ドクター安達の海外旅行記 パート6 日本原水協NPT再検討会議ニューヨーク派遣団 2010 年5月1日(土)∼8日(土) Ver1 2010 年 5 月 9 日 記す 茨木診療所所長・西淀病院副院長 安達克郎 2010 年 5 月 1 日∼8 日、ニューヨークで開かれた 2010 年 NPT 再検討会議に日本原水 協・大阪原水協を通じて代表団の一人として参加してきました。日本原水協を通じての参 加は 1500 名以上、大阪原水協を通じての参加は 120 名以上、大阪民医連からは 17 名が参 加したとのことです。(2005 年の参加者は日本原水協を通じて 800 名、大阪民医連からは 5 名) 派遣団は出発日や訪問先の日程で多くのコースに分かれており、大阪の私を含む 3 人(平 林、向井、安達)は、L コース(終了後サンフランシスコ滞在)に参加しました。L コー ス参加者は 38 名でした。L コースは各班に分かれ、私たちは4班(14 名)の一員として 行動しました。現地では基本的に班でまとまって行動することが要請されました。 5月2日のニューヨーク行動には1万人が参加したそうです。現地で大阪の他グループ と一緒になり、タイムズスクエアの近くで集会を行い、その後国連本部前までデモ行進し ました。多くの出会いがあり、世界から集まった反核運動家と交流できました。昨年の長 崎原水爆禁止世界大会で知り合った、ジョセフ・ガーソン:アメリカフレンズ奉仕委員会 (彼は今回のニューヨーク行動の責任者だった)、退役軍人のアン・ライトさんと再会し、 お話することができたのは幸運でした。 現地での行動は、ニューヨーク行動以外に、署名活動、「アンジェラスの鐘」上映会、 アメリカ 2 大核施設の 1 つリバモア研究所の見学、サンフランシスコ大学での被爆証言集 会、オークランド市日系人グループとの交流会などがあり、日本から参加の人たち、また 海外の多くの人たちと知り合いになり、交流・学習することができました。 5 月 3 日から約 3 週間にわたって NPT 再検討会議が行なわれます。この会議の共同議長 のインドネシアのカバクテユラン氏と国連上級代表のセルジオ・ドアルテ氏(軍縮担当) やパン・ギムン国連事務総長は、核兵器のない世界をめざし、核兵器廃絶条約締結に向けて 一歩前進をはかることに積極的な強い意志を持っていることがうかがえました。アメリカ、 中国、ソ連の出方が気になるところです。核兵器廃絶をすすめるためには、日本の原水爆 禁止運動をはじめとする、世界の反核運動の声が国連に届くようにすることがとても重要 になっている、ことが強調されました。 20 年前アメリカを訪れたとき英会話の実力のなさに嘆きましが、今回はかなり聞く耳も 上達していて、多くの人たちと話すことができました。「世界を知って、日本を変えよう」 という日本 AALA の精神で今後とも世界の人たちと交流していきたいと思っています。 1 日程表 ニューヨーク・サンフランシスコ(L コース)「私が参加した実際の日程を記す」 日次 月日 都市名 1 5 月 1 日 成田 発 デトロイト 着 デトロイト 発 ニューヨーク着 2 5 月 2 日 ニューヨーク 3 4 5 6 7 8 現地時間 15:00 13:50 17:25 19:08 09:30 14:00 15:40∼ 17:10 夕食 5 月 3 日 ニューヨーク 午前 14:30 16:00∼ 18:30 夕食 5 月 4 日 ニューヨーク 09:30∼ 11:30 15:00∼ 17:00 夕食 5 月 5 日 ニューヨーク 発 10:00 サンフランシスコ着 13:44 夕食 22:20 5 月 6 日 サンフランシスコ 午前中 11:00∼ 14:20 16:00∼ 19:00 夕食 5 月 7 日 サンフランシスコ発 13:05 5 月 8 日 成田 着 15:55 スケジュール 空路デトロイトへ(所要時間 10 時間 40 分) 空路ニューヨークへ(所要時間 1 時間 20 分) 着後ホテル PARK CENTRAL セントラルパークで署名行動 ニューヨーク行動集会(タイムズスクエア) 国連前までデモ行動 各自:メキシコ料理店 市内パノラマ観光 ピース・コンサート(リバーサイド教会) 公開シンポジウム「核兵器禁止・廃絶のプロセス をいかに踏み出すか」(リバーサイド教会) 各自 「医療・福祉関係者のつどい」 (SEIU ビル) 「アンジェラスの鐘」上映 (スタテン島ノートルダム女子高校) 各自:韓国料理店 空路サンフランシスコへ(所要時間 6 時間 45 分) 市内観光 日系人と夕食交流会(オークランド市) ホテル Whitcomb 市内観光(ケーブルカー) リバモア研究所見学 被爆者証言集会 (私立サンフランシスコ大学) レストランで夕食交流会 空路成田へ(所要時間 10 時間 46 分) 解散 2 ドクター安達の海外旅行記 パート6 日本原水協NPT再検討会議ニューヨーク派遣団 NPT 再検討会議 in New York and San Francisco in 2010 2010 年 5 月 1 日(土)∼8 日(土) 2011 年 5 月 13 日(ver2) 茨木診療所所長、西淀病院副院長 安達 克郎 1 日目 2010 年 5 月1日(土)西宮 晴れ → 成田 → デトロイト → ニューヨーク 晴れ 6:45 に家を出て、7:15 には伊丹空港に着く。8:00 発の成田行き ANA2176 便に乗り、9:20 に は成田に到着、気温は 21.2℃の標示。けっこう暖かい。4 万円を US ドルに両替すると413ドルだっ た。4GB の SD カードを購入し、ついでに「ひとり歩きの会話集①英語」も買っておく。このシリー ズはわかりやすく、ハングル、スペイン語、フランス語と買って今まで勉強してきた。けっこう役に立 った。機内で読むのに適当だろう。 集合の 12:30 まで時間があるので食堂に入って時間をつぶす。友の会機関紙に投稿する糖尿病の記 事が出発するまでに書けなかったので書こうとしたが気が乗らない、ええい、帰ってから書こう。頭は もう NPT モードだ。 10 分前に集合場所の G カウンターに行くと長蛇の列。必要資料をもらって手荷物を預け、わが L コ ース(サンフランシスコ経由)は、喫茶アビヨンで打ち合わせ。担当の日通旅行の江尻さんから説明を 受ける。班長は滋賀から参加の市原弥壽子さんと決まっていて、副班長は平林先生、記録係り兼署名係 りは向井君に決まる。お土産屋さんがいたのでみやげの宅配を注文する。 時間がないのでみんな急いでセキュリテイチェックを受け搭乗口に。14:25 には機内に、デルタ航 空 272 便は 15:15 に離陸する。機内では旅行前の疲れがたまっていたのかほとんど眠って過ごしてい た。機内食を 2 回食べ、中継地のデトロイトに着いたのは日本時間の午前 2:40、約 11 時間 40 分のフ ライトだった。時計を 13 時間遅らせ現地時間 5 月 1 日午後 1:30 にする。 約 4 時間の中継地での待ち時間の後、ニューヨークに向けて 17:50 に離陸したが、わが L コース 38 名中 13 名は座席が取れてなく別便での移動となる。隣に座った添乗員の江尻さんに、キャビンアテン ダントがいろいろ気を使った彼女に励ましの言葉をかけていた。 ニューヨークの JFK 空港には 19:12 に到着、約 1 時間 10 分のフライトだった。