小説に学ぶ−研究を進めるための 周到な準備の

小説に学ぶ−研究を進めるための
塩野谷 明
周到な準備の必要性
『白い巨塔』
山崎豊子著
新潮文庫
白い巨塔が昭和38年9月15日から40年6月13日までの『サンデー毎日』に連載
され、1年半をおいて続・白い巨塔が昭和42年7月23日から翌年の6月9日まで
の『サンデー毎日』に連載された当時の日本は、今でこそ聞きなれたインフォー
ムドコンセントやバイオエシックスなる言葉とはおおよそ無縁であったことは想
像するにやさしい。しかし、この文学作品が医療過誤という当時タブーでさえあ
った領域に足を踏み入れ、今日の医療倫理の土壌が築かれる布石になったことは
間違いのないところであろう。特に『続・白い巨塔』は、
『白い巨塔』の発表後社
会的反響のあまりの大きさから小説であっても社会的責任をもった結末が求めら
れ、完結したはずの小説の続編を書くという極めて稀な執筆の過程を経ている。
このような社会的反響は、昨今の小説にみられる軽いバーチャルな的なものでは
なく、作者自身が後述するように膨大な時間とエネルギーを費やした取材(準備)
による小説の重厚なリアリティによって生み出されたと言っても過言ではない。
(やや私の個人的な偏見もあるが)自然科学の頂点である医学と、人文・社会科学
の頂点である法学について、おそらくは素人である作者が費やさざるを得なかっ
た準備のためのエネルギーは想像に絶する。小説の主人公財前五郎国立浪速大学
医学部(もちろん架空の大学)教授が、胃X線写真の診断を医学生に問う会話の
一部である。
「潜血反応が陽性ですから、出血があると考えられ、X線写真に見ら
れる狭窄部分の凹凸不正の工合を、ニッシェと判断して、噴門部潰瘍と判断しま
す」
「私は噴門部痙攣症を疑います。噴門狭窄があり、その部分が太くなっていま
すから…」…「私は肝機能検査に軽度の障害ありと出ていますから、門脈圧亢進
による静脈瘤と考えます」…「X線写真をよく見給え、この狭窄部の凹凸不整を
君たちはニッシェと考えるから潰瘍とか静脈瘤とか、全く見当違いの診断が出る
のだ、この噴門直下の直径二センチほどの陰影欠損(シャッテンデフェクト)を
よく見給え、これが噴門癌(カルジア・クレブス)だ」如何だろう?医学の素人
が書いたとはとても思えない、本当の医師と医学生の会話のようである。また、
当時の医事紛争裁判というものは、弁護士生活30年に及ぶベテランでも実際に扱っ
たことがないというほど極めて稀であり、僅かに残されている判例も、どうして
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そういう判決に至ったのか因果関係が曖昧なケースがほとんどであったというこ
とである。そこで法律関係者から診療事故と賠償についての講義を受け、小説の
中の誤審事件に則して証人調べ、鑑定人調べ、当事者尋問の仕方、法廷技術の指
導を受けたことを作者自らが述懐している。法廷でのやり取りについては紙面の
関係で割愛するが、こちらの方も弁護士か裁判官が書いたのではと錯覚してしま
う。当時社会的反響を巻き起こした小説誕生の陰には、想像を絶する膨大なエネ
ルギーを費やしたであろう周到な準備があったのである。
さて学生のみなさん、これはみなさんの研究にも通じることではないだろう
か?研究を遂行して行く上で、基本的な勉強はもちろん、先行研究の理解等々
様々な準備があってはじめて、回りを唸らせるそして何より自ら満足のいく研究
成果が得られるのではないだろうか?ローマは一日にしてならずの格言どおり、
この小説から私は物事を成就するための周到な準備の必要性をみた。こんな小説
の読み方もまた楽しいのではないだろうか?
まだの方は、ぜひご一読を。
追伸−この小説からもうひとつ学ぶこと
少し教育的配慮が必要かな(特に最後の2行)と思うので、ここでは追伸とし
て……。本当のところ、この小説を読んでもっとも強く感じたことは強烈な人間
模様・生き様であった。
名声を追い求める財前五郎という医学者が、最後にたどり着いたのは志半ばで
の死であった。そして、これが当時の社会が求めた責任の取り方でもあったわけ
である。多くの名声を得るための戦いの日々そして自ら犯した医療過誤の裁判、
その臨終の言葉である。
「噴門癌…クロラムフェニコール投与…いや、瘢痕だ、結
核(テーペ)の瘢痕…何を!柳原、閉廷…俺は忙しい、忙しかったんだ…断層撮
影(トモグラフィ)…透視…」裁判で否定した自らの医療過誤を無意識の中で懺
悔する臨終。そして、フィナーレは自身の献体病理解剖と残された自身の完全な
診断。医学という分野の崇高さ・荘厳さを感じずにはいられない結末であった。
小説としては、この辺を見逃さないでほしい。
とともに財前五郎でもこうなんだから、凡人の私は身の丈をと思い直す作品で
もあります。学生のみなさんも凡人だと思う方はほどほどに………。
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執筆者紹介
塩野谷 明
本学准教授。専門領域はスポーツ工学、スポーツバイオメカニクス、スポーツ法学。
日本体育大学大学院研究員から本学へ。学生時代はスキー選手としても活躍。スポー
ツ指導者として内外で活躍するとともに、スポーツ工学を核として機械学会、生命倫
理学会等幅広い分野の学会に所属し研究を進めている。
『書名』 著者名(翻訳者名) 出版社または文庫・シリーズ名 出版年 税込み価格
『白い巨塔』 山崎豊子著 新潮文庫 2002年 第1巻620円 第2巻620円 第3巻580円
第4巻740円 第5巻620円
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