「日本の 70 年戦争」の実像(1) 17回もの海外出兵と戦争 国家統治を正当とする歴史の見方に立って、神 新年を迎え、《「日本の 70 年戦争」の実像》 話を史実と教えるなどの非科学的な歴史教育が と題する連載を始めます。日本「帝国」がア 行われていたため、真実の歴史はまったく教え ジア・太平洋戦争に敗北してすでに 65 年が られませんでした。また、現在日本の学校教育 過ぎました。現在の日本国民のなかでかす では歴史が軽く扱われ、高校や大学受験を軸と かにでも戦争体験を記憶しているのは、70 した教育のため、過去を見つめ直すために重要 歳以上の方々だけとなり、けっして忘れて な近現代史はほとんど触れられない・学習され はいけない無惨な戦争体験の風化が急速 ないという実態があります。 に進んできています。もう一度戦争の歴史 この連載はタイトルに示したように歴史・戦 の真実と実像を調べ直してみます。【R】 争のありのままの事実をふまえて、 「70 年戦争」 、 具体的には下記の「資料 1 70 年戦争の一覧と 70年戦争という言葉 概要」に示した出兵・戦争について、できるだけ 日本「帝国」は過去、アジア諸国への侵略戦争 わかりやすく、かつ詳細に歴史的事実を示し、 を幾度もおこなってきました。1874(明治 7)年に 実像を明らかにしていきます。それを通して、 台湾へ出兵したのを皮切りに、1945(昭和 20)年 ①資料とともに学校の授業で習ったことのない のアジア・太平洋戦争の敗北までの71 年間に、 歴史と戦争の真実と実像を学び、原因をつきと 主な海外出兵・戦争だけを取り上げても 17 回 めること、②再びだまされて戦争を始めない、 にも上っています(資料 1 参照) 。この 71 年の もう二度と戦争に駆り出されないようにするた 間、日本「帝国」は戦争につぐ戦争を繰り返し、 めの正しい歴史認識を持つこと、③「70 年戦争」 アジアと世界の国々と民衆にはかり知れない被 の教訓を生かしていく道・方途を考えること、 害を与えてきました。 同時にこの日本の戦争は、 を目的としています。 日本国民にも多くの苦痛と悲惨を与えています。 なお、用字・用語は、片仮名を平仮名に直し、 これは否定することのできない歴史的事実です。 漢字は常用漢字に改めました。 日本「帝国」が長期にわたってくり返し行って来 資料1 70年戦争の一覧と概要 た戦争を「70 年戦争」と総称することにします。 歴史はけっして作り変えることはできません。 ◆台湾出兵 同時に歴史には時効がありません。この過去の 1874(明治 7)年 5 月 22 日−10 月 31 日 誤りを、はっきり認め、反省し、謝罪を行うこ 「征台の役」ともいわれる。台湾に漂着した琉 とを抜きに、アジアや世界の国々・人々の信頼 球民が原住民に殺されたことを理由に出兵した。 を築くことやたがいの友好関係を深めることは 清国側に出兵を「保民の義挙」であると認めさせ、 できません。過去の誤りを直視し、反省・謝罪 琉球の日本所属を確定する機会とした。 を行うことはどんなに辛くても、それがどんな ◆江華島事件(別称:雲揚号事件) 困難を伴おうとも、21 世紀の世界のなかで、日 1875(明治 8)年 9 月 20 日 本が、日本人が暮らしていくためには避けて通 江華島付近で挑発的示威行動をしていた軍艦 ることはできないことだと思います。 雲揚号と清国軍が交戦。事件後、日本は軍事的 戦争の真実と実像の認識を 威嚇を背景に、不平等条約・日朝修好条規を受 そのためにも、日本の戦争は何だったのか、 け入れさせた。 明治以来の日本の戦争はどのようなものであっ ◆日清戦争 たのか、その事実・真実を知ることが何よりも 1894(明治 27)年 7 月 23 日−95 年 4 月 7 日 必要です。戦前の学校では皇国史観−天皇の 朝鮮支配をめぐる日本と清国の戦争。出兵し た日本軍は朝鮮王宮を占領し、開戦した。清国 1931(昭和 6)年 9 月 18 日−33 年 5 月 31 日 に朝鮮の「独立」を認めさせ、遼東半島・台湾・ 関東軍が計画的におこした柳条湖事件を契機 澎湖島、賠償金 3 億 1 千万円などを獲得した。 に全満州を侵略した戦争。翌 32 年には傀儡国家 ◆台湾征服戦争 「満州国」を建国した。戦闘は 33 年の塘沽協定 1895(明治 28)年 5 月 23 日−1915 年 により停戦した。