が強い
のか?
れ:う~ん、そうね。今のところはそういう感じになってるみたいよ。
ま:そうだよな。今まで登場している棋士も、殆ど男だった気がするし。
れ:まぁ将棋に比べるとかなり差が無い部類に入るという話だけどね。
ま:差がない、と言うと?
れ:例えば男性のタイトル経験者相手に勝つこともあるわね、基本的には分
が悪いけども。あとは海外だと韓国で最高位のタイトルを奪取したこと
もある女流棋士がいるわ。
ま:成程、タイトルを獲った棋士もいるんだな。
れ:そう簡単に言っちゃってるけど、これ相当凄いことなのよ?ここまで見
てきた通り、囲碁ってかなり体力に左右される部分があるし、女性の脳
は男性と比較すると空間把握力に適していないと言われているから、形
勢判断重視の碁だと特に大変だって話も聞くわ。
ま;そこら辺の踏ん張る力が違う、っていうのは確かに大きそうだな。
れ:だからこそ、というのもあって女流棋戦なるものがあるわね。
ただ最近韓国は女流棋士に対する扱いがバラエティに富んでいて、例え
ばベテラン棋士との対抗戦、アマチュアトップとの対抗戦を行っていた
りもするようだわ。
ま:日本もやればいいのにな。
れ:アマチュアトップに関してならあったのだけど……ただそのパトロンの
方が亡くなったようなのよね。ベテラン棋士の方もそうは好き好んで動
くということは無さそうだし、取り組みとしては前途多難ね。
ま:なるほど、それはハードル高いなぁ。そうだ、囲碁ってそもそも女子人
口どうなんだ?こっちなら殆どそうなっちまうけど。
れ;そうね~、一時期よりは大分改善したみたい。漫画も幾つか出ていたり
するみたいよ。そこら辺は香霖堂に頼めば外の世界から引っ張り込める
……かも。
ま:漫画か。紅魔館でそういう感じのものを見かけたことがあるが、あれは
中々面白かったな。親しみ易い気がするぜ。
れ;そうね、あとは女の子向けの囲碁雑誌もできたりとか、外の世界も色々
やってるみたい。だから私たちも何かやってみた方がいいかもね。
ま:しかしどうしようか、仙人連中は元々囲碁ができそうだからいいとして。
れ:紅魔館の連中は結構ああいうの好みそうだけどね。あとは寺も……この
前碁盤があったって話も出ていたくらいだから、普通に狙えそう。
ま:おいおい、ちょっと待て霊夢。何か妖怪連中にまで手を広げているよう
だが、大丈夫なのか?
れ:そうねぇ~、退治したいのは山々だけど……相手が減るのもなぁ。
ま:おいおい、巫女としてそれはどうなんだ……
れ:そ、そうよね。取り敢えずこの魔理沙が盗んだ碁盤を御神体にしてしま
いましてっと。
ま:自分で言うのもなんだが、盗んだものを御神体にするのは……
れ:もーうっさいわね!、とにかくここを囲碁神社にするために魔理沙も手
伝いなさい!!
ま:な、なんて人遣いの荒い巫女なんだ。
【解説】
最後は囲碁における女性事情。ここではプロ棋士とアマチュアに関して少
しずつ触れた体なのですが、『女性と囲碁の関わり』って歴史的に結構長い
ものだったりします。中国であれば紀元前から宮中で親しまれていますし、
日本における古いところですと古典『水鏡』の 772 年の記事で、天皇と后が
賭け碁を行った際の説話が残っております。平安時代なんかだとよりそうし
た光景が顕著なものになり、例えばお馴染み紫式部の『源氏物語』において
は登場人物が囲碁を打つ場面が何度も出ていたり、清少納言の『枕草子』で
も宮中で囲碁が打たれていたという記述が何度も示されております(暇を慰め
るものは物語・囲碁・双六と挙げているくらいです)。そうした女性にも受け
入れられる遊戯であった囲碁は、武家の時代になると段々と距離が遠ざかり
始めることとなります。坊門の四大家元が群雄割拠した江戸時代においては、
囲碁自体は世間で幅広く受け入れられてはいても、その中で女性が嗜むこと
はごく僅かなものに過ぎず、その中から現代のような女流棋士として活躍し
た者は殆どいないような状態でした。
そうした状況に大きな変化を与えたのが明治時代から活躍されていた喜多
文子という棋士でした。彼女は林家の分家の女流棋士に入門し、メキメキ頭
角を現すと、男性棋士をも倒して女流初の四段まで昇段を果たしてしまうの
です。また実力のみならず、後進の育成にも熱心な棋士であり、その弟子の
一人が先の章でも触れた 88 歳の老棋士杉内寿子八段なのです。そして喜多
