メモリアル・コンサート

隠者のように生きた、知られざる名匠、
濃密で熱狂的なその遺産の真価を問う!
池野
成
メモリアル ・ コンサート
片
―山杜秀
2006 年 11 月 23 日(木・祝) 開演 14 時 00 分
―
第一生命ホール(トリトンスクエア)
開場 13 時 30 分
池野 成
メモリアル・コンサート
プログラム
PROGRAM
〈第一部〉
Hommage à Sei Ikeno from “To the night of Gethsemane”
池野 成への追悼 「ゲッセマネの夜に」より
松村 禎三 作曲
Hommage à Sei Ikeno “BAIRO”
池野 成への追悼 「陪臚」(初演)
今井 重幸 作曲
The Japanese Yo-kai Wars
「妖怪大戦争」(初演)
池野 成 音楽/藤田 崇文 構成・編曲
Suite Symphonique Cinématographiquement No,1
「映画的交響組曲」第一番(初演)
池野 成 音楽/今井 重幸 構成・編曲
1 “Preludio per Montagna e Rio”
「山河への前奏曲」
2 “Metamòrfosi di Fuga”
「フーガの変容」
3 “Torre grandióso di Bianco”
「白い巨塔」
4 “Poèma”
「ポエマ」
5 “Melodia”
「メロディア」
6 Finale Rapsodia “Acqua Rósso”
狂詩的終曲「赤い水」
指揮 永野 裕之/管弦楽 池野 成メモリアル・オーケストラ
< 休憩 >
< 第二部 >
DIVERTIMENTO(ディベルティメント)2000 [8打楽器](公式舞台初演)
渡辺 由美子& Discussion of Percussion"Q21"
FRAGMENTOS ANTIGUOS(古代的断章)1984 [12 トロンボーン・6 打楽器]
指揮:吉川 武典 東邦音楽大学トロンボーン・アンサンブル
東邦音楽大学パーカッション・アンサンブル
TIMPANATA(ティンパナータ)1977 [独奏ティンパニ・1 フルート・3 ホルン・3 トロンボーン・1 チューバ・5打楽器]
独奏ティンパニ:有賀 誠門 東京音楽大学トロンボーン・アンサンブル 他
撮影:出口寛泰(表紙・プロフィールとも)
EVOCATION(エヴォケイション)1974 [独奏マリンバ・6 トロンボーン・6 打楽器]
指揮:有賀 誠門
独奏マリンバ:髙梨 晃
伊藤 清と東京音楽大学トロンボーン・アンサンブル
有賀 誠門パーカッション・アンサンブル
主 催:池野 成 メモリアル・コンサート実行委員会
後 援:日本作曲家協議会 東京音楽大学 日本打楽器協会 日本管打・吹奏楽学会実行組織機関
助 成:財団法人 朝日新聞文化財団 /
協 力:ヤマハミュージック東京 銀座店/ジャパン パーカッション センター
/株式会社河合楽器製作所 雑司が谷店/平凡社出版販売株式会社 吉田 正一
/東宝ミュージック株式会社
特別協賛:荒木 俊行
池野
成 [ 作 曲 家 ] Sei IKENO
1931 年司法官である父の任地であった
江口隆哉・宮操子により発表された舞踊 ( ラ プ ソ デ ィ ア・ コ ン チ ェ ル タ ン テ )
」
北海道札幌市に生まれ、間もなく父の転勤
曲「作品七番」が 1953 年「ダンス・コン
(1983)
「古代的断章」(1984)「OCTET(八
に伴い東京に移る。
セルタンテ」として改作、上田仁指揮、東
重奏曲)」(1984)「PRELUDE(プレリュー
祖父はイチョウとソテツの精子を発見した
京交響楽団第 58 回定期公演において演奏
ド)」(1989)「TAMBURATA(タンブラータ)
」
ことで世界的に著名な植物学者 池野成一郎。
され注目を集める。
(1996) 等がある。
東京芸術大学において池内友次郎、伊福
これまで東京音楽大学、東京芸術大学に
また、これまで吉村公三郎監督「夜の蝶」
、
部昭に師事。
おいて作曲・管弦楽法の講師を務め多くの
川島雄三監督「雁の寺」
、山本薩夫監督「白
1952 年「序奏と交響的アレグロ」が第
人材を育成する。
い巨塔」、福田純監督「電送人間」
、黒田義
21 回日本音楽コンクールに管弦楽曲部門
作品に「EVOCATION(エヴォケイショ
之監督「妖怪大戦争」等、数多くの映画音
第2位入選。山田和男(一雄)指揮、NH
ン)」(1974)「TIMPANATA(ティンパナー
楽を手がけ、担当作品は 200 本を越える。
K交響楽団により演奏される。
タ)」(1974)「RAPSODIA CONCERTANTE
2004 年8月 13 日歿
in memoriam & Program Note
「池野成を偲ぶ」
「作曲の同志・池野成を偲んで」
松村禎三
今井 重幸
作曲家 池野成は 2004 年八月の暑い日盛りに亡く
全なままの作品を発表することなどは到底考えられない
池野成との交友は粗、58 年にも及んだと思う。最初の出会い
なった。享年七十三才、肺癌による死であった。
ことであった。物腰が低く、慇懃ではあるが、正にした
は敗戦直後、焼け残りの連隊跡に統廃合で移った旧制青山中学校
彼とはじめて会ったのは芸大受験の時、池内友次郎先
たかな精神貴族であった。この潔癖からくる多くの苦し
2年の時、クラブ活動が解禁されたのを機に、小生は先輩を差し
生のお宅でであった。高校時代ラグビー部のキャプテン
さに彼は堪えつづけたと思う。
置いて音楽部を創設、合唱団を組織し編曲・指揮等を始めた頃、
をやっていたという彼はそれに似あわず痩せぎすで大そ
「よかったね」開放された美しい死顔に向ってそう言い
ラグビー部に居た池野成をピアノ伴奏役で引き摺り込んだのが始
う優しく慇懃な若者であった。彼と私は忽ち何でも語り
たくなった私自身に驚いている。彼は強靭な人生を完結
まりだった。
合える親友になり、奇跡のようにこのことは五十数年間
したのだ。
或る時、突然彼が、「東大受験から芸大作曲科受験へと方向転
変わることがなかった。
換するよ。」と云って来た時から、彼とは音楽論・作曲の方法論
池野の作曲活動の立ち上がりは瑞々しいものであっ
今日池野成を偲んで、私の作品『ゲッセマネの夜に』
等を語り合う刎頸の同志と成って行ったのである。
た。1952 年、管弦楽曲「序奏と交響的アレグロ」で毎
の一部を演奏していただく。
その後の彼は、オーケストラ作品に意欲を燃やし、「序奏と交
日音楽コンクールに入賞、つづいてモダンダンスの江口
この曲は、オーケストラ・アンサンブル金沢の委嘱に
響的アレグロ」、舞踊曲「作品七番」を立て続けに書き上げるの
隆哉・宮操子舞踊団より委嘱され管弦楽曲を作曲、それ
よって書かれ2002年に初演された。2003年に一
であるが、1956 年、吉村公三郎の「嫁ぐ日」の音楽を担当して
を演奏した上田仁と東京交響楽団は直ちに定期演奏会に
度改作し、同団によって演奏されたが、その後更に手を
からは、映画音楽の世界に身を投じる事になる。
とり上げ「ダンス・コンセルタンテ」という名前で演奏
入れて演奏された。
それからの池野成は、大変な研鑚と努力とその才能で、多くの
され、このことは新鮮な出来事として注目された。映画
この曲を書いている間、終始私は一つの絵と向い合っ
大監督の信頼を得て、二百数拾本にも及ぶ映画音楽の名作を、世
監督吉村公三郎が彼に映画の仕事をたのむようになった。
ていた。ゲッセマネの夜、ユダがイエスに接吻するジョッ
に残す事になるのである。
「四十八歳の抵抗」や「夜の蝶」の中で彼は驚くべき新鮮
トの名作コピーである。二人が対い合っている部分を拡
それだけ映画界で必要とされた映画音楽の名匠であった池野成
な曲を書いた。そのまま音楽として自立し得るような密
大したものであるが、イエスもユダもすばらしい顔をし
であるが、小生に対しては常に、効用音楽としての映画音楽に対
度の高い美しい触感をもったものであった。
ている。
しての、欲求不満とコンプレックスとの葛藤を自嘲気味に吐露し
彼は伊福部昭先生の門下であった。芸大で管弦楽法を
イエスのまなざしはユダを突き刺し、通りこして永遠の
続けて居た。
教えておられた先生に出会って衝撃を受け、ヨーロッパ
彼方に人間の悲しい営みを見とおしているように思える。
然し彼は、身過ぎ世過ぎとは云いながら、一度映画の仕事を受
一辺倒の音楽から絶縁しようとして、先生が辞められた
この透徹さにあやかりたいという思いがこの曲を書く
けると、映像を活かす為の音楽として真摯に立向かい、全エネル
のと同時に芸大を中退してしまう。 池野の映画音楽の
ためのエネルギーの基盤になった。
ギーと時間を費やして作曲し続けたのである。
水際だった仕事は当然のこととして多くの監督達に注目
その後、映画界を離れて自由な時間を取り戻した池野には、映
された。次から次へ映画の仕事がつづき、池野はその厳
画音楽で培った最も得意とするオーケストレーションを駆使し
しい現場を経て高い技術を身につけたと思う。彼こそは
て、彼の生涯に於ける、究極のライフワークであった純然たるオー
演奏会用のすばらしい管弦楽曲を書かなくてはいけな
ケストラ作品を、数多く書き遺して欲しかった。
かった。しかし、初期の作品といくつかの舞踊曲以外には、
彼が病魔に冒され気落ちしなければ、それは十分可能であった
数曲の打楽器を中心にした曲と、一曲のヴァイオリン協
と思うと、返す返すも残念で堪らない。
奏曲を残しただけで彼はその生涯を閉ぢてしまった。
最後に、此のメモリアル・コンサートで、池野成を追悼して贈
池野ははしたない自己顕示を極端に嫌った。先祖は位
る小生の小品「陪臚」(バイロ)は、彼が理想の音感覚として志
の高い士族であり、今も恵林寺に代々の墓碑が並んであ
向したチベットに因んだ、東アジア的志向の小品である。
る。祖父池野成一郎は蘇鉄が精子によって繁殖すること
「陪臚」とは、日本に渡来した林邑<リンイフ>(今のヴェト
を発見した植物学の泰斗であり、日露戦争があったこと
ナム辺り)の僧・仏哲に依って伝来した、「倍臚破陣楽」と云う、
を終わる迄知らなかったという伝説をつくられた程の純
音楽の一様式と伝えられて居る。
粋な学者であった。直系の孫である成少年は何時も祖父
の散歩に連れ出されていたという。池野成の超俗の根は
この辺からくるのかもしれない。自己顕示のために不完
恩師 伊福部昭古弟子会 新年の集い 伊福部邸にて
(前列左から 石井眞木、今井重幸、黛敏郎、伊福部昭、松村禎三、
後列左から 池野成、眞鍋理一郎)
右中上:バルセロナの別邸にて
右中下:東京、府中の自宅にて栄子夫人と共に
岐阜県、郡上八幡にて
(左から 池野成、松村禎三、今井重幸)
撮影:出口寛泰
京都撮影所は対抗心を燃やし、翌66年、時代劇と特撮物
「妖怪大戦争」(初演)
池野 成 音楽/藤田 崇文 構成・編曲
を結びつけた「大魔神シリーズ」を立て続けに3本も連作
1968年から翌年にかけ「妖怪時代劇3部作」を生み出
妖怪大戦争/構成・オーケストラアレンジについて
藤田 崇文
主に音源資料、映像資料などを参照しながら編曲を試み
た。原曲は劇伴音楽の特徴である映像優先に音を書き加え
られた当時の様子が伺え、絵合わせに音を差し込んでいる
為、全般的には断片的で数秒の効果音的な音楽が占められ、
ひとつの音楽作品として成立するまで構成に苦労した。
しかしながら確かにそこには「池野トーン」が存在してお
り、映像を引き立てる音効果のツボをしっかり捕らえてい
るかように映画音楽の巨匠ならでは仕事ぶりに感銘を受け
た。改めて深い尊敬をおき「池野モティーフ」を尊重しな
がら編纂に取り組んだ。また、スタジオ録音の為、オーケ
ストレーションを意図的に薄くしていた経緯が伺え、新た
