IV リーザー氏講演会記録 「法、道徳、テロリズム」 バートン・M・リーザー 翻訳:竹村和也(同志社大学嘱託講師) (本講演は第一部「法と道徳の関係について」、第二部「テロリズム」という構成で準備されていたが、 実際の講演は第二部のみについて行なわれた。ここでは準備された原稿全文、及び会場での主な質疑応 答の要旨を掲載する。) I. 法と道徳の関係について 「道徳を立法化することはできない」とよく言われます。そのような主張は、法を知っ ている者なら証言できるように、全く誤りなのです。最も単純な証明は法体系を参照する ことです。全てではないにしても、法体系の中のかなりの部分は、道徳的な考慮に基礎を おいているか、少なくとも何らかの道徳的な目的を推し進めることが意図されています。 刑法の場合に、このことが最も明瞭となります。刑法は実質的に社会の道徳的な姿勢を具 体化しています。しかしその他の分野においても同様であって、法律は一定の道徳的原理 を強化したり、永続させるために設計されているのです。このことは、立法府の決定の賢 明さについて普遍的合意があるということを意味するものではありません。逆に、立法を 行なう者の多数が不道徳だと考える行動に備えるために新しい立法が設計されるという、 まさにその理由によって、その立法は大きな問題を孕んでいるのです。誰も行なっていな いことを禁止する法律をつくる者はいない、ということは自明の理です。かなりの数の人々 の行動により、立法者の嫌悪が喚起され、社会を蝕む影響だと思われるものに対処するよ う迫られるからこそ、立法者は行動することを強いられるのです。 例えば最近ニューヨーク州では、同性愛に反対することが州の強力な公共政策であると、 できるだけ明確かつ効果的に宣言することを目的として設計された法が州議会により制定 されました。同性愛者の生活様式を取り入れる者が誰も 誰もいなかったなら、このようなこと 誰も はされなかったでしょう。彼らがそうしたのは、非常に多くの 非常に多くの人々が、いわゆる「ゲイ」 非常に多くの とレズビアンの生活と呼ばれる生活を送っていたからです。彼らはさらに、同性間の「婚 姻」、または(時に呼ばれるように)「コミットメント」が認められるよう求めていたので す。そのような関係は、いったん正式なものとして認められれば、その間柄になった者に、 異性間の夫婦が享受するのと同じ特権を与え、従来のやり方で結婚した夫婦に適用される のと同じ責任と法的制約とが課されることになるでしょう。 この問題は特に緊急の問題となってきています。なぜなら、ハワイとヴァーモントの2 つの州が、一定の形式のゲイとレズビアンの結婚を司法的、立法的に承認するという方向 に向かっているからです。アメリカのそれぞれの州は非常に大きな自治権を持っており、 教育、保健、公共道徳、州に関わる問題を含む、いわゆる行政の権能については特に大き な自治権を持っているのですが、合衆国憲法のある条項(「十分な信頼および信用」条項) の下では、州は他の州の法律に十分な承認を与えねばならないのであって、そして求めら れれば、他の州の法律を同じように強制しなければならないのです。 1 この非常に厳格な憲法上の原理には幾つか例外があります。最も重要なのは公共政策に よる例外です。つまり、 〔ある州での〕最初の事例において争点となっていた慣行が別の州 で争われることとなり、その慣行を禁止する強い公共政策をその第二の州が持っている場 合には、その州の裁判所は最初の州の判断を強制する必要はないのです。このことは、公 共道徳に関わる場合に特に当てはまるのあり、そして私的道徳の場合でさえそうなのです。 だから例えば、もし強制執行のための裁判が行なわれる州(forum state) 2 が賭博や売春を 禁止する非常に厳格な公共政策を持っていれば、その州の裁判所は、賭博の負債や売春婦 の雇用に関する他の州の判決の強制を拒否できるのです。しかし、この公共政策は非常に 厳密でなければならない ならないのです。