第2次世界大戦開始 70 年目に考える 過去 500 年間の全戦争での死者を上まわる おびただしい死者を出した第2次世界大戦 長谷川 了一(FC 事務局長) 日本はこの惨状を忘れていいのか 1939(昭和 14)年に第2次世界大戦の戦端を 開いたナチス・ドイツのポーランド侵攻から 70 年目にあたる 9 月 1 日、同国北部のグダニスク で、メルケル独首相やロシアのプーチン首相ら 各国代表が出席して記念式典が開かれ、不戦の 誓いをうたい上げた。 現在、ドイツでは 9 月 1 日を「反戦の日・世 界平和の日」としている。今年は、全国各地で デモや集会、シンポジウムや展示会などが開か れ、 講演会は当日の1 日だけで 108 都市で137、 前後して開催された行事を含めると220 近くの 行動が行われた。また、元受刑者や遺族の長年 の運動が実ってドイツ連邦議会(下院)は 9 月 7 日、第2次大戦下のナチス軍事裁判で有罪と された逃亡兵や抵抗運動参加者の刑を一律に取 り消す「包括的名誉回復法案」を全会派の賛成 で採択、成立させた。 一方わが国では、さる 4 月 5 日、北朝鮮のロ ケット発射に対して政府や防衛省が大騒ぎを始 めた。初めて「ミサイル防衛」(MD)を発動 し、イージス艦や PAC3 を配備して「迎撃」態 勢をとった。防衛相は自衛隊法に基づき「破壊 措置」を命令した。あわせて、緊急情報を全国 に一斉送信したりするなど、政府は実戦同様の 「訓練」が思うようにできてほくそ笑んでいた。 この大騒ぎの中から、いっそのことロケットを 発射する「敵地」を攻撃せよとか、日本の「核 武装」を議論すべきだという軍備増強発言さえ もが聞こえてきた。このように、かつての凄惨 なアジア・太平洋戦争の反省も忘れさり、再び 戦争をしようとする勢力はまだまだ日本からは 消え去っていない。そこで、人類の歴史の中で 最悪の惨害をもたらした第2次世界大戦の惨状 を見つめ直し、 「二度と戦争をしてはいけない」 という決意を固めることに資したいと思う。 総計6,035万人が命を失った まず、第2次世界大戦の惨害の概要を死者数 で確認しておこう(以下は下記資料を参照され たい)。ヨーロッパ戦線では 3644 万 4 千人が、 アジア・太平洋戦線では 2390 万 9 千人が戦争 で命を失っている。第2次世界大戦では、総計 6035 万 3 千人という気の遠くなるような多く の人間が殺されたのだ。この死者数は、第 1 次 世界大戦(1914∼18)の死者 2600 万人を優に 倍している。16 世紀から第1次世界大戦前まで の主な戦争・大規模紛争の犠牲者数は世界の総 計で 1500 万 2 千人である。また、第2次世界 大戦が終結した 1945(昭和 20)年以降の世界の 主な戦争・大規模紛争の犠牲者数は総計で 1462 万 9 千人を数えている(レスター・R・ブラウ ン『地球白書』ほか)。これらの数値を見て分 かることは、第2次世界大戦での死者数は、16 世紀以降今日までの500 年間に世界で戦われた 全戦争での死者数を上回っているとてつもない 数だということだ。 タイムズアトラスのデータは死者数を兵士の 戦死数と民間人の死者数に分けて示している。 それによるとヨーロッパ戦線の死者数のうち 1656 万 1 千人 (45.4%) が民間人の死者である。 アジア・太平洋戦線については中国と日本とア メリカの分しか書かれていない。そこでオース トラリア・ニュージーランドはすべて兵士の戦 死者数として合算することにする。その他の国 はいずれも植民地だったので、死者はみな民間 人と見なせる。するとアジア・太平洋戦線では 1988 万 3 千人(83.2%)が民間人の犠牲者であ る。いうまでもなく、これらの人々を殺害した 責任はすべて日本軍にある。 アジアとヨーロッパではじまった第2次大戦 1939 年 8 月 23 日、ドイツの侵略を少しでも 先に延ばそうとしていたソ連と、英仏との戦争 を想定し二正面作戦を避けたいドイツ両国の 「利害」 が一致し、 独ソ不可侵条約が締結された。 