No.100_11月

鉄 道 友 の会 福 井 支 部 報
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だ
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(▲ 2004 年 10 月 16 日
敦賀港線
ち
No. 1 0 0
chi
敦賀∼敦賀港
平成16年11月号
撮影
西口佳志)
「S L 敦 賀き ら めき 号 」運 転 !
平成18年開業予定の敦賀直流化事業のプレイベントとして、敦賀港線で
10月16、17日の2日間、
「SL敦賀きらめき号」が運転されました。
福井支部
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ホームページアドレス
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「わだち」の轍
−支部報「わだち」の 100 号を迎えて−
支部長
田中
完一
われわれ鉄道友の会福井支部の支部報「わだち」が、ここに 100 号を迎えることができ
たことを会員の皆様と共に喜びたいと思う。同時に、ここまでこれたのは、担当者の努力
と共に会員の皆様の協力の賜であり、また、先輩や多くの関係者の御支援のお陰であるこ
とに感謝したい。
「わだち」は、車輪の跡を意味し、その恒久的なものとしてのレールに想いを馳せて、
鉄道を対象とした趣味を共通に持つ県内の会員の発表の場、交流の場として、また、情報
の共有化を図る目的で支部の機関誌として発行してきたものだ。昭和 40 年(1965)から 40
年近い年月で辿り着いたもので、その歩みを振り返って見たいと思う。
「わだち」が発行される以前に、
「福井クラブ会報」が発行されている。昭和 39 年 3 月 22
日に北陸支部のうち福井県内の会員が集まって「福井クラブ」を発足させた。そこで、同
年 9 月 1 日に機関誌として発行したものだ。もっとも福井クラブは 1 年間であり、会報も
これ 1 回だけであった。
「わだち」の第 1 号は、昭和 40 年 4 月 25 日の支部設立総会の日に出発進行・発車した。
同年に 2 号を発行、そして、昭和 44 年までに 3 ∼ 5 号を不定期で発行。会報と 1 号は謄
写印刷で、その後はタイプにより専門の業者に印刷・製本をしてもらっていた。その後、10
数年の長期の運休。昭和 55 年、57 年に 6、7 号を発刊。これまでは、書き手もだいたい
よく似た顔ぶれで、どうせ出すからにはと意気込みを込めて B5 判 12 ∼ 28 ページと比較
的大部な出来だった。何しろ多忙な者ばかりで、原稿の集まり具合も今一。編集は、仕事
の関係もあって役員が代わる代わる当たったものだ。それに資金不足、発行に要する経費
は、支部の経費だけでは賄いきれないので、役員が少しずつ出し合いながら補填していた。
そんなこともあって、不定期運転にならざるを得なかった。昭和 59 年、60 年に 8 号、9
号を出した。印刷原稿をタイプし、それをコピーして作成した。はたまた運休。この間、
初代と 2 代目支部長や支部を支える有力会員が相次いで物故し、また、会員数も減少し、
例会も不定期となり、支部存続の危機的状況であった。
そこで、例会をなんとか定期化したいということで、奇数月に実施することとし、そう
して会員で話し合う中で、「わだち」の復刊と定期化も摸索した。そして 8、9 号のような
コピーで、ワープロによる B5 判・4 ページ建てとし、昭和 64(平成元年)年 1 月 1 日の 10
号から奇数月に発行することとした。58 号からはコンピュータにより作成するようにな
った。こうして、事務局長や編集担当の苦労によって今日まで続いてきた。
題字は第 1 号から今日までずっと「わだち」と平仮名だ。その書体は、1 号∼ 19 号ま
では楷書でゴシック体(図 1)。20 号(平成 2 年 9 月 1 日)∼ 57 号は斜体で細めのゴシック
体(図 2)。58 号(平成 9 年 1 月 1 日)∼ 67 号は絵文字的太字(図 3)。68 号(平成 10 年 11 月 1
日)∼ 88 号は楷書で中抜き影付け文字(図 4)。89 号(平成 14 年 5 月 1 日)からは文字を小
