第1回 今熊野セミナー 「To Be Human -仏教の

第1回 今熊野セミナー
「To Be Human -仏教の理想的人間像―」
講師 太田 清史 校長
日時 平成 26 年5月 14 日(水)
午後2時~4時
校長 ただいまから本校の「今熊野セミナー」、第1回目を開かせていただきます。この「今熊野セミ
ナー」は基本は私なんですけれども、学校長のほうに委託を受けまして、うちの学校のちょっとした
文化講座として、保護者会の方々を中心に地域の方々等に向けて、いわゆる公開講座として設け
させていただいております。
だいたい私が年に数回担当させていただきますけれども、本年度は大谷大学のほうの教授…、
おもしろい研究をなさっておられる教授お二人に声をかけて、…スケジュール表はいっていますか
ね、まだいっていないですかね、また後半のほうでは大谷大学の先生方にもご出向いただくという
ふうな形で進めさせていただきます。
では、一応、仏教を中心とした公開講座という形をとっておりますので、まずは「三帰依文」と言い
まして、これは仏教徒の証しなんですね、うちの学校では講堂大会をいたしますけれども、その時
には季節によって歌を少し変えますが、1学期の間はですね、この「三帰依文」をインド、お釈迦様
の時代の言葉ですね、「パーリ語」と言いますが、「パーリ語」というのは「聖なる言葉」という意味で
す。「パーリ語」の元になった言葉はお釈迦様の時代のマガダ地方ですね、インドの西北部にあり
ます、そのマガダ地方、ガンジス川のすぐ近くですけれども、その地方の言葉だというふうに言われ
ています。
ですからその場合は「ブッダン サランナンダ チャーミー、ダンマン サラナンダ チャーミー、サ
1
ンガン サラナンダ チャーミー」、初めからそのお話をしておきますけれども、世界中の仏教徒が
仏教徒の証しとして、それはもう、日本であろうと中国であろうと、インドであろうと、アメリカであろうと
…、残念なことにインドには今ほとんど仏教がないんです。それは 15 世紀にイスラム教徒の王国
ができた関係でですね、イスラム教徒はやっぱり、唯一絶対の神しか認めませんから、インドの古
い仏教、遺跡など、ほとんど全部破壊しています。アショカ王の時代にアショカキラーと言いまして、
仏教の教えを、全国三十数本の大理石の大きな柱を立てて、お釈迦様の教えをインド中に広めた
んですけれども、そのアショカキラーといわれるアショカ王の碑文の塔ですけれども、それもほとん
どみんな粉砕してしまいました。
だけどインドのお札を見ますと、あのお札の真ん中にですね、獅子頭、ライオンのですね、三方
を見たライオンの獅子頭が描かれているんです。実はあれがあのアショカ王につけられた、碑の一
番てっぺんにつけられていたライオンのシンボル、エンペリウムです。だからのちにはそういう形で
復活しているんですけれども、仏教はインドにはありません。
その古代インドの言葉で「帰依仏」、ローマナイズしていますけれども、本来はインドの言葉は
「デバナガリ」と言っておもしろい言葉で、仏陀なんかもこういう字で、これで「ブッダ」と読みますけ
れども、これをみんなローマナイズして、今外国では使っていますね。だからまず「帰依仏」、私は
仏なる、「シャラナ」というのはこれは「帰依」のことです。仏なる帰依に私が…、直訳すると「ブッダン
サラナンダ チャーミー」というのは「仏という帰依に私が参ります」、「これで私は仏に帰依します」と
…。
その2つ目は「帰依仏」、その次は「帰依法」、法の場合はこの仏陀ではなくて、うちの生徒、講堂
礼賛の時に学年ごとに2階の講堂で毎週の朝の朝礼の時間にですね、学年ごとに集まってやるん
ですけれども、みんなこれを唱えます。2つ目は「ダンガン サラナンダ チャーミー」、「法に帰依し
ます」、「帰依仏」、「帰依法」…。そして3つ目は「ブッダン サンガン サラナンダ チャーミー」、3
つ目は何かというと「お坊さんたち」ですね、「出家者に帰依します」…。だからこの3つのことを「仏
教の3つの宝」というふうに…。ですから通常、この「三帰依」のことを「帰依三宝」というふうに言うこ
とが多いです。
醍醐の三宝院なんかありますけれども、あれはこの意味です。この三宝、仏法僧の三宝を崇める
ということですね。ですから、仏教徒の証しというのは自らこの仏教の教えを説かれた、お釈迦様を
中心とした、お釈迦様、ならびにお釈迦様がさまざまに説かれた経典の中に出てくる、まあ、「十方
諸仏」というふうに言いますけれども、その仏教の願いをさまざまな表現をもって行った仏ですね、
その仏陀に帰依するというのが仏教徒の証しのひとつになります。
そして2つ目は、その仏陀が説かれた教えですね、壇真というのは…。仏教というのは実は偶像
崇拝は行わないんです。この仏像というものを、特に時代がこのように下がってまいりますと、日本
に入っても奈良とか京都に、鎌倉時代になるともう仏像の彫刻がものすごく盛んになりますね。あれ
はもう、具体的な仏のイメージを形にして表したい、そのことによって信仰の対象になる、ついに
こっちの三十三間堂なんかへ行ったらですね、あれは仏ではなくて菩薩ですけれども、観音菩薩
を千体も作るという、そういう造像文化というのがあの時代は非常に盛んになりましたけれども、本来
はこの仏というのは唯一、お釈迦様だけを指します、仏陀というのは…。
それ以後、お釈迦様の経典の中でさまざまな仏のイメージというのが出てきて、「十方諸仏」とい
われるような信仰が盛んになりますけれども、元々は壇真、壇真というのは法ですけれども真理で
す、真理を悟られます。真理を悟った人、それが仏です。ですからその仏は後にも先にも、生身の
仏はお釈迦様ひとりしかおられない。
ですから、ここで言っている仏陀というのは、そういう意味では「お釈迦様」というふうに限定して捉
えたらいいと思います。仏教の開祖、お釈迦様に帰依します、そしてお釈迦様の教えに帰依します、
そしてそのお釈迦様の教えを私たちに伝えてくださったお釈迦様の仏弟子であるところのお坊様
たちですね、仏弟子、この方々に帰依をします、というのが仏教の、仏教徒の唯一の証しです。
だから世界中の仏教徒が集まって、うちのところ●●●に来ていただいている国は●●●と一
緒にですね、もうひとつ、うちは日の丸は掲げていない。日の丸よりももっと大切なもの、それが仏
教でありますから、仏教のシンボルである五色の旗,仏旗(ぶっき)と言いますが、それを掲げてい
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ます。そういう仏教のシンボルをわれわれの学校は大切にしているということであります。ですから、
仏と法と僧、そういうものを崇めることが仏教徒の証し…、世界中の仏教徒はこの帰依三宝をこの
パーリ語で行います。「ブッダンサラナン ガッチャーミ ダンナンサラナン ガッチャーミ サンガン
サラナン ガッチャーミ」…。
そしてもうひとつの仏教徒の証しは最低でも…、「仏、法、僧」と言いますけれども、これを「三帰
依」、そして生活規範についてはですね、仏教は非常に緩やかです。仏教の場合、最低限私たち
が守らなければならない5つの戒律があります。1つ目は殺生をしない、生き物の命を奪わないとい
うことです。それから2つ目は盗みをしないということです。3つ目は淫らな性生活をしないということ
です。
だから仏教は、出家者は結婚をしませんけれども在家者は健全な家庭生活を営んで、そして健
全な子育てをしていくということは非常に大切なことであります。子どもたちが生まれなかったら仏法
は伝わっていきませんからね。出家者はウジャインじゃなくて、一切の性生活を行わないというのが
出家者の定めになっていますが、在家の人たちは、早い話、浮気をしないことですね。ウジャインと