しかし、空港到着 後も何人かのトランクが破損していてその手続きで出発が遅れ、バスが空港を出たのは 20:40 だった。 同室になった喜多さんのトランクは使いものにならないとのことで、たいへん立派なおニューのトラン クをもらっていた。不幸中の幸いというところか。 車中で簡単な注意がある。チップは 15%くらいで、タクシー(イエローキャブ)も必要とのこと。地 下鉄は 1 回どこまででも2ドルでバスへの乗り換えも 2 時間以内なら同じチケットで OK とのこと。公 園は、昼間は比較的安全だが夜は危険な区域として一変するので(ゲイや麻薬取引の場になるのだとい う)、近寄らないようにすること、など。 爆弾騒ぎがあったとかで一部通行止めになっており、バスは少し迂回して、21:25 に宿泊予定のホ テル PARK CENTRAL に到着する。平林先生、喜多氏と 3 人でホテルの前のデリカテッセンに食事に 行く。スパゲッッテイと思って頼んだミートソースは、思っていたものと違ったものが出てきた。あま りうまいとは言えない。23 時過ぎにホテルに戻り、もう疲れもたまって風呂に入るとすぐに眠ってしま った。別便は 23 時過ぎに空港に着き、ホテルに着いたのは 24 時を過ぎていたそうだ。 3 2 日目 2010 年 5 月2日(日) ニューヨーク 晴れ 3 時半ごろいったん目が覚めたがすぐに眠れて、次に目が覚めたのは 7 時 20 分頃だった。4 人で(平 林、向井、喜多、安達)すぐ近くのベーグルで有名な店 Café Europa に行く。ハム、チーズ、野菜を中 に入れて焼いてもらい、コーヒーとバナナ 1 本も頼んでも 5 ドル少々で安い。食後少しの時間セントラ ルパークの散策に出かける。5 年前の集会はこのセントラルパークで行われ、本当にたくさんの人でご った返していたと、平林先生。 午前中、セントラルパークで署名活動 10 カ国の人から 120 名の署名を集める 9:30 にロビーに集 合し、午前中は署名行 動。わが班は 7 Av を 上ってセントラルパー クの入口のところで署 名を始める。大矢さん が公園の石壁に持って きた横断幕を展示し、 早速タンバリンをたた きながら「no more セントラルパークでの署名活動 喜多氏、大矢夫婦 war! Please sign.」と 叫ぶ。喜多さんは滋賀民商ののぼり。大矢夫人や市原夫人 は熱心に声をかけたくさん署名を集めていた。平林先生と 向井君は公園の中に入って行って 30 人分の署名を集めて 来た。 交差点の向こう側には京都から参加のメンバーが「we wish nuclear weapon-free world.No more Hirosimas.No more Nagasakis,No more war」と大きな声で訴えている。 私も一緒に声をかけ署名をしてくれた人にはみんなに 「Where are you from?」 と尋ねる。そして、折り鶴と短 冊を渡す。約 1 時間半ほどで 10 カ国余り 120 人の署名が 集まった。 午後はタイムズスクエアで集会、国連本部までデモ行進 12:50 集会のあるタイムズスクエアに向かって 4 班みん なで歩いていく。タイムズスクエアは思ったより狭い場所だ った。多くの集会参加者が集まっていて、別班で参加の大阪 組みや全日本民医連の長瀬事務局長、大河原事務局次長など にも出会う。長瀬事務局長とはキューバ視察で、大河原事務 局次長とは韓国平和ツアーでお世話になった。全日本民医連 で 2 回のキューバ視察を行って、5 月 14 日キューバ国大使 公邸で 50 人が夕食会に招待されたそうだ。ああ、日程が合 えば参加するのだが 平日の金曜日とあっ ては東京に駆けつけ ることができない。 市原さんはたくさん署名を集めていた タイムズスクエアに集結したデモ参加者 できるだけ多くの海外の人と知り合いになろうと、チャンスが あれば声をかけ、名刺を交換し、写真に撮る。 ヴァージニアから駆けつけた Ryan 夫婦 4 日本からの横断幕を両端で持っている外人カップルがいた。粕谷さんという方に英語を教えていた Ryan 夫婦だった。粕谷さんが NPT 再検討会議に参加するのでわざわざバージニア州から手伝いに駆け つけたのだと言う。 カリフォルニアの原爆研究所(リバモア研究所)で働いている婦人たち、ノルウエイからやってきた グループ、ワシントンに本拠を置く WIL PF(Women’s International League for Peace and Freedom) リバモア研究所から来た婦人 ノルウエイから来たグループ などの人たちに声をかけ一緒に写 真を撮っていく。彼らも日本のグ ループと一緒に写真を撮るのを喜 んでいて、次から次に各人のカメ ラが渡される。 WIL PF(Women's International League forPeace & Freedom のご婦人たち カナダから参加のドクター・ Nancy Covington さん カナダから参加の Nancy Convington さんは、Phycians for Global Survival というグループ のドクターだった。カナダといえ ば IPPNW の共同議長をしている アシュフォードさんを知っている かと思って尋ねたが知らなかった。 池田先生にカナダのドクターがいる と言うと近寄って来て、「私は被爆 者の方を 50 人以上診ている。彼らは 多重の癌に苦しめられている」など と被爆者の現状を説明していた。 14:00 頃集会が始まる。世界各国の 代表が登壇し、核廃絶を訴える。日 本からも被爆者の木村緋紗子さんが ユタ州から来たグループ 発言していた。空気は生暖かくとて も大阪のデモ隊列の場所にいられなかったので抜け出して通路を散策する。発言台のところまでやって きた。見るとプレゼンターの紹介 をドイツ反核法律家協会のライナ ー・ブラウン氏がやっていた。な つかしい、原水爆禁止世界大会で 顔見知りになった人だ。そして総 合司会をアメリカフレンズ奉仕委 員会のジョセフ・ガーソン氏がし ていた。彼とも長崎の原水爆禁止 世界大会で会って分科会で彼の本 を買いサインをもらっている。彼 らと再会できることを願いつつ来 総合司会をしていたジョセフ・ガーソン氏 5 たのだが、本当に会えてよかった。なにせこの大事な集会で司会をしているのだから、彼らは世界の反 核活動家の中でもかなり名の知れた人なのだ。 発言台のところまで行ってみた デモに出発する集会参加者 次々に世界の人たちからのアピールが続く。しかし、生暖かい場所で長時間の立ちっぱなしは体にこ たえる。司会者は早く発言を締めくくるよう急かしている。壇上の前に椅子席があり被爆者と思われる 方が 50 人ほど座っていた。街角に、きたがわてつさん、橋本のぶよさんがいたので声をかけ一緒に写 真を撮る。2 人は明日のピースコンサートで歌うことになっている。デモに出発の 15:30 が近づいて きた。大阪のメンバーの所に戻っていく。 15:40 になった。さあこれから 国連本部前までデモ行進だ。横断幕 を持ち黄色い T シャツを着た大阪 からの参加者もデモ行進を開始す る。ぼくはときどき隊列から抜けで て他の参加者の様子を探りに行く。 沿道の人たちに折りヅルや自分た ちのアピール文を渡していく多く の人がいる。