振りにしてゴシック体(図 5)とし、今日まで 5 回そのスタイルを変えてきた。
58 号(平成 9 年 1 月 1 日)からは大幅な増結(増ペ−ジ)をした。毎号ほぼ B5 判 12 ペ−
ジを維持している。
20 号(平成 2 年 9 月 1 日)は、支部創立 25 周年記念号とし、昭和 3 年 11 月 1 日のポケ
ット判北陸線の 1 時間目の列車ダイヤを付録とした。50 号(平成 7 年 11 月 1 日)は、支部
創立 30 周年記念号として「福井の鉄道」を取り上げた。
記事の内容は、県内の話題が大半であるが、それでも結構県外や海外の話題についても
取り上げている。写真は、会報には直接 1 枚 1 枚貼り付けたが、創刊号から 7 号までと、
20 号と 50 号、58 号から 100 号に至るまで毎号、表紙や記事の途中に載せている。
8 号から 57 号まで(20 号と 50 号を除く)はコピーをして制作していたので、写真のコピー
は写りが悪いので、たまに写真を挿入する程度であった。
さて、「わだち」は奇数月の 1 日付けで 2 ケ月に一度のペースで発行しているものの、
現実には原稿がなかなか集まらず、編集担当はいつも苦労の連続だ。県内の鉄道は、JR
が車両を均一化させ、えちぜん鉄道や福鉄も路線を縮小しての運行であり話題性が少なく
なっているのでやむを得ないのである。それでも新聞には県内の鉄道についての記事を結
構次から次へと載せているわけだから、それらを拾っても良いからぜひ投稿してほしい。
県外や海外の話題でもよし、また旅行記でもよし、短くても長くてもよし、写真でもイラ
ストや絵でもよし、模型のことでもよいので、会員の皆さんは、是非気軽に一筆投稿して
いただきたい。「わだち」の継続と発展のためにも、会員の温かい御理解と御協力をお願
いするものである。
昭和24年夏 京福ホデハ1001型 公式試運転
――電機メーカー技術者の回想録――
東洋電機製造株式会社 鉄道本部技術部長
私鉄の昭和22年度新造車8社61両 分の電動車
電 気 品を 受 注し た とき 、 思 いき った 画一 化を
図った。新制御器について1500V用 600V用を含
め て全 部短 絡渡 り・ 直5・ 並4に したが 、600V
線区で従来DK方 式の橋絡渡りを採用していた
京阪電鉄あたりでは渡り時のショックに少々不
満であったようで、昭和24年度分からは橋絡渡
りに変更した。これがES519-Bで ある。
ほぼ時を同じくして京福電鉄福井支社から、
1001型新造車用電気品の発注をうけた。狭軌で
あ る ため 主電 動機 はTDK528/9-Hと し 、制 御装
置はES519-B他 一式京阪電鉄と同じものを納入
した。制御電圧は線電圧600Vより抵抗降下法、
分圧法によっている。福井支社の車両で新造車
はこの1001型 3両だけで他はすべて他電鉄から
の譲渡車である。最近は昇圧後淘汰された南海
電鉄のカルダン車などが多量に入った。
さて、第1両目が完成し、公式試運転が昭和24
年夏三国芦原線で行われ、当社から私が派遣さ
れた。公試当日国鉄福井駅を出発、福井支社前
を意気揚々と通りすぎ、三芦線に入り田園風景
の中を進んでいくと時々おかしくなる。別に無
理な運転をしていないのに不意にしゃ断器がオ
フになるのである。三国の方へ行くと起こらな
い。引き返して中間あたりまでくるとまたおこ
る。福井付近へ来ると何でもない。公式試運転
の方は車両よし、エアーブレーキよし、電気は
問題あり、東洋だけ残れということで私1人だ
け残されてしまった。
翌日から京福電鉄の厚意で泊めてもらった小
舟渡の寮から毎日福井口にある車庫へ出かけ不
具合を調べるが、まだ不馴れのことでピントが
しぼれない。過負荷継電器が動作するのではな
かろうかとリレーのカバーをはずし、それを見
ながら電車について線路脇を一緒に走ってみた
が、リレーは何ともないのにしゃ断器がオフに
なる。リレーをしばりつけ不動作にしてやって
みても同様である。また、車庫に帰って制御器
と睨めっこである。空ノッチテストでは異常な
村上行賢
く動くし、しゃ断器がオフになることもない。
メインスイッチは切ってあるので大丈夫と制御
器箱の枠をつかんでやっこらさと立ち上がると
途端にビリリッと感電する。たまたま傍を電車