にコンサートホールで演奏可能な2管編成のオーケストラ
曲にアレンジした。
留意した点は3点。ひとつの楽曲として成立すること。
特殊な打楽器やハープ、ピアノは使用せずどこの団体でも
選曲可能こと。アマチュア団体でも演奏可能な難易度にす
ること。以上の3点を念頭におきながら取り組んだ。
した。1968年は、水木しげるの漫画『ゲゲゲの鬼太郎』
がテレビアニメ化されて「妖怪ブーム」を巻き起こし、そ
れまでの「怪獣ブーム」が霞んでしまった年である。大映
京都の魔神から妖怪への移行はこれと関係している。
『妖怪大戦争』は「妖怪時代劇3部作」のうち第2作に当
たる。第1作の『妖怪百物語』は妖怪に人間が脅かされる
恐怖映画の体裁をとっていたが、第2作は妖怪同士の闘い
を描いている。つまり、橋本力の扮する古代バビロニアの
吸血妖怪、ダイモン(悪魔を意味するデーモンの元になっ
た古代ギリシア語のダイモンに由来するのだろう)が、江
戸時代中期の日本にあらわれ、伊豆の代官、神田隆の肉体
を乗っ取って暴れ、河童、ろくろ首、青坊主といった日本
の妖怪たちと闘うのである。他に青山良彦、川崎あかね、
内田朝雄らが出演。
この映画の音楽は、日本の妖怪とバビロニアの妖怪とに
それぞれの動機を割り振っている。前者は、半音階上をグ
リッサンドでうねるトロンボーン群の運動とヴァイオリン
の増4度のグリッサンドの組み合わせで、そのグリッサン
ドは妖怪の非現実的浮遊感と結び付いており、またトロン
ボーンの扱いには《春の祭典》からのエコーがある。後者
妖怪大戦争
1968年の大映京都作品。吉田哲郎の脚本を黒田義之
が監督した。
大映は東京と京都に撮影所を持ち、前者が主に現代劇、
後者が主に時代劇の製作を担当した。どちらの撮影所も特
撮スタッフをかかえ、1950年代のうちから彼らはそれ
Suite Symphonique Cinématographiquement No.1
「映画的交響組曲」第一番 (初演)
は、トロンボーンとバス・トロンボーンが禍々しく響かす、
やや西アジア的な感触のある5音動機で表現される。妖怪
同士の闘争音楽ではやはり《春の祭典》が参照されており、
今井 重幸
片山杜秀氏(音楽評論家)と出口寛泰君(CD・Album「池野成
の映画音楽」の企画プロデューサー)から、池野成の映画音楽の
中より、その要素を基に、純音楽としての演奏会用オーケストラ
作品に、構成・編曲するように勧められた。
実際に構想を立て始めると、多くの難関に直面してしまった。
御承知の通り映画音楽は、監督の要求により、映像のカット・
カットに寸法を合わせて作曲する為、必然的に短く断片的で、
終止形の無いフェイド・アウトの音楽が多いのである。
その多くの断片を分析・分解して、原作者の音楽的意図を損な
わない様に、再構成すると云う作業は、大変至難の技であった。
此の「映画的交響組曲」第一番では、シリアスな山本薩夫の3
作品、「傷だらけの山河」「赤い水」「白い巨塔」の映画音楽より、
映像へのイメージを考慮しながら、6つの小品に纏め、交響組曲
として完結したものである。
今後、もし機会があったなら、連作としての第二番・第三番も、
構成・編曲したいと思っている。
1 “Preludio per Montagna e Rio” 「山河への前奏曲」
2 “Metamòrfosi di Fuga”
「フーガの変容」
3 “Torre grandióso di Bianco”
「白い巨塔」
4 “Poèma”
「ポエマ」
5 “Melodia”
「メロディア」
6 Finale Rapsodia “Acqua Rósso” 狂詩的終曲「赤い水」
映画解説 片山杜秀
期が訪れる。1965年、東京撮影所が大映初の本格的怪
(CD「池野成の映画音楽」解説書より抜粋転載)
傷だらけの山河
1964年の大映東京作品。石川達三の同名小説の映画化。脚
色は新藤兼人。高度成長に伴う国土開発によって破壊される山河
と、非情で強欲な大資本家の金で愛情を買うやり方によって人格
を破壊される家族や愛人たちとを重ねて描くことで、戦後日本の
経済至上主義と拝金主義を撃つ作品。私鉄を経営し沿線開発に執
念を燃やす山村聡は、家庭では暴君で、女性にも貪欲で、正妻の
村瀬幸子のほか、若尾文子、丹阿弥谷津子らを囲い、子供もあち
こちに作り、もっと愛人を増やそうとする。その強引なやり方に
周囲の人間たちの心は引き裂かれてゆき、ついに正妻とのあいだ
の息子、高橋幸治が精神を病んで、山村の建てた学校に放火し、
私達はこの演奏会を応援しています
くす。主題曲は、5度和声を土台としながらそこに半音を付加し
的にうねってもがく旋律をかぶせてゆく。それは無意識の底から
首をもたげる激しい欲望そのものである。
赤い水
1963年の大映東京作品。杉浦明平の同名小説の映画化。脚色
は柳沢頼寿と山形雄策と山本。原作者はイタリア・ルネッサンス
文学の研究者にして文芸批評家、小説家であり、愛知県の郷里で
共産党所属の町会議員を長くやって、その体験に取材した風刺的
ルポルタージュ小説を連作しもした。それらは日本のムラ的・非
民主的・談合的・利益誘導的・なれあい的政治風土を活写するも
ので、山本の映画にとっても恰好の素材だった。山本は杉浦の原
作で『台風騒動記』とこの『赤い水』の2本を撮っている。
『赤
い水』は、町の寺の札付き住職、伊藤雄之助が、寺の裏山から赤
い水、つまり良質な鉱泉が出たと真っ赤な嘘をつき、織田政雄の町
長や、船越英二、城健三朗(若山富三郎)らの町会議員を巻き込ん
で土地の値段をつり上げ、更にはありもしない温泉をあることにし
て観光の目玉にしようと、裏金を使って県から温泉の認定証をとろ
うとするという筋書き。それはまさに出鱈目極まる日本の政治の縮
図である。音楽は、千鳥足の行進曲というか、5拍子を主体にした
乱痴気騒ぎ風のものを主体とし、欲につかれた愚者たちの饗宴を表
現する。
山本薩夫 監督
彼は1910年7月15日、鹿児島で生まれ、松山と東京で育
ち、第一早稲田高等学院に学び、左翼新劇運動に関わったのち、
1933年、松竹蒲田撮影所に入って助監督となり、成瀬巳喜男に
映画・監督解説
なりに活躍していた。そして1960年代半ば、大きな画
(ここでは患者)を如何にコケにするかを、山本は剛直に描き尽
てドロドロと混濁させた響きのひっぱりの上に、金管群が半音階
「映画的交響組曲」第一番に就いて
終曲は日本趣味とラヴェルの《ダフニスとクロエ》の融和
である。
に田村高廣、小川真由美らが共演。硬直した官僚的組織の中での
出世競争が如何に人間の精神を歪め、彼らが本来奉仕すべき民衆
池野 成 音楽/今井 重幸 構成・編曲
し、続いて巨大な魔神から小振りの妖怪に路線を変更して、
村瀬は家を出、家族は崩壊する。音楽は、金管群の形成する強圧
株式会社河合楽器製作所
雑司が谷店
〒一七一 〇
- 〇二二
電話
〇三 三
- 九八三 〇
- 九五〇
FAX
〇三 三
- 九八三 一
- 二〇二
東京都豊島区南池袋二ノ十ノ六
平凡社出版販売株式会社
吉田正一
〒一〇二 〇
- 〇七三
東京都千代田区九段北四ノ二ノ十一
電話
〇三 三二六五 五
- 四六九
FAX
〇三 三
- 二六五 五
- 七一四
東宝ミュージック株式会社
〒一〇〇 〇
- 〇〇六
電話
〇三 三二〇一 二
- 四〇〇
FAX
〇三 三
- 二〇一 二
- 四〇三
東京都千代田区有楽町一ノ七ノ一
有楽町電気ビル北館十四階
arranger's note & Program Note
獣映画『大怪獣ガメラ』をヒットさせたのである。それに
The Japanese Yo-kai Wars
的な音塊を軸に相手を傷だらけにする暴力を表象する主題曲と、
資本家の非情さ、或いは資本の自己増殖を目指す非情でメカニッ
クな運動と連携する絶妙な疑似バロック風フーガなどから成る。
白い巨塔
つき、
翌年、
成瀬のP.C.L(後の東宝)移籍に同行し、
1937年、
監督に昇進。
『田園交響楽』などを撮り、1943年、出征して大
陸を転々とし、
戦後は第一作の『戦争と平和』
(亀井文夫と共同監督)
で左翼的立場を判然と示して、1948年、
「東宝争議」に絡んで
東宝を退社。以後は諸々の独立プロ、大映、日活などで、左翼色の
強い映画を中心に作り続けた。1983年8月11日歿。
彼の戦後の作品は、現代劇にせよ時代劇にせよ、支配階級が民
衆を搾取し抑圧し社会から正義や公平を奪っているとの図式を基
本に、そういう世の中の過酷な現実を観客に直視させようとする
ものが多かったが、それらの映画は、左翼的な理想を幾ら掲げて
も容易に改まらない日本の有様を見せようとすればするほど、左
翼的な理想の実現を阻む政治家・資本家・軍人・その他の体制的
エリートを強固で懐の深い存在として描かざるをえず、結果とし
て、下の民衆より上に立つ側が魅力的に見えてしまうとのジレン
マを抱えた。勿論そこにこそ、山本映画の面白みもある。
片山杜秀(CD「池野成の映画音楽」解説書より抜粋転載)
1966年の大映東京作品。山崎豊子の同名小説の映画化。脚色
は橋本忍。田宮二郎扮する国立名門大学医学部の外科の助教授が、
退官する教授、東野英治郎の後釜におさまるべく、義父の石山健
二郎の財力や学部長の小沢栄太郎の政治力を頼みながら、権謀術
数の限りを尽くし、反対する東野らを押し切って教授の座を射止
めるも、教授選の激闘に気をとられ、手術に失敗して患者を殺し、
遺族に告訴され、苦境にたたされる。そして裁判の証人に、教授
選では田宮に敵対していた医学界の重鎮、滝沢修が呼ばれ、田宮
は絶体絶命と思われるが、滝沢は名門大学の権威を守るという大
局的判断から田宮に有利な証言を行い、田宮の勝利に終わる。他
楽曲解説
DIVERTIMENTO(ディベルティメント)2000
Program Note
[8打楽器]
(公式舞台初演)
TIMPANATA(ティンパナータ)1977
[独奏ティンパニ・1 フルート・3 ホルン・3 ト
ロンボーン・1 チューバ・5打楽器]
8人の打楽器奏者のための音楽。作曲者が1990年代
ティンパニ独奏と、池野の音色・音量・音圧に対する独
から長く過ごした、スペインのバルセロナで作曲された。
特な嗜好の生んだ特殊な小オーケストラのための協奏曲と
本日が公式舞台初演となる。
考えてよい作品である。小オーケストラの編成は、木管楽
クロタル、鉄琴、ヴィブラフォン等の金属系の響きによ
器としてコントラルト・フルート1(通常のフルートと持
るレントの序奏に始まり、次第に高潮して、主部の強靭な
ち替え)のみ、金管楽器としてホルン3、トロンボーン3、
プレストの舞曲調へと突入する。そこではまず、ティンパ
テューバ1、それから、5人の打楽器奏者の受け持つ、ティ
ニ主奏による8分の5+8分の6(8分の 11)拍子のリズ
ンパニ、キューバン・ティンバレス、トムトム、カウベル、
ムが繰り返され、次にティンパニ、コンガ、トムトム等が
コンガ(各種サイズ)
、アフリカン・ストレート・ドラム、
長長長短短短のリズムをユニゾンで派手に叩く4分の3+
キハダ、カスタネット、大太鼓。この作品を委嘱し初演し
8分の3(8分の9)拍子を経て、マリンバ主奏による4
たティンパニ奏者、有賀誠門に献呈されている。
分の4(8分の8)拍子の箇所になる。そのあと、ティン
序奏は緩やかである。ティンパニとコントラルト・フルー
パニによる8分の 11 拍子の音楽の再帰などを挟んで、ス
トの対話が、金管群のドローンを介添え役としてなされる。
チール・ドラムの活躍する8分の7拍子が来、ティンパニ
続いて第1のアレグロ。コンガが8分音符を3つ叩いたあ
の炸裂する4分の3(8分の6)拍子で頂点を築き、序奏
とに8分休符がひとつ入る具合に聴こえる、4分の2拍子
