旅と国境超えとイスラム教に関する雑文です

北アフリカのアラブ国のニュースに接し、昔を回顧しつつイスラ
ム圏内での違いの大きさを思う
Intraasia 著 2011 年上半期の雑文集 -今週のマレーシア収録-
日本及び日本人とはかなり縁の薄い北アフリカでのニュースが続いています。ただエ
ジプトでの大統領追放劇は一般日本人にも興味を起こさせたようですね。 もっともそ
れは、エジプトにピラミッドがあるゆえに日本人にもエジプトという国の存在がよく知ら
れているからだと思います。
チュニジアとなれば、専門家などごく少数の人を除いて、まずほとんどの人は国情は
もちろん位置さえも知らないでしょうし、単なる外報ニュースで終わったこ とでしょう。
内戦進行中のリビアも似たようなものでしょうが、奇行で知られる独裁者のためか、日
本ではチュニジアよりはニュース度が上がっているみたいで すね。
いずれにしろ一握りの人物による独裁と権力者一族及び取り巻き連中による汚職が
北アフリカの政治と経済を特徴付けるもののようですが、その内容を論じるほどの知
識をイントラアジアはもっていません。
北アフリカに詳しいわけでも、取り立てて大きな興味を持つわけではないイントラアジ
アですが、1 月 29 日のゲストブックに書きましたように、個人的に ちょっとした縁があ
ったことから、さらに当サイトの訪問者の中でも北アフリカとなると旅行された方はず
っと少ないことでしょうから、雑談読み物としてまた 書いておきます。
イントラアジアにとって 2 回目の北アフリカ訪問は 1990 年でした。パリからチュニジア
に着いて国内を少し旅した後、次の旅行地としてリビアとアルジェリ アを考えました。
漠然と行きたいと思っていただけで、両国に関する十分な予備知識はありませんでし
た(ガイドブック類は全然とはいいませんがあまり使いま せん、インターネットはまだ
大衆には”使えない”時代です)。
ただどちらの国も入国が難しいだろうことはわかっていました、とりわけ陸路で入国す
るため、難度はさらに高いことは予測がつきました。首都チュニスで、苦 労してリビア
大使館を探し出し(簡単ではありませんよ)、訪れました。大使館で突きつけられた条
件は個人自由旅行者には不可能なものばかりであり、リビア 入国をあっさりとあきら
めました。リビアは聞きしに勝る入国難度の高い国でした。
(現在のリビア内戦のため、外国人労働者として働くインドネシア人やフィリピン人が
脱出を目指して国境にたどり着いているという記事を読むと、彼らのたいへんさにまこ
と同情の気持ちがわきます。)
そこで次はアルジェリア大使館を探し出しました。こちらは面倒な条件を提示されまし
たが、個人旅行者でもなんとか入国できそうな条件です。そこでチュニス の日本大使
館を探し出して、日本人旅行者であることの証明みたいな一筆を書いてもらい(確か
アラビア語文という要求でした)、それを持って再度アルジェリ ア大使館へ行ったの
です。日本国パスポートだけでは不十分だという理由付けです。この種の要求に対し
て質問してもらちはあきませんから、とにかく言われた 条件を満たすしかありません。
初めて滞在したチュニスの町で複数の大使館間を探し出し何回も行き来したので、か
なり手間暇がかかったことを覚えています。フランス語がかなり通じるチュ ニジアとは
いえ、基本はアラビア語の国ですから、何事にも困難がつきまといます。イントラアジ
ア (Intraasia)のフランス語力は 70 年代末頃が最もあったので、90 年初期ごろにはか
なり落ちており、チュニジアといえどかなり言語面で苦労した と記憶しています。でも
その困難さは次に入国したアルジェリアで頂点に達しました。
アルジェリアは 1991 年にイスラム組織が選挙で大勝しましたが、イスラム勢力の伸張
と影響力を嫌ったアルジェリア軍部に非合法化されました。そのために 90 年代前半
