被爆体験講話1 - 真宗教団連合

被爆体験講話1
浄土真宗本願寺派 正向寺住職 櫻井 賢三 師
みなさん、本日は全国各地より当広島にお越しいただきまして、まことにありがとうございます。
それでは、私の原爆体験をお話しさせていただきます。
お見受けしますと、もう戦後のお生まれの方が大半のようでございます。私は昭和五年生まれで、
満七十四歳ということになるわけであります。私が原爆を受けたのは、ちょうど中学の三年生のとき
でございました。
私の自宅から、この広島市内の宗門校であります崇徳中学校は、距離が約三十キロ離れております
ので、あとの席でお話をいたします講師の光寺重信師、これは私のおじいさんの里になるわけであり
まして、そういうような関係で光隆寺に下宿して、学徒動員の建物疎開へ、その日に従事したわけな
のです。
けれども私が崇徳中学校へ入学をしたのは、
昭和十八年の四月の一日で、
崇徳中学校の寄宿舎に入っ
たわけでございます。あの当時は一年生、二年生という、わずか一級の違いでありましても、それこ
そ軍隊教育です。いまでは想像できないと思いますが、上級生に対する言葉は勿論、敬語であります。
そして町中で上級生に出会ったら必ず敬礼するわけですね。敬礼しなかったらびんたを張られるとい
うことで、とてもとてもそれは厳しいものでした。
そのときは五年制度でありますが、その部屋には五年生の上級生がおりまして、三年生、二年生、
一年生という四人部屋でありました。各中学校には必ず配属された将校がおりまして、寄宿舎には、
その将校が舎監として来られておりました。
英語は敵国の言葉であるから、あまり勉強する必要はないということで、疎かにされました。そし
て教練という科目が、とても多いわけです。だから私たちも、わら人形をこしらえまして、それに「え
いっ、えいっ、やっ」と言って銃剣を突き刺す訓練を週に五時間ぐらい設けられていたようなことで
ございます。
大東亜戦争が始まったのは昭和十六年の十二月八日です。戦後生まれの方々には誠にすみませんけ
れども、戦前の厳しい張り詰めた日本国民の生活とか、何でもかんでも天皇陛下、天皇陛下。そのと
きのことも聞いてもらいたいと思うわけです。
「天皇陛下」といったらぱっと気を付け、号令をして、あごを引いてぴっとしなければならないわ
けです。学校には奉安庫というのがありまして、天長節とか紀元節とか、そうしたときには必ず、校
長先生が白い手袋を掛けて、そして教頭先生も後ろへついて、教育勅語をおもむろに持ってこられま
して、講堂において教育勅語がまず奉読されるわけです。天皇陛下、天皇陛下、忠君愛国。天皇陛下
のために、いのちを捧げるというような時代でございます。それは、戦後のこうした自由な世の中、
民主国家ではないわけであります。
よく戦後のお生まれの僧侶の方が、なぜ東西本願寺は戦争に反対しなかったのか、親鸞聖人の精神
でもってすれば、なぜあのとき真宗教団は戦争に反対しなかったのかと、厳しい態度で、私たち戦前
の生まれのものに申されることがあります。みなさんの中にも、そういう疑問を持った方々もおられ
るかと思います。
西本願寺も東本願寺も、真宗教団としても、また日本仏教界としても、そのときの雰囲気では、戦
争には絶対刃向かうことはできないわけです。だから西本願寺も、
「南無阿弥陀仏」というお守りを出
征兵士には届けておったわけです。
だから今もって、そのことも問われるわけですが、私がここで強調したいのは、時の権力ぐらい恐
ろしいものはないんです。もしそのときに西本願寺が反対し、東本願寺も反対し、日本仏教界も反対
しておったら、どうなるでしょうか。そのときの時代状況では、絶対そういうことはできないんです。
戦争には全面的に協力していかなければならない。だから梵鐘も仏具もみんな爆弾に使うために供出
したんですよ。刃向かうことはできないと。そうですね。
思想的にマルクス、レーニンを語ったり、そうした集会を設けておったら必ず、そこには憲兵がか