を再現する後奏が付いて結ぶ。
のリズム・オスティナートの上で、ティンパニと打楽器群
つまりこの作品は、8分の 11 拍子から、9拍子、8拍子、
が激しく掛け合う。やがていったん落ち着き、序奏の素材
7拍子、6拍子と次第にリズムを詰め、切迫させてゆくと
による間奏を経て、第2のアレグロへ。ここが曲の山場で
いう明晰な構図の上に、打楽器のヴァイタルな音圧を探究
ある。第1のアレグロでは脇役だった金管群が旋律的な要
するのである。
素を担って活躍し、
ティンパニとジャズ風に扱われたフルー
する音色の上で、アフリカ系の打楽器に親近感を抱き続けてきた
ばかりでなく、音楽の実体の上からも、多くの点で吾国の打楽器
の音楽と親近性を見出だすことが出来得ると考えている。」
コンガの膜の厚さの保証する響きの量感と圧力が、池野にとっ
て、トロンボーンと同じく、大変に魅力あるものだったと分かる
好文章である。本日の他の曲でも、打楽器セクションの芯は、揃っ
てコンガなのだった。
全体の構成は、急緩急の3楽章が連続するようなかたち。最初
のアレグロはABAの3部形式で、Aが8分の5拍子、Bは8分
の4拍子を基本とする。緩徐部分は、トロンボーン群のドローン
を背景に、マリンバが瞑想的に歌うもの。フィナーレのアレグロ
は、8分の8拍子系のリズムで一貫し、最後にはマリンバにドソ
ミというわらべうたか何かのような非常に単純な旋律が裸で出、
童心に回帰したようになって、素朴に結ぶ。
この作品には、本日の他の曲と同じく、アフリカと中南米の音
楽からの強い示唆がある。暑い土地のヴァイタルな民俗の響きは、
強烈な音圧や音勢を夢見続けた池野の、常なる模範のひとつで
あった。
トの対話もある。そうして大いに高潮したあと、ティンパ
ニのカデンツァが来、そのまま減衰してゆき、終わる。全
FRAGMENTOS ANTIGUOS(古代的断章)1984
体にアフリカ音楽の影響が強い。
[12 トロンボーン・6 打楽器]
9本のトロンボーンと3本のバス・トロンボーン、及び
6人の打楽器奏者の受け持つ、ティンパニ、コンガ(各種
EVOCATION(エヴォケイション)1974
[独奏マリンバ・6 トロンボーン・6 打楽器]
サイズ)、中国シンバル、ギロ、シンバル、スタンパー、ク
ロタル、カウベル、キューバン・ティンバレス、ボンゴ、
アフリカン・ストレート・ドラム、大太鼓、トムトム(各
種サイズ)のための音楽。池野のトロンボーンへのこだわ
りが、とりわけ強く示された作品のひとつである。
大太鼓のトレモロを伴うバス・トロンボーンのペダル・
ノート(最低音、1点ヘ音)から始まる。その上でトロン
片山 杜秀(音楽評論家)
ボーン群が、グリッサンドやミュート奏法を活用しつつ、
神秘宗教儀式の入祭唱のような音楽をやる。そこには、チ
ベット仏教音楽とストラヴィンスキーの《春の祭典》の静
力学的部分のエコーがある。ついで、やはりチベット仏教
音楽を模した打楽器群の響きが祭礼の開始を告げ、ティン
パニの独奏が主部のアレグロを導く。主部では、アフリカ、
中南米、インド、チベット等の民族的リズムが援用される。
それを何度か断ち切る、呪文のようなトロンボーン群の弱
《ティンパナータ》同様、一種の打楽器協奏曲である。マ
リンバ独奏と、池野の嗜好を反映した特殊なアンサンブル
のために書かれている。その編成は、4本のトロンボーン
と2本のバス・トロンボーン、
6人の打楽器奏者の受け持つ、
キューバン・ティンバレス、タンブーロ、テンプル・ブロッ
ク、カウベル、コンガ(各種サイズ)
、タンブーロ・アフリ
カーノ、トムトム、大太鼓、木琴。
作曲家は作品に寄せて次のように述べている。
「この作品
は膜面打楽器群の叩き出す筋肉的律動の中に響くマリンバ
の熱帯海洋性の色彩が聴き度いと云う願望が動機となって
書いた。
打楽器群はアフリカ系のコンガドラム
(各種サイズ)
を中心に編成されている。私は膜面の厚さという点に起因
音は、チベット仏教の声明の模倣である。長いアレグロが
ようやく静まると、チベット仏教の法要での僧侶の退場の
ような音楽が続き、アレグロ部分の主要音型も緩やかに回
想される。最後は、ペダル・ノートより1オクターヴ高い
ヘ音を奏でるバス・トロンボーンを下支えにした、荘厳な
響きで結ぶ。
EVOCATION の ス コ ア に
は [ To Amos ] と記されて
いる。エイモスとは栄子
夫 人 へ の 呼 び 名。「 今 ま
で何もしてあげられなっ
た」と語る、池野成先生
から奥様に送られた作品
である。 藤田 崇文
in memoriam
追 悼
in memoriam
池野さんの思い出
も船を入手した。何度か彼の指導のもとに航海もした。し
永冨 正之
石丸 基司(作曲家)
介してもらいました。その時の先生の印象はとても穏やかで優し
池野成先生の孤高の愛弟子の今井聡君に誘われるように、池野
く、我々学生に対しても謙虚ささえ感じるものでした。委嘱といっ
邸を訪れた日の事を覚えている。夕暮れにクチナシの花の香る玄
ても学生のすることなので、僅かに楽譜製作の実費ほどをお支払
関を入るともうそこは広いホールになっていました。当時はシェ
いするのが精一杯でしたが、先生は快く引き受けてくださいまし
パードの混じった雑種の大きな犬のクロがいて、よく足に絡んで
た。その後「パーカッションを組み入れることができるか」
等、
様々
来たものです。奥には白熱球の間接照明に照らし出された紫煙に
な打ち合わせを経て、12 人のトロンボーンと 6 人のパーカッショ
煙る先生の仕事部屋があって、昭和の気配を残すかのような佇ま
ンによる『FRAGMENT ANTIQUE』
(古代的断章)が完成しました。
いの部屋だった事を覚えてます。机の周りには音楽の本ではない
人数も多く曲も複雑なため、指揮者が必要ということになり、初
たちは必要に応じて手伝い合い、作品を提出しようとする
ものとスコア類が随分積まれてました。
演は光栄にも当時から指揮者を目指していた私が担当させていた
友人の所に集まっては写譜を分担し、しばしば徹夜して期
良い思い出が沢山在ります。池野先生のあの艶やかで丸みのあ
だくことになりました。その作風は先生の穏やかな印象とはまっ
るお声から飛び出す話題には、自慢話は一切無く、音楽から文学、
たく反対と言って良いほど野生的・原始的なもので、最初の練習
人物伝、ヨットがお好きなので、海や船乗りの話、食べ物の話題、
のときに非常に驚いた記憶が今でもよみがえってきます。演奏会
映画の話。そこに更にお話上手の奥様が加わると、今度は下町は
はこの『FRAGMENT ANTIQUE』初演をメインに大成功を収め、
池野さんは東京芸術大学作曲科で一年先輩でした。
私が大学生だった当時は、作曲コンクールに応募してス
コアを複数部用意するとき、またオーケストラの弦楽器の
パート譜をそろえるときにも、コピー機などなく、手書き
で必要部数を写すしかなかった時代でした。作曲科の仲間
限に間に合わせたものでした。作曲学生としては、そのよ
海ではなかった。また池野さんの航海術も生半可なもの
じゃなかった。口数少なく手配される命令は、驚くほど的
確で、又容赦のない厳しいものであった。ある寒い冬の海
で、逆風の港に入港しようとしていた時、これはとんでも
ない遊びだなと感じた。根性の無い私は、
その後数年でヨッ
トを売却したのだが、池野さんとの航海は忘れがたい。
心より池野成君を悼む
三木 稔
うな体験を通じて仕事の現場に触れ、仕事の手順をも知っ
たわけです。池野さんとはそのようなときに何度か御一緒
になる機会がありました。
池野成君は、その一生を通して、自らの才能を犠牲にし
蒲田育ちの痛快活劇の昔語りに華が咲いて、もう翌日には顔の筋
この曲は東京芸大トロンボーン科のオリジナル曲として今なお
池野さんが舞踊のための管弦楽曲「ダンス・コンセルタ
てまで人のために尽くした。
肉が筋肉痛を起こすという人生最初の体験を頂きました。それは
度々演奏されていると聞いています。
ンテ」を初演するために、パート譜を作成するお手伝いに
彼がその稀に見るオーケストレーション能力を駆使して
それはたおやかで充ち足りた時間でした。
今、私の手元にはオリジナル版のスコアがあります。少し茶色に
池野さんのお宅に伺ったのが、池野さんとのおつき合いの
作品を書き続けていたら、日本がどれほど貴重なオーケス
「さあ!作曲家は肉を食べましょう・・・」と池野先生の号令で、
変色したその楽譜を本棚から取り出して開く時、20 年以上前の学
はじまりだったと記憶しています。この曲の4声のホルン
トラ財産を持ち得たかと思うと、私は断腸の思いである。
血の滴るような巨大なビフテキを「皆さんならこれ位屁でもない
生の頃の良き思い出と、先生の穏やかなお人柄が浮かんできます。
による中心主題は、池野さんの音楽にふさわしいモチーフ
池野君は、年は私より一つ下だったが、芸大では 1 年上
でしょう?」と、あっという間に胃袋に流し込んでから、バーコ
に思えて、今も記憶に残っています。
の学年で、共に池内友次郎・伊福部昭先生門下だった。芸
レータで入れる濃いダッチコーヒーにクリームを入れて何杯も飲
池野さんは、伊福部先生の信頼を得て、映画音楽を手伝っ
大在学中は、更に 1 年上の小杉太一郎、私と同学年だった
みながら、紫煙に包まれて音楽の話に移るのでした。日曜大工に
ておられ、御自身も多くの映画音楽を担当されて、私も映
原田甫の 4 人(時に永冨正之)が、伊福部先生宅・小杉宅
ついては相当の蘊蓄をお持ちで、特にスコアを書く為の巨大な仕
池野先生が東京音大を退官された当時、私は作曲専攻の三年生
画館で彼の音楽に接する機会をしばしば持ちました。
でお二人の映画の仕事を手伝って、何度一緒に徹夜仕事を
事机の制作は秀逸でした。お好きなスペインの家屋の様式を真似
として門下の末席を汚していた。後輩もいなかったし、私とそし
いつも物静かなたたずまいをくずさない池野さんです
したことだろう。あわせて百日を下るまい。
て庭に噴水を作られたりしたこともありました。
て同級生である壺井一歩君がおそらく最後の弟子、ということに
が、彼の音楽は内に秘めたエネルギーが強烈なリズムに
私はすぐうたた寝をしてしまったが、池野君は絶対に寝
先生から受け継いだものにはパイプ・タバコがあります。今も
なるのだろう。いつも熱心に先生の教えを乞うた壺井君に比べて
乗って発揮され、強い感銘を受けました。
なかった。そして凄いスピードと美しい書体で仕事をこな
これを書きながらメシャムのパイプをくわえておりました。今日
私は甚だ不真面目な弟子で、すっかり日の沈んだ薄暗い教室の中
池野さんの早すぎるご逝去が残念でなりません。
していった。伊福部先生の《シンフォニア・タプカーラ》
までもう 20 年以上ボルクム・リーフのチェリー・キャベンディッ
で先生と彼とが真剣に音楽について語り合っている最中、私はた
の清書と、ゴジラだったかいくつかの映画が重なって池野・
シュの葉タバコのお世話になっています。先生からお借りした資
だ同じ教室にポカンと座っているだけ、自分がレッスンを受ける
永冨、そして私が丁度 1 ヶ月先生宅に泊まりこんだこと
料や楽譜は皆このタバコの匂いが滲みていたのを覚えてます。奥
番になっても作品はそっちのけ、先生に向かってただひたすら馬
がある。開放された日、3 人で新宿二丁目に向かった。み
様から受け継いだものには料理の「ザウワークラウト」と食器乾
鹿げたヨタ話を一方的に喋り続けただけだった。よくご辛抱下
眞鍋 理一郎
んな申し合わせたように、あの紅灯を一目見ておきたいと
燥機。先生御夫妻の温かな笑い声は妙なる音楽としてあの日あの
さったものだと思う。汗顔の至りである。