が走っている。電車がいないとこのビリリッも
そうひどくはない。アーススイッチは入ったま
まなので、これを切っておいたところビリリッ
はこなくなった。制御器自体の漏洩もあったよ
うである。制御器を検べるときは、メインスイ
ッチは勿論アーススイッチも切っておいたほう
が安全である。このことから電圧降下が大きく
本線中間あたり相当電圧が下がっているのでは
ないかと気付いた。レールを見るとボンドも満
足についていない。原因はこれだと思った。電
圧に注意しながら試運転をやってもらったが、
保証電圧以上でもまたしゃ断器がオフになる。
今 度 は腰 を おち つ けて 配 線 をし らべ にか かっ
た。制御電圧は架線電圧から抵抗降下または分
圧法によっているので、その抵抗器が主制御器
と別に設けられており、相互間にかなりの電線
が張られている。これを外してしらべていくう
ちに、C1とGとであったと思うが間違ってつな
いであるのを発見した。そのころの端子記号は
ターミナルにポンチで記刻するだけでリングス
リーブなどはまだなかった。この誤配線では制
御電圧600Vが 少し下がると(当時は60%降 下ま
で保証していた)しゃ断器回路の電磁弁の吸引
が保持できなくなる。やっと見付かった。これ
を直 して試 運転も OK。 誤配線 は艤装 担当のN
車両の責任が客先に分かってもらって一安心。
2日後には第2両目が入るのでそれまで居残る
ことになり、翌日は第1両目の馴らし運転にハ
ンドルを握らせてもらいぶっとばしたが好調。
第2両目入場の際は、まず制御回路車体配線を
全部はずしてチェック、抵抗管2本断線発見、
取替え試運転無事終了。
東洋電機製造株式会社『レール・ウェイ』
昭和50年8月発行より
【解説】 「昭和24年夏 京福ホデハ1001型 公式試運転」について
渡邊 誠
[1] 公式試運転とは
新製車両は鉄道会社に引き渡される前、車両の基本性能が満足されているこ
とを確認するための走行試験が行われる。これを公式試運転という。
京福電鉄からえちぜん鉄道に引き継がれた車両のうち、モハ1101型のルーツは、五十数年前のホデ
ハ1001型までさかのぼる。前ページの記事は、ホデハ1001型の公式試運転に添乗した電機メーカーの
技術者が、二十数年を経た昭和50(1975)年に筆を執った回想録である。肩書きは執筆当時のものであ
る。そのころ私は同社に在職し、村上氏の配下にあった。同氏は平成11年12月に永眠された。
車両製造技術も進んだ近年の公式試運転は形だけのようなものであるが、戦後の復興期にはまだま
だすんなり行かなかったエピソードを、興味深く読むことができる。
[2] ホデハ1001型誕生
福井地震後の車両不足
を補うため、日本車輌へ自社発注した3両。新し
く設計する余裕もなかったところから名鉄3800形
に範をとり、これを両運転台とした。
昭和24(1949) 年7月、三芦線で公式試運転が行
われた。全長17.8mで定員140人と収容力も大きく
輸送力不足時代に威力を発揮した。台車は日車
D-18をはき、出力も120PS×4と強力であった。永
らく三国芦原線で活躍したのち、南海からの譲渡
車ホデハ2001型が大量に入った昭和47(1972)年ご
ろより永平寺線に移った。
草創期を除いて京福(福井支社)が車体から台車・
電機品に至るまで完全な新車を投入したのは、本
型式のみである。
[3] 車体載せ替え
車体の老朽化が進み更
新が課題になっていた昭和56(1981) 年3月、
1002号が事故で大破。残った2両の台車・主
電動機・主制御器などを、武庫川車両工業で
阪神のジェットカーモハ5108・5109の車体に
載せ替え、1101型に型式変更した。
[4] 新性能化改造
勝山市で恐竜エキスポ
が開かれることになった平成12年、車両の近
代化が計画され、川崎重工兵庫工場へ陸送さ
れた。1500V昇圧で不要となった豊橋鉄道か
らのDT21型台車、MT46A型中空カルダン式
主電動機、クーラー3基ほかを組み合わせ、
1101号は京福標準色、1102号は勝山市のマス
コットキャラクター「チャマゴン」のイラス
トが描かれた。
[5] えちぜん鉄道へ
1101号は平成12年12
月、志比堺-東古市間での衝突事故に遭いそ
のまま廃車。えちぜん鉄道へは1102号のみ引
き継がれた。