いうのは…。
そして4つ目は酒を飲まない、これはなかなか厳しいんですけどね。私なんか結構好きですから、
この戒律を解釈する時にはどうしているかというと、これは実際にインドで起きているんですけれど
も、飲んではいけない酒の種類って全部書いてあるんです。その酒というのはどういうものかという
と、例えば椰子酒、椰子の木に傷をつけて、そこから出てくる椰子の樹液を発酵させて作るとお酒
になるんですね。ところがこの酒は雑菌が非常に多いので食中毒にかかりやすいということと、もう
ひとつは樹液の中に活性要素があります、麻薬の要素ですね。ですからこれを飲むと本当に朦朧
としてですね、体を壊してしまうということがあります。ですからそういう意味で「酒は飲まない」という
ことが言われています。
でもまあ、お釈迦様は暑い国で悟られたからこうであって、たぶんお釈迦様が日本に生まれてお
られたら仏教はたぶん大成していませんけれども、もしお釈迦様が日本に来られたら、「ちょっとくら
いはええやろ
と言われたと思うんですけれどもね、私は拡大解釈して使っていますけれども…。
だから東本願寺でも、得度式を行う時にはですね、毎年夏休みのの9日の日に親鸞聖人が出家
された日をだいたい想定してですね、東本願寺、親鸞聖人は夜に得度されたと、夜中にですね、
「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものとは」、わざわざ頑張ってここまで、青蓮院まで
ですね…、青蓮院というのは比叡山の里坊であって、そこには天台座主がおられるわけです。
当時、親鸞聖人が唯一の仏教の出家というのは天台の比叡山の延暦寺に出家するというのが
当時の学情ですからね、天台の学情と言いますか、仏教の大学なんですね、あれは…。国立大学
です。そこへ出家するために親鸞聖人は夜に天台座主のおられる青蓮院に出向かれてですね、
桜の満開の中で、そして「わかりました」と、しかし「今日は夜遅いから、明日の朝にまた出直して来
なさい
というふうに、ある意味、待たされるわけですね。その時に親鸞聖人は思わず自分で、その時の
環境を心の内を和歌に詠まれるわけです。
「明日ありと、思う心のあだ桜」、明日があるというのはだれにも、本当に確かにやってくると確信
ができるでしょうか。「夜半に嵐の吹かぬものかは」、ひょっとしたら今晩大嵐が来て、この桜の花び
らが全部散ってしまうかもしれません、私の命も明日の朝を迎えられるかどうか、それは明日の朝に
なってみないとわからないわけで、どうか、今私が望んでいるこの一瞬に得度をさせてくださいと
言って青蓮院で得度が許されたわけです。だから、真っ暗な青蓮院の本堂でですね、蝋燭の明か
り、少しの明かりのもとで頭を剃髪されたというのが伝説になっています。
それをかたどって東本願寺では、正しくは4月なんですけれども、夏休みには子どもたちが一番
たくさん来ますから、だいたい子どもたちの得度式は8月のお盆前に行います。その時はですね、
親鸞聖人の得度式を再現するために、雨戸を全部閉めて、部屋の中を真っ暗にして、蝋燭の明か
りだけで子どもたちの頭を剃髪、お剃刀(おかみそり)と言いますけれども、剃髪の形をとります。そ
ういうことをしておられます。
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ちょっと話が逸れました。そういうふうにして、出家者の場合には大変厳しい「不飲酒戒」というの
があります。お酒の種類まで決められてですね、絶対飲んではいけないということになっています。
真宗は在家道ですから、お酒を飲むことを…、だいたい真宗というのは普通はお坊さんは頭をみ
んな剃るわけですけれども、禅宗のお坊さんは頭を剃らない人が多いんですよ。これはなぜかとい
うと、親鸞聖人は私たちが救われていくのに、得度と言いますけれども仏門に入らなくても、在家の
ままでも私たちは救われるということを教えてくださったわけです。
ですから、以後、在家道としてやっていく場合に、ですから真宗だけはほかの禅宗や、浄土宗も、
法然上人は親鸞聖人のお師匠様ですから同じことをやられてもいいんですけれども、浄土宗は依
然として昔ながらの、天台宗の古い形の出家形態をとっておられます。法然上人は、親鸞聖人に
結婚をしてもですね、われわれは必ず救われるということをおっしゃったわけですけれども、しかし
ながら、法然上人ご自身はですね、一生独身主義を最後まで貫かれたわけです。しかし、法然上
人の教え子の中には男も女も、結婚しようが、結婚しまいが、すべての者は弥陀の大慈によって救
われるということをおっしゃっているのは法然上人です。
それ以外の、いわゆる「自力教
と言いますけれども、弥陀の救済によって救われるものを「他力教
と言います。仏の慈悲によって救われる教えを「他力
と言います。ところが自分の修行によって救われる教えを「自力」と、これを聖者の道、聖道門… 。
ですから、禅宗であったり、天台宗であったり、こういう宗教は全部「自力教
であると…、聖道門と…。ですから原則、出家をして ニギリキカイタイをしない、ということはです
ね、この聖道門仏教の常でありますけれども…。
禅宗のお坊さんは酒飲みですね、特に独身主義を保っている大徳寺の和尚なんかに出会おう
と思ったら祇園町へ行くのが一番で、本当に酒飲みです。ですから逆に、あの人たちはうまいこと
おっしゃるんですよ、「お酒」とはおっしゃらない、「お酒」ではなくてこれは「般若湯」だと言っている 。
般若というのは悟りのことです。恍惚とした悟りの境地に至らしめてくれるお砂糖だと言われるわけ
です。ですから酒ではなくて「般若湯」と言っていくらでも飲んでいかれますね。
以前、台湾からお坊さんたちが日本にやってくることがありました。彼らはやっぱりね、きちっと「不
飲酒戒」をよく守っているんです。ところが、彼らには脇道があってですね、「不飲酒戒」の中には
先ほども言いましたように、お酒の種類まで決められています。ところがお釈迦様の時代にはビー
ルはなかったわけです。台湾のお坊さんは日本に出張してくると、もうビールをものすごく飲まれま
すね。もう次の日には二日酔いでどうにもならないくらいの量を飲んでいかれた方を私は何人も
知っていますけれども、そういう解釈がありますけれども、仏教の基本的なところは体を壊すほどの
お酒を飲んではいけませんという、そういう戒律だというふうに解釈いただいたらいいと思います。
そして最後は「汚い言葉を使わない」、文言の中身は悪口を言わないとか、二枚舌を使わないと
か、そういうことも含まれています。そういうことだけが仏教徒の証しであります。ですから、日本は第
二次世界大戦が終わった時に、戦争責任をですね、永久戦犯を謝罪させることによって日本の国
をつぶすということが軍事裁判で決まりかけたんですけれども、その時、スリランカの首相がですね
深く仏教に帰依している首相がですね、日本戦争を犯したのは日本人が悪いからではないのだと
…。
それはたまたま縁起によってですね、その仏陀の教えをきちっと彼らが理解することができな
かったからであって、「目には目を」と言われるように、殺生によってですね、国は少しも変わらない
相手を断罪し、戦犯を死刑にしてしまうというふうな、そういう形によっては決して日本の再生は図
れないということで、仏教徒の立場からですね、スリランカの、当時の首相が日本の国の、いわゆる
権力へ非難をし、それによって日本はこんにちのような戦後復興を成し遂げたということがあります。
ですから日本はある意味で、仏教の精神によって救われた国であるというふうにも言えるかと思い
ます。
こういうふうにして、まず仏教徒である限り「三帰五戒」ということを…。ですから仏法というのはい