バーモントから来た Putney 高校の生徒たちのパフォ ーマンスは音楽あり、踊りありで、 沿道の人たちの注目を浴びていた。 TV 局も取材をしている。ときどき 歌を歌いながら大阪のグループは デモを続ける。 大阪から参加のデモ隊 17:10 やっとデモ終了地点の国連 本部前にたどり着いた。ここでもス テージが設けられ、歌をメインにい ろいろなパフォーマンスが行われて いる。日本の太鼓のグループやアフ リカの搾取され続けてきた人たちが 歌っていた。被爆者の下平さんの被 爆証言も行われていた。 あたりをうろついていると長崎の 田上市長のインタビュー場面に遭遇 した。日本の TV 局のようだ。イン インタビューを受ける田上長崎市長 6 秋葉広島市長を先頭に国連本部 へ要請行動する代表団 タビューが終わってまもなくして、横を見ると広島の秋葉市長を先頭に火を捧げ持ったグループが国連 本部の方へ歩いていく。明日から始まる NPT 再検討会議で「核のない世界を」つくるための国連への 要請行動のようだ。アメリフレンズ奉仕委員会のジョセフ・ガーソン氏もその隊列の中にいた。 彼らを見送って、ふと向こうの方を見るとなんと志位委員長と井 上哲士、笠井亮参議院議員ら一行が歩いてくる。赤旗で彼らがこの 会議に参加することは知っていたが、ここで会えるとは思わなかっ た。平林先生が「安達先生写真撮ってあげるよ」と言ってくれて、 この貴重な志位委員長とのショットが撮れた。 日本共産党の志位委員長に出会った ジョセフ・ガーソン氏がいた。彼に近寄 って声をかける。 「I met you in Nagasaki.I bought your book and had it signed.I read it and learned a lot.That is a great book」なんて言って一緒に写真を撮っても らう。みんなにも声をかけ、今日の集会で 総合司会をしていた人で反核運動では世界 の指導者の一人です、と説明する。ガーソ ン氏は僕らの後もいろんな人たちから声を かけられていた。 ニューヨーク行動の責任者ジョセフ・ガーソン氏と そして、今度はベンチに アン・ライトさんが座って いるのを見つける。彼女は 日本に何回もやって来て多 くの講演を手掛けている人 だ。米国軍人(大佐)で外 交官だった人だが、ブッシ ュのアフガニスタン侵攻に 抗議して職を辞し、世界各 国を講演して回っている。 ベンチに座っていた退役米軍人のアン・ライト氏を見つけた 市原さんが京都で行われた 新婦人の講演会で彼女の話を聞いたことがあるので顔を知っているという。彼女に近づいて話しかける。 「I met you in Japan.I heard your speech twice. I bought your book and had it signed.」などと言っ て会話をつなげる。彼女は大阪で講演したことはよく覚えていて、証拠の僕のデジカメ写真も見せると、 喜んで一緒に写真におさまってくれる。みんなも一緒に写真に収まる。隣にいた若い女性は Emma と いうミュージシャンで市原さんは CD をもらったそうだ。日本にも行きたいと言っていたそうで、その 時は彼女の家に泊めてあげると約 束したそうだ。それなら僕もと名刺 を渡して「When you come to Japan, feel free to contact with me.」なんて言ってしまった。まさ か連絡してこないよね。 顔に変な絵の具を付けた(後で核 兵器の印と分かる)グループに声を かけ一緒に写真を撮る。彼らはフラ ンスからの参加だそうだ。フランス フランスからの参加者 7 から! 覚えたばかりのフランス語を話してみた。今度 11 月にパリに行きます“Je vais a Paris cette Noviembre.” 通じたようだ。 彼らはみんなで 20 数人のグループで TV 局のインタビューを受けていた。そして、“The Nuclear Weapons Polices”と書いた模造紙に靴を投げていた。一緒になって大矢夫人は着物を着ていたので靴 の代わりに草履を投げていた。 ああ、疲れたなあ。足に豆ができたみたいだし、どうしてか腰 が痛む。喜多さんも腰が痛いと言っていた。長時間立ったままで、 しかもそのあと 1 時間半も歩いたからでしょう、と。少し腰を落 として一休み。すると隣にかなり年配のご婦人が座ってきた。 “Where are you from?”、 “Cuba”。ええ!キューバ! “I went to Cuba twice.”と言ってキューバ訪問時のデジカメ写真を見せ る。彼女は記念にゲバラのワッペンをくれた。隣の彼氏もキュー バ人と思いきや、フランス人だった。 キューバから参加の婦人 ああ、いろんな人に出会ったなあ! 集会後、7 人(市原夫婦、大矢夫人、平林、向井、喜多、安達)でメキシコ料理屋に歩いていく。大 矢ご主人が見当たらない。とても辛い牛肉のグリルを食べて引き上げる。これが原因かどうかわからな いが、平林先生は下痢になったそうだ。タクシーで帰ろうとしたが、近いためか乗車拒否され歩いて帰 る。21:00 ホテルに帰着、大矢ご主人が夕食も食べずに奥さんを待っていた。 3 日目 2010 年 5 月3日(月) ニューヨーク 小雨ときどき晴れ 7:30 昨日のデリーでベーグルの朝食。9:00 ニューヨーク市内観光にバスに乗り込むが 1 人やって 来ず。時間に遅れる人を待ったのでは、全体のスケジュールが狂うので、置いていこうと新婦人の○○ 氏は手厳しい。彼女が、昨日のニューヨーク行動について、全体の事務局の総括を報告する。全体で 1 万人の参加、前回 4 万人の参加だったので、数は減った。これをどう評価するか? 前回はブッシュ大 統領の戦争政策で、アメリカ国民自身の反戦ムードが高かったが、オバマ大統領になって核軍縮、平和 への流れができつつある、安定した世界情勢の中でも 1 万人が集結した、と考えれば評価もできるので はないか、と。 午前中はバスで市内のパノラマ観光へ 遅れた人がやって来て、バスは 9:30 にホテルを出発。藤上さんというガイドの方が案内してくれる。 タイムズスクエア、セントラルパーク、メトロポリタン美術館、ロックフェラー地区、ウオール街、9・ 11 のグランドゼロ、自由の女神が見えるバッテリー公園、国連前とコースをたどって、12:45 ホテル に帰着。 午後はリバーサイド教会で平和コンサート 別行動をとった市原 夫婦はメトロポリタン 美術館に行ったが長蛇 の列であきらめて周囲 を散策してきたとのこ と。13:05 ホテルを出 発、地下鉄に乗り会場の リバーサイドホテルへ。 市原さんが地下鉄の乗 り方を教えてくれる。コ ロンブス・サークルの所 にある大きなスーパー リバーサイド教会の会場ホール リバーサイド教会 8 マーケットですしを買って食べる。地下鉄の切符は 10 ドルのメトロカードを買う。1 回が 2 ドルで、5 回分使えるやつだ。大矢ご主人は、1 回分のチケットを買ったが、2 ドル 25 セントだった。1 回乗りは 割高になるのだ。13:58 地下鉄に乗り 30 分ほどでコロンビア大学駅に。 会場のリバーサイド教会はキング牧師が演説をした有 名な教会で、ニューヨークの民主主義的な運動のメッカ となっているところだ。会場に入るともうピースコンサ ートは始まっていた。中に入ると橋本のぶよさんが歌っ ていた。