ぎつけて来るわけです。だから検挙される。まじめにものを考えれば、2+2=4であるのに、それ
が8にも12にもなる。戦争はみな絶対反対だ、わかりきっとるんです。わかりきっておっても、そ
れに刃向かって、私はこうだと言うことは、その当時の雰囲気としては、決してできることではない。
だから野坂参三さんとかは、それでもなお、非合法活動を共産党としてやった方です。その方がた
には、やはり敬意を表するものもあると思うんですね。
そういうような中で、ときの権力、東条英機、そうした方がたの配下のなかに、天皇制も動かされ
ておった、天皇も利用されておったということも言えると思うんです。
それは長くなりますので、一応そうして、昭和十六年十二月八日に戦争が勃発しました。真珠湾攻
撃ですね。私は小学校の四年生でした。そのときは放課後、午後でございました。学校の鐘が、がん
がんがん鳴るんですよ。
「集まれ」と言って校長先生が呼ばれるので、何ごとかと思って、その校長先
生のおられる朝礼台の前に、十数人の学友とともに集まりました。
そうしたら、佐藤養吾さんという校長先生がこう、足を震わし、身体を震わして、
「ただいま、日本
は米英に対して、宣戦を布告した」と申されたことが、いまもこびりついております。それが昭和十
六年の十二月八日、九軍神が特殊潜航艇に乗って、真珠湾で不意打ちをかけたということであります
ね。
それから、軍艦マーチではありませんが、
「守るも攻めるも黒鉄の」というので、どんどん、どんど
んと、戦争がものすごい勢いで、
「ああ、シンガポールを攻略した」とかいろいろと、ものすごく景気
よく、さっき吉崎さんが話されましたように、
「勝った、勝った、また勝った」
、
「またやった、またやっ
た」と言って、ほんとにすばらしい勢いで日本はがんばっておるということを申しておりました。
またあの当時、
「八紘一宇」
(はっこういちう)という言葉も、いま頭に焼きついております。
「八紘
一宇」ということは、日本は正しいのである、いわゆる「聖戦」である、悪い戦いではないんだ、よ
い戦いなんだ、日本の国が行って世界を治めていかなければならないということなんですよ、
「八紘一
宇」という言葉は。
いまとなって考えてみますれば、ばかなことをしたもんだなと、つくづく思うわけです。たくさん
の戦争犠牲者、また、まして昭和二十年八月六日に広島に原爆が落ちたということなんですが、その
ことについてお話します。
八月六日ですが、当時は学徒動員令というのがありまして、私はその前の昭和十九年十月から、金
剛車(こんごうしゃ)をつくる会社の水田金剛砥石製作所の仕事に従事させられたわけです。
みなさんには、金剛車というのは、どうしてつくるかということを、ご存じでない方もおられるか
と思いますが、かねを削る砥石ですね。硬い硬い石の粒があるんですよ、小さい粒が。それを糊で練っ
て、そして型のなかに入れて、それで窯のなかへ入れて焼くんです。煉瓦で囲っておる、広い大きな
窯のなかへ入れて、温度は千度も二千度もの温度をかけて焼くわけです。それを私たちは、石炭を炉
のなかへ入れて、
どんどん温度を上げていくわけです。
それをまた特殊な旋盤で削っていくのですが、
そういうような油まみれ、ほこりまみれの厳しい作業をしておったわけです。
ところが、
たまたま昭和二十年八月六日には、
その工場の部長さんの高橋さんという方の借家があっ
たのですが、その借家の強制建物疎開に行けということになりまして、私たちのクラスがみな、そこ
へ行かされたわけです。
建物疎開といったら、どういうことで行ったかと申しますと、焼夷弾、爆弾が落ちたときに路地が
狭いと、消火活動ができないんですね。だから道路を広くするということで、全国的にやられたわけ
です。京都では堀川通、五条通、御池通が、強制建物疎開で、道が広くなったわけですが、私たちも、
そういう強制建物疎開に従事させられたということなんです。
そして私たちは、爆心地からちょうど一.五キロの距離のところ、この山陽線のガードレールを北