もし強制執行のための裁判が行なわれる州が、軽微な形 ならない の賭博 3 でさえ、それが合法的に行なわれるのを許しているとすれば、その州は賭博の負債 についての、別の州の判決に対して、十分な信頼および信用を与えることが要求されるこ とになるでしょう。 従って、同性間の「婚姻」や「コミットメントの儀式」を、そのような式が合法であっ たり、そうなるかもしれない場所で執り行なったゲイとレズビアンによる〔ニューヨーク 州において正式な婚姻だと判断されるべきだという〕要求に反対するニューヨーク州の裁 判所を支援するために、ニューヨーク州の立法府は、同性間の婚姻関係などがニューヨー クの明示された公共政策に反するものであると、明確かつ断固として、宣言する法を可決 したのです。 私がここで輪郭を示したような問題を避けたいと望むニューヨーク州のような州の権限 を強めるため、連邦議会は、ゲイとレズビアンの婚姻を認めないと選択をした州に対して、 それを認めた州〔の判断に〕に十分な信頼および信用を与えるのを免除することを特に目 的とした法(「結婚保護法」(Defense of Marriage Act))を可決しました。 4 法に対する道徳の影響を説明するのに、これら以上に良い例はありえないと思います。 註 1 例えば、ある州の裁判所で原告が別の州に居住する被告に対する民事上の判決において 勝訴すれば、原告は最初の州において下された判決の強制執行を求めて、被告が居住する 州の裁判所に申し立てることが許されている。第二の州の裁判所は、最初の州の判決を強 制しなければならない。 「十分な信頼および信用」条項は、国際司法における国際礼譲に似 ている。 2 すなわち、別の州の判決を強制することが求められている州。 3 例えば、宗教活動を支援するための資金を集める目的で教会で行なわれるビンゴや「カ ジノ・ナイト」など。 4 言うまでもないことだが、このような結婚という重大な問題について、ここではどのよ うな形であれ私自身の意見を示している訳でない。 しかし、この問題に関連して、さらに二つの追加的な説明をする必要があるでしょう。 第一に、ある社会で大切だと考えられている道徳原理は、その社会の法に大きな影響を 与えるということは明白だと思われるのですが、その逆は必ずしもそうではないのです。 ある法律は、守りより破るほうが敬意を払われるということがあります。姦通を禁止する 法は、刑罰が特に重い場合には、一定の潜在的犯罪者を思いとどまらせるかもしれません が、姦通という行動にはおそらく比較的小さな効果しかもたないでしょう。姦通者に対し て極めて酷い形態の死刑を用いてきたサウジアラビアやアフガニスタンなどの場所の例か ら知られるように、数ヶ月の恋の戯れや性的快感のために、あえて自らの生命をリスクに さらす男性と女性がいるのです。 同様に、人種差別を禁止するアメリカの法律は強制的に実施されるのですが、それにも かかわらず法律をさらに実施する必要があるということは変わっていないのです。つまり、 法の適用によって頑固な人種差別主義者が人種間の完全な平等の擁護者へと変わることは 確かになかったのです。賭博や売春を禁止する法は、それらを街角から追いやるかもしれ ません。しかし、法が強制され、違反者が処罰される場合であっても、そのような法が制 定されれば人々が賭博や売春を止めると考えることは、希望的観測や自己欺瞞に身をまか せることなのです。 第二に、このことから、道徳的犯罪だと思われる出来事を減らすために設計された法に は全く効果がないのだ、ということが導き出される訳ではないのです。逆に、それらは強 い教育的効果をもつのです。 道徳の見方の変化への適応に時間がかかる古い世代は習慣を変えるのに長い時間を要し ますが、若い人々の場合には、変化は不可避的に起こるのです。その例として次のものを 挙げておきます。 かつては暴力的な人種差別主義がはびこっていたアメリカの都市において、途方もない 変化が起こってきたのを、私は個人的に見てきました。