ホデハ1001型1003号 芦原 昭和45(1970)年
『京福電気鉄道 88年回顧録 越前線写真帖』
平成15年 京福電気鉄道株式会社発行 より
車両要目表
型
式
ホデハ1001
モハ1101
新性能化改造
車 番
1001∼1003
1101∼1102
両 数
3
2 ※1
最大寸法 長さmm
17,830
19,210
幅
mm
2,740
2,800
高 さ
mm
4,240
4,140
自 重
t
37.0
37.2
定員(座席) 人
140 (52)
118 (50)
主電動機 型式
東洋 TDK528/9-H
MT46A
出力(kW)×個数
80×4
90×4
歯 車 比
63:17=3.71
82:17=4.82
主制御器
東洋 ES519-B
MMC-H-10K
台
車
日車 D-18
DT21
製 造 年
1949.7
1961,1962
改 造 年
1981.12
2000.7
製 造 所
日本車輌
川崎車両
改 造 所
武庫川車両 川崎重工
※1 えち鉄に
記
事
引き継がれた
のは1両のみ
―参考文献―
『鉄道ピクトリアル』 昭和49年7月号
平成13年5月臨時増刊号
『日本のローカル私鉄』寺田祐一 ネコバブリッシング 平成12年
「SL敦賀きらめき号」撮影記
西口
佳志
平成 18 年に開業を予定している北陸線敦賀直流化事業及び、つるが・みなと浪漫のプ
レイベントとして、平成 16 年 10 月 16、17 日の 2 日間、JR 貨物敦賀港線で「SL 敦賀き
らめき号」が運転されました。
同線の SL 運行は、平成 11 年の つるが・きらめきみなと博 のイベント時に運転さ
れた、「きらめき号」以来、約 5 年ぶりのこととなります。
車両は、蒸気機関車はおなじみ「ポニー」こと、C56-160 号機、客車は 12 系 4 両の構
成で、敦賀∼敦賀港間を 1 日 3 往復、約 10 分の短い旅です。
機関車は、往路の敦賀港方面が正向き、復路の敦賀方面はバック運転で牽引でした。
▲ 2004 年 10 月 16 日
敦賀港線敦賀∼敦賀港間(往路)
▲ 2004 年 10 月 16 日
敦賀港線敦賀∼敦賀港間(復路)
私は 2 日間とも撮影に行きましたが、16 日は今庄より北陸線旧線跡である県道 207 号
線を経由して、車で現地に向かいました。撮影地に到着したのは午前 5 時頃であり、まだ
誰も撮影に来ておらず、ようやく午前 8 時半頃に 2 人目の撮影者が訪れました。
「SL 敦賀きらめき 1 号」の敦賀発は午前 11:03 ですが、その頃になるとたくさんのファ
ンが訪れましたが、沿線には多数の警備員さんがいて驚きました。
17 日は JR の列車を利用しましたが、日曜日ということもあり、さらに多数のファンが
集まっていて、昨日同様に多数の警備の方が警備にあたっていました。
2 日間とも晴天に恵まれ、イベントは大成功のようでしたが、天気がよ過ぎて一部の撮
影時に逆光になってしまったのが残念でした。
(終わり)
▲
2004 年 10 月 17 日
敦賀港線敦賀∼敦賀港聞
(往路)
← 2004 年 10 月 17 日 敦賀
港線
敦賀∼敦賀港間(復路)
ヨーロッパの路面電車〈フライブルグ編〉
その1
フライブルグの路面交通について
高田
欣一
かなり前であるが、私たち一行は2000年7月23日、パリ東駅7時49分発ユーロシティ(EC
65モーツァルト・ウィーン行)の乗客となった。次の停車駅Nancy−Villeまで353kmを2時
間12分、平均時速160.4km/hの電機牽引の列車でStrasbourgに11時42分に到着した。ここ
で12分停車、機関車の交換があったのかな?11時54分発車、まもなくライン河を渡ってド
イツのKehlに12時3分着。ここで下車し、バスで黒い森の村サスバッハバルデン(世界花
壇コンクールで連続優勝している村)を見学などして、フライブルグに到着したのは7月
というのに寒い雨の夕方であった。
国際環境宣言都市の最先端モデル都市として世界中に知られるフライブルグ市は、人口
21万人、ドイツ西南部フランスとスイスの国境近く、石畳とゴシック建築の大聖堂と街中
を流れる小川(ベッヒレという)で中世の面影を残す美しい街である。ドイツでは2番目
に古い伝統を誇る大学もあり、他の大学と合わせて学生の数は2万1千人、学術的でまた若