へくぐったすぐそこなんですが、そこに木造の一階建ての、おうちがありました。それで昭和二十年
八月六日午前八時に、その下に集まりまして、十五人ぐらい屋根の上へ上がり、また下で十五人ぐら
い片づけをするんですね。それで私は、屋根の上へ上がったわけです。
夏の八月の土用の最中ですからね、暑い、暑い日です。だから裸になって、地下足袋、ゲートル、
ズボンです。そして、はしごを掛けて上へ上がった。上がって、ぼんぼんとめくっては下へ投げ、ど
んどん投げておったわけです。
そうしたところ、誰かが「おい、Bが来たぞ」と言うんですね。B29 が来るのは、もう日常茶飯事
なんですよ。だからべつに不思議なことはない。けれども、
「Bが来たで」と言うから、
「どこに」と
言って、その機体を認めた瞬間、ぱっと真っ白なんです。昔、写真を写すときに、マグネシウムとい
うのを焚いておりました。
「いいですか、写りますよ」
、ばんとやったら、ぱっと煙が出て、光が「パッ!」
と出ますね。それを、この机の上に山盛りに置いて、それに火を投じたのと同じなんですよ。
「パッ!」
。
音はないのです。
ものすごくそれがね、熱いんですよ。一寸先も見えない、光で。熱い熱いその光が呼吸器のなかへ
入るわけで、
「ああっ、この近くに爆弾か焼夷弾かが落ちたんだろう、もうだめだ」と思いましたね。
約二十秒か三十秒、私には感じられました。ぴかっと光った、それがものすごく痛いんですね。
その痛さといったら、火ばしの先でちょっと焼いても痛いですね。広島では、やけどのことを「火
走りがする」と言うんです。火が走ると書いて、火走りがする。痛い、痛い、やけどぐらい痛いもの
はないと言います。みなさん、指の先にちょっとやけどしても、痛いですよ。それが私は上半身です
から。全部。
帽子はかぶっていたんですが、この下から両腕がもう、ちょうどワイシャツを、このズボンのとこ
だけ留めて、たれ下げたのと同じです。走ったら、ふわっふわっふわと、風が来るんです。もう白い
身がずる剥けになって、これがずっと垂れ下がって。資料館にもあったと思うんですが、こうして垂
れ下がっておるんです。そうしたら必ず、こうする以外ないんです。こう垂れ下がっている。
隣に十五人上がっておった学友が、私を入れて三人しかいない。私と金谷君と、松本君の三人が屋
根に取り残されたんです。高い屋根でありました。はしごはもう吹っ飛んでおりますから、飛び降り
ました。飛び降りてみたら、地下足袋からゲートルね、全部火が点いて燃えておるんです。誰も消し
てくれるものはおりませんから、地べたへ転んで消しました。
そしてあたりを見渡すと広島市内の建物がすべて崩壊していました。世の中が変わりました。痛い
から。もう居ても立ってもおられません。それで、逃げていくんですが、楠町通りという、街がある
んですよ。メイン通りです。それを通って、わが母校の崇徳中学校まで逃げていくわけです。
もう楠町通りが、この世の地獄です。やけどをしたら、顔がこんなに腫れるんですよ、女の方でも
ね。それで目を、こうして腫れあがった上まぶたを自分の手でこじ開けながら、それで逃げていくん
です、目が腫れて。それで、なかには目玉が飛び出た人も何人か見ました。目玉が飛び出たら、ちょ
うどね、この拳をこう出したのと同じ、ぼんぼん、目玉が動くんですよ。
それでもう、髪がほこりで、ばさばさ。そして、逃げていく楠町通りへ、みんな建物が倒れている
のです。既に、火が点いて燃えている。
「助けてくれ」と言っても、誰も助けるものはおりません。一
目散に逃げていくんですから。この楠町通りだけでも、ほんとに、この世の地獄。
それで、わが母校の崇徳中学校へ行きました。そうしたらね、講堂だけ鉄筋でございましたが、木
造の二階建てが全部倒れている。
生徒は当時、授業をしていないので、兵隊さんが泊まり込んで、そこで訓練をしているのです。兵
隊さんが下敷きになっている建物には、
既に火が点いて燃えている。