人種差別禁止法の強制が年を経て 〔人々の〕慣行と態度の両者を変化させてきたのです。 このことは、これらの地域で人種差別主義が完全に拭い去られたことを意味しているの でしょうか。もちろん、そうではありません。人間の心は非常にゆっくりと変化するので す。ある場合には、全く変化がないかもしれません。しかし、法によって非難される態度 を公に明らかにすることで、社会的な慣行に重大な変化をもたらすのに十分な数の人々の 中で、態度の大きな変化がもたらされる場合もあるのです。 共通の誤りは、ある ある人々は法が意図したように反応しないから、 誰も反応しないのだと ある 誰も 推定することなのです。このことの良い例は、ある ある人々が死刑の恐怖によっては抑止され ある てはこなかったから(死刑制度を持つ州で死刑執行を待つ人々すべてが証明しています)、 死刑はまったく役に立たないにちがいないというありふれた想定です。これはもちろん完 全にナンセンスです。死刑囚の数を見れば、 ある人々は死刑の恐怖によって抑止されない ある ということが示されています。しかし、考察されねばならない人々は、死刑を科しうる犯 罪を犯さなかった なかった人々なのです。あらゆる あらゆる刑罰が刑罰を抑止するという目標の達成に常に なかった あらゆる 100%効果があると想定するのは愚かなことでしょう。勝負に伴なう危険を覚悟で、あえ て勝負にでる人々は常にある程度はいるのです。同じことは、社会政策や法政策について も言うことができるでしょう。それらについて非現実的な要求をすれば、ひどく失望する はめになるでしょう。より良い政策や、より良く、より効果的な法を求め続けることはで きますが、少なくともこの不完全な世界においては、完全さに達することを期待すべきで はないのです。 以上のことから次の結論になります。 1.社会の道徳的見方は法典に中で具体化されうるのです。 2.法典には、一定の道徳的な命令を強制したいという欲求にもとづく規定がしばしば含 まれています。 3.法的な賞罰は〔人々の〕態度や行動に対して一定の効果を持ちますが、新たな法は、 それが主要な道徳的問題や関心に関わる場合には、非常に緩慢に効果を及ぼすようにな るのです。 4.法律は、常に、どんな場合でも効果をもつという訳ではありませんが、そのことから、 法律は全く効果をもたない、ということにはならないのです。 最後に、ある法律は道徳とほとんど関係がないか、全く関係がないのだと指摘しなけれ ばなりません。遺言が二人によって証人となり署名されねばならないか、三人によらねば ならないかは、道徳とは何の関係もありません。時間を超過した駐車の罰に車のレッカー 移動が含まれべきか否かは、道徳との関係以上に、交通のため道路を空けておくというこ とと関係があるのかもしれません。もっとも、我々は、自分の便宜のために公共の福利を 無視する人を非難するでしょうが。手続法、税法などは、もしあるとしても、道徳とはほ んの少ししか関係がないのです。しかし、ほとんどの実体法は、最終的には幾つかの道徳 的原理を根拠としているのです。 II. テロリズム さてここから、法と道徳が交差する主要な例として、テロリズムについて話をしたいと 思います。 「テロリズム」という言葉や、ある人や行為を「テロリスト」だと特徴づけることは、 道徳的判断、それも明瞭に否定的な道徳的判断です。 「ある者にとってのテロリストは、他 の者にとっての自由の闘士だ」としばしば言われます。私はそれが正しいとは思いません が、その意図ははっきりしています。つまり、それは全く個人の見方の問題なので(そう 言われます)、テロリストと彼らの行為を非難するための客観的で、合理的な方法があるこ とを否定しようとする試みなのです。「テロリズム」は単に記述的な言葉ではありません。 それは明確に規範的な言葉であり、それには感情的な意味内容が入っていて、道徳的非難 も含まれています。