々しい雰囲気のある街である。ドイツの他の都市に先駆けて環境行政を行い、それを街作
りの柱とした新しい地域システムの開発(スイス・ドイツ・フランス三国間政策・・・R
e gio)を進めている。私達の旅行は、このように進んだヨーロッパのあり方を見学する
ことが目的で、私は元機関士だっただけの理由で交通政策が担当になってしまった。以下、
図1
私の耳目で知り得たフライブルグの交通政策と鉄道ファンとして見た車両などについて述
べてみたいと思う。
フライブルグの公共交通は、路面電車とバス、ドイツ鉄道(DB)からなるが、路面電車
は市内交通の基幹路線と位置づけされ、それを補完する路線として路面電車の終点から郊
外に向かう路線がバスというように役割が分担されている。(図1)また、路面電車の運行
は図2のように、市が100%出資する市企業有限会社が99.8%。残りを市が直接出資するVA
G(交通株式会社)が行い、その欠損は市企業会社の他の部分の利益で補填し市の損失を少
なくしている。
路面電車で環境に優しい交通政策を進めるフライブルグであるが、これまで順風満帆で進
んできた訳ではなく、世界でも有数の自動車王国ドイツであるがゆえに、以前は自動車本
位の交通政策を行い路面電車は15kmまでに縮小された。さらに1969年、自動車本位の第一
次交通政策コンセプトを決定したが、その結果、街は自動車の洪水となり排ガス・交通事
故・酸性雨による黒い森への被害などが深刻になった。70年代にライン河のほとりのヴィ
ールという町への原子力発電所建設反対運動をきっかけに、市民の環境への意識が盛り上
がり、これを受けて交通政策も転換されていったのである。その政策は、自動車(特に自
家用自動車)を街から追放するのではなく、その役割を保ちながら自動車の依存度を減ら
すことに主張を置いており、その結果は図3の通りとなっている。以下、そのコンセプト
とその推移を記したい。
1979年、第二次総合交通システム・コンセプトを決定した。その内容は
①市電網の拡張と公共旅客近距離輸送の増強(Sバーン整備)
②自転車道路網の整備拡充(自転車を主要な交通手段として位置付けている)
③歩行者ゾーンの設置(トランジットモール)
④交通量を制限した地域の投定、自動車の時速30km/hゾーンの拡張、主要交通道路の縮
小
⑤駐車料金の値上げ(市内は郊外の4倍)、住民のための住宅地区駐車使先権制度導入‥
(使用されなくなった市中心部の地上駐車場は駐輪場に)
これらの政策を相互に統合させて自動車交通を可能な限り減少させ、環境に優しい交通
機関と自転車交通の促進を目指すとしている。その経過的措置は
1972年
路面電車維持の決定
1973年
旧市内の交通規制
1979年
第二次総合交通コンセプト決定
1984年
環境保護定期券システム導入
1985年
ランドヴァッサー地区への電車延長 ※他にも延長や系統の統廃合がある
1989年
市内全面交通規制(自動車交通削減対策)
1991年
地域環境保護定期券(レギオ)導入
1996年
地域定期券導入(上記地域環境定期券システムの発展形)
1997年
DBのSバーン(近郊快速列車)の促進‥(この地域のSバーーンはECで
なくEL・DLでのプッシュプル運転である)
電車については
・路面電車優先信号機を多くして運行時間の短縮をはかっている。
・車椅子・乳母車にも都合のよい低床車導入推進
・環境保護定期券を始め使用目的に合わせた各種乗車券の発行
・パーク・アンド・ライドの導入…定期乗車券購入者は駐車無料
・終点及び主要駅からバスの接続
・他の交通機関への乗り換えの利便性…DB中央駅との連絡等の改善
・市郊外に造成された住宅団地リーゼルフェルト地区へ市電(6系統)乗り入れ(市中
心部より5kmある)。これについての営業方針として…路面電車の利用者のため、入
居者が少ない時期から健全営業ができる間は、赤字覚悟の運行を行う。400mごとに
停留所を設置し、都心まで15分と自動車よりも短時間でアクセスしている。
私たちも、フランス軍の撤退した駐屯地の跡に造成されつつ(人は一部入居している)
あったフオーバン地区の省エネルギー団地を見学したが、すでに、ここも路面電車用の
用地が確保されていた。(終点はループとなるので、かなりの用地が必要)
<次号に続く>
貨物鉄道博物館見学会報告
