1 ミニパネルディスカッション「国指定史跡館城跡の整備と活用

ミニパネルディスカッション「国指定史跡館城跡の整備と活用を考える」議事録
日 時:平成 21 年 7 月 29 日(水)午後 7 時 00 分~9 時 00 分
場 所:山村開発センター2 階集会室
参加者:40 名
パ ネ ラ ー
:藤沼邦彦氏(元弘前大学人文学部教授)、後藤元一氏(元札幌高等専門学校教
授)、千田嘉博氏(奈良大学文学部准教授)、久保泰氏(松前城資料館館長)、
佐藤永吉氏(館観光促進会会長)
コーディネーター:田才雅彦氏(北海道教育庁文化スポーツ課主査)
テーマ 1 館城跡の価値と魅力、調査の成果と問題点について
<田才>
史跡とは、国が、未来永劫にわたって地域に残していくべき大事な財産であると認めた遺跡で
あり、史跡整備とは、その歴史的価値を保護しつつも、そこを訪れる人たちに分かりやすく見せ
るために行われるものである。
そこで、はじめに史跡館城跡の地域における歴史的意義、その価値と魅力や、これまでの調査
成果、疑問点などについてお話いただき、整備に向けた課題を整理しておきたいと思う。
トップバッターは、生まれたときから館城を見守り続けてきた佐藤さんにお願いしたい。佐藤
さんからは、これまで地域の方たちが、如何に館城を愛し、その保存に尽くしてきたか、また、
いよいよ整備ということが目前に迫ってきた現在、それに対するご要望などについて、余すこと
なく、思いの丈を述べていただきたい。
<佐藤>
私たちの活動について申し上げる。昭和 37 年に館城保存会、63 年に観光開発促進会が発足し、
我々の活動の前身となっている。
これまで館城跡の保存管理のほか、矢櫃温泉の活用にも取り組んできた。
以前の館城跡は、雑草がはびこり、観光客ががっかりして帰ったと聞いている。遠くからきた
お客さんに申し訳ないと感じたことが私たちの活動の原点となっている。館城跡に誰もが足を運
べるようにするにはどうすればよいかを考え、道道から城跡への入り口に「城門」風の標識の設
置を町に要望し、早速翌年には設置していただいた。
雑草の刈り取り、桜樹剪定、案内板の整備についても町へ要望し、実現した。公園案内板は地
元特産材のヒノキアスナロ板を使用してボランティアで作成した。同様に、桜もボランティアで
植え、剪定後始末なども実施してきた。また、「丸山」に花を植える活動も行い、スイセン、チ
ューリップなどを植えている。
広報活動として、花見の時期にイベントを開催した。平成 13 年からは「館戦争プロジェクト」
として町民参加の行列を実施した。昨年からは、歴史クイズを企画し、常に祭りを盛り上げる工
夫を考えている。
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ミニ資料館を設置したことにより、遠くから来ていただいた観光客も満足され、また、設置し
た記名帳を見ると、沖縄などの遠方からも観光客が来ていることが分かり励みになっている。
旧営林署から古い橋材を払い下げてもらい、天守閣を模した城の模型を作成した。
念願の国指定が平成 14 年に実現したことを期に、毎年、歴史研修旅行を実施し、学習活動を重
ねてきた。
整備事業への要望としては、なんといっても館城を復元していただきたい。設計図はないとい
われているが、当時を推測させる資料はあると思うのでぜひ実現して欲しい。今年 6 月に、足寄
郡陸別町の史跡ユクエピラチャシの視察に行った。450 年前のチャシの様子が復元されていたこ
とから、館城跡の復元も不可能ではないと心強く感じている。
その他の要望としては、「丸山」に史跡全体を望むことのできる展望台や散策路を設けて貰い
たい。また、館城について理解を深めるための資料館を隣接地に設置して欲しい。戦没者である
三上超順や松前徳広の銅像も建立したい。
館城跡は知名度こそ低いものの、歴史のマニアは必ず訪れると思う。五稜郭タワーの観光客が
松前城、江差を経て館城を訪れることが期待される。
整備事業の実施により、町内業者が直接潤うことはもちろん、地域の特色を示すことにより町
外からの移住者の増加や土産物販売の利益などが期待できる。
今後も地域全体でこれからの館城跡について考えていきたい。
<田才>
館城跡の正式名称は、史跡松前氏城跡 福山城跡 館城跡となっている。つまり、いわば福山
城とは一心同体の史跡ということになる。その福山城の史跡整備に長年携わってこられた久保さ
んから、近世北海道史における館城の意味などについてお話いただきたい。
<久保>
松前城が―正式には福山城だが、とおりが良いので松前城と呼ばせていただく―今のような姿