文子という棋士は日本棋院を設立するに際しての貢献者の一人でもあり、
2013 年には日本棋院の囲碁殿堂入りを果たすにまで至りました。
こうした背景から成り立った女流棋界、しかし暫くは中々喜多に続くよう
な『男性に対抗できるような女流棋士』というのは現れませんでした。これ
に関しては、当時日本は女流棋士を保護しようという意識が強く、また棋士
としてよりも普及面で頑張ってもらおうという方針だったことが大きいと思
われます。故に現代のように男性棋士に交わって研究会に入るというのも、
相当少なかったと推測されます。それと当時の日本だと『女性が子供を沢山
産み、家を守る』という意識が強かったからというのもでしょう。現に杉内
寿子八段も、子供が成長するまで 10 年も休養に時間を充てるなど、棋士と
してはかなり大変な時期を過ごしております。
そうした間に中国で驚異的な女流棋士が登場します。それが芮廼偉九段。
1980 年代から男子に混ざって活躍を続け、25 歳にして九段にまで上り詰め
てしまいました。彼女が囲碁の才能が豊かだったのは言わずもがな、国家指
定の強化チームに入り、男性棋士共々切磋琢磨したのが、その成長に繋がっ
たのは間違いないことでしょう。中国の天安門事件からは数奇な運命を辿り、
一時は日本に移住したこともある彼女ですが、棋士として漸く報われるに
至ったのは 1999 年に移住した韓国でした。元々世界棋戦でベスト 4 経験も
ある彼女はこの地で大いに力を発揮、2000 年には何と男性混合棋戦におい
てタイトル奪取を果たすまでに至るのです。その後も韓国では朴鋕恩や趙恵
連といった、芮廼偉九段と負けず劣らずの強豪棋士が次々と登場し、霊夢た
ちの会話でもあったように、ベテラン棋士やアマチュアとの対抗戦が取り組
まれる等、国の試みとしても常に最前線を突き進んでおります。中国に関し
ても、そのクラスまでは至らずも層の厚さは相当で、今の棋士だと宋容慧や
於之瑩辺りは女子の世界勝抜戦で何連勝も果たしている強豪であり、国内の
団体リーグでも女流がチーム参加する場合が少なくないとのことです。
話を国内に戻しますと、日本の女流が男性棋士にしっかり勝ち出すように
なったのは丁度芮廼偉九段がタイトルを獲得してからですね。象徴的なのは
小林泉美六段(光一先生の娘さん!)。テレビ棋戦で次々と男性棋士を倒し、
一般棋戦でも十段戦でベスト 16 にまで進出するに至ります。それ以降も、
中国や韓国ほどでは無いにしても、男性に通用する棋士が現れてきており、
現在は台湾出身の謝依旻さんと、最年少入段の章で挙げた藤沢里菜さんの二
名が、特に注目を集めております。やはり世界的な流れに触発を受けたのと、
それに伴い『女流はレッスンプロ』といった旧来の常識的観点が崩れ、男性
棋士が集う研究会に積極的に参加するようになったのが大きいのでしょう。
霊夢たちの話にあったように、試みという意味では韓国等にまだ劣る印象も
ありますが、今後どういった棋士が現れるか愉しみなところです。
しかし囲碁というのはどうしても親父臭い雰囲気漂う世界で、中々女流の
門戸が狭い……と言われていた流れも、大分マシになったという意味では、
日本の囲碁も捨てたものではないのは確か。ちょっとここでは Q&A 方式で
好き放題書いてみます……もう原稿期限が間も無いので、半ばヤケクソww
Q:霊夢たちの会話の中で『ヒカルの碁』以外の漫画があると見ましたが?
⇒そうですね。例えば少女漫画で『星空のカラス』(作:モリエサトシ先生、
現在七巻)、あとはきらら系で『みことの一手!』(作:宇城はやひろ先生、全
一巻)といった、女子が読み易い漫画があります。私個人としては碁ワールド
という雑誌で連載されていた『日々碁席』(作:笠太郎先生、全一巻)なんかも
面白く思いますがね。囲碁漫画は将棋漫画ほどドロドロ重い感じではありま
せんが(ドロドロだと『月下の棋士』、個人的には『三月のライオン』も特有
の重さを感じる)、その分読み易いものは多い印象ですね。馴染みのない人で
あれば、この本やそういった漫画本から囲碁に慣れ親しみ、中古でヒカルの
碁のゲームを買ってルールを覚える……なんて流れも良いとは思います。最
後女子囲碁と関係ない感じになりましたがw
Q:囲碁をやると彼氏ができるようになるのでしょうか?