思った。池野君はいろんな趣味も持ち合わせていたが、売
時の温かな記憶となっています。ずっと北国に居て離ればなれで、
先生が大学を去られた後も私は、レッスンを受けたいと称して
よく考えてみると、池野さんと音楽のことを話したこと
春禁止法が発効して、ラストチャンスだったその日の徘徊
先生の亡骸も見ていないせいか池野先生がお亡くなりになった実
は度々御自宅に伺った。私のような下らない若僧のたわ言にもき
がとても懐かしい。
感を持てぬままで居ます。
ちんと耳を傾けて下さる先生の御人柄に甘えて、私は夜遅くまで
私は芸大在学中に家業が破綻し、体調を壊した親父は卒
先生の謙遜が今でも話題になりますが、その理由を理解した人
ダラダラと居座り、相変わらずとめどもなく馬鹿話を続けていた。
業した夏に逝った。一家を支えて働き続けなければならな
間は少ないと思います。中国の隠者の思想が根本にあったかも知
先生の御宅では照明を意図的に低く下げてあるので幾分薄暗く、
くなった私を気にしてくれたこともあるが、2 人でいたと
れませんが、さらに究極にあったものは音楽への「畏れ」だった
ご夫妻で回られたというイタリアの写真を示されながら「ゴンド
きの食事代やコーヒー代を私が払った覚えがない。いや誰
と確信します。気付いた門下生はその先生の振る舞いを手本とし
ラから見た夕暮れのヴェネツィアは何とも言えず禍々しいもので
にも池野君は払わせなかったようだ。それが仕事の上の謙
て静かに自身の音楽に向かい合って生きて居ることでしょう。池
した」と仰る先生と奥様のシルエットはどこか幻燈のようで、想
譲にもつながり、才能を温存したまま居なくなった、いや
野門下はひどく少なく、表舞台を避けて世俗に隠れていることを
い出すと今でも、何とも言えない不思議な切なさに私は途方に暮
周囲がそれに甘えきったことがなんとも腹立たしい。先生
知る者も更に少ない。
れてしまう。もう、お会いすることも出来ないのだ。
池野さんのこと
がほとんど無い。よく知られているように、池野さんには
数々の映画音楽の名作がある。それらについても、話した
ことがない。その最大の理由は、彼が自分の音楽について
他人に話したがらなかったことにある。しかし私は、吉村
公三郎監督『夜の河』と川島雄三監督『雁の寺』の2作の
記憶は消し難い。『夜の河』の名場面がある。夜の車窓に流
れる灯火を背景にヒロインの顔がある。彼の音楽は、まこ
とに禁欲的で、いわゆる映画音楽の様式をはるかに離れた
不思議なスタイルだった。
『雁の寺』の音楽も同様であった。
それらを話題にしても、彼は笑って答えなかった。
池野さんと私の最大の接点はヨットにある。彼の話を聞
き、又船に乗せてもらううちに、身の程知らずにも私自身
伊福部昭古弟子会 新年の集いにて(左から 池野成、永冨正之、眞鍋理一郎)
10
かし、それは映画会社などのポスターにあるような楽な航
ブルの曲なら池野先生にお願いしてみては」ということになり紹
府中市住吉町5番地
「先生との小景」
植田 彰(作曲家)
方もわれわれ仲間も彼に強要すべきだった。
池野! もう一度オートバイを駆って現れ、ヘルメットを
かなぐり捨ててペンに替え、君の、類を見ない繊細かつ豪放
な音楽を徹夜で書きなぐるのだ。それまで今度は帰さない!
伊福部昭古稀記念パーティー(左から 伊福部昭、池野成、三木稔)
『古代的断章』
「池野先生と私」
上垣 聡(指揮者)
小倉 啓介 ( 作曲/指揮)
池野先生と私との出会いは東京芸術大学 2 年の頃と記憶してい
写真は、ほぼ 27,8 年前頃の先生と、
ます。当時トロンボーン科に在籍していたのですが、年に一度、
我が友饗場君と 3 人で東京音大の作
科主催の演奏会を催していました。この演奏会は例年トロンボー
曲科受験仲間であった田中君の結婚
ン・アンサンブルの為の曲で構成されていましたが、そういっ
式に出た時のモノです。
た「トロンボーンのためのオリジナル作品」は数も少ないために、
もう一枚は私の結婚式でスピーチ
毎年同じ様なプログラムになってしまう為、新たにメインとなる
をして下さった時のモノです。
ような曲を常に探していました。そんな時「作曲家の先生に委嘱
作品をお願いしてみては」という案が浮上し、その交渉役を私た
池野先生と初めてお会いしたのは、
ちの学年が担当する事になりました。たまたま私自身作曲科の友
もう 35 年以上も昔になります。
達も多かったので早速相談してみたところ、「そういうアンサン
自転車で 5 分というご近所におら
11
in memoriam
in memoriam
れた池野先生のご自宅に、和声のレッスンを受けに通うように
当時の私には些かプレッシャーの大きいものだった。 その作品こ
の作品が私は大好きです。また演奏できる機会があれば、九州で
楽界では前衛なるものが盛んで、音楽ジャーナリズムの世界でも
なったのは 13 才の時でした。
そが「ラプソディア・コンチェルタンテ」
。初めて味わった緊張
も池野ワールドを多くの方々に、そして後世に伝えていきたいと
情報や話題には事欠かず、学生にとっては、何が本物なのか、真
当時の私はオーケストラに非常に興味があり、スコアの読み方
と充実感。
思います。
実なのか、自分の方向性や価値観を定めることが大変難しい時代
や楽器の事など、何か解らないことがあればレッスンとは関係な
その後一度だけ先生のご自宅に伺う機会があり、無謀にも自作
く先生のお宅に勝手にお邪魔するようになっていました。
と初演作品だけで学外演奏会を企画していた私は、生意気にも打
楽器合奏とパントマイムの共演の構想をお話したのだが、いつも
池野先生とのCD制作
出口 寛泰(CD「池野 成の映画音楽」制作)
判やそうした世間の風潮とかとは全く無縁で、時代に迎合するこ
時には映画のお仕事で徹夜をされている最中でもあり、徹夜明け
でピアノの奥にあったベッドでお休みになっている先生を、勝手に
優しげな先生のお顔が急に曇ってしまわれた。映像の為の音楽を
池野先生から頂いたデカルト著「哲学省察録」中の『事物の真
それまで右顧左眄し、あやふやな存在であった自分にとっては、
上がり込んでピアノを弾いて起こしたりと、今考えるととんでもな
多く手掛けられていた分、純音楽に対する情熱が強いと、奥様が
理に関して明白でない時には何時もそれについての判断を慎むべ
生き方そのものが手本であり、まさに精神性を感ずることのでき
い弟子でしたが、先生は怒りもされずに相手をしてくださいました。
そっと教えて下さった。
きである』を読んだ時、その御人柄や作品への創作態度が想い起
る高邁な存在でありました。後年、伊福部先生の定年を期に、ご
子供の私を録音現場に連れて行ってくださったのもその頃でした。
実は、先生ときちんとお話できたのは、この二回だけだったか
こされ、ああ、これは池野先生だ、と思った。
自身もまた、あっさりと大学での講師の職を辞してしまわれたの
でした。そのような中にあって池野先生は、いわゆる世間的な評
も知れません。それにも関わらず、今でも音楽に対するパワーを
その後、作曲で高校に進学したいとご相談し、池内先生の所へ
戴いている気がするのです。
連れて行って頂き、難しい課題に太刀打ち出来ずにいる私に、先
生はご自宅の一階と二階のピアノに別れて朝まで一緒に課題に取
となく、まっすぐな作家としての独自の姿勢を貫いていました。
ですが…。
今、私が明白に池野先生に申し上げられる事といえば、ただた
やや厭世的でもあった先生から、自分は船乗りになりたかった
だ御迷惑をおかけしたという事のみであり、その最たるものが亡
のだという話をお聞きしたことがあります。学校の帰り、先生と
くなる直前までの数ヶ月をその制作監修に費やしてくださった CD
途中まで電車でご一緒することがありましたが、混んだ電車の中
り組んでくださいました。
池野先生の思い出
薄田 真樹(東京藝術大学卒業、打楽器奏者)
「池野成の映画音楽」制作であったと折に触れ慚愧の念に襲われる。
でも、先生はけっして吊り皮には掴まりませんでした。
「若い頃
徹夜に効くからと煙草を教えて頂いたのもこの頃でした。
学生時代、" トロンボーン専攻生によるコンサート " のための委
制作監修は徹底を極めたものだった。残された楽譜の山から収録
ヨットに乗っていたから、この程度の揺れには慣れている」
、と
課題でさえ一曲仕上げるのに、こんなに粘りがいるものなのか
嘱作品「古代的断章」を初演させて頂き、演奏を含めたくさんの
作品を探し出し、それを見ながら収録曲を文字通り一曲残らずお
いうのがお答えでした。
と、驚きと眠さでフラフラで帰ろうとする私に、先生は決まって
事を学ばせて頂きました。それまであまり意識する事のなかった "
聴きになり、収録に堪え得る録音かを確認。解説書用インタビュー
“ こんなモンじゃないくらいきついですから、頑張って下さい。”
リズムの旋律 " を初めて意識する事ができた曲でもありました。
では話は映画音楽だけに止まらず、学生時代等のエピソードから、
といつも励まして下さいました。
当時の池野先生は、授業の時もそうでしたが、演奏会の練習に
果てはまったく掲載不可能な内容にまで至った。校正の際は意に
当時の私には先生が鬼にも、優しい父親のようにも見えました。
立ち合って下さる時は一層物腰穏やかで、学生にもプロで活躍す
沿わない箇所を容赦なく削除。CD 帯の文に至るまで目を通され、
生前よりいつも謙虚に、差別なく一人ひとりを大切にし、そし
る OB にも、とても丁寧に接して下さいました。リハーサル中、
気になる箇所には御助言をくださった。
て友人・弟子達の活躍と成功をいつも応援くださった池野成先生
高校、浪人時代と自宅にいるよりも先生のお宅にいることの方
作曲者から演奏者への細かい指示・要求などについても、指示・
私ごときが今さらいうまでもなく、映画音楽の仕事から得られ
に、追悼の気持ちと共に関係者が集結しコンサート開催の運びと
がずっと多かった様に思えるくらい、いつもお邪魔していました。
要求というよりも、相談という雰囲気で練習が行われました。当
た響きの実感を蓄積、そして結晶せられた純音楽作品にこそ池野
なり感無量の思いです。今日の「特別な一日」を師の偉大な存在
大学時代は先生が転居されましたが、“ いつでもやって来て下
時大学2年だった私は打楽器を始めて5年目と、とても未熟でし
先生の創作における本質がある。にもかかわらず、オーケストラ
と躍動感あふれる音楽を共有しながら、思い出を語れる場に出来
さい。” という先生のお言葉に甘え、やはり随分とお邪魔して、
たが、そんな私にもとても丁寧に接して下さった事が思い出され
を媒体とする、その今もってフレッシュな響きの再認識のために
れば幸いに存じます。
作曲のこと、音楽家としての生き様のこと、私のプライベートで
ます。先生は、先生と学生という関係を取り払い、作曲家と演奏家
は、もはや概念的思惟の領域ではなく、行動あるのみという私の
思えば、在学中から音楽の「いろは」を教えて頂きながら、学
の相談から雑談まで、とても多くのお時間を頂いたと思います。
というスタンスで各々を尊重して接して下さったのだと思います。
我が儘に池野先生を最後まで付き合わせてしまった。
生時代のアパートにも来てくださいました。当時、折畳みの小さ
一人ひとりを大切にしてくださった恩師
藤田 崇文(作曲家)
池野先生の作品と出逢った打楽器人はみな池野ファンであると
インターネット上の CD ショップでは、アメリカ、イギリス、フ
なちゃぶ台で作曲していた私の所へ、ある日とても大きなオーク
改めて思うまでもなく、池野先生無くして今の私は考えられま
私は思います。あの作風とお人柄のギャップに戸惑いながら、ど
ランス、スペイン他の諸外国から数十セットの注文があり、むしろ