しかし、 「自由の闘士」もその言葉に付随する一定の道徳的な意味合い を持ち、さらに、一つの歴史と幾つかの記述的な内容を含んでいます。 パレスチナのアラブ人が、12 歳の少女のパーティーを滅茶滅茶にし、手榴弾を集まった 人々に投げつけ、子供の誕生日が来たのを祝う多くの人々を撃ち殺したとき、彼は軍事組 織員(militant)でも、ゲリラ戦士でもないし、もちろん自由の闘士でもないのです。彼は単 純かつ完全にテロリストなのです。 テ ロ リ スト は軍 人 や軍設 備 あ るい は軍 事 施設よ り も むし ろ無 辜 の市民 を 十 分意 図し た 上 で標的とする者たちです。 ゲリラ戦士(例えば、第二次世界大戦のゲリラ戦士)は、できる限り無辜の市民に危害 が及ぶのを避けようとしますが、敵の戦力を攻撃し、弱体化させるため、秘密を旨とする 方法を用います。 軍事組織員は、自らの目的を達成するために戦力の使用に意味があると考える者です。 ゲリラや、道徳に適った手段を通じて自分の国家や民族の解放を求める活動に関わる者 は、ピザ屋にいる 10 代の若者、飛行機の乗客、スクール・バスの中の子供たち、シナゴ ーグやモスクの礼拝者、オリンピックに出場している選手たち、あるいは仕事や買い物、 学校に行ったり、祈ったりしていて、これから起こる大惨事を知る由もない無防備な何千 もの男性や女性や子供を爆弾で吹き飛ばそうとは夢にも思わないでしょう。 テロリズムは何世紀にも渡って知られてきたし、海賊という名で国際法にも規定されて きたのです。海賊はハリウッド映画で描かれるロマンテックな冒険家ではありません。彼 らは海を彷徨し、すきなく武装している犯罪者の集団であり、船を捕まえて、船自体を手 にいれるか、その積荷から利益を得るという目的を持っていました。しかし、もっとも価 値があり、利益をもたらす略奪品は、彼らが捕まえた船の乗客と乗員だったのです。それ は、彼らを人質として、愛する者や共同体が身代金を払うか、あるいは奴隷として売り捌 くことが可能だったからです。そしてそのことは、現代のテロリストが旅客機をハイジャ ックし、乗客と乗組員を人質に身代金を要求するのと全く同じなのです。 海賊によるこれらの略奪は数世紀の間続きました。海賊は、当時利用可能であった唯一 の移動方法によってある場所から他の場所に行こうとするすべての者を恐れさせたのでし た。もちろん同じ犯罪は追いはぎによって地上でも行なわれたのですが、彼らによる犯罪 は、海賊による犯罪ほど利益をもたらすものではなかったのです。海賊は海上での船にそ の活動を限定していたわけではありません。彼らはまた港を襲い、手に入るものは何でも 略奪し、人質をとったのでした。 18 世紀と 19 世紀初期には、今日のアラブのテロリストと同じ地域―北アフリカと中東 ―出身の人々が地中海の輸送を略奪していました。合衆国が新しい国家であったとき、つ まり 1800 年に、アルジェの海賊はアメリカの船であったジョージ・ワシントン号を強要 して、アメリカ国旗を下ろさせ、アルジェの旗を上げさせました。船長が彼の乗組員の身 代金の支払いに異議を唱えたとき、海賊の長は次のように言いました。 「お前は私に貢税を 払っている。それによってお前は私の奴隷となったのだ。だから、私はお前に対して自分 の好むように命令できるのだ。」第三代大統領であったトマス・ジェファーソンは海賊の問 題に直面したとき、貢税か戦争かのどちらかの選択しかないのだと議会に告げました。だ から彼は「海軍をつくって、戦争しようではないか」と最後に言いました。そして、私た ちはそうしたのです。 暴力は時には正当化されます。すべての暴力がテロリズムではないのです。ワシントン、 ジェファーソン、ペイン、そしてその他の愛国者たちが 1776 年にイングランド国王に対 する革命を決意したとき、彼らは戦争に行き、国王の軍隊がアメリカの土地を占領する限 り、彼らを殺すことも辞さなかったのです。 