私の目の前で焼き死なれました。
原爆はね、ガラスの破片が、霧の子になって入るんですよ。霧の粉になって。外で作業をしていた
兵隊さんは、裸のやけどをした上にガラスが霧の粉になって入っている。
「痛い、痛い、痛い、痛い」
言って苦しんでおられる兵隊さんを沢山、見ました。
そして太田川がすぐそこにあるんですよ。やけどをしたら熱いから、みなそこへ入るんですよ、太
田川へ。私はね、不思議に太田川に飛び込む気がしなかった。私は、安佐郡(※現在の広島市安佐南
区)の祇園の青年学校に、いざというときには避難をせよと、避難の場所として平生聞かされており
ましたので、そこに一目散に逃げていきました。
もう金谷君も、松本君も、ばらばらですよ。どこへ行ったかわからん。我さきに逃げていくんです
から、友だちがどうとかこうとかではなく、一目散に逃げていく。
そうしたら、沿道の方がたが「何が広島で起こったんか」と言うわけですよ。
「何か知らんけども、
とにかくこの身体を見てくれ、痛い、痛い」と言ってね、もう痛い、痛い、上半身全部焼けて、ほん
ま、頭も焼けて、足も焼けて、生涯に、これぐらい苦しい思いをしたことはありません。
火あぶりぐらい、苦しいことはありません。手術をしたんだったら、麻酔をかけて、意識のわから
んまんま手術をして「はい、すみました」と言ったら、
「あ、終わったんか」と言って、あとは麻酔が
どんどん解けて戻っていくときが少し痛いぐらいなことで、やけどぐらい痛いものはないですよ、み
なさん。いや本当ですよ。だから、よく工場が爆発してね、上半身やけどをしたというようなニュー
スを聞きましたら、
「ああ、痛いだろうな」
、
「いまごろ難儀をしとるだろうな」と思います。
そういうことで、安佐郡の祇園の青年学校へ逃げていったわけですが、そこではどんどん、どんど
ん逃れてくるわけです。だからね、もう死体がいっぱいあるんです。それで、苦しんでいる人たちが
いっぱい、ここへ収容されておりました。もう入るところがないぐらい。小さい校舎なんか役に立た
んわけです。
八月ですから、外へ寝とった方もありますが、寝る段じゃなし、痛いから。それでまた、
「油谷の三
菱の工場があるから、今度はここへ来るよ」と言うんですよ。そうしたらまたすぐ竹やぶへ逃げてい
くということもありました。
それで翌日、父が訪ねてきてくれました。それは、安佐郡の祇園の青年学校が、いざというときに
は避難の場所だということを父にも知らしておりましたので、訪ねてきてくれたんですね。涙の対面
です。抱き合って泣きました。
私の兄弟は三人いたわけです。兄がおりました。兄は崇徳中学校5年を卒業して県立広島師範学校
大陸科に入り、昭和17年4月より北京で先生をしておりました。日本国民学校で先生をしていたの
ですが、昭和十八年に招集がかかりまして、帰ってきたんです。帰ってきて、大竹の海兵隊へ入った
んです。ちょうど私が十八年四月に入学するのと、兄が出征するのと同時でした。
けれども、兄は戦艦扶桑に乗って、昭和十九年の十月の二十五日に、レイテ沖海戦で戦死したんで
す。だから父親も母親もものすごく嘆きました。いまからというときに、二十三歳で戦死したんです。
だからもし私が亡くなったら、もう法灯が消えると。姉がおったのですが、姉は三歳で亡くなったわ
けです。だから私はひとりぼっちになった。そのひとりぼっちの私が、医者からもう手が離されたん
です。
五日市の正向寺という、私の本家があるんですが、そこで二週間ぐらいいたと思うんですが、そこ
の町医者に診てもらったところが、
「人間は、三分の一以上やけどをしとったら助からんから、もうだ
めだ」という死の宣告を受けていた。
だから私は、
「生まれた、わがふるさとの、湯来町の砂谷(さごたに)というところで死にたい、連
れて帰ってくれ」と言ったら、同行の方がたが台八車を持って迎えに来てくださいました。
そして夕方の六時半ごろ、夏ですからね、出発して、わずか十五キロの道のりを十二時間かかって