板が届き「作曲テーブルを作ろう」と、ヤスリがけから塗装まで
せんし、池野先生ご自身の壮烈な生き方をずっとお側で拝見させ
んどん池野ワールドに魅かれて行くのです。先生に、
打楽器を使っ
日本からの注文数を上回るという望外の展開もあり、
発売後1年6ヶ
一緒に作り、立派なテーブルをプレゼントしてくださった。今で
て頂くことで、私自身が無言の教育をして頂いている、といつも
た曲をもっとたくさん創ってもらいたかったと想っている人は、
月で制作数500セットが完売。この度、
もあの日を忘れることはできない。
思ってきました。
私だけではないのではないでしょうか…。
門野誠氏の御厚意により増版の運びと
家族ぐるみの付き合いで、スペイン滞在中は府中の自宅に留守
なった。
番で何ヶ月も居候。当時「クロ」という犬がいて散歩に連れてい
結局、私は先生から膨大なお時間と大きな愛情を頂きながら、ご
きとても楽しかった思い出が蘇る。
池野成先生を偲んで
関 修一朗(九州交響楽団・打楽器奏者)
恩返しの一つも出来なかったと悔やまれますが、皆様のように先生
池野先生から頂いた三島由紀夫著「文
「作曲家は合奏体の実像を掴む事がもっとも大切」と力説。師の
の素晴らしさをよくご存じの、親孝行なお弟子さん方が沢山居られ
池野成先生の訃報をお聞きし、心よりご冥福をお祈り申し上げ
章読本」の、言語がますます雑多・雑
薦めにより、卒業後はオケのティンパニ奏者として席を置きなが
て、一番古いだけで不詳な弟子の私にとっては心強い限りです。
ます。
駁になっている現代においての文章の
ら研鑽を積み、オケの演奏から企画まで従事し幅広く学ぶことが
私のような者がこの場に寄稿するのは誠に僭越かと存じます
格調と気品についての記述を読み、そ
できた。早くも 15 年の歳月が過ぎ、師の亡き跡、同門のある大
今回もこのような寄稿の機会を頂きまして心から感謝致します。
が、
先生の作品「エヴォケイション」の初演に携わった一人として、
の残された作品、生き様、そして御本
恩人が作曲界の道へ息を吹き返してくださった。感謝の念に堪え
もう先生が居られないのが未だに信じられない事ですが、亡く
また一ファンとして先生を偲び、当時の事を思いながら一筆した
人を重ね合わせ、ああ、これは池野先
ない。きっと池野先生が最後まで見守ってくれたのだと信じたい。
なられた今でも、何かにつけ、先生だったらどう思われるだろう
ためさせて頂きました。
生だ、と思った。
何の恩返しもできないまま心残りであり、もっと長生きしてほ
と考えるといつでも側に居てくださるような気がしてなりません。
この「エヴォケイション」が初演されたのは、確か 77 年頃だっ
『闇のなかに目がなれるにしたがっ
しかった。これが正直な気持ちである。
たかと思いますが、当時私は東京音大の学生で師匠の有賀誠門先
て物がはっきり見えてくるように、か
生の厳しい指導の元(?)よく叱られながら練習していたのが昨
ならずや後代の人の眼に見えるものと
日のように思い出されます。マリンバソロの岡田真理子先生・ト
なることでありましょう。
』
2006 年 10 月吉日
「池野先生」
梯 郁夫(打楽器奏者)
池野先生の思い出
学生時代、東京音大作曲科には錚々たる講師陣がおられ、学生
ロンボーンソロに伊藤清先生、他に大学の金管・打楽器セクショ
音楽活動の畑の違いもあり、私が卒業後に先生にお会いする機
ンが加わり、この曲の初演に立ち会えた事はとても刺激になり光
会はありませんでした。ところが十年程前、私の主催する演奏会
に先生のお弟子さんが「名前を良く聞いていた」と観に来られた
村岡 貞彦(作・編曲家)
撮影:出口寛泰
は希望する先生に師事する事が出来、誠に恵まれ且つ自由な気風
栄に思います。池野先生の音楽(作品)はとても個性的かつ魅力
清廉潔白、孤立無援の生き方
永瀬 博彦(作曲家、東京音楽大学卒)
的で、他に「ティンパナータ」も九州で何度か演奏させてもら
池野先生に初めてお会いしたのは、私が学生の 3 年の時、それは
池野先生はオーケストレーションのゼミを受け持たれ、ド
ことがあり、憶えて頂いていた事に非常に感激し学生時代を思い
いました。呪術的雰囲気を醸し出す独特の土俗的な響きとエネル
作曲の教育システムがガラリと変った時でもありました。伊福部昭
ビュッシーのピアノ曲の編曲など管弦楽実習を丁寧に指導して下
出した。
ギッシュで躍動的リズムの連鎖は、本来人間が持つ本能を刺激し、
先生を先頭に、松村禎三先生、三木稔先生、そして池野成先生が作
さいました。
当時、東京音大の打楽器科の3年だった私は先輩 OB の「コン
大地に息づく野性と力強い生命力を呼び起こしてくれる様に感じ
曲の教員として、まさに東京音大に乗り込んで来た時なのです。
映画を活動写真と呼び、沢山の映画音楽を手掛けられた事は皆
ガを 叩ける奴はいるか?」のひと言で、初めての仕事を経験する
ます。誰にでも親しみやすく演奏していて楽しいし、スリリング
私の学生の頃、70 年代は大変怪しげな時代で、世間では「ノ
様周知の事と存じますが、一方私達学生に対しては、常に純音楽
事に。よりによって NHK の「現代日本の音楽」の番組収録という、
でもあり、生命の根源を奮い立たすような感覚・・・そんな先生
ストラダムスの大予言」等という本が大ベストセラーとなり、音
作曲の観点から「作曲するからには会心の作と言える意義有る大
12
でした。
13
所に集めておくことにしたが、集まりは悪かった。
「これどうで
作曲年
けで一になる。ピストルを何発も撃つのではなく、巨きい大砲を
す?」
「もう少し大きい方が ・・・」
「これは?」
「もう少し丸いのを」
1952
序奏と交響的アレグロ
一つ撃て」と熱意を込めご指導下さいました。また個人的な相談
私にとって予想外に難しい作業になった。小一時間も経っただろ
として卒業後の進路について悩んでいた時、「背水の陣の覚悟を
うか、草叢から奥さんが降りて来られた。
「どう、採れた?」と
1953
舞踊曲「作品七番」
二管編成 Orchestra
もって音楽の道に臨め」と激励して下さり、また社会に出た後も
ころがそれ程集まっていない、今度は三人で集め始めた。40cm
問題に直面し、教えを乞うべくお宅にお邪魔した際も、時間を惜
位の小山が二つ出来たので、それを自転車の前後の籠に積み街道
1953
ダンス・コンセルタンテ
三管編成 Orchestra
しまずご指導下さいました。
へ出た。重さでバランスがとれないので先生がハンドルを持ち、
1954
舞踊曲「夜の果樹園」
Orchestra
折りに触れおっしゃる言葉には武士の様な精神を芯に秘めてお
私が後の籠を支えながら押した。横断歩道を渡ると 4、5 m後を
1954
バレエ「ボロと宝石」
Orchestra
1959
舞踊曲「増殖儀礼」
Trombone & Percussion Ensemble
られ、物腰の柔らかさとは異なる、内面の作家としての気骨を常
歩かれていた奥さんが「1トンぐらい採ったかしら」と声を掛け
に感じ、折に触れて伺ったご自身の映画音楽録音現場での情熱に
られた。先生はビクッと肩を竦められたように見えた、私も自ず
みちた武勇伝、エピソードの数々は今も忘れがたく、先生の死は
と肩を竦めてしまった。
「1トンは無いよ。
」私もつい「1トンは
誠に惜しまれ、心からの感謝を捧げると供に、ご冥福を心よりお
無いですよ。
」先生は続けて何か仰っていたようだったが、街道
祈り申し上げます。
のトラック達に掻き消され、聞き取れなかった。
公園の角を曲がるとすぐ先生のお宅である。先生と私は池の周
りに石を並べ始めた。川原が余りに明るかった為か、其処は殊の
池野成先生を偲ぶ
山本 純ノ介(作曲家)
外暗く感じられた。
『石拾い』終わってしまった、という私の子
私は直に、師弟関係にあったわけでは有りません。しかし、両
供じみた気分が手伝っていたかもしれない。
親や恩師などから、学生時代などの池野先生にまつわる、いくつ
かつて先生はこう仰った。
「心が唄わなきゃ音楽なんて創れな
かのエピソードを折りにふれ、聞かされています。
いよね」これは先生が日頃使われない崩した表現をなさったので、
芸大の練習室で颯爽と弾かれていた、変拍子でスタンダードナ
強く印象に残っている。手掛けている物が池であった時、私はそ
ンバーの名曲『テイクファイブ』がとても印象的で、クラシック
のほとりで無言の内に『心は唄わないのですか』と不遜にも問い
一辺倒だった当時の母正美はとてもカルチャーショックを受けた
掛けてしまっていた様に思う。けれども先生にそんなスキなどあ
事。若い頃から、劇伴の音楽をされていて、実践的な管弦楽法を
りはしない。
『観念』を嫌いぬいた人の瞬間、瞬間は常に『本当』
早くから身につけておられたとも、そのダンディーなお人柄ゆえ、
に結着し、強い意志で貫かれていた。だからこそ『先生』だった。
母正美の自宅に友人(私の父直純)と遊びに来られた時のこと、
時に、
・・・いいえ。唯、私の中でいつまでも川原は「晴れ」
お茶を持って来た、母の姉が一目惚れをしてしまったと言った事
て居ります。
『石拾い』楽しかったです。
もあったそうです。
又、弟は、芸大在学中、和声の授業が池野クラスで、池野流ソ
偲 池野成先生
フトな指導方法が、とてもユニークで効果的であったと聞かされ
和田 薫(作曲家)
ました。恩師松村先生の修士課程での作曲レッスンの折には、
「池
「あなたが和田さんですか」
野君の『リズムのカノン』がとても印象的だった」といわれ、そ
このひと言が池野先生と僕の最初の出会いでした。山口の片田
れがどんなものなのか判らないまま、なぜか感心してしまった事
舎から上京した僕にとって、作曲科の必修科目である作曲理論と
も有りました。
いう授業にかなりの緊張をもって臨んだにも関わらず、その言葉
その後、演奏会等で直接お話できる様になり、作曲に対するお
は僕を呆気にさせるものでした。察するに、高校三年当時、伊
話をさせて頂くのですが、決まってまず初めに「貴方は今、なに
福部先生に「好きな作家は ?」と尋ねられた僕は「マーラーで
を書いておられますか」とこちらが恐縮してしまう程丁寧に尋ね
す」と応えて、それが伊福部先生から池野先生へ伝わっていたの
られ、怠け者の私は、穴があったら入いりたいような心地になる
でしょう。マーラー好きの学生がやってきた、それが何を意味す
のでした。常に穏やかで、控えめでしたが、音楽に対する鑑識眼
るかは池野先生の音楽嗜好をご存知の方々はお察しいただけるで
はとても厳しいと感じていました。晩年のご様子は、折に振れ父
しょう。
のお手伝いをして頂いていた、沢田完さんをとおして、スペイン
その最初の授業で、今でも忘れられない先生の言葉——
で療養されていると伺っていました。ある意味で作曲家の自我を
「作曲で食べていこうなんて、とんでもないことです !」
捨てられた『無』の境地で居られるようにも、見えました。
この言葉が何を意味するか当時全く分からなかった僕は、キツ
ご冥福を祈るとともに、管弦楽をはじめ池野先生の作品を是非
ネに撮まれた気分で授業を受けた記憶が残っています。否、記憶
聴いてみたいと思っています。 合掌
が残っているだけでなく、深く教訓として僕の心の深層に刻まれ
ていると言っても過言ではありません。
作曲理論の授業は 1 年だけでしたが、僕はその後 4 年間先生の
『石拾い』
吉野 達也(自由業)
教室へ通いました。本物の作曲家の姿を感じ、あの独特の言い回
ある日先生から電話があり「石拾い、行きましょう」という旨
しから放たれる哲学は、最初の授業の言葉を徐々に浸透させ、作
のお誘い。その頃はレッスンでも「池」の話題が出ていたので、
曲家としての生き様を教えて頂いたように思います。