わゆる王法というもの、国権ですね、王法というのはつまり国王ですね、国の法律ということです。国
の法律よりも仏法というのは上位に位置するものであるということを言っておりますし、上位に位置
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するということはどこまでも、いつでも、どこでも、だれにでも通じる普遍的な価値観であるということ
を、普遍的な教えであるということを標榜して仏教徒は「三帰五戒」によって立つ。それが今、日本
の言葉でここに「三帰依文」という形で今読み上げさせていただいたわけです。
ですから、仏教の三要素というのは仏と、そして仏の説かれた教え、ダーマ、法というのは教えの
ことです。そして3つ目には、仏に帰依をした、仏によって教えを授けられた、仏陀の継承者である
ところの出家者、お坊さんたち、その人たちに帰依をするというのがこの「三帰依文」であります。
では、ちょっと前置きが長くなりましたが、まず、毎回これから、この「今熊野セミナー」ではこの和
文の「三帰依文」を皆さんで唱和して始めるということを定例化させていただきたいと思います。最
初、私が前段の「人身受け難し…」というところを読みます。それに続いて、「自ら仏に帰依したてま
つる」、その3つのですね、「自ら法に帰依したてまつる」まで読んでいただき、そしてまた最後、「無
上甚深微妙の法は…」というのは私が読ませていただきます。それでは「三帰依文」、唱和いたしま
す。
「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
ご唱和ください。
「自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。
願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
ありがとうございました。
それではですね、今日はこういう講題を1回目に挙げさせていただきました。「To Be Human
、「仏教の理想的人間像」ということですね。「To Be Human」というのは本校が、今から十数年くら
い前になりますかね、本校の建学の精神ですが、親鸞聖人が、われわれの学校は東本願寺派の
学校ですけれども、東本願寺、一昨年、親鸞聖人、宗祖が親鸞聖人です、宗祖親鸞聖人の 750
回忌を一昨年、2011 年に迎えました。たまたまその時は東北大震災が法要の始まる2日前に起き
たものですから、急遽、親鸞聖人のご遠忌は「被災者支援のつどい」というふうに名前を変えてで
すね、派手なことを一切排除して行われました。
そういう、親鸞聖人が自分の、法然上人からいただかれた仏教の教え、特に念仏の教えですね 、
「南無阿弥陀仏」と唱えればどんな者も、この世の縁が尽きた時には必ず救われる。必ずこの世の
縁が尽きた時には浄土に往生する、往生というのは「往きて生まれる」、浄土に再生するということ
です。浄土というのは「浄らかな仏の国土」という、もっと言うと、「永遠の安楽世界」ということです。
ですから仏教の場合は、「死ぬ
ということを申しません。「死ぬ
というのは「必ず往生する」ことだと…。どこに往くのかというと浄土に往生すると、「死ぬ」のでは
なくて「お浄土に生まれる」ことは私たちのこの世の縁が尽きた時に起きるのだと…。ところが、一般
の人はそんなことは決して言わないですよね。
キェルケゴールという人が「死に至る病」という本を書いています。彼は 18 世紀のデンマークの
思想家、キリスト信者ですけれども、その方が葛藤の中から「死に至る病」というのを書いています。
この本がですね、ちょうど第二次大戦が終わって、日本に命からがら戦地から帰ってきた、特に学
徒出陣をした学生さんたちによって「死に至る病」という本が本当に読まれました。
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三木 清という人が最初、この本を戦後初めて、戦争で多くの人を亡くした、いったい日本の戦
争な何だったのか、人間にとって死ぬというのはどういうことなのか、ということをですね、このキェル
ケゴールが言うところの「死に至る病」というものを日本語に翻訳をしてですね、これがまた、本当に
生きることの意味を失くしてしまった、学徒出陣をしたような復員兵の方々に爆発的に読まれて、ベ
ストセラーになっております。「死に至る病」というのは前段があって、「絶望は死に至る病である」、
これがキェルケゴールのテーマなんです、「絶望は死に至る病である」と…。
私たちはだいたい、「死ぬ」ということを普通に考えたら、みんな怖いですよね、死ぬのは…。とこ
ろがキェルケゴールは言うんですね、人間的な死というのはたしかに怖いと、なぜならば、それは一
切のものの最後だから…。そんな怖ろしいものに絶対に近づきたくないというのが人間の心情であ
る。しかし、死んでから先の世界というのはわからないわけですよ。死んでから先の世界は浄らかな
仏の心であるお浄土だというのはですね、死んでみなければわからないんです。今までお浄土を
見てきてですね、いいところだったと言って、また帰ってきて教えてくれた人は1人もいないわけで
すね。お浄土は一方通行なんです。だからこれを、浄土は本当に安楽国であるということは、あとは
信心しかないわけです。
キェルケゴールは、人間的な死というのは一切のものの最後だけれども、宗教的な死というのは 、
「死は永遠の生命の内部における1つの出来事である、死の中には無数の希望がある、死は希望
そのものだ
と言っているんですよ。なぜかというと、一度死んだら二度とは死なない、そのことによって死の
恐怖から解放される。死ぬことによって私たちは永遠の生命そのものを頂戴することになると…。
ですから「宗教的な死というのは、死は永遠の生命の内部における1つの出来事である、死の中
には永遠の希望がある、しかし、人間が人間である限り、死は希望だということを知るに至らないと
いう悲惨の中にある」というふうにキェルケゴールは見抜くわけです。死は永遠の生命の内部にお
ける1つの出来事、死の中には永遠の希望がある、しかし人間が人間である限り、死が希望である
ということを知るに至らないという絶望の中にある。
だから私たちは常に望みを絶つわけですね、希望を絶つわけですから、その絶望の中、絶望と
してしか死を考えないけれども、死の世界というのはですね、死後の世界というのは、私たちはたま
たま人間として、この世の生を失くすだけであって、亡くなることによって私たちはずうっとこの地球
上の大循環の、大宇宙を1つの生命体と考えるならば、その生命体そのものには私たちは吸い取
られていくわけですから、命そのものになっていく。しかしそれは、色もなく、形もないんだけれども 、
私たちが亡くなることによって永遠の命そのものになっていくという…。
そういう信仰をですね、キェルケゴールは言うわけであって、親鸞聖人がおっしゃる、その信仰も
全く同じことであります。洋の東西で表現が違いますけれども、そういう世界であります。親鸞聖人
が、自分が発見されたというか、法然上人から授けられた、その浄土往生の教えを親鸞聖人は当
時、関東から京都に親鸞聖人は帰ってこられ、親鸞聖人は法然上人ともども、時の朝廷に逆らった
ということでですね、流罪に遭われるんですね。法然上人の門下のうち、最も直接朝廷に抗議をし
に行った、住蓮、安楽をはじめ、4人の法然門下の人たちは鴨川で六条河原ですよ、ここで断罪に
遭っておられます。死罪に遭っておられます。法然上人と親鸞聖人は流罪になっておられます。
法然上人は土佐に流されまして、途中で帰ってこられるんですけれどもね、実は茨城のほうにあ
る勝尾寺というところに晩年はおられて、最終的には都に戻ってこられましたけれども、親鸞聖人は