次に、きたがわてつさんが、「ヒロシマのある 国で」を歌い、みんなで合唱する。 天気がよく、近くに は公園もあるので途中 橋本のぶよ さん きたがわ てつ氏 で抜けだし、蝶を探し てみる。となりのさく ら公園で 1 頭のモンシロチョウに似たのを見つけて写真に撮る。きれ いな花も咲き、絶好の天気なのに蝶はこの 1 頭しか飛んでいなかった。 ところどころでリスが顔を出すので、写真に撮っておいた。 時々リスが顔を出す 公開シンポジウム「核兵器禁止・廃絶のプロセスをいかに踏み出すか」に参加 16:00 から同じ会場で公開シンポジウ ムが始まる。高草木原水協事務局長をコ ーデイネーターに 4 人のパネリストが参 加していた。ヒシャム・バドルエジプト 軍縮大使(非同盟諸国会議議長国)、ジ ョゼフ・ガーソン・アメリカフレンズ奉 仕委員会(彼は 5 月 2 日のニューヨーク 行動の責任者を努めた)、ポール・マー 高草木原水協事務局長と4人のパネリスト 会場の参加者 チン・ピースアクションニューヨーク代表、セーラ・カーチ ン・イギリス CND 副代表だ。各人が 15 分ほどスピーチを 行う。僕は不覚にもついうとうとしてしまい、話を中途半端 にしか聞けなかった。 会議の途中に日本共産党代表団の 3 名が顔を出し、志位委員長が 連帯のあいさつを行った。終了は 16:30。周りはまだ明るいの で僕は周囲を蝶がいないか散策することにする。リバーサイド公 園に降りて、 地下鉄 2 駅分、 1 時間ほど歩いたが全く蝶影はなく、 あきらめて引き上げる。ホテルに帰着は 20:00、疲れてベッド に横になるとそのまま眠ってしまっていた。 志位委員長が連帯のあいさつ 9 4 日目 2010 年 5 月4日(火) ニューヨーク晴れ 3 時頃目が覚める。TV をつけ、CNN を聞くと 5 月 1 日に起きたタイムズスクエアの爆弾事件の犯人が 捕まったと、詳しく報じている。おお! 僕の英語の耳も随分上達しているぞ、CNN ニュースはほと んどが聞き取れる。しばらくパソコンを打って、7:40 喜多さんと近くのデリーに朝食を買いに出かけ る。ビュッフェ形式で好きなものを選べ、重さで値段が決まる。たくさん盛ったので 10 ドル少々かか った。 午前中は医療・福祉関係者の集いに参加 今日一日は各分野での集会が予定されている。午前中、私たちは医療・福 祉関係者のつどいへ歩いて出かける。タイムズスクエアのすぐ近くにある SEIU 本部だ。少し道に迷ったが 9:40 無事会場にたどり着く。つどいは始 まっており、司会席に全日本民医連の長瀬事務局長、大河原事務局次長が座 っていて、井上哲士参議院議員があいさつをしているところだった。彼も被 爆 2 世だそうだ。日本共産党の主張を書いた1ページの要請文をつくり、国 連関係者や各国政府関係者と 懇談を行っていることを報告 していた。要請文の要点は2 つ、1つは NPT 会議で 2000 年に合意した核兵器国が核兵 器削減の明確な約束を果たす SEIU 本部ビル こととした決議を再確認する こと、2 つ目は核兵器廃絶条 大河原さん、長瀬さんが司会を担当 約締結のための交渉開始に合意すること。 議題に入り、はじめに SEIU のニューヨーク医師部会の責任者 Dr.トニー・ルイス氏から「アメリカ 医療者の反核運動とアメリカ医療保険改革をめぐる動向」の報告があった。彼女は非常に体格のいい黒 人女性だった。医師部会は約 3 万人のインターン・レジデン トを組織しているそうだ。演題の中味はもっぱら保険制度改 革の話だった。これまでいくら努力してもできなかった医療 保険制度の改革が 2009 年にやっと成立した。今まで医療保 険会社によって阻止続けられた法案だが、医師自身が高保険 ということもあり、50 万人の医師がこの法案に賛成するよ うになったとのこと。これまで無保険だった 3800 万人の人 が保険に加入できるようになり、徐々にではあるが改革が進 むことが期待できると。 会場には 150 人ほどが参加 次に、被爆者から、韓国原爆被 害者協会会長のキム・ヨンギル氏、 マーシャル諸島からよく知られ たアバッカさんが報告、予定され ていた第5福竜丸元乗組員の大 石又七さんは、国連の会議の都合 で出席できなかった。 Dr トニー・ルイス、キム・ヨンギル氏 マーシャル諸島のアバッカさん その後、各地の取り組みが報告 された。広島からは被団協を通じ 8 千人が被ばくを申請中だが、却下される人も少なからずあり、怒り の電話がかかってきている。広島の放影研はアメリカのエネルギー省から財政援助を受けているが、核 テロ対策のための研究を進めることに合意したのでその研究内容が極秘にされる可能性が懸念される、 と。滋賀・膳所診療所の今村先生が、滋賀は 6 人の Dr 中 3 人が参加していること、人口の 1 割 14 万 10 人署名をめざして、現在 11 万人達成したことなどを報告。沖縄から、日本では鳩山政権が辺野古海上 案を正式に提起してきたという日本の最新情報とともに、4 月 25 日県民大会では保守・革新までが合 意して県外施設という県民の意思を示したこと、今後の前進のためにはやはり安保条約をどうするかと いう議論まで検討していかなくてはならないのではないか、と報告。京都からは自転車に追突された看 護師さんのアメリカ救急医療実態報告が、その後北海道、三重、 京都、長崎とあり、最後に 130 名を超える最大数の派遣をした愛 知県の若い世代から民医連綱領を英文に直したものを持ってき たなどと、報告あり。各地の取り組みを聞いて、みんな多いに勇 気づけられたのではないだろうか。 11:30 終了。集会後は例によって、海外代表とのアリバイ写 真づくり。アバッカさん・Dr トニー・ルイス氏とスリーショッ ト、2 人の巨漢に挟まれると僕は押しつぶされそうなので後ろか ら少しだけ顔を出しておく。 アバッカさん、Dr トニー・ルイス氏 と 午後はノートルダム女子高校で「アンジェラスの鐘」の上映会 どういう事情か知らないが、愛媛民医連がニューヨークでアニメ映画「アンジェラスの鐘」の上映会 を 2 回行うという。まだ映画を見ていない僕も参加させてもらうことにする。平林先生は通訳も兼ね、 向井君はメカに強いということでその上映要員として、昨日に引き続き参加である。愛媛からは、和田 さん、宮崎さん、○○さん、 愛媛保険医協会の副会長の永瀬先生に 3 人の女性、 総計 10 人で参加した。脚本を書いた有原さんは国連の会議のためこの日は出 席できなかった 会場はスタテン島にあるノートルダムという女子高校らしい。昨日市内見学 で行った自由の女神が見えるサウスフェリーまで地下鉄で行き、13:30 発の フェリーに乗ってスタテン島に渡る。途中、自由の女神のすぐそばを通ったの でアップの写真が撮れた。14:00 船着き場で待っていると迎えの車が来て、 会場まで運んでくれる。すこし、ゴミゴミとしているが、のんびりしている感 じを受ける。マンハッタン島とはかなり雰囲気が違う。観光地ではなくマンハ ッタン島へ通勤する地元の人の郊外地というところだろうか? キャンパスに着いて学校関係者から歓迎のあいさつを受ける。開始の時間ま でのあいだ、少しコーヒー、お菓子やフルーツをいただいて待機する。 ノートルダム女子高校で「アンジェラスの鐘」を上映 自由の女神像 スタッフと記念撮影 15 時の開始時間になると 100 人を超える生徒たちが集ま ってきた。