この条約には、ドイツとソ連がポーランドを分 割し、バルト三国をソ連の勢力圏に含めること などを決めたまことに無法な秘密議定書が付属 していた。ヒトラー・ドイツは条約締結直後の 9 月 1 日、ポーランドに侵入し、英仏は条約に もとづいて 9 月 3 日にドイツに宣戦し、第2次 世界大戦が始まった。ポーランドの西半分はド イツが、東半分はソ連が占領した。また、ソ連 はバルト三国をも支配下においた。 第2次世界大戦が始まった 39 年には、日本 帝国はすでに 31(昭和 6)年から中国東北地方 (満 州)を侵略し、満洲全域を軍事占領して傀儡国 家「満州国」を「つくりあげて」いた。37 年か らは中国全土に侵略戦争を拡大していた。 また、 38 年 7 月には「満州国」・ソ連・朝鮮の境界が 接する張鼓峰でソ連軍と戦い敗退し、1 年後の 39 年には「満州国」とモンゴルとの国境付近の ノモンハンでソ連軍・モンゴル軍とふたたび戦 争して 1 万 8 千人の戦死者をだすなど全滅にち かい大敗北をこうむり、ソ連を侵略しようとい う企図をくじかれていた。 ドイツ軍と単独で3年間戦ったソ連の被害 西ヨーロッパを押えたドイツは 41 年 6 月 22 日、兵士 550 万人、戦車 3700 両、航空機 5000 機、大砲・-迫撃砲 4 万 7 千以上という史上空前 の規模でソ連に侵攻した。これ以降、44 年 6 月 6 日に連合軍がノルマンディーに上陸して第 二戦線をつくるまでの丸 3 年間は、ソ連軍はほ とんど単独でドイツ軍との苛酷な戦争を戦った。 この戦争でソ連は前例のない大きな被害を受け た。1700 を超える都市が廃墟となり、7 万以上 の村が焼け落ちた。3 万以上の工場が破壊され、 1135 の鉱山が水没・爆破された。農業はとくに 大きな犠牲を払わされた。国別の死者数で、ソ 連は 2150 万人(うち民間人は 700 万人)と突 出して死者数が多い理由はここに求められる。 1990 年出版の教科書『ソ連史』は大祖国戦争 (独ソ戦争のソ連での呼称)と題したまとめの 節で「歴史の悲劇的なパラドックスは、1917 年に宣言された自由と正義の理念を固く信じた ソビエト人民が、同時に、数百万の人々に苦し みをもたらしたスターリンの専制という条件の もとで生きた、という点にある。しかし、1941 年 6 月に人民が選んだのは、けっしてスターリ ン体制の防衛ではなかった。それは祖国と革命 の理念の防衛の選択であった。勝利の武器を鍛 え、国を養った経済をつくったのは全人民の献 身的な労働、ヒロイズム、自己犠牲であった」 と述べている。 この独ソ戦争最大の戦闘は、42 年 7 月∼43 年 2 月に戦われたスターリングラード(現在の ボルゴグラード)戦である。ドイツ軍が降伏し たときには 33 万人だった兵士がわずか 9 万人 に減少していた。 この戦闘でのソ連軍の勝利は、 ヨーロッパ戦線での戦局の根本的転換をもたら すものとなった。 日本の加害と被害はとても大きい 1941(昭和 16)年 12 月 8 日午前 8 時、ラジ オの臨時ニュースは「大本営陸海軍部午前 6 時 発表、帝国陸海軍は本 8 日未明西太平洋におい て米英軍と戦闘状態に入れり」 と伝えた。10 日、 この戦争を「支那事変を含め大東亜戦争と呼称 す」と決定された。ここに始められたアジア・ 太平洋戦争は、 1931 年から続けられていた中国 との戦争の延長であった。日本軍は開戦の日に マレー半島と真珠湾を奇襲し、42 年 1 月マニラ、 2 月シンガポール、3 月ラングーンを占領し、 ジャワのオランダ軍を降伏させるなど連戦連勝 した。しかし、開戦半年後の 6 月 5 日ミッドウ ェー海戦で空母 4 隻を失って転機を迎え、スタ ーリングラードでドイツ軍が敗北した同じ 43 年 2 月、ガダルカナル島で甚大な損害を被って 敗退し、その後の 2 年半は勝つ見込みのない一 方的な負け戦となった。