しかし、彼らは、彼らアメリカ人に敵対してスパイ活動に携わっていた者や、敵に協力 しているところを見つかった者を処罰したのですが、イギリスとの戦争とは関係のない無 辜の市民を殺すことは注意深く避けていたのです。 国際法は必要な場合には、敵を標的にし、殺すことを常に認めてきました。しかし、罪 のない市民を標的にし、殺すことは決して認めてこなかったのです。 凶暴な海賊のいた時代には、国際法は海賊に言及するのに、特別な言葉を用いていまし た。彼らは hostes humani generis 、つまり人類の敵と考えられたのです。それは次の理 由によるのです。彼らの犯罪は公海で行なわれました。彼らは力の及ぶところにやってく るすべての船を標的にしました。彼らは船それ自体、そして積荷を獲物として奪い、攻撃 を生き延びた乗客や乗組員を人質とするか、殺したり奴隷として売り飛ばしたのです。彼 らは殺人者であり、被害者が誰であるか気にかけなかったのです。だから、世界中の国は 彼らを航海する者全ての敵であると考えたのでした。そして、彼らは文明的な輸送と商業 へのそのような脅威であるから、法により海賊を捕まえることのできる全ての国家に対し て、その国が特定の海賊による攻撃を受けていようがそうでなかろうが、彼らを裁く司法 的管轄が与えられたのです。 国際法は、戦力の使用を完全に違法としてきたのではありません。自己防衛は、国際法 においても、ほとんどの国内法体系においても、破壊的な実力を行使することの正当な理 由だと考えられてきました。そして、そういった理解を変更する理由は見当たりません。 なぜなら自己保存に必要なだけの、そのような実力を用いる権限がすべての国家に与えら れているからであって、それは各個人にその権限が与えられているのと全く同じことなの です。それ以上に基本的な権利というものはありえないでしょう。 海賊についての法は、国際的テロリズムに及んだし、そうすべきだと私は考えています。 それは、テロリストを捕らえる力を有するすべての国家、またはすべての者に包括的な司 法的管轄を与えるだけではありません。また、テロリストの行為について裁判をして、自 らの方針に応じて処罰する権利を与えるのです。そして最後に、必要な場合には、それら の国に対して追跡権、すなわち海賊に寄港地を与え、保護を与える国家の領海に海賊を追 いかける権利を与えるべきでしょう。領土保全の権利は、国家が自らの存在それ自体を守 る権利ほど重要ではないのです。 テロリズムとテロリストの処罰を扱う法は、彼らが追い詰められ、彼らが犯した略奪行 為について厳しく処罰されることになるだろうと宣言することで、潜在的なテロリストを 抑止することを目的として設計されるのです。処罰という恐怖はすべての犯罪者、とりわ け、何であれ自分の信じる大義のために自らの命を投げ出す用意のある狂信的なイデオロ ーグを抑止しえないでしょうから、完全には効果はないかもしれません。 それらはまた、9月 11 日にニューヨークとワシントンで為された非道な行い、そして 昨年ほとんど毎日のように行なわれ、さらに過去 50 年を通じてずっとイスラエルを悩ま せてきた非道な行いをする者を、永遠に活動できなくするように設計されるのです。 最後に、国家やその国民に対する、そのような酷い犯罪を犯した者に対して、国家は復 讐を求めることが完全に許されているのです。 テロリストに対する対応 国際法と道徳の双方は、テロリズムに対して適切な対応を認めています。以下に幾つか 述べるものは、私が 20 年以上前に適切な対応であると記したものです。私はそれらのい ずれについても、この間に考えを変える理由が生じたとは考えていません。 すべての文明的な国家は、テロリストとその組織を、すべての国の存在それ自体に対す る危険であるとして、壊滅させねばならない冷酷な敵であると考えねばなりません。彼ら は人類の敵であり、世界の平和と秩序に対する災いであり、文明に対する脅威なのです。 