定刻に開始、上映に先立ってパトリシア校長先生 と渉外担当のトレーシー先生からあいさつがある。和田さん によると、昨日は長々と説教じみた挨拶だったので、今日の あいさつは短く要点をついたあいさつを要望した、とのこと。 2 人のあいさつの後、愛媛原水協和田さんが昨日寝ないで 考えた日本語の挨拶を英語に訳したものを、英語で話す。と てもわかりやすかったと思う。そして上映開始。日本語で英 11 会場には 100 人をこえる生徒が参加 語の字幕が出る。1 時間ほど経った頃、パソコンがヒートアップし映像 が途切れそうになる。和田さんや向井君がパソコンを持ち上げ少し振動 を加えながら DVD のデイスクが回るようにする。僕はときどきうちわで 風を送る。なんとか 1 時間 20 分、最後まで上映できた。 続いて被爆 2 世の溝浦さんが自分 の家族・親せきの写真を見せながら被 爆体験を語り、宮崎さんが核廃絶に皆 さんが協力してほしいと訴える。もう 時間がなくなった。フロアからの質問 はすぐにはでず、みんなに映画を見て の感想を書いてもらう。後で回収する と 50 人分くらいはあったのではない 家族の被爆体験を話す溝浦さん か。有原さんが直筆の生徒の感想が見 たいとのことなのでこの感想文は彼に渡すことにする。Impact!とだけ 書いたものもあり、相当な印象を与えたのだと思う。貴重な感想文なの で、あとでまとめておこうということになる。 挨拶する原水協の和田さん 生徒の感想文を回収 17:20 高校を出る。帰りは 1 時間かかってホテルまで車で送って もらう。19:00 平林先生が前回泊まったペンシルベニアホテルの近 くにおいしい韓国料理店があるからと、みんなで歩いていく。歩いて いける距離だからと平林先生言っていたが、実際は 1 時間もかかって しまった。エンパイヤステートビルのすぐ裏にある韓国料理店に行っ て打ち上げ。久しぶりのアジア料理で食事を堪能、「アンジェラスの 鐘」上映の効果も十分あったと思われた。遅くなったので帰りは地下 鉄にしたら 15 分ほどでホテルに着いた。もう 23 時を過ぎていた。 韓国料理店で打ち上げ 5日目 2010 年 5 月 5 日(水) ニューヨーク → サンフランシスコへ 今日はサンフランシスコに移動するので 5 時起き。6:00 にホテルを出発し、6:50 JFK 空港着。 9:18 離陸、6 時間 45 分のフライトで 16:40 サンフランシスコに到着。現地時間は 3 時間戻し、13: 30 に時計を合わす。日本とは 16 時間の時差だ(遅れている)。サンフランシスコでは、全労連の国際 局長布施氏が通訳・案内のために同伴してくれることになった。 まずはサンフランシスコの市内観光へ 現地時間 14:30 にバスに乗車、サンフランシスコの市内観光へ。 15:00 サンフランシスコ一番の繁華街にあたるユニオン・スクエアで 下車、写真撮影。中心街、チャイナタウン、イタリア街などを通って、 フィッシャマンズ・ウオーフで小休憩。16:35 ゴールデンゲートブリ ッジまで行って記念撮影。 サンフランシスコが一望に見渡せる展望台に寄って、18:15 ウイット コムホテルに到着。 ゴールデンゲートブリッジで 夜はオークランド市で日系人の人たちと交流会 夜はオークランド市で日系人の集まるパーテイがあるので L コー ス 38 人中 26 人が出かける。19 時頃ホテル前のバート(ba)という 地下鉄の 1 種に乗り、ベイブリッジの下をくぐり、対岸のオークラン ド市 Lake Meritte で下車。駅を出ると中国人のグループが中国将棋を さしている。案内パンフレットに中国語のものがあったので中国人も けっこう住んでいるようだ。 12 バート(ba)で移動 現地の人たち数人が車で迎えに来て運んでくれる。カラン西本さんがオーナーという芸術家の集まる スタジオのようなところだった。わざわざ私たちのために手作りの料理と豊富なドリンクで歓迎してく れた。 ひとしきり飲んで食べた後交流会が始まる。わが方は L コースの 大牧団長があいさつ、現地側はクレイグ松崎というアメリカフレン ズ奉仕委員会サンフランシスコ支部と親交のある人だ。彼は 2 年前 に原水爆禁止世界大会に参加したことがあり、その後3∼4回日本 に来たことがあるそうだ。沖縄出身の 3 世ウエスリー・サンフラン シスコ州立大学准教授が日本語で解説を加える。彼は 10 年間日本 に住んだことがあるという。 クレイグ松崎氏があいさつ さて現地の人にぜひお話したい人はというと、次々に手が挙がる。 東京の山田みどりさんは被爆2世、05 年の再検討会議にも参加したが被爆者本人がもう高齢で来ること ができず、彼らが存命の間に核兵器のない世界の実現に踏み出せるよう頑張りたいと。大阪の大矢勝さ んは国鉄労働者、1983 年に国鉄を解雇され清算事業団に、日本の政治革新と核兵器のない世界をめざ し頑張りたいと。埼玉の大場智子さんは日本で 9 条の会が 7500 以上組織されているが、埼玉で憲法 9 条を守るの一点でマスコミ・文化人 9 条の会を組織し 350 名以上の方が参加している、ここの人たちが 芸術・文化の造詣の深い人なのでひとこと言いたかったと。長崎の東よね子さん去年の秋は署名が 400 人くらいしか集まっていなかったので年賀状などで訴えると署名の輪が広がり、7438 人の署名を集め て持ってきたこと、こんなに署名が集まったので核兵器はなくせると確信したと。京都の久永淑さんは 2 枚のタペストリーに 200 人以上の寄せ書きを書いてもらい参加したこと、などの発言があった。 現地側は ウエスリー 准教授が進 行役。彼は、 10 年近く日 本に住んだ がこちらに 来て情報が ウエスリー、西本、松崎の3氏 6 年前にこちらに来たという川村さんがウクレレを披露 なかなか手 に入らず自分 のアイデンティティが課題と。田村さんという 3 世は父親が第 2 次世界大戦中は収容所に入れられてい たと教えてくれた。ウクレレ演奏は川村やすえさん、小学校 1 年生の娘さんはお母さんの腕にしがみつ いて恥ずかしそうにしている。彼女に日本語で話しかけると、日本人学校とアメリカンスクールに通っ ている、英語と日本語が話せる、そしてスペイン語もちょっと話せるの、と答えてくれた。 ウエスリー準教授、オーナーで何でも屋のカラン西本さん、太鼓うちのクレイグ松崎さんの 3 人が沖 縄の歌を披露してくれる。かなしい夜?だったかな、みんなで輪になって沖縄舞踊を踊る。大場さんの 踊りが沖縄風に見えたが、他の人はほとんど阿波踊り。そして島唄をみんなで合唱。また、西本さんが 日本でいえば尺八のよ うなネイティブアメリ カンフルートでネイテ ィブインデアンの曲を 演奏してくれた。最後に みんなで輪になって We shall overcome を 合唱、そして日本側は 「がんばろう」で締めく くる。 楽しい交流にみんなご機嫌 最後はがんばろうで締めくくる 13 はじめは、疲れているので 1 時間くらいで引き上げようとみんな言っていたのに、楽しい交流の夜は たちまち過ぎ、ホテルに戻ったのは 23:00 だった。 6 日目 2010 年 5 月6日(木) サンフランシスコ 晴れ ケーブルカーに乗ってみる 8:30 4人でホテルを出て、通りのハ ンバーガー屋で朝食。少し時間があるの で、観光名物のケーブルカーに乗ること にする。