越後に流されて、そのあと、流罪が許されてからもですね、さらに新たな経典を求めて関東のほうに
行かれ、そして 65 歳くらいになってからようやく京都に帰ってこられます。その間、「法然上人に会
いたい、会いたい
とおっしゃっていましたけれども、帰ってこられる途中にですね、法然上人はもう亡くなっておら
れました。
そして、65 歳で京都に帰ってこられてから 90 歳まで、この関東に、文書伝道が多いんですけれ
ども、手紙を書いてですね、関東の門弟はじめ、日本中の人々に念仏の教えを伝えていくわけで
す。そのひとつが、例えば「歎異抄」と言われるようなものもその時代に書かれたものです。ちょうど
今、御池中学がありますけれども、御池中学の横に碑が残っています。ぜひご覧になってください 。
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「親鸞聖人遷化の地」という碑があります。あそこで親鸞聖人は最期までおられたということです。
その間に親鸞聖人のもとに常に身の回りのお世話をするために関東からやってきた「唯円」とい
う若い、三十代の僧侶がですね、親鸞聖人の身の回りの世話を細々としながら、一言残らず親鸞
聖人の御教えを聞きたいということでですね、その後、親鸞聖人から伝えられた言葉をまとめたの
が実は「歎異抄」という書物です。
しかしこれはあくまでもものすごく…、「善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや」、悪人が
救われるなんていうことを書いているんですから、これはもう当時の人々に理解されるはずがないと
いうことでですね、これはもう、以後、「禁書」として東本願寺宗門とですね、これは表に出すことは
ならんということで蓮如上人の時代まで封印されてしまいます。それが蓮如上人から、そして蓮如
上人からさらに、江戸時代を越えてですね、明治の初めに清沢満之先生等によってですね、この
「歎異抄」と言われるものがもう一度正しい評価をされて日の目を見るということが起きてこんにちに
至っているわけです。
そういうことで、親鸞聖人が書かれた、その関東にいる間に、当時、法然上人たちを断罪した古い
仏教勢力ですね、天台宗南都、北嶺というふうにおっしゃっていますけれども、北嶺というのは天
台宗ですね、南都というのは奈良の古い仏教、そういう国家仏教ですね、あそこの比叡山の延暦
寺に入られたことはありますか、比叡山の延暦寺というのはおもしろい構造になっているんですよ。
比叡山の延暦寺は根本中堂に行きますと正面に本堂があります。そしてその下にですね、深い
壕があるんです。その壕の下のほう「不滅の法灯」と言われるような、創建されてから今まで消えた
ことがないという、灯の明かりがついています。そして、その仏様と真向いにですね、非常に高い、
仏様と同じ目の高さに、そこに玉座があるんです。その玉座は僧侶のためではなくて、当時の天皇、
もしくは上皇があそこに鎮護国家のために祈願に出かける、その時に座るための玉座があるわけで
す。
ですからあそこを見ると、天皇さんが仏にですね、鎮護国家を祈願する祈願所なんですね、あそ
こは…。ですから、あそこのお寺というのはいわゆる鎮護国家と言いますけれども、国を守るために
作った、ある意味では悪霊封じのお寺、というのが比叡山延暦寺であります。その国家に忠誠を尽
くす仏教で、国家仏教として描かれていったもので、真宗は全くそういう世界をですね、在家道で
ありますから、破壊宗教として、ごく最近まで非常に、国家の中枢からは異端視されてきた、そういう
仏教であります。
その親鸞聖人が、自分たちの仏教の正当性というものを「顕浄土真実教行証文類」、念仏の…、
私たちは死んだら、間違いなくみんなお浄土に往生させていただけると、お浄土に往生することに
よって永遠の命そのもの、それをインドの言葉では「阿弥陀」というふうに言います。「阿弥陀」という
のは「アーミタ」というサンスクリット語です。「ミタ」というのは勘定できる、数えられる、あるいは計れ
る…。これに「ア」という否定詞がつくんですね、だから「無寿無量」というふうに言いますけれども、
私たちの教えというのはその永遠の数えきれない、計り知れない、そういう永遠の命と時間を私たち
は頂戴する、そういうことを浄土経典に基づいて、親鸞聖人は解説をされるわけです。
その親鸞聖人の「浄土三部経
といわれるものの教えと、そしてどのように私たちは修行をしていけばいいのか、修行の中には
日常生活も入りますが、どのような行為をしていったらいいのか、そして私たちがそれに対してどの
ような信心を持っていくのか、そしてそれを生活の上でどのようにして証明していくのか、こういう浄
土の真実を、真実の教え、真実の行、真実の信、そして真実の証し、こういうものをまとめられた一
大書物が「顕浄土真実教行証文類」、訳して「教行信証」というに呼んでいます。
これはもう一大論文で国宝になっています。東本願寺にありますけれども、坂東本の…。もう私た
ちも中はまだ読んでいないんですけれども、別の観点からこの「教行信証」を見るとものすごい本だ
と思います、国宝になっているんですよ。なんで国宝になっているかというと、その思想もさることな
がら、これは親鸞という人のひとつの気概ですね。
私は実は臨床心理士なんですけれども、多くのクライアントさんと、最近こういうような仕事に就い
たのでずっとやっていませんけれども、心理療法の世界で人間の心を時には描画療法、絵に描い
てもらったり、色で塗ってもらったりすることによって、あるいは小さい子どもでしたらバウムテスト…、
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受けられた方があるかもしれないですね、「実のなる木を1本描いてちょうだい」というふうに描いて
みると、木に投影された自己像というものが出てきますから、だいたいその木の雰囲気を見ると子ど
もたちの心のエネルギーがわかってくるというふうなやり方があります。あるいは トケコウテイホウとか
ですね、そういうさまざまな絵を描いたりします。
ところが、この時にはですね、その人がたとえば強い…、どんな筆圧でその絵を描いているのか
ということに注目します。なぜかというと、筆圧というのは私たちの心のエネルギーの発露として描か
れるものがあります。だから強く描いているのはものすごくそのことに対してエネルギーを使ってい
るということですね。か細い線を描いているとやっぱりエネルギーが枯渇しているというのが一発で
わかりますね。
私たちはその人たちの描画療法をやった時にそういう筆圧、どのくらいのエネルギーで字を書い
ているかということに注目するんですけれども、そのエネルギーの出し方がいつものことなのか、そ
れとも今無理をして書いているのか、そういったことを判定するために必ず終わったら、その描画を
していただいた紙の裏に名前を書いてもらいます。だいたい 2B の鉛筆で…。
名前というのは皆さん、ほとんど毎日どこかで書かれますでしょ。自分の名前を書く時には最も私
たちのノーマルな心のエネルギーがその書体になって現されるというふうに考えます。ですからそ
の名前に照らし合わせて実際の絵や文字や何かを見ていると、この子が今無理をしているのか、そ
れとも手を抜いているのか、エネルギーがかすれているのか、というようなことがその色の濃さや筆
圧によってよくわかるということがあります。
その観点でこの親鸞聖人の六巻の「教行信証」を見ますと、中身のことよりもですね、実は一緒
にその時に、京都大学におられた山中康裕という、臨床心理学会の代表をされた方で京大教授と
して私たちもお世話になった方なんですけれども、その山中先生といっしょに急がれた、 ホリヤスさ