一国でできる行動は、身代金の支払い、安全な通過の提供、いわゆる政治犯の釈放、あ るいは政治的譲歩を禁止する立法という方法でしょう。 テロリストとの交渉は常に誤りです。彼らを決して信頼することはできませんし、彼ら は真実にも、約束の遵守にもこだわることがないのです。テロリストとその組織を単純に 壊滅させるか、完全な行動不能に至らしめなければならないのです。交渉は、彼らに対し ては拒否されるべき信頼というものを彼らに与えることになります。 国家の最も重い義務は、その市民の保護、そして市民の生命や財産の保護、さらに領土 の保全なのです。これらすべてがテロリストによって脅かされているのですから、国家に は、最も重い道徳的命令により、テロリズムを壊滅させるため、破壊的な武力までも含む 必要なだけの実力を用いる義務があるのです。 どの国家も、テロリストをどんな方法であれ、保護し、潜伏させ、援助するために、彼 らを匿ったり、その支配権の下に留まるのを許すべきではないのです。そうする国家はテ ロ国家と見なされるべきで、戦争までも含む適切な国際的処罰が科されるべきでなのです。 テロリストをかくまうのは、テロリストの犠牲者たちに対する戦争行為となります。国 家は、テロリストをかくまう国家と戦争するのに躊躇すべきではないのです。 ほとんどのテロリストにとって終身刑は全く恐れとはなりません。彼らは死を歓迎する か、人質をとるというような、別のテロリストの行動が自分たちの釈放をもたらすと考え ていて、それは実際繰り返し起こってきたことなのです。文明国が海賊と戦っていたとき、 過去においてそうしたように、どんな役割であれ、テロ活動に携わった者には死刑が科さ れるべきなのです。 最後に次のことを示して講演を終わりにしたいと思います。どの国家であれ、個人であ れ、テロリズムに向かい合った場合に道徳と法により求められていることは、受身である ことではありません。反対に、各国家だけでなく、我々自身、あるいは我々の文明を保持 するのに必要な限り能動的であることが求められているのです。 質 疑 応 答 Q:テロリストに対する武力行使が正当化される条件とは何でしょうか。 A:国内法においても、国際法においても常に認められてきた、武力行使が許される条件の 一つは自己防衛でした。攻撃を受けているか、その危険が差し迫っている場合には国家 は自己防衛に必要な武力を行使できるのです。逆に、正当化されえない武力の行使とし て明白な例は、個人であれ、国家であれ、自分に正当に所属していないものを獲得する ために武力を行使することです。それが財産や生命の場合もあるし、領土や主権の場合 もあるでしょう。そのような行為が侵略と呼ばれるのです。 Q:テロリストとの交渉を全く行なわないということは可能でしょうか。例えばハイジャッ クの場合に、ハイジャッカーとの交渉が必要ではないでしょうか。 A:過去において、人質の生命を救うためにハイジャッカーたちとの交渉が行なわれてきま したが、それらは本来の意味での交渉というものではありませんでした。ハイジャッカ ーたちは、自分たちの要求を飲むか、飲まないかのどちらかを求めるだけであり、それ は互いに譲歩を行ないつつ合意を目指す交渉とは異なるものです。彼らとは交渉の余地 はありませんし、交渉すべきでもありません。また、これまで実際に行なわれてきたこ とは、交渉ではなく、人質奪回のための時間稼ぎに過ぎなかったのです。 Q:無辜の市民を標的とするのがテロリストであって、それが他の暴力との区別の指標であ るとすれば、例えば無辜の市民を攻撃した原爆投下についてはどのように説明されます か。その説明が困難であるとすれば、それはテロリストの定義が不十分なせいなのでは ないのでしょうか。 A:無辜の市民に対する攻撃はテロリズムであって、それがアメリカによるものであれ、日 本によるものであれ、そうなのです。それは道徳的にも、国際法上も不正な行為なので す。ですから私の定義は首尾一貫しています。