ドルが尽きたので近くの両替屋 で換金すると 1 万円が 78 ドルにしかなら なった。103 ドルになるはずだが、領収 書を見ると税金・手数料が 25 ドルも引か れている。ああ、街の両替屋で換金すべ きでないと知る。 ユニオン・スクエアにある始発駅まで 歩いていき、5 ドルの乗車券を買い、フィ ッシャーマンズウオーフの終点まで乗る。 上り下りが激しく、急ブレーキなどもあ り、睡眠不足もたたって気分が悪くなる。 時間がないので返りはタクシーを利用し 最後にケーブルカーの終点フィッシャマンズウオーフで記念撮影 た。運賃はチップをつけて 12 ドル。 午後はリバモア原子力研究所を見学 11:00 バスに乗車。ロス・アラモス研究所と競っているアメリカ 2 大核施設の 1 つリバモア研究所 の見学に出かける。Tri‐Valley CAREsというリバモア研究所の監視をしている団体の弁護士 Scott 氏 が案内のためバスに同乗する。 彼の所属する Tri‐Valley CAREsという団体の説明。Tri-Valley とは、3 つの山々に囲まれた谷間にあ るこの地域をさし、CARE は Communities Agaist a Radioactive Environment の略だそうだ。1983 年に組 織され 5600 人の活動家がいるとのこと。毎年 8 月 6 日には正門前で抗議行動を行っており、最近は 2 ∼3 千人の参加だが最高時 5 万人が参加したこともあると。リバモア研究所はこれまで累積すると広島 原爆以上の放射線漏れの事故を起こしており、がんの発生率特に子どものがん発生率が高まっている。 地下水、土壌、空気が放射能で汚染されている。こういった事実を住民に啓蒙する活動を行っている。 また反核・核兵器廃絶も運動の課題としており、今年の NPT 再検討会議にメンバーの 1 人を派遣した。 また、年 1 回、2 週間ほど国会議員やエネルギー省との交渉に出かけ、同じような団体と一緒に核予算 の削減を要求し、研究所を削減させたり、汚染を除去させたりの成果もあったそうだ。オバマ大統領は 新型核兵器の開発は止めると言うが、核開発予算は増えている、核兵器をなくすと言っていることと矛 盾するのではないかと、世界から指摘されている。 次いでリバモア研究所についての説明。リバモア研究所は 1952 年に設 立、8500 人の職員が働いている。多くは研究者で頭脳優秀な人を集めて いるとのこと。原爆を開発したオッペンハイマーもロス・アラモスで原爆 を開発したあと、ここで 20 年以上働いていたそうだ。設立当初は 5 千人 だった住人が現在 15 万人と増えている。予算の 85%を核開発研究に使っ ているが、見学者への説明は気候変動への応用など科学研究の成果を奨励 するものとなっている、とのこと。布施さんが、まあ私たちの見学は研究 所が公式的にどのように説明をしているかを聞きにいく程度と思ってく ださい、議論しても仕方ないですから、とコメントする。 リバモア研究所全景 14 スコット氏の説明に対して質疑応答があった。 Q:がん特に小児がんが増えているということを州政府は知っているのですか? A:認めています。小児がんは 6 倍の発生率です。また、2500 人の従業員・元従業員が核関連の病気に かかっていると推測され、私たちは運動によって一部の人に補償金を払わせたりしています。 Q:カリフォルニアは地震が多いといいますが、原子力発電所などへの影響を検討しているのですか? A:カリフォルニアには 2 つの原発がある。燃料棒を入れたりするところが問題。1970 年以降は原発を 作っていないが、オバマ大統領は 2010 年以降 100 ヶ所に新たに原発を作るといっている。これは、 温室効果ガスの削減のために原発に頼る政策だ。そうすると、最終処理施設が必要だがなかなか住民 の反対で思うようにいかない。2∼30 年はかかると思う。 Q:劣化ウランもここで作っているのか? A:この研究所の 2 ヶ所で作っている。 Q:医師や医療従事者はどのように運動に加わっているか? A:放射線研究には予算をつけないし、アメリカは利益追求の医療なので医師に協力してもらうのは非 常に難しい。従業員への被爆を調べるスクリーニング検査をサンフランシスコ大学と協力して実施 しているが。 Q:放射能汚染されている土地なのに人口が増えるのはなぜか? A:土地は安い、きれいである、犯罪も少ないので住みやすいと言える。この地域はカリフォルニアワ インの生産で有名なところ。地域に多くのブドウ畑があるが、トリジウムがブドウに蓄積するのでは ないかと懸念されている。有名なナパワインもここのブドウと混ぜ合わせてカリフォルニアワインと して売られているので将来が心配。核施設がなければここは非常に住みやすいところとスコット氏も 否定しない。そもそもアメリカ人は原発を危険なものと考えていない。そのように教育されている、 というか、不利な情報は徹底的に知らせないようにしているから。そのため核研究施設でも大して危 険と考えていない。したがって住民の啓蒙のため我々の運動が果たす役割は大きいと思う。 バスは、予定より早く 12:10 に研究所のビジターセンター(現地ではデスカバリーセンターと表示) に着く。ビジターセンターは 13 時に開館ということで、天気もよく、草原がひろがり、そこそこ花も 咲いているところもあるので、蝶を探して散策に出かける。 なぜか警官に呼び止められ尋問される 黄色い蝶やシジミチョウが飛んでいるのが見えるが、鉄条網 の柵で囲ってあり、中に入ることができない。一眼レフデジカ メを首からぶら下げ、手にはコンパクトデジカメを持ってうろ ついていると、前方にパトカーが止まり警官が降りてきて、ち ょっとこっちへ来いと手招きをする。 “What are you doing here?”。と聞かれても、蝶を採っている とは言わないほうがいいと思い、“Just walking around”と答え る。ますます不審に思われたのか、“You took some pictures”、 “Photos are prohibited?”、“Prohibited”、と言われたので取っ いかにも蝶が飛んでいそうな草原 た写真を見せる。まわりの畑と駐車場での集合写真だけだ。 “How did you come here?”、“By bus. I`mfrom Japan to visit the discovery Center of Livermore Institute. I‘m one of the forty people party. The center opens at one o’clock, so I ‘m just walking around here.”。“Show me your passport”。 しっかりパスポートナンバーや名前を控えてい る。次々とパトカーがやって来て止まる。少し動こうとすると“Don’t move”。 みんなが安達先生が警官に捕まっていることに気付き、通りの向こうの塀の中からこちらをうかがっ ている。何人かが取調べ中の写真を取っている。“Are they your party?” 。心配した布施さんや Scott 氏 が通りの向こう側の方に待機してくれている。警官が彼らの方に通りを横切って歩いて行く。Scott 氏と どんなやりとりがあったのか、僕の疑念は晴れ解放された。