寺に帰ってきたわけですが、途中で寒いから、夜中に毛布を掛けていただいたんですが、その毛布が
みな膿でくっついてね、もう剥ぐことができないんですよ、べったりくっついているから。だから台
八車のまま座敷に上げてもらい、それでご門徒の看護婦さんにわざわざ広島市内から帰ってきていた
だき、半日がかりで、その肌へくっついている毛布をはがしてもらったのです。
それで、約半年、近くで軍医をしておられた、植木さんという方がおられまして、その方にずっと
治療をしていただきました。その治療というのもね、みなさん、上半身がみんなやけどをしているん
ですから、ガーゼを敷いて、綿を敷いて、またガーゼをして、ゆっくり寝させてもらう。
治療に起こしてもらうのに、頭から膿がくっついているんですから、それを、ばりばりばりばり剥
がしているうちに、気分が悪くなる、途中で。
「また、寝してくれ」と言って、また寝かしてもらう。
難儀をして難儀をして、やっと起きたと思ったら、今度はピンセットで、その傷口を治療していただ
くのが、とっても苦痛でした。また、夜の夜中に、チカッとするので何かと思ったら、ネズミが膿を
かじりにくるんですよ。そうした苦しい苦しい思いをしました。
でも、いま考えてみると、ちょうど今年が六十周年。ほんとに夢のような日々を送ってきたと思う
わけですが、現にみなさん、私が七十四歳になるわけですが、私の年代のものでないと、ほんとのそ
のときの模様というのは、もう話すことも聞くこともできないと思うんですね。
そのときに小学校一年生だったというのは、はっきり覚えてない、おぼろながら覚えておるぐらい
なことだろうと思いますが、私は中学三年生の満十四歳でございますので、そのときのことをありあ
りと覚えております。いま私も、世界に向けて、ひとりでも多くの方がたに叫び続けていきたい。
今度の戦争は、必ず原爆戦争なんですよ。この地球上には原爆が五万発あるという。それも十年前
から五万発あるというようなことを言われておるわけですが、近ごろ、アメリカがまた小さい原爆を
つくったというようなことも報じられております。また劣化ウラン弾というのもアメリカが使って、
そのためにたくさんの方がたが癌になり、いまもそのことで放射能によって苦しい思いをしておられ
る方がたもおられるわけです。
それで私がここで申しあげたいことは、今度の戦争は間違いなく原爆戦争。だから、このあいだも
テレビが報じておりますが、中国においても、韓国においても、北朝鮮においても、アメリカにおい
ても、シェルターと言うのですか、避難の場所、もう核戦争を予測して、五百メートルも千メートル
も地下へ立派な防空壕をつくっているということを報じておりますね。みなそれはもう、見越してお
るんですよ。絶対に核戦争になる。だから、その難を逃れるためには、地下につくる以外にはないん
だということで、日本ではそういうことをいま聞きませんけれども、外国ではもう現実の問題として
やっておるということは確かなんです。
ということは、原爆戦争に絶対なる。広島から出られた本願寺派宗会議員の武田昭英さんが、それ
には百年後のいまの浄土真宗のこと、いわゆる東西本願寺は百年後にどうなっておるのだろうか、ど
れだけの寺が残り、どれだけの信徒があるんだろうかということを予測して書いておられました。
私は百年先ではないと思う。もう非常に緊迫しておると思うんですよ。いまの北朝鮮のこと、また
中国とのこと、ソ連のこと、アメリカのブッシュさんの考え方、いろいろな諸条件を見ておりますと、
ほんとに戦争というものはおかしなもの。さっき、吉崎先生もおっしゃいましたが、ほんとに裏があ
るんですね。
やっぱり戦争というものは、仕掛けるものがおるわけですよ。悲しいですね。私は思います。この
二十一世紀の世のなかに、人が人を殺し合うことぐらい情けないことはないと思います。万物の霊長
たる人間が、この世のなかで、あるものは分け合って、お互いに手を取り合って、仲良く、お念仏と