ただし、無辜の市民を標的とすることと、 軍事目標を攻撃する際に、不運にも無辜の市民の生命を失ってしまうことの間の区別を しなければなりません。 トルーマン大統領は、広島への原爆の投下を、広島が大きな軍事施設を有する都市で あったという理由、そして原爆投下によって戦争終結が早まり、それにより日米双方の 多くの軍人や市民の命が救われることになるだろうという理由で行なったと考えられて います。もし原爆投下がテロリズムにあたるとするならば、それに対して処罰が下され ねばならないでしょう。 Q:原爆投下は軍事行動の過程で不運にも無辜の市民の生命を奪うことであったのだという 見解は、日本人の側からは受け入れがたいものです。そのような見方の相対性というも のを前提とした場合に、いかにして道徳的な問題を合理的に論じることができるのでし ょうか。 A:この質問については良い答えがあるとは思えません。確かに各人は生まれ育った共同体 独自のものの見方を身につけることになります。人々がその見方の偏りというものに陥 らず、理性的に話し合う方法を見出せることを期待するばかりです。しかし、もし原爆 を使うべきか否かという問いかけが今日なされるとしたら、私はその使用が許される条 件というものを思いつくことは全くできないと答えるでしょう。理性が支配的となって いる場合には、そのような爆弾は使用されることはないでしょう。 Q:イスラエルとパレスチナの関係が先に進むためには、互いの報復という問題の解決が必 要ですが、どのような行動が未来に向けてとられうるのでしょうか。 A:イスラエルはその国家自体の消滅以外のあらゆる妥協を行なう用意があったのです。し かし、イスラエルとパレスチナの双方に合意が成立しそうになると必ずパレスチナの側 から新たな要求が持ち出されることとなったのです。イスラエルは交渉による問題に解 決を行なう意思があるのですが、パレスチナにとっては、彼らが言うところの、一つの 民主国家の成立のみが問題の解決策なのであり、その国家はアラブ国家となるはずで、 ユダヤ人はそこでマイノリティとなるというものです。それはイスラエルが受け入れる ことのできない解決策です。結局、彼らは自分たちの領土だと考えている場所とイスラ エル国家の消滅、それ以外の何ものも受け入れるつもりはないのです。 Q:表面的な暴力が生まれてくる背景には、社会的、構造的な暴力があるのではないでしょ うか。そのようなテロリストを生み出す背景に踏み込んで議論することこそが重要なの ではないでしょうか。 A:確かにそのような問題について理解しようと努めることは重要です。なぜ、合理的、理 性的な問題解決ではなく、暴力的な方法が採られるのかが問われねばならないでしょう。 その問いは、いかにして人々を納得させて、若者に対して問題の平和的、合理的解決を 求めるように教育を行わせるかという課題にも関わってくることです。 構造的な暴力という言葉については十分理解している訳ではありませんが、もしそれ が正義に反しているということであれば、そのような状態は、アメリカでも、イスラエ ルでも、ラテンアメリカにおいても、また非常に多くの場合に国際関係においても、世 界のどこにおいても見ることができます。しかし、このような不正義により不利益を被 っている全ての人々が、全く関係のない人を襲う恐ろしい暴力へと向かう訳ではありま せん。不正義を解決するために、無作為に子供や老人や女性を襲ったり、数千の人々が 働くビルを吹き飛ばす以外の良い解決策があるはずです。 もちろん、私はあなたのおっしゃった事に異議を唱えている訳ではありません。我々 は、ここで私は「我々」という言葉を用いますが、不正義に対処していくべきですし、 より良い社会にしていこうとする努力も必要です。しかし、それだけで全ての問題が解 決されるわけではありません。ウサマ・ビンラディンのようなテロ活動を行なう人物に 対しては断固として譲歩してはいけないのです。
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