取調べの写真を撮っていた人のフィルムは 消すように目の前で消去の確認をしている。僕も消さないといけないのかと思いカメラをだすとお前は 15 消さなくて良いと?? Scott 氏に“I’m sorry to have bothered you so much. But I’ve had a good experience” と言うと苦笑いをしていた。こういう時は a bad expeience と言ったほうがいいのかな? 開放されて戻って来ると市原さんがポカリスエットやパンを持ってきてくれる。そういえば昼飯を買 ってくるのを忘れていた、ありがたくいただいておく。それにしても敷地内から出てはいけないことや 写真を撮ってはいけないことを前もって注意してくれてたら良かったのに。こんなにいい場所だったら、 一目散に蝶を探しに出かけることは安達先生にとっては当然だ。喜多さんは安達先生は蝶を探しに出か けて行ってるな、と思っていたそうだ。 ビジターセンターを見学 時間になり、ビジターセンターの見学に入る。敷地からいえばほ んの小さなスペースしか与えられていない。先方には核不拡散に興 味を持った日本の団体と説明してあると布施さん。Ryan Nelson とい う担当の女性から 20 分くらい説明を受ける。6500 人の職員が働い ており、世界トップクラスの研究員が集まっている。 最初のコーナーは、最大プロジェクトの Nation Ignition Institute で、 レーザーの発火装置としては世界最大規模のものとのこと。核爆発 につながる核融合の研究をしているらしい。そして世界で 3 番目に でかい IBM 社製のスーパーコンピュータがあると。この研究でコ ンピュータ・シミレーションにより核爆発の予測ができ、核実験を しなくてよくなったようだ。 宇宙物理学にも多いに貢献していると。 レーザー発火装置 次のコーナーは Home land Security and the War on Terrorism となっ ており、核のストックファイル(貯蔵)の研究をしているらしい。 3 つ目のコーナーは Science and Technology in the National Interest と あり、エネルギー、地震学、 放射能測定による年代推定な どの分野で研究所がおおいに 科学の発展に貢献していると 科学技術奨励コーナー 宣伝してあった。エネルギー については 30 秒自転車をこがせてそれがどれほどの電力を生じ るか結果を分かりやすく示すデモコーナーがあった。東京土建の 若い人がこいでみる。担当の女性は難しい質問に対しては、私は 大体小学 5 年生の生徒に説明するのが仕事ですと言ってかわして いた。 スコット氏を囲んで記念撮影 14:20 帰りのバスに乗る。2007 年から一部の施設で民営化が始まっていて問題になっている、と布 施さんがスコット氏との会話の中で聞いた情報を知らせてくれる。運動する側から言えば、公的機関に は情報公開法があり一定期間たてば情報が公開されるのだがそれができなくなる可能性、研究者の側か ら言えば、公務員としての身分の安定や健康保険などの厚生面で不利になる可能性があり、表立って反 対できないのでブログを立ち上げて意見を言いあっているそうだ。 夕方は私立サンフランシスコ大学で被爆者証言集会を開催 アメリカフレンズ奉仕委員会サンフランシスコ支部主催の被爆者 証言集会が私立サンフランシスコ大学で催されることになっている のでバスで向かう。途中、サンフランシスコ市庁舎に立ち寄り写真撮 影、日本人街を通って 16:00 現地に到着、アメリカフレンズ奉仕委 員会のサンドラさんが迎えに来る。 証言集会は 18:00 からで時間があるので彼女の案内でキャンパス を見学、 その後売店でおみやげに USF (University of San Francisco) 16 サンフランシスコ大学 のマークの入ったボールペンやキーホルダーを買っておく。そして署名 も行なった。長崎からの参加者はどこでも署名に取り組み、本当に熱心 だ。僕もお手伝いをして通り過ぎようとする学生カップルに声をかける。 “We are from Japan. And collecting signatures from all over the world in order to abolish nuclear weapons. Could you sign here?” おお、僕の英語も大 分すらすらと言えるようになってきたぞ。女子学生が“Oh, I lived in Saitama.”と言って署名してくれる。話がはずみ、「いつ来たの、いつ帰 るの、埼玉は暑かったわ、あなたのお名前は」なんて聞いてきたので名 署名をしてくれた女子学生 刺を渡しておいた。 証言を聞きに来た学生 そろそろ時間だ。会場の Fromm Hall の方に移動する。入 り口の扉に集会の案内のポスターが貼ってあった。The USF Politics Department and International Studies Program Present: NO MORE HIROSHIMAs & NAGASAKIs とある。マーシャ ル諸島のアバッカ・アンジャイン・マディソンさんと長崎の 被爆者佐久間洋子さんが証言すると紹介してある。聞くとこ ろによるとこれは政治学部と国際関係学部の正式な授業で 出席すると単位がもらえるということなのだそうだ。昨日の 日系人の人たちも松崎さんをはじめ何人かが出席していた。 時間になり、司会役の女子学生が授業の進行役を勤める。はじめに佐久間さんが用意してきた A4用 紙 2 ページ分の手記を読み上げる。次に日本から同世代の学生として長崎出身の北里大学の衛生検査学 部1年の山田くんがニューヨークまでやって来た自分の思いを述べた。彼はこの会場に来てから突然発 言を依頼されたようだ。女子学生の反応は Specutacular(とてもすばらしい)だったとのこと。ついで アバッカさんがパワーポイントを使ってマーシャル群島の被爆の実態を証言する。マーシャル群島では 60回以上にわたり水爆実験が行なわれ、その影響は2世、3世の世代まで影響が及んでいるとのこと だ。 報告する長崎被爆者佐久間洋子さん、 田中くん、 発表が終わると定刻の 19:00 を過ぎていた。質問を 受け付けたが学生から質問の手は上がらなかった。学 生はこれから授業 の人もいるし(え え?これからも授 業があるの?)、 夕食も食べないと いけないし、との 事情もあったよう だ。布施さんが前 から見ていると多 くの学生が熱心に 佐久間さんに質問にきた日本人学生 ノートを取ってい 17 マーシャル諸島のアバッカさん アバッカさんを囲んで記念撮影 たので関心を持つ学生も少なからずいるようだと励ましてくれた。学生 126 人が参加したと報告された。 終了後原爆投下に関する勉強をしているという他学部の日本人の学生(2 世のようだった)が佐久間 さんにいろいろ質問していた。終了後は例によってアバッカさんを囲みアリバイ写真作り、いや記念撮 影。それぞれが各人のデジカメで撮るので何回もポーズをくり返した。 その後レストランで夕食交流会 19:40 バスで出発、30 分ほどでホテルに帰着。少し休憩して、近くにあるレストランの夕食交流会 へ歩いて出かける。アバッカさんが 2 人の若い女性を連れていたので、娘さんですかと訪ねたら笑いな がらマーシャル出身のこちらの大学の留学生ですと笑いながら答える。