んの門徒でしたから山中先生は…。本物を見た時にですね、山中先生がおっしゃるのは、「まあ、
すごい」と…、「何がすごいんですか」と言ったら、「いや、頭尾が一貫している、書き出しから書き終
わりまで、1行の文字のたわみもない」と…。
つまり親鸞聖人の自分の渾身の気概をもってこれを書いていた。そして本文のところには冗漫な
感情の発露とかはほとんど書いていない。一種の論文なんです。これは自分たちの浄土経の、「念
仏浄土、これ真宗」と言われるようにですね、念仏によってすべてが救われるという、この魂の教え
の正当性をこういう4つのシャッカンに分けて書いておられる。そこには何のぶれもないわけです。
だから、すごいこと…、だからやっぱり親鸞聖人は自分ではおっしゃらないけれども、そういう意
味ではやっぱり天才と呼ぶにふさわしい人なんですが、その親鸞聖人が1箇所だけ、自分の気持
ちを書いておられるところがあるんです。その気持ちの中にこの言葉が出てくるんです。これはその
気持ちを書いておられるところを、「教行信証」の一番初めを創序言って、全体の序文が…、そして
全部書き終わられて、一番最後に自分がこれを書き終わった、その感慨を吐露された後序の部分
があります。その後序の中にですね、この言葉が出てくるんです。
これは「心を弘誓の仏地に樹て…」、樹立するということです。そして「念を難思の法海に流す」、
「心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」、これは親鸞聖人の信仰告白となっているんで
す。私の信においては自分の心をこの広大な仏の誓いの大地に樹立させ、樹たせてですね、そし
て自分の思いはこの「難思の法海」、「難思光仏」と言いますけれども、これは阿弥陀仏の世界、阿
弥陀仏の浄土のことですが、自分たちの思いをこの教えの海の中に流して…、こういう信仰告白を
言っておられるんです。
この親鸞聖人の信仰告白の、この言葉をわれわれの学校は初代校長、清沢満之…、昨年に生
誕 150 年を迎えましたけれども、実際は清沢満之先生は東本願寺の特待生としてですね、もともと
は在家でしたけれども、非常に勉強熱心な方で名古屋の岡崎のほうの貧しい農家に生まれられた
んですが、非常に学問をしたいということで、東本願寺が別に出家、在家を問わずですね、東京留
学をさせる、そういう宗門人を育てたいということで募集されたところ、清沢先生はそれに採択され
てですね。そして宗門の名を担って東京大学で学ばれ、その後、進路としてはもう一高の教授にな
られることが決まっていたんですけれども、東本願寺のほうがこの大谷中学を府のほうから経営を
委託されるわけです。
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ですからうちの学校は最初は公立なんです。京都府が新しく、府に財政がありませんから、財政
を東本願寺に委託をしてですね、そして京都尋常…、あとは尋常中学になりますけれども、最初は
小教校と無理に呼んでいますけれども、その公立の学校を作るにあたり、東本願寺にその経営を
委託するわけです。
なんで東本願寺に委託したのかというと、実は東本願寺は徳川時代、長い間ずっと徳川方につ
いていたわけです。東本願寺は徳川の庇護によってですね、徳川 300 年、400 年を生き延びてき
た部分があります。ところが、ご承知のように明治維新によって徳川幕府は禁門の変によって完全
に断罪をされるということがあって、その明治の終わりに、いわゆる京都の禁門の変があって、蛤御
門から出た出棺をですね、私はすぐ近くに住んでいるんですけれども、真ん前に徳川家の、水戸
藩の藩屋敷、藩邸があったりしますけれども、それも全部燃えているわけです。
ただ、あれは失火だと言いますけれども、あれはたぶん、そういう旧体制を焼き尽くすためにです
ね、どうも新政府側が煽ったのではないかというふうに私は推測しています。それが証拠に、西本
願寺はその当時、今テレビでやっていますけれども、官兵衛、「軍師官兵衛」の中で西本願寺は
ずっと毛利方の庇護を受けています。毛利はずっと本願寺を支えてきてですね、中央と対立してき
ましたけれども、ですから西本願寺は長い間焼けていませんからね。
安土桃山、秀吉によって今の地に移されましたから、そういう体制側にありましたから、西本願寺
は毛利方の人たちをたくさん預かっていたということもあって、あの火事では焼けていない。東本願
寺は完全に燃えてしまった。たぶんその背後にはですね、やっぱり幕府方に加担をしていたという
…、これはあまり皆さんご存知ないことですけれども、東本願寺の、今の建物ではありせんが、前の
焼けた建物の時代には東本願寺の一番北側、今宗務所のあるあたりですけれども、あそこに東照
宮がありました。家康が祀られています。そういう関係があったものですから、そのこともあって明治
新政府になった時に禁門の変で焼けてしまったのであろうというふうに思います。
そういうこともあって、清沢満之先生はですね、東本願寺から派遣をされて、国の事業にお金も
人材も一緒にしてですね、この大谷中学の前身であった尋常中学の経営を任されるわけです。そ
して間もなく、この学校は結局東本願寺に経営を、いわゆる私学として、東本願寺がその経営を引
き継ぐということになってこの地に移ってきて、となりの一橋小学校も元々はこの学校の土地なんで
す。これも向こうから、府のほうから頼まれて、小学校にこの土地を割譲しているんです。割譲した
時の証文があったはずなんですが、それがないんですよ。一時期、私のところもこれを返してもらお
うと思ってですね、その証文を探していたんですけれども見つからずに、結局、また新しい大きな学
校が基地になってしまいましたけれども、そんな謂れがあります。
その清沢満之先生がこの大谷中学の初代校長として、僅か 26 歳で校長として東大から派遣をさ
れて来られた時に、一番最初に生徒会につけられた名前がこれなんです。生徒会に「樹心会」とい
う名前をつけられました。「樹心会」の名前はうちの生徒会として戦前まで使われていましたし、戦
後、私がいたところなんですけれどもとなりに特別奨学生の全寮制の「樹心寮」という、特別奨学生
寮を親鸞聖人の生誕 800 年の時にお作りになりました、広小路先生が…。私の第1期生なんです。
その時に「樹心寮」の生徒会にもう一度この「樹心会」という名前をつけるということをしてですね、
今うちの講堂にも「樹心」という建学がかかっていますし、「樹心寮」の仏間にも「樹心」という額を今
掲げています。この言葉にはものすごく大きな意味がある。出どこは親鸞聖人の信仰告白の中に
出ている言葉です。
だから、心を広大な弘誓の仏地に樹てる…、今日、お話をしようと思ってこの「To Be Human」と
いう言葉は、実はこの「樹心」という言葉を「To Be Human」というスローガンに十数年前から使って
います。よい訳だと私は思います、「To Be Human」というのは…。「人間になる」ということです、
「To Be Human」…。その「人間」というのはどういう人間なのかというと、親鸞聖人がおっしゃる人
間というのは、大分前段で1時間を使ってしまいましたが、今日、あと 30 分以内には終わろうと思っ
ていますが、その今日のテーマが「To Be Human」、「仏教の理想的人間像」というふうに書かせ
ていただきました。
仏教の理想的人間像を表す言葉がこの「心を広大な誓いによって作られた仏の大地に樹立す
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る」ということですね。仏教の世界で仏…、この仏というのは、普通私たちは仏像という、人間的な姿