⇒中々唐突な質問ですねぇ。まぁモテるようにはなるかもしれません、囲碁
界の男子は普通に比べると、恋愛歴が少ない分(以下略)。そういえば囲碁界、
イケメンもいないことは無いですが、今ひとつ私好みの渋い感じの男って少
ないんですよね。そういう絵になる棋士が出ればもっと女性陣も……っとま
た脱線。例えば合コン受けするかといえば怪しいですが、真面目に囲碁を
やっているようであれば教養があるように見られますからね。まぁ勿論囲碁
そのものを純粋に堪能するのが一番ではあると思います。あ、でもそういえ
ば私の知っている話で、男目当てに大学囲碁界入ってそのまま結婚……とい
う話もあったりしたのを思い出しました!
Q:話を変えまして、囲碁界の女性はどういう感じの人が多いでしょうか?
⇒話が変わったw そうですね、囲碁界女子は良く言えば自分の意見がはっ
きりしている人が多い印象がありますね。あと何だハキハキ話す感があるか
らか(その点、囲碁界男子は…)、声が可愛く聞こえるような感じがします…
…勿論筆者の主観ですが。男顔負けに酒を飲むような人もいて、そこら辺は
中々怖いなとは思ったはしますが、まぁ気軽に話し易い傾向にあるかなと。
Q:成程。そういえば『碁的』というフリーペーパーがありますが。
⇒あ、あれの話は……うーん、まぁ話題になったからいいんですかねぇ。個
人的にはああいったファッション誌や女性誌(笑)みたいな路線ではなく、普
通に囲碁楽しそうに打ってる女子のグラビア載せたり、男性棋士等との対談
でも載せちゃえば良いと思うのですが。まぁ知り合いに関係者多いですし、
笑いありの囲碁界情報誌と受け取れば悪くはないかもしれんので、迂闊なこ
とを言ってはアレなんですかね。
一方、囲碁番組だと元 AKB の戸島花さんが現在司会をされておりまして、
私自身 AKB 自体はそこまで好きではないのですが、こういったところに囲碁
を覚えてもらうのは中々良いことだなと思いますね。入口は色々あることと
思いますが、何より自然体で囲碁を楽しむのが魅力的だなと思います!
Q:最後に、プロアマ含めて今後の女流囲碁界に期待することは?
⇒まず、将棋で云うところの竹俣紅ちゃん(※1)のような棋士が現れて欲しい
ですね。知的な感じの美少女でありながらズバッと心を切り刻む感じ、ああ
いうのがたまりません……あ、いや、M でもロリコンでもないですよ? 真
面目な話だと、霊夢と魔理沙の会話でも書いているように、プロの方だと結
構女流がいい線行くようになってきたので、もう本格的に男女混合のタイト
ルに絡むような棋士が、いち早く現れて欲しいなってのはあります。今だと
若手を中心としたナショナルチームなるものはありますが、それに加えて女
子の方でも本格育成部隊を作れば良いのになとは思います。そうした棋士が
活躍すれば、日本でも囲碁がより見直されるようになると思いますし、俗っ
ぽいですが話題にもなりますからね。アマチュアだとそうですね、女性の囲
碁の人ってどうしてもインストラクターだったり、あとは彼氏と一緒にペア
碁なるイベントに出たり、どうしてもその活動が限定的になってしまうとこ
ろはあって。そうした意味で、これ普通のアマチュアでも言えることなんで
すが、もっと棋力の低いところでも楽しめる大会なり、催しごとができるよ
うになって囲碁の魅力を伝えることができたらなという思いはあります。今
の囲碁だと宝酒造が主催者である囲碁大会があり、囲碁とお酒を満喫できる
というものがあるわけですが、その化粧品や美容食品バージョンがあれば、
結構ウケが良いのではないかな?と思ったりします。そこら辺は上手くスポ
ンサーなりパトロンなりを探さなければ難しいでしょうがね。いずれにせよ
囲碁が趣味になり始めた人に、教室やごくごく限定的な社交イベントに留ま
らず、もっと純粋に囲碁に触れ合えるような場ができればね、今後も良い感
じで伸びてくるように思いますよ。
(※1):竹俣紅ちゃんはスーパー美少女棋士で、ニコニコ動画での視聴者に関
するド S 質問など、あの顔でありながら切り込む姿勢はもうたまりません。
ちなみに将棋の女流ですと、井山六冠の奥様は室田伊緒さんで、この方も大
変可愛らしい……他も粒揃いらしくて、故に将棋の方がコメント盛り上がっ
てるような気もします! ただ囲碁の方も、例えば青葉かおり四段や中島美絵
子二段は大人の魅力って感じがして好感持てますし、吉原由香里先生は、42