それにしては若く見える 2 人だ。 どこの大学かと聞くとノートルダム大学という。ええ! 僕たちは昨日スタテン島のノートルダム高校 でアンジェラスの鐘というアニメ映画を上映してきた、あなたたちはアンジェラスの鐘というアニメを みましたかときくと、いいえという答え。アバッカさんも見ていないという。 サンフランシスコ市庁舎の見えるレストランに落ちつく。ゲストの政治学部の教授、アバッカさんと 2 人の学生、クレイグ松崎氏とサンドラさんは、日本からのお客と交流のためそれぞれ分かれてテーブ ルにつくことに。平林先生はさっそくサンドラさんの横に陣取る。僕もサンドラさんの隣に席を取る。 布施さんは追いやられて別のテーブルに。あとから司会をしてい た女子学生が顔を出し僕らのテーブルに座る。彼女は Maria といい、 政治学部の 4 年生だった。すぐに平林先生と僕が“You were a very good chairman”と本当に上手だった司会の手腕を賞賛する。 平林先生が 3 人を相手に英語で喋りまくる。 僕は時々口を挟む。 サンドラさんにマイケルムーアのシッコを見たか? あれで興味 を持ってキューバに2回行ってきたこと、彼女は、まだ見ていな いが今度ぜひみようと思っている、どころで、オバマ大統領をど のように見ていますか?ときかれる。日本の被爆者はオバマ大統 領の核兵器のない世界発言を多いに歓迎している、しかしどうも 僕はオバマは信用できないと。向井君と喜多さんは英語があまり 聞けないので、2 人で身内の話に興じている。 Maria に、卒業論文のテーマは何だったの聞くと、実は、Women’s Right in Afuganistan after 9/11 Terrorism とのこと。なんて難しいテ ーマだ、と感嘆し、ところで就職は決まったのと聞くと、まだ市 庁舎で働こうか、放送やジャーナリズム関係で働こうか迷ってい るところと言う。平林先生が政治学部出身とすると政治家にでも なったらいいのに、と励ます。僕が、そうだそうだ、目標は大き くどこかの市長にでもなったらと言うと、ええがんばって市長く らいになるわ、と見栄?を張る。ああ、アメリカ人らしい。 サンドラさん クレイグ松崎氏とマリアさん クレイグ松崎氏に、今年の原水爆禁止世界大会(これ は英語で World’s Conference against Atomic & Hydrogen Bomb というと布施さんに聞いておいた)に来ますか、 その時にまた会いましょうと言うと、行きたいがお金が 工面できるかどうか分からないと。来れないと誠に残念、 でもいつかどこかでまた会いましょう、と伝える。 楽しい交流の時間はまたたく間に過ぎてお開きとな る。ホテルに帰ったのは 22 時を過ぎていた。 7 人そろって記念撮影 18 7 日目・8日目 2010 年 5 月7日(金)・8日(土) サンフランシスコ → 成田 →伊丹 6時頃目覚めしばしパソコン打ち。8:15、4 人でベジタリアンの店に行くが閉まっていて、ユニオ ンスクエアの方まで歩いていくことに。僕はデジカメの電池を入れ忘れホテルにいったん帰り、後を追 ったがみんなと合流できず、ホテル近くのハンバーガー屋で 1 人で食べる。 10 時過ぎバスに乗り、10:25 空港に到着。手荷物預けやセキュリティチェックは簡単に終わり、11 時過ぎには搭乗口に。電源を確保し、しばしパソコン打ち。12:20 搭乗口に集合、簡単に大牧団長が 閉めのあいさつをする。全員の写真を撮ろうとしたが時間がなく、機内へ移動する。13:10 デルタ航 空 DL635 便はサンフランシスコを発ち、 成田へ向かう。 飛行時間は 10 時間 46 分との機内アナウンス。 機内ではせっせとパソコンを打つが 1 時間もしないうちに電池切れ。コンセントはないかとキャビンア テンダントに聞くがないとのこと。エアーカナダには各席にコンセントがあったのに。向井君がトイレ にコンセントがあったというのでトイレに入ってコンセントに挿すが、どうも電源が充電されている様 子がない。仕方ない、寝ることにしよう、向井君が睡眠薬のレンドルミンを持っていたので 1 錠もらっ て飲む。僕は出発のとき急いでいて全く薬を持ってくるのを忘れてしまっていた。 飛行機は予定より 35 分早く、日本時間の 8 日 15:55 成田に到着、バスで第 2 ターミナルに移動し、 国内線に乗り換える待ち時間もパソコン打ち。18:55 成田を出発、フライト時間 55 分で伊丹 20 時到 着、妻に迎えに来てもらい 21 時に無事自宅に帰り着く。現地でせっせと旅行記を書いていたので今回 は何と帰国翌日に(日曜日だったので一日中パソコン打ち)旅行記を書き上げることができた。 Lコース(ニューヨーク→サンフランシスコ)4 班 14 名の記念撮影 at San Francisco 19 NPT 再検討会議、ニューヨーク行動に参加して さて、NPT 再検討会議は 5 月 3 日に始まり約 3 週間続く。情報によると、会議の議長であるインド ネシアのカバクテュラン氏とセルジオ・ドゥアルテ国連上級代表(軍縮担当)の 2 人、さらに国連事務 総長であるパン・ギムン氏は、核兵器のない世界をめざし、核兵器廃絶条約締結に向けての強い意志が 認められるが、アメリカや中国、ソ連がどう対応するか、どういう結果になるか予断は許さない。 彼らは、日本の原水爆禁止運動をはじめとする、世界の反核運動の声が国連に届くことが大変重要で あると強調している。私たちはどうなろうとも今後とも核兵器のない世界をめざし、粘り強く闘ってい くことが求められている。 私が自覚的に反核平和運動に取り組むようになったのはまだつい最近のことである。まだまだ不勉強 で、いろんな機会を通じて平和の取り組みに参加し、多くの人と交流し学んでいかなければならないと 思っている。昨年の長崎の原水爆禁止世界大会にも始めて参加した新参者である。被爆者は 65 年もの 間苦しめられ、多くの犠牲を払っている。どうしても、彼らの生きているうちに核のない世界を実現し たいと思う。理論的には、核抑止政策を打破することが必要である。 ひるがえって、第 2 次世界大戦では、日本はアジアに対しては加害者である。韓国平和ツアーを通じ て、日本の加害者の立場も経験し、学んできた。保守から、日本の平和は日米安保条約でアメリカに守 ってもらっていたからだ、言われると、日本人の多くの人が反論できないのだろうか? いやいや普天 間基地撤去・移設の問題では、民主党政府自身の対応に沖縄県民や鹿児島県民はノーをつきつけている。 9 条の会も粘りつよく国民の間に浸透していっている。日米安保条約もみなおす時期が来ているとの国 民世論ができつつあるのではないか、とこの間の情勢の進展を見ていると感じたりする。 平和運動は、多くの人との交流の中から学ぶことも多く、しかもやりがいのあることなので活動して いて元気が出る。世界の人たちとの交流も励みになる。今は、日本のそして世界の人たちと知りあいを つくっていく人脈つくりの時期でもあると思っている。世界を知って日本を変える、という日本 AALA の標語は全く僕の実体験に合致している。今後もねばり強く平和活動に取り組んでいくつもりである。 20
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