を持っているものを仏というふうに感じますけれども、人間の、人間であるところの仏陀、「仏
というこの漢字には意味がありません、これは中国が、いわゆるパーリ語やサンスクリット語をです
ね、インドの言葉を中国語に翻訳する時に2通りの方法をとりました。
1つの方法は意訳という…、意味の上から翻訳するということです。もう1つのやり方は音訳という
方法です。だから、意味の上からぴったりくる中国語、あるいは日本語がない場合はですね、もうこ
の言葉の発音だけを音にして表す、そういう字を使おうと…。仏、この字は新しく作られた字ですけ
れども、元々は祖師、仏とか法主とか言いますね、だからこの「仏」という言葉は仏陀…、仏陀という
のはこれはインド、ヨーロッパ語族、だいたいインドで発生した言葉がヨーロッパの言語、英語なん
かに伝播していきます。
インド、ヨーロッパ語族は必ず、これはルーツで囲ってあるんですけれども、これは語根という意
味です。言葉のルーツです。この「ブドゥフ
、「ブドゥフ
という言葉の動名詞が「仏陀
です。「ブドゥフ」というものの状態を表している名詞が「仏陀」です。「ブドゥフ」の元々の意味は
「悟る」という意味です。だから「仏陀」というのは「悟った者」、あるいは「目を見開いた者」、それを
「仏陀」というふうに…。この漢字にはほとんど意味はありません。中国の人たちはこの漢字が仏陀
という発音に一番近いからたまたまこれを当てただけにすぎないということです。
元々は「仏陀」、これは「悟った者」、「悟れる者」というのが仏様です。何を悟ったのかというと真
実を悟ったということなんですね。生身の人間でこの世の真理を悟った人というのは後にも先にも
ゴータマシッダールタ、いわゆるお釈迦様たったひとりです、仏教の 2500 年の伝統の中で…。生
身の仏陀、正真の仏陀というのはお釈迦様ただひとりです。それ以後、仏弟子がたくさん出てきま
すし、古い経典を見ると仏陀と同じ境地に到達したという表現が結構書いているものがあります。
私はずっとその研究をしてきています「阿含経典
ということですね、アーガマというのはお釈迦様、仏教の伝承という意味です、アーガマ…、それ
を阿含経と言っています。だから今の●●●阿含経というのは全然解釈が違うんですけどね。最も
古い、仏陀自身の思想を表現したものが阿含経ですけれども、アーガマそのものは「伝承」という意
味ですから、その阿含の教えを説いたのは全部このお釈迦様です。仏陀です。仏陀は悟ることに
よって、ある意味で人間を超えるというか…。
のちに仏様はいろんな形で描かれますけれども、例えばいろいろ仏像はたくさんありますけれど
も、仏像の性別はわかりますか、皆さん…。奈良の大仏様は男ですかね、観音菩薩はどうですか、
もちろん後には日本で仏様、大乗仏教の中では仏陀を作る時には仏陀の三十二相と言って、お顔
の表情だけでも 32 通りのチェックポイントがちゃんとあるんです。それを満たしていないと仏像では
ないと言われるんですけれども…。
これからあと、ちょっとお話しますけれども、仏というのは性を超えた存在です。言い方を変えると
「両性倶有」です、仏様というのは…。唯一、お釈迦様だけが男性の仏様です。しかしたぶん、お
釈迦様はこの悟りの境地に入られた、すべての真理を悟られた時にですね、ある意味でも自分自
身の性を超越した世界に行かれたと思います。だからお釈迦様の御教えの中には一部ありますけ
れども、いわゆる普遍的な教えを、お釈迦様の教えは「対機説法
というふうに言われます。「対機」というのはキコン、人間のことです、これは…。一人ひとりのキコ
ン、一人ひとりの人間のパーソナリティに向かってですね、わかりやすいように教えを説いておられ
るんです。
だから必ず、お経を読むと一番先にはですね、お釈迦様は「六成就
と言って、6つの条件が必ずそこに、最初に載せてあります。「如是我聞
というもので大抵始まるんですけれども、「如是我聞
というのはお釈迦様の教えを遂行していた阿難とか、舎利仏とかいう、お釈迦様の十大弟子が
ちゃんと聞くわけです。その人たちが、お釈迦様がずっと説法をされた、その言葉を、耳に残って
いるものを全部書き写したものがお経だと…。だからお経の一番最初は、大乗経典はみんなそうな
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んですけれども、如是我聞、「かくのごとく、われ聞きん」、この「我」がある時は随行していた阿難尊
者であったり、木蓮尊者であったり、舎利仏尊者であったり…。
だから真宗の、例えば阿弥陀経なんかをお読みになると意味はわからないんですが、何度も
「シャーリーホー、シャーリーホー」と出てまいりますでしょ。あの「ナン、シャーリーホー」というのは
「そうだ、舎利仏せよ」と言って、舎利仏という自分の弟子に対して語っておられるから、その人に向
かって作られたのが、例えば「仏説阿弥陀経」といわれるようなものです。もちろん阿弥陀経は時代
的にもずっと後で作られたものですけれども、その作者がお釈迦様に仮託してですね、自分がある
時に舎利仏に対して語られたんだと…、とかいうものですね。
それ以外では「ダーラ」と言って、「自聞自説経
というのがあります。お釈迦様はある時、ふと自分からお話になったという、そういうものを周りの
人たちが聞いてきた、そういうものもありますが、そういう、「如是我聞
で始まるのは「お経」と言われるものです。そのお経を説かれたのは、これはもうお釈迦様だけで
す。生身のお釈迦様だけです。のちに、そのお釈迦様がお説きになったさまざまな経典、実はのち
に全く新しい仏教運動が広がってですね、いわゆる大乗仏教運動というものが広がる。
大乗仏教の場合には男も女も救われるというふうなことで、元々仏教の教団は最初は男も女もい
たんですけれども、途中から女性の教団はですね、あまりにも生活に対する戒律が厳しい…、例え
ば女性は出家をする場合に、男は出家をしたらすぐに最初に沙弥式をやって ステティックになると
いうのはニティンでできるんですけれども、女性の場合は比丘尼になりたい、出家したいとおっ
しゃっても、それからあと、少なくとも1年間は待たされます、シッカマーナ…。
それはなぜかというと、その1年間の間に妊娠の可否を確かめるためなんですね。教団に入って
そういうチャインによって生まれた赤ちゃんが教団のコウセイになるということは許されませんから、
やっぱり独身であるということですね。それを確かめるためにわざわざ1年間待たされるわけです。
そして共同生活を出家者としてやっていきますけれども、男性はだいたい 250 の戒律が、いわゆる
教団の生活ルールとして、250 くらいの戒律が課せられます。その中に、先ほど言ったような「酒を
飲むな」というようなものがあるわけです。
ところが女性の場合はさらにそれよりも 100 以上多い、350 ほどの戒律が課せられます。それは
やっぱり女性の生理的な現象に根差してですね、例えば生理中の始末をきちっとしろとかですね、
そういうふうな意味で、女性に対する糧が非常に厳しくなりすぎてしまったので、ついには女性の出
家者集団は仏陀が亡くなられてから三百数十年後にはこの世から消滅したということなんです。
だから日本でも尼さんがおられますけれども、あの尼さんたちはインドの仏教から言えばですね 、
あの人たちは偽物だということなんです。ところが、尼さんが登場してくるのは、これは日本の、最澄
が中国から持って帰ってですね、いわゆる大乗会、お釈迦様の原始仏教の時代ではなくて、もっと
すべての人が救われてもいいのではないかという、大乗仏教運動、すべてのものを大きな乗り物に
乗せてこの岸から向こう岸へ行こうよという大きな乗り物、そういう大乗仏教運動が起きた時に、新た