となったのは、1854 年である。松前城がありながら、なぜ館城を築いたのだろうか、というのが
誰しも抱く素朴な疑問である。
松前城完成の翌年、安政 2 年に松前藩は領地を召し上げられ、現在の知内から乙部までの狭い
範囲に閉じ込められることとなった。福島県の梁川などを飛び地として領有し、3 万石の大名と
なったが、このことは松前藩にとってはとんでもない出来事だった。さらに安政6年には、蝦夷
地は東北地方の六藩が警備しながら支配する分割統治が実施されるようになる。松前藩にとって
は、日干し状態になったのと同じであった。
松前藩の財源は、蝦夷地での経済活動に対する運上金や、物資の搬出入の課税によって成り立
っていた。具体的な金額は分からないが、5 万両の年間収入が、安政 6 年以降、ほとんど見込め
なくなったと推測される。その結果、財政の根本的な見直しを迫られることとなり、農業開発に
も目を向けざるを得なくなった。
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また、松前城は海に面しており、艦砲の射程距離に入ってしまう点も防衛上の大きな問題点で
あった。事実、現在でも石垣に数カ所の弾痕がある。北方警備のためには、艦砲の脅威のない内
陸に拠点が必要だった。
さらに、当時の松前藩役人と福山商人との癒着があったのではないかと考えられており、これ
を嫌う江差商人が江差の勢力圏である厚沢部に目を付け、松前藩の拠点を自分たちの勢力圏内へ
と誘致しようした可能性も考えられている。
館地域は古くから農業開発が進み、広い平野を有することから、新しい城の築城地として選定
されたのではないだろうか。
歴史に「たら・れば」はありえないのだが、松前藩がもう尐し早く構造改革に取り組んでいれ
ば、現在の松前のあり方や館城跡周辺地域のあり方は、相当違っていたのではないだろうか。
私は松前城の整備に長く関わってきた。史跡整備を実施するにあたって、誰しもすぐに思いつ
くところは、城跡の整備によって観光客が増加し、町が潤うということだろう。しかし、そのよ
うな経済効果はあくまでも結果として期待されることであって、最も大事なことは、地元の方が
歴史を追体験し、厚沢部のほかの文化財―たとえば「鹿子舞」などの民俗芸能―と連携しながら、
史跡をまちづくりに活用することだと思う。
函館市の特別史跡五稜郭跡の整備でも奉行所復元工事など目に見える進展があるが、箱館戦争
関連の重要な遺跡として、館城跡もこれらの関連史跡とリンクして活用できるよう取り組みを進
める必要がある。そして、このような地域間の連携は、ひとえに地元の方々の熱意に係っている
と思う。
<田才>
続いて各地の城を調査・研究されている千田嘉博さんから、これまでの館城跡の調査で判った
こと、謎の部分、そして館城のもつ意味、整備の価値や可能性などについてお話しいただきたい。
<千田>
日本全国に城跡は約 4 万カ所あると思われるが、その中で史跡に指定されているものは約二百
数十カ所で、全体としてはごくわずかである。館城跡は数尐ない史跡指定を受けた城跡であり、
客観的に価値の高い城であると認められているということを、地元の方は誇りに思って欲しい。
館城跡について、日本の城郭史における特徴としては、幕末に作られた数尐ない城であること
が挙げられる。江戸時代に入ると新しい城の築造が制限され、城の数自体が大幅に尐なくなる。
幕末には政情不安もありいくつか城が造られるのだが、その一つが館城である。
館城跡の立地は、背後に「丸山」を背負った広い台地の上に築城されており、計画性を感じる。
城下町なども視野に入れて築城地点が選定されたのだろう。厚沢部の歴史、道南の歴史を考える
上で非常に重要な意味を持っている。
館城跡のすごいところを紹介したい。
館城跡の外郭線である堀や土塁には屈曲が非常に多くみられる。これは防御性を高める工夫を
示すもので、軍学的に理想の形状である。お城の発達の歴史の行き着いたところに館城がある。
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出入り口の構造は、「両袖枡形」が基本形となっており、これに「外枡形」という複雑かつ高
度な技術が加わる。東側には帯郭、南西の隅には城壁が 2 重になっている箇所があり、これらに
ついても高度に発達した城郭設計技術が活かされた結果ではないだろうか。
館城跡の防御施設は堀・土塁・柵を基本とするが、特徴的なことは土塁の内側に接して柵が設
けられていることである。通常は、土塁の上に柵が作られるのだが、土塁の内側裾のところに柵
を設けている。日本式の軍学の知識を最大限に活かしただけではなく、鉄砲や大砲の発達に対応
