エルサルバドルの停 戦の日

私の見た九〇年代の戦争
│その三│
エルサルバドルの停
戦の日
フォトジャーナリスト
宇田有三
南北アメリカ大陸を結
ぶ細い地峡に、七つの小
国がひしめく。その中に
エルサルバドル共和国と
いう名の国がある。小国
が入り交じる中米にあっ
ても同国は、さらに国土
が一番小さな国である︵日
本の四国とほぼ同じ大き
さ ︶。
一九八七年、中米最大
の紡績工場であったエル
サルバドルと日本の合弁
エルサルバドルの軍事政
権と対峙するゲリラ組織
の名ファルブンド・マル
ティ解放戦線︵F M L N︶
は 、彼の名前に由来する。
このとき、大虐殺を命じ
たマルティネス将軍はそ
の後、青年将校のクーデ
ターによって失脚。その
クーデターによって成立
した政権は、米国の強い
反対によって承認されな
かった。しかし、そのク
ーデター政権を日本は、
天皇の名において承認し
たのだ。当時のエルサル
バドルが﹁満州﹂を認め
たのはそういう理由があ
った。
また、同国がまれに紹
介されるとき、勤勉な国
民性から 、
﹁中米の日本﹂
と呼ばれるときもある。
虐殺と軍政。
ここで日本とエルサル
バドルがつながった。
会社・インシンカ社の現
地邦人社長が誘拐され、
殺害された。海外進出し
ている日本企業の法人が 、
現地でトラブルに巻き込
まれていた事件として記
憶している人がいるかも
しれない。
東西冷戦下の米ソの代
理戦争に興味を持つ者な
ら、十二年間の内戦の間
に死者六∼七万人、海外
への避難者五十万人︵全
人口約五百万人のまさに
一割が国外に逃げた︶を
出したこの国の内戦に興
味を抱くかも知れない。
同じ東西冷戦の戦争を 、
アジアのベトナムを舞台
にして映画を撮り続けた
米国の映画監督オリバー
・ストーンもまた、この
の事実を、頭では理解し
ていたが 、このことを﹁実
体験﹂として再認識させ
てくれたのがエルサルバ
ドルの取材を通じてだっ
た。
ボストンで写真を勉強
していた一九九一年、エ
ルサルバドルで二年前に
起こった牧師とボランテ
ィアの虐殺に対する追悼
集会と真相究明の抗議デ
モがその十二月におこな
われた。一昨年前は、多
くの記者と五名の写真家
がそのデモを取材してい
た 。し か し、この九一年、
同じデモの現場で写真を
撮っているのは、自分一
人であった。
時間がたてば衝撃的な
出来事も忘れられ、記憶
から消えていく。そんな
風に時間の流れに妥協し 、
新しい出来事だけに飛び
ついて取材するという方
一九二九年の世界恐慌
は、コーヒーの輸出に依
存するエルサルバドルに
大打撃を与えた。土地無
法でいいのか。
人は体験すること以上
に自分の行動の指針とな
るものはない。
それが私がエルサルバ
ドルへ行くきっかけとも
なった体験である。
一九九二年二月一日。
平和停戦条約の発効日。
焼けつくような太陽の
日差しを浴びながら、夢
中でシャッターを切って
いた。そのうちファイン
ダーがくもりはじめる。
目の前の数え切れないほ
どの人々の熱気だろうか。
FMLNの赤い旗を振り 、
赤いスカーフを身につけ
た群衆の姿。いつの間に
か自分の目に涙が溢れよ
うとしているのに気づい
た。男も女も、若者の子
どもも、そして老人も、
小さなリベルタード広場
の中心に向かって叫んで
いる。何を言っているの
国を題材に映画を作って
し農民は、プランネーシ
いた︵邦題﹃サルバドル ﹄︶
。 ョンから追い出され、ま
時は一九三二年三月、
さに生存の危機に立たさ
場所は中国の東北地方。
れた。三二年一月、エル
その一年前に始まった日
サルバドルの西部サンタ
本軍の侵略の結果として 、 ア ナ 県 で 、 数 千 人 の 農 民
現地に傀儡国家﹁満州国﹂ が 蜂 起 し 、 政 府 や 大 地 主
が樹立された。この侵略
に抗議の声を上げた。そ
行為は列強国から非難さ
の抗議の声は次第に全国
れ、翌年の日本の国際連
規模へと広がっていった 。
盟脱退へとつながった。
しかし、農民たちの抗議
日本は世界からつまはじ
は軍隊に容赦なく鎮圧さ
きにされた。
れ、最終的に二万人近い
この﹁満州国﹂を国際
農民が虐殺された。その
連合で最初に承認したの
時の農民の指導者であっ
がエルサルバドルであっ
た共産主義者のアウグス
た。
ティン・ファラブンド・
マルティは逮捕され、処
刑された。
この事件は﹁マタンサ
︵大虐殺 ︶
﹂として記録さ
れることになる。後年、
これだけのつながりが
あるのに、エルサルバド
ルのことはほとんどニュ
ースにならない。ただ単
に、関係ないと思ってい
ただけでいいのだろうか 。
富士山に初冠雪があっ
た、イルカや鯨の救出劇
を報道する、あるいは西
アフリカのシオラレオネ
で内戦が激化している。
どれをニュースとして取
り上げるかは 、
﹁誰が ﹂
﹁ど
んな基準﹂で選び出すか
である。
﹁日本とは関係ない﹂﹁毎
日の単調な日常生活と関
係がない ﹂﹁それはニュー
スにならない ﹂
。そういう
判断をするニュースの作
り手が見えないままの報
道が繰り返されている。
ある出来事が事件となる
には、その出来事を事件
として﹁恣意的﹂に扱う
背景が存在する。私はこ
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かは理解できない 。だが、
興奮と喜びが入り交じっ
たメッセージは胸に伝わ
ってくる。
張り裂けそうな感動を
押さえ、冷静な目で人々
の姿を記録し始めた。こ
れまでニュースでだけで
知っていた人々の姿が、
まさに今生きた人間とし
て目の前に広がっている。
彼らの鼓動を感じる。息
づかいが聞こえる。喜び
の波動を受け取った 。﹁こ
の人びとの姿をネガに焼
き付けねば ﹂
。その思いだ
けで、シャッターを切り
続けた。
︵つづく︶
都・サンサルバドルへと入っ
MLNゲリラたちが堂々と首
停戦平和条約発効。この日F
領はFMLNゲリラとの停戦
おいて、クリスチアーニ大統
ある国軍第一歩兵師団基地に
停戦条約発効の前日、首都に
た。大聖堂に掲げられている
を 公 式 に 告 げ た 。 Atlacatl大 隊
はアメリカ軍に訓練され、1
た。1992年2月1日、バ
の到来を翌日の未明まで祝っ
肖像画。数万人の市民が平和
日、第一歩兵師団基地、首都
が高い。1992年1月31
のアメリカ人牧師殺害で悪名
9 8 0 年 の El Mozote
の大殺戮
や1986年に起こった6人
のは、1980年に暗殺され
リオス広場、首都・サンサル
・サンサルバドル
たオスカー・ロメオ大司教の
バドル
停戦条約発効後も、政府側の
一方的な条約破棄=内戦再開
に備え、山の中で軍事訓練を
続けるFMLN兵士。199
2年2月、サンビセンテ市
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