な大乗会というのが作られてですね、その時には女性も男性と同じく出家になれるという、そういう
認可がなされるようになって…、ですから男性を超えて復活したのが女性の出家者集団であります。
そういうことで、仏というのは人間仏陀というのは唯一、お釈迦様だけであります。しかしそのお釈
迦様も悟られてからあとはですね、いわゆる性差のある人間という境地を超越した境地に入ってい
かれたということで、そういうことを悟ったというのは人間のそういう差別の世界を超越したという、そ
ういう意味も含まれて仏陀についになられたわけであります。
仏様の教えというのはそのようにしてずっと日本まで伝えてこられたわけで、親鸞聖人は自分の
信仰をこういう、「教行信証」を書かれた時に自分の信仰告白として、私はこの自分の信心というも
のを広大な仏によって誓われた、すなわちこの「弘誓」というのは、「大きな誓い」というのは何かとい
うと、これは何人であろうと、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」、「南無阿弥陀仏」、念仏というのはこ
の阿弥陀のある仏にどこまでも…。
「南無」というのは、インドの人たちの挨拶の言葉をご存知ですか。インド、ヒンズー語での挨拶…
「こんにちは」は…、「ナマステ」、この「南無」というのは「ナマステ」、「ナマ」、「ナマス」、この漢字に
は意味はありません、「南無」というのは「ナマス」、この元々の語根は、ルートは「ナマス」ということ
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です。「帰依する」ことを「ナマス」と…。あとに「ナマステ」というのはヒンズー語で「あなた」と…、だか
ら「ナマステ」というのは「あなたを尊敬します」とか、「あなたを帰依します」と…。それがインドの挨
拶なわけです。ですから、親鸞聖人がおっしゃる、日本の浄土教の仏教がおっしゃる、この念仏と
いうのは「南無阿弥陀仏」、「阿弥陀なる仏に絶対帰依します」という…。
ここで問題があって、先ほども申しましたように仏教の中で唯一生身の仏というのは釈迦牟尼仏
陀、唯一ただおひとりだけです。それ以後、ことに大乗仏教になってですね、さまざまな現象に対し
て日本の、インドや中国の人々はですね、さまざまな真実の現象に対してそれを仏というふうに見
ていきます。これがいわゆる天地創造というような、いわゆる創造主としての、そういう、ユダヤ教を
はじめ、キリスト教をはじめ、そういった世界七大宗教と言うならば、キリスト教やユダヤ教というのは
基本的に、キリスト教もユダヤ教もおっしゃっている神様は唯一絶対の神です。だからエホバの神
であり、これをラテン語で言えばゼウスの神であり、中東の言葉で言えば「ヤホー」…。
エホバでもヤホーもゼウスもみんな同じ神です。それはキリスト教の最初の創世記に出てまいりま
すように、初めに光あり、神はそれから1週間かかっていわゆるエデンの園をお作りになり、そして
最後はアダムを神の御姿にお作りになった。そしてアダムの肋骨を1本取ってですね、それと「土く
れ」からアダムの妻であるエバをお作りになった。そういう創造神話として、キリスト教の世界の、い
わゆる造仏主としての存在が、いわゆるキリスト教の場合の神様であります。
ところが仏教の神様はそういう「物」は一切作っていない。私が初めに光あれ、だから日曜日で
しょ、それは…。光…、そして次の日にお月さんを作ってですね、火を作って、水を作って、木を
作って、そして金属を作って、そして土くれを作って、そして1週間が完成して、最後に人間を作っ
たわけです。それがキリスト教の、創造宗教というのはそういう世界です。
ところがお釈迦様は唯一の仏ですけれども、仏教の仏様は何も作っていないんです。仏教の仏
様は何をされたかというと、われわれは今、そのお釈迦様が作られた無数の諸仏の中のひとつ、わ
れわれは阿弥陀様を信仰していますけれども、阿弥陀様というのはいったい何かというと、これは
阿弥陀という、阿弥陀様というのはこれをサンスクリット語で書くともっと違う字ですけれども、これは
ローマナイズ、「アーミタ」、「ミタ」というのはですね、これは「数える」という意味です。
これに「ア」という否定詞がついていますから「アーミタ」のあとに無数のワーゼ、これは「光」です 。
「アミターユ」というのは命あるものです。阿弥陀仏というのは実体としての、そういう、キリストが作っ
たような「物」ではなくて、ひとつの法則…、だから阿弥陀仏のことを漢文ではですね、「アミターユ」
というのを漢文では「無量寿仏」、「無量光仏」…、すなわち光というのはこれは空間ですね。無明
の広がり、これは時間です、「寿」というのは…。無限の、永遠の時間、そして永遠の空間、それをこ
の光と、命というのはこれは寿命と言いますが光と命に象徴させている…。
だから「阿弥陀」というのは何かというと、この時空に遍満している私たちの命のルーツ、皆さんの
命は、私は生徒にもよく聞くんですけれども「何歳ですか」、「 16 歳」とか言っていますけれども、そ
れはみんな生まれてからの命であって、みんな生まれる前はどこにいたのか、お母さんのおなかの
中に…、おなかの中に何日いたのか、その時のことを知っているかというと「知らん」と…。おなかの
中には 40 週いると、40 週前のあなたはどこにいたの? ひょっとしたらお父さんとお母さんの両方
にいたのかなあ…、「そのお父さんとお母さんの命はどこにあったの
と聞いてみると、ずうっと遡っていくわけです。そういう永遠の命のことを「無量寿仏」というふうに
言います。
そして、これは宮沢賢治なんかも、彼は非常に法華経という経典ではありましたけれども、彼の家
は非常に篤信な浄土真宗のおうちです。私もずっと賢治研究をしていましたけれども、探っていくと
宮沢賢治の信仰というのは最後、清沢満之先生の一番弟子であった暁烏 敏という人間からです
ね、宮沢賢治のお父さんは毎年、むかし明治の初めに三陸の大津波があってですね、その慰問に
宮沢賢治はコウコウドウというところから、暁烏 敏は清沢満之たちの命を受けて東北の慰問に行く
わけです。
その時に初めて花巻の地に訪れて、そして当時非常に篤信で念仏門徒であった宮沢賢治の父
親の宮沢政次郎という人に受け入れられて、そして彼からまたアダダマサシとかいろんなそういう念
仏者の系をたどって、暁烏 敏はその東北の慰問からですね、宮沢賢治が成人するまでほとんど
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毎年東北に行って、そして宮沢賢治の家を会場にして、あの奥に大沢温泉という古い湯治場があ
りますけれども、その湯治場でですね、毎年、「我が信念」講習会というのをやっています。清沢満
之先生の「我が信念」をみんなで読む、そういう講習会を若い暁烏 敏がまだ 30 代ですね、毎年
行ってやっています。
その教習のひとりに、写真に残っていますが、今花巻の奥の大沢温泉の大きな湯治宿ですが、
そこに行くと暁烏 敏を中心に宮沢賢治の父親と、その横にポツンとですね、当時9歳の宮沢賢治
が立っています。宮沢賢治が言っている「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」というのは本当に念仏の教
えそのものの表現であります。そのことをのちに、一時期法華経にいきますけれども、彼の信仰とい
うのは本当に仏教の阿弥陀信仰だというふうに思っています。だから、彼は人間のことをですね、
「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」というふうな表現をして
います。
そしてもう一方では、「わたくしといふ存在は因果交流電灯のひとつの青い照明です」と…。「因