した技術、五稜郭などの稜堡式の技術なども取り入れられて築城された可能性がある。
現在、厚沢部町教育委員会では礎石の配置確認作業を進めている。昨日と本日その成果を確認
したところだが、
「奥御殿」に相当する可能性のある非常に格式の高い建物跡が見つかっている。
長軸 45m の巨大な建築物で、幕末の御殿をうかがうことのできる貴重な資料である。
文献史料では「戦略的な価値がないから放火した」などと記述されているようだが、拠点とし
て確保することが難しいと判断されたことから、あえて焼いたと考えられる。
建物跡や堀・土塁などの重要な構造物が町道の下に埋もれている可能性が非常に高いことが明
らかになってきた。今後、館城の姿を再現する上で、これらの移設などについて、町民のご理解
や行政の決断も必要となる時期がやってくると思う。
<田才>
館城は城としては小さな規模かもしれないが、その波乱の生涯や歴史性から、正体をつかむの
はなかなか難しいのだろう。
◆テーマ2 史跡整備の最近の傾向と活用方法、館城整備の目標と課題について
<田才>
ご存じの通り、福山城跡をはじめとして道内でも数多くの史跡整備が行われている。今、行わ
れている中では総額 36 億円もかけて復元している特別史跡五稜郭跡の奉行所庁舎などもある。し
かし、お金をかければ良いというわけではなく、整備後の維持管理にかかる経費のこともよく考
えなければならない。
館城跡に相応しい整備を進めるために、私たちは何を考え、どのような手法を選択したらよい
のかについて、全国各地で、様々な種類の史跡整備に関わって来られた後藤さんにヒントをいた
だきたい。
<後藤>
史跡整備の役割について話をしたい。
史跡整備は、史跡を壊さないように保存し、歴史をきちんと将来に残し伝えていくことが最大
の目的だ。ただし、史跡の価値を地下に埋蔵したままで良いということではなく、活用していく
ためにどうすればよいのかを考えることが重要である。
館城跡のように国の史跡指定を受けたということは、国の宝になったということであり、様々
な制約も発生する。館城跡に対する地元の熱意ある活動の報告が佐藤さんからなされたが、史跡
という地元の宝をどのように活かしていくのかを地元の方々が考えていく必要がある。
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史跡の経済的効果や観光客誘致効果は魅力的だが、思わぬマイナス面もある。たとえば 世界
遺産の石見銀山には観光客が過剰に訪れ、地元では迷惑施設となっている。地元の宝は観光客を
喜ばせるためにあるのではなく、自分たちが豊かになるために活用するべきなのだ。
「観光」とは「光を観る」ことである。「光」とは地元の人たちが史跡を愛し、前向きに努力す
る姿のことであり、そのような姿を見ることによって、自分の地域をより良く変えていこうとい
う意志やエネルギーをもつことが本当意味での「観光」だ。現代は地域共同体の力が弱まってい
るが、地域の連携の鍵として史跡を活用して欲しい。
史跡の維持管理は行政だけではまかなえず、きめ細かい地元の対応が大切になる。周辺の景観
も史跡の重要な要素として整備するとなれば、地元の協力が不可欠だ。
正しいものを残していくこと、テーマパーク化しないことが重要だ。地道な活動の積み重ねと
して整備や史跡の活用がある。発掘調査現場を町民が見に行くことや、柵列の復元を実験的に行
うことなど、行政と住民が勉強しながら作業を進めることが重要である。整備の準備段階から住
民が関わり、学習しながら活動を継続して欲しい。そのような活動を徐々に進めていく必要があ
る。
<田才>
私たちの身の丈にあい、訪れる方が気持ちよく滞在していただける史跡整備とはどのようなも
のか、地域住民の方々も、ぜひ一緒に考えていっていただきたい。
◆テーマ3 史跡を活用した地域活性化の秘策
<田才>
最後に、これまでの委員会で課題となっている点などを含めて、地域活性化の核として史跡を
どう活用・整備していったらよいか、館城跡調査検討委員会委員長である藤沼さんに、まとめて
いただきたい。
<藤沼>
館城跡の調査検討委員を引き受けた際に、明治期に築城された城郭があるという点に驚いた。
本日、発掘調査の現地視察を行ったが、建物跡の検出作業が進み、また外郭線の構造が判明し
てきている。
館城の築城は、単なる軍事的な陣地を作るということではなく、行政府、言わば道庁の移転と
いう側面を持っている。城下町なども計画に含めて築城されたはずだ。そういう意味では、館城
は中途半端に終わった城であるが、日本の近代化の幕開けを考える上で、その背景を示す貴重な
遺跡だ。
なぜ史跡が宝なのか。それは地域を元気にするからだ。三内丸山の整備によって青森の人が元