歳でありながらも未だお綺麗ですよね……流石 CM 出演経験あるだけありま
す。まぁしかし私が望むのは、美人がどうとかよりは(ここまでその話ばかり
でアレですが)、紅ちゃんみたいな『トーク上手で茶目っ気たっぷりな棋士』
ですね。日本でホープが出ることも当然望ましいのですが、こうした親しみ
易い棋士が何人いるかってのも、私としては割と真剣に馬鹿にできない観点
だと思っています。
【あとがき】
いやいや、思ったより文字数が膨れて参ってしまいました。何か途中で挫
折した人も多いんじゃないかな。兎に角、このあとがきに至るまで読んで頂
いた方にはとてもとても頭が上がらないくらいです。…あっ、申し遅れまし
たが私真坂野栄(まさかのさか)という者です。今回は囲碁界がよくわかるよ
うな本を書きたいな~と思い、このような本を頒布させて頂くに至りました。
最近お隣の将棋界の方が電王戦もそうですし、棋士についてもネットで親し
まれてるじゃないですか。だからこそ、東方キャラを使ったライトな感じに
しつつ、囲碁に携わる棋士・文化に馴染みを持ってもらおう……と思うなが
ら随分と私が喋り過ぎてた感がありますね、これは申し訳ないなぁと。
ここからは私の、本当個人的な話。私は 11 歳の時から囲碁を始めていた
訳ですが、非プロ修行経験者にしては頑張ってはいたものの、全国大会で
中々勝ち進むことができないという、何とも中途半端な立ち位置のプレイ
ヤーでした。そしてその中で結構悔しい思いをしてきた訳です。しかしそれ
でもここまで頑張ってこれたのは囲碁界が好きだったから。だからこそ自分
なりに恩返しはしたいな、とも常々考えていた訳です。大学の囲碁界をはじ
め、今まで自分の所属したコミュニティではそれなりのことをしてきたつも
りではあったのですが……正色々と板挟みになることも多く、やり残したこ
とが多くあったなという感触、これがかなりありました。そして今回、ずっ
ともやもやしてもどうしようもない&大学時代からオタク関係の知識を徐々
に深めていったので、えいっ!と出してみようと。結局仕事とか精神的にキ
ツいこともありまして一冊になってしまいましたが、こうして頒布すること
ができて良かったです。以上、懺悔話は終わり!
あーそうだそうだ、今回の本を執筆するに際しての参考資料や手に取った
ものを幾つか挙げていきたく思います。
① WIKIPEDIA
⇒大学のレポートだと怒られそうですが、今回結構参考にさせて頂きました。
思ったより詳しいこと書いているんですよね、吃驚しました。
②囲碁とっておきの話(秋山賢司 文春文庫 1994 年)
⇒プロ棋士のエピソード集です。二手打ちや寝る一手の話なんかはここで書
いておりました。勿論丸写しという訳ではないのですがね、原本を取ればま
た違った楽しさがあると思うので是非
③囲碁文化の魅力と効用(藁科満治 日本評論社 2008 年)
⇒ここに挙げといて言うのもなんですが、この本は極端に使ってはいないの
ですようね……とどのつまり『歴史上囲碁は幅広い層に愛されており、現代
の教育等の場でも応用できる』という、大変興味深い内容ですが。恐らく次
回以降この本の大規模改訂版が出る際には、積極的に使用しようかなと。
④地と模様を超えるもの(趙治勲 河出書房新社 1999 年)
⇒囲碁界が誇るレジェンドである趙治勲先生の本です。先生の囲碁観が満載
の内容となっておりまして、家元棋士の章と長考の章と世界の棋士の章で引
用させて頂きました。この本は棋士の赤裸々な心理面に触れている、数少な
い資料になるかと思います。私としては、囲碁好きを自称する方なら、これ
とジョ衛平九段の『私の囲碁の道(岩波書店 1988 年)』は、こう一般論に当
て嵌まらない魅力を伝えているので、絶対手に取って頂きたいなと。
こんな感じです。囲碁に関しては他にも興味深い書物が多く、是非とも触
れていって欲しいものだなと思います。
囲碁は時間がかかる……というイメージがありますが、携帯ゲームでも、
囲碁クエストといったアプリでも、詰碁といったパズル感覚の問題集でも、
とにかく色々な形で楽しむことができる競技。これをきっかけに興味を持っ
て頂ければ……(/ω・\)チラッ まぁそこまで書いちゃうのはアレですかね
(笑)。相変わらずまとまりが無い文章ですが、今回は締めさせて頂きたく思
います。それではまたいつか!!