岸本
雅行
福井支部主催の三岐鉄道・貨物鉄道博物館見学会が 8 月 1 日(日)に行われました。貨物鉄道博
物館は平成 15 年 9 月、三重県いなべ市・三岐鉄道丹生川駅に開館した日本初の鉄道貨物専門の博
物館です。この博物館は、以前に福井支部会員(現在は転勤のため京都市在住)であった笹田昌宏
氏(ふるさと鉄道保存協会代表)らが中心となって設置したもので、国内で活躍した歴史的に貴重
な貨車が多数展示されています。8 月 1 日は、月に 1 度の定例開館日ということで、この日に合わ
せて見学会を実施しました。
当日は福井支部から 6 名が参加、
「しらさぎ 2 号」に乗車して名古屋駅で近鉄に乗り換え、近鉄
富田駅からは三岐鉄道で貨物鉄道博物館のある丹生川駅へ向かいました。台風の余波で時折雨模様
の天候でしたが、笹田氏の案内で資料展示室・屋外の貨車群を見学しました。福井鉄道で活躍して
いた「ホサ 1」
(現存最古のホッパー車)や、京福電鉄福井口車庫で発見された「旧陸軍 91 式」
(現
存最古の旧陸軍軽貨車)など、福井にゆかりのある車両も展示されてお、会員一同たいへん関心を
もって見学することができました。貨物鉄道博物館には多くのボランティアスタッフが詰めており、
まさに温もりのある手作りの博物館といった感じがしました。午後は四日市駅前で遅めの昼食をと
った後、近鉄内部・八王子線のナローゲージに乗車しました。ナローゲージということで寂れた地
方鉄道かなと思っていましたが、意外に乗客が多く活気づいていたのにはびっくりしました。
なお、この貨物鉄道博物館の誕生を綴った『ボロ貨車博物館 出発進行!貨車救済作戦』
(著者
:笹田昌宏氏)という書籍が 7 月に JTB 出版事業局から発行されました。貨物博物館誕生の経線
や展示車両の紹介など、たいへんわかりやすく書かれています。ぜひご一読をお勧めします。
ホサ 1 の前で記念撮影・右端が笹田氏
♣♣ ♣事
♣務 局 だ よ り ♣♣ ♣ ♣
たいへん遅くなりましたが、ようやく100号(平成16年11月号)が完成しましたのでお
届けします。いよいよ来年は福井支部発足40周年となります。今度こそ、わだち特集号(製
本したもの)の発刊を予定しています。多数の原稿をお待ちしております。
11月例会のご案内
11月14日(日)13時∼16時
呉服町コミュニティセンター 2階会議室
電話…21−2299(管理事務所)
福井支部の11月例会を上記のように開催いたします。多数ご参加くださいますようご案
内申し上げます。今回の例会は、『福井駅のあゆみ』(福井放送製作)・『鉄道友の会・50周
年記念事業の記録』(鉄道友の会製作)のビデオ視聴を予定しています。さらに、写真な
どを持ち寄り、最近の鉄道に関しての情報交換を中心に実施したいと思います。写真・資
料・コレクションなど何でもお持ち寄りください。なお、11月例会に参加された方には、
JR西日本金沢支社発行のポケット版時刻表(10月改正版)を無料で進呈します。会員以外
の方の参加も大歓迎します。
えちぜん鉄道見学会報告
9月11日(日)に「えちぜん鉄道見学会」が行われました。京都支部・名古屋支部の会
員も含めて15名が参加、福井口駅の本社・車庫などを社員の方々の案内で見学しました。
その後、永平寺口駅で元南海電鉄の3001形などの撮影会をして解散しました。当日は、お
忙しい中、たいへん親切に案内していただいた広報担当の中村様をはじめ社員の方々に深
く御礼申し上げます。
︽終着駅︾
▼ 支部報﹁わだち﹂も、会員の皆様のご支
援のもと、ついに100号を迎えることが
でき ました。これからも、支部と会員同士
のかけはしとなるような誌面づくりに励み
ますので、よろしくお願いいたします。
原稿も随時募集していますので、鉄道の
ことならどんな小さなことでも構いません。
旅先のスナップでも気軽にお送りくださ
い。
さて、今年は豪雨や台風、地震といった
自然災害が頻発しました。越美北線や上越
新幹線など、いまだ復旧のめどさえたって
いません。被災された方々にお見舞い申し
上げるとともに、一日も早い復旧をお祈り
いたします。
︵文 森家︶
発行 鉄道友の会福井支部 事務局
編集
〒915︱0801
越前市家久町79の30
岸本 雅行
〒916︱0013
鯖江市鳥羽2丁目1の11
森家 和治