私としても「あのことだな」とあまり驚かなかった。
本日のコンサートが、池野音楽の再発見のみならず、作曲家池
野成の実像に迫り、先生の真意を普遍する一歩となることを祈念
多摩川の「中河原」は白い石が多いのか、概ね白い川原という
印象でとても明るかった。先生はまず一つ石を拾われ「こんな感
じのをお願いします。」と掌にのせられた。これという石を一箇
作品名
楽器編成
Orchestra
第 21 回日本音楽コンクール管弦楽曲部門第 2 位入選。山田和男(一雄)指揮、NHK交響楽団により初演。
11 月 5 日、日比谷公会堂において江口・宮舞踊団により初演
舞踊曲「作品七番」を二管編成から三管編成へ改作。上田仁 指揮、東京交響楽団第 58 回定期公演において初演。
名古屋市公会堂において奥田敏子舞踊団により初演
5 月 1 日、旧帝国劇場において近藤玲子バレエ団により初演。
6 月 28 日、日本青年館ホール・現代舞台藝術協會 第一回公演 台本:池野成 演出:今井重幸 出演:三条万里子、西田堯 他 岩城宏之 指揮 SASC管弦楽団により初演。
1974
EVOCATION(エヴォケイション)
Solo Marimba, 6 Tromboni, 6 Percussioni
有賀誠門 指揮 東京音楽大学 打楽器科・トロンボーン科により初演。栄子夫人に献呈。
1977
TIMPANATA(ティンパナータ)
Solo Timpani, 1 Flauto, 3 Corni, 3 Tromboni, 1 Tuba, 5 Percussioni
1983
RAPSODIA CONCERTANTE(ラプソディア コンチェルタンテ)
Solo Violino, 三管編成 Orchestra
1984
FRAGMENTOS ANTIGUOS(古代的断章)
12 Tromboni, 6 Percussioni
1984
OCTET(八重奏曲)
6 Euphonium, 2 Tuba
1988
Omaggio a Maestro A.IFUKUBE
Chamber Orchestra
1989
PRELUDE(プレリュード)
芸大創立90周年記念演奏会において初演。有賀誠門氏に献呈。
山岡重信 指揮 ヴァイオリン独奏 磯恒男 東京フィルハーモニー交響楽団によりNHK「現代の音楽」において放送初演。
東京芸術大学 トロンボーン科・打楽器科により初演。
東京音楽大学ユーフォニューム・テューバアンサンブルにより初演。
2 月 27 日 サントリーホール小ホール 伊福部昭先生の叙勲を祝う会 祝賀コンサートにおいて、石井眞木 指揮 新星日響室内オーケストラにより初演。
Brass Band
OCTET(八重奏曲)を Brass Band 編成に改作。2 月 26 日 石橋メモリアルホールにおいて、井上謹次 指揮 東京ブラスコンコード第7回定期演奏会にて初演。
1996
TAMBURATA(タンブラータ)
Percussion Ensemble
日本打楽器協会委嘱作品。96 年 6 月 2 日 麻生文化センター 96' PERCUSSION FESTIVAL において 百瀬和紀 指揮 フェスティバル・アンサンブル 演奏により初演。
芸大の同級生から慕われていたのは勿論、当時、奥沢にあった、
14
essay & List
池野 成 純音楽作品表 作品表制作:出口 寛泰
in memoriam
作を書け、ゼロはいくら足してもゼロだけれども、一はひとつだ
しております。
2000
DIVERTIMENTO(ディベルティメント)
8 Percussioni
アンサンブルコンテスト東関東大会において栃木県立宇都宮北高校により演奏される。
余りにも雄々しく、余りにも純粋に
片山 杜秀(音楽評論家)
池野成が音楽を志した理由は、戦後間もない頃、占領軍放送で、近代のオーケ
ストラ音楽をたくさん聴いたからだという。特にラヴェルやストラヴィンスキー
の、膨大な編成を持つ作品に魅せられたからだという。
戦後、ラジオから聴こえてきたラヴェルやストラヴィンスキー、それからファリャ
は、あまりに眩しかったと語っていた。
そんな池野が、作曲家になって、大管弦楽向けの眩しいばかりに響き渡る演奏
会用作品群を書き続けたというなら、話は見えやすい。が、実際は違った。
池野は、ラヴェルやストラヴィンスキーの管弦楽法に驚くほど精通していた。
しかも、その魅せられ方が特徴的である。音楽に印象づけられるといえば、ま
彼の映画音楽を多少なりとも聴けば、それは分かる。しかし、池野は、大オーケ
ずはメロディやリズムにである場合が多い。記憶に残った音楽を口ずさむと言っ
たとき、口ずさんでいるのは、大抵はメロディでありリズムである。ところが、
ストラを用いての響きの量感の探究はラヴェル等でかなり極められてしまったと
感じていたようである。屋上屋を重ねることは、芸術家として潔くない。しかも、
池野が第一に魅せられたのは響きだった。メロディやリズムのように時間的経過
を伴う、ある纏まった音楽の展開よりも、瞬間瞬間にドーンとかフワーッとか鳴
る音色や和声、あるいは音量に溺れてしまったというのである。
もちろん、響きだったら何でもいいというのではない。池野がのめり込んだのは、
作曲家池野の見出だしていった、彼ならではのヴォリュームある響きとは、通常
のオーケストラの楽器編成から、どんどん逸脱していった。
その響きとは、端的に言えば、男性的でマッチョで、強く雄々しく逞しく、固い
芯のある響きである。それは、黛敏郎の求め続けた響きと、かなり似ているかもし
ラヴェルの《ダフニスとクロエ》やストラヴィンスキーの《春の祭典》といった大
オーケストラ作品の、これでもかとエネルギッシュに鳴りきるような箇所である。
どうしてこんなヴォリュームのある音がするのか、その仕組みを知りたい。楽
器の組み合わせを探求したい。それが、池野の音楽に進んだ動機だった。本人の
れない。黛はそんな響きを実現するために、
やはり一時期、
オーケストラのオーソドッ
クスな編成を否定し、音勢の強い管楽器や打楽器を軸にする、独自の楽器のコンビ
ネーションにこだわった。一方、武満徹は、黛や池野とは対照的に、女性の柔肌の
ような、とろける響きにはまってゆき、その実現のために、管楽器や打楽器を排除し、
口から聞いた話である。
ピアノや弦楽器に執着した。だが、黛も武満も、すぐに物分かりがよくなり、通常
この筋書きは、黛敏郎と武満徹という2人のことを想起させずにはおかないだ
ろう。黛も、自分のメロディやリズムよりも何よりも自分の響きを作りたくて作
曲家になったと、述懐してくれたことがある。しかも彼がこだわった響きとは、
とにかく膨満し溢れかえるような響きだった。一方、武満は、作品の着想を得る
とき、出てくるのはメロディやリズムではなく瞬間的な響き、音色のイメージで
のオーケストラの編成と自らの響きのイメージとを妥協させていった。
ところが、池野の軌跡は逆だった。理想とする量感ある響きとはどうしても特定
の楽器の音色でしか実現出来ないという想念に、年を経るにしたがい、ますます傾
斜した。その楽器とは、トロンボーンであり、打楽器である。池野の求めたエネル
ギッシュな響きは、黛と似ているといっても、より重心が低く、大地の奥深いとこ
あると、
よく世間に語っていた。その響きや音色というのも、
やはり豊かさのイメー
ジと結びついたものだった。要するに黛も武満も、作曲家へのなり方は、池野と
ほぼ同じだったのである。
ろに根を生やしている具合だった。その響きはどうしてもトロンボーンと離れられ
ず、それが池野ならではの特異な編成による作品群に帰結した。池野の晩年、ソプ
ラノ歌手の藍川由美が新作を委嘱し、それはついに出来なかったけれど、そこで作
なぜだろう? 世代が関係していると思う。池野は 1931 年生まれで、黛の2
曲家が希望した編成は、やはりソプラノ独唱とトロンボーン・アンサンブルだった。
つ下、武満の1つ下になる。つまり、3人はあまり年が違わない。ついでに言うと、
結局、池野とは、黛敏郎や武満徹と比較されるべき、彼らと同じ世代的・体験
黛と池野は、同じ池内友次郎と伊福部昭の門下で、池野と武満は、若い時分、家
が近所だったので付き合いがあった。そして、
3人の少年時代は過烈な戦時である。
日米開戦の年の 1941 年には、黛 12 歳、武満 11 歳、池野 10 歳、敗戦の年には
黛 16 歳、武満 15 歳、池野 14 歳。多情多感な盛りに、物がなく、食べることに
的な背景を持った、響きの作曲家である。そして、自己の求めた響きのイメージ
にあくまで忠実であろうとしたその軌跡は、黛や武満よりも純粋と言える。
ただ、残念なことに、作家としてあまりに妥協がなかったゆえに、遺された演
奏会用作品があまりに少ない。けれども、それを補って余りある領分がある。膨
も事欠き、文化芸術に親しむ機会も局限される。世界が薄っぺらで貧しくモノク
ロームだったのである。そういう環境に長いこと置かれ続けた少年が、とりわけ
量感というものにとてつもない憧れを抱くようになるのは当然だろう。その種の
憧憬を、たとえば音楽で引き受けるのは、近代オーケストラ音楽のはちきれるほ
どにたわわな響きになる。そういえば池野は、1945 年までの灰色の世界に比べ、
大な映画音楽である。池野本人は、
その仕事を恥ずかしがっていた。が、
池野のヴォ
リュームある響きへの執念は、映画音楽の多くに於いても、トロンボーンを重用
した、特殊な編成のオーケストラによって、存分に表現されている。
演奏会用作品と映画音楽を等しく見渡すことによって、我々は、池野成という、
戦後日本音楽の知られざる沃土を発見できるだろう。
15
池野 成 映画音楽主要作品リスト
作品タイトル
リスト制作:出口寛泰/豊田朋久
作品タイトル
監督
封切日・製作会社
作品タイトル
監督
封切日・製作会社
監督
封切日・製作会社
喜劇 おひかえなすって
弓削太郎
70.05.16 大映東京
牡丹燈籠
山本薩夫
68.06.15 大映京都
夜のいそぎんちゃく
弓削太郎
70.07.01 大映東京
愛の三分間指圧
弓削太郎
68.06.29 大映東京
その人は女教師
出目昌伸
70.08.29 東京映画
ある女子高校医の記録 妊娠
弓削太郎
68.07.27 大映東京
すっぽん女番長
弓削太郎
71.01.27 大映東京
高校生芸者
弓削太郎
68.09.21 大映東京
誰のために愛するか
出目昌伸
71.04.01 東宝
九尾の狐と飛丸
八木晋一
68.10.19 日本動画
君は海を見たか
井上芳夫
71.04.04 大映東京
続セックスドクターの記録
弓削太郎
68.11.30 大映東京
甘い秘密
吉村公三郎
71.08.25 近代映画協会
にっぽん親不孝時代
山本邦彦
68.12.07 東京映画
黒の斜面
貞永方久
71.08.25 松竹=俳優座映画放送
妖怪大戦争
黒田義之
68.12.14 大映京都
陸軍落語兵
弓削太郎
71.09.01 大映東京
座頭市喧嘩太鼓
三隅研次
68.12.28 大映京都
嫉妬
貞永方久
71.11.13 松竹大船
ある女子高校医の記録 失神
弓削太郎
69.01.11 大映東京
影の爪
貞永方久
72.09.09 松竹大船
出獄四十八時間
森一生
69.02.08 大映京都
蜜のしたたり
加藤彰
73.09.22 日活
昭和おんな仁義
弓削太郎
69.03.08 大映東京
流れの譜 第一部動乱/第二部夜明け 貞永方久
74.06.22 松竹大船
ザ・テンプターズ 涙のあとに微笑みを 内川清一郎
69.03.29 東京映画
超高層ホテル殺人事件
貞永方久
76.04.03 松竹大船
与太郎戦記
弓削太郎
69.07.12 大映東京
※たまごからヒトへ
武田純一郎