果」というのは原因があって結果がある、これは時間的に私たちの過去に遡りますね。「有機」という
のは、だから、これはあるアメリカの哲学者も言っているんですけれども、わたくしという存在を系図
の上で言えばですね、1人から2人に分かれ、また2人に分かれ、2人に分かれして、こういう系図
が網の目のように広がっているわけですね。
この網の目を見ると、この時間というのは「因果」ですね、原因があって結果がある、しかし私の
存在が、仮に「絆」という言葉が震災以後ずいぶん言われていますけれども、「絆」なんて、言うまで
もなく、「絆」というのはあれはあまりいい言葉ではないんですね。あれはやくざの親分と子分の絆、
命をかけた一蓮托生の、そういうものを「絆
と言います。もっといい言葉で言うと「つながり」とかですね、仏教の言葉で言うと「自他一如」とか
ですね、そういう言葉のほうが東北の人たちに対する私たちの思いをもっとうまく表すことができると
…。
そういう「自他一如」のつながりを考えてみると、この父から子へ、子から孫へという、こういう時間
経由を 90 度転回させて、私たちが天井を向いているようにすると、この中に非常に無数の人間が
ありますけれども、この人間はどこかでみんなつながっているわけです、網の目のごとく…。これを
無量、この時間のことを無限の光、そしてこのつながりのことを無限の寿命、というふうに仏教の場
合、特に阿弥陀仏というものを、「阿弥陀」というのは無限という意味ですが、無限は何によって無
限なのかというと、時空を超えた存在であるということです。宮沢賢治はそれを「因果交流」であり、
「有機交流」であると…。縦に見るのと上から見ていくのとですね。
私たちは必ず、だれひとりもとりこぼすことなく、すべてが命の始まりから今に至るまで一度も断ち
切られない、ぶっ続きの命を生かさせていただいている、その命が今私たちの人間社会、地上に
いるあらゆる生命体と私たちは全部過去にどこかでつながっている。私たちはこういう網の目の中
の結び目のひとつにすぎない。私たちはあらゆる人々とみんなつながっている。
だから私は時々変なことを言うんですけれども、親鸞聖人がおっしゃるんですよ、われわれ人間
存在というのはみんな「世々生々の父母兄弟なり」とおっしゃるわけです。生まれ変わり、死に変わ
りするけれども、ある時は父であり、ある時は母であり、ある時は兄弟であると…。そうでしょ、私たち
も「他人」だというけれども、遡っていったらどこかでつながるわけですよ。そうしたら、だれかの兄弟
が私のとなりにおられるかもしれないし、その人は直接横のつながりはないけれども、何代か遡って
いったら、まさに私と血を分けた仲間だという、そういうことになる世界が「阿弥陀」といわれる世界で
す。
仏教の、私たちが「To Be Human」と言っている、この仏教のとらえる人間観というのは「阿弥陀
なる人間」なんです。ということは時間や空間を超えて、どこまでもつながっている、そしてどこまで
も生かされている、そういう人間なのである。私たちが生きているというのは、そういう意味でこういう
時間と空間ですね、その時間のことを親鸞聖人なんかは「無量寿」というふうにおっしゃいます。そ
して空間のことを「無量光」と言います。そういう命を私たちは生かされている。そういう命として「 To
Be Human」、そういう生かされている命に目覚めていこうと…。
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清沢満之先生はそのことを親鸞聖人が「教行信証」を書かれた一番最後の信仰告白の部分に
おいてですね、「心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」、私たちの心というもの、心のあ
りかを自分たちのエゴやそういうものに樹てるのではなくて、この無量寿、無量光なる命によって生
かされている自分である、支えられている自分である、つながっている自分である、そういう命の一
部の役割に目覚めてですね、どこまでもこの世の中で人間として、自分のため、人のために生かさ
せていただこう、というのが親鸞聖人の信仰です。
私たちの学校はそういう念仏の、宗祖親鸞聖人のですね、その樹心の願いというものを「To Be
Human」という言葉にして語らせていただいている。何が言いたいかというと、先ほど申しましたが
神様、仏様、日本の八百万の神々もそうなんですけれども、あのようにわれわれは仏様の中にそう
いう創造主、唯一絶対の神というふうなものとして、私たちは創造主を崇めるのではなく、いわば、
「無量寿」、「無量光」なるもの、その生かされている現象、経験、そういうものに対して私たちは深い
信仰を抱き、同じ、そういう生かされている今日を生きておられるうちの生徒さん、ということのなか
でですね、同じ人間として互いに敬意を持ち合いながら、すなわち仏様ですから、生きておられま
す、仏の命をみんな一時期預かって生きておられるわけで、この世の縁が尽きたらもう、生死のな
い永遠のお浄土に行かれるわけですから、浄土に行かれる方を私たちは今お育てさせていただい
ているんです。だからその浄土の芽をつまんではいかんわけです。
どこまでもこの世の中で、本当に自分のため、人のためにですね、自分が本当に浄土往生させ
ていただくために最大限のつながりを活かしてですね、そしてこの世の縁尽きる時には安住の浄土
ですね、もう二度と帰って来られない、そういう世界に喜んで往生させていただける、そういうお方を
われわれは育てさせていただいている。それはもう、われわれの学校の、これは使命です。使命と
いうよりも、われわれの義務であり、責任である。そういう学校が大谷中学高等学校です。そのこと
を初代校長の清沢満之先生は「樹心」、「To Be Human」という言葉でわれわれに諭してくださっ
ているわけであります。
大谷は、自分でもいい学校だと思いますけれども、何がいいのかというと単に世間を見ていない
ということですね。この子たちが死んでから先のことまで、私たちは関わらせていただく、そういう学
場として、いわゆる念仏の学場としてこの学校は存在する意義というものを持っているということを…。
今日はまあ、予定したところの入口しかお話できませんでしたけれども、持っているということをお知
りいただいてですね、また本校の教育に対してさまざまなご支援をいただければ結構ですし、もし
も今申し上げたようなことから逸脱するような行為が本校の中で見られた時には厳しくご指摘くださ
い。
「自他一如」と言われるような世界にいかせていただく、その中で差別や非難、中傷、暴力事件と
いうのは起きない構造になっているはずなんです。それが起きているとすると、私たち自身のこの
建学の精神の理解が非常に不十分であるということになってまいります。どうかご意見をまた届けて
いただきますようにお願いを申し上げまして、本日は終わらせていただきたいと思います。大変あり
がとうございました。
一応これも仏教の会でありますので、最後はここにあります、「恩徳讃」という、親鸞聖人が自分
たちの生かされている命の喜びを書かれた「和讃」と言いますけれども、「和讃」の一節であります。
それを唱和して終わりたいと思います。では一同、合掌していただきます。最初の出だしだけ私が
申しますから、続いておっしゃってください。
「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし」
ありがとうございました。次回は大谷大学のほうから講師を招請する予定でありますので、またご案
内させていただきますのでお越しください。
終了
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