43 年 5 月アッツ島で日 本軍全滅、44 年 7 月サイパンで全滅し、7月 18 日東条内閣は総辞職した。 31 年からのアジア・太平洋戦争で、日本軍は 1132 万 4 千人(うち民間人は 1000 万人)とい う多数の中国人を殺害している。中国の死者数 はソ連に次いで多い。日本帝国が加えた惨害に 対する反省と償いはまだまだ終わってはいない。 ちなみに三番目に死者数が多い国はポーランド で 662 万 8 千人 (うち 577 万 8 千人は民間人の 死者)と多い。この中にはナチス・ドイツによ るホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)の犠牲 者が多数含まれている。 一方、日本の戦没者は資料にあるように、軍 者)、満州での死者約 18 万人を合わせると民 人・軍属は230万人である。 ある歴史研究者は、 間人の死者は 100 万人に及ばんとしている。 「そのうちの140 万前後が餓死者」 だった、 「 『靖 おわりに−平和をつくろう 国の英霊』の実態は、名誉の戦死ではなく、飢 この夥しい戦死者の数を単に数値として眺め 餓地獄の中での野垂れ死にだったのである。戦 たり、モノの数としてみなすことは死者に対す 死よりも戦病死のほうが多い」と恐るべき事実 るはなはだしい冒瀆である。 ここには生身の生、 を指摘している ( 『餓死した英霊たち』 藤原彰) 。 人としての生を半ばにして、暴力的に断ち切ら 民間人の死者も多数にのぼっている。日本領 れた無数の人間がいる。それに連なる多くの人 土で唯一米軍と 3 カ月にわたる地上戦を戦った びとがいる。そこには多数の人間の悲しみと涙 沖縄県民は悲惨であった。沖縄戦は本土の防衛 がある。 詩人・峠三吉は原爆の悲惨を告発した。 体制が整うまで米軍を釘づけにしておくために 「ちちをかえせ/ははをかえせ/としよりをか 戦われた。沖縄は「国体」(天皇制)を維持す えせ/こどもをかえせ/わたしをかえせ わた るための捨て石にされたのである。 その戦争で、 しにつながる/にんげんをかえせ/にんげんの 県外出身の日本軍兵士 65,908 人、沖縄県民 にんげんのよのあるかぎり/くずれぬへいわを 122,228人 (うち14歳未満の子ども11,483人、 /へいわをかえせ」。この詩は第2次世界大戦 沖縄県出身兵士 28,228 人)が戦没した。米軍 をも告発している詩だとも読める。 は 12,520 人を失った。また、米軍の空襲によ このような悲惨な戦争を二度としないために る全国の死者は約 40 万人、2 発の原爆による死 も、 憲法9条を日本のすみずみに、 世界に広げ、 者が約 21 万人(その後、後遺症で 10 万人の死 平和をつくり上げていきたい。 ******************************************** 資 料 国別 第二次世界大戦における死者数 軍人 230 422 25 30 市民 80 267 93❶ 13 計(単位万人) 日本 310 ドイツ 689 枢 オーストリア 118 軸 イタリア 43 国 その他 163 合計 1205 ソ連 1360 700 2060 中国 350 971 1321 ポーランド 12 591❷ 603 50 121 171 連 ユーゴスラビア 合 フランス 20 40 60 国 イギリス 14 24 38 アメリカ 29 29 その他 78 合計 4360 ○タイムズアトラス「第二次世界大戦歴史地図」より。 ❶うちユダヤ系市民65万人を含む。 ❷ユダヤ系市民270万人を含む。 ■アジア・太平洋各国の死者数(上記の国を除く・単位万人) 朝鮮:20、台湾:3、フィリピン:111、ベトナム:200、ビルマ:15、マレーシア・シンガポール:10 インドネシア:400、インド:150、オーストラリア:2.3、ニュージーランド:1.2 ○『日本の侵略と膨張』吉岡吉典(新日本出版社)
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