から後半にかけて国内がいわば内乱状態に陥ったと報道されていました。イントラア
ジア (Intraasia)の入国時期は幸運にもこの混乱期の直前だったと後年わかったので
す(アルジェリアは混乱期に外国人の入国を禁じていた)。
アルジェリアの旅は、イントラアジアの長い旅歴の中でも 3 本指に入る困難な旅でした。
それまでにすでに 15 年ほどの世界旅歴を持っていたのですが、言語コ ミュニケーシ
ョン、交通手段、宿泊、社会事情と慣習、飲食などもうあらゆることに困難のつきまと
ったアルジェリアの旅は、そういう意味で忘れられない旅の 一つです。サハラ砂漠の
真ん中ではなく淵(ふち)を旅しただけですが、それでも砂漠のすごさは掛け値なしに
強烈です。あんなところにも人が住んでいるなん てと、我が目で見て驚きました。
2007 年に載せた今週のマレーシア 第 514 回の中で、エピソードとして書いた部分を
再録しておきます。
「とりわけアルジェリアからチュニジアへの国境超えは、私の旅人生で最も記憶に残
る国境超えです。なぜか、それはミッシェラン地図に目立たなく載っていた サハラ砂
漠の端に位置するごく小さな国境検問所であり、そこに到達して確認するまで、日本
人が出国できるかの自信はなかったのです (当時は情報あふれる 21 世紀の現在
から想像もできない情報寡少の時代です、しかしそれを克服して旅するのが旅人の
誇りとするところでした)。その両国の検問所間となる国境地 帯を歩いて渡ろうとして
途中であきらめたからです。
アルジェリア検問所係官がこともなげにフランス語で、「チュニジア検問所までは数キ
ロ」 といった言葉を信じて、砂漠の中を自動車の轍(わだち)に沿って 歩き出した私
は、灼熱の太陽と焼けつく砂のために、文字通り焼け焦げるのではないかという状態
になりました。アルジェリア検問所が振り返ると小さく見える ぐらいまで歩いた私は、
死に物狂いでアルジェリア検問所まで戻ったのです、そのまま歩いたら間違いなく倒
れて干からびて死んでいたことでしょう。砂漠の厳 しさは筆舌にし難いというのは、ま
さに本当です。1.5 リトルのミネラルボトルなど 20 分でなくなります、帽子をかぶってい
ても照り返しの熱で身体は焼け ます。徒歩をあきらめた私はそこで長い間待って、国
境を越える民間自動車をヒッチハイクしてチュニジア側検問所まで到達しました。たか
が数キロであれ、砂 漠の数キロは通常の道の数百キロに値することを身を持って体
験したのです。」
以上
東南アジアのイスラム国であるインドネシア、マレーシアを 80 年代にすでにかなり旅
経験していたのですが、北アフリカのイスラム国はその経験があまり適用 できない
ほど違います。北アフリカのアラブ国と東南アジアのイスラム国の間には、イスラム教
という共通面がありますが、民族性と行動様式と慣習と社会基盤 があまりにも違う、
加えてアラビア語の壁が立ちはだかります。それ以前にイントラアジアは数ヶ月程度
アラビア語をかじったことがありましたが、文字認識が できる程度で会話などほとん
どできません。多少頼みの綱にしていたフランス語も地方では通じる程度がぐっと落
ち、且つアラビア語なまりで聞き取れない、こ ういうコミュニケーションの困難はアル
ジェリアの旅中ついて回りました。
現在、世界のニュースになっているアラブ圏のいくつかの国で起きている政情不安問
題を、イスラムという単語で東南アジアのイスラム圏までをくくってしまうことは大きな
間違いだと主張しておきます。
日本もその一部である西欧マスコミが何かの期待を込めて報道している、一部のアラ
ブ諸国で進行している民主化要求運動と内乱は、(西欧とアラブ諸国にとって)かなり
同床異夢ではないかとイントラアジアには思えます。イスラム教という普遍的な結び
つきがあっても、世界のイスラム諸国の間には越えがたい違いも またあるというのが、
イントラアジアの体験的観察から得た見方です。