76.07 シネ・サイセンス
いそぎんちゃく
弓削太郎
69.08.30 大映東京
※あなのふしぎ
武田純一郎
78.04 シネ・サイセンス
荒い海
山崎徳治郎
69.10.15 真珠舎
※カエル 遺伝発生学の開拓
武田純一郎
80.04 シネ・サイセンス
天狗党
山本薩夫
69.11.15 大映京都
化粧
池広一夫
84.05.12 松竹
与太郎戦記 女は幾万ありとても
弓削太郎
70.04.18 大映東京
56.02.05 近代映画協会
旅愁の都
鈴木英夫
62.03.07 宝塚映画
野口英世の少年時代
関川秀雄
56.02.25 東映(教育映画部)
爛
増村保造
62.03.14 大映東京
運動ぐつ
道林一郎
56.03.01 東映(教育映画部)
娘と私
堀川弘通
62.04.01 東京映画
オルガン物語
堀内甲
56.03.01 東映(教育映画部)
青べか物語
川島雄三
62.06.28 東京映画
屋上の少年たち
藤原杉雄
56.04.01 東映(教育映画部)
夜の傾斜
内川清一郎
62.06.28 宝塚映画
生きている絵
堀内甲
56.08.01 東映(教育映画部)
黒の試走車
増村保造
62.07.01 大映東京
夜の河
吉村公三郎
56.09.12 大映京都
真昼の罠
富本壮吉
62.08.19 大映東京
四十八歳の抵抗
吉村公三郎
56.11.14 大映東京
箱根山
川島雄三
62.09.15 東宝
眠狂四郎無頼控
日高繁明
56.12.26 東宝
女の一生
増村保造
62.11.18 大映東京
危険な関係
井上梅次
57.02.27 日活
しとやかな獣
川島雄三
62.12.26 大映東京
銀座のしいのみ
堀内甲
57.03.01 東映(教育映画部)
黒の報告書
増村保造
63.01.13 大映東京
眠狂四郎無頼控
第二話 円月殺法
裸の町
日高繁明
57.04.02 東宝
みんなわが子
家城巳代治
63.02.01 全農映= ATG
久松静児
57.07.23 東京映画
背広の忍者
弓削太郎
63.02.19 大映東京
夜の蝶
吉村公三郎
57.07.30 大映東京
赤い水
山本薩夫
63.05.03 大映東京
お母さんの幸福
木村荘十二
57 桜映画社
黒の死球
瑞穂春海
63.06.08 大映東京
手錠
阿部毅
58.02.12 大映東京
イチかバチか
川島雄三
63.06.16 東宝
昭和刑事物語
日高繁明
58.06.15 東宝
ぐれん隊純情派
増村保造
63.07.27 大映東京
俺たちは狂っていない
阿部毅
58.07.13 大映東京
黒の商標
弓削太郎
63.09.07 大映東京
一粒の麦
吉村公三郎
58.09.16 大映東京
越前竹人形
吉村公三郎
63.10.05 大映京都
※黒い炎
西村元男
58.09.16 大映=北海道炭砿汽船
※挑戦
渋谷昶子
63.11 電通映画社
ドジを踏むな
日高繁明
58.09.16 東宝
黒の駐車場
弓削太郎
63.11.30 大映東京
夜の素顔
吉村公三郎
58.10.15 大映東京
※ある町の銀行
板谷紀之
63 東京シネマ
燈台
鈴木英夫
59.11.23 東宝
黒の爆走
富本壮吉
64.02.01 大映東京
親不孝通り
増村保造
58.12.14 大映東京
剣
三隅研次
64.03.14 大映京都
手錠をかけろ
日高繁明
59.02.17 東宝
傷だらけの山河
山本薩夫
64.04.04 大映東京
特ダネ三十時間 第三の女
村山新治
59.03.03 東映東京
越後つついし親不知
今井正
64.05.09 東映東京
特ダネ三十時間 深夜の挑戦
村山新治
59.03.10 東映東京
十七才の狼
井上芳夫
64.06.06 大映東京
結婚の夜
筧正典
59.3.10 東宝
座頭市あばれ凧
池広一夫
64.07.11 大映京都
しい活動を展開してきた同世代の何人かの作曲家と並べると、池野成は
僕らの母さん
板谷紀之
59.03.29 東京映画
無宿者
三隅研次
64.08.08 大映京都
目立たない人だった。彼の奥ゆかしく慎ましい性格、映画音楽の仕事は
社員無頼 怒号篇
鈴木英夫
59.05.12 東宝
続・高校三年生
弓削太郎
64.08.22 大映東京
※新しい製鉄所
伊勢長之助
59.06.02 岩波映画
制服の狼
弓削太郎
64.10.31 大映東京
本道から外れる創作作業ととらえていたその理念も大いに関与していた
社員無頼 反撃篇
鈴木英夫
59.06.02 東宝
肉体の盛装
村山新治
64.11.21 東映東京
女子大学生
板谷紀之
59.07.28 東宝
十七才は一度だけ
井上芳夫
64.12.09 大映東京
※海壁
黒木和雄
59.07 岩波映画
忍びの者 続 霧隠才蔵
池広一夫
64.12.30 大映京都
ファンがもてはやすタイトルもさほどなかった。だからおおむね話題に
悪魔の接吻
丸山誠治
59.10.25 東宝
※あるマラソンランナーの記録 黒木和雄
64 東京シネマ
※ガン細胞
―ガン・シリーズ no. 1―
※結核菌と科学薬剤
―ミクロの世界第2部―
非情都市
渡辺正巳
59.06(完成)東京シネマ
花実のない森
富本壮吉
65.01.23 大映東京
上らないし、サウンドトラックの商品化などとも縁がない。たまにディ
渡辺正巳
59.08(完成)東京シネマ
肉体の学校
木下亮
65.02.14 東宝
鈴木英夫
60.02.21 東宝
陽のあたる椅子
川崎徹広
65.03.13 東宝
黒い画集
あるサラリーマンの証言
秘密
堀川弘通
60.03.13 東宝
にっぽん泥棒物語
山本薩夫
65.05.01 東映東京
家城巳代治
60.04.05 東映東京
証人の椅子
山本薩夫
65.05.15 山本プロ
電送人間
福田純
60.04.10 東宝
雲を呼ぶ講道館
弓削太郎
65.05.27 大映東京
襲われた手術室
阿部毅
60.05.11 大映東京
青いくちづけ
井上芳夫
65.07.07 大映京都
すれすれ
瑞穂春海
60.05.18 大映東京
掏摸(すり)
弓削太郎
65.10.16 大映東京
青い野獣
堀川弘通
60.06.26 東宝
恐山の女
五所平之助
65.10.30 松竹
組んでも、彼らの要求に真っ向から応じていても、池野の音楽、作曲家・
熱い砂
瑞穂春海
60.07.24 大映東京
牝犬脱走
弓削太郎
65.11.13 大映東京
大空の野郎ども
古沢憲吾
60.08.21 東宝
こころの山脈
吉村公三郎
66.02.02 近代映画協会
池野成の貢献に受け手側の注目が集まることは皆無に近かった。映像の
銀座のどら猫
井上芳夫
60.09.01 大映東京
弓削太郎
66.02.12 大映東京
弾丸大将
家城巳代治
60.09.13 東映東京
ザ・ガードマン
東京忍者部隊
氷点
山本薩夫
66.03.26 大映東京
配は積極的には採らず、映画鑑賞中は瞠目させられてもエンドマークが
鎮花祭
瑞穂春海
60.11.01 大映東京
若い娘がいっぱい
筧正典
66.04.03 東宝
犯行現場
阿部毅
60.11.09 大映東京
雁
池広一夫
66.05.21 大映東京
打たれるとこれといった手応えを憶えていない、という意匠だった。メ
金づくり太閤記
川崎徹広
60.12.11 東宝
貴様と俺
弓削太郎
66.07.13 大映東京
※潤滑油
竹内信次
60.12(完成)東京シネマ
女のみづうみ
吉田喜重
66.08.28 現代映画
婚期
吉村公三郎
61.01.14 大映東京
脂のしたたり
田中徳三
66.09.03 大映東京
とばしらせてもその場のもので持続感はない。あの独創的なトーンクラ
手錠に賭けた恋
原田治夫
61.02.01 大映東京
赤い天使
増村保造
66.10.01 大映東京
南の風と波
橋本忍
61.02.14 東宝
白い巨塔
山本薩夫
66.10.15 大映東京
スターに象徴される、俗にいう池野トーンは効果音楽としての機能度は
お嬢さん
弓削太郎
61.02.15 大映東京
女の賭場
田中重雄
66.11.26 大映東京
この青年にご用心
井上芳夫
61.03.21 大映東京
陸軍中野学校 竜三号指令
田中徳三
67.01.03 大映京都
顔役暁に死す
岡本喜八
61.04.16 東宝
雪の喪章
三隅研次
67.01.14 大映東京
新人生劇場
弓削太郎
61.05.31 大映東京
夜の罠
富本壮吉
67.01.28 大映東京
かさせない。彼の映画音楽が決して独り歩きせずに映像・作劇と一体化
女の勲章
吉村公三郎
61.06.28 大映東京
情炎
吉田喜重
67.05.13 現代映画
雲がちぎれる時
五所平之助
61.07.09 松竹京都
堕落する女
吉村公三郎
67.06.28 近代映画協会
している証左である。この辺りが池野映画音楽のきわだった個性だった。
女は二度生まれる
川島雄三
61.07.28 大映東京
女賭博師
弓削太郎
67.07.15 大映東京
幼馴染というだけさ
弓削太郎
61.09.10 大映東京
座頭市牢破り
山本薩夫
67.08.12 大映京都
男の銘柄
弓削太郎
61.11.08 大映東京
続大奥㊙物語
中島貞夫
67.11.01 東映京都
画音楽作曲家複数と比較してもひけを取らない。いや、凌駕していた面
花影
川島雄三
61.12.09 東京映画
眠れる美女
吉村公三郎
68.01.31 近代映画協会
さえある。それでも本人はひたすら、寡黙に映画音楽を書いてきた。受
※エレクトロニクス
竹内信次
―電子は見る・聞く・考える―
雁の寺
川島雄三
61.04(完成)東京シネマ
樹氷のよろめき
吉田喜重
68.01.31 現代映画
け狙いが匂い立つアプローチはせず、いかに画にドラマに効果的な響き
62.01.21 大映京都
あるセックス・ドクターの記録 弓削太郎
68.02.10 大映東京
を付すか、どうすれば音楽、サウンドから映画を盛り立てることができ
その場所に女ありて
62.01.28 東宝
陸軍中野学校 開戦前夜
68.03.09 大映京都
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封切日・製作会社
68.04.06 大映東京
吉村公三郎
井上昭
監督
弓削太郎
嫁ぐ日
鈴木英夫
作品タイトル
喜劇 泥棒学校
※=記録映画
なお「海壁」は小杉太一郎、原田甫、松村禎三、三木稔との共作。
たくみ
■銀幕の中でこそ生き続ける映画音楽の匠■
たくみ
小林 淳(映画音楽評論家)
池野成は、日本映画音楽の 匠 の一人、と明言できる作曲家だっ
た。師・伊福部昭を介して交流関係を築いていた吉村公三郎の『嫁ぐ日』
(1956)を皮切りとし、1950、60 年代の日本映画を音楽面から補強し
てきた一人だった。
しかし、池野と同じく純音楽畑に属しながら映画音楽分野でもめざま
に違いないが、手がけてきた作品の多数が地味で渋いものだったことが
決定打になったと思われる。要するに、一般受けする映画が乏しかった。
作活動に徹してきた芸術家の全貌は作品履歴を振り返って初めて見えて
くることもある。担当作リストを眺めて、あの映画の音楽を書いたのが
池野成だったのか、と膝を打つ向きも多かろう。銀幕の中でこそ確実に
実力を発揮し、主張を発する作曲家。池野の人品でもあった。
池野は語っていた。映画音楽をたくさん作ってきたのは褒められるこ
とではないが、あの画にこの響きを与えるといかなる効果が生まれるの
かという楽しみはあったし、音響と映像の相関にはとても興味を駆り立
てられた、と。純音楽作品は極端といえるほどの寡作ぶりだった池野だ
が、映画音楽作品は豊富にある。作曲家・池野成を正面から理解しよう
とするならば、これら映画音楽作品から耳を遠ざけることなどできるは
ずもない。
いつもあたヽかい人 ..