ともに、強く明るく生き抜いていくことはできないのでしょうか。私は残念に思います。
親鸞聖人には、いろいろなお言葉がありますが、
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこ
と、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
。
ありがたいお言葉ですね。
「そらごとたわごと」
、何がまことか、何が嘘か、皆目わかりません。こ
の世のなかに、まことというものは存在しないんですね。戦争中には、天皇陛下万歳、天皇陛下のた
め、忠君愛国ということを申しておりましたが、戦後になり、民主国家となりました。
あの戦争中には、ときの軍隊にカンフル注射を打たれて、のろしを上げ、天皇陛下のため、いのち
を捧げてもいいと言って特攻隊で戦死したものもいますし、天皇陛下のため、忠君愛国と言って出征
し、戦死した人がたくさんいるわけです。
その人たちのことをいま思いますと、だまされた、悲しい。西本願寺も、東本願寺も、日本の仏教
界も、戦争に協力してきた。ほんとに恥ずかしい限りであります。
いまから私たちの将来、私たちの子どもやら孫たちが、戦争のない平和な世の中を生きてもらいた
いと思うわけです。そのためにはいま、私たちは何をすればいいか。これが問題でありますが、私は
あらゆるところに行って、
「戦争は絶対に反対です」
、
「原爆も絶対に反対です」と言いたい。
あのニューヨークのマンハッタンのビルに、テロリストが二機の旅客機を乗っ取って、乗客もろと
もビルにぶち込んだとき、私はすぐに思いました。それは、私たちの七高僧の法然上人のお言葉です。
法然上人の父親があるもののやいばによって、いま亡くなるという、その断末魔に、
「絶対にこの仇を
取るなよ、よう言っておくぞ。その仇をおまえが取ったら、またその子どもが、おまえを狙う。だか
ら絶対に取ったらならんぞ」ということを申されました。
私は、その言葉をすぐ思い出しまして、ブッシュ大統領も、ぐっと腹をこらえ、ぐっと耐え忍んで、
復讐ということは絶対してもらっては困ると、すぐ思いました。けれども、二週間か三週間かしたら、
遺族の方がたやら国民が、
「ええい、やっつけろ」
、
「やれやれ」ということで、ついにブッシュさんも
攻撃をやりだしたわけです。それから泥沼になって、フセインは最近、捕まえましたが、ビンラディ
ンは、まだ捕まっておらんわけです。泥沼に入りましたね。悲しいことです。
だからそのこころを抑えて、
「言いたいことは、あした言え」という言葉があります。かっとなった
り、ぱっと言ったのではいかんのです。かっとなって、ぱっと腕を振ってはいかんのです。じっとこ
らえて、
「言いたいことは、あした言え」と。一晩ゆっくり休んで考えて、そして翌日ものを言えとい
うことなんです。
藤秀翠先生の言葉に、
「欲や怒りや愚痴が出る。出るたびごとに御仏の慈悲のこころに立ち返り、力
の限り生きていく」という詩があります。私はこのことをいつも思います。人間は、欲や怒りや愚痴、
三毒の煩悩に迷わされて、今日も来る日も、貪欲、瞋恚の煩悩を燃やしどおしに燃やして、私たちは
生きておるんですよ。
そのなかにも、振り上げた手を下ろさせていただくというのはやはり、
「欲や怒りや愚痴が出る。出
るたびごとに御仏の慈悲のこころに立ち返り」
、腹が立ったら、そのこころを、仏さまのお慈悲によっ
て下ろさせていただく。力がいりますよ。下ろさせていただくということは、そしてみなさん、明る
い社会をつくっていくというのが、私たち仏教徒に与えられた、僧侶としての使命だと思います。
いまから、そうした核の時代に、もう入っておるということなんです。いま、原爆が五万発あると
申しましたが、五万発ではない、十万発かもわからん、二十万発かもわからん。原爆というのは、資
料館へ行って見てもらったらわかりますが、ちょうど畳一畳です。畳一畳を丸くした、いわゆるリト
ルボーイ、小さい少年と言って、あだ名がつけられておるわけです。その原爆が、広島の五百八十メー