気になったように、人々の精神の根底には文化財が横たわっている。
私が現在住んでいる宮城県多賀城市には特別史跡の多賀城跡があり、その周辺を散歩するとボ
ランティアの方に声を掛けられることがある。私は多賀城跡調査研究所の所長を務めていたこと
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もあるので説明を聞くのは気恥ずかしいのだが、ボランティアを楽しんでいる姿が印象的だ。楽
しめなければボランティアをする意味がない。
自宅の近所の神社には、榎本軍に合流して蝦夷地へ向かった方の奉納した石灯籠があるが、歴
史好きの方はそのような地味な文化財にも興味を示す。残念ながら館城跡は単独で人を呼べる史
跡ではない。整備にあたってはそのような認識を強くもって、戊辰箱館戦争関連の遺跡の一つと
位置づけ、周辺史跡との連携を図って欲しい。そうすれば、北海道における近代日本の夜明けを
探索したい方々が訪れるものと思う。
【 補 足 】
藤沼:松島を世界遺産にする仕事を依頼された。松島の風景が本質的価値かと思ったら、縄文貝
塚遺跡が本質だと言われた。松島の価値として縄文貝塚が出てくることに違和感がある。
『源氏物語』や『古今和歌集』などの古典文学にも登場する非常に日本的な景観だ。松島
は美しい場所だが、アメリカのグランドキャニオンに比べればスケールが小さい。しかし、
必ずしも世界遺産として外国人から高い評価を得る必要はなく、外国人には分からない価
値を地元の人が理解できれば良いのではないだろうか。
後藤:五稜郭の費用について話題があったが、費用を掛けて立派な施設を作れば、維持費の問題
も出てくる。一度に作るのではなく、皆さんの血と汗と愛情でじわじわと形作っていくと
いうことが大事。そのことを皆さんと一緒に考えながら、整備を進めていければありがた
いと思う。
【 質 疑 】
田才:会場の皆さんから、質問、ご意見等をいただきたいと思います。このような機会はあまり
ないと思いますので、ご遠慮なくご発言下さい。
ご質問等がないようですので、よろしければ会場においでの上ノ国町教育委員会の塚田学
芸員から、約 30 年にわたって史跡整備を実施している上ノ国町勝山館跡の整備事業につい
てお話しいただきたいと思います。
塚田:上ノ国町では昭和 54 年から約 30 年間継続して勝山館跡の整備を進めている。整備前の現
地は城があることを想像することも難しい状況だったと聞いている。現在は堀や橋、建物
跡が分かるようになっている。また、出土品からアイヌも生活したことが判明している。
人が訪れる基盤は整備できたが、来訪者の大半は町外の方である点が問題と感じている。
町民にも関心がないわけではないのだが、頻繁に訪れる人は尐ない。確かに整備された状
況は簡単には変わらないので、変化を感じにくいことから足を運んでもらえない現状があ
る。地元の人が足繁く通ってもらうようにするには、地元の方の意見をきちんと取り入れ
て整備を進めることが重要だと感じている。今までの整備は行政主導で進めてきたが、調
査成果と整備の間に地元の方から意見を聞く機会をワンクッション取り入れることが必要
と感じている。来訪者には歴史好きの人が多い。実は勝山館跡は山野草の宝庫なのだが、
そのような PR はまだまだ不十分。当時の植生なども復元して、自然を楽しみながら散策で
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きるような遺跡に整備すれば、地元の方も来訪していただけるのではないか。勝山館跡の
活用の一環として、町内小中高等学校と連携し、総合的な学習の時間において、半年くら
いの期間をかけ学習機会を設けている。児童生徒の勝山館跡に対する理解が深まることは
もちろん、近隣市町村の歴史や史跡への理解を深め、独自に学習を進める生徒もいると聞
いており、地域の歴史学習の基礎として勝山館跡が活用されている点は評価したい。
【 閉会挨拶 】
朝倉教育長:パネラーの皆さん、会場の皆さま、長時間にわたりお疲れ様でした。私たちの大事
な史跡である館城跡を、よりよい形で後生の人に引き継いでいくという大切な仕事
を任されたものの一人として、今日、お話いただいた様々な課題・問題点はありま
すが、委員会の先生方、地域町民の皆さんと一緒に、しっかりと考え、尐しでも良
い形で史跡整備を進められるよう頑張って参りたいと思います。本日は皆様、本当
にありがとうございました。
(午後 9 時 00 分閉会)
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