小島 策朗(クラヴィオリニスト)
スク化されても数多が映画自体に特定マニアがついている東宝SF映画
『電送人間』(1960)、大映京都の特撮映画『妖怪大戦争』(1968)であ
り、付け加えれば現代活劇、時代劇映画の有名どころ。それらは別とし
て、華やかな光彩に欠け大衆的な親しみやすさをあまり有さない作品に
覆われた感が漂っている。が、実際は日本映画史の観点から見ても肝の
位置に持ってこられるタイトルが少なくなかった。
池野成は 1960 年代、大映映画の看板的作曲家の地位に就いていた。
ただ、吉村公三郎、増村保造、川島雄三、山本薩夫などの俊才・異才と
中に溶け込む響きと鳴りを意識的に配したからであろう。つまり観る者
の脳裏に刻み込まれる、例をあげれば明朗快活な旋律を謳うタイプの采
ロディックな楽案はさして用いず、音響的・音色的・律動的な造りを好
んで導いた。旋律は頭に刷り込まれるが、音響・音色はエネルギーをほ
抜群なのだが、一般観客の印象には残りにくい。誰もが馴染める〈スク
リーン・ミュージックの名曲〉とは異なる。だから池野の映画音楽は〈通〉
でないと受け流してしまう。音楽だけを吟味しようという気にもなかな
そんな特徴性を持った池野成は、主に 1960 年代、毎年いつも 10 本
以上、前後の映画音楽を生み出してきた。その中身の濃さは同年代の映
今、 私 の 手 許 に 一 枚 の 古 び た 24 段 の ス コ ア が あ る。 そ れ に は
FRAGMENT POUR GRANDE ORGUE とありオルガンのための断片とでも
いわれる池野成氏の昭和 30 年代(多分後半)の作品である。これは大
映テレビ室のN女史のプロデュースによるテレビ映画のためのもので、
その頃東京には使用にたえられるオルガンは皆無と云ってよいほどだっ
た。二日間スタッフと歩きまわり、ある教会のオルガンときめた。決し
て良いオルガンではなかったが録音にとりかヽった。しかし楽譜をみて
指がすくんで、どうにもならないのである。ペン書きで美しく書かれた
楽譜にたえられない気持で一杯であった。まあどうにかOKが出、ほっ
としたものだった。池野氏は私と同年 1931 年の生まれとお聞きし話題
が共通のものが多くしばしば対話のチャンスがあった。その大部分は音
楽に関する事で伊福部門下の作曲家のお一人として造詣が深いお話しを
聞く事が出来た。
録音の現場では御不満だらけとも思われる演奏にも決して不快の面を
あらわさず常に心から演奏家をねぎらう方であった。私の楽器はクラ
ヴィオリンというイギリスの小さい電気楽器でNTV初期の劇伴で良く
池野氏のお世話になった。エレクトーンという楽器が出たころ、その一
8
8
8
オクターブのペダルを手で弾かなければならない様な事もあった。あま
りにもきびしいフレーズだった。映画のダビングで指揮者を含めて殆ど
演奏不可能という事もあり、池野氏の作曲という事になると皆身がまえ
た様な事だった。ある時「ホタ(JOTA)
」
(スペインの舞曲)がなかな
か出来ない時、静かな口調ではあったが自説を決して曲げずにやって居
られた。音楽に対して後年お好きなスペインに渡られ楽しい生活をなさ
れたと思えば素晴らしい人生の方と思われる。ダビングルームの出口で
じっと立たれ出て来る演奏家一人一人にごあいさつされている姿を思い
出します。私ももし天國の門をくぐれる様だったら門の入口で池野氏に
むかえて欲しいと思います。
るか。これらを探究・研鑽しながら。やはり彼は匠だった。こうした創
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Player's Profile
有賀 誠門 奏から 12 重奏までと多岐にわたり、年2回埼玉を中心に
幼少より Violin と Piano を学び 17 才で Timpani に出合
う。東京芸術大学在学中よりN響に入団、18 年首席を務め、
アンサンブルコンサートを開催している。2005 年 2 月に、
埼玉芸術劇場にて池野成作曲の「古代的断章」を演奏し、
母校常勤に迎えられ、29 年間演奏教育活動、更に演奏芸
各方面から高い評価を得る。2006 年には木下牧子作曲の
術センター長として、新奏楽堂を舞台に、シルクロードと
混成合唱組曲「ティオの夜の旅」を独自で編曲し演奏する
ヨーヨー・マ、日韓交流、音と光、歌劇「あだ」
、オルガ
など、個性豊かな活動を通してトロンボーンアンサンブル
ン披露、薪能等、学生オーケストラのアルゲリッチ音楽祭、
の魅力を追求している。
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英国公演等、斬新な活動を大学および学外に発信した。
『上
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の発想』を提唱し、多くの支持を得ている。
東邦音楽大学パーカッション・アンサンブル
NHK交響楽団の元首席ティンパニー奏者・百瀬和紀と、
有賀 誠門パーカッションアンサンブル
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打楽器奏者・河野玲子のもと、東邦音楽大学の優秀な卒業
常に『上の発想 』が潜在意識に入っており、up 感覚の
生を中心に結成。日本各地の演奏会に出演し好評を博して
音楽運動をすることで『すべて』を活かす。今回、2大学
いる。
の若者達との混成アンサンブルとした。今までにない試み
メンバーは、オーケストラ・室内楽をはじめ、様々なジャ
ではある。
ンルで活躍する打楽器奏者である。
伊藤 清(トロンボーン)
渡辺 由美子
京都市出身、中学のブラスバンドでトロンボーンを吹き
静岡県出身。日本打楽器協会会員。2002 年国体音楽講
始める。堀川高校音楽科(現京都市立音高)から東京芸大
に進み、大学四年でN響研究員となり卒業と同時に正団員
師。東邦音楽大学研究員。東京ミュージック&メディアアー
ツ尚美、東邦音楽大学附属東邦高等学校、東邦第二高等学
となる。その後アメリカ、ボストンのニューイングランド
校、埼玉県立松伏高等学校音楽科講師。打楽器処 “ ナベ屋 ”
音楽院に留学。W・ギブソン氏に師事。帰国後もN響で活躍。
音 楽 監 督。Discussion of Percussion“Q21” 主 催。2006 年
1998 年定年退職して東京音大教授として後進の指導に余
バンドジャーナル誌ワンポイントレッスンを1年間担当。
念がない。特にアンサンブル方面でも力を入れている。
Winds DVD「上達が実感できる “ 基礎合奏 ”」
、ジャパンラ
イム DVD「中学生バンドの “ 運営と音作り ”」
(12 月発売
伊藤 清と東京音楽大学トロンボーンアンサンブル
予定)打楽器を担当。
私共、東京音大トロンボーンアンサンブルは毎年、学外
で定期的に演奏会をおこなっています。本日のメンバー
Discussion of Percussion“Q21”
は若手 OB の山口遥平、斉藤千織、小篠亮介、以上3名
渡辺 由美子の門下生からなる「打楽器処ナベ屋」のメ
と学生2名、原田悠生(4年)
、原岳広(3年)
、それに
ンバーより選出されたパーカッションアンサンブルグルー
EVOCATION には私(伊藤)も加わります。本日は打楽器と
プ。Q21(クニイ)の Q は QUEST(追求・探求)、21 は
の協演ですから、さぞ迫力のあるサウンドをお楽しみいた
だけるものと一同、張り切って居ります。 2006 年 10 月
21 世紀の意味を持つ。天野正道作品集「ストラトス4」
でのレコーディング、また、秋田、松本、石川など地方
都市での演奏会や東京サントリーホール、大宮ソニック
髙梨 晃
シィティでの演奏会にゲスト出演するなど、様々な活動を
神奈川県相模原市出身。2003 年、芸大モーニングコン
行っている。2006 年 12 月アメリカ・シカゴにて「The
サートのソリストに選ばれる。2004、東京芸術大学音楽
学部器楽科打楽器専攻卒業。卒業時に同声会賞受賞、同入
MIDEWEST CLINIC 2006」にゲスト出演予定。
(出演)寺山朋子、宮崎慎、伊坂浩嗣、三井貴之、澤又啓助、
賞者演奏会に出演。 「アルガ・リズムプロジェクト」のメンバーとして国際
大山道夫、高本舞
交流基金を受け、エジプト、カイロ公演、韓国、ソウル大
永野 裕之
学との交流演奏会に参加。
東京大学大学院文部科学省宇宙科学研究所中退。第2代
これまでに、有賀誠門、萱谷亮一、両氏に師事。
東大歌劇団総監督、フライングマウスオペラ音楽監督を経
八王子高等学校非常勤講師、ヤマハ音楽教室講師、小金
て、現在オーケストラ・ニッポニカ副指揮者。本名徹次氏
井音楽アカデミー講師。
や佐渡裕氏のアシスタントを務める。二期会はじめ様々な
舞台公演に音楽スタッフ、指揮者として参加している。
吉川 武典
1984 年、東京芸術大学入学。在学中、新日本フィルハー
池野成メモリアル・オーケストラ
モニー交響楽団に入団。1988 年、東京芸術大学卒業。第
伊福部昭およびその系譜に連なる作曲家たちに対して深
5回日本管打楽器コンクールトロンボーン部門第1位。第
い共感をもつ音楽家たちが、当メモリアル・コンサートの
1位、及びコンクール大賞を受賞。1991 年、NHK交響
趣旨に賛同し、池野成の音楽世界を管弦楽で再現すべく自
楽団に移籍。1996 年、1年間文化海外派遣芸術家在外研
発的に結成したオーケストラ。芥川也寸志メモリアル オー
究員として、ドイツ・ベルリン市へ留学。伊藤 清、ヴォル
ケストラ・ニッポニカと都民交響楽団のメンバーを中心に、
フラム・アルトの各氏に師事。現在、NHK交響楽団トロ
東京音楽大学、新交響楽団、およびフリーの音楽家の参画
ンボーン奏者。東邦音楽大学特任助教授、聖徳大学非常勤
を得て構成。
講師。
東邦音楽大学トロンボーンアンサンブル
2001 年、吉川武典先生を中心として発足。編成は四重
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19
IKENO SEI
MEMORIA M
CONCERT
池野 成メモリアル・コンサート実行委員
代表 松村 禎三
発起人 今井 重幸、眞鍋 理一郎、三木 稔、永冨 正之、芥川 真澄
実行委員 奥平 一、落合 宏、片山 杜秀、甲田 潤、出口 寛泰、藤田 崇文、松木 英作、
山本 純ノ介、吉川 久、和田 薫
賛同者 浅冨 万紀世、石丸 基司、今井 聡、岩瀬 政雄、植田 彰、大石 稀哉、小倉 啓介、門野 誠、
金谷 憲、國分 正頼、小林 淳、白水 敏之、津田 泰孝、
永瀬 博彦、野秋 聖子、藤原 豊、
三村 貴美江、村岡 貞彦、村田 昌己、吉野 達也、渡辺 淳子
資料提供 池野 礁 池野 功
プログラム制作・編集 中村 昌子、奥平 一 / プログラム責任 出口 寛泰
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