トルから六百メートルの上空で炸裂して、一瞬にして十万人。あとから後遺症で、原爆病で亡くなっ
て、ひとつもけがをしていなかった人もいる。
この光寺さんの姉さんで、私の一級上、それが広島県女に通っておったのですが、ちょうどそのと
き市内の電車に乗っておりまして、被爆したんです。五日市の正向寺で、私が「痛い、痛い」と寝て
おるときに、
彼女が私の枕元へ来て言いました。
「あなたは、
ひどいやけどをしとるね。
痛いだろうね」
。
見れば、彼女はひとつもやけどをしていない。
「あんたはよかったな、どこにおったんな」と言った
ら、
「電車のなかへ乗っとった」
。それで無傷だと言って、私はうらやましかった。けれども、その彼
女は、二週間で急に髪の毛が、ぱぱっと抜けるんですよ。それで、亡くなった。放射能を吸っていた
わけです。
だから、そういうような人々が、数万人いるんですよ。直射で亡くなった人と、あとから、ひと月
もふた月も半年もして、急に髪の毛が抜け出して、斑点が出て、ぽこっと死んでしまった人。これが
いわゆる放射能に冒された方がたなんですね。
だから、
これほど恐ろしいものはないということです。
普通の爆弾とは違うわけなんです。
みなさん、ほんとに原爆の恐ろしさは、まだまだ六十年たったいまも、その放射能によって苦しん
どる人もあるんですよ。これぐらい恐ろしいものはないということ。もし原爆戦争になったら、人類
は全滅します。ね、そうでしょう。
テロがいまも原爆を持っておる。テロがニューヨークをやった。今度はアメリカが、またやった、
またやられた、またやった、またやられた。ばんばんばんばん原爆がこの地上で炸裂して、放射能が
まき散らされて、人類はひとりも生存することはできないということは、科学者が証明しておるんで
すよ。恐ろしいですね、みなさん。
地球上にいま生存しておる人間が、五十六億人いるそうですね。その五十六億の人間が、みんな仲
良く助け合って、なぜ生きていくことができないのでしょうか。それは、私たちの一人ひとりのここ
ろのなかを見たときに、口先ではいいことを言いますが、やはり、私の真実のこころのなかには、こ
ころは邪渇のごとくと。口ではいいことを言うけれども、どうもおさまらない我執我欲の、この私が
おるということであります。
人々のため、社会のためという、
「人の為」と書くということは「偽り」だという方もおられます。
そうですね。社会福祉、人々のため、社会のためでありますが、ほんとに人々のため、社会のために、
いまからお互いに仏教徒としては、生きていかなきゃならんと思うわけです。
どうかみなさん、このたびは、こうしてお忙しいなかを、全国から広島にはせ参じていただきまし
た。広島は、そのように六十年前に、ほんとに人類歴史がはじまって以来、これだけの大量虐殺の土
地はなかったわけです。だから、これだけ大ごとが起こったんだから、いついつまでも風化させては
ならないわけです。
けれども、広島市内に住む若い人たちに「広島へ原爆が落ちたこと知っとるか」と聞いたら、
「知ら
ん」
。あの惨状は知らないんです。だんだん風化していくんですよ。風化していけば、また戦争になり
かねない時代がいま起こっているわけですね。だから私たちは声を大にして世界中に、この六十周年
を記念として叫び続けていかなければならんと思っておるわけであります。
時間がありませんので、こうしておきます。まことに話し下手なので、思うようには話せませんが、
私は原爆を受けて、ひどい目に遭い、苦しい目に遭い、同級生がみんな亡くなったということを思う
ときに、こうして生き永らえさしてもらったことに対して、ほんとにありがたいと思うとともに、亡
くなられた人々のために、私はあくまでも世界平和に向かって叫び続けていかなければならんと、責
任を感じておるわけであります。
このたびは、ほんとにありがとうございました。ようこそご参集くださいました。ありがとうござ
いました。
(以上)