日本は国際的に孤立し、同年 3 下関条約で日本に割譲された台湾では、 「台湾 月国際連盟を脱退した。 民主国」を建国して割譲に激しく抵抗した。日 ◆上海事変 本はあらためて、21 年間にも及ぶ台湾征服戦争 1932(昭和 7)年 1 月 28 日−5 月 5 日 を戦い、ようやく台湾を植民地とした。 1937(昭和 12)年 8 月−11 月 ◆義和団鎮圧戦争(別称:北清事変) 中国の抗日運動を抑えることと、満州侵略か 1900(明治 33)年 6 月 15 日−01 年 9 月 7 日 ら世界の注目をそらすために日本軍が開始した 中国民衆の反帝国主義蜂起と清朝の列強への 第 1 次上海事変と、日中戦争開始直後に上海で 宣戦に対し、日露英仏米独伊墺の 8 カ国連合軍 大規模な戦闘が闘われた第2 次上海事変がある。 が武力鎮圧した。清国は辛丑条約で賠償金の支 ◆日中戦争(別称:日華事変、支那事変) 払い、各国の駐兵権を承認させられた。 1937(昭和 12)年 7 月 7 日−45 年 8 月 15 日 ◆日露戦争 中国全土に対する大侵略戦争。日本政府は宣 1904(明治 37)年 2 月 8 日−05 年 9 月 5 日 戦布告をせずに、無差別爆撃・生物化学兵器の 朝鮮と満州の支配をめぐる日本とロシアの戦争。 使用・市民の大量虐殺など非人道的な行為を犯 日本は、英米に支えられて戦った。ロシアは国 した。足掛け 9 年に及ぶ日本近代史上最も長期 内で革命運動が広がり、講和を結んだ。韓国の にわたる戦争となった。 支配権、旅順・大連の租借権などを獲得した。 ◆ソ満国境戦争(張鼓峰事件とノモンハン戦争) ◆朝鮮併合戦争 1938(昭和 13)年 7 月 9 日−8 月 11 日 1907(明治 40)年 8 月 1 日−1910 年 8 月 22 日 1939(昭和 14)年 5 月 12 日−9 月 15 日 日露戦争によって日本は朝鮮を「保護国」と 「満州国」とソ連の国境の張鼓峰、「満州国」と した。しかし、朝鮮併合は義兵闘争と呼ばれる モンゴル人民共和国の国境ノモンハンで日本と 激しい民族的抵抗に直面し、 4 年間に及ぶ激しい ソ連軍(モンゴル軍)が武力衝突した。二度と 戦争を鎮圧して「併合」を行うことができた。 も、 日本の関東軍は近代的なソ連軍に完敗した。 ◆第 1 次世界大戦 ◆フランス領インドシナ進駐(略称:仏印進駐) 1914(大正 3)年 8 月 23 日−18 年 11 月 11 日 1940(昭和 15)年 9 月 23 日・41 年 7 月 29 日 日本はドイツがアジア・太平洋に持つ権益を フランスの降伏を利用して、蒋介石政権への 奪うために日英同盟を理由に参戦した。海軍は 支援ルートの遮断、南進の基地設定、資源確保 ドイツ領南洋諸島を、陸軍はドイツの租借地・ を目的に、フランス領インドシナに軍隊を進駐 青島を攻撃・占領した。 させたこと。米英との対立は決定的となった。 ◆シベリア出兵 ◆関東軍特殊演習(略称:関特演) 1918(大正 7)年 8 月 2 日−25 年 5 月 15 日 1941(昭和 16)年 7 月 7 日−8 月 9 日 ロシア革命で成立したソビエト政権を打倒し 独ソ開戦に直面した支配層は、御前会議で対 ようと日米英仏が出兵した干渉戦争。日本は東 英米戦と対ソ戦の両方の実施を決めた。陸軍は 部シベリアを勢力範囲下におこうとし、1920 関特演という名目で16 個師団70 万という大兵 年に米英仏軍が撤兵した後も出兵を続けた。 力を満州に結集し、 対ソ戦発動の態勢をとった。 ◆山東出兵 ◆アジア・太平洋戦争(別称:大東亜戦争) 1927(昭和 2)年 5 月 28 日−1928 年 1941(昭和 16)年 12 月 8 日−45 年 8 月 15 日 日本は2 度にわたって中国山東省へ出兵した。 第 2 次世界大戦のうち、東アジア・東南アジ 蒋介石が率いる国民革命軍の北伐を阻止し、全 ア・太平洋地域での戦争をさす。40 年 9 月に日 中国の統一を妨げ、日本の「満蒙」における権益 独伊三国同盟を締結する一方、日中戦争の行き を守ろうとした出兵であった。 詰まりを打開するため石油等の資源をもとめて ◆満州事変 南方進出を行い、米英蘭との